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俺は今、商店街を後にして宿屋の前に戻って来ていた。先程所持品を確認してみたところ、最近攻略が続いているためなのか、回復アイテムや魔法アイテム、結晶アイテムなどがかなり消費されている状態にあった。このままダンジョンに向かおうものならば、たちまちアイテム切れを起こしてしまうだろうと思った俺は、商店街の道具屋に直行し、そこで回復アイテムを一通り買い揃えたのだった。
その時、所持金が少し気になったけれど、様々なクエストをこなし、いらない武器をエギルの経営する質屋に売ったりしていたためか、消費された所持金の額は全く大したことがなかった。まぁ、回復アイテムをそろえる度に金欠になっているようでは、全くやっていけないのだから、この状態は当然と言えば当然なのだが。
だけど、これでダンジョンに挑む事が出来る。せっかくの自由時間だから、ソロでダンジョンに行くとしようか――そう思いながら宿屋に入ったその時に、俺は少し驚く事になった。
北欧を思わせる内装が特徴的な宿屋のエントランスホールの中、そこの一角のテーブルに、俺の娘であるユイ、その妹であるストレアとアスナの息子であるユピテル、そして相棒であるリランの姿があったのだが、そこに一人だけ、それらとは違う人が混ざっている。
長く艶のある黒髪に白いコートを身に纏った、ストレアのように胸が大きくて赤茶色の瞳をしている、背の高い女性。その名を呼ぼうとしたその時に、ユイが俺に気付いて、手を振ってきた。
「あっ、パパ!」
ユイの発言の直後に、俺が見ていた全員が振り返り、その女性も同じように振り向いて、俺と目を合わせてきた。そこでようやく、俺はその人の名前を呼んだ。
「イリスさん」
「やぁキリト君。やっぱりログインしてたんだね」
俺はすぐさま、ユイ達の元へ駆け付けて、イリスと向き合った。この世界では、現実世界とアバターが異なった姿をしているケースが多いけれど、やはりイリスは現実世界のそれとほとんど同じ姿をしている。
「イリスさんこそ、ログインできる余裕があったんですね」
「あぁ。仕事がいい感じに進んでいてね。こうして休日にはALOにログインできるようになったんだ。これからは高い頻度で君達と遊べそうだ」
そう言うイリスの足元には、一人の少女の姿があった。赤紫がかった銀色の長い髪の毛と、髪飾りと白い服が特徴的な、髪の毛と同じ銀色の目の少女。リランとユピテルの妹であり、ユイとストレアの姉に当たるクィネラだった。
ユイよりも身長が小さくて、あどけなさと可愛さを感じさせる容姿に見惚れていると、その目が俺に向けられ、顔に笑みが浮かべられた。
「キリトにいさん」
「あぁ。クィネラも来てたんだな。また会えて嬉しいよ」
そう言ってやると、余程俺と会えたのが嬉しかったのか、クィネラの顔に満面の笑みが浮かび上がった。それを見ているだけで、俺は自分の顔が自然と笑んだ事を感じ取った。しかし、クィネラと笑い合ったのはほんの数秒程度で、俺はすぐに顔を上げて、その親と言える人物であるイリスと向き合った。
「イリスさんは、いつログインしたんですか。さっきまでは居なかったみたいですけれど」
「ログインしたのはものの数分前だよ。いつもと同じように前回と同じ場所からスタートして、部屋の外に出たら、ユイ達とばったり会ってね。軽く話をしていたところに、君が現れたってわけだ」
ふふんと笑うイリス。そういえば前から思ってはいたけれど、イリスのまつ毛は比較的長いように感じられる。アバターがそういうふうに設定されているのか、それとも元から長い体質であるから、自分からそういう設定にしたのか――そんな事を考えながらイリスの顔を見ていると耳元にユイの声が届いて来た。
「あ、そうですパパ。これから、パパに大事な話をしようと思ってたんです」
「大事な話? 何かあったのか」
「はい。というよりも、わかった事があったんです。だけど、ここだと話し難いので、場所を変えたいのですが……」
「話し難い事って……随分と深刻な話みたいだな」
ユイの顔が少しだけ険しさを帯びる。SAOに居た時にもあった、世界そのものに関するとか、とにかく重要な事を話す時の顔だ。
「その様子だと、あの世界の事みたいだな」
「はい。ちょっと他のプレイヤーに聞かれるとよくないので……どこか良い場所、ありますか」
