キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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09:詩乃の記憶

           ◇◇◇

 

 

「……!!」

 

 目を開けた時に広がっていた光景は、紅玉宮の中ではなかったうえに、ここがアインクラッドではない事を一発で理解できた。

 その証拠に、周囲にはアインクラッドのそれとは全く違う性質の街路樹や、コンクリート造りの高層ビルなどが立ち並んでいて、かなり久しぶりに聞く音を耳にして、その発生源に顔を向ければ、そこは道路であり、沢山の車が行ったり来たりを繰り返していた。

 

 そして何より、アインクラッドの人間達が着ているそれとは全く違う衣服を身に纏った無数の人々が、歩いてきたり、去っていったりしている。

 

 間違いない、ここは現実世界だ。

 

「ここは……」

 

 だけど、俺の住んでいたところではない。確かにビルが立ち並んで、車が沢山通っているけれど、俺の記憶の中にある風景とは一致しない。アインクラッドではないけれど、来た事のないところ――。

 

「あっ……」

 

 その時、行き交う人々に紛れて、見覚えのあるものが歩いてくるのに、俺は気付いた。それは母親と娘が仲が良さそうに歩いているという、どこでも見る事の出来る光景だったのだが、俺はその()の方に見覚えがあり、驚く事になった。

 

 その娘の特徴は、白を基調とした長袖の服を着て、赤を基調としたスカートを履き、手には分厚い本を持っている、セミロングの黒い髪の毛で、もみあげの辺りを白いリボンでまとめているという、少しだけ特徴的な髪形をしている、黒い瞳の女の子だった。

 

「し、シノン……!?」

 

 その女の子の特徴は、俺が探している人であるシノンの姿と同じだった。いや、シノンよりかは身体がかなり小さいけれど、顔のパーツや目つき、髪型などは完全に俺の知っている朝田詩乃に酷似している。

 

 あの娘はなんだ――そう思いながら目を向け続けていると、母親の方がその娘に声をかけた。

 

「あぁそうだわ、これからちょっと銀行に寄らなきゃなんだけど、詩乃、待ってられる?」

 

「大丈夫だよ。ちゃんと本を持ってきたから、おかあさんが終わるまで待ってられるよ」

 

 母親の口から発せられた名前と、その娘が紡いだ声で、俺は完全に気が付いた。あれは間違いなく、俺の探している詩乃だ。やっと、俺は詩乃に巡り合う事が出来た。

 

 そうわかると、頭の中にこれまでの記憶と、ここに来る前の記憶が一気に甦って来た。

 

 そうだ、俺は喪失されてしまった詩乃の意識を取り戻すために、詩乃の意識と自分の意識を接続したんだった。

 

 そして目の前に小さい詩乃がいて、周りに見覚えのない風景が広がっていると言う事は……ここは詩乃の記憶の中だ。俺は無事に、シノンの意識と自分の意識を接続する事に、成功していたのだ。

 

「詩乃!!」

 

 目の前から歩いてくる少女――詩乃に声掛けするが、詩乃は全くと言っていいほど反応を示さず、母親と歩きながら話しているだけだった。しかも俺が目の前にいるはずなのに、気にせずに歩き続けている有様だ。

 

「詩乃! おい、詩乃!!」

 

 至近距離まで来た詩乃に、先程よりも大きな声をかけてみるが、やはり無反応で、そのまま俺の方へと歩いてくる。このままだとぶつかるけれど、その方が好都合だ。声が聞こえなくても、ぶつかれば気が付くからだ。

 

 そして、詩乃が俺に気付かず、ぶつかろうとしたその時に――詩乃の身体は俺をすり抜けた。まさかの展開に、俺は驚愕してしまって、自分の身体を見る。

 

 確かに俺の身体はここに存在しており、触る事が出来る。だが今、詩乃は俺の身体をすり抜けて行ってしまった。

 

「お、おい詩乃!!」

 

 慌てて後方の詩乃へ走り、その肩に手を乗せようとしたその時、俺の手は虚空に置かれた。

 

 まさか、触れない――!?

