キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

170 / 564
前半がグロい回。苦手な方は注意してください。


―フェアリィ・ダンス 02―
01:MindFlow


 細い金属同士がぶつかり、火花が散るような鋭い音でシノンは目を開いた。

 目の前に広がっていた光景は、黒と紫と青と赤といった多数の色の光が交差する異様な空間。雲もなければ風さえ吹いてこないようなそれを一目見ただけで、今いる場所が現実世界ではなく、VR世界である事がわかった。

 

 そして今のシノンもまた、現実世界の朝田詩乃ではない、VR世界のシノンの姿をしている。

 

 

「ここは……」

 

 

 こんな空間にどうやって入り込んだのか、思い出せない。いやそもそも、いつ頃ログインを果たしてVR世界へと足を踏み入れたのだろうか。朝から晩まで散々遊んだから、もう休もうと思ってログアウトしたはずなのに、またこうやってログインしている。

 

 そのタイミングはいつだったのだろうか――ぼーっとする頭で考えようとしたその時、再び金属同士がぶつかる鋭い音が聴覚の強化されたケットシーの獣耳に飛び込んで来て、シノンはハッとする。

 

 

「……!」

 

 

 音の根源はすぐに見つかった。どうやって入ったのかわからない異様な空間の上空で、黒色の光が二つ、流星のように大気を切り裂いて飛行し、何度も衝突を繰り返しており、その度に鋭い金属音が空間中に鳴り響き渡る。

 

 そのうちの一つが、愛する人であるキリトである事にシノンが気付いたのは、衝突し合う二つの黒い光が一時的に止まったその時だった。そして同刻に、キリトと衝突を繰り返すもう一つの黒い光の正体を確認して、ぞっとする。

 

 

「え……」

 

 

 遠くでキリトと戦闘を繰り広げている黒い光。黒と紫色を基調とした鎧と戦闘服を混ぜ合わせた衣装に身を包んでいるのに、髪の毛の色は金髪である長身の男――ALOという妖精の世界で闇の妖精族インプの首領を務めるサトライザーだ。

 

 

「サトライザー……?」

 

 

 シノンの視線を浴びながら衝突と反発を繰り返す二つの黒い光。しかし、一体何故にこのような状況になったというのか。何故キリトとサトライザーという接点のない二人が、このような場所で争いを繰り広げているというのだろうか。

 

 ここに来る前に、二人の間に何があったというのか――そう思いながら茫然と二つの黒き光の戦いを眺めていたその時に、サトライザーの動きが突然止まり、シノンはハッとするが、すぐさま身体をびくりと言わせた。

 

 

 立ち止まったサトライザーがその青い瞳をこちらに向けてきている。まるで奈落の底のようにも感じられる光無き瞳――かなり離れた位置にいるというのにそれがわかり、シノンは蛇に睨まれたかのように硬直する。

 

 意識をしっかり持っていないと吸い込まれてしまいそうな深淵、光さえも呑み込んで絶対に逃がさない暗黒の穴。それを過去に何度も見た事があるような気がしてならないシノンは、必死になって頭の中を探し回る。

 

 

(えと、えっと、えっと、えっと、ええっと)

 

 

 あの瞳を見たのはいつだ、最後に見たのはいつだ、いやそもそも、誰があのような瞳をしていたのだろうか。それは、いつだ、誰だ――頭の中の迷宮の中に入り込み、答えを探し回っていたその途中で、悪寒を生じさせる気配を感じたところで、シノンは意識を今いる空間の中に戻し、再び目の前に視線を送って茫然とする。

 

 いつの間にか、闇の皇帝の異名を持つ金髪の男が目の前に現れて、光無い瞳でこちらをじっと眺めていた。逸らしたくなるはずのその瞳を、シノンは吸い込まれるように見つめ、身体の動きを完全に停止させる。

 

 身体中の至る所から冷や汗が噴き出て、服が肌に貼り付き、頭の先からつうと汗が流れて、やがて雫となってぽたりと顎から落ちたが、それさえも感じない。

 

 

