「君達は知らなくて当然だが、そもそもナーヴギアは人間の脳の最深部にまで接続し、その意識や感覚をVR世界へと飛ばす物。そんな事を可能とするには、常に装着者の脳をスキャンして認識し、データ化し続ける必要がある……茅場晶彦が行ったナーヴギアによる脳のスキャニングとは、ナーヴギアが本来持っていた機能なのだよ。
私はそのナーヴギアがプレイヤーの脳をスキャンし続ける事で得た
ナーヴギアの本来の機能。
人間の脳をスキャンし続け、そのデータを集めておく機能。
俺達の付けていた悪魔の機械が隠し持っていた能力。
その存在自体が信じられないというのに、そしてその機能でさえも、ハンニバルは掴んでいる――?
あまりに途方もなくて、何もかもがハンニバルの手中にあるという事実。膨大な情報と事実が濁流のように押し寄せ、意識が遠のきそうになる。
だけど、今意識を失ってしまったら、きっとここに来た意味が全て無に帰り、何より大切なものを取り返す事が出来なくなる。それだけは阻止しなければ――そう思い込むと、押し寄せてくる情報の流れが緩やかなものとなり、頭の中に再び静寂が
それを察したかのように、茅場晶彦の娘であって、今は俺の《使い魔》であるリランが、ハンニバルへ噛み付くように言った。
「つまりあの時《疑似体験の寄生虫》に感染していたプレイヤー達は、お前がデータを取る事に成功したプレイヤー達だったというのか」
全てを手のうちに入れている悪魔の如し男は、何かを残念がるような仕草を見せつけてきた。
「半分正解で半分外れだ。それはあの《壊り逃げ男》が感情と記憶のデータを手に入れるために打ち込んだビーコン。私のやっていたものは君達プレイヤーには完全にわからないようになっていたのだよ。これはあの《壊り逃げ男》さえ、最後まで知らなかった。あれだけの頭脳を持っていたというのに、実に残念だ。
しかも手に入れられたプレイヤーのデータは三百人程度、そのほとんどが
だが、ゲームオーバーになるまでに完全なスキャニングが成功していた者もいるから、これはこれで
笑みの混ざるハンニバルの声。それで紡がれた言葉の一つ一つを繋ぎ合せていき、やがて一つのものとしたその時に、俺は目を見開く。
ナーヴギアには人間の脳をスキャニングして、その脳の持つ情報をデータ化する能力がある。そのデータが茅場晶彦のように完全に出来上がった後に、ゲームオーバーとなった者がいる。そしてそのデータを、ハンニバルは持っている。
これはつまり、ハンニバルの手中に、あのデスゲームの中で死んだ人間のデータがあるという事に他ならない。この男は、死者の魂を持っている――。
あまりに途方もない話。まるでこのVR世界も現実世界も超越した世界の話をされているような気がして、愕然としてしまう。そんな俺を余所に、ハンニバルと出会ってから沈黙を貫いていたレインがその口を開いた。
「……あんた、いいえ、お前はそこまでの事をどうしてやっているの。どうしてセブンを……七色を利用したっていうの」
「ふむ、あの娘の事だね。あの娘にコンセプトを提示したのは、君達が《クラウド・ブレイン》と呼んでいたものを完成させる事が出来るかどうかを実験したかったからだよ。一つの偶像に対して大衆が如何なる動きを見せるのか。管理者となる以上、そのデータが欲しくてね。
だからこそ、私は七色博士と接触し、七色博士にコンセプトを提示し……あのハルピュイアを与えてやったのだ。全て私の計画通りに進んでいるという自覚は、本人には何もなかったようだがね」
ぐっと歯を食い縛るレインとスメラギ。確かにハルピュイア程の《使い魔》を全く戦わないセブンが使っているというのは不自然に感じられるものだったし、そもそもハルピュイアそのものが――リラン程ではないけれども――異様なまでの賢さを持っていた。
そんなハルピュイアがハンニバルがセブンへ譲渡したものだという答えには、悔しくも納得できた。
そして、身を粉にしながら周りの期待に応えるために頑張り続けていたセブンもまた、ハンニバルの掌の上で踊らされていた哀れな女の子だったという事がわかり、より深い怒りが俺の中で湧き上がる。
