キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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04:少年と研究者

         ◇◇◇

 

 

「君が患者として私の前に現れるのは、これが初めてなんじゃないのかい」

 

 

 アルヴヘイム・オンライン、浮遊大陸スヴァルト・アールヴヘイム、空都ラインの宿屋。窓の外から巨大な満月の光が差してくる、ひっそりと静まり返っている部屋の一室で、俺は椅子に座っていた。目の前にはもう一つ椅子があり、黒くて長い髪の毛で、大きめの胸を持ち、頭にカチューシャを付けて白いコート状の服を纏った女性が座っている。

 

 

「確かにそうかもしれませんね。俺は今まで、あんたに相談するくらいしかしてませんでしたから」

 

「違いないな。それも、そんな事をしていたのはSAOの時だけ。ALOに来てからは一向にそんな事はなくなった。私自身も、君を診る事になるとは思ってもみなかったよ」

 

 

 目の前にいる、イリスというユーザーネームの女性。SAOの時に出会い、SAOという世界を作った一人であり、俺の仲間であるリラン、ストレア、ユピテル、娘であるユイを作った張本人だと聞かされて驚く事になったのは今でもしっかりと覚えている。

 

 そしてもっと驚く事になったのは、現実世界でのイリスは精神科医を務めていて、恋人である詩乃の専属医師だったという事だった。

 

 

「というか、君もわかってると思うけれど、今の私はもう精神科医じゃなくて、とあるゲーム会社に所属するただのAI研究者だ。だから、正直もう診察はしちゃいけないんだけど」

 

「《天才》が抜けてます。イリスさんは天才AI研究者でしょう」

 

「そう言ってくれるかい。確かに、私意外でユイやリランみたいなAIを作り上げた人間というものを見た事がないからな。大衆連中は私を天才AI研究者だなんて呼ぶんだろう。まぁそれはさておき、君の事は診るよキリト君。シノンとの付き合いも長いけど、君との付き合いも長いし、関係も深いからね。今日はどうしたんだい」

 

 

 詩乃とのデートとも言える外出から帰って来た後、俺はすぐにALOにログインをし、イリスの元へメッセージを送ったのだった。詩乃とのデートの途中で思っていたけれど、あの時の異変はどう考えても誰かに相談しなければならないくらいのものだった。そして、それを相談できるのは、現実世界で精神科医を務めていたイリスだけだとしか思えなかった。

 

 アミュスフィアを付けてVR世界へダイブし、妖精の世界へ入った俺は、早速メッセージを起動してイリスに連絡をした。イリスは既にゲーム会社に勤めているから、もうログインしてはいないんじゃないかとも思ったけれど、恒例とも言える物凄い速度で返信を飛ばしてきた。答えは「君を診よう」で、続けて「君の診察のためにラインの宿屋の一室を借りよう」と提案してきた。

 

 そのメールに簡単なお礼を返信して、宿屋に移動しようとした時に、続けてイリスから宿屋の部屋のナンバーが書かれたメールが送信されてきた。それを受け取った俺は、迷わず宿屋へ行き、メールに書かれていたナンバーの部屋の前に来た。

 

 その中が、この部屋であり、俺が扉を開いた時には、既にイリスは到着していた。

 

 

「……イリスさんに、話しましたっけ」

 

「何をだい。そんな事を言われても、何の話か分からないな」

 

「俺達がまだSAOに居た時、100層で起こった事ですよ。《壊り逃げ男》にシノンが連れ去られて、実験の材料にされたシノンを助けた時の事。その事、イリスさんは知ってますっけ」

 

 

 目の前の美人元精神科医は、腕組みをして椅子に深く座った。鼻元から溜息のように息を吐き出す音が聞こえてくる。

 

 

「……その話は聞いたよ。君がリランとユイの力を使ってシノンの……詩乃の頭の中に自分の意識を送り込んで、記憶を同化させたんだろう。初めて聞いた時には思わず聞き入ってしまったけれど……キリト君、その話は本当なのかい」