 先程までは異常と言わんばかりに頭の中が回転して、迷宮が作り出されていたというのに、今の頭の中はどす黒い霧に覆われたかのように、何も考えられなくなっている。まるで天敵を目の前にして怖気づき、硬直してしまった獲物のようになったそんなシノンを、サトライザーは深淵の瞳でしばらく見つめた後に、その手に握られているどす黒い剣を振り上げた。

 

 剣が、来る。

 逃げないと、やられる。

 逃げなきゃ。

 

 だけど、どうやって。

 

 どうやって、逃げるの。

 どうやって、逃げればいいの。

 どうやって、どうやって、どうやって、どうやって。

 

 心の中で唱えるだけで、シノンは逃げもせずにただ振り上げられた剣を見つめる。その間にも剣は天高く振り上げられ、やがて数秒もしないうちに頂点へ到達。力が込められたところで一気に振り下ろされる。

 

 剣が迫りくる光景。剣が頭めがけて降ってくるまでのわずかな時間を、シノンは酷く長く感じていた。剣はまるでスーパースローカメラの中に入ってしまったかのように、ゆっくりと降り、近付いてくる。その間にも、シノンは思考を回そうとするが、頭の中を覆うどす黒い霧がそんな事を許してはくれなかった。

 

 

 逃げる方法なんて、思い付かさせてくれず、そればかりか、剣が頭に命中した時の映像を思い描かせる。剣から逃れた自分ではなく、剣が当たった後の自分の姿――それを頭の中に描写したシノンが一瞬で喉を鳴らし、叫び声を上げようとしたその時に、シノンは突然後方に突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。

 

 

「きゃあっ!」

 

 

 身体全体で地面にぶつかった瞬間、鈍い痛みが全身に走り、肺が圧迫されてシノンは咳き込むが、衝撃によるものなのか、同時に頭の中の黒い霧が消え果てて、思考を回せるようになった。

 

 自分は今、剣を受けようとしていたはずのなのに、助かっている。一体何が起きたというのか。それを把握しようとしたその時に、ぞぶっという嫌な音が耳元に届き、顔に生暖かい水のようなものが跳ねて来た感覚でシノンはかっと目を開いた。直後に、目の前に何かが倒れてきて、シノンは何が起きたのかよくわからないままそれを眺めた。

 

 目の前に倒れているモノは、左肩から下半身にかけて身体を真っ二つにされた、キリトだった。その身体からは大きな水たまりが出来るくらいの血が流れ出しており、どくどくと広がっていっている。そのうち、大きくなった血だまりがシノンの足に付着した。

 

 

「あ」

 

 

 その光景を瞳の中に居れる事で、シノンの意識は一気に覚醒を果たし、同時に何が起きたのかがわかり、キリトだったものを凝視する。奥歯が口の奥でがちがちと音を立てて、全身の血液が凍り付いて血流が停止する錯覚が駆け巡った。どんなに目を逸らそうとしても、身体は絶対に言う事を聞こうとなどしない。

 

 

「あ、あ、あ、ああ、あ、あ、あ」

 

 

 不規則な声が喉の奥から漏れ出して、全身が痙攣するように震え始め、舌が喉に貼り付いて呼吸が出来なくなり、耳元に異常なまでに加速した心拍音が聞こえてくるようになるが、その音が自らの心臓の音である事をシノンは理解できない。しかし、足元にある光景だけは理解する事が出来た。

 

 

 この足元に漏れ出している血は全てキリトのもの。そしてキリトは真っ二つになって、キリトだったモノになっている。どんなに声をかけたところで、もはや声を返す事も無ければ、何か反応を示す事さえ、もうない。もう、キリトはキリトではなくなってしまった。消えて、しまった。

 

 そしてシノンは無意識のうちにゆっくりと、キリトだったモノの向こうにいる存在に目を向ける。そこにあるのは、黒い鎧と戦闘服を混ぜ合わせた金髪の男の姿。

 

 

 喉からか細い声を出しているうちに、空間から色が抜け落ちていく。青が無くなり、赤が無くなり、紫が無くなり、黒一色だけになるが、明るさだけは変わらず、目の前の男とキリトだったモノの姿だけはしっかりと映り込んでいる。空間を満たしていた全ての音が消え去ったが、シノンは何の音が消えたのかもわからなかった。

