キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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ちょっと長め。そして、中盤付近で意外な人が登場。


14:娘と母

 和人と詩乃が別れしまったという話を聞いたいつものメンバー達は、どうなるかと不安で仕方がなく、日常生活も《ALO》もあまり手につかないような状態だった。

 

 しかし、その後に届けられてきた和人との詩乃は一旦別れるような事になってしまったけれどすぐにその仲を修復させて元の関係に戻る事が出来たという報せ――それを聞いて、いつものメンバー達は胸を撫で下ろす事になったのだが、一部の者達はこうなる事がわかっていたような気も感じていた。

 

 SAOというデスゲームを共に生き抜き、現実世界へと帰還した和人と詩乃。互いを思い合い、共に力を合わせて戦い、幾多の困難を乗り越えてきた二人の間には目に見えない強靭な糸があり、しっかりと二人の事を結んでいる。

 

 その糸はそんな簡単に切れるようなものではない――それがわかっていたからこそ、和人と詩乃が関係を取り戻したのは当然の事だと思えたのだ。

 

 

 仲睦まじい二人が居て、そして皆が居て、楽しくゲームが出来る。その日常を取り戻す事に皆が成功していたのだった。

 

 

 そして詩乃が和人との仲を取り戻す事に成功し、いつも通りの生活に戻った二日後の夜。

 

 詩乃はスマートフォンを手に取って、とある人物に電話をかけていた。それは勿論、前までは専属医師で、自分に集中的な治療を行ってくれていた元精神科医である愛莉だ。

 

 和人との関係を取り戻すこと自体には成功したけれど、今回は結構大事だった。まだ何か残っているかもしれないし、和人にやるべき事、言うべき事だって残っているかもしれないが、それを詩乃だけで解決させようとすると何かしらの弊害のようなものが起きるかもしれない。そう思った詩乃は愛莉に相談を持ちかけようと思い、電話をかけたのだった。

 

 しかし、愛莉は休みの日も大体忙しいようで、電話をかけても応じない事が多い。ひょっとしなくても、今回も愛莉と電話する事は出来ないだろう――詩乃はそんな事と、愛莉と電話出来なかった後の事を考えながら、スマートフォンのスピーカーから聞こえてくる呼び出し音を聞いていた。

 

 

「……」

 

 

 この呼び出し音の連続はいつもどおりだ。愛莉に電話をかけると、何回も呼び出し音が連続で鳴って、最終的に切れた時には機械音声で「ただいま電話に――」と答えが返ってくるのだ。SAOから帰って来てからは何度も愛莉に電話しようとしたことがあったけれど、その時に愛莉に繋がった回数はほんのちょっとで、後は全部機械音声に繋がった。

 

 愛莉の声を聞いている時間は愛莉と過ごした時間と比例しているから、非常に長いと言えるけれど、SAOを出てから愛莉と通話に成功したのよりも機械音声を聞いた回数の方が明らかに多い。なので、もう詩乃は電話が繋がらない時の機械音声にはうんざりしている。

 

 しかし、愛莉は電話に出ない方が多いから、きっと今回も機械音声を聞く事になるだろう。その第一声がもうじき来ると思って、詩乃は溜息を吐きながら呼び出し音を聞いていたが、呼び出し音の回数が六回目に達したその時にそれは止まった。

 

 

《もしもし、詩乃?》

 

「あっ……愛莉先生!」

 

 

 聞こえてきたのは留守番電話サービスの機械音声ではなく、芹澤愛莉その人の声だった。機械音声を聞く事になるとばかり思っていたものだから、詩乃は驚いてしまって、背筋をしゃんと伸ばした。

 

 

「先生、電話出れたんですか」

 

《あぁ、仕事はもっと前に終わったんだよ。今パソコンの前にいる》

 

「そう、だったんですか」

 

《ん、どうしたんだい》

 

「あぁいいえ。今日も先生は出ないんじゃないかなって思ってたんで……」

 

《今日はたまたまタイミングが良かったんだ。今日の君は運が良いよ。

 んで、どうしたんだい詩乃。私に電話って事は、何か話があるんだろう》

 

「あぁ、はい。実は……」

 

 

 そこで詩乃は愛莉に全てを話した。和人に何があったのか、それを聞いた自分がどうしたのか、いかにして和人と接して話をしたのか。この四日間の全てをひとつ残らず、愛莉に言った。

