キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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11:思い出した事と変わらない想い

 愛莉と恭二と運よく合流できた事によって織り成された楽しい一日。様々な事を予期して行動に移す事を癖にしている二人でさえも予期する事が出来なかった、どこまでも楽しい時間を終えた和人と詩乃は今、詩乃の住むマンションの一室に戻って来ていた。

 

 ここまで帰って来る途中のバスの中で、詩乃は和人に寄りかかる形で転寝(うたたね)をしていて、和人はそれを出来る限り放っておいたのだが、流石に目的地に着いたのに寝かせておくわけに居なかったので、バスが目的地に着く一分前に起こした。

 

 起きたばかりの時には、詩乃はぼーっとしていたのだが、やがて自分が寝てしまっていて、尚且つ和人にずっと寄りかかっていた事に気付くなり、顔を赤くしたものだから、和人も思わず苦笑いしてしまった。

 

 

 そんな中々二人揃っていても出来ないようなやり取りをした後に、和人は荷物をすべて持ちながら詩乃と共に歩き、すぐにSAO生還者の学生達が住んでいるマンションへ到着。

 

 その中にある、結構入り慣れている詩乃の部屋に、ついに辿り着いたのだった。

 

 そこで和人は詩乃の指示を受けて荷物を部屋の中に置いたのだが、ほぼ同時に、マンションに付いたら話したい事があるという話を詩乃にした事を、そして詩乃からも、同じように話があるという頼み事をされた事を思い出し、ひとまず詩乃の話を聞く事にした。

 

 

「それで詩乃、話ってなんだ」

 

「えっ?」

 

「ほら、電車の中で言ってたじゃないか、話があるって。何の話なんだ」

 

「あぁ、あれね。だけど、最初に言ったのは和人じゃない。和人から話して」

 

「いや、俺のは後でいいんだよ。先にお願いするよ」

 

 

 詩乃は「そう?」と言った後にゆっくりと腰を下ろして、床にぺたんと座った。同刻、和人もまた同じように座って胡坐(あぐら)をかくと、詩乃はその口で言葉を紡いだ。

 

 

「和人、その……今日はごめんなさい」

 

「えっ、なんで謝るんだよ。君は何も悪い事をしてないだろ」

 

「今日はあなたとのデートの日だった。あなたとだけ過ごすつもりだった。だけど、途中で愛莉先生と会って……私はあなたに無理なお願いをして、愛莉先生達との一日にしちゃった。本当は、今日はあなたとの時間の日だったのに……台無しにしちゃった」

 

 

 台無しなものか。確かに今日は詩乃とデートをするつもりで東京の街に赴いて、そのまま詩乃と二人だけの時間を過ごす予定だったが、途中で完全に予定が変更されて愛莉と恭二と過ごす日となった。あの時から、確かに詩乃の言う通りデートの予定は完全に潰えて、デートではなくなっていた。

 

 だが、愛莉と恭二と出会ったあの時に、もし詩乃が愛莉達と一緒に居たいと言ってくれなければ、恭二がシュピーゲルであるという事を知る事も出来なければ、恭二と本当に友人になる事も出来なかっただろうし、詩乃だって愛莉から話を聞く事も出来なければ、お洒落をする事だって出来なかった。

 

 予期しない出来事でいっぱいではあったし、デートを潰されてしまったのも事実だが、デートを邪魔されたなどとは和人は一切思っていないし、寧ろあぁなってよかったとしか思っていない。

 

 その思いを頭の中でまとめて、和人は微笑んだ。

 

 

「台無しなんかじゃないよ。寧ろ俺は、こうなって良かったって思ってる」

 

「え? そうなの」

 

「あぁ。君と愛莉先生と別れた時、俺は恭二と友達になれたんだ。そのきっかけを作ってくれたのは他でもない、詩乃なんだ。まぁ、君との時間を過ごせなくなったのが残念じゃないって言ったら嘘になるけど、俺は今日、とても楽しかったんだ。だから、そんなふうに思わなくていいんだよ、詩乃」

 

「……けれど」

 

 

 そこで和人は前へ進み、詩乃のすぐ目の前まで来たところで止まり、右手を申し訳なさそうにしている詩乃の頭に乗せた。急な事に詩乃がきょとんとしたのを見ながら、更に言葉を伝える。

 

 

「詩乃だって今日、愛莉先生との貴重な時間を過ごせたし、こんなに可愛い服を買ってもらえたじゃないか。だから今日の事は素直に喜ばなきゃ、だ」

 

