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「良かった……何もなくて……」
SAO事件、《壊り逃げ男》事件の実質的黒幕と言えるハンニバルとの熾烈を極めた戦いの末、勝利を収めたキリトは街に帰るなりログアウトし、現実世界へ戻った。
現実世界よりも時間の流れが速くなっているALOでは、キリト達が帰って来た時には夕暮れ時であったが、現実世界では昼の二時を軽く過ぎた程度。
まだ十分な時間がある事を確認したキリト/和人はほぼ同刻にログアウトしてきていた妹であるリーファ/直葉にいつものように外出する事を報告し、ある程度の準備をしてから外へ出て、いつものバイクは使わずに電車に乗り、詩乃も住むSAO生還者達のマンションへと向かった。
すっかり足を運び慣れた高層マンションに該当する規模の住居施設に辿り着くなり、一目散に和人は詩乃の部屋へと直行。何度も見ている扉の前でチャイムを鳴らすと、ドアが開き、中から一人の少女が姿を見せてきた。
自分の愛する人であり、ハンニバルによって囚われてしまい、意識を閉ざされていたシノン/詩乃。その姿を見たその時には思わず大声を出してしまったが、詩乃の意識がはっきりしている事、そして詩乃がちゃんと動く事が出来る事、そして詩乃が病院へ行く準備が出来ている事を把握すると、そのまま詩乃と共にマンションを出て、詩乃のかかりつけの病院へと向かった。
そこは以前イリス/芹澤愛莉が勤めていた東京都千代田区御茶ノ水の都立病院。受付に詩乃を連れていき、脳の検査を依頼するとすぐさま手続きが始まり、詩乃は
それから一時間くらい経過したくらいだろうか。少しだけ疲れたような顔をして詩乃が待合室へとやって来た。話を聞いてみれば、全ての検査が終わったらしく、結果はすぐに出るとの事だ。
詩乃の言葉遣いはこれまでと何も変わらないものであり、ハンニバルに捕まっていた間以外の記憶もすべて思い出せると本人が言っていたが、ハンニバルなどというものに捕まっていたのだから、何かしらの障害みたいなものが残っているかもしれない。
一見すれば過度とも思える心配を和人がしていると、放送で詩乃の名前が呼ばれた。どうか何もありませんように――そう思いながら詩乃と共に医師の待つ診察室へ向かい、そこで待っていた男性医師に話を伺うと、ついに結果は出された。
その内容は、異常なし。詩乃の脳には委縮、傷、障害といった異常は何もなく、至って普通の状態であるとの事。記憶も失われているような事もなければ、意識に障害が発生している様子もない。
詩乃の脳は至って健康そのものである――という医師からの報告を受けるなり、和人は心に大きな安堵を感じ、脱力感にも似た感覚に襲われた。あまりにその様子が大袈裟なものだったから、張本人の詩乃にも驚かれてしまったが、和人はすぐさま立ち直って医師に礼を言い、受付で医療費を払って病院を後にした。
その後の事はあまり記憶に残っておらず、気付いた時にはSAO生還者のマンションの一室、詩乃の暮らす部屋の中に戻って来ていた。そして目の前には詩乃がちゃんと存在している事を確認するなり、和人はその場でもう一度強い脱力感に襲われ、床に座り込んだ。
丁度そこは詩乃と共に過ごすリビングの中央付近であった。
「良かった……君に何もなくて……」
「……ごめんなさいね。心配をかけさせるような事になってしまって……」
和人の目の前に座る詩乃の顔には、申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。これまで何度も見てきている表情ではあるけれど、それをちゃんと見る事が出来た事自体に、和人は喜びに似た気持ちを抱く。
ログアウトしてから詩乃に会いに行くまでの間、和人は詩乃の事だけしか考えていなかったうえに、不安に心を支配されていた。