 

 慌てて詩乃に手を伸ばし続けるが、やはり触れずにすり抜ける。どんなに触ろうとしても、干渉する事が出来ない。そのうち詩乃と詩乃の母親らしき人物は遠ざかっていき、やがて建物の中に入って行った。その後ろ姿を追いかけて、建物を確認してみれば、そこは銀行。

 

「銀行……」

 

 そこで俺はハッとする。そうだ、詩乃は確か今よりも小さい時に、母親と一緒に銀行へ行って、そして――。

 

「詩乃!!!」

 

 慌てて二人の後を追い、俺は銀行の中へと飛び込んだ。そこは現実世界であるものの、俺が利用した事のない銀行であり、そして詩乃の母親と詩乃の姿はあった。恐らく何らかの書類発行の手続きでも行っているだろう、母親は窓口で係員と話をしていて、詩乃は近くにある椅子に腰を掛けて、母親の手続きが終わるのを待っている。

 

「あの、すみません!」

 

 銀行員全員に聞こえるように叫ぶが、誰も俺の声に反応したような様子は見せない。やはり詩乃の記憶の中にいるためか、干渉する事は出来ないようだ。

 

 これはつまり、ここで繰り広げられている光景を、ただ見ているしかないという事を意味する。

 

「やっぱりこれは、詩乃の記憶でしかないのか……」

 

 もし詩乃に何かあったとしても助ける事は出来ない。ただ傍観している事だけを許されているというこの状況が、どこか腹立たしく思えた。しかし、そんな事を考えていたその時に、自動ドアが開く音が耳に届いて来て、俺は咄嗟に振り向いたが――そこで目を見開く事になった。

 

 銀行の入り口からやってきたのは、黒い帽子と黒い革のジャンパーを着て、灰色の長ズボンを履き、手にボストンバックを持った、痩せた中年男性。

 

 それだけならただの客だと思ったのだが、その男は黄色く変色した白目の真ん中で、穴が開いてしまったかのような大きな黒い瞳孔が激しく動いていて、そのうえ、口元から唾液が流れ出てぽたぽたと床に垂れているという、まるでゾンビのようだったのだ。

 

 明らかに普通ではない男――俺は頭の中で詩乃から聞いた話を思い出そうと頭を回したが、その刹那に男の正体がわかって、顔が一気に蒼褪めたのが自分でも理解できた。

 

 だが、その時男は窓口に立って咆哮していた。

 

「こ、この鞄ニ金ヲ入れロ、警報ぼタんヲ押スナよォ!?」

 

 明らかに呂律の回っていない声を上げて、男は拳銃を――詩乃のトラウマの原因である拳銃を、目の前の銀行員に向けていた。周りを見てみれば、男に突き飛ばされたであろう、床に倒れ込んでいる詩乃の母親の姿、そしてそれを少し遠くから見て、驚きのあまり硬直してしまっている詩乃の姿があった。

 

(この光景……まさか!?)

 

 銀行、強盗、拳銃。これだけの要素が揃っている。

 間違いない、これこそが、詩乃の記憶――詩乃のトラウマが始まった瞬間だ。

 

「ぐぉぉォ!?」

 

 突然の悲鳴にもう一度ハッとして、顔を向け直す。先程まで座っていたはずの詩乃がいつの間にか立ち上がり、狂った強盗の手に噛み付いていた。強盗は悲鳴を上げながら詩乃を振り払ったが、同時に切り札であった拳銃をその手から滑落させ、床に落とす。

 

 そしてそれを――詩乃が咄嗟に飛びかかって拾った。

 

「!!」

 

 拙い、それを使っては――そう思った途端に強盗が拳銃を取り返そうと詩乃に飛びかかった。

 

(この……!!)