 

 

 本当である事は間違いない。俺は確かにあの時詩乃の記憶に触れて、詩乃がこれまでどんな経験をして、どんな思いをして来たかを知り、俺やアスナやユイの事を、詩乃がどんなふうに思っているのかも知ったし、今でも思い出せる。だからこそ、この話は嘘ではないと言い切れる。

 

 その事を話してやると、イリスは下腹部の前で手を組み、目線を下に向けた。

 

 

「私ににわかには信じがたいんだけど……君は私には嘘を吐かないし、君自身嘘を吐いていない目をしているから、間違いないんだろうね。君が、詩乃の記憶に触れたっていうのは」

 

「はい。俺は基本的に、イリスさんには嘘を吐かないつもりです」

 

「それは嬉しいよ。だけど、現実世界に戻って君からその話を聞いた時から、私は気になっている事があって仕方がなかった。多分だけど、君が私の元を訪れた理由も、それに関係する事なんじゃないかな」

 

 

 そこでイリスは、下腹部の前で手を組んだまま、その赤茶色の瞳で俺の事を見つめてきた。なんとなくだが、まるで水鏡のように月明かりと俺の姿を映し出しているように見える。

 

 

「君は詩乃の記憶に触れたっていうけれど、その後、弊害みたいなのが出ていないかい。例えば、自分に関係ないはずの記憶が頭の中に混ざり込んでいたり、苦手じゃなかったものが苦手になっていたり、自分の記憶がいまいちわからなくなっていたり……そんな事はないか」

 

 

 そこで俺は、部屋の音がすべて消えて、背筋が凍り付いたような感覚に襲われた。俺はこれまで人混みが平気だったけれど、今日人混みの中に入った時には嫌という感情を抱いたし、その後これまで平気だったはずのモデルガンを見て、異様な記憶を思い出して吐いてしまった。今イリスの口から出てきた言葉は、全て今の俺に当てはまっている。――その様子が顔に出ていたのだろう、目の前の黒髪の元精神科医はすぅと息を吐いた。

 

 

「なるほど、その様子だと、私の言った事が全て当てはまっているという事だね」

 

「……」

 

 

 一旦何も言えなくなったが、俺は今日の事を全てイリスに話した。詩乃にも話していなかった、本当の事情を、全て。それが終わった時に、イリスは顎に手を添えて、もう一度深い溜息を吐いた。

 

 

「確かに君を見ている限りでは、人混みだって平気そうだったし、モデルガンだってへっちゃらだった。しかし、今日の君の話を聞いてると、これまでなかった事が君の中に現れているように感じられるね」

 

「…………」

 

「そして、詩乃の記憶のトラウマ。体験したのは他でもない詩乃なのに、何故か詩乃が君に入れ替わって、君の中にフラッシュバックされる……」

 

 

 青白い月明かりの中、イリスは背筋を伸ばして、手を膝元に置いた。その瞳は相変わらず鏡のように、俺の姿を映し出していた。そんなイリスの姿を見ていると、俺は胸の中にある気持ちが溢れ出てきて、抑えきれなくなったのを感じて、ぶちまけるように言った。

 

 

「なぁイリスさん。俺は、どうしたんだ。俺は一体何なんだ。俺は桐ヶ谷和人なのか。それとも朝田詩乃なのか。それとも――どっちでもない何かなのかな。教えてくれ」

 

 

 気付けば、俺は椅子から立ち上がってイリスに迫っていた。突然迫られれば、普通は後ずさりしてしまうようなものだけれど、イリスは俺に迫られても椅子から一切動こうとはしておらず、ただ俺の事を見つめているだけだった。

 

 

「教えてくれ、俺は一体何なんだ。俺は一体どうなったんだ。俺は一体どうなるんだ。教えてくれよ、俺は、俺は、俺はぁ……!」

 

 

 俺は一体どうなった。

 俺はこれからどうなっていく。

 俺はどんなふうに変質する。

 俺は一体何なんだ。

 

