キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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詩乃回。


06:恩師との時間

 和人達は秋葉原を出た後に、いくつかの駅を乗り継いで、お台場のショッピングモールにやってきた。

 

 アメリカの観光名所であり、その国そのものを象徴するものである自由の女神像のレプリカ、一際巨大なテレビ局の建物、同じくらいに巨大なロボットのレプリカなどが目立つように置かれているお台場。

 

 そんな特徴的なオブジェクトや建物の中に立っているこのショッピングモールもまた、地方なんかでは絶対に見る事が出来ないくらいに巨大な建物である。もはやファンタジー作品やRPGなどに出てくるダンジョンや神殿と例えても謙遜のないくらいだ。

 

 そんな石と鉄の巨大神殿と言ってしまってもいいようなショッピングモールの中に入り込んでみると、宝箱やトラップのある小部屋大部屋の代わりと言わんばかりに多くの店が、モンスターの代わりと言わんばかりに多くの観光客や買い物客、親子連れの姿を確認する事が出来た。

 

 

 この辺りの光景は休日ならばどこでも見れるようなものであったため、和人は驚きもしなければ、感動を抱く事もなかったが、そこでそれまで黙っていた愛莉が突然声を出したのには少し驚く事になった。

 

 

「さてと和人君に詩乃。君達の目的地に到着だ。それで、君達はどんな買い物をする予定だったのかな」

 

「買い物をしたいって言ったのは私です。服とか帽子とかが欲しくて……」

 

 

 詩乃の返事を聞いた愛莉は「ほほぅ」と言って詩乃に近付いた。そしてそのまま舐めるように詩乃の身体を眺める。

 

 

「確かに詩乃はいつも同じような服を着ているし、これも一着しかないデート服みたいだからね。そろそろ別な服を買ったらどうだって言いたいところだったんだ。やっぱり詩乃も女の子なんだから洒落(オシャンティ)しないと」

 

「オシャンティって……」

 

 

 和人が発言に目を点にすると、愛莉は突然何かを思い付いたように胸の前でパンと両手を叩いた。乾いた音が二秒程度で消えたその時に愛莉は両腕を開いて、宣言するかのように口を開く。

 

 

「よし詩乃、お金は私に任せなさい。私が君の服を買ってあげよう」

 

「えぇっ? 愛莉先生が出してくれるんですか!?」

 

「あぁ。せっかくこうして君達の買い物に立ち会う事が出来たのだし、前から詩乃には服とかを買ってやりたいとも思ってたんだ。だから今回は私が出そう。まぁ限度はあるけれど、そんなに高い服が欲しいわけでもないだろう?」

 

 

 驚きながら愛莉に頷く詩乃。

 

 詩乃は確かに高い服が欲しいとは言っていないし、そもそもそんなもので着飾ろうとも考えないような娘だから、高級な服を買おうとする事はないだろう。だが、最初から自分のお金で買う事を決めてきているから、突然こうなった事に戸惑わずにはいられないのだ。ましてや相手が愛莉だから尚更だ。

 

 

「それにだね、今日は詩乃よりもお姉さんの私がコーデしてあげようじゃないか。これでもファッションには気を使ってる方だし、どんなコーデがいい感じとかもわかるつもりだからね」

 

 

 確かに愛莉は自分達よりも十年ほど長く生きているから、これまで生きてきた中で、ファッションだとか着こなしだとかを理解してきているのだろう。

 

 それにこれまで愛莉と接してきて、愛莉が変な恰好をしてきたり、詩乃や娘であるリランやユイに変な恰好をさせたりしていなかったから、詩乃に変な恰好させる事もないだろう。

 

 しかし、やはりお金を出してくれるという愛莉に申し訳ないと思っているのか、詩乃は上目づかいで愛莉を見つめていた。

 

 

「……いいんですか」

 

「良くなきゃ最初から言わないよ。お金を出してくれるって言ってくれてる人には甘えるべきなんだよ、詩乃」

 

 