 

 反射的に詩乃に襲い掛かる強盗へ飛びかかろうとしたその時、空気が破裂するような音が鳴り響き、強盗は突然詩乃から離れて倒れる。

 その腹は赤黒く染められており、粘り気のある血が溢れ出ている――それが詩乃の撃った銃弾が原因である事は、すぐにわかった。

 

「詩乃!!」

 

 思わず呼んでも詩乃は反応せず、強盗に釘付けになったままだった。一方強盗は本物のゾンビのように起き上がり、咆哮しながら詩乃へもう一度襲い掛かり、詩乃は悲鳴を上げながら反射的に引き金を引いた。

 

 次の瞬間、空気の破裂するような大きな音が再び木霊し、拳銃から吐き出された銃弾は真っ直ぐ飛んで強盗の肩を貫き、壁に突き刺さった。撃たれた強盗が床に倒れ込む。

 

 とうとう力尽きたか――そう思った直後に、本当にゾンビのように強盗はしぶとく起き上がり、もう一度咆哮しながら詩乃に襲い掛かった。

 

 ここに来る前から、様々な人から話を聞いて、詩乃の記憶にある程度触れていた俺は、次の展開を理解する。そしてそれが、一番やってしまってはいけない事である事にも。

 

「駄目だ、詩乃!!!」

 

 俺の叫びとほぼ同刻に、空気の破裂する音が銀行の中に響き渡った。思考する頭の中から詩乃の記憶の世界へと意識を戻して恐る恐る音のした方に向いてみれば、そこにあったのは、血塗れになった詩乃と、とうとう床に倒れた狂人。

 その額には、銃の口径と同じ風穴が空いていて、生気を完全に失っていた。

 

「あ……あぁ…………」

 

 撃ち殺された強盗を、言葉を紡げずに眺め、喉から声を漏らしていると、詩乃のものではない泣き声が耳に届いてきた。

 

 頭の中が痺れたようになったまま、顔を向けてみれば、血塗れになったまま茫然としている詩乃と、その身体を力強く抱きしめて、慟哭している詩乃の母親。そして完全に何が起きたのか理解できないまま立ち尽くしている銀行員達だった。

 

 これだ。これこそが、詩乃の中に宿痾が生まれた瞬間であり、詩乃がその宿痾に苦しめられるようになった運命の日、なのだ。

 

「……ッ!」

 

 あまりの光景に、銀行員に混ざって茫然としていると、急に頭痛が襲い掛かってきた。まるで頭をかち割られるような痛みに崩れ落ちて、目の前の光景を見る事さえ困難になり、目を瞑った。そして……そのまま意識が暗転した。

 

「うわああああああああッ!!!」

 

 それから数秒後、俺の意識は痛みから解放されて、酷く聞き慣れた声色による悲鳴で覚醒を遂げた。今度は何事かと思って立ち上がり、顔を上げてみれば、そこは見慣れない個室。白い床と白い壁……白一色の世界。

 

 だが、そこに大きなベッド、小さなテレビと冷蔵庫、そして患者を計測するための危機が置かれている事から、そこが病院の部屋の一つである事がすぐにわかった。いつの間にか、俺は病院に瞬間移動してしまったらしい。いや、詩乃の記憶の先に進んだのだろう。

 

 そして今、そのベッドには詩乃が寝かされており、周りには看護婦と医師、付き添いの詩乃の母親の姿があったが、肝心な詩乃は狂ったように泣き叫び、じたばたとベッドの上をのたうちまわっていて、周りの者達は慌てつつ詩乃の身体を抑え込んで、「落ち着いて、落ち着いて」と声をかけていた。

 

「これは……」

 

 あの記憶の続きだ。確か詩乃の話によれば、詩乃は銀行であのような目に遭った後、強制的に入院する事になったらしいが、そこでも激しい発作に苦しめられたとあった。

 

 俺はそこで、詩乃が苦しむ様子を無意識のうちに想像してしまったのだけれど……その時のイメージよりも、詩乃の記憶は凄惨なものだった。

 

「う゛っ、うえ゛ぇ、うえ゛ええ゛え゛ッ」

 

 次の瞬間、詩乃は叫ぶのを突然やめて、看護婦に出された大きな洗面器の淵にしがみ付いて、その中へ嘔吐した。

 

 咄嗟に俺は、詩乃から聞いた「渡された洗面器に何度も吐いた」という言葉を思い出したが、すぐさま詩乃の名前を呼んで駆け付け、その肩を支えて背中を撫でようとしたが、詩乃の記憶の光景を見ているだけの俺の手は、詩乃の肩にも背中にも触れる事は出来ず、すり抜ける一方だった。

