キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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13:思い、ぶつけて

 スマートフォンの放つ音楽で、詩乃は目を覚まして、上半身を起こした。その際に周囲を軽く見まわしてみれば、部屋の中は夜のように暗くて、全てのものが黒青色に染まっていた。いや、窓際のカーテンの隙間から、街灯りが薄らと明かりが差し込んできているため、夜のように暗いのではなく、本当に夜になっているのがわかった。

 

「……あれ」

 

 

 詩乃は軽く頭を抱えて、ここに至るまでの記憶を思い出す。確か、スーパーマーケットに出かけて粗方買い物を済ませた後に、明日奈に出会って、そのまま明日奈をこの部屋に連れ込んだ。そしてある程度話をした後に明日奈を帰して……その後、眠気がひどくなったので、ベッドに寝転んで、眠ったのだった。どうやら、そのまま夜になるまで眠ってしまっていたらしい。

 

 こんな時間になるまで眠ってしまうなんて――ぼんやりとそんな事を考えながら、自分の目を覚まさせてくれた、音楽を鳴らしているスマートフォンの方に目を向けてみたところで、詩乃の意識は完全に覚醒する。てっきりタイマーやアラームが鳴っているのではないかと思ったけれど、スマートフォンは今、電話を受けており、ディスプレイにはある名前が表示されていた。

 

 それは、もう会えないと思っていた、愛する我が子である、ユイ。

 

 

「ユイ……!?」

 

 

 どうしてユイが――今度はそう思いながら、詩乃はスマートフォンを手に取り、通話開始ボタンをタップして、耳元にあてた。スピーカーの奥から、もう聞けないと思い込んでいた声が、届けられてきた。

 

 

《ママ、聞こえますか》

 

「ユイ……」

 

《あっ、ママ……よかった、ちゃんと電話出来てるみたいですね》

 

 

 安堵するような娘の声。考えてみれば、ユイも突然自分と離ればなれになってしまったから、もう自分に会う事は勿論の事、声を聞く事も出来ないと思っていたのだろう。そんな中で自分の声を聴く事が出来たものだから、安心できたのだ。……そう思うと、何だか心の中がずきずきと痛んだが、何とか呑み込んで、詩乃はスマートフォンの向こうの娘に話しかける。

 

 

「ユイ、どうしたの。急に電話して……」

 

《わたし、ママに聞きたい事があります。今、ALOに来れますか》

 

「ALO……?」

 

《そうです。わたし、ママとお話ししたいんです》

 

「話なら、電話で出来るじゃない」

 

《電話じゃ駄目なんです。直接、ママと会って、お話がしたいんです。だからママ、お願いです、アミュスフィアを使って、こっちに来てください》

 

 

 ユイにしてはかなり力強い声。その事から、ユイの願いがかなり強い事を、詩乃は自然と把握する。確かにユイはいきなり自分と会いたいと思っても会えないような状態に置かれて、それを続けさせられていた。ユイは意外と我慢強い子だから、最初の方はある程度我慢できていたのだろうけれど、もうそれも限界にきているのだろう。だが……。

 

 

「わかったわ。でも、ユイ、私も聞きたい事があるわ」

 

《はい?》

 

「そこに、キリトは、パパはいない? 私、パパとは会いたくないの」

 

《パパは、はい、いません。ママと二人で話したいから、パパはいませんよ》

 

「そう……じゃあ、私もそっちに行くわね。どこで待ってるの」

 

《空都ラインの宿屋です。そこで待ってますから、ママ、来てください》

 

 

 キリト/和人と会うのは、和人の精神を摩耗させてしまうから駄目だが、ユイとならば話が出来る。これまで自分と会うのをお預けにされていたユイだ、きっと自分と会った時には喜んでくれることだろう。その時のユイの喜びに満ちた顔が容易に想像出来て、詩乃は久々にアミュスフィアを起動させようというやる気を感じた。

 

 

「わかったわ。それじゃあユイ、今から会いに行くから、ちょっと待ってて頂戴ね」

 

《はい!》

 

 

 元気の良いユイの返事を聞くと、詩乃はひとまず通話を終了し、スマートフォンを置くと、ベッドから降りてテーブルに向かう。普段はあまり物を置いていないテーブルには、三日前にベッドに投げつけたアミュスフィアが置いてある。あの時叩き付けてしまったから、壊れてしまっているのではないかと、詩乃は一瞬不安を感じたが、ユイを期待させてしまっているため、ALOへ行かないわけにはいかない。立ち止まるわけには、いかないのだ。