「なら、私の使っていた部屋を使おう。私はまだ鍵を持っているし、部屋の中なら盗み聞きされる心配もない。それにその話、私も混ぜてもらっていいかい。これでもあの世界の開発者の一人なんでね」
確かに、あの世界の事ならばユイ達は勿論イリスもよく知っているし、ユイ達の話で分からない事が出て来た時には、イリスがよく答えてくれる。話の中にイリスを加えておく価値は、かなり高いのだ。それはイリスの娘の一人であるユイも承知していたようで、イリスに向き直りつつ、頷いた。
「わかりました。それじゃあ、イリスさんのお部屋をお借りしますね」
「いいだろう。ついておいで」
そう言って部屋に向かって歩き出したイリスの後を、俺達は追いながら歩いた。そうして辿り着いたのは、前にイリスから診察を受けた時の部屋。その部屋の中に入って扉を閉めると、イリスは人数分の椅子を運んで来てテーブルの近くに並べ、一番最初に座った。
それに続いて同じように座った頃、イリスは下腹部の前で手を組むという、話す姿勢をした後に、その口を開いた。
「さてとユイ。君の言うあの世界っていうのは、アインクラッドの事で間違いないんだよね」
「はい。今はもうありませんけれど、アインクラッドについてです」
アインクラッド。茅場晶彦が作り上げ、2年以上俺達を閉じ込めていたデスゲームの舞台である、もう一つの現実世界。そこは今解体され、ネット世界のどこにも存在していない状態になっているが、あの世界は未だに謎が多く、気になる事が沢山ある。だからこそ、かつてのアインクラッドについての話には、とても興味があるのだ。
「それで、どんな話なんだ」
「それなんですけれど、まずはおねえさん、お願いします」
ユイの隣にいる俺の相棒、リランは頷いた後に俺と顔を合わせてきた。相変わらず、その瞳は紅玉のように紅くて美しかった。
「キリト、我がまだマーテルという名前であった頃、破損した自分を治すために、没データに手を出したという話はしたよな」
「あぁ。SAOに居た時に俺が人竜一体出来てたのは、そのおかげなんだよな。そして、お前が今その姿をしているのも、没データの作用なんだろ」
リランのリランという名前は、俺が与えたもので、本名は別にある。リランの本当の名前はマーテルというもので、その正体はユイ達MHCPの元となった超高度AIメンタルヘルス・ヒーリングプログラムこと
「そうだ。しかし、我はずっとその没データのエリアが気になっていてな。お前が学校に行っている間に、ユイに我の記憶の解析を頼んだのだ」
「記憶の解析だって? そんな事が出来るのか」
「出来るよ。アタシ達はあくまでAIだから、記憶だってデータ。だから、解析を駆ければどういう記憶なのか、わかるんだよ~」
横からのストレアの説明を受けて、俺は妙な納得を感じた。確かにリラン達は人間そっくりに出来ているものの、AIであるから中身は全てデータなのだ。だから、記憶なども解析をかけて詳細を把握する事が出来るのだろう。これは、AIの特権だと言える。
「なるほどなぁ。それで、何かわかったのか」
「はい。どうやらおねえさんが利用した没データの倉庫は、ただの倉庫ではなかったみたいなんです」
説明する人がリランからユイにバトンタッチすると、ユイの顔が少し険しいものに変わった。いよいよ、核心に突入するらしい。
「おねえさんの使っていた没データ倉庫……そこは没データを投げ込んでおくゴミ箱みたいなところではなくて、開発テスト用の秘匿エリアだったんです」
「開発秘匿エリア? どういう事だ」
「あぁそうか! やっぱりそう言う事だったのか!」
急に何かを閃いたようになったイリス。突然のその声に驚いて、俺は思わずそっちに向き直ってしまった。
「イリスさん、どういう事なんですか」
「開発秘匿エリアっていうのは、開発中の新しい要素とかを実装するために様々な実験を行う場所の事だ。あのゲームも茅場さんがデスゲームにするまでは、普通のVRMMORPGとして開発されていたから、RPG的な要素が沢山あった。没データも存在はしたが、これからアインクラッドに導入するものとかも、リランの言う倉庫にまとめてぶち込まれていたんだ」
「SAOに登場していたアイテムや武器やスキルは全て、実装前にはテストされて導入されているんです。どんな小さなものでも、使われ方とかで、時には大きな不具合を起こす可能性がありますから、不具合とかが無いように実験するんです。データを保存しておくと同時に、実験をするための場所が、おねえさんのいう倉庫です」