そんな俺を横目にしながら、恐るべき悪鬼と同業者であったイリスが声を出した。
「……ねぇ、あんたの目的は一体なんだい。私の研究までも利用して、あの世界そのものも利用して、そんな事までやって、この国自体もこんな状態にして。そこまであんたを駆り立てるのは何なんだ」
ハンニバルは待ってましたと言わんばかりに大手を広げ、声を返してきた。
「私はただこの国に、世界に、そこに生きる全ての国民、住民に健全な未来を与えたいだけだ。私がこの国、世界の管理者となり、真なる支配を実現する事によって!」
ハンニバルはぶんと前方を腕で薙ぎ払い、声をより大きなものへと変える。
「かつてこの国は政治家、警察、報道機関と言った巨大な国家権力に支配され、これらが支配者となっていた。だが、その中の誰一人が正しい支配の在り方を実現しておらず、間違った支配を敢行していた。
そう、国民を一方的に動かし、搾取し、操り、自らを肥え太らせる事だ。そんな誤った支配が横行され続けていたせいで国内情勢は乱れ、経済の流れは
こんなにも醜く太った豚のような支配者達に、この国の未来を喰い尽くされてしまうのかと、私は嘆かわしくて仕方が無かったのだよ。だからこそ私は、それを未然に防ぐ行動を取らせてもらった。私が真なる支配を実現する支配者になり、国を、国民を救うという大いなる目的のために!」
「真なる支配……!?」
驚きの声を上げるスメラギに、ハンニバルはくんと向き直る。仮面の奥の顔には、
「今言ったように、この国をかつて支配していた者達の支配のやり方は正しいものではなく、間違いの限りを尽くしたものだった。
真なる支配というものは、支配する側と支配される側……支配者と被支配者が、互いに
俺は咄嗟に頭の中でハンニバルを否定しようとしたが、どうやってもそれを実行する事が出来なかった。
ハンニバルの言っているとおり、支配者と被支配者が圧倒的な
支配者が支配をする事で得をし、被支配者もまた支配される事によって同じくらいの得を得る関係――それこそ女王蟻と働き蟻、兵隊蟻達による巣の運営のような構図。
それをハンニバルがこの国で実現していようとしていたのだ。そして、その尖兵となって活躍をした存在の名を口にしたのは、それまで黙りこくっていたレインだった。
「……それが《マハルバル》……」
「そうだ。私は《マハルバル》を使い、全ての権力者達の権力を削ぎ落してやった。その結果、彼らは権力者、支配者の座から転がり落ち、最早再起不能のところまで行った。そうしてこの国は新たな発展を遂げ、国民は喜びで満ち溢れ、経済状況も回復を開始した。これも《マハルバル》という存在を私が生み出し、そしてそれを管理しているからこそ出来ているもの。
私ほどこの国の、いや、この世界の管理者に相応しい者はいないだろう」
まるで自分が神にでもなったかのような、須郷さながらの振る舞いを見せるハンニバル。――いや、もしかしたら須郷はハンニバルから様々な影響を受ける事によって、あのような人間へと変化してしまったのではないかとも勘ぐる。
そして何より、反論できない。
確かに《マハルバル》のおかげで支配者達は敗れ去り、
「だが、面白いのはここからだ。私と《マハルバル》によって旧支配者達となった者達は残された力を使い、私と《マハルバル》を悪魔と
やはりか、と思った。俺がリランと力を合わせて戦い、打ち勝ったゼクシードという名のプレイヤー。その現実の姿である
だが、俺も皆もこれを真実だとは思わず、茂村は本物の《壊り逃げ男》に濡れ衣を着せられただけなのだと思って、その後の動きを追っていた。
……それこそが正解だった。やはりあの茂村/ゼクシードが《壊り逃げ男》であるという話はハンニバルが仕組んだ罠、マスコミと警察を踊らせるための餌であり、茂村は
あの報道番組の有様は全て、ハンニバルが俺達国民の気を引くため、マスコミと警察を馬鹿騒ぎさせるために用意した茶番狂言だった。世間も国民も、結局全てハンニバルの掌の上で踊らされていただけ――その事を改めて認識し、歯を食い縛ると、ハンニバルは前が見えているのか怪しい仮面で、俺の目を見つめてきた。