 

 どうか、壊れてませんように――そう心の中で願いながら円環を二つ重ねたような形状の、妖精世界への入り口の装置の電源コードの先端をコンセントに差し込み、電源ボタンを押してみると、軽い起動音と共に、電源ランプが点灯した。妖精世界への入り口は閉ざされていなかった事に、詩乃は安堵感を抱くと、それを頭に装着して、ベッドに仰向けになって寝ころんだ。

 

 いざこざはあったけれど、久々に娘に会う事が出来る。その喜びを噛みしめながら、詩乃はゆっくりと目を閉じ、それからゆっくりと息を吸って、異世界へ行くための呪文を唱えた。

 

 

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            □□□

 

 

 

 呪文を唱えて、次に目を開くと、そこに広がっていたのは日本では絶対にありえない大きな西洋風の建物が並んでいて、街路を様々な種族の妖精達が行き交っている、光景だった。それを目にする事で、アルヴヘイム・オンラインの中に来れた事を、そして現在地が転移門前である事を、詩乃/シノンは確認した。ここに来るのは三日ぶりなのだが、一年ほどログインできなかったような気がしてならない。

 

 それほどまでに、この世界はシノンの日常から離れたものとなっていたのだった。

 

 

(だけど……)

 

 

 確か、前にログアウトしたところは路地裏だったような気がする。なのでログインすれば路地裏から始まるはずなのだが、現在地は転移門前。どうやらログアウトしてからかなりの時間が経過していると、次からのスタート地点が転移門前になるように、ゲーム自体が設定されているようだ。ALOを始めてから結構経っているし、このゲームの仕様もそれなりに理解しているつもりだったが、この点は初めて知る。

 

 けれど、丁度いい。ここならばすぐに宿屋に行く事が出来るから、ユイを待たす事なく会う事が出来るだろう。ユイと会うのは三日ぶりになるけれど、ちゃんと元気にしているのだろうか――そんな事を考えて、出会った時のユイの顔を楽しみにしながら、シノンはそれなりの足取りで宿屋の方へ向かった。

 

 それから二分ほどで、シノンは宿屋に辿り着いた。エントランスホールには沢山のプレイヤー達がいたが、その中を見回してみると、見慣れた姿を見つけられた。他のどのプレイヤーよりも背が低くて、黒くて長い髪の毛が特徴的な、ワンピースに似た形状の服を纏っている少女。まさしく、これから会おうとしているユイだった。

 

 

「ユイ!」

 

「あっ、ママ!!」

 

 

 声をかけると、ユイもまたシノンの姿を見つけて、とたとたと走って接近するなり、動作でシノンの胸の中に飛び込み、力強く抱きついた。そんなふうに飛びついてきた、もう会えないかもしれないと思っていた娘の身体を、シノンはぎゅうと抱き締める。

 

 

「ユイ……」

 

「ママ……もう会えないと思ってました」

 

「私も、そう思ってたわ。ごめんなさいね、こんな事になってしまって……」

 

 

 そう言ってシノンはユイの頭を撫で上げ、同時にユイはシノンの胸に頬を擦り付ける。もうできないと思っていた親子のスキンシップがもう一度出来た事に、シノンが喜びを感じると、ユイはシノンの胸から離れて、その目をシノンと合わせる。

 

 

「ママ、わたし、ママとお話ししたいです」

 

「ええ、わかってる。それで来てって言ったんだもんね」

 

「はい。それで早速ですけれどママ、部屋の方に来てくれませんか」

 

「ここじゃあ駄目なの」

 

「はい。二人でじっくり、誰にも聞かれないでお話がしたいんです。だからママ、お願いです。一緒に来てくれませんか」

 

「いいわよ。せっかく三日ぶりに会えたんだし、じっくり話しましょう」

 

 

 シノンが頷くなり、ユイは笑顔になって同じように頷き、「こっちです」と言って宿屋の奥の方へと歩き出した。その後を追ってシノンも、ユイの後姿を見ながら歩き出す。ユイと会うのは何度も言っているように三日ぶりなのだが、その三日ぶりに会うユイは、一体どのような話を自分とするつもりでいるのだろう。最近ALOで起きた事とか、そういう楽しい話だろうか。

