キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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Ex3:唯一無二の大切な人

         □□□

 

 

 現実世界 SAO生還者のマンション 詩乃の部屋

 

 

「ごめんなさい和人。私、また我儘な事を頼んじゃって……」

 

「いいさ。丁度俺もそれくらいの事はしたいって思ってたんだ。まぁ、まさか二日連続を頼まれるとは思ってなかったけどさ」

 

 

 そう言いつつ、大きなリュックを床に降ろす和人。まるでどこかに旅行に出かけたかのようなその姿を、詩乃は安堵感を抱きなら見つめていた。

 

 

「やっぱり迷惑だったかしら。二日も泊まってほしいだなんて……」

 

「いや、そんな事はないよ。俺も詩乃の事を放っておけないって思ったわけだしさ。けど、昨日は大丈夫だったのか。何なら昨日からでもよかったのにさ」

 

「昨日は時間も時間だったし、あなたもログインしてて、邪魔するわけにはいかないって思ってから」

 

「そっか」

 

 

 悪夢に飛び起きるという最悪の朝を迎えて、そのフラッシュバックをログイン中にまで起こしてしまい、イリスの診察を受ける事になった後、詩乃はひとまずALOからログアウトした。

 

 その時には既に正午となっていたのだが、あまりの事があったためか、あまり食欲が湧かず、昼食は冷蔵庫の中のものを簡単に調理したものにし、その後は頭を冷やそうと思い、アミュスフィアに触れる事も無ければ、スマートフォンもろくに使わないで、とにかく寝る事にした。

 

 それから何時間ほど経った頃だろうか、タイマーも何もセットしていなかったはずのスマートフォンが動き出した。その音に起きてみれば、それは和人からの電話だったものだから、詩乃はそこで即座に目を覚まして、それに応じた。

 

 電話の向こうの和人は当然というべきか、心配した声で色々な事を聞いてきた。具合はどうだとか、調子は悪くないかだとか。その一つ一つをしっかり耳に入れると、頭の中が急激に冷えて、心の中に安堵と安心が溢れてきたが、それだけでは足りないと詩乃は思っていた。

 

 彼の声をずっと近くで聞いていたい。

 彼の傍に居たい。

 彼の温もりをいつでも感じられていたい。

 

 いつにもなくそんな欲求に駆られた詩乃は、電話の向こうの和人に「明日から明後日までの二日間、この部屋に泊まってほしい」と頼んだ。

 

 勿論和人の予定だってあるわけだし、そもそも二泊三日ここで過ごす事になるのだから、いくら和人でも了承はしてくれまい。これは断られる事が前提の頼み事だ。そう思いながらの詩乃から突然頼み事を吹っ掛けられた和人は、当然のように驚き、若干の戸惑いを見せたが、やがて「わかった。二日間泊まる」という返事をした。

 

 予想を完全に裏切る返答をされたものだから、詩乃も思わず驚いてしまったが、同時に心がとても温かくなったような気分となり、ひとまず和人が来てくれる事に喜び、返事をし、通話を終了した。

 

 

 彼がここに来てくれる――たったそれだけの事だけど、詩乃にとってはこれ以上ないくらいに嬉しい出来事が起きる事がわかるなり、身体の中に不思議と活力のようなものが出てくるのを感じた詩乃は、いつもならばあまり手をかけてやらない部屋の掃除を始