 

 それを電話の向こうの愛莉はたまに「ほぅ」とか「ふんふん」という反応を返したりする程度で、黙って聞き続けてくれて、詩乃の話が終わった時にようやくまともな言葉を発した。

 

 

《なるほど……君達はついに喧嘩をしたのか》

 

「はい。私、和人と喧嘩してたんです」

 

《ついにやっちゃったか。君達ならば、いつの日か喧嘩をするんじゃないかなとは思ってたんだが、私の思った通りになってしまったわけだ》

 

「ついにやっちゃいました。けれど……」

 

《無事に仲直りする事が出来た》

 

「はい。仲直りも出来ましたし、和人の事がもっと好きになれました」

 

 

 スマートフォン越しで話しているせいで愛莉の顔がどうなっているのかなどは全くわからない。だが聞こえてくるその声色で、愛莉が楽しい話や嬉しくなるような報告を聞いている時の喜びの顔をしているのがわかった。そんな嬉しそうな声色で愛莉は「ふふん」と言って、詩乃に話しかけてくる。

 

 

《和人君は君の事を何よりも大事にしている子だし、君の事を第一に考えている。時々やりすぎる事もあるけれど……嫌な子じゃないのは君が一番よくわかっているだろう》

 

「はい。振ろうとしたんですけれど……全然効果がありませんでした」

 

《それに君自身も、和人君の事を嫌いにはなれなかったんだろう》

 

「……はい」

 

 

 確かにこの前、詩乃は和人の事を振って関係を断とうとしたけれど、それは詩乃が和人を思っての事だったし、第一詩乃はその間も和人を嫌いと思う事は出来なかった。

 

 和人との関係を断ち切り、和人を振る事など詩乃は最初から出来なかった。もし詩乃が強がってそんな事をしても、最初からうまくいかない事を理解していたのだろう。愛莉はすんと笑ってから、落ち着いた声を出してきた。

 

 

《詩乃。もう一度言っておくけれど、和人君は信頼していいよ。あの子は間違いなく、君の運命の相手だ》

 

「はい。今回でそれを痛感しました。私、和人以外の男の人と付き合える気がしません」

 

《だろうし、和人君もまた君以外の女性と付き合う気はゼロだろう。沢山の女の子に囲まれているけれど、和人君は君だけを見ている。言うなれば詩乃一直線だ》

 

「一直線って……」

 

 

 自分でも思っているけれど、確かに和人の近くには女の子が多い。自分の友達である明日奈も、里香も、珪子も、フィリア/琴音(ことね)も、ストレアも、情報屋のアルゴも和人の女友達であるし、頼れる仲間の愛莉も女性だし、相棒のリランも、子供のユイも女の子。 恐らくだけれど、和人の男友達の数と女友達の数を比べたら、きっと女友達の方が多いだろう。

 

 だが、そうであるにしても和人は視線を一切ずらす事などせず、自分の事を見てくれて優先してくれるし、何より愛してくれる。愛莉の言う和人の詩乃一直線というのは間違ってない。

 

 

「でも、本当にそうです。和人は一直線です。一直線で……私の事を見てくれてます」

 

《今後どれだけの女性に絡まれようと、彼は君だけを愛するだろうな。まぁ、それが出来るのは彼の頭の中に君の記憶が存在しているからだ。君の記憶があるからこそ、君だけを見る事が出来ているのだろうな。彼ほど浮気という言葉と行為から縁の遠い子はいないだろう》

 

 

 そこで、詩乃は思わずハッとする。

 

 自分が和人との関係を断とうとしたのは、和人の頭の中にある自分の記憶が和人の記憶と混ざろうとして和人の精神を蝕んでいっているという現象を、自分が居なくなるという方法で抑え込めると思ったからだ。

 

 だが、和人は真っ向からそれを否定し、自分の傍に居る事、守る事を選んでくれて……早い決定だと思いそうだが、将来結婚する約束さえしてくれた。

 

 そんな和人を受け入れないなんていう選択は、そもそも最初から和人を嫌いになる事なんて出来なかった詩乃には出来ず、結局和人との関係を取り戻した。終わってしまったと思っていた幸せを取り戻す事が出来て、詩乃はとても嬉しかった。

 

 しかし、和人との関係を取り戻す事が出来ても、和人の中にある自分の記憶の和人への侵喰を防ぐような事は出来ていない。和人をより愛せるようになっても、根本的な問題は何一つとして解決などしていないのだ。