「……一番最初に言ったな。私は君達が私を知る以前から君達の事を知っていた事を。中でもキリト、君の事はアインクラッド攻略時の序盤から知っていた。そう、PoHを通じて……」
「なんだと」
そこで俺と第五層攻略時のある時に出会い、後に殺人ギルドを作る事となるハンニバルの部下、PoHは一歩踏み出した。
「オレとオマエはあのゲームの中で出会ったけどよ、オレはオマエと出会って早々BOSSに報告したんだよ、オマエの事をな。そしたらBOSSはお前にぞっこんになっちまってなぁ……」
「君の事はずっと観察させてもらったよ。様々な苦難を乗り越え、悲劇に直面しながらも立ち直り、MHHPの一体であるマーテルを《使い魔》とし、茅場晶彦とぶつかり合い、彼の結成した血盟騎士団の二代目の団長となり、そこから一人も死亡者も出さずにアインクラッドの百層に到達し、私の用意した《壊り逃げ男》を見事討伐して、世界を救って見せた英雄にまでなった、君の過程全てをね」
「おにいちゃんを、ずっと見ていたの……!?」
愕然としてしまっているリーファの声を聞き、俺は俯く。
確かにあの世界では命を狙われる事も多かったし、誰かに見られているかのような感覚を覚える事もあった。だけどまさか、それら全ても含めてハンニバルに見られ、読まれていたなんて。俺のやっていた事は、全てハンニバルの目の中に送り込まれていて、何もかもがハンニバルに筒抜け。
付き付けられたその事実を把握するよりも先に、ハンニバルは声を送り込んできた。
「しかし、そんな君に彼女が落ちて来たという偶然には驚かされた。《壊り逃げ男》がネットの海から偶然拾い上げた娘が、まさか君の元へと辿り着き……更に特異な感情パターンを持っていた娘であったというのにはね」
得々と言ってハンニバルが掌を広げると、その上空に赤黒い二つの球体状の光が出現する。一体何事かと思った一同――俺も含めた――が注目すると、赤黒い光球は爆発するようにして弾け、中にある者を
「……!!!」
どこまでも続いていく深海のような闇の中に現れたのは、若干露出度の高い戦闘服に身を包んでいる、山猫を思わせる尻尾と頭から生えている一対の大きな耳が特徴的な少女と、黄色と青色を基調とした衣装を身に纏っている、銀色の長髪が特徴的な小さな少女が、まるで生贄のように
紛れもない、俺の愛する人であり、突然連れ去られたシノンと、同じく突然連れ去られた、レインの妹であり、幼き女神とも言われるセブンの二人。しかも両者の身体のあちこちに赤黒い光で構成された槍のようなものが何本も突き刺さっており、それが二人を磔の体勢にさせている。
あまりの光景に頭の中が痺れそうになるが、それよりも先に俺の口は動き、愛する人の名前を叫んでいた。
「詩乃ッ!!!」
「七色ッ!!!」
俺の声と合わせるようにレインも叫び、やがて皆も同じように二人の名前を叫んでその声を闇の中へと吸い込ませていく。しかし、綺麗に並べられた二人の少女は俺達の声に反応する事はなく、シノン――詩乃というべきなのだろうか――に至っては右耳が槍で貫かれてしまっている有様であり、俯いたままピクリとも動かなかった。
燃え盛る焔のような耐え難い怒りが俺の身体と心の中で湧き上がり、自然と背中の剣へと手が伸びて行ったその時、彼女達をこんな目に遭わせた元凶は声を出す。
「綺麗なものだろう。この二人こそが私の世界の管理の手助けをしてくれる人材だ。君達がセブンと呼ぶのは優れた頭脳とカリスマを、シノンと呼ばれるのは特異極まりない感情のデータを持ち合わせている。どちらも野放しにしておくには惜しいもの、私が管理してあげる事で真価を発揮するものだ。
だからこそ、私は彼女達を管理物とする事にしたのだ。世界の管理のための
突然の声掛けに少しだけ驚き、その方へ顔を向ける。ハンニバルの声は続けられた。
「私はずっと君を見てきた。そしてその中で確信したのだよ、君はPoH同様私の下に来るべき存在であり、とんでもないポテンシャルを秘めている逸材。私の管理の下へ来るべき存在なのだ。