「……和人」

 

「デートならまた次にしよう。君が望んでくれるなら、俺はいくらでも付き合うからさ。だから、いつでも言ってくれ」

 

 

 すんと笑む和人を見つめながら、詩乃はきょとんとしたままだったが、やがて頬を桜色に染めながら、すっかり見慣れた微笑みを、その顔に浮かべた。

 

 

「……ありがとう、和人。今度こそ、私はあなたとだけ過ごすから。だから、待ってて?」

 

「俺もそうする。それに、次は俺がデートに誘うかもだから、待つのは君かもしれないよ」

 

「そう? それじゃあ、待っててみようかしら」

 

「少々お待ちくださいませ、姫様」

 

「頼りにしてるわよ」

 

 

 そう言った後に詩乃は和人の額に自分の額を合わせて、そのまま静かに優しく、擦り付けた。SAOの時からよくやっている、二人だけのスキンシップ、詩乃だけが持つ独特な愛情表現。愛する人である詩乃からのそれを受けた和人は、詩乃の呼吸を聞き、詩乃のだけが持つ柔らかくて暖かく、愛おしい匂いを胸いっぱいに吸い込みつつ、詩乃の額に優しく自分の額を擦り付けたのだった。

 

 かつては心を閉ざしつつも人の温もりを求めて、愛情に飢えていた少女の、一頻りスキンシップ。満足するまでそれをした詩乃がそっと額を離すと、同じように和人もゆっくりと姿勢を戻したが、すぐさま、詩乃は何かを思い出したような顔になった。

 

 

「あっ、そうだわ。まだ聞きたい事があったんだった」

 

「ん、なんだ、詩乃」

 

「和人、あなたはあの時、どうしたの」

 

 

 愛おしさを感じさせる少女の微笑みから、何か重要な事を話そうとしている大人の女性の険しい表情に、詩乃の顔はゆっくりと変化を遂げた。同時に、詩乃の頬から赤みが消え去る。しかしそれでも、比較的見慣れている表情であるため、和人にとっては驚くに値しない現象だった。

 

 

「あの時? あの時ってどの時の事だ」

 

「えぇ。ほら、あなたが急におかしくなった時よ。あの時、あなた、すごく苦しそうにしてたじゃない」

 

「……!!」

 

 

 まるで身体の中に稲妻が走ったかのような錯覚を和人は感じ、同時に頭の中に詩乃の言うあの時の事がフラッシュバックする。普段からさまざまなものが浮かんでは消えるを繰り返している頭の中の色が消え去って、白一色になった直後に、一枚のスクリーンが姿を現して、色の付いた一つの映像を流し始める。

 

 この世界ではなく、まだあの世界、ソードアート・オンラインという名のデスゲームの世界に閉じ込められていた時。ソロプレイヤーとして戦いとレベリングに明け暮れる日々を送っていた和人/キリトが、ある時出会った者達との日々の映像だ。

 

 そして、絶対に忘れてはいけない、忘れることなど許されない……自らの罪。

 

 詩乃の問いかけによって、それをはっきりと思い出した和人は深い溜息を吐き、ひとまず詩乃の問いには答えなかった。

 

 いつも何かしらの答えを返す和人が何も言わないという光景を目にしたためか、詩乃はその表情を、年相応の少女が心配をしたくなるような事柄を目にした時のようなそれへ変化させる。

 

 

「もしかして、《発作》? 《発作》が起きていたの?」

 

 

 そうではない。あれはそういうわけではない。確かに苦しさのようなものも感じたし、頭の中が混乱しそうにはなったけれども、《発作》の時に出るようなものは一切ないし、吐き気だって感じなかった。あれは《発作》でもなんでもない――それを伝えるようにして、和人は首を横に振って見せた。

 

 

「そういうわけじゃないんだよ。別に、そういうわけじゃないんだ」

 

「それじゃあ、なんだって言うの。あの時あなたは、どうしたっていうの」

 

「……思い出したんだよ、あの時の事を……」

 

「え……」

 

 

 詩乃/シノンと出会い、リランとユイと出会い、アスナや他の皆といった仲間達と出会い、それらとの充実という言葉では足りないくらいの幸福で暖かい日々を過ごしていく事によって、すっかり忘却の彼方に追放されそうになっていた、かつての記憶。人を撃ち殺してしまったという罪を追った詩乃と、自分が同じであるという証明そのものである罪だ。詩乃の着ている猫耳のパーカー、黒猫を模したその姿を見る事で、その記憶はまるで「忘れるな」と言わんばかりに蘇ってきた事を、和人は目の前の詩乃に話した。

