「ぐっ、うぇっ、うええ゛っ」
身体をぶるぶると震わせながら、和人は目の前の便器に向かって激しく嘔吐する。この前まで感じた事すらなかった、胃の収縮と吐き気に突然襲われた和人は、玩具売り場を飛び出してトイレに向かい、個室に飛び込んだ。
そこでだ、吐き気が抑えられなくなり、たまらず便器にしがみ付いて、その中に胃液と内容物を吐いたのは。
「げほっ、げほっ、う゛っ……ぐう゛……」
一頻り吐いたところで、和人は力尽きそうになっている腕を動かしてレバーを掴み、便器の中を流した。水が流れる強い音が止んだところで和人は立ち上がり、力尽きるように便座に深く座る。あまりに激しく吐いたせいか、息を吸うと喉がひりひりと痛んで咳き込みたくなり、鼻の中に異臭が流れ込んでくる。
「はぁ……はぁ……くそッ……」
絶え絶えになっている自分の吐息を聞きながら、和人は頭の中を回して嘔吐する事になった原因を探し出す。
今日はいつもの直葉の朝食ではなく、カフェで外食をしてからここに来た。食材の衛生問題がよくニュースに上がる今の年代だ、もしかしたら痛んだ食材を食べてしまって、今頃になって食中毒症状が出たのだろうか。そうであれば、あのカフェの朝食は食べるべきではなかった――。
「違う……」
そんな理由ではない事は、和人は既に分かっていた。トイレに駆け込む直前、自分は玩具売り場にいて、そこである玩具を見た途端に、こうなったのだ。その時に見た玩具は、玩具売り場に行けば、小学生高学年から中学生向け売り場で販売されているモノ――黒塗りされたプラスチック製モデルガンだった。
「……」
自分が床に座り込んでいて、目の前には大きな血だまりが出来ていて、その中に一人の男が倒れていて、そしてべったりと血が付いた自らの手で、拳銃を握り締めているという、経験した事のないはずの光景。モデルガンを見た途端、それが過去の光景がフラッシュバックするように頭の中いっぱいに広がった。
その直後に、身体の中の血が凍り付いて抜け、代わりに毒液を流し込まれたような悪寒と感覚が全身に走り、胃が締め付けられるように凝縮し、強い吐き気を催された。その感覚を抑えきれなくなった和人は、こうしてトイレに飛び込んだのだ。
「…………!」
いや、あの光景は見た事がある。まだアインクラッドにいた時、須郷の実験を強要されて記憶を消去されそうになった詩乃を助けるために、詩乃の頭の中というところに意識を飛ばした。その時に見て感じた詩乃の記憶の中に、全く同じ光景があったのを、和人は覚えている。
突然銀行に入ってきた、拳銃を持った強盗に襲われ、その拳銃を奪って強盗を撃ち殺したという光景――これを目の当たりにした後に、詩乃はPTSDを患ってしまったのだ。
「だけど……」
あの時に見た手は、まだ十一歳の頃の
それをしたのは、そんな体験をしたのは詩乃であり、自分ではないはずなのに。
「どうなってるんだ……」
呟いてもう一度息を深く吸ったその時、どこからともなく大きな音が聞こえてきて、和人はびくりと背筋を伸ばした。何事かと思って身体を見てみれば、ズボンの前ポケットの中で何かがブルブルと揺れながら大きな音を立てているのがわかり、和人は手を突っ込んでその正体を確認する。
それは毎日使っているスマートフォンだった。電話を受信している印にぶるぶるとバイブレーションがかかっており、ディスプレイにはある名前が浮かんでいる。――朝田詩乃というその名前を確認した時に、和人の意識はこの場に固定されて、今どういう状況にあるのかが思い出される。
そうだ、ぬいぐるみを選んでいる詩乃に何も言わないでトイレに駆け込んだ。詩乃は自分がどこに行ったのかわからなくて、迷子に近しい状態になっているに等しい。それにここは男性以外は入れない場所だから、見つけられるわけもない。
「……」
和人は何も言わずにディスプレイを操作し、通話ボタン開始ボタンを押して、耳元にスマートフォンを当てる。か細い少女の声が、耳元に届いて来た。
《和人……和人、いるわよね》
「詩乃」
《和人、今どこにいるの。探してるけど見つからないの》