 

 

(……いや)

 

 

 冷静に考えてみれば、そんなわけがない。あの時自分はユイに何も言わないで、ユイの目の前から消えた。きっとユイは、部屋で二人きりになったところで、どうしてこんな事になってしまったのか、どうしてこんな事をしているのかと、問いかけてくるはずだ。楽しい話をする事など、無いだろう――そんな考えているうちに、シノンは自分の顔が強張ったのを感じたが、それのほぼ直後に目の前のユイは歩みを止めた。

 

 気付けば、ユイが用意したであろう部屋の前に、辿り着いていた。

 

 

「……ユイ」

 

「ママ、部屋に着きました。入りましょう」

 

 

 ユイの顔は先程と同じ笑顔だった。一目見ただけでは、これから楽しげな話をしそうだと思いそうだけれど、これまでの経緯から考えて、そんな話をユイがするとは思えない。ユイはきっと、これ以上ないくらいに険しい話をしようと考えているのだろう。だが、ここで逃げ出す事なんて出来やしないし、第一そんな事をユイにしてしまうのは、シノン自身が許せなかった。

 

 

「わかったわ」

 

 

 一言そう言って、ユイの開いたドアの中へシノンは進んだ。部屋の中はいつも使っている宿屋のそれと全く変わりのない場所だったが、そこで普段宿屋にはないものを見つけて、言葉を失う事になった。

 

 

「あ……!」

 

 

 いつも使っている部屋と変わらない内装の広がるその中に居たのは、黒い髪の毛に線の細い顔をして、黒いコート状の服を身に纏った、影妖精族スプリガンの少年。今となっては絶対に会ってはならない――いや、会いたくない、キリトだった。

 

 どうしてキリトがここにいるんだ、会いたくなかったのに――そう思っていると、キリトは部屋にやってきたシノンをすぐに見つけて、その口を開き、シノンの名を呼んだ。

 

 

「……シノン」

 

 

 久々に聞いたその声にハッとすると、シノンは部屋を出ようと思って咄嗟に振り返ったが、そこでもう一度驚く。話がしたいからとわざわざ現実世界に電話をかけてきて、ここまで連れてきた張本人であるユイが、しっかりとドアに通せんぼをしていたのだ。その顔は先程までのような笑顔ではなく、険しかった。

 

 

「ユイ……!」

 

「ごめんなさいママ。私はママに嘘を吐きました」

 

「なんでよ……!」

 

 

 ユイは一瞬すまなそうな顔をしてから、もう一度険しい顔をして、シノンに向き直った。そのあまりに凛とした顔に、シノンは言葉を詰まらせて、口を閉じる。

 

 

「ママ……わたしからのお願いです。もう一度、パパとしっかり話し合ってください。パパとのお話が終わるまで、絶対にログアウトしないでください。逃げないで……パパと話し合って、ください!」

 

 

 そう訴えるなり、ユイはドアを開き、一瞬のうちに部屋を出て、ぴしゃりとドアを閉じてしまった。ドアノブに手をかけて回そうとしても、まるで動く気配がない。ユイが内側からドアとドアノブを抑えつけて、ほぼ外から鍵をかけてしまっている状態にしてしまっているらしい。しかも、その鍵はかなり強くかけられているようで、どんなに開こうとしても開かなかった。

 

 完全に、閉じ込められたようだ。

 

 

「……シノン」

 

 

 もう一度聞こえてきた声。すごく聞き慣れた、声。それを耳に入れるなり、シノンは歯を食いしばり、閉ざしていた口を開いた。

 

 

「……ユイを使ったのね。ユイに言って、私をここに……」

 

「……うん」

 

「酷い事をするものね。あの子を利用するなんて……」

 

 

 キリトの方には振り返らず、ドアを見たまま、シノンは声を低くしながらキリトに言う。

 

 

「あんたと話したい事なんかないわ。もうログアウトする」

 

「ログアウトするなってユイが言ってただろ。それに、例え君が俺に話す事がなくても、俺は君に言いたい事があるし、聞きたい事だってある」

 

「……聞きたくない。口を塞いでよ」

 

「その要求は飲めない」

 

 

 そう言ってから、キリトはシノンにゆっくりと歩み寄った。直後、シノンは耳をぴくぴくと動かしてから、口を開く。

 

 

「近付いて来ないで。もうあんたと話すのは嫌なのよ」

 