イリスに続いて淡々と説明するユイ。SAOに居た時もそうだけど、ユイはイリスの特徴がいくつか見られる時がある。それを見る事で俺は毎回、ユイはイリスの作ったものだと認識し直す。
そして、SAOに居た時の姿であり、今は新たなる姿を与えられているリランの女帝龍のデータ。ユイの話から考えるに、きっと女帝龍も没データではなく、今後アインクラッドに実装される予定だったデータなのだろう。
「なるほど。未実装データのたまり場が、リランの言う倉庫だったって事か。なんかわかった気がするよ」
「要するにそう言う事だ。そして我、ユピテル、クィネラの三体のMHHPもそこの一角に封印されていた。更に、この未実装データ置き場は、フィールドのデータや街のデータさえも内包していてな。まるで一つの世界のようだったことを、記憶を取り戻している今なら思い出せる。
実装される事なく放棄されたデータのたまり場……名付けて、《ホロウエリア》と言ったところか」
てっきり、未実装エリアに内包されていたのはモンスターデータだとか武器データとかばかりだと思っていたから、フィールドや街のデータさえも内包されていて、尚且つリラン達の封印の場でもあったという事実にはさすがに驚いた。――そんな俺の顔を見て、《ホロウエリア》に唯一立ち寄っているリランがすんと笑んだ。
「なんだ。如何にも《ホロウエリア》のデータ達が実装されなかったのがもったいないと言った顔だな」
「だってそうだろ。それだけのデータがあったなら、一つや二つ、三つくらい実装されてても良かったじゃないか。お前のデータの中の女帝龍だって、元々は実装される予定のデータだったんだろ」
「そうだ。しかし、未実装という事は、未実装のデータ達はアキヒコの作る世界に不必要だと判断されたものだったという事だ。アインクラッドは、いや、ソードアート・オンラインは、アキヒコが自分の思う世界を作り出したいという願いを叶えようとした結果、産み出された世界であり……人の命を奪い取るデスゲームだったのだからな」
そこで、アキヒコ/茅場晶彦の元でリラン達を開発して、アインクラッドに実装したアーガスの元スタッフの一人であるイリスが、深々と溜息を吐いた。目を向けてみれば、感慨にふけっているような表情がその顔に浮かんでいるのがわかった。
「本当の事は茅場さんだけが知ってたのさ。私達はただ、普通のオンラインゲームを作っているだけだった。出来上がったゲームが茅場さんに支配されたデスゲームになるなんて、本当に誰一人として予測できなかったんだから。
茅場さんも酷い事をするものさ。リランやユイ達を、《ホロウエリア》に没データや未実装データ達と一緒に閉じ込めてしまったんだから」
あの出来事に一番ショックを受けていたのも、きっとイリスだろう。何回も聞いているけれど、SAOに居た時から茅場の計画に気付けなかった事をずっと悔やんでいたし、俺達をSAOに閉じ込めた事を申し訳なく思っていた。――そんなふうに思っているという事は、イリスはやはり、純粋にゲームとAIを作っていただけだったのだ。この人もある意味、SAOの被害者の一人と言えるだろう。いや、実際そうなのだが。
そんな事を考えてイリスを見ていると、娘の一人であるユイが声をかけてきた。
「パパ、《ホロウエリア》の事はわかりましたね」
「あぁ。未実装データや没データのたまり場で、リラン達が茅場に封印されていたところ、だな。ここまでは、ユイ達の説明のおかげでわかったよ」
「それはよかったです。だけど、重要なのはここからなんですよ」
微笑みが浮かんでいたユイの顔が再び険しいものに変わる。《ホロウエリア》の事も重要な話だったけれど、ここからは更に重要な話となる事が、すぐにわかった。
「パパ、《ホロウエリア》が、倉庫であると同時に実験場であると、さっき言いましたよね」
「あぁ。何でもテストしなきゃ実装できないんだろう。そのためのテスト場が、《ホロウエリア》……」
その時に、俺はふと疑問点を抱いた。そもそも、《ホロウエリア》へ誰が侵入出来て、尚且つデータの閲覧やこれから実装されるものの実験をやっていたというのだろうか。もし、SAOが普通のオンラインゲームだったら、誰が《ホロウエリア》を使う予定だったというのだろう。数々の疑問に襲われて、俺は咄嗟にユイに問いかける。