「ちょっと迷ったみたいだ。そういう詩乃こそどこにいるんだ。教えてくれれば、そっちに行く」
《ぬいぐるみ売り場の中よ。ここから見ても、どこにもあなたの姿はないんだけど……何も言わないでどこに行ったのよ》
「ちょっとね……だけど、わかったよ。すぐに戻るから。一人にさせてしまってごめん」
か細い声の詩乃との会話の中で、和人はここまでの道筋を思い出す。
トイレからぬいぐるみ売り場までそれなりの距離があるが、その道中にはモデルガン売り場がある。あれらを目に入れたならばまた何が起こるのか、わかったものではない。詩乃のところへ行くまでに、迂回していく必要がありそうだ。
「とにかく、今から戻るよ。だからそこを動かないで待っててくれ」
《……わかったわ。とりあえず待ってるから……》
和人はスマートフォンの通話を終了すると、元あった場所にスマートフォンを突っ込んで立ち上がった。
鏡の中に映り込んでいる自分の顔が、すっかり血の気が抜けきって蒼白だった事に、和人は一瞬驚いて、すぐさま手で顔を覆った。
「まいったな……」
もしも自分の顔がショッピングモールに来た時とほとんどが変わりが無かったのならば、このまま詩乃の元へ向かっていた事だろう。だが、今の顔のまま出ていけば、どう考えても詩乃に疑われる。時に予想以上に
だが、だからと言って詩乃の元へ戻らないわけにもいかない。戻ると言ったというのに、いつまでも戻ってこないなんて事になれば、もう一度電話をかけてくるか、探しに来るだろう。いずれにせよ、詩乃の元へは戻らなければならない。
「行くしかない、か」
和人はぐしゃぐしゃと手で顔を拭うと、再び歩みを進めてトイレを出た。そして頭の中に断片的に残っている道を思い出して、詩乃の待つぬいぐるみ売り場に向かう。モデルガン売り場に立ち寄らないように、モデルガンなんてものを見ないように、周囲に気を配りながら、よろよろと歩いて行くと、再び玩具売り場に戻ってくる事が出来た。
そこで少し歩みを進めて、更に奥に進んでいくと、先程まで居たぬいぐるみ売り場まで来る事が出来た。並ぶぬいぐるみ達の群れの中に入り込んで、和人は周囲を見回したが、そこで首を少し傾げる事になった。――詩乃の姿が見つからない。
「あれ……」
電話で聞いた時には、ぬいぐるみ売り場にまだいると言っていた。その言葉が真実ならば、まだ詩乃はこの辺にいるはずなのだ。だのに、どこを見回しても詩乃らしき少女の姿は見つからない。いるはずの人がいつの間にかいなくなっているという、心配と不安が混ざり合っているような感情が胸の中に沸いてきた和人は、電話をかけてくる前の詩乃の気持ちがわかったような気がした。
「詩乃……どこ行って……」
「和人!」
聞き慣れた声に和人はハッとすると同時に背筋をしゃんと伸ばした。ついさっきまでは一緒に居てこれ以上ないくらいに楽しかったのに、今は見つけなければならないと同時に見つかりたくなかった人の声。すっかり浴び慣れた視線。
それに答えるように、和人は振り返る。ぬいぐるみの群れの並ぶ棚と棚の間の通路、その中心に、置いてけぼりにしてしまった恋人、詩乃の姿があった。その顔には、不安と心配をかき混ぜたかのような表情が浮かんでいた。
「詩乃……」
「和人っ!」
少し慌てた様子で駆け寄ってきた恋人から、和人は目を逸らして俯く。どこにいたと聞こうとしたその前に、詩乃の口から言葉が飛び出す。
「どこ行ってたのよ。いつの間にかいなくなって……」
「ごめん、ちょっとトイレに行ってたんだ」
「それなら一声かけてからでもいいでしょ。なのに急にいなくなって……本当に心配したんだからね」
「うん、ごめん」
「全くもう……でも、見つかってよか――」
急に詩乃の言葉が途切れた事に軽く驚いた和人は、詩乃と顔を向け直す。そこに浮かんでいる表情は、自分と同じような、何かに酷く驚いているようなそれに変わっている。もしかして、気付かれたのか――和人がそう思うよりも先に、詩乃の口は動いた。
「和人……どうしたの」
「どうしたって、何が」
「その顔よ。すごく青白い……何かあったの。どこか、悪いの」