 

 その代わりと言わんばかりに、詩乃の母親が娘の肩を支えて、その背中を撫で始めるが、詩乃の苦痛は止まらず、息を荒げて喘ぐ。

 

 なんで詩乃ばかりこんな目に遭わなきゃいけないというのか。

 なんで詩乃だけがあんな事になったというのか。

 詩乃には呪いでも込められているというのか。

 

 苦痛にさいなまれる詩乃の姿を見ていると、そう考えずにはいられない。

 正直なところ、もう見るのをやめたいところだったけど、詩乃の記憶はここで終わらない。まだ、続いているんだ。確か、次は……。

 

 そう思ったその時に、再び強い頭痛が襲い掛かってきて、俺はその場に崩れてしまい――意識を失った。

 

 

「触んな人殺し!!!」

 

 聞き慣れない声色の罵声で、俺の意識は再び覚醒を遂げる。

 今度は何かと思って周りを見てみれば、かなりの数の机と椅子の並んでいる、過去に散々見た光景と、至る所にいる11歳前後の子供達。それらの姿を見る事で、俺はここがどこかの小学校の中だと言う事に気付く。

 

 そしてその生徒達の中に、詩乃はいた。だが、周りの子供達は寄って集って、詩乃に罵声を浴びせている。その内容は、忌み子だの人殺しだの、無神経で傲慢極まりないものばかりだった。――子供達はそんな自覚さえ持たず、詩乃に罵声をぶつけ続けているのだ。

 

 そして詩乃は何もする事さえ許されず、ただ人形のように立ち尽くしている。

 

「……!!!」

 

 俺は強い激情に駆られて、背中の剣を引き抜きたくなった。周りの連中の首を全て跳ね飛ばして、その口を永遠に塞いでやりたくなった。

 

 お前らなんかに何がわかると言うんだ。

 実際にあの場を見ているわけでもないくせに、マスコミの話を聞きかじったくらいのくせに、無神経な大人達が歪曲して流してる情報に踊らされてるくせに、そんな汚い言葉ばかりぶつけやがって。

 

 しかもこの無神経な子供達はこれで終わらない。小学校を卒業して中学校に行っても、高校に行っても、詩乃への仕打ちを続けているのだ。

 

 周りに流されるだけ流されて、疑ったりもせず、詩乃の事を考えたりもせず、思考を停止させてただただ詩乃に罵声をぶつけるだけの屑共。

 

 許せない!!

 

「……ぁがあああああああああああッ!! ……ぁ」

 

 とうとう剣を引き抜いて、周りの子供達の首根っこ目掛けて振るおうとした直後に、俺は冷静さを取り戻し、ある事を自覚して手を剣から離した。

 

 違う。俺もそうじゃないか。俺も詩乃や芹澤から聞いたくらいで、詩乃の事を受け入れて、何もかもわかったつもりになっていた。詩乃がどんな目に遭って来たのかをイメージできていたつもりになっていた。

 

 だけど、こうして詩乃の記憶を見た事で、俺の中のイメージなどは全て根本から崩れ去った。詩乃の記憶は俺のイメージなんかかわいく見えるくらいに凄惨で、常人には耐えられそうにないものだった。そんな事さえ知らないで、俺は詩乃を受け入れて、その記憶を理解したつもりになっていたのだ。

 

 俺は今まで、この無神経な子供達と何も変わらなかった。詩乃や芹澤から話を聞いて、無神経に振る舞っていただけだったのだ。

 

「……!」

 

 なんという事を仕出かしていたというのか。なんという事を、してしまっていたのか。

 

 心の中に強いすまなさを抱いたその時に、もう一度頭痛が来て、俺は意識を失った。

 

 

 

「次の方……朝田詩乃さん、どうぞ」

 

 

 

 今度は聞き慣れた声色の声で、俺の意識は目覚めた。場所は忌まわしき連中のいる学校から、どこかの病院へと変わっていた。その内装は白い壁と白い床といった清潔な色合いのものだったが、見回してみれば非常に長い廊下と、複数の窓が確認できた事から、かなり大きな病院の中であるという事が理解できる。そして、廊下の奥の方で、何人もの患者達や看護婦達、看護士達が行き交っているのが確認できた。