 

 終わった頃に、詩乃は驚きと悲しさが混ざったような顔になって、か細い声で言った。

 

 

「……あなたの思い出した事って、それだったの……? その、サチって人との事……」

 

「……あぁ。忘れてはいけない、俺の罪だ。……君には随分前に話してたな」

 

「で、でも、あの時はあくまで事故だったんでしょう。あなたが悪いってわけじゃ……」

 

 

 SAOの中で詩乃/シノンと出会って数週間が経って、全てを思い出したシノンに自分の全てを打ち明ける事になった日。あの時にシノンとリランの二人は、《月夜の黒猫団》の事は事故だと言ってくれた。

 

 それまで、和人/キリトにとって《月夜の黒猫団》の記憶は、あたかもこの世のすべてのものよりも重く感じられていたが、二人に言われるまま、あの時は事故だったのだと思うと、気がとても楽になり、一気に重さも消え去った。

 

 

 その軽さと楽さに、キリトは全てを任せてしまい、やがて無意識のうちに《月夜の黒猫団》の時の事は事故だったと片付けてしまうようになった。事故として片付けると、気持ちが楽になり、何の辛さも感じなくなった。

 

 あの出来事から様々な事が起きたけれど、愛する人となったシノン、同じく愛する娘であるユイ、かけがえのない相棒であるリランとの毎日を、仲間達との日々を過ごせて、ついには血盟騎士団の二代目団長を務めるまでになったのは、やはりあの時《月夜の黒猫団》の事を事故として、記憶の彼方、忘却の寸前のところにまで追いやっていたからだ。

 

 

 だが、冷静に考えてみれば、あの時自分が皆を引き止めておけば、あぁはならなかったのだ。自分が引き止めなかったせいで、《月夜の黒猫団》の皆は、サチはモンスターにやられてその命を散らした。

 

 あれは、事故として片付けてはいけなかったのだ。なのに、自分はあの時の事を事故で片付けていいという言葉に甘んじて実行し、頭の片隅を通り越した忘却の彼方へと、追いやろうとしていたのだ。

 

 

「そうだよ。そう思うと気が楽になった。《月夜の黒猫団》の皆の事は、サチの事は事故だったんだと思うと、すごく気が楽になったし、皆との楽しい日々を心の底から楽しめるようになったよ。……けど、結局俺は《月夜の黒猫団》の皆の事を忘れた。忘れる事で楽になった。もし、あの時が無かったら、俺は今でも《月夜の黒猫団》の皆の事を思い出してはいなかっただろう」

 

「……」

 

 

 それだけではない。和人が《月夜の黒猫団》を忘れていた原因の中には、サチからのメッセージもあった。和人/キリトが《月夜の黒猫団》を壊滅させたその年のクリスマス――丁度リランと出会ったその後――に、サチからのメッセージがある事に気付き、再生したのだ。

 

 そこには和人の背中を押すには十分すぎるほどのサチの思いが、その声で録音されており、それを耳にした時には涙が止まらなくなってしまって、リランを起こさないように声を押し殺しつつ泣いたのを、和人は今でも思い出せる。

 

 だが、リランとシノンに言われて、更にサチのメッセージの中に込められていた言葉を頭の中で繰り返す事で、和人の中にあった、《月夜の黒猫団》を殺してしまった罪の、罪の意識はどんどん薄れていき、現在の忘却に至っている。

 

 自分は、サチの言葉を利用して、罪の意識から逃れていたのだ――その事を包み隠さずに、和人は詩乃に言った。その話が終わっても、詩乃は何も言わずにただ、和人の事を見つめているだけだったが、和人は構わずに言い続ける。

 

 

「君はずっと自分の罪を見つめ続けているけれど、俺は自分の罪から目を離して、今まで生きていた。サチの事も、《月夜の黒猫団》の皆の事もみんな忘れて、償う事さえも忘れて……俺は……」

 

「あなた、ちょっと忘れ過ぎよ」

 

 

 突然かけられてきた詩乃の言葉に、和人はきょとんとして口を閉ざす。視線を目の前に向けてみれば、そこで詩乃がまた、険しい顔になっていた。

 

 

「確かにあなたは、《月夜の黒猫団》の人達の事を思い出すような事はなかった。けれど、あなたは私に《月夜の黒猫団》の人達の事を話してくれた時には、ある事を言ったわ。なんだったか思い出せる?」