ハンニバルなどという、あの《壊り逃げ男》よりも凶悪なテロリストに、よりによって脳に接続する機械を付けている状態で連れ去られたのだから、《壊り逃げ男》がやろうとしていた事が現実になってしまったのではないか。
詩乃の記憶は今度こそ滅茶苦茶にされてしまったのではないか。
もしくは詩乃の記憶そのものが失われてしまったのではないか。
そう言った不安や心配がより強くなった感情が、黒い水のようになって和人の心の中に溜まり続け、抜ける気配を見せないでいた。詩乃がこうして自分の目の前に居てくれて、尚且つ自分の名前をしっかりと呼んでくれる、今この時まで。
(……)
けれど、元々このような事になってしまったのはあの時自分が動けなかったせいだ。ハンニバルが突然姿を現したあの時、もし自分が動けて詩乃を守る事が出来ていたならば、詩乃はハンニバルに囚われずに済み、危険に晒される事だってなかったはずだ。
結局、守るべき詩乃を危険に晒したのは俺だ――安堵と安心を上書きするようにやるせなさと申し訳なさ、不甲斐なさが心の中に湧き上がってくると、耳元に小さな声が届けられてきた。
反応するように顔を上げてみると、そこには顔に微笑みを浮かべた、守るべき少女の姿。少女は和人の瞳を自分の瞳の中に映しながら、静かな声で言葉を紡いだ。
「和人、ありがとうね。また私を、助けてくれて……」
「え?」
「……捕まってた間の事はいまいち思い出せないんだけど、私、すごく怖かった。また捕まって……また襲われて、身体も心も滅茶苦茶にされるんじゃないかって。捕まって意識がなくなるまで、ずっとそう思ってた」
俯いた詩乃の顔に影が落ちる。
詩乃はSAOの時、ハンニバルさえも《壊り逃げ男》と呼ぶようになった存在であるアルベリヒ/須郷伸之に捕まり、酷い人体実験の被検体にさせられた。
アルベリヒを《マハルバル》と呼ぶ存在と化させ、やがて《壊り逃げ男》に変化させてしまったハンニバルに捕まったあの時は、十分にその時の事を思い出させるに足りるだろう。
「けれど……同時に信じてた事もあった。もし私があの時みたいになるなら、あなたがきっと助けに来てくれるって。私が捕まったとしても、和人がきっと助けに来てくれるって……信じてたの」
上げられた詩乃の顔にもう一度微笑みが浮かぶと、和人は頬に温もりを感じた。詩乃の両手が伸びてきて、そっと自分の頬を包んでくれていた。
「だからね、目を開けた時にあなたが居た時、すごく嬉しかった。やっぱりあなたが、私を助けに来てくれたんだって。和人は私を助けに来てくれるんだってわかって……嬉しかったの。だから和人、もう一回言うね」
詩乃は穏やかに笑み、鈴のような声で伝える。
「私を助けに来てくれて、いつも私を守ってくれて、本当にありがとう。あなたは私にとって、本物の
その声を一言一句しっかり聞き終えてから、和人はそっと自分の頬を包む詩乃の手を自らの手で包み返した。
芸術品のような美しい細さを持ち、雪のような白さだけれども、しっかりとした芯の強さを感じさせる詩乃の手。何度も触れてきているそれに改めて触れる事で、その温もりが頬と手を通してじんわりと全身に広がり、やがて和人の心に確信が生まれる。
自分の守るべき少女――たった一人の愛する人である朝田詩乃は今、自分の目の前にいる。あの時守る事は出来なかったけれども、詩乃を助け出す事は出来た。詩乃を帰るべき場所に帰らせる事が出来たのだ。
詩乃をハンニバルに盗られてしまったなんて事は、なかった。愛する人を、守るべき人をまた喪う事はなかった――その事がわかった時には、和人は両腕で詩乃の華奢な身体を抱き締め、その肩口に顔を埋めていた。
「……当たり前だろ。俺の命は君一人のものなんだから。これからも俺は君を守り続けるし、君に何かあったなら助ける。もう……絶対に君を離したりなんかしない」