勿論ただで君を管理しようという事などしない。君が私の管理下へやってきたのならば、君に常に多額の報酬を支払い続け、尚且つ大切なこの娘ともずっと一緒に居させてあげよう。思う存分自分のポテンシャル、才能、力を発揮できる環境に居る事が出来るようになるのだから、悪い話ではないはずだし、それがわからない君ではないはずだ、キリト」
如何にも誘っているような口ぶりで手を向けてくるハンニバル。SAOのヒースクリフとのデュエル直前の時、このALOでのセブンからのヘッドハンティングの時。その時と同じような文句を謳い、ハンニバルは俺の事に交渉を持ちかけて来ている。
どこまで本当なのかはわからないけれども、その口ぶりから察するに、ハンニバルが俺の事をずっと見ていたというのは事実だろう。それ故にこいつは俺の全てを理解していて、それを欲しがっている。
だからこそ、こいつはこのような形を取ってまで俺に交渉をかけて来ているのだろう。俺の事を欲したセブンよりも徹底的かつ大がかりに。その交渉内容を耳にするなり、仲間達が一斉に俺へ視線を向けて声を出し始める。
「駄目だキリト、こいつはお前を嵌める気だ!」
「こいつは嘘夢野郎だ! お前の事を嘘夢に閉じ込めるつもりに違いねぇぜ!」
「キリト君……!!」
ハンニバルの罠に嵌りそうになった事のあるディアベル、ハンニバルの見せた嘘夢に踊らされたクライン、ハンニバルに一度息子を殺されたアスナの順で言葉がかけられる。その他の者達も「行くな」「答えては駄目」などの言葉を向けて来たが、俺は返事をせずに上空の闇を見る。
暗黒の槍に身体のあちこちを貫かれる事で磔の形にされている猫耳の少女。衣服こそは乱れていないし、ダメージエフェクトも出ていないけれども、確実に痛みを受けているであろう。そのあまりの無残な姿に、かつてSAOで少女の身に起きた事柄の全てが頭の中でフラッシュバックする。
少女――シノンは最初から最後まで酷い目に遭い続ける一方だった。その傍に居れば当然の如く俺も巻き込まれる事になったが、その中で俺は彼女の事を心の底から守ってやりたいと思った。SAOの中に現れる全ての敵から彼女を守り続け、それが最終段階に達したその時、シノンはハンニバルの生み出した《マハルバル》に拘束され、身包みを全て剥がされたうえで凌辱され、更にその記憶を
そんな狂った出来事を作り出した者は《マハルバル》であった須郷であり、須郷を《マハルバル》にしたのはハンニバル。
《マハルバル》の凶行から彼女を助け出した時から、その中で全てを知った時から、俺はもうある事だけを決めており、それを実行していく事こそが俺の使命、人生そのものであるという事を把握したのだ。そんな俺へ向けられている誘いへの答えなど、一つしか存在していない。
その内容を頭の中で瞬時にまとめ上げると、俺は一歩踏み出して、口を開けた。
「……ハンニバル。多分俺があの世界で過ごした二年間を、お前は見て来たんだろうな。けれど、お前はそれでも全然わかっていない」
「ほぅ。というと?」
「その娘は……シノンは、朝田詩乃はお前の管理物なんかじゃない。詩乃の心は、精神は、身体は、全て詩乃自身のものだ。そして、俺の命は朝田詩乃ただ一人のものだ」
顔を上げて目線を前に向けると、ハンニバルとPoH、シノンとセブンが同時に瞳の中に映り込んで来た。
「その詩乃の命と心を冒そうとしているのがお前なら、俺はお前の事を倒し、彼女を守るだけだ。例えお前がこの国をどんなにいい方向に作り変えられる管理者でも、どんなに恐ろしい力を持った奴だったとしても、お前が詩乃を俺から奪うつもりなら、俺は全力でそれを阻止するだけだ」
愛する人を俺からもう一度奪い取ろうとしている悍ましき存在をしっかり認めながら、俺は背中の鞘に手を伸ばし、剣を引き抜きはらった。
「ハンニバル……詩乃を返してもらうぞ。そして、ここまで外道な事をやらかし続け、俺達プレイヤーを見ておきながらその命を救おうともせずに