 

 そして俺が立っていたのは精神科・心療内科という札が付けられた診察室の前。その俺の前には――すっかり見慣れた姿になった詩乃の姿があった。

 

 あの時からかなりの時間が立った後の記憶に辿り着いたのか――そう思った直後に、詩乃はゆっくりと目の前の診察室の中へ入って行き、俺も続けてその中に入り込んだが……そこに待ち受けていた光景に少し驚く事になった。

 

 部屋そのものは診察室らしい、医者と患者が対面できるテーブルと椅子、壁際には薬や書物が入っている白色の棚が並んでいる。精神科・心療内科の部屋であるためなのか、ベッドなどは用意されていない。

 

 そんな如何にもな部屋、患者が座るための椅子に詩乃は腰を掛けており、その対岸にいる人物を見たところで、俺はハッとする。

 

 黒くて艶のある長い髪の毛に赤いカチューシャを付けて、灰色の上着の上に白衣を纏って黒いスカートを履き、大きめの胸と赤茶色の瞳が特徴的な女性。

 

 後に詩乃の恩師となる精神科医兼元アーガスのスタッフであり、様々なAI達を作り出したプログラマ、《イリス》こと芹澤(せりざわ)愛莉(あいり)。詩乃の記憶の中とはいえ、自分の知るそれと全く変わっていない彼女の姿を目にした俺は、思わずネット上での名を呼ぶ。

 

「イリスさん……!」

 

 いつもならば、イリスは「なんだい、キリト君」と返してくるが、ここはあくまで詩乃の記憶の中であるため、俺の言葉に反応を示す事なんてない。あくまで、詩乃の記憶の中の、イリス。どちらかといえば、精神科医芹澤。

 

 俺は二人の顔が見える位置にある薬棚に寄りかかって、二人の方に向き直った。

 SAOの中でもイリスは白衣のような白いコートを着ていたが、まさか現実世界でもそんなふうな格好をしてるとは思ってもみなかった。

 

 いや、ひょっとしたらあの白衣こそが、彼女のデフォルトの格好なのかもしれない。そんなくだらない事にも思える事を頭の中で回していると、芹澤がテーブルに紙を置いて右手にペンを持ち、口を開いた。

 

「さてさてさーて、君はどんな病を抱えてここに来たのかな」

 

「母から、腕の立つ精神科医が居るって聞いて、やってきました。先生が、そうなんですか」

 

「確かに周りの人達やテレビの人達は、私を良い医者だと言って評価してくれているね。まぁ、私はそんなことどうでもいいんだが」

 

 SAOの時と全く同じ喋り方をする芹澤。白衣と、どこか茅場晶彦にも似た喋り方をして、少しフレンドリーな態度で接する――これがこの人のデフォルトであるらしい。

 

 てっきり詩乃と仲良くなったから、または年下の人達に囲まれているから、あんな喋り方をしているのではないかと思っていたけれど、まさか老若男女問わずあんな喋り方だなんて。

 

 そんな芹澤に、初めて出会った詩乃は、どこかきょとんとするが、次の瞬間に芹澤は詩乃の顔を見つめて、少し眉を寄せた。

 

「……ところで君、随分と隈がひどいな。せっかくの顔が台無しだ。そこまで君を苦しめる物は一体何なのかな」

 

 芹澤の言葉にハッとして、俺は詩乃に向き直る。確かに、詩乃の目元にはかなり濃い隈が出ていて、こんな事を言うのもなんだが、せっかくの可愛い顔が台無しになっている。

 

「……あまり眠れていないんです」

 

「不眠症かい。不眠症は鬱病やその他精神病などで併発しやすいものだが……見たところ君はそれ以外に思えるけれど」

 

 詩乃は俯きながら、小さく言った。

 

「他のお医者さんが言うからには……PTSDだって」

 

 芹澤は紙に軽く文字を書く。覗き込んでみれば、心的外傷後ストレス障害と、PTSDの正式名称が書かれていた。

 