 

 そして、シノンが吸い込まれるように金髪の男を凝視すると、腹の底から吐き気のように声がせり上がって来て、胃に届き、食道を駆け昇り、喉を上がり、口元に到達したその時に、シノンは喉も口も切り裂かんばかりの声で、叫んだ。

 

 

「うあああああああああ――――――――――――――――――ッ!!!」

 

 

 部屋中に木霊するような声で、詩乃は飛び起きた。真っ黒かったはずの空間に、突然色が戻ってきた。何が起きたのかわからないまま周囲を見回せば、テレビ、冷蔵庫、テーブル、棚、浄水機といった生活用品の数々が目に入って来て、自分の身体がベッドの上に乗っている事に気付く。

 

 そのまま自らの身体に目を向けてみれば、シノンではなく詩乃になっていて、白色のパジャマが貼り付くくらいにびっしょりと汗を掻いていたのがわかった。――いつの間にかログアウトを果たし、現実世界へ戻って来ていた。

 

 

「あ……れ……」

 

 

 汗のせいで下着と服が完全に肌に貼り付いている気持ち悪さも忘れて、詩乃はただ周囲をぼーっと見回していたが、そのうち大きな音が耳元に届いてきて、氷が背中に入りでもしたかのように身体をびくんとさせて詩乃は振り返った。ベッドの枕元に置かれているスマートフォンが大きな音を立てて起床時刻を告げており、モニタには七時二十五分と表示されている。

 

 モニタが映し出している時刻と日付――それを目の当たりにして、詩乃の意識ははっきりと現実世界に固定され、同時にあのVR世界と光景が、夢であった事を把握する。

 

 

「ゆ……め……」

 

 

 胸に手を当てて、呼吸を整えつつ、詩乃は頭の中を整理する。あの時の戦闘、キリトとサトライザーが戦闘を繰り広げているあの光景は、全て夢の中での出来事だったのだ。夢の中であり、現実ではない事。つまり、あの時のキリトの死もまた、夢の中の出来事……。

 

 

「…………っ!」

 

 

 本当にそうなのだろうか。人が死んだとき、親しい人がその人が死ぬ瞬間の夢を見る事もあると、本で読んだような気がする。いつの頃だったかは思い出せないけれど、確かにそんな供述を読んだ気がする。

 

 もしそれが本当ならば、あの時のキリトの死は、現実での和人の死の光景を意味しているのではないか。和人は自分が見ていない間に、もしくは自分が寝ている間に、死んだのではないか。

 

 

「あ……ぁあ……」

 

 

 不安と恐れが混ざり合ったものが、胸の底からどす黒い水となって心の中に湧き出してきて、瞬く間に心の中をいっぱいにし、ようやく整ってきた呼吸に声が混ざって再び荒くなり、動悸が激しくなって、身体が無意識のうちに震え始める。夢の中の時のように冷や汗が噴き出てきて、顔からベッドへと滴り落ちていく。

 

 もし、あの夢が本物だったならば、今頃本当に和人が死んでいたなら――。

 

 

 どうしようもない不安と恐怖感に駆られた詩乃の手は、無意識のうちに素早く動いて、けたたましくアラーム音を鳴り散らすスマートフォンを掴んだが、手汗と震えのせいで滑り、床に落とした。

 

 詩乃は悲鳴に近い声を上げながらベッドから転げ落ち、慌てて床に落ちたスマートフォンを手に取り直すと、アラームを切って電話帳を開き、夢の中に出てきた愛する人の電話番号を選択して、通話をボタンを押す。

 

 

「出て……出て……」

 

 

 喘ぐように忙しなく呼吸しながら、詩乃は何度も呟いてスマートフォンから聞こえてくる呼び出し音を聞いた。普段ならば二回くらい鳴ったところで和人は通話に応じてくるが、今は三回目、四回目と過ぎても出る気配がない。出て、出てと何度願っても、スマートフォンはただ呼び出し音を繰り返すが、その回数が十回目に到達した時に呼び出し音が止まり、詩乃はハッとする。

 

 