 

 それを和人は、「君と一緒なら乗り越えられる」と言ったものだが、対策は未だ何一つとしてできていない。全く無しだ。

 

 

「そう、ですね……和人は、私だけを、愛してくれ、ます」

 

《……詩乃、どうした》

 

 

 先程打って変わって、少し険しいようなそれに変わった愛莉の声にすぐさまハッとする。きっとだが、自分の感じが急に変わった事に愛莉は声だけでわかったのだろう。

 

 

「あの、愛莉先生」

 

《なんだい、詩乃》

 

 

 そこで詩乃は愛莉にまた話す。

 

 和人の頭の中の詩乃の記憶が、和人を蝕んでいる事を。

 

 和人との関係を取り戻しても、彼をもっと大好きになれても、彼の事をもっと愛せるようになっても結局彼の問題は解決できていない事を。

 

 自分にそれが出来るのかどうかを。

 

 不安に思っていること全てを吐き出すように、詩乃はスマートフォンの向こうの愛莉に話した。そんな詩乃の話を愛莉は先程と同じように黙って聞き続け、それが終わった頃に答えを返してきた。

 

 

《そうだな……君と和人君の関係が治っても、和人君の問題は何一つとして解決していない。和人君は君と一緒ならば解決できると言ってくれたようだが……》

 

「私……わからないんです。どうしたら和人の今の状態を治せるかとか……全然」

 

《そりゃそうだろう。いくら君の知識が豊富でも、一般人が手に入れられるようなものばかりで、医者並みの知識があるわけじゃない。

 それに今あんな状態になっている人間は、この日本どころか地球上のどこを探しても、和人君ただ一人だけだ。多分、どんな医者でも和人君にはお手上げと言うだろうね》

 

「愛莉先生、私、どうしたら……」

 

 

 そこで愛莉の声がいったん止まった。てっきりすぐに助言がやってくると思っていた詩乃はきょとんとして、愛莉の名を軽く呼んだが、そこで愛莉の声がもう一度届けられてきた。

 

 

《詩乃。実は、君には話していなかった事があるんだ》

 

「え?」

 

《実は私……和人君に一度相談を受けているんだよ。そう、和人君の中の君の記憶についての、ね。今まで黙っていたけれど、和人君は既に私に相談を持ちかけていたんだよ》

 

「そう、だったんですか……和人は、先生に……」

 

《なんでって思ってそうだね。まぁ理由は深く考えなくてもわかるだろう。彼は君を傷付けたくないがために、君に相談する事よりも私に相談する事を選んだのさ。一応彼なりの君への思いやりがあったんだから、あまり悪く思うんじゃないよ》

 

 

 流石にもう和人を悪く思うような気持ちは沸いてこない。

 

 だが、和人が自分よりも先に愛莉に相談を持ちかけているというのを聞くと、何だか心の中にもやもやした妙な気持ちが湧いて出てきて、少しだけ胸が締まるような気がした。それを呑み込んで詩乃は愛莉に問うた。

 

 

「それで先生は……和人に何て言ったんですか。和人にどうしろって言ったんですか」

 

《……どうとも言っていないよ。私はただ、和人君に、これは君達が乗り越えるべき試練だから、私から言ってやれることは何もないって言った。

 だからね、詩乃。私は今、君に助けを求められても、何も言える事はないんだ》

 

「そんな……」

 

《残念だけど、何でもかんでも助言出せるほど私は便利ではないんだ。君の事は沢山助けて来たけれど、君一人の力で解決しなきゃいけない時だってあるんだ。そして今がそれなんだよ。今の和人君の問題は……君がともに解決に導かなきゃいけない。そうでなきゃ君達はいつか破綻するよ。幸せになる前にね》

 

「……」

 

《……だからね、詩乃。この問題はあなたが解決に導くのよ。……この試練を、君と和人君の二人だけで乗り越えなさい。私が今のあなたに言えるのは、それだけよ》

 

 

 女性らしい喋り方の時、愛莉は素に戻っている。今、こうして女性らしい喋り方をしたという事は、愛莉が心からこの問題の解決に手を貸すつもりはないと思っているという事だ。

 

 この問題は自分達が解決しなければならないものであり、誰の手も借りる事の出来ないもの。愛莉の手を借りる事は出来ない。

 