 これまで感じた事が無かった感情が、胸の中から噴き出て全身に広がっていく。自分が変質していく事への悲しさなのか、不安なのか、恐怖なのか。正体が全くつかめないまま、それを吐き出そうとしたその時に、乾いた音と共に頬に強い痛みと衝撃が走り、俺は驚くと同時に我に返った。

 

 今の頬の痛みは何だ――ハッとした頭の中で模索しようとした時に、俺の身体は前方向に引っ張られ、顔が柔らかくて暖かいものに押し付けられたところで止まった。そこがイリスの胸の中であるという事、頬の痛みはイリスの平手打ちによるものだと気付いたのは、イリスの声が間近に届いて来た時だった。

 

 

「落ち着いて、キリト君。きっと今の君は混乱してしまっているんだと思う。自分が体験していないはずの記憶が混ざり込んでいて、自分の記憶なのか、そうじゃないのかわからなくなっている……」

 

「イリスさん……俺は……」

 

「でも……安心してキリト君。キリト君の中身は桐ヶ谷和人君。その他の誰でもないわ。

 だけどね、今の()()()には、詩乃の記憶っていう異物が入り込んでいるのよ。だから、あなたは必然的に反応を起こしてしまっている。それが、あなたの異常の正体よ」

 

 

 考えてみれば、俺自身からすれば俺の記憶だけが必要なものであり、他人の記憶が入り込んできた時には、それはたちまち異物になる。冷静に考えてみた事もなかったけれど、俺の中にある詩乃の記憶は、俺のものではなく、寧ろ異物なのだ。だけど、そんな異物への対処方法なんてわかるわけがないし、そもそも異物は取り除かなければならないものなのに、取り除く方法だってわからない。

 

 

「じゃあ、どうすればいいんですか。俺は、このままじゃ……」

 

 

 どす黒い水のような不安が心の中から湧き出してきて、胸の中が満たされ、やがて全身へと広まっていこうとしたその時に、後頭部に温もりを感じた。続けて、聞き慣れた精神科医の声が耳元に届いて来た。

 

 

「落ち着いて聞いて、キリト君。今から対処方法を教えるわ。もし、詩乃の記憶と自分の記憶が混ざりそうになったり、詩乃の記憶に支配されそうになった時には、これは詩乃の記憶だって強く思い込んで。あなたは強い人だから、自分の記憶と詩乃の記憶の違いがわかるはずよ」

 

「……俺の記憶と、《詩乃の記憶》の違い……」

 

「えぇ。現にあなたはこれまで自分の中にある詩乃の記憶が、《詩乃の記憶》だって認識できていた。だけど今は、色々な事があってそれが揺らいでしまっているの。だから、認識をもっと強く持って、詩乃の記憶を詩乃の記憶だって認識するの。そうすれば、詩乃の記憶に呑み込まれそうになる事だってなくなるわ」

 

 

 後頭部に当てられているイリスの暖かい手。そこから伝わってくる温もりが存外気持ちよくて、まるで浄化されるように俺の中の不安が消え去っていく。確かに俺はこれまで詩乃の記憶を《詩乃の記憶》と認識できていたし、こんな感じになる事もなかった。

 

 それはきっと、イリスの言っているとおり、俺の中の詩乃の記憶への認識が弱くなったためなのかもしれない。

 

 

「だからね、キリト君。危なくなったら、もし詩乃の記憶に呑み込まれそうになったとしても、詩乃の記憶を《詩乃の記憶》だと認識して。《詩乃の記憶》はあくまで詩乃の記憶であって、あなたの記憶ではないわ。そう、桐ヶ谷和人君の記憶ではないの。それを、忘れないで」

 

 

 イリスの胸の中に包まれながら、詩乃の記憶を、《詩乃の記憶》だと認識していた時の感覚を思い出す。そうだ、俺は今まで出来ていた事を、いつの間にかできなくなっていたんだ。いや、どちらかと言えば詩乃と話す時に《詩乃の記憶》の話をあまりにしていたせいで、認識が揺らいだのかもしれない。