「……今、君は俺の事をどう思ってる」

 

 

 突然のキリトの問いかけを受けて、シノンは一瞬だけきょとんとする。その時、いつもの癖で振り返りそうになったが、なんとか抑え込んで、ドアの方を向いたままを維持した。直後に、キリトの声が再度耳元に届けられてくる。

 

 

「今、君は俺をどう思ってるって聞いてるんだ」

 

「……あんたをどう思ってる? そんなのあんたが一番わかってるでしょ」

 

「わからない。わからないから、聞いてる」

 

 

 そこで、シノンはぐぅと歯を食いしばった。さっきから態度でわかるように接してやっているというのに、キリトはわからないだなんてほざいてくる。もう声を耳に入れる事だって嫌だっていうのに、全く引き下がろうとしない。そんなキリトにいら立ちを覚えて、シノンはついにキリトに振り返り、その目をキッと睨みつける。

 

 

「じゃあ教えてあげるわ。あんたなんか大嫌いよ。この世界の誰よりも大嫌いよ。今すぐ目の前から消えて欲しいくらいに、大嫌いよ!!」

 

「本当にか」

 

「本当によ。しつこいわね」

 

 

 そこでキリトは口を閉じてじっとシノンの瞳を見つめた。今すぐにでも、シノンはキリトから目を逸らしたい気持ちになったが、キリトの眼光は予想以上に鋭くて、なかなか目を離す事が出来なかった。それから数秒した後に、キリトの口は再び開かれた。

 

 

「……アスナから聞いたよ。君、俺と別れて、せいせいしてるんだってな」

 

「……えぇ」

 

「俺が嫌いだから、俺が嫌いになったから、俺から離れられて嬉しいんだってな」

 

「えぇ」

 

「それで今、学校来てないんだってな」

 

「えぇ」

 

「……じゃあ、なんでだ」

 

 

 突然の問いかけに、シノンは眉を寄せる。キリトは表情をいくらも変えずに、もう一度その口を動かす。

 

 

「じゃあなんで、君は学校に行かないんだ。あんなに通うのが楽しいって言ってた学校に、なんで行かないんだ。

 それだけじゃない、どうして君は、どんどんぼろぼろになっていっているんだ。嫌な事もなくなって、嬉しい事ばっかり続いているはずなのに」

 

「……」

 

「それで、君はそれを治そうともしてないんだってな。どんどんぼろぼろになっていって、このままじゃ死ぬみたいだな」

 

「……別にいいでしょ。あんたはもう私と付き合ってるわけじゃない。寧ろ私の事だって嫌いになったでしょ」

 

 

 そこで、キリトの表情に動きが出た。少し、力んだような感じだった。

 

 

「なんで、君は死にそうになってるんだ。望んだ結末を手に入れたはずなのに、どうしてそんなに苦しそうにしてるんだ」

 

「……ほっといてよ。もうあんたには関係のない事でしょうが」

 

「ほっとけない。君が死にそうになってるんだから」

 

 

 次から次へと来るキリトの言葉を聞いているうちに、シノンは胸の中で膨張するものがある事に気付く。その正体は上手く掴めなかったが、キリトの声を聞く度に、キリトに話しかけられる度に大きくなっていっている。

 

 

「私の事なんてもうどうでもいいでしょうが。私達の関係はもう終わったの。私達はもう別れたの。だからもう、もう来ないで。もう話しかけないでよ」

 

「……シノンッ」

 

 

 呼びかけられた瞬間、シノンの胸の中で膨れ上がっていたものは、一気にその大きさを増していき、空気を入れられ過ぎた袋のようになって、やがて、破裂した。それを感じ取ったシノンは口を開き、絶叫するように言う。

 

 

「ほっといてよッ!! もう声を出さないで! 話しかけないで! 私の目の前から消えてッ! 顔を見せないで! 消えてよ消えてよ消えてよ消えてよ、キリトなんて消えちゃえッ!!!」

 

 

 直後、シノンは突然壁に押し付けられたような感覚を感じて驚き、目を閉じた。次に目を変えた時には、壁に背中を付けており、目の前にはキリトの顔があり、両手はキリトの手によって壁に抑えられた状態になっていた。余りに突然の事に混乱しながら、目の前のキリトの顔に向かって怒鳴り付けようとしたその時、キリトの方が先に言葉を紡いだ。