 そう言って両手に腰を添える愛莉。愛莉がここまで言ってくれているのだから、ここはひとつ、愛莉の言う事に従った方がいいのではないかと和人は思う。

 

 だがしかし、恩師の愛莉に金を出させてしまうというのが、詩乃にとってはあまり快くないというのも同時にわかる。

 

 愛莉の言う事に乗るのか、断るのか。詩乃の答えが気になって見つめたその時に、詩乃はその顔を上げた。

 

 

「……本当に、いいんですよね」

 

「何度も言わせないの。良いから言うんじゃないか」

 

「それじゃあ、お言葉に甘えます」

 

「ふふ、そう来なくっちゃね」

 

 

 そう言って愛莉は笑むと、和人と恭二の方に向き直った。いきなり目を向けられたものだから、二人揃ってきょとんとすると、愛莉はその唇をもう一度開いた。

 

 

「和人君に恭二君。私はこれから詩乃を連れて服を買いに行くけれど……君達はちょっと別なところに行っててもらえないかな」

 

「えっ、別なところですか」

 

「女性同士のお洒落探索の時は男子禁制だ。それにほんの少しの間でいいから、詩乃を思いっきりお洒落させてやりたいんだよ、邪魔するものなくね。

 だから悪いんだけど……別なところに行っててもらえないかな。出来るだけ早く終わらせるつもりではあるし、お昼も近いしさ」

 

 

 自分の中には詩乃の記憶があるため、やろうと思えば女の子のファッションの事を知る事も把握する事も出来るのだが、それでも女の子や女性だけがわかる事まで把握する事は出来ない。もし自分が付いていってお洒落などに口出ししたりしても、水を差すだけになるだろう。

 

 それに詩乃だって、久々に会えた愛莉との時間を過ごしたいだろうから、やはり自分達は水を差すだけだ。

 

 

「……わかりました。詩乃に変な恰好させないでくださいよ?」

 

「しないよ。寧ろ君達が砂糖吐くくらいの、可愛いコーデにしてあげるんだから」

 

 

 愛莉の冗談なのか本気なのか、よくわからないような言葉を聞いた和人が苦笑いした時に、詩乃は和人の方へ向き直った。その顔には、申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。

 

 

「和人……」

 

「せっかくの愛莉先生との時間なんだから、楽しんでくるといいよ、詩乃。こんな時間、滅多に採れないんだしさ。俺達は……」

 

「あ、そうだ桐ヶ谷さん」

 

 

 いきなり声をかけられて、和人は少しだけ驚きつつ、声の発生源である恭二の方に、詩乃と一緒に振り返る。

 

 

「どうした」

 

「自由行動っていうなら、一緒にゲーセンコーナー行かない? 僕、どうしてもやりたいゲームがあって」

 

 

 愛莉に自由行動せよと言われたその時には本屋に行って、情報誌やパソコン関連書籍を立ち読みしようと頭の中で考えていた和人だが、ゲームセンターに行って現地でしか出来ないゲームを楽しむというのも有りだ。恭二の発言でそう思い直す。

 

 本屋に行くというのも捨てがたいけれど、本屋に行って楽しい思いをするのは和人だけで恭二はそうでもないだろうし、別行動するとなると迷子になってしまう可能性の方が高い。それに、こうしてALOでの友であるシュピーゲルの現実、恭二とも出会えたのだから、恭二と話さないのものもったいない。

 

 頭の中で考えをまとめた和人、恭二に頷く。

 

 

「ゲーセンか。うん、それもありだな。俺達はゲーセンでゲームしてるから、終わったら連絡をよこしてくれ」

 

「わかったわ。出来るだけ早く、あなたの元に戻れるようにするから」

 

「あまりせかせかしなくてもいいよ。楽しんで来てくれ」

 

「……うん、ありがと」

 

 

 どうせすぐにまた合流するのだから、対した事ではない――それを既に分かり合っていた二人で静かに笑い合うと、詩乃は愛莉の隣に並んだ。しかしその時に、愛莉はまた何かを思い出したかのような仕草と表情をして和人に言った。

 

 