言い放つと、皆の方から歓声に近しい声が上がった。きっと皆は喜びの表情をその顔に浮かべている頃だろうけれども、俺はハンニバルから目を離さないようにする。そうでなければ、何をしてくるかわかったものではないからだ。
そんな俺の目を見ながら、ハンニバルをボスとするPoHが呆れたような声を出した。
「おいBOSS。あんたのお気に入り、あんたの要求を断りやがったぜ。まぁ読めてた展開だけれどさ」
「無論、こうなる事は予想できていた。寧ろ君ならばそのような答えを返すと思ってはいたよ」
PoHのボスは目の前を腕で振り払うと、PoHの方へと向き直る。
「PoH、君はそろそろ戻った方がいい。今の君はこれまでの君とはわけが違う環境にいるのだ」
「わかってる。あんまり長い事居ると怪しまれそうだしな。いつもどおり、その命令に従わせてもらうぜ」
黒ポンチョの長身の男は俺に顔を向け、凶悪さを感じさせる笑みを浮かべながら、言葉を発してきた。
「喜べよキリト。BOSSがここまでの事をオマエを大事に思ってくれてるんだからよ。もしBOSSと戦うつもりでいるっていうなら、光栄に思うんだな」
「PoH……逃げるつもりか」
「あぁ、BOSSの命令だしな。またいつか会おうぜ、キリト。その時にはオマエと戦える時だって信じてるぜ」
殺戮者のそれにしては穏やかな口調で言うと、黒ポンチョの男の身体はこの世界を脱する時の光に包み込まれ、やがてその姿を完全に消滅させた。その様子を見届けた仮面の男はくるりとこちらに向き直り、もう一度腕を開いた。
「キリト、君は私の誘いを断った。だが、私は君を手に入れたい。君を手に入れたくて、管理下に置きたくて仕方が無いのだよ」
「なら、どうするっていうんだ」
「力尽くで君を手に入れるだけだ!」
ハンニバルが力強く言い放った次の瞬間、突然地面が揺れ始めた。いや、揺れているのは地面ではなく、この闇の広がる空間そのものだ。ここに満ちている空気が、大気自体が振動をしている。それだけの事を起こせる存在がここに来ているというのか――と思ったその時だった。
突然、地面に広がる闇の中から巨大な何かが飛び出してきた。途轍もない暴風と衝撃波が巻き起こり、俺達は一斉に暴風に吹かれた塵のように宙を舞う。しかし、何度もこのような事を経験してきた俺達は一斉に翅を開いて滞空状態となって体勢を立て直す。だが、その時に目の前に出現していたモノに、俺は思わず言葉を失ってしまった。
どこまでも広がっていく闇の空間の中に、全身を黒と金色と白色で構成された禍々しい装飾の施された鎧で身を包み、肩から一対、龍頭とも言える腕を生やしている、全長三十メートルを超えるくらいの、上半身だけの巨人が君臨していたのだ。
これまで見た事もないようなモンスター、まさしくレイドボスと言えよう存在が出現していた事に皆で目を見開いていると、頭の中に《声》が響いてきた。
《これこそがスヴァルト・アールヴヘイムをクリアした者の前に現れる裏ボス、《深淵の闇神》だ。私の力を持ってすれば、このようなモノを呼び出す事も容易なのだよ、諸君》
《声》の声色はリランのものではなく、先程から聞いているハンニバルの声色そのもの。それがあの異形の巨人から発せられている。――今、ハンニバルは姿を変えて異形の巨人となっているのだ。そしてその方法は勿論普通のやり方ではなく、チートやクラッキングと言った不正行為。
そんな事をやってまでこうなっているハンニバルに呆れたように、イリスが言う。
「はっ、クラッキングで呼び出したっていうのかい。何度も何度も犯罪を繰り返したうえでこんなに堂々クラッキングしてるんだから、逮捕されて罰せられる覚悟があるって事だよね」
《罰だと? 警察に捕まるだと?》
言葉の意味を一つ一つ確認してから、ハンニバルは大きな《声》を上げて笑い始める。一体何が可笑しいというのか。問いかけようとするよりも先に、ハンニバルはくっと顔を俺へ向けた。
《どうやってそのような事をするのだ。どうやって身体のない存在を逮捕する? 身体を持たない存在に法が適用される事など、前代未聞だ》
「身体が、ない……?」