 愛莉ならば何かしらのいいアイディアをくれると思っていたのに、そうではない事に詩乃はどこか胸の中が苦しくなったような気がした。

 

 

「……私に、そんな事が出来るんでしょうか」

 

《出来ると思ったから、あなたは和人君と仲直りをしたんでしょう。どんなに疲弊する事になっても、心をすり減らす事になっても、あなたの傍に居て、あなたの事を守り続けるって言った和人君を受け入れたんでしょう》

 

「……はい」

 

《和人君を受け入れた以上、立ち向かいなさい、詩乃。あなたならきっとやれる》

 

「……」

 

《不安なのはわかるわ。でも、あなたはしなきゃいけない。この問題を解決させて、和人君を治す事が、あなたと和人君の幸せの開始地点よ。和人君と一緒に幸せになっていきたいなら、どんなに不安でも……立ち向かいなさい》

 

「…………」

 

 

 いつになく険しい愛莉の声。これまで愛莉は優しく助言ばかりをしてくれたものだが、今は助言をくれないし、厳しい事ばかり言ってくる。優しくもあり、厳しくもある。その様子はどこか、遠く離れた生まれ故郷にいる母を思い出させた。

 

 そんな愛莉の言葉を聞いていたためか。

 

 それとも愛莉の声が遠くの母のそれと重なったのか。

 

 如何なる理由であるかは掴めないが、詩乃の中の不安は徐々に小さくなっていき、その代わりと言わんばかりに、ある種の自信のようなものがどこからともなく現れてきた。

 

 その自信にも似た感情を抱いた詩乃はスマートフォンをぎゅうと握りしめて、向こうにいる愛莉に言った。

 

 

「……わかりました。私、何とかします。私の手で、この問題を解決させます」

 

《……本当にやる気ね?》

 

「やる気です。私はそのために、和人と一緒に居る事を選びましたから。どんな困難も和人と一緒に乗り越えたいから、和人と一緒に生きていこうって思ったんです。だから、私の手で……この試練を乗り越えます」

 

《……その言葉、信じるわよ》

 

「信じてください」

 

 

 そう言い切り、詩乃は大きく息を吸い、音を出さないように吐く。どうやらそれは愛莉もやっていたようで、スマートフォンのスピーカーから溜息や深呼吸を思わせる、愛莉の呼吸の音が聞こえてきた。その後に、愛莉の声は再び詩乃の耳の中に届けられた。

 

 

《わかったわ。詩乃、立ち向かいなさい。ぶつかって、立ち向かって……和人君との幸せを勝ち取って見せなさい》

 

「……はい!」

 

 

 詩乃が勢いよく返事をすると、愛莉は「よろしい!」と言った。そしてその後すぐに、「次の休みにまたALOにログインする」と言って、詩乃との通話を終了した。愛莉とのそれなりに長い通話を終わった時、詩乃は大きく息を吸って吐き、スマートフォンを置いた。

 

 愛莉の言う通り、これは試練だ。

 

 和人の頭の中に残ってしまった自分の記憶による影響を無くし、和人の精神の摩耗を防ぎ、修復する事。この試練を乗り越えた時こそ、自分は初めて和人と一緒に幸せになる権利を手に入れるのだろう。

 

 そしてこれに失敗した時には、和人が自らの中にある詩乃の記憶に蝕まれ、精神と心を崩壊させられてしまう。つまり、死だ。

 

 和人の命を賭けた試練。何としてでも成功させなければ……超克せねばならない。

 

 

(……けれど)

 

 

 愛莉には強気に言ったけれど、この問題の解決手段――この試練への対抗手段は、何一つとして思い浮かんでいない。この問題を解決するにはどのような方法が有効かを愛莉に聞こうと思ったのだが、何も答えてくれなかったから、結局大事なところは電話をかけた時から何も変わっていないのだ。

 

 愛莉の叱咤激励――大きな声は出されていないけれど――のおかげで、少しもやもやしていた頭の中はすっきりしているけれど、その頭で考えてもこの問題を解決できそうな手段は何も思い付かない。

 

 

「どうすれば……いいのかなぁ……」

 

 

 軽く天井を見上げて、呟いたその時。突然大きな音が聞こえてきて、詩乃はびくりと反応してしまった。何事かと思いながら音の発生源を探すと、すぐさま音の正体がスマートフォンである事がわかった。そしてそれのディスプレイには、少し驚いてしまう名前が表示されている。