「あ、そうだ和人君。ゲーセンに行くならUFOキャッチャーで、ペンギンのぬいぐるみを取って来てくれないか」

 

「え? ペンギン?」

 

「あぁ。私の記憶が確かならば、このモールのゲーセンにあるはずなんだ。ちょっとそれが欲しいんだけど……UFOキャッチャー、得意かい?」

 

 

 ある時を境に行く事は少なくなったし、外出する事自体少なくなったものだけれど、和人は昔からゲームセンターに通う事が多かったし、その時にはUFOキャッチャーを何度もプレイして、景品のぬいぐるみを沢山手に入れたものだ。最近はほとんどミスする事なく、一階で目的の品物を手に入れる事も出来るくらいだった。

 

 現に直葉の部屋にあるぬいぐるみの七割ほどが、実は和人がUFOキャッチャーで手に入れてきた景品だったりする。

 

 そしてペンギンのぬいぐるみならば割とポピュラーだから、UFOキャッチャーコーナーに行けば当たり前のようにあるだろう。

 

 

「得意ですけれど……ペンギンのぬいぐるみですか。大きさはどのくらいで?」

 

「大きさは大きいのでも小さいのでも、何でもいいんだ。とにかくペンギンのぬいぐるみを取って来てくれ。ミスは好きなだけやっていいよ、お金は私が後で払ってあげるからさ」

 

「その心配はないですよ。俺、これでもUFOキャッチャーは得意なんです。一発取りも出来るくらいなんですから」

 

「そうかい。それじゃあ任せるよ。集合時間は十二時にしておくけれど、それよりも早く終わったら連絡するから、合流場所はその時に伝えるよ」

 

 

 これからの事を把握すると、四人は二人ずつに分かれ、和人と恭二はこの巨大複合商業施設の四階の一角に位置しているゲームセンターへ、詩乃と愛莉は三階にある巨大なファッションショップを目指して進み始めた。

 

 休日ともあってか、やはり沢山の人々でごった返していたものの、和人は腕に嵌っている腕輪のおかげで、詩乃は隣に愛莉がいるおかげで、人混みの中を進む事が出来たのだった。

 

 

 

            □□□

 

 

 和人と恭二と一旦分かれて、エスカレーターを使って三階に到着した詩乃と愛莉は、人混みの中に混ざりつつ、目的地であるファッションショップを目指していた。

 

 流石お台場の中でも指折りの巨大さを誇るショッピングモールというだけあってか、歩いているだけで横を様々な店が通り過ぎていく。あまりに多彩で種類も豊富な店ばかりだから、感じは地元の街の大きな祭りの時の、立ち並ぶ屋台の間を歩いているのに近い。

 

 

 そのためか、あの事件の前に母と一緒に祭を歩いた時の事を、詩乃は愛莉と歩きながら思い出さずにはいられなかった。しかも隣に愛莉が歩いているものだから、本当に母と一緒に歩いて買い物をしているような気になって仕方がなく、詩乃はどこかそわそわしつつも、懐かしさと暖かさの混ざった心地よさを感じながら歩いたのだった。

 

 

 そんな気分に浸りながらショッピングモールの中を、通り過ぎていく店を眺めながら歩き続けていると、目的地であるファッションショップに辿り着いた。白い床と天井で構成されている目的地の店は他の店と比べてかなり広大であり、入口から最奥部までかなりの距離があるように見える。

 

 その光景だけ見れば、ALOのダンジョンの中の大ボス部屋が思い出されてくるのだが、その中に存在する無数の服や帽子などが置かれた数々の巨大な棚と、服を手に取ったり、鏡の前に立って胸元に服を合わせたりしている百を越える買い物客が、ここはボス部屋ではなく店である事を主張してくれていた。

 

 そんな店の中に愛莉と一緒に入ったところで、愛莉は顎もとに手を添えて、すんと笑いながら周りを見回しつつ、呟く。

 

 

「より取り見取りとはこういう事か。これなら物に困る事はなさそうだね。よかったよかった」

 

 