和人は詩乃から視線を逸らして、額付近に手を添えた。――やはり、気付かれた。
百数歩歩いただけでは血の気は戻ってこなかったようだ。いや、もしかしたら時間が足りなかったのかもしれない。もう少し詩乃と会うのが遅ければ、気付かれなかったのだろうか。
そんな考えを頭の中で回そうとすると、容赦なく詩乃の声が耳元に届いて来た。
「和人、どうしたの。もしかしてだけど……トイレで吐いてきた?」
「なんで、そう思うんだ」
「和人の顔、私が発作を起こして吐いた後の顔の色に、似てるのよ。もしかして、何か悪いものでも食べたの? 朝食べたもの、悪かったの」
やはりそういう経験を誰よりもしているためか、人の変化というものに過敏だ。きっと詩乃は人が気付かないほんの少しの変化さえも、誰よりも早く感じ取るのだろう。それは嬉しい事だけど、先程の事は詩乃に言えるような内容ではない。もし言ってしまったら、詩乃がどんなふうになるのか、安易に想像が付く。そんな事を頭の中で考え、和人は顔を詩乃から背けた。
「……吐いたわけじゃないよ。ちょっと思い切り腹が痛くなっただけ。案の定下痢してた」
「下痢? そんなわけないわ。下痢だけで顔が青白くなる事なんてないもの」
「あるよ。下痢だって度が過ぎれば顔くらい白くなる。というか、もうよくなったから、もう何でもないよ」
「ううん、そんな事はないわ。今、和人ふらついてる」
確かにここまで来るのに多少ふらついていたけれど、あまり気になるくらいのものではないはずだった。なのに、そんな変化でさえも詩乃は気付いている。流石にここまでの変化にも気付くとは、和人も予想していなかった。だけどやはり、身に起きた事は言えない。
「何でそう思うんだ。歩くところ、見てたの」
「見てたわ。と言ってもほんの少しだけど……やっぱり和人、具合悪いんでしょう」
「悪くないよ。というか、もう治ったから大丈夫。なんでもない」
「全然なんでもなくないわよ。どこか悪いなら、少し休みましょう」
容赦なく飛び込んでくる問いかけ、自分の異常を探り当てようとしている詩乃。SAOに居た時はここまで自分を心配してくれる人が居る事が何よりも心地よく感じられたのに、今はそのような気は感じない。和人は、いつしか歯を食い縛っていた。
「どこも悪くない。なんでもないから、いいんだ」
「全然そんなふうに見えないから言ってるんじゃない。ねぇ和人――」
「なんでもないって言ってるだろ!!!」
突然耳元に届いて来た怒鳴り声で、和人はハッとした。頭の中が痺れて、何が起こったのかわからなくなったが、前方に目を向けて直したところで、自らの黒色の瞳の中に一人の少女の姿が映り込んだ。
「あ……」
目の前の少女の顔に浮かぶ、唖然としている表情を見た途端に頭の痺れが解けて、和人は何が起きたのかを理解する。今聞こえてきた怒鳴り声の主は、他の誰でもない、自分だ。自分が目の前にいる詩乃を、怒鳴ったのだ。
心配してくれている詩乃を、怒鳴りつけてしまった。その真実に気付いて、か細く声を出すと、詩乃の喉が軽く鳴り、口元が静かに動いた。
「…………」
「あ……あっ、あぁ……」
怒鳴り声が返ってくるなんて思ってもみなかったのだろう。余りに驚きすぎているのか、それとも怒鳴られた事が余りにショックだったのか。いずれにせよ詩乃の口から言葉が出る事はなくて、そればかりか顔が徐々に下を向いていく。その原因を作ったのが自分である事の罪悪感を感じて、和人はもう一度詩乃に声をかける。
「……ご、ごめん。怒鳴るつもりはなかったんだ。……俺、どうかしてた……」
「…………」
詩乃は軽く顔を上げて、和人と目を合わせた。その顔が悲しさと怯えが混ざったようなものになっているものだから、和人は棘が胸に突き刺さったような痛みを感じる。
SAOにいた時には数回見せる事があった、詩乃の怯えた顔。けれど、それは基本的に自分達以外に向けられるものであり、自分や仲間に向けられる事なんてなかった。
だけど、今詩乃が怯えているのは、他でもない、目の前にいる自分だ。
詩乃が自分に怯えているという光景を目にして、和人は言葉が出せなくなりそうになったが、麻痺しそうになっている口をなんとか動かして、言葉を紡いだ。