 

 

「……!!」

 

 

 詩乃は置いたばかりのスマートフォンをもう一度手に取り、通話開始ボタンをクリック。そのまま先程と同じような動作で耳にあてると、スピーカーの向こうから先程の通話相手よりも聞き慣れた声、決して忘れる事の出来ない声が聞こえてきた。

 

 

《もしもし、詩乃……?》

 

「……おかあさん」

 

 

 スマートフォンのディスプレイに表示されていた名前は《おかあさん》。ここから遥か遠くにある生まれ故郷にいる母からの電話だったのだ。

 

 まさか母が電話してくるとは思わなくて詩乃は驚いてしまったけれど、同時に出ないわけにはいかないという衝動に駆られた。そんな詩乃の声を聞いたおかげなのか、安心した母の声が届けられてきた。

 

 

《よかった、やっと出てくれたわね。通話中でなかなか繋がらなかったのよ》

 

「ごめんなさい。ちょっと、先生とお話してたの」

 

《先生? もしかして、あの先生?》

 

「うん。おかあさんが勧めてくれた病院の先生と、ちょっとね。ところでおかあさん、なんで急に電話なんか? もしかして何かあったとか」

 

《ううん、そんな事はないのよ。ただ、詩乃と話がしたくなったっていうか、詩乃の声が聞きたくなっただけ》

 

 

 母が電話をかけて来た時には何かあったのではないかと思ってしまいそうになるけれど、出てみれば大概詩乃の声が聞きたくなったからだとか、詩乃と話がしたくなったからだとか、そういう平穏な理由がほとんどだ。

 

 しかし、愛する娘がこんなに遠くの地に居るのだから、心配して電話するのは当然なのだというのは詩乃もよくわかっているため、母からの電話をうるさく感じる事は一切なかった。

 

 

「そうなんだ」

 

《そうなのよ。ところで詩乃、その先生だけど……芹澤(せりざわ)先生だっけ》

 

「うん、芹澤先生」

 

《その先生とは、どう? 上手くいってる?》

 

「うん。すごく上手くいってる」

 

 

 先程話していた、今となっては元だけど精神科医であり、自分の専属医師になってくれていた芹澤愛莉。

 

 そもそも、自分に愛莉を紹介してくれたのは母だ。母があるとき電話をかけてきて、「東京の方にすごく腕の立つ有名な精神科医がいるみたいだから、そこに行ってみたら」と、愛莉の勤めていた病院を勧めてきたのだった。

 

 

 その勧めに乗って病院に赴いて診察を受けてみたところ、その診察を担当してくれたのが、腕の立つ精神科医として有名な愛莉だったのだ。

 

 

 もし、あの時愛莉のいる病院を母が紹介してくれなければ、今頃自分はどうなっていたのか知れたものではないと、詩乃はつくづく思っている。

 

 

《それはよかったわ。それで、学校の方はどう? また、いじめられたりとかしてない?》

 

 

 そう聞かれて、詩乃は考えないようにしていた前の学校の事を思い出した。

 

 前の学校に居た時には、愛莉と和人曰く、醜女(しこめ)に例えていいような連中からいじめを受けていたりもした。だから何度も学校に行きたくないと考えたものだけれど、その学校から今の学校に転校してからはそのような事もなくなったし、毎日明日奈や里香達に会えて、お喋りが出来て楽しいし……そして何より和人と一緒に居れる。

 

 だから、今の学校はまるで天国のようなところだと、詩乃は自信を持って言える。

 

 それにその醜女達も、一体どのような理由があったのか定かではないが、自分がSAOに行っている間に死んでいた。もし連中が生きていたならばSAO生還者のための学校に転校した後も追ってくるのではないかと危惧したかもしれないが、その必要はまるでない。

 

 もはや、何もかもが順風満帆に進んでいると言っても間違ってはいなかった。

 

 

「うん。学校も毎日楽しいよ。前の学校と違って友達がいっぱいいるの」

 

《そう、それならいいんだけど……まさか、あんな事が起きるなんてね》

 

 

 今こそ色々順調だが、最初から混乱が無かったと言えば嘘になる。

 