『ただいま電話に出る事が出来ません。そのままお待ちになるか、後程かけ直してください』

 

 

 聞こえてきたのは和人の声ではなく、携帯電話会社が設定している機械音声のメッセージだった。これが出てくるという事は、和人が電話に出る事が出来なかったという事。自分の起床時間は七時十五分であると和人自身が言っていたから、和人がまだ寝ているという事はないから、電話には出れる。それが出来なかったという事は――。

 

 まさか。まさか。

 

 

「い、いや、いやだ、嫌ぁ……!!」

 

 

 詩乃は子供のように首を横に振って、スマートフォンから聞こえてくる耳障りなメッセージを切ると、もう一度電話帳を開き直して、再度和人の電話番号を選択して呼び出し音を鳴らす。一回目、二回目、三回目、四回目、五回目と回数を重ねる毎に、詩乃はぎゅうと目を瞑って呟く。

 

 出て、出て、出て。

 

 

「出て、出てよ、和人、出てよっ……」

 

 

 お願いだから、出て――震える手でスマートフォンを握り締め、だらだらと汗を垂らしながら、無意識のうちに心の中で叫んだその時に、先程よりも早く呼び出し音が止まった。止まった音にハッとした詩乃の耳に、声が届いて来た。

 

 

『おはよう詩乃。こんな時間にかけてくるなんて、珍しいな』

 

 

 スマートフォンの奥から聞こえてきたのは、不快なメッセージ音ではなく、死んだと思っていた愛する人の声だった。その声を聞いた途端、詩乃の身体からすとんと力が抜け落ち、茫然とする。

 

 

「かず、と……かず、と……」

 

『うん? 詩乃、どうした』

 

「かず、と……和人、だよね? 和人、なのよね」

 

『えっ、うん。俺は俺だけど……詩乃、どうしたんだ、大丈夫か』

 

 

 もう話しているだけで異変が伝わっているのだろう、スマートフォンの向こうにいる和人の声はどこか険しいものであると同時に、心配という感情を抱いたものに変わって来ていた。だが、この声は本当に和人のそれなのだろうか。和人が本当に話しているのだろうか――気になって仕方がない詩乃は、スマートフォンに話しかける。

 

 

「和人、居るのよね、そこに居るのよね? 生きてる、のよね」

 

『うん、居るし生きてるよ。……もしかして詩乃、何か悪い夢でも見たのか』

 

 

 まだ現実世界ではなくSAOの世界で和人/キリトと共に暮らしていた頃、一度だけキリトが死んでいなくなる夢を見てしまい、詩乃はキリトに泣き付いた事がある。まるで小さな子供のようになってしまったみたいだったから、思い出すと恥ずかしくなるけれど、あの時は本当にキリトの胸の中が暖かくて心地よくて、安心できた。

 

 それは本人もわかっているようで、自分の心が脆くなった時には、出来る限りあぁやって抱き締めてくれるようになった。その具体的な回数は覚えていないけれど、キリト/和人だけが持つ、大きくて優しい温もり――それが今、何よりも欲しい事を、詩乃はまざまざと感じていた。

 

 

「ごめんなさい和人……今日、うちに来てくれる? 午前中でも、午後でもいいから、来てほしい」

 

『今日か。別に構わないよ。祝日だし、やる事も結局ALOにログインする事だけだったしな』

 

「ごめんなさい、今日、皆でログインして攻略するつもりだったのに……」

 

『別に皆は気にしないさ。祝日だからそれぞれの理由で欠員も何人か出てると思うし、どうせみんなは《ビーストテイマー》になろうと必死さ。だから、一日くらいログインしなくたっていいんだ』

 

「ごめんなさい、予定狂わせちゃって……」

 

 

 弱弱しい詩乃の声とは対照的に、少し明るくなった和人の声が、スマートフォンの奥から詩乃の耳元へ届いて来る。

 

 

『詩乃、謝らなくていいよ。今から行く』

 

「いいの」

 

『いいさ、君のためだからな。それじゃあ、ちょっと待っててくれ。バスの関係で、ちょっと遅れるかもだけれど』

 

「……待ってる。いくらでも待ってるから、来て」

 