 和人によれば、このショッピングモールの中にあるファッションショップは広くて品揃えもいいという話だったけれど、まさかここまで大きくて様々な衣類を置いているとは、流石の詩乃も予想できてはいなかった。愛莉の言う通り、これならば今回の買い物に困る事もないだろう。

 

 そんな事を考えながら、詩乃は愛莉と共に店の奥の方へ進んでいく。並べられている棚はどれも背丈が高く、その中には様々な衣類がかなりの数置かれているが、どれもこれも色とりどりで様々なデザインをしている。

 

 これは迷う事になりそうだなと、心の中で呟いたその時に、愛莉が立ち止った。一緒になって立ち止まって目の前を見てみれば、壁と一体になっている棚の前に居る事がわかった。それと同時にここが、この店の奥の左角に位置し、隣や近くに行かないとここにいる人が見えなくなるようなところでもある事も把握できた。

 

 そんな入口から最も遠いと言えるようなところにある棚の中を見てみれば、如何にも学生や若者が着そうな、多彩な色をしたパーカーやトレーナーなどが並べられている。

 

 恐らくここが若者向けの服を置いているスペースなのだろう。

 

 

「さてさてさーて、どんなものがあるのかな。詩乃は清楚系女子だけど、割とボーイッシュに攻めても良さそうな感じだし……ALOでもそんな感じだし……あぁでも、やっぱりがちがちの清楚系で固めるのがいいかなぁ」

 

 

 まるでお洒落をしない妹のための服を買ってあげようと思っている姉のような、愛莉の仕草と言動。だがそれは、強ち間違っているものでもない。愛莉がそう思っているかどうかはわからないけれど、東京に移って来て、尚且つ愛莉の勤めていた病院で愛莉と知り合ってからは、詩乃にとっての愛莉は姉のような存在だった。

 

 精神科医としての診察は勿論の事、学校で困っていた事やいじめっ子たちへの対応、苦しい時の対応の仕方とかも相談してくれたし、休日には一緒に街に買い物に出かけたりしてくれる事もあったものだ。

 

 そんな日々を過ごすうちに、詩乃は愛莉をただの精神科医と思う事はなくなり、和人に出会って付き合い始めるまで、愛莉こそが唯一信頼できる人だと思っていた。

 

 この人は頼れる。この人は、姉妹や兄弟のいない私の姉なのだ。いや、遠くにいるおかあさんの代わりだ――詩乃は口にこそしなかったものの、愛莉と一緒に過ごしている時は、心の中でいつもそう思っていた。

 

 そんな姉のようで母のようなな大切な人を見つめていたその時に、愛莉のその手が突然止まった。いきなりどうしたのかと少しきょとんとすると、愛莉は言葉を紡いできた。

 

 

「っと、そうだ。服を選ぶ前に聞いておかなきゃだった」

 

「え?」

 

「ここで話すのもなんだけれど、聞いておかないわけにもいかないし、次話せるのがいつになるかもわからないからね、話しておくよ。

 その、どうなったんだい。和人君と」

 

 

 そこで詩乃は、愛莉に重要な事を話すのを忘れていた事を思い出す。

 

 和人の記憶による発作を抑制する方法を愛莉と話し合った後に母の話をヒントに思い付き、実行に移したところ、和人の発作を抑えることに成功した事を、詩乃は明日奈や里香といった友人達、リランやストレア、その他といった仲間達には話している。

 

 しかし、その時に皆に盛大に祝福されたものだから、そのまま愛莉に話す事をころっと忘れてしまっていたのだ。その事を少し申し訳なく思いながらも、上手くいっているという事の嬉しさを心の中で再度思い出しながら、詩乃は顔に笑みを浮かべる。

 

 

「愛莉先生……上手くいきました。完全っていうわけじゃないですけれど、上手くいったんです。あの後……」

 

「本当かい。本当に上手くいったのかい」

 

 

 驚きながら振り向いた愛莉。その様子は詩乃の答えが予想できなかったようにも見える。今まで困っている自分ばかり見てきているから、今もなお困り続けていると思っていたのだろう。