 まず最初、愛莉と一緒にSAOに囚われた時。愛莉の病院の関係者から、詩乃がSAOに囚われたという事が母と祖父母に伝えられた。これを聞いた母は恐慌状態になったそうで、遥々故郷から新幹線に乗って東京へ、詩乃の居た病院にやってきたらしい。

 

 その時に愛莉が説明できれば一番よかったのだが、愛莉は自分と同じようにSAOに行ってしまっているため、何も母に言えなかった。なのでその時は愛莉から指揮権を託されていた女医が母に説明を施してくれ、母を落ち着かせてくれたそうだ。

 

 

 だが、その後も母は毎日毎日詩乃の事が心配で、気が気でなくなるような事が何度もあったという。そんな毎日を送り続けて、詩乃がSAOから生還をしたという報せを聞いた時には、また同じように東京へ行って直接詩乃の元を訪れた。

 

 デスゲームから帰還した詩乃と再会した時には、母は大泣きしながらその身体を抱き締め、一方詩乃もまた母に会う事が出来たという喜びのおかげで大泣きしてしまい、親子揃って抱き合ったまま人目も気にせず、大泣きしたのだった。

 

 それからしばらく経った後に、詩乃がSAO生還者のための学校に転校する必要が出たという報せが母に届けられた。その時に母は詩乃が高校でいじめを受けているが、転校すればそれを無くすことも出来ると説明を受けていたそうで、母は詩乃のSAO生還者のための学校への転校を快く承認したのだった。

 

 そのおかげで詩乃はこうして無事に転校し、毎日明日奈や里香や珪子、そして和人と一緒に学校に通えるのだ。

 

 

「うん。だけどねおかあさん。私はこれでよかったって思ってるの。もし、あのSAO事件が無かったら今の私はなかったと思うから。私ね、自分で言うのもなんだけど、あそこで成長できたんだって思うの」

 

《そう、ね。あの時は気が気じゃなかったのよ、詩乃があのテレビでやってるSAOに囚われたって聞いた時は。でも、詩乃が無事に帰って来てくれて……本当によかった。沢山の友達が出来たっていうのも、よかったしね……》

 

「うん。確かに、沢山の人が死んじゃう事件だったけれど、私はこれでよかったって心の底からそう思ってる。おかあさん、ありがとうね、私の転校とかを承認してくれて」

 

《それは別に気にしなくていいんだけれど……ねぇ、詩乃》

 

「うん?」

 

《もしかしたら、答え辛い事を言うかもしれないけれど、答えてくれる?》

 

「なぁに、おかあさん」

 

 

 スピーカーの向こうの母はほんの少し喉を鳴らした後に、しどろもどろはしているものの、もう一度はっきりとした声で尋ねてきた。

 

 

《その、和人君、だっけ。詩乃が好きになった人……》

 

「……!」

 

 

 母が一番驚いたのはSAOに詩乃が囚われた事だけれど、その二番目とも言える驚いた事情とは、詩乃に恋人が出来たという話だ。これを話したのは詩乃の退院が済んで、詩乃の住居が今のマンションの一室に変わった数日後だったが、話した時の母の驚いた声は今も詩乃の耳には根強く残っている。

 

 その声を聞いた後に詩乃は全てを話したのだ。SAOに囚われた時に、何もわからない自分を保護してくれて、一緒に居てくれて、守ってくれて……好きになってくれて、愛してくれるようになった人が居た事を。

 

 そしてその人の事を、自分もまた好きである事を、愛している事を。その人の名前が桐ヶ谷和人という事を。そして、その人が今の学校に同じように通っている事を、全て。

 

 その時に、母が驚きながら電話の向こうで涙していたのを、詩乃は今も憶えている。

 

 

「そうだよ、おかあさん。和人がどうかしたの」

 

《こんな事を聞くのもあれだけど……その人との関係は上手くいってるの? 本当に、その人はいい人なの》

 

 

 和人との関係を話した時、和人はいい人であると、一緒に居てもいいような人、好きになれる人だと、詩乃は確かに母に言った。

 

 だが、母は一度も和人と出会っていないし、和人の声を聞いた事さえない。桐ヶ谷和人がどのような顔で、どのような容姿で、声で、どのような性格の人間であるのかという真実を確かめていないから、母は未だに心配をしているのだろう――それを察した詩乃は頷きつつ言う。

 

 

「うん。とても上手くいってる方だと思う。まぁ、この前喧嘩したけれど」

 