「心的外傷後ストレス障害。それは過去に飛び抜けてひどい目に遭ったりすると、患ってしまうそれだけど……君はどんな目に遭ったんだい。辛いかもだけど、話してもらえるかな」

 

 ここまでは、芹澤の態度がどこか機械的に思えた。ここに来る前に、芹澤から精神科医の話を聞いた事があるが、精神科医は自分の精神に患者の病気を感染させないように、患者には決して感情移入をしないと言っていた。

 

 しかしその後の話によると、芹澤は詩乃にそれを出来ず、感情移入をしていたと言うが……まだそんなふうには思えない。だが、そんな芹澤に向けて詩乃は口を開き、喋る事も、言葉にする事も辛くて仕方がない、自分の犯してしまった事を、話した。

 

「……人を、殺した事がある、だって?」

 

「……はい。わかりますか。今から数年前に、東北の銀行で起きた強盗事件」

 

 今にも消えてしまいそうな詩乃の声を聞きつつ、芹澤は紙にメモをする。

 

「あぁ、覚醒剤をキメた強盗が銀行に入り込んで銃を乱射。銀行員の一人に重傷を負わせた後に、犯人が銃を暴発させて自滅したっていう特異な事件か」

 

 芹澤は顔を上げて、俯く詩乃の目に、自らの目を向ける。

 

「この事件は随分と大きく報道されたけれど、犯人が銃を暴発させて死んだっていうのは、テレビ局と警察が作り出したカバーストーリーだっていうのは、知っているかい。この事件、ネットの深いところじゃ、テレビのそれとは全く内容が異なっているんだ」

 

 詩乃は答えないが、膝の上で拳をぎゅっと握っている。そんな詩乃を見つめた後に、芹澤は囁くように言った。

 

「その様子だと、知っているみたいだね。実は、母親を守るために11歳の女の子が拳銃を強盗から奪い取って、強盗を射殺したっていうんだ。一応、その女の子は正当防衛として罪には問われなかったが」

 

 テレビでは報道規制により語られない真実。それを紡いでから、芹澤は詩乃に向きなおる。

 

「その少女は今言った通り当時11歳。今ならば14から15歳くらいだが……君の年齢も確か、15歳だよね。まさかとは思うが、君は……」

 

 詩乃は何も言わずに、ただ頷いて見せた。目の前の患者が、その時の少女であるという事実――流石に予想していなかったのだろう、芹澤は酷く驚いたような顔をする。

 

「そう、だったのか。君がその時の……女の子、なのか」

 

 詩乃がもう一度頷くと、芹澤は少し俯きつつ、ペンをテーブルに置いた。

 

「そんな目に遭えば、確実に精神に異常をきたしているだろうなとは思っていたけれど……私の推測通り、という事か。そして君は、日夜その時の事に苦しめられて、民衆に評価される私の元へと辿り着いた……」

 

 確かに、詩乃はここに来るまで実に様々な精神科医と接してきたが、どれも上辺だけの――それこそ芹澤の言う典型的な精神科医達だけで、詩乃の言葉を受け止めるような人はいなかったと言っていた。

 

 だけど、芹澤はそうではなかったからこそ、評判となり、詩乃は芹澤の元へ辿りつく事になったのだろう。

 

 詩乃の口が静かに開かれて、もう一度消えそうな声が漏れ始める。

 

「それから……私は銃が怖くなりました」

 

「当然だろうね。銃を見ればその時の事が瞬時に思い出されてしまって、何が現実で何が当時の記憶なのか、わからなくなる。PTSDによく見られる症状だ。その他にも、嘔吐やパニック症状、感情麻痺、そして悪夢……どれも当てはまってるだろう。

 そして周りの大人や子供達は、君にいじめを行って来ただろうね。君がどこかやつれてる感じなのも、ほとんどそれが原因だろう」

 

「わかるんですか」

 

 芹澤はどこか呆れたような顔をする。

 

「わかるよ。民衆は自分と違う者、自分達を差し置いて特異な行動を起こした者を忌む傾向にある。無知蒙昧な自分が許せないのではなく、特異な行動を起こす者の方が許せない。わからないものが憎い。しかしその憎しみを自分自身に向ける事は出来ない。怖いから。