「……えぇ、私もよ。私もあなたから離れたくない。あなたとずっと一緒に居る。これからもずっと、一番安心出来るあなたの傍に、居るね……」
詩乃は答えるなり、和人と同じように両腕を和人の背中に回し、肩口に顔を埋めて、その温もりと匂いに包み込まれた。
いつもならここで互いの唇を重ね合ったり、それ以上の事をしようと思うところだが、不思議とどちらともそのような気を起こす事はなかった。
ただただ、互いの温もりと存在を、刻み込むように抱擁し合うだけ。単純かつ簡単なものであったが、今の二人にとっては事足りる事だった。愛する人を抱擁し、その温もりと匂いに包まれているその中で、和人は確信する。
詩乃は自分に依存している。自分の事を夢に見るくらいに依存してくれている。けれどそれは詩乃だけじゃなく、詩乃が愛してくれる、詩乃を愛する自分にも言える事だ。
自分の目にはいつも朝田詩乃という少女だけが見えていて、それ以外の女性を見る気が起きない。そして、何かあれば詩乃の事を最優先で考え、詩乃の身に何か危険が及ばないかどうかを心配し、喪ってしまった時の事を考える事さえある。
そして何より、詩乃に依存される事を何よりも心地よく感じていて、詩乃に依存される事に依存している。自分達の関係は、
けれど、最早そんなものはどうだっていい。自分にとってこの朝田詩乃という少女は何よりも大切な存在であり、生涯守っていくと決めた伴侶であり、自分の生きる意味、使命そのものなのだ。
依存し、依存される関係ではあるけれども、詩乃が自分の愛する人、自分を愛してくれる人であるという事実は揺るがない。
自分はこれからずっと詩乃を守り、詩乃と共に歳を取り、詩乃と様々な思い出を作っていく。それだけは絶対に変わらないし、変えるつもりもない。詩乃に危険を晒すものがいるならば、それを自分が
それを心の中に刻み込むように思うと、和人はより一層強く詩乃の身体を抱き締め、その肩口に顔を押し付けた。
それから三分ほど経ったあたりで、二人は比較的長きに及んだ抱擁を終え、再度無言で自らの瞳にお互いの姿を映し合うようになる。比較的高い場所にあるせいか、外からの喧騒は聞こえて来ず、二人が喋らなければ部屋の中は不思議なくらいに静まり返る。
その静寂を先に破ったのは、何かを思い付いたような顔になった詩乃の方だった。
「そういえば和人……私が捕まってた間、あなたはハンニバルと戦ったのよね」
「え? あぁ、そうだけど」
「ハンニバル、私に関して何か言ってた?」
自分達はほぼ総力を結集する形でハンニバルと戦い、ある程度ハンニバルの目的の話なども聞いたけれども、詩乃はハンニバルに捕まっていたために、その内容を何も知らないのだ。
その事に気付かされた和人は、
その話を詩乃は最後まで表情一つ変えずに話を聞いてくれていたが、終わりに差し掛かったところで急に表情を強張らせた。
「……私が……特異な感情を持つ存在……だからあいつは、私を……」
「あいつが言っていたからには、そういう事らしい。君が特異極まりない感情を持っているから、自分に必要だとか……そんな事を言ってたんだ。全ては自分を世界の管理者にするために、その一環として君の感情のデータを欲していたみたいなんだよ」
「……なんで」
和人もそれが一番気になっていたところだ。ハンニバルを倒した今であっても、ハンニバルが詩乃の感情のデータを欲した理由が掴めていない。
ハンニバルは自分が世界の管理者になるためには特異極まりない感情のデータが必要と言っていたが、SAOという一種の極限状態の世界を経験した自分達SAO生還者達は誰もが特異極まりない感情を持っているに該当するはず。だから、SAO生還者ならば誰でも対象にする事が出来たはずなのだ。
なのにハンニバルはシノン/詩乃だけを連れ去り、感情のデータを取ろうした。その理由は一体何なのか聞き出そうと思うよりも先に、ハンニバルは消滅してしまったのが現状だ。
こんな事になるくらいならば、あの時尋問――それこそ拷問でもいい――をかけて理由を聞き出しておけばよかったと、和人は思った。
「俺にもそれはわからない。けれどハンニバルの事だから、どうせろくでもない事だよ。ろくでもない事に、君を利用しようとしてたんだ」
「……私は、そんなものに利用できるっていうの……」
詩乃の顔により深い影が落ちる。
何とか詩乃の言葉を否定したいところだけれども、ハンニバルがあの時詩乃と七色だけを連れ去ったという事は、この二人には自分達で話し得ない何かがあるという事の証明に他ならない。
許せない事だけれども、ハンニバルの計画に詩乃という存在が必要であったのは事実であろう。けれども――その続きを思うよりも先に、和人は詩乃の肩に手を置く。
「大丈夫だよ詩乃。あいつはもう死んだ。あいつの計画は完全に潰えたと思うし、PoHも《壊り逃げ男》もボスを失って迷走しているはずだ」
「……」
見るだけではわからないけれども、詩乃の身体は小刻みに震えていた。須郷の時と言い、ハンニバルと言い、連中は詩乃の事を狙う傾向にあった。
確かに詩乃は他の少女達と比べて酷い目に遭ったりしているし、そのせいでPTSDというものまで
その事への明確な恐怖が今の詩乃にある事を、和人はまざまざと感じていた。それを何とか打ち消そうと思って、言葉を紡ぎ続ける。
「だからもう、奴らが俺達を狙ってくる事はないし、君を連れ去ろうとしてくる事もないよ。だから、大丈夫だ」
「……その時は、あなたが守ってくれるの。あなたが私を助けてくれるの」
「さっきからそう言ってるじゃないか。俺はそんな理由で詩乃を狙う奴を許す気なんかない。君を連れ去ろうとする奴がいるなら、それから君を守るだけだ。だから、もう大丈夫だよ、詩乃」
出来る限り優しげな声色で言ってやると、強張っていた詩乃の顔に
「……わかったわ。私も連れ去られないように抵抗するつもりだけど、どうにもならなくなった時はまた……助けてね、和人」
「任せてください、俺だけの姫様」
和人の返事の直後に、詩乃はゆっくりと前のめりに身体を倒し、全身を和人に預ける。同じく全身でそれを受け入れた和人は、再度両手を詩乃の身体へ回して抱き締め、柔らかく繊細な髪の毛をゆっくり、優しく撫で始めた。
「ねぇ和人……今日一日だけ、あなたの傍から離れたくない。一日だけでいいから……泊まっていってくれない」
「俺も同じ気持ちだよ。俺も今日は君から離れたくない……その要求を呑み込むよ」
「絶対よ。絶対、私を離さないで。一日だけでいいから、ずっと私の傍に……」
「……うん」
互いの気持ちを確認し合うように言い合うと、二人はそっと互いの身体から離れた。その時には既に、詩乃の身体の震えは止まっていて、静寂を取り戻した部屋の中には夕日が差し込んで来ていた。
時刻は既に夕方の五時。普段ならばまだALOにログインして遊んでいる頃だ。そして直葉が――家にいるならば翠も――夕食の支度を始める時間帯でもあるし、周りの一人暮らしをしているSAO生還者達が夕食の材料を買いに行く時間だ。
詩乃の事だ、しっかりと冷蔵庫の中に食材を保存しているのだろうけれども、それはいずれも一人用であり、和人の分まで用意されているわけではないだろう。察した和人は目の前の詩乃に問うた。
「ところで詩乃、今日の夕飯の材料って……」
「ごめんなさい、あなたの分はないわ。買いに行かなきゃいけないわね」
「そうだろうな。それじゃ、一緒に行こうか」
「えぇ」
詩乃が頷く仕草を見た和人が立ち上がると、同じように詩乃もまた立ち上がり、もう一度軽い身支度を始める。
和人も何となく手伝った甲斐もあってか、三分足らずで終わせられると、二人は一緒に部屋を出てマンションを後にし、詩乃がよく使っている下町のスーパーマーケットへと向かった。
そこまで向かう二人の様子は、すでに夫婦のようでもあった。