「ごめん詩乃。詩乃の言う通りだった。頭冷やすから、どこかで休もう」
和人は、どのような言葉が次に飛び出してくるかと身構えたが、詩乃は一切口を開く事なく、和人に頷いた。その反応を見て、ひとまず和人は心の中に落ち着きを作る。
「……ありがとう、詩乃。行こう」
和人が一言言った後に、二人は場所を移動して、ショッピングモールの一階にある喫茶店の中に入り込んだ。人通りが多いためか、街中のそれよりもかなり騒がしく感じられるところであったものの、休むにはちょうど良かった。
二人はカウンターへ行って簡単な飲み物を注文して受け取ってから、喫茶店の一番奥の席に向かい合って座る。直後に、和人は詩乃に顔を向けたが、詩乃は相変わらずただ俯いているだけで、何も言葉を発する気配を見せなかった。
「…………」
そんな詩乃に、和人は言葉をかけようとしたが、まるで口が縫いつけられたかのように開かなくなっていて、言葉が出せなくなった。いや、正確には何と声をかければいいのか、わからなかったのだ。
そもそも今日、こうやって詩乃と共にここにやってきた切っ掛けは、詩乃が悪夢見て飛び起き、自分に助けを求めたからだ。電話越しに聞こえてきた詩乃の弱弱しい声を聞いた時に、今の詩乃には自分が必要だとわかり、一目散に詩乃の元へ駆け付けた。
今日の詩乃には、自分が必要。自分が傍に居てやらねば――それをわかっていたはずなのに、あの時詩乃を怒鳴り付けて突き放してしまった。突き放してはいけないという事を、何よりもわかっていたはずなのに。――それを理解すると、ひとつの単語が頭の中に浮かび上がって来て、口の縫い目が緩くなってきたのを和人は感じた。
ひとまず、この言葉だけは詩乃に言わなければならない。そんな使命感に似た感情に突き動かされた和人が口を開こうとしたその時、それまでずっと閉ざされていた詩乃の口が開かれた。
「和人」
「えっ、あ……」
「……ごめんなさい」
「えっ」
詩乃の口から紡がれた言葉は、今まさに和人が頭の中で考えて、発そうとしたそれだった。何故か怒鳴られた方の詩乃の方からそれが出てきたものだから、和人は驚いて目を見開いて、言葉を紡ごうとしたが、やはりそれより先に詩乃の口が動いた。
「和人は、私がしつこく聞くから、怒ったんでしょう」
「えっ……あ、いや、そんな」
「だから、あんなにしつこく聞いちゃって、ごめんなさい」
「あぁ、いや。謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。ごめんな、詩乃。詩乃がせっかく心配してくれてたのに、急に怒鳴り付けるような事をやってしまって……ごめん、俺、どうかしてた」
そこで二人の言葉は区切られた。周囲の会話とざわめきが耳元に届いてくるだけになって、テーブルの上に置かれたソフトドリンクの氷が溶けて浮かび上がり、からんと音を鳴らした。それから和人が一向に口を開けずにいたその時、もう一度詩乃の口が開かれた。
「ねぇ、和人」
「あっ……な、何」
「この際だから、言おうと思うんだけど、私ね……たまにすごくあなたが心配になるの」
その言葉を聞いた途端、口元が異様に重くなって、和人は口を閉じた。そんな和人と反対に、詩乃の口は言葉を次から次へと紡いで、心の中の思いを声に変えていく。
「SAOに居た時からそうだったけれど、あなたは重要な事は何も話さないで、全部一人で抱え込む。抱え込んで、どうしようもなくなるまで悪化させて、それでも無理してく。だから、いつも心配になるの。このまま放っておいたら、あなたがそのうち壊れちゃうんじゃないかって……」
「…………」
「私ね、それが一番怖いの。確かに和人が死んじゃうのも怖いけれど、和人が壊れちゃうのも怖いの。だから、和人。何かあったら言ってよ。私、力になるから……」
和人は詩乃の顔をじっと見つめていた。一向に言葉が出てこないが、詩乃の顔に浮かぶ心配と不安の表情で、今の詩乃の思いというものがわかった。詩乃は本気で、心の底から自分の事を心配してくれているし、自分が壊れてしまう事を本気で恐れている。自分自身よりも真剣かつ深刻に、考えてくれているのだ。