 

 

「いい加減にしろッ!! 詩乃ッ!!!」

 

「……!」

 

 

 キリトの怒声が耳の中いっぱいに響き渡り、シノンは思わずびくりとしてしまい、動きを止めた。あまりに大きな声だったから、もう一度来るのではないかと身構えると、今度はキリトは、小さく口を動かした。

 

 

「……君は、俺が何もわかってないって思ってるのかよ。君の事を、何もわかってないって、思ってるのかよ」

 

「……」

 

「……確かに、俺は前までそうだったよ。君の事なんか本当は何一つ理解しちゃいないのに、理解した気になって、君と過ごしてた。だけど、今なら全部わかるんだよ。君が今どういう思いをしてるのか、どうして君がこうなってるのか、全部」

 

 

 言うなり、キリトはシノンの手を抑えたまま、下を向いた。その様子をシノンはじっと見つめ続けるだけになり、何もキリトに言わなくなる。それを察知したのか、キリトは下を向いたままゆっくりと、その口を再び開く。

 

 

「……君には、癖がある。我慢しなきゃいけない、耐えなきゃいけない事に直面すると、我慢するために、自分に嘘を吐いて、言い聞かせるっていう癖が。これはあの事件以降、周囲に弾圧されるようになってから、身に着けたものだ。そして君は今、またこれを使ってる。この癖を、使ってるんだ」

 

「そんな癖はないわ。変な妄想しないで頂戴!」

 

「……忘れたとは言わせないぞ、詩乃。例え君が俺から離れていったとしても、俺の中には君の記憶があるんだ。だから、全部わかるんだよ、君の事が」

 

「……!!」

 

 

 キリトの力強い声に、再びシノンは口を閉ざし、その言葉の内容を受けて顔を驚愕させたものに変える。キリトは、言葉を紡ぎ続ける。

 

 

「そしてこれは、俺の中の君の記憶は、俺の事を日々蝕んでいっている。それを聞いて、君は、これを自分のせいだって思い込んで、俺が君の記憶のせいで死ぬと思って、俺から離れる事を選んだ。俺を、守ろうとして……俺を死から遠ざけるために」

 

「そんなの……そんなの出鱈目よ。あんたの、あんたの勝手な思い込みよ」

 

「これを教えてくれたのはアスナとユピテルだ。ユピテルはリランやユイと同じ、人の精神を癒す機能を持った子だ。そして、嘘を絶対に吐かないっていう特徴がある。それは、君もよく知っているはずだ。ユピテルは、君を診断対象にしているんだよ」

 

「……」

 

 

 そこでシノン/詩乃はある程度思考を巡らせる。恐らくだが、明日奈は自分と会って、自分の様子を確認した後に、ユピテルに相談を持ちかけたのだ。そしてユピテルはその結論をキリトに話して――キリトはこう言って来ているのだろう。

 

 

「君が俺と別れてせいせいしてるはずなのに、逆にぼろぼろになっている理由はそれだ。君は今の現状を望んでなんかいない。寧ろ心の底から嫌がってる。だけど、それを無理矢理抑え込んでるんだ。自分に、今の現実が良いんだって言い聞かせてるんだ」

 

「嘘よ……そんなの嘘! どうしてそんな事を平気で言えるのよ!」

 

「みんなわかるんだよ!! 君の記憶があるからッ!!」

 

 

 そこで、また詩乃はきょとんとする。その時に、キリトはついに顔を上げて、詩乃の青色の瞳と自らの黒色の瞳と合わせた。

 

 

「それに、今の生活が続けば、間違いなく、君は衰弱死する。そうなってほしくないから、俺は君と話してるんだ。君は俺をなんとかしようと思って、俺から遠ざかって、俺を死なせないようにしてるんだろうけれど、その結果で君が死んだら、元も子もないじゃないか! 俺は、そんなのは嫌なんだよ! 君が死ぬなんて、絶対に嫌だ!!」

 

「……!!」

 

「それにな、君が死んだら、悲しむのは俺だけじゃない。皆だってそうだ。

 ユイは突然母親を喪った子になるし、イリスさんは手塩にかけて治療した患者を死なせる事になるし、アスナも、リズも、シリカも、リーファも、フィリアもストレアもリランも、いきなり大事な友達を喪う事になるし、君を喪ったという記憶に一生苦しめられ続ける事になるんだ。……前に言ったよな、これを。君は皆を悲しませたいのかって」