リランの戸惑いを耳にしてすぐに、俺はその答えを導き出せたような気がして、背筋に悪寒が走ったのを感じた。この男は妙に詳しくナーヴギアの機能の話をして、尚且つ電脳世界へ意識と心を移植する事に成功した茅場晶彦を引合いに出してくる。
そして今の、身体のない存在という言葉。まさかこのハンニバルは――。
「まさかお前も……このネット世界に意識を移植しているのか!?」
《そうだ。世界の管理者となる者に、身体などという融通の利かない物は必要ないからな。私は身体をとっくの昔に喪ったうえで、この世界に存在している。そして、この世界の管理者となるのだ》
そもそもハンニバルはあの茅場晶彦と同じところに居た人間であり、茅場晶彦とも交流のあった人物であるはず。恐らく茅場晶彦のやった事も、自身が出来るように準備を進めていたのだろう。その末にこの男は茅場晶彦と同様の行動を取り、現実世界の身体を捨て去り、ネット世界の存在となったのだ。
現実世界に身体を持たないが、ネット世界で意識を持っており、尚且つ世界を裏から管理する存在になろうとしている。まさしくネット世界の神とも言えるような存在。それがこのハンニバルなのだ。
そんな存在を現実世界の警察が逮捕できるわけがないし、現在の法律などが適用されるかどうかさえも怪しい。この男のやる事はとにかく用意周到且つ用心深い傾向にあったが、それが最大限に発揮されているのがわかる。
俺はなんてものを敵に回してしまったのだろうか。目の前のハンニバルという途方もない存在のその大きさに押し潰されそうになったそこで、耳元に声が届けられてきて、ハッと我に返る。そのまま声の方向に顔を向けてみれば、いつになく険しい顔をしているレインの姿があった。
「キリト君。もうあいつの事は人間だなんて思わなくていいよ。あいつはネット世界に現れてしまった怪物……そして、七色とシノンちゃんを連れ去って、わたし達プレイヤーを散々酷い目に遭わせてきた元凶だよ」
オレンジ色の眼差しで伝えるレインに続けて、リランが何かを感じ取ったように俺の元へとやってくる。
「あいつの身体からシノンとセブンの反応を感じる。あの二人を取り戻し、ハンニバルを倒ならば、今が最後のチャンスであるぞ、キリト」
オレンジ色、紅色の眼差しを受けた俺は、頭の中でSAOでの悲劇をフラッシュバックさせる。
そうだ。ハンニバルはこの国を混乱に陥れただけじゃなく、最初から俺達SAOプレイヤーの事を監視していて、いつでも俺達を救えるのにその命を守ろうとも救おうともせずに傍観し、そのうえ《笑う棺桶》や《ムネーモシュネー》などの存在までも作り出して世界を、プレイヤー達の命を
完全にすべての元凶であり、本当に世界を手中に収めんとする野望と力を兼ね揃えている邪神。その忌まわしき邪神の手中に、レインの妹と俺の愛する人は囚われており、俺達はその邪神と戦える状況にある。
今こそ愛する者を取り返す時。SAOに残してきてしまっていたモノを断ち切る時だ。それを再認識した俺は、あのデスゲームの生還者達に声をかけた。
「皆、俺達はあの世界を終わらせてはいなかったんだ。このハンニバルこそが、今も生きているあのデスゲームの世界。あの世界を、今度こそ終わらせるぞ!」
待ってましたと言わんばかりに、皆は一斉に武器を引き抜き、「おぉっ!!」と唱和する。続けて俺は、あの世界を経験したわけでもないのに協力してくれている部外者達に声掛けした。
「カイム、シュピーゲル、サクヤさん、アリシャさん、スメラギ。あの世界と何も関係がないのに、巻き込む事になってしまってごめん。けれど頼む、俺達に力を貸してくれ!」
結局言えば何も俺達SAO生還者の戦いに巻き込まれる理由のない五人。しかしその誰もが武器を引き抜き、交戦体勢となり、俺に強気な笑みを返して来ていた。それこそ、こうなって良かったと言わんばかりだ。
それを確認した俺は、対峙する異形の巨人へ向き直り、咆哮した。
「行くぜハンニバルッ! お前を倒して、あの世界に決着を付けるッ!!」
次回、ファイナルバトル。
どうか最後までお付き合いください。