だからこそ、これだけ思ってくれる詩乃を怒鳴り付けてしまった事を思い出すと、胸がどうしようもないくらいに痛くなる。目の前には二人分の飲み物があるけれど、手を出す気にさえならない。
「……力になるから、和人。教えてほしい。あなた、あの時どうしたの。具合が悪いなら、早く帰って休んだ方がいいわ」
そして届いて来た詩乃の問いかけに、和人はぎょっとした。確かに話せる事は基本的に隠したりせずに詩乃に話している。だからこそ、先程の異変の事だって話したいけれど、話せば間違いなく詩乃を混乱させ、傷付ける。
詩乃に隠し事はしたくないけれど、詩乃を傷付けるのもまた嫌だ。だから、あの時の話は出来ない――和人は喉元を軽く鳴らした後に、重さのとれた口を動かして、言葉を紡いだ。
「……眩暈がしたんだよ」
「眩暈?」
「そう。すごく急な眩暈だったんだ。それから一気に気持ち悪くなって、トイレに駆け込んだ。いや、あの時はトイレに駆け込めたのも奇跡だったな。それで、トイレに行って、君の言った通り、吐いたんだ。ふらふらしてたのも、そのせいだよ」
「眩暈って……何で急に」
「多分、日頃の疲れのせいかもしれない。最近はALOにログインしっぱなしが多かったからさ。多分そのせいだと思う」
勿論、全て嘘だ。ログインしすぎて衰弱死した人が出たなんて話を直葉にしてからというものの、ちゃんと時間を決めてログインとログアウトするようにとルールを作られてしまったために、夜遅くまでログインしているような事はなくなった。だから、ログインのしすぎで眩暈を起こすなんて事は一切あり得ないと言って良い。
「という事は、今日は和人には休息が必要だったって事……?」
「そうなるけれど、でもいいんだ。もう治ったから」
「本当に? 吐くくらいの眩暈だったのに、治ったの」
「あぁ。だからもういいんだ。だけど、あの時急にいなくなってごめん」
詩乃は少し驚いたような顔をしていたが、やがて元の心配しているような表情を浮かべた。色々言って微笑んだとしても、まだ、詩乃を安心させるには遠いらしい。
「それは……別にいいけれど、本当に大丈夫なの。無理してない?」
「無理してないよ。だから、もう少し休んだら、買い物に戻ろう。ぬいぐるみ、まだ買ってないだろ」
「買ってない」
「じゃあ、早く買いに戻ろうぜ。せっかく来たんだからさ。心配してくれてありがとうな、詩乃。改めてお礼を言うよ」
詩乃は口を閉じて、じっと和人を眺めた。もしかして嘘を言っている事に気付かれたか――そう思った和人は心の中で身構えたが、やがて詩乃の口はもう一度開かれる。
「……わかったわ。だけど和人、約束して。無理なら、私に言ってよ。私だって、あなたの力になりたくて、強くなったんだから」
「……そうだったな。約束するよ。もう少し、君を頼る事にするよ」
「もう少しじゃなくて、頼って」
「うん、わかったよ」
詩乃は少し安心したような顔をしてから、ようやくテーブルに置かれている、暖かい飲み物の入ったカップを両手で包み、口元へ持って行った。その様子を軽く見た後に、和人は下を向いて、ズボンのポケットのスマートフォンを取出し、テーブルの下で操作した。
なんとか誤魔化せたけれど、いつまでもこの状態が続くとは思えないし、聡い詩乃の事だから、いつか気が付くだろう。その前に、何とかして原因を突き止めておかなければ。頭の中で思考を回しながら、和人はスマートフォンの電話帳を開く。
――やっぱり、頼るしかないか。
友達、親友、家族といった親しい者達のリストが並ぶ中に、一人だけこういう話に答えられる人が居る。その人の手を煩わせるようであまり乗り気ではないけれど、きっとこの問題を話した時、真剣に聞いてくれて、対策を立ててくれるのはその人だけだ。
そしてその人は今休暇を取っており、ALOに来ている。話が出来るのは今だけだ。和人はその人に話したい事を頭の中で考えながら、その人を選択する。
ディスプレイの中に《芹澤愛莉》という名前が表示された。