 

「そ……れは……」

 

 

 思わず言葉を詰まらせたところで、キリトは再び下を向いて、小さな声を発するようになった。しかし、どんなにキリトが声量を下げようとも、詩乃の耳にはちゃんと届いた。

 

 

「……確かに俺は、君に隠し事をするなって言っておきながら、自分は隠し事をしてた。君を裏切るような事をずっとやってた。だから、君に嫌われても、おかしくないんだ。だけど、そんな俺にはまだ、君に伝えてなかった事があるんだ。だから今、伝えさせてくれ」

 

「え……」

 

 

 キリト/和人はもう一度、顔を上げた。先程からずっと変わっていない、黒色の瞳だったが、そこには温かくて美しい光が浮かんでいる。和人が真実を語る時だけに見せる光が、今の和人の瞳で瞬いている。

 

 

「俺はな、詩乃。確かに君の記憶がある事に違和感を覚える事だってあったよ。自分の記憶がどっちなのか、わからなくなったりして、自分が失われるような気がして、怖くもなったし、君のトラウマが出て来た時には苦しくもなったりした。ずっとこれが続いていくんじゃないかって、不安になる時もあった。

 だけど……俺は、同時に嬉しかったんだよ」

 

「うれ……しい……?」

 

「俺が君の記憶を思い出した時に来る苦しさは、全部君が過去に受けた痛みと苦しみだ。どんなに君から話を聞いても理解できない、痛みと苦しみが理解できるのが、嬉しかったんだ。君の痛みも苦しみもわかるから、より一層、君の事を近くに感じるようになった。君の事を、誰よりも近くに感じられるのが、何よりも嬉しかったんだ」

 

「……」

 

 

 話したい事を話せてすっきりしたのか、伝えたかった事を伝えられた事を嬉しがっているのか、和人の口角が僅かに上がり、その顔に微笑みが作られる。その微笑みを注視したまま、詩乃は口を開く事が出来なかったが、その中でも和人の言葉は続いた。

 

 

「だからな、詩乃。俺はこうなった事を後悔してなんかいない。寧ろ、君が誰よりも近くに感じられるから、誰よりも君の事を愛する事が出来る。君の苦しみも、痛みも、全部わかるから、君の事を支える事が出来る。だから、俺はこうなった事が嬉しいんだよ」

 

「…………」

 

「君は俺を守ろうと思って、俺から離れようとした。けれど、な。君の記憶を抱いている事による俺の苦しみを乗り越えるのは、やっぱり俺一人の力だけじゃ無理みたいなんだ。だから、俺は君の力を借りたい。これまでずっと、難しい事に何度も直面して来たけれど、その都度それを解決させてくれたのは、君の力なんだ、詩乃。

 君が傍に居てくれて、俺の事を支えてくれたから、俺はどんなに難しい事も乗り越える事が出来たんだ。だから、俺はこの苦しみも、君の力があれば、乗り越えられるって思うんだ」

 

 

 もはや詩乃は和人の動作を気にする事さえやめて、ただ和人の言葉を聞く事だけに集中していた。

 

 

「都合のいい事ばかり言ってるとは思う。君の気持ちを無視してるのもわかる。だけど詩乃、俺は今の困難を、君と一緒に乗り越えたいって思ってる。君を守りたいって、君を支えたいって、君に死んでほしくないって、君を好きでいたいっていう気持ちを、捨てられない。だから、その……」

 

 

 そこで、和人は顔を下げた。何度見ている動作だけれど、詩乃は気にしない。

 

 

「今まで、ずっと隠し事をしてきて、本当にごめん。俺が悪かったんだ。

 これからは、君に何でも言う。もう何も一人で抱えない。苦しい事も悲しい事も、全部我慢せずに詩乃に言うし、嬉しい事も楽しい事も、全部詩乃に話す。君と一緒に居る時間だって増やす。ずっと傍に居て、どうすれば君と幸せになれるか考える。そしてそれを、ずっと続けていきたい。この先何十年先も、ずっとだ。君の傍で、君と幸せを分かち合いながら、一緒に幸せになりながら、生きていきたい。だから……だからっ」

 

 

 和人はかっと顔を上げて、真実の光が瞬く瞳に詩乃の顔を映しながら、優しく言葉を紡いだ。

 

 