 

「えっと……なんだったっけ」

 

「『《月夜の黒猫団》の皆の事は《思い出》。あくまで辛い《思い出》。そして《思い出》の《月夜の黒猫団》に出来る償いは、死んでしまった《月夜の黒猫団》の皆の分まで生きていく事。そして……私と一緒に生きていく事。私を守る事』よ。あなたはあの時既に、自分の罪を受け入れているわ。

 そしてその罪を乗り越えるために、あなたはずっとアインクラッドで戦って、死者を一切出さないでゲームクリアを果たした。そしてあなたは今も、私の傍に居て、私の事を守るっていう、《月夜の黒猫団》への償いを続けているわ」

 

 

 SAOの時からずっと見ている詩乃の瞳に瞬いている光を目にしたところで、和人はまた頭の中に閃光が走ったような気がした。

 

 違う、自分はずっと《月夜の黒猫団》の事を思い出すような事はなかったけれども、彼らを死なせてしまった罪を受け入れて、尚且つその償いも続けている。目の前にいる愛する人、朝田詩乃というたった一人の少女を、かつて喪ってしまった人の時のような事を繰り返さないように、守り続け、愛し続けるという事を。

 

 

「そういえば、俺はそう言ってたっけか……」

 

「えぇ。確かにそう言っていたわ。あなたが忘れても、私はしっかり覚えているわよ。そしてあなたが今も、その償いを続けている事もね」

 

 

 その時、詩乃は表情を柔らかい微笑みに変えて、両手で和人の頬を包み込んだ。何度も感じているけれど、一向に飽きる事など無い温もりを与えてくれる詩乃の手に、思わず和人は手を添える。

 

 

「あなたも私と同じよ。過去に取り返しのつかない事をしてしまって、その事に苦しんでる。けれど、あなたはその事に囚われ続けないっていうのを、償いにした。もし、これからあの罪の事に苦しめられるようになってしまったら、あなたは《月夜の黒猫団》への償いをやめてしまう事になるわ。そんなの、駄目でしょう」

 

「……駄目だと思う」

 

「そう思ってるなら、もうこれ以上、《月夜の黒猫団》の事を深く考え込んじゃ駄目よ。愛莉先生は考える事を癖にしてって言ってたけれど、あなたの場合は何でもかんでも考え込んで、抱え込んでしまうわ」

 

「……詩乃」

 

 

 和人が呟くなり、詩乃はそっと和人の身体に手を伸ばして、そのまま抱き寄せた。詩乃の方が身長が低いせいか、和人の顔は詩乃の右肩に押し付けられる事になった。詩乃だけが持つ、暖かくて優しい匂いが鼻の常に鼻に流れ込んでくるようになった直後に、耳元に静かで優しげな声が届けられてきた。

 

 

「あなたは昔の事を思い出して吃驚(びっくり)してるだけなのよ。あなたは忘れてたなんて言ってるし、そう思ってるんでしょうけれど、あなたはその人達の償いを、アインクラッドで達成したし、今でもちゃんと償いが出来てるのよ。あなたは今まで通りのあなたで過ごし続ければ、それがその人達への償いになるの。それを、忘れなければいいだけなのよ」

 

 

 後頭部に優しく撫でられているような心地よさを感じつつ、和人は詩乃の身体に顔を埋めながら、その背中に手を回す。詩乃の手が頭を撫でてくれる度に、全身の力と緊張が抜けていく。

 

 自分は確かに、《月夜の黒猫団》への償いは、アインクラッドにいるプレイヤー全てを解放する事だと思って、そしてサチの時のような悲劇を繰り返さないようにする事だと思って、詩乃/シノンを守りながら、攻略を進めて全てを解放した。この償いは、引き続き詩乃を守り続けるという形で続けられている。そしてそれを自分は、片時も続けなかった事はない。自分はずっと、償いだと思っている事を忘れてはいなかったのだ。

 

 それを頭の中で認識した和人は、そのままゆっくりと深呼吸した後に、詩乃の肩から離れた。どうやら自分は、《月夜の黒猫団》の事を思い出す事に、その罪の意識に集中するあまり、彼女らへの償いを視界の外に追いやっていたらしい。それを気付かせてくれた目の前の少女――愛すべきたった一人の人――に、和人は顔を向ける。

 

 

「……ありがとう、詩乃。やっと思い出した」

 