『わかった、待っててくれ』

 

 

 その言葉を最後に聞いて、詩乃は通話終了ボタンを押し、沈黙したスマートフォンをベッドに手放した。その後にベッドからゆらりと立ち上がると、棚を開いて普段着を取出し、その場でパジャマを脱いで着替え、そそくさとパジャマを畳んで棚の中に入れ込もうとしたが、そこで手を止めた。

 

 

「汗掻いたから、洗わなきゃ、かな」

 

 

 焦っていてあまり気にしていなかったけれど、さっきまで全身にびっしょりと汗を掻いており、ほぼその全てをこのパジャマが吸い込んでしまっている。放っておけば汗臭くなり、着る事も苦痛になってしまう事だろう。

 

 詩乃は棚に置いたパジャマをもう一度取り出すと、添え置きの洗濯機のあるところへ向かい、その近くにある洗濯物籠の中に放り投げた。あまり洗濯物を出さない傾向にあるためか、洗濯物籠の中に物はほとんど入っていなかった。

 

 

「…………」

 

 

 いつもならば、このまま朝食の用意をするけれど、あんな夢を見たせいなのか、今の詩乃は食欲も空腹も感じていなかった。たとえお腹が空いていなくても、決まった時間に何かを食べておくべきだと母から教わったから、これまではそう言う時でも食べていたけれど、今は簡単なものを食べようとも思えなかった。

 

 

「いいや……」

 

 

 詩乃はキッチンの方から目を逸らすと、再びベッドの上に戻り、寝転がった。まるで激しい運動をした後のように身体が重くて、異様なまでに疲れているが、どんなに目を瞑ったとしても肝心な眠気というものがやって来ない。意識が覚醒してしまっているから、二度寝しようにも出来なかった。

 

 

「和人……早く来て……」

 

 

 小さく呟いた後に、覚醒した意識のまま、詩乃は瞼を閉じた。

 

 

 それから何分くらい経った頃だろうか、部屋の中にピンポーンというチャイムが響き渡り、詩乃はかっと目を開いて身体を起こした。時間もスマートフォンも気にしないで立ち上がり、玄関へ続く廊下へのドアを開くと、もう一度チャイムの音が聞こえ、直後にくぐもった声が玄関の扉の向こうから届いて来た。

 

 

「詩乃、いるんだよな。俺だよ、和人」

 

 

 玄関の向こうから聞こえてきたのは、今では一番聞いていて心地の良い声。それを耳に入れるなり、詩乃は駆け足で玄関へ向かい、ドアを勢いよく開いた。空と景色の見える玄関口にあったのは、ほんの少し長めの黒い髪の毛に、線の細い顔をした、黒い長ズボンを履いて、更に黒を基調とした長袖の服を着ている、何度も見た少年。その姿を瞳の中に入れた直後に、詩乃は思わず呆然としてしまった。

 

 ――和人が、生きている。死んだと思っていた和人は、生きている。

 

 

「詩乃、大丈夫か。顔色、少し悪いよ。それに眼鏡もかけてないし……」

 

 

 呆気にとられている中、和人の声で詩乃は我に返る。目の前にいる和人の線の細い顔には、いつの間にか心配しているような表情が浮かんでいた。そんな顔を見ながら、詩乃は俯いて、やがてその口を小さく動かした。

 

 

「……あがって、和人」

 

「そっか。わかったよ」

 

 

 最低限の事だけを和人に伝えると、詩乃は和人を招き入れて玄関の戸を閉めた。そして、リビングのベッドの近くまでやってきたところで、詩乃は和人に背を向けたまま立ち止まる。

 

 

「詩乃……?」

 

「……ッ」

 

 

 詩乃は何も言わないまま振り向くと、和人の胸の中にぶつかるようにして抱き付いた。急にぶつかって来た詩乃に驚いて、一瞬だけ和人は声を上げる。

 

 

「わわっ、詩乃」

 

「和人……和人っ……!」

 

 

 搾り出したかのような詩乃の声を聞いた和人は、詩乃の震える身体を抱き締めて、その場に座り込み、その頭を静かに撫で始める。その頃には、和人の胸には詩乃の涙が染み込んでいっており、それを感じた和人は詩乃の耳元に囁くように言った。