「待てよ。なぁユイ、そもそも《ホロウエリア》には誰が立ち入り出来るんだ? そして、誰がこれから実装されるアイテムやデータのテストとかをやるんだったんだ? 俺達の中には、《ホロウエリア》に入れた奴なんか、いなかったぞ」
「《ホロウエリア》に入れたのは、私や当時のおねえさん、
マスターアカウントという言葉を聞いて、俺はある人間を一人、頭の中に浮かび上がらせた。最初は俺達の仲間としてやってきたけれど、後々すべての黒幕だった事がわかり、アインクラッドの魔王として君臨したレクトの人間。
「……マスターアカウント……須郷だな。あいつは俺達が見てない間にマスターアカウントを使って《ホロウエリア》に入って、データを持ち出してたんだ」
「はい。100層のあの時パパ達と戦った《皇帝龍》は、須郷伸之が《ホロウエリア》から持ち出してアインクラッドに実装されたものでした。そして、須郷が作ったムネーモシュネーの本拠地も、てっきり上層のマップデータを利用して作ったものだと思ってたんですが、それも《ホロウエリア》のものでした」
「《ホロウエリア》のデータばっかだな、あいつって。マスターアカウントを使える事を良い事に、《ホロウエリア》の強いデータを実装しまくってたって事だな」
「はい。まぁ、全てパパ達で倒したからよかったんですけれど、問題はここからです。パパは今、誰が未実装データの実験をしていたのかが疑問なんですよね」
「そうだけど……なぁ、本当に誰がやってたんだ? プレイヤーも入れなければ、管理者も入ってこない。それとも、実装するための実験なんてされてなかったってパターンか?」
そこでユイは首を横に振り、イリスをちらと見た後に、俺に目を向け直した。イリスは少しきょとんとした顔で、ユイを見つめて始める。
「どうしたんだい、ユイ」
「……少し不気味な話なんですが、おねえさんの記憶を細部まで調べたところ、《ホロウエリア》の履歴みたいなものも一緒に出てきまして、それによると、どうやら《ホロウエリア》にあるデータ達のテストは、実験者が居ないまま独りでにテストが行われていたみたいなんです」
「実験者がいないのに、実験が行われていた? どういう事だ、それって」
「簡単に言えば、
「それって……」
そこで、リランが腕組みをしつつ、険しい表情を浮かべながらその口を開いた。
「……今考えると恐ろしい光景だったのだが……管理者以外入る事の出来ない《ホロウエリア》、プレイヤーが一人もいない実験場で実験を繰り返していたそれは、アインクラッドのプレイヤーIDを参照して作成された、プレイヤーを忠実に再現したAI群だったのだ」
その言葉に、イリスと一緒に驚く。確かにSAOにはモンスターやNPC、リランやユイと言った実に様々なAI達が実装されていたけれど、それ以外の存在があったとは思ってもみなかったし、予想さえしていなかった。
「プレイヤーを忠実に再現したAI? そんなものを作り出す機能さえ、《ホロウエリア》にはあったっていうのか」
「はい。恐らくですが、イリスさんの開発したAIシステム、NPCなどに搭載されているAIシステムを応用したものが、《ホロウエリア》には搭載されていたと思われます。そのシステムがプレイヤーIDを参照して作り上げたAI達が、《ホロウエリア》でデータの実験を行っていたんです。プレイヤーを忠実に再現した理由は、恐らくその方が実験をするのに都合がいいと思われたからだと思います」
そこで、AIシステムを作り上げた張本人であるイリスが下を向きつつ気難しい顔をする。その様子は、自分の予期せぬところで自分のシステムが使われていた事を初めて知ったような感じだ。
「私の作ったAIシステムが、そんなところに応用されていたとは……やっぱり社のデータベースに乗せとくんじゃなかったな……そして、《ホロウエリア》に生きるAI達か。ここではそれらの事をホロウデータとでも呼んでおくか」
イリスが勝手に《ホロウエリア》のAI達に名前を付けたのを気にせずに、ユイは俺に向き直る。
「それで、これが一番重要な話です。おねえさんの中から出てきた《ホロウエリア》の利用履歴を確認したところ、おねえさんとおにいさん、須郷以外の誰かが《ホロウエリア》にログインして、尚且つホロウデータの一つを回収し、アインクラッドに持ち込んだみたいなんです」
ちょいと、2分割。