 

 もし、このままイリスに相談しないでいたなら、もっとその認識は揺らいで、俺は《詩乃の記憶》に取り込まれていたのかもしれない。いや、もう取り込まれる寸前だったのだろう。

 

 俺は身体を起こして、イリスからそっと離れた。いきなり動き出すなんて思ってなかったのだろう、イリスは少し驚いたような顔をしていたが、構わず俺は口を開く。

 

 

「……ありがとう、イリスさん。なんだかわかったような気がします。俺はずっと、《詩乃の記憶》が自分の中にある事に驕り高ぶってたのかもしれません。詩乃の気持ちがわかる事に、嬉しくなりすぎてたんです。それで、いつの間にか《詩乃の記憶》に呑み込まれそうになってた……」

 

「そう。ならもう、どうすればいいのかわかるはずよね」

 

「わかります。もう少し強く、自分の意志を持ってみます。今回も、イリスさんに助けられました」

 

 

 最初は驚いたような表情が浮かんでいたイリスの顔に微笑みが浮かび上がり、その口が穏やかに開かれる。いつも見ている、イリスが安心した時の顔だった。

 

 

「……やっぱり君は強い子だな、キリト君。流石の君でも今回は駄目なんじゃないかって思ったんだけど、君はそれさえも乗り越えてみせた。君はいつでも私の予想の上を行くね」

 

「いいえ、イリスさんのおかげですよ。イリスさんが診てくれたおかげで、何をすればいいのかわかったんですから」

 

「そう言ってもらえると、嬉しいよ。だけどキリト君……この事、どうするつもりだい」

 

「どうするつもりって」

 

 

 次の瞬間、イリスの顔から微笑みが消えて、物事を疑問視しているかのような顔になった。それを見た途端、俺はイリスが何を思い付いたのかわかったような気がした。

 

 

「……詩乃の事ですか」

 

「そうだよ。君が《詩乃の記憶》に苦しめられている事を、詩乃は知っているのかい」

 

 

 勿論、詩乃はこの事を知らない。もしもこの事を話してしまったら、詩乃がどんな反応をして、どんな思いを抱くのか、想像するのが余りに容易いからだ。そのため、俺はこの事だけは詩乃に話そうとはしていない。

 

 

「知りません……詩乃には一切話していないんです」

 

「だろうね。君の事だから、詩乃に話さず、私に話したんだろう。だけど、君もわかると思うが、詩乃は好きになった人の変化には結構過敏に反応するぞ。君が不調を起こせば、すぐさま気付くはずだ。というか、今日詩乃と一緒にいたのだから、詩乃はそんな感じだったんじゃないのか」

 

 

 流石、俺よりも長い間朝田詩乃という少女を見ているだけある。今日吐き気を催して吐いた後、詩乃は俺の不調の原因が嘔吐である事にすぐさま気付いてみせた。その現場をイリスは見ていないのだが、やはり長い間見ている詩乃の事だから、わかるんだろう。

 

 

「そんな感じでした。俺がトイレで吐いた後も、トイレで吐いてきたのかって聞いてきて……」

 

「となると、彼女は私の想像を上回るくらいに君の事をよく見ているな。このままじゃ、君が《詩乃の記憶》に苦しめられた事がある事にも気付くな……いずれにせよ、《詩乃の記憶》が異物となっている事を、詩乃に話さなければならないだろう」

 

 

 俺も前からそれは思っていた。この異変の事は、今日はなんとか誤魔化したけれど、いずれは本当の事を詩乃に打ち明けなければならない。だけど、詩乃がこの話をした時にどういう反応をするのかは、簡単に想像出来てしまう。俺にこの話をした時、詩乃は間違いなく傷ついて、間違いなく自分を責め始めるだろう。

 

 

「だけど……この話を聞いた時に、詩乃がどういう反応をするのか……」

 

「本当は私みたいに愛情深い彼女の事だから、きっと自分を責めるだろうな。それも、君が《詩乃の記憶》に苦しめられる度に」

 

「どうすれば……」

 

「こればっかりは、私は何とも言えないね。君自身が《詩乃の記憶》に苦しめられても大丈夫だと言い張れば、或いは彼女も安心するんじゃないかとも思うけれど……難しいな。というよりも、君の中に《詩乃の記憶》があるっていうのが一番の問題だな……」

 

 

 確かに、《詩乃の記憶》に触れた事で俺は詩乃の事がわかるようになったけれど、段々と《詩乃の記憶》は異物化を始めている。意識と認識を強く持つって思ったけれど、やはり《詩乃の記憶》が異物として俺の中に存在しているのは、問題だろう。そう考えたその時に、目の前の精神科医は、何かを思い出したような顔をした。

 

 

「そういえば……そんな研究をしているところが……」

 

「え?」

 

「いやねキリト君。これは聞いた話なんだけど、どこぞの企業がある研究をやってて、それは人間に記憶を操作するようなものらしい」

 

「に、人間の記憶を操作する!?」

 

 

 その言葉を聞いて、俺はある存在を思い出す。人間の記憶を操作する技術を手にして、それを以って様々なところを引っ掻き回し、国家も世界もすべて支配しようとした者――《壊り逃げ男》こと須郷伸之。あいつのやっていた研究もまた、イリスの言うそれと同じだった。まさか、その研究がまだ生きているとでも言うのか。

 

 

「その様子だと、須郷のを思い出したみたいだけど……そうじゃないよ。そうでは、ないらしいんだ」

 

「そうではないって……じゃあ一体……」

 

「私もよく知らないからもっとよく調べてみるけれどさ。それがあれば君の中から《詩乃の記憶》を消す事だって出来ると思ったんだ」

 

「とてもそんな得体のしれないものを使いたいとは思えないんですが」

 

「だろうね。だけど、もしこの話が本当ならば、君は一度は考えておくべきだよ。君の中の《詩乃の記憶》は、異物なのだから……」

 

 

 異物は確かに取り除かなければならないけれど、その記憶を操作する技術なんて言うのも眉唾物だ。そのどこぞの企業は、一体どんなところだというのか。それだけの技術を持って何をするつもりでいるのか……考えれば考えるほど、わからなくなってきた。ひとまずこの事について考えるのはやめよう。

 

 

「話が少しそれてしまったね。問題は、これから君が詩乃と《詩乃の記憶》にどう触れていくかだな。《詩乃の記憶》が君の弊害を与えているのを知った時、詩乃にどう接するか……算段はあるのかい」

 

 

 それならば、俺はとっくの昔からわかっていた。そもそも俺は、《詩乃の記憶》を持ってよかったって思っている。その理由はもはや、言う必要がないくらいだ。

 

 

「イリスさん、確かに俺の中の《詩乃の記憶》は異物です。だけど、この《詩乃の記憶》を持っていること自体は、嬉しいんです。いずれ詩乃に《詩乃の記憶》の事を話したいって思いますし、その時どうすればいいのかも、今ならわかります。だから、その時の事は俺に任せてください。もう俺、大丈夫です」

 

 

 目の前の詩乃の専属医師は、何も言わずにただ俺を見つめているだけだった。月明かりが青白く俺達を照らし、少し開いている窓から風が吹いてきて、俺達の髪の毛を揺らす。そして、イリスの目は水鏡のようになって、変わらずに俺の姿を映し出している。

 

 たがいに口を閉じて数秒。次に口を開いたのは、イリスだった。

 

 

「……治療完了。って事だね。一時はどうなるかと思ったけれど、君はもう大丈夫そうだ」

 

「はい、大丈夫です」

 

「わかったよ。それじゃあ私は余程の事がない限りは、君に詩乃を任せる事にしよう。ただし、どうしても無理ってときには迷わず相談するんだよ。君にだって、限界はあるのだから」

 

「わかってます。今日はありがとうございました。おかげで、どうすればいいのかわかりました。やっぱりイリスさんは頼りになります」

 

「そう言ってもらえると嬉しいよ。私も君達に協力する甲斐があるってものだ。それじゃあ、しっかりと認識を強くするんだよキリト君。もしも駄目な時は、また私のところへ来るといい。また助け舟を出してあげるから」

 

 

 そう言って、イリスは朗らかに笑んだ。SAOの時からずっとそうだけど、やっぱりいざとなった時はこの人は頼りになる。たまたまアーガスのスタッフだったり、たまたま詩乃の専属医師だったりと、偶然が重なった結果なんだろうけれど、この人と仲間になれてよかったって本当に思う。

 

 そんな事を考えながら椅子に座ったその時に、イリスは何かを思い出したような顔に、もう一度なった。

 

 

「あ、そうだキリト君。実は前から言おうと思ってた事があるんだけど」

 

「えっ、なんですか」

 

「私はね、正直君が詩乃の元に来てくれて本当によかったと思うんだ。もし、君が詩乃と出会わなかったならば、君は私の元に来る事もなければ、私と出会う事さえなかったんだからね。そして私と出会った君は、何度も私の想像を超えるような事をして、驚かせてくれた」

 

 

 確かに俺とイリスの出会いのきっかけは、元はと言えば詩乃だった。詩乃と出会ったから、その専属医師であり、アーガスの元スタッフの一人であるイリスと出会い、様々なアドバイスや協力を得る事が出来た。よくよく考えれば、今こうしてイリスと話が出来ているのだって、詩乃のおかげだ。

 

 

「いいえ、全部詩乃のおかげですよ。イリスさんと出会えたのも、きっかけを作ってくれたのは結局詩乃ですし……」

 

「そう、君は詩乃の元に現れた白馬の王子様。そして元SAO最強のプレイヤーだ。そんな君は誰よりも素敵だって、私は思う。だからね……」

 

 

 その時、イリスの手が俺の頬に伸ばされ、顔をぐっと近付けてきた。吐息が当たるくらいのところまで来たところでイリスの顔は止まり、そこで口が静かに開かれた。

 

 

 

「私ねぇ……息子が出来るなら、和人がいいなぁ」

 

 

 

 その言葉を聞いた途端、俺は全身を正体が掴めない戦慄が駆け巡ったのを感じた。まるで血が凍り付いたように、ぞくぞくと背筋に強い悪寒が走り、喉から小さな声が漏れる。

 

 

 息子が出来るなら、俺がいい――どういう事だ。どういう意味なんだそれは。

 

 

 確かに、自分に子供が出来るなら、ある人みたいな子供が欲しいみたいな事を言う人はたまにいる。この人も女性だから、子供の事とかも考えているんだろうけれど、()()()()()()()()()()()のではなく、()()()()()()()()()()って言っているような気がしてならない。

 

 俺は凍り付きそうになっている口をかろうじて動かしながら、言葉を紡いだ。

 

 

「ど、どういう、意味、ですか、それ」

 

 

 目の前の女性精神科医は、口角を上げて俺の事を見つめていた。先程と同じ色をしているはずなのに、異様な怪しさを持つその瞳に吸い込まれそうになったその時に、イリスは何も言わずに俺から離れていった。

 

 次にどんな言葉が出てくるのか――それが気になってじっと見つめていると、イリスはステータスウインドウを開き、中を注視した。

 

 

「……もう夜の11時半だ。ログアウトした方がいいぞキリト君。明日からまた学校だろう」

 

「え、あぁ、はい」

 

「私も明日からまた仕事なんでね、悪いけどこれでログアウトさせてもらうよ。詩乃の事、よろしく頼んだからね」

 

 

 イリスはそう言うと、そそくさとログアウトコマンドを呼び出して、そのままOKボタンをクリック。全身を水色の光に包み込ませて、そのままこの妖精の世界を脱して行った。

 

 イリスが借りたはずの、月明かりが満ちる部屋には俺だけが残され、俺はしばらくの間身動きが取れなかった。

 

 

 


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