「これから、あなたはどうしていくつもり?」

 

「これまでと同じだよ。これからずっと、君と一緒に生きていくだけだ。君の傍にて、君と一緒に色んな事を楽しみながら、感じながら、生きていく。それが俺に出来る、彼らへの償いになるはずだし、彼らの事を考えすぎる事を、彼らは望んでいないだろうから……だから、もう大丈夫だ。心配させて、ごめん」

 

 

 胸の中にあった気持ちをすべて吐き出すように言うと、詩乃は微笑んだ。――あなたはそれでいいのよ。これからもそうして頂戴という詩乃の意思表示がわかって、和人もまた同じように笑んだのだった。

 

 しかし、それからすぐにまた、和人は軽く頭を抱えた。

 

 

「けど、なんでだ。なんで俺はこんなに大事な事を忘れてたんだ? 忘れないようにしてたはずなのに……」

 

「あれから沢山の事があったし、私の記憶を取り込んだりしたから、薄れたりしたんじゃ?」

 

 

 確かにあれから本当に様々な事があって、次から次へと大量の情報を頭の中に突っ込んだりしたし、ついには詩乃の記憶という普通ではありえないような情報さえも取り込んでしまった。詩乃の言う通り、古い記憶から徐々に思い出せなくなっていっても不思議ではないと言えばその通りなのだが、どうも違和感があって仕方がない。

 

 それこそ、()()()()()()わけではなく、()()()()()()()()()()()()()()かのようだ。

 

 

「そうかなぁ……俺にとっては忘れられるような事じゃなかったはずなのにな」

 

 

 ふと顎に手を当てて考えようとしたその時に、和人はある事に気付いた。詩乃が、きょろきょろと自分の身体に注目し、見回している。――まるで身体に付いた違和感を探ろうとしているかのようだ。

 

 

「どうした、詩乃」

 

「やっぱりもう着るのやめようかしら、この服。和人に嫌な思いをさせちゃったわけだし……」

 

 

 そこで和人はもう一度驚く。ショッピングモールで買い物を終えた詩乃が、自分の前に再度姿を現した時から、ずっと詩乃の猫耳パーカーの可愛さに見惚れていたところだったし、見ていて心地の良いものだった。こんなに可愛い服を、今日か斬りのものにしてしまうなど、もったいないことこの上ない。

 

 

「いやいやいや、そこまでしなくたっていいよ。俺はもう大丈夫なんだし」

 

「だけど……この服のせいで」

 

「言っとくけど、今の君、すごく可愛いんだよ」

 

「えっ」

 

 

 きょとんとして向き直る詩乃。その頬が再び桜色に染まりつつあるのを見つめながら、和人は続ける。

 

 

「まぁ確かに、君の猫耳パーカー姿で思い出したわけだけど、俺はその服がこれ以上ないくらいに、君に似合ってると思うんだ。それにその、ずっと可愛いって思ってたから……だから、君が嫌じゃないっていうんなら、着てほしいんだ、これからも」

 

 

 ここまで言われるとは予想していなかったのだろう、詩乃は顔を赤くしながら、自分の胸元――正確には来ているパーカーそのもの――をじっと見つめつつ、小さく言った。

 

 

「そ、そうなの……?」

 

「少なくとも俺はそう思ってるよ」

 

「そ、それなら、これからも着ようかしら。……あなたのために」

 

 

 確かに着てくれとは頼んだけれど、自分のために着るという詩乃の応答を聞くなり、思わず和人は、身体の中を熱くした。もしここがALOの宿屋の一室だったならば、これまで何度もやっている事をする事を考えたかもしれないが、現実世界であるここでは、そのような気はまだ起きてこなかった。

 

 

「お、俺のためなのか。それじゃあ、お願いします」

 

「だけど、流石に明日奈達にこれを見せるのはやめておくわ。これが大流行するわよ」

 

「確かにそうなりそうな気がするな。特に里香と珪子が着こなしそう」

 

「という事で、しばらくの間はこれをデート用にしたいのだけれど、いいかしら」

 

「お願いします」

 

 

 「わかったわ」と頷く詩乃。一時はもう猫耳パーカーの詩乃を見る事は出来なくなるのではないかと思ったが、そうならずに済んだ事がわかり、和人はどこか安堵に似た感情を抱き、同時に、これからの詩乃のデートはこれまで以上に可愛い詩乃をいつでも見れる時間となるだろうという確信を得て、心を弾ませたのだった。

 


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