 

 

「はい。詳しく話すと長くなるんですけれど、とにかく上手くいったんです。それで愛莉先生、気付きましたか。和人の腕」

 

「腕? そういえば和人君、珍しくブレスレットをしてるなとは思ってたけれど……」

 

「あれ、私が和人に贈ったものなんです。和人にお守りとして……贈ったものなんです」

 

 

 そこでまた、驚いたような表情を浮かべる愛莉だったが、すぐに物事に納得したような顔になって「あぁ……」と呟いた後に、微笑んだのだった。

 

 

「なるほどね。あれが和人君の発作を抑制するものだったという事か。君は何らかの対策を出したけれど、それも完全じゃないから、和人君にお守りを付けさせる事で完全に抑制するって事だね」

 

「そんな感じです」

 

「なるほどなるほど。ついに君は私でも思い付けなかった事を思い付けるくらいにまでなったという事か。そして和人君は今君のおかげで、これまでどおり動く事が出来るようになった」

 

「はい!」

 

 

 思わず元気の良い返事を返してしまったその時に愛莉は大きく息を吸い、そして静かに吐き出した。安堵を感じさせる深呼吸の音を詩乃の耳に届けた後に、愛莉は柔らかく笑んだ。

 

 

「……一時はどうなるかと思ったけれど、やったわね。あなた達の事が上手くいってくれたのは、わたしも嬉しいわ。本当に良かった」

 

「はい。本当に良かったです。けれど、これも全部愛莉先生のおかげですよ。愛莉先生があの時、私の背中を押してくれなかったら、きっと今でも、私は悩んでるだけだったと思うから……だから、愛莉先生のおかげです」

 

「わたしもあなたにこの障害を乗り越えて欲しいとは思ってたけれど……でも、結局上手くいったのはあなたが実際に行動を起こせた事が理由だから、これはあなたの力よ。あなたが導いて見せた結末なのだから、自信を持ちなさい」

 

 

 いつもの喋り方ではない喋り方をしながら微笑む愛莉。その様子を見ることで、詩乃は愛莉が心の底から喜んでいる事を、祝福してくれている事を把握できて、心の中が暖かくなるのを感じた。

 

 

「その様子だと、和人君についてはもう大丈夫そうね。あなた達は今まで通り、これまでと同じように、これからを過ごしていけるわ。本当によくやったわ、詩乃」

 

 

 そうだ、もう大丈夫なのだ。皆無というわけではないけれど、和人について心配する事はもう何もない。これまで通り一緒に過ごしていける。詩乃は改めてその事に喜びを抱きつつ、愛莉に頷いた。

 

 

「はい」

 

「それなら、今日のお昼は奮発しないといけないわね。お祝いしないと……」

 

 

 詩乃が嬉しさはそれだけではなかった。愛莉は以前、しばらく会えなくなってしまうけれど、いつか必ず会いに行くから、その時まで待っていてと自分と約束していた。AI研究者という休みのなさそうな職業をしているものだから、その約束は守られないのではないかと詩乃は度々思っていたが、その約束を破る事なく愛莉はこうして会いに来てくれた。

 

 今日会えた事自体は偶然ではあるけれども、こうして一緒の時間をまた過ごす事が出来たという事が、やはり何よりも嬉しくてたまらない。

 

 

「あの、愛莉先生。ありがとうございます」

 

「え? いいのよ。わたしもあなた達が障害を越えられた事を祝わずにはいられなくて……」

 

「そうじゃないです。今日、会えた事です。愛莉先生は、ちゃんと約束を守ってくれました」

 

 

 そこで愛莉ははっとしたような顔になって、すぐさま俯いた。落ち込む事など滅多にない愛莉が落ち込んだように見えて、詩乃は少し驚いて声を出しそうになったが、それよりも先に愛莉は口を開いた。

 

 

「……いいえ詩乃。そういうわけじゃないのよ」

 

「え」

 