 考えを止めて周りに流されて服従した方が楽だから、喜んでそっちに流れる。そっちに流れた者が、過去に殺人をした事のある君を特異なものとして忌み、発作に苦しむ君を意味なく憎んだ。そういう事だろう」

 

 さらっと恐ろしい事を言っているような気がするが、詩乃は黙ってそれを聞き続けた後に、もう一度深く俯いた。

 

「色んな先生に見てもらって、色んなお薬をもらって試しました。だけど、どれもまるで効果がありませんでした……」

 

「そりゃそうだろう。だって君のそれは、極めて特異過ぎる。そんなものを、普通の方法で治そうなんて無理な話さ。そして君は、普通な精神科医というものに頼りすぎた」

 

 直後に、芹澤は自分と詩乃の間に入るテーブルを突然退けて、詩乃の頭に手を乗せた。いきなりのボディタッチに詩乃は少し驚いたように顔を上げて、芹澤は微笑んだ。

 

「だからこそ、君には集中的かつ専門的な治療が必要だ。そしてそれは、私なら出来る。どうだい、私が君の主治医になろう。いや、専属医師になろう」

 

「主治医……?」

 

「そうだ。私の腕前を聞いてやってくる患者は沢山いるけれど、そういう患者は決まって他の医師でもどうにかできる患者なんだ。だから患者は基本的に、この病院にいる他の医師でもなんとか出来る。

 だけど君はそんな患者達とは一線を越えてしまっている。君の発作を緩和して、PTSDを完治に導くには、腕の立つ医師が共にある事が必要だ。治療費も格安にしておくし、君の治療を最優先にする。君の話もしっかりと聞くし、解決策も勿論出す。

 だから、どうだね。私と一緒に、それを治していかないかな」

 

 詩乃はきょとんとしたまま、芹澤の瞳をじっと見つめていた。今まで、詩乃を診てきた医師はどれもロボットのような連中ばかりだったが、この芹澤は明らかにそれとは違う。考えている事も、これからやろうとしている事も、何もかも異なっている。その事実に混乱しているのだろう――詩乃は口を軽くぱくぱくさせながら、やがて言った。

 

「いいん、ですか」

 

「いいから言ってるんじゃないか。少なくとも私はやる気でいるんだけど……どうだね、朝田さん。私を専属医師にしてPTSDを治療していくっていうのは」

 

 次の瞬間、詩乃の瞳から一粒の涙が零れた。あまりにいきなりな事で、詩乃の記憶の中の芹澤と一緒に驚いた直後に、芹澤は詩乃に問うた。

 

「おっと、そんなに嫌だったかな……?」

 

 詩乃はぶんぶんと首を横に振って、顔を上げた。

 

「……お願い、します……」

 

 そのすぐ後に、詩乃はぼろぼろと涙をこぼしながら、嗚咽を混ぜて泣き始める。身を任せられる相手を見つけて、ほっと出来たという事に泣き出した詩乃の身体を、芹澤はそっと抱きしめた。やってきた患者を抱き締めるのも、普通の精神科医ならばやらない事だ。

 

「……わかってもらえなくて、ずっと一人で抱え込んできて、辛かったろう。もう大丈夫だ、私が君の傍に居よう。ここは防音仕様だから、外には物音が聞こえない。ずっと我慢して来ただろう……思いっきり泣いていいよ……」

 

 芹澤が優しく声掛けをして、その髪の毛をそっと撫でてやると、詩乃は芹澤の胸の中に顔を埋めて、大きな声を上げて泣き出した。今まで散々聞いてきた詩乃の泣き声が、部屋中に響き渡るが、芹澤が言っていたとおり、それが外に漏れる事はなかった。

 

 ここで、ようやく詩乃は信頼できる人に出会ったんだ。もはや嫌がらせとしか思えない年月を5年も続けて、ようやく辿り着いた暖かい人。そしてこの後に、詩乃は俺達と――。

 

「うぐっ」

 

 直後に、俺は再度頭痛に襲われてその場に崩れて、意識をどこかに引っ張られるような感覚を覚えた後に、失った。

 


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