「もう一度、やり直させてほしい。俺に、君を守らせてほしい。もう一度……君の傍に居る権限を、俺に与えて欲しいんだ。俺は今でも、君が好きだよ、詩乃」

 

 

 和人の告白とも言える宣言に、詩乃は目を見開いて、小さな声を漏らした。あそこまで言い負かしてやったっていうのに、まさか、和人からこんな言葉が出てくるなんて――そう思っていると、和人は再び顔を下げてしまった。

 

 

「でも、これは俺の勝手なお願いだ。君の気持ちを最優先する。

 もし、俺が心の底から嫌いになってるなら、それでいい。俺は君のために、君の前から消える。もう本当に君と話す事もやめる。記憶の事は一人でなんとかするし、君が望むなら学校だって転校する。

 けれど、その代わり、このままぼろぼろになって死ぬのだけはやめてくれ。死なないで、元の生活に戻って、生きて……生きて幸せになってくれ」

 

 

 最後まで言い切ると、和人はすぅと息を吸い、ゆっくりと下を向きながら吐いた。その大きな深呼吸の後に、和人はもう一度顔を上げて、詩乃と目を合わせる。

 

 

「……言いたい事は、今ので全部だ。全部、伝えたからな……詩乃」

 

「……でよ」

 

「え」

 

 

 その時に、和人は気付いた。いつの間にか、怒りの表情が浮かんでいた詩乃の瞳からは大粒の涙が次から次へと溢れ出て来ていて、それによって顔がぐちゃぐちゃになりそうになっていた。

 

 

「なんでよ……なんであなたはそうなのッ……なんでそんななの……どうして、どうして私の事、嫌いになってくれないのよぉ……」

 

「……詩乃」

 

 

 ぼろぼろと涙をこぼして、しゃっくりと嗚咽を混ぜながら、それまで閉ざしていた口を、詩乃は開く。

 

 

「……私が一緒に居たら、私のせいで、和人の心が苦しめられてっ、和人の心が死んじゃう。それが怖かったから、怖かったから……あなたに、嫌われようって思った……あなたが私を嫌いになれば、もう、あなたは私を心配しなくなって、私の事で苦しむ事もなくなるって思ったから……」

 

「…………」

 

「それにっ……私も、あなたの事を嫌いになろうって思った……だけど、その都度胸が痛くなって、苦しくなるだけだった。どんなにやってもあなたの事を嫌いになんてなれなかった……嫌いになろうとすればするほど、ご飯が食べられなくなって、何もできなくなって、寝ればあなたとの幸せな夢を見てっ……どんなにやっても、あなたが好きだって気持ちを、捨てる事なんて、出来なかった……!!」

 

 

 止めようと思っても、胸の中から溢れ出てきてしまって、言葉は止まらない。胸の中にたまっていたものを、吐き出さずにはいられなかった。そんな詩乃を、和人はただ見つめているだけで、言葉をはさむ事など無かった。

 

 

「私だって、私だって、今でも和人が好き。好きで、好きで、好きでどうしようもない。だけど、私が近くに居たら……和人はっ……和人はぁっ……!!」

 

「詩乃」

 

 

 そこで詩乃はハッとして、和人に向き直った。和人は微笑みながら、そっと手を離して、詩乃の両手を自由にした後に、言葉をそっと紡いだ。

 

 

「君の気持ちを、教えてほしい。隠さずに、教えてくれ」

 

「……――ッ」

 

 

 和人に言われるなり、詩乃は俯いて、胸の中にある感情の全て喉へと登らせて、口のところまで行かせたところで言葉に変えて、顔を上げて、叫ぶように言った。

 

 

「私……和人とずっと一緒に居たい。ずっと一緒に生きていきたい。ずっと一緒に生きて、一緒に幸せになりたい。

 和人をずっと愛していきたい。キスだっていっぱいしたい。それ以上の事だってたくさんしたい。一緒に過ごして、結婚だってしたいし……子供だって……欲しい……!!」

 

「……」

 

 

 思っていたこと全て。言い出そうと思っても中々言う事が出来なかった言葉達を、詩乃は号泣しながら吐き出して、目の前の和人にぶつけた。ここまで言われる事は予想できていなかったのだろう、目の前の和人は驚いたような顔をしていたが、やがてもう一度その顔に微笑みを作って、泣きじゃくる詩乃の身体に手を回し、そのまま抱き締めた。先程までだったならば、詩乃は拒否をしようと考えただろうが、今の詩乃はそんな事を考えず、ただ和人に身を任せた。