「今作ってるゲームは確かに完成に近付いているし、開発が終わればわたしは自由の身になるわ。けれど、ゲーム開発っていうのは最後の方に近付くと忙しくなるものだし、その後の仕事も入ってしまっているの。今日はたまたまこうして一緒の時間を過ごせているけれど、多分、これから長い間会えなくなると思う」

 

「……!」

 

「今日は本当に運がよかったのよ。けれど、それも今日で御仕舞。今日を最後にしばらくの間は、あなた達のところに行く事さえ出来なくなるわ。ALOはともかく現実世界じゃ、もう無理に等しい」

 

 

 今やっている仕事が終われば、きっとまたいつでも会えるようになる。SAOに閉じ込められていた時ほどじゃないけれど、また愛莉との時間を過ごせるようになるはずだ――そう思っていた矢先に告げられた愛莉の言葉に、思わず詩乃は言葉を失う。

 

 もし何か物を持っていたならば足元に落としてしまっていた事だろう。偶然にもバッグは肩掛け式だったから、落とさずには済んだ。

 

 

「そんな……今の仕事が終われば、終わりじゃなかったんですか」

 

「そうでもなかったのよ。わたしも次の仕事を入れられるなんて思ってもみなかったから。しかもそれもまた断れるようなものじゃ……いいえ、断りたくない仕事だったわ。寧ろ次の仕事の方が、心の底からやりたいって思えるようなものだったの」

 

「……」

 

「えぇ。あなたにはあぁ言っておきながら、結局私は約束を先延ばしにする事になってしまった。本当にあなたには悪い事をしてしまったわ、詩乃」

 

 

 申し訳なさそうに言うと、愛莉はそっと俯く詩乃に一歩踏み出し、そのままその身体を静かに抱き締めた。何度も入った事のある、暖かくて良い匂いのする愛莉の胸に詩乃は顔を埋めて、愛莉の背中に手を伸ばす。

 

 

「あなたには本当に寂しい思いをさせてしまっていたし、これからもそうさせてしまうわ。本当に、ごめんなさい。まだまだ、あなたには待たせてしまうわ」

 

 

 愛莉との約束をした時、和人と一緒に居るから平気だと思っていたし、現にいつもそう思ってきた。和人は全てを満たしてくれるし、自分の全てと言ってしまっても過言ではないくらいの人だし、目いっぱいの愛情を注ぎ込んでも足りないくらいに愛おしくて、自分にもまた、目いっぱい以上の愛情を注いでくれる人だ。

 

 だけど、そんな和人にはないものだってあるし、それが無性に欲しくなる時がないわけではない。それをお預けにされるのは慣れているけれども、長くされるのが辛くないわけでもない。

 

 これからもそんな日々が続くのか――そう思った詩乃は、愛莉の背中で拳を握る。同刻、愛莉の暖かい手が詩乃の後ろ頭に添えられた。

 

 

「だけどね、詩乃。既に決まっている事もあるのよ。今の仕事と、次の仕事は終わったら、わたしは自由になるのよ」

 

「え……」

 

「次の仕事が終わったら、わたしはもう、こんなにあなたに会えなくなるような仕事はしなくて済むようになるの。あなたが望んでくれればいつでも会いに行けるし、こうして一緒の時間を過ごす事も、あなたが望んでくれるなら、いくらでも出来るようになるの」

 

 

 明らかに都合が良すぎて、不自然さを感じさせるような話。しかし、これまで愛莉がこの口調の時に嘘を言う事なんてなかったし、この場で嘘を吐く意味や必要だってないはずだ。

 

 けれども、本当に信じるべきなのかよくわからない。それらの意味を込めて、詩乃は顔を上げて愛莉と目を合わせる。

 

 

「本当、ですか……」

 

「えぇ。わたしはあなたに、嘘を言うつもりはない。それは前から言ってるでしょう。それにね、わたし自身も思ってたのよ。こんなにわたしを好きでいてくれるあなたから、あなた()から離れる仕事をし過ぎてるって。だから、こんなにあなた達から離れてしまう仕事は次で最後にしようって決めてるの。丁度、それもわたしのやりたい仕事だったから良かったわ」