《け、喧嘩なんてしたの》

 

「うん。だけど、もう仲直りしたの。そしたら……彼の事、もっと好きになれた。だから、和人とはもう大丈夫だよ。何も心配する必要無いよ、おかあさん」

 

《……本当に?》

 

「それにね、いつになるかはわからないけれど、おかあさんにも会わせてあげたいの。本人もその気があるみたいだし。だから出来るだけ近いうちに、おかあさんに会わせるね、和人を」

 

《……そう言ってるって事は……詩乃は、本当にその人の事が好きなのね》

 

「前からそう言ってるつもりなんだけど……」

 

 

 あくまで推測でしかないが、母は今の学校を卒業すると同時に別れるような恋愛をしているのではないかという心配をしているのだろう。実際他の高校の高校生達や女子高生を見てみると、そんな感じのいい加減でちゃらんぽらんな恋愛しているようなのが沢山いる。

 

 だが、自分はそんな軽い恋愛をしているつもりは一切ないし、和人とは高校を卒業しようが、大学を卒業しようが、この先ずっと一緒にいるつもりだし、好きでいるつもりだし……これもいつになるかはわからないけれど、結婚だってしたい。

 

 それくらいにまで和人の事が好きだ。和人の事が大好きだ。

 

 

「私ね、本当に和人の事が好きなのよ。和人はあんな事をしてしまった私を受け入れてくれた。私とずっと一緒に居てくれるっていう約束をしてくれたの。だから、私は和人の事が大好きなの。だからね……心配しないで、おかあさん」

 

《……なら、いいのよ。でも、その代わりと言っては何だけれど……いつでもいいから、和人君を会わせて頂戴ね。私も詩乃の事が好きになった人っていうの、すごく気になるの》

 

「うん。出来るだけ早く、おかあさんに会わせるね」

 

《うん。そうして頂戴。……それでね、詩乃》

 

「うん?」

 

 

 目の前に母がいるわけでもないのに、詩乃はつい首を軽く傾げる。その様子が伝わっているのか、詩乃はほんの数秒程度沈黙した後に再度詩乃に声を送った。

 

 

《その、これから和人君と一緒に生きてくんなら、和人君と一緒に幸せな思い出を沢山作っていってね。詩乃はずっと苦しい思いをして来たから、そろそろ楽しい思い出に囲まれて、幸せにならなきゃよ。

 それで……その中で辛くなったり、苦しくなったら、おとうさんが遺したお守りを身に着けてね。学校じゃあ目立ちすぎて付けられないかもしれないけれど》

 

 

 あなたはもう幸せになるべき――母の柔らかい声を聞いて、詩乃は心の中が暖かくなったような気がした。

 

 確かにこれまで苦しい日々が続いてきた。強盗を銃で撃ってしまったあの時から、ずっと苦しい事の連続だった。あまりにもそれが長く続いているものだから、これからもそうなっていくのではないかと考えていたけれど、SAOに巻き込まれて和人と出会ってからそれは、足元からガラガラと崩れ去った。

 

 SAOという名の呪われたゲームと一般視されるあの世界で、詩乃は自分の罪を知り、受け入れてくれる人がいる事を、心の底から愛してくれる人がいるという事を、本当の友達になってくれる人がいる事を思い知る事が出来た。

 

 そしてその人達から、自分が幸せになっていいんだと教えてもらった。これからは幸せな思い出を、自分の事を受け入れてくれた和人や皆と一緒に作っていこうと、本気で詩乃は考えている。

 

 

「うん。私、和人や皆と一緒に、楽しい()()()を……たくさん作って……おもい……で……?」

 

 

 思い出という言葉を口にした時に、詩乃は一筋の光が頭の中に走ったような気を感じた。ほんの少しだけもやがかかっていた頭の中が一気に晴れ渡り、意識が覚醒し、背筋が自然と伸びていく。

 

 

《詩乃? 詩乃、どうしたの、詩乃》

 

「……それだわ」

 

 

 スマートフォンの向こうで、今度は母が首を傾げた。




―今回の補足―

Q.詩乃のお母さんってこんなに喋れんの?

A.キリト・イン・ビーストテイマーでの詩乃の母親は精神逆行を起こしていない。
 娘思いの普通の母親である。



次回もキリシノ回。

詩乃が何やら思い付いた模様。一体何を思い付いたのか。

次回も、乞うご期待。

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