 

 

「……ごめん詩乃。俺、詩乃がそんなふうに思ってくれてるのに、全然気付いてなかったんだな。……俺も同じ気持ちだよ。君が望んでくれるならば、君とずっと一緒に居て、君と結婚をして……君との子供だって欲しい。ユイの、弟でも妹でも、どっちでも……。

 それで、これからの沢山の楽しい事も、嬉しい事も、幸せも、全部一緒に共有していきたい。それと一緒に、苦しい事も辛い事も、悲しい事も沢山来るだろうけれど、それも君となら一緒に乗り越えられる。そう、思うんだ。だから、だから詩乃……もう一回言うよ」

 

 

 和人は詩乃の顔を一旦話して、両手をその肩に置き、両方の目で詩乃の目を見つめながら、もう一度宣言するように言った。

 

 

「もう一度、俺に、君の傍に居る権限を、与えてくれ。俺に君を、愛させてくれ」

 

 

 あんなに突き飛ばしたというのに、絶対に離れようとせず、自分への気持ちを変えようとしなかった和人。どんなに傷付けようとも立ち上がって、ここまで戻って来たその人の言葉を受けるなり、詩乃の瞳から暖かい大粒の雫が、いくつも流れ出して止まらなくなったが、詩乃はその雫を拭うような事はせず、泣き顔と笑顔の混ざった表情を、顔に作った。

 

 

「……与える。和人にもう一度、私の傍に居る権限を、与える。私を愛して、私に愛される権限を、与える。だから和人、私と一緒に居て、私の傍に居て、私と一緒に生きて……私と一緒に、幸せになって頂戴」

 

 

 そしてその後に、詩乃は大きく息を吸って吐き、身体の中の空気を入れ替えた後に、もう一度顔を上げて、笑顔になった。

 

 

「あんな事言って、傷付けて、ごめんなさい。和人……大好きよ。やっぱりあなたがいないと、駄目」

 

「……俺こそ、君を裏切るような事をして、ごめんなさい。俺も君がいないと駄目だ。……大好きだよ、詩乃」

 

 

 詩乃からの告白を受けると、和人はその顔に詩乃のそれと同じような笑みを作ってから、音無く詩乃の顔に自らの顔を近付ける。それとほぼ同刻、詩乃もまた和人の顔に自らの顔を近付けて、そのまま、お互いの唇で相手の唇を塞ぎ合った。

 

 もうできないと思っていた、愛する人同士の行為。それが叶った瞬間、詩乃の瞳からまた、大粒の雫が流れ出すが、詩乃は何も気にすることなく、和人に自分の存在を、思いを刻み込むように、和人の唇に自分の唇を重ね続けた。

 

 そうして、それを終えると、二人はそっと顔を離したが、すぐさま詩乃は目の前の愛する人の頬に手を添えた。直後、目の前の愛する少年が、頬に当たる詩乃の手に自らの手を重ねる。

 

 

「……和人」

 

「……うん?」

 

「……これ以上の事、今からお願い、していい……?」

 

「……わかった」

 

 

 和人の答えを聞いて、詩乃は右手を動かしてメニューを呼び出して、オプションウインドウへ進んだ。そのまま深いところへ進んでいき、あるところに辿り着いた時点でそれをクリックし、出てきたウインドウのOKボタンをクリックし、全てのウインドウを閉じた。その時すでに、和人もまた同じようにウインドウを操作しており、オプションウインドウの奥の奥に進み、ある部分を選択してOKボタンをクリック、ウインドウを閉じる。

 

 二人が出会った世界でも行っていた行為。それの前準備を終えたところで、和人は詩乃の足に手を伸ばして、お姫様抱っこの要領で抱き上げた。そのままなるべく音を出さないようにベッドの方へ歩き、ゆっくりと詩乃の身体をベッドに寝かせ、その上に覆いかぶさる形で和人もベッドに乗る。

 

 それから数秒後のタイミングで、詩乃は両手で和人の両頬を包み込み、微笑んだ。

 

 

「和人、来て」

 

「うん」

 

 

 和人は頷くと、目の前の愛する人にもう一度顔を近付けて、自らの唇でその唇を塞いだ。

 

 




キリシノ復活。

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