 

 

 愛莉は胸の内を語りつつも、ずっと頭を撫でてくれている。和人のと、母の持つものとはまた違う、大きくて心地よい温もりに包まれながら、詩乃はずっと愛莉の話を聞き入っていた。

 

 

「だからね詩乃。もう少しだけ、もう少しだけ待って頂戴。最後の仕事が終わったら、その時あなたの許に行くから。だから、もう少しだけ待ってて?」

 

 

 愛莉の赤茶色の瞳に自分の顔を映しながら、詩乃は瞬きを繰り返す。

 

 愛莉はもう自分が愛莉に会えない事を心配していると思っているようなのだが、そもそも愛莉の事を十年以上待つ事になっても構わないと思ってもいたし、いずれその時は来るのもわかっているから、待つ事が長引く事になっても何も思わない。辛くないわけでもないけれど、我慢できる。

 

 そもそも、和人というかけがえのない人や、ユイという家族もいるのだから、愛莉を待つ事など容易い。

 

 辛い事だって和人とユイが癒してくれるし、自分もまた和人やユイの辛さを癒すのだ――その事を既に分かっていた詩乃は、笑みを返す。

 

 

「愛莉先生、大丈夫ですよ。私はあの時に言いましたよね、十年先でも待てるって。だから私の事は心配しないで、先生は先生のやりたい事を思い切りやってください。私は……大丈夫です」

 

 

 詩乃の宣言を受けた詩乃の姉のような女性は、その目を少しだけ見開いて、すぐ目の前にある詩乃の顔をじっと見つめる。それから数秒後に、また静かに息を吐き、その顔に微笑みを浮かべた。

 

 

「……そうだったわね。わたしったら、あなたの事を気にかけすぎて、余計に心配してたみたい。それにしても……まさか、あなたにそんな事を言われてしまうなんてね」

 

 

 そう言ってから、愛莉はもう一度その手を詩乃の頭に載せる。余裕そうな笑みと、何かを面白がるような顔がいつも浮かんでいるその顔には、安堵と感動と嬉しさが混ざり合ったような、朗らかな微笑みが穏やかに浮かんでいた。

 

 

「強くなったわね、詩乃。わたしの見ていない間に……最初の頃とは比べ物にならないくらいに」

 

「……はい」

 

 

 詩乃が最初の頃には出来なかったような返事と頷き。それを愛莉に見せつけたところ、愛莉はもう一度詩乃の身体をぎゅうと抱き締めた。そして、そのまま詩乃の髪の毛の中に顔を埋めて、囁きかけるように言った。

 

 

「出来るだけ早くなるように頑張るから……待っててね。……大好きよ、詩乃」

 

「はい」

 

 

 しばらくの間、仮想世界のものしか感じられなくなるであろう、愛莉の温もりと抱擁。それを刻み込むかのように全身で受け入れつつも、次にこの暖かさに包み込まれるのはいつになるのかなと、詩乃は心の中で思いながら、愛莉の暖かさに包まれ続けた。

 

 この光景を目にした客からは、店で何をしているのだろうかと思われそうだが、そんな事を気にする事も止めて、詩乃はただ、愛莉の胸の中に顔を埋めるだけだった。

 

 そしてその十数秒後に、愛莉は包み込まれる一方だった詩乃の身体を離して、大きく深呼吸をした後に、その顔に笑みを作った。

 

 

「……さてと、しばらく出来なくなってしまうのだから、お洒落を楽しもう。詩乃」

 

「はい! コーデ、お願いします」

 

「よし来た! 私に任せておいてよ」

 

 

 自信満々に言って、愛莉は再び壁に作られた棚に手を伸ばして衣服を模索し始めた。妹思いの姉、娘思いの母親のような人であり、和人とはまた違った大切さを持つ、かけがえのない人――詩乃にとっての愛莉は、そのような人物だった。

 

 

 




次回、原作では争う事しか出来なかった和人と恭二に進展が?

KIBTでの和人と恭二の展開。乞うご期待。

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