 

 

「……来るの遅くなって、ごめん」

 

「……遅くない。でも、生きてる……和人、生きてる……っ」

 

「もしかして、また、俺が死ぬ夢を見たのか」

 

「うん……和人が、殺される夢、見ちゃった……和人が、斬られて、血塗れになって……」

 

 

 まだSAOに居て、100層の須郷の元に向かった時、和人は詩乃の頭の中と自らの頭の中を繋げて、詩乃の記憶を全て見ており、その際に和人は、自分が死んでしまった夢を見た時の詩乃の辛さと悲しさを実際に見て感じている。

 

 だからこそ和人は、胸元に泣き付いて嗚咽(おえつ)を漏らしている詩乃の心の流れというものが、自分の事のようにわかって仕方がなかった。

 

 

「……辛い思い、したんだな。だけど大丈夫だよ。俺は絶対に死なない。君を置いて、絶対に死んだりしないよ。前からずっと、言ってるだろ」

 

「そうだけど、そうだけど……でも、ああいう夢を見ると怖くなるの。怖くて、仕方が無くなるの。和人が、死んじゃったんじゃないかって……怖くて、悲しくなって……」

 

「……大丈夫だよ。俺は君を守るんだ。だから、絶対に死んだりなんかしないよ。だから、怖がらなくたって大丈夫さ」

 

 

 そう言って和人は撫で慣れた詩乃の頭を撫で続けると、詩乃は身体の震えを段々と弱くしていったが、同時に不安を感じていた。

 

 あの時あのような事があったから、和人は誰よりも詩乃の気持ちがわかるし、詩乃がどのような事を好んでいたり、どのような記憶を持っているのかわかる。だけどそれは同時に、詩乃からすれば自分がもう一人いるように思えて、気持ち悪さを感じてしまっているのではないのだろうか。

 

 

「それにさ、詩乃。俺も不安な事があるんだ」

 

「え……」

 

「君は、俺が気持ち悪くないのか。俺は君の記憶を全部知ってるし、君の気持ちも他の誰よりもわかる。全部把握されてるみたいな感じで、怖かったりしないのか」

 

 

 詩乃は和人の言葉には何も言わず、首を横に振ってみせた。その様子に和人がきょとんとすると、そこでようやく詩乃の口が開かれた。

 

 

「気持ち悪くないし、怖くない。寧ろ、あなたが居なくなる方が、怖い。だから、あなたが怖い事なんて、絶対にない」

 

「本当に?」

 

「本当に。だから、そんな事言わないで。そして……一緒に居て、和人」

 

「……うん。改めて、約束する」

 

 

 和人は安堵の表情を浮かべると、より強く、詩乃の身体を抱き締めた。その頃には詩乃の身体の震えは止まっており、嗚咽も弱いものに変わっていた。その頃を見計らって、和人はもう一度声をかけようとしたが、詩乃の口の方が先に開いた。

 

 

「ねぇ和人。私、今日はログインしないで、和人と出かけたい」

 

「え、出かける?」

 

「うん。どこでもいいから、和人と一緒に出かけたいの。駄目?」

 

「別に駄目じゃないけれど……大丈夫か」

 

「あなたと一緒なら、大丈夫。だから、ね?」

 

 

 SAOに居た時はノー攻略デーの最中に様々な階層に出かけたりしたものだけれど、現実世界に帰って来てからは全くと言って良い程、二人で出かける事はなくなってしまった。一応この前、詩乃と一緒に街中に出かけたけれど、あれでようやく一回目な上に、二回目の外出はまだやっていない。

 

 それに、ここに来るまでに空を見た時、雲がほとんどなくて晴れ渡っていたのを覚えている。詩乃との二度目の外出をするには、絶好の日だ。

 

 

「……わかったよ。ただし、無理だけはしないでくれよ。どこに出かけるにしろ、な」

 

「……ありがと」

 

 

 そう言って、詩乃は再び和人に体重を預けた。二人が二度目の外出をする事になったのは、それから数分後の出来事だった。

 




次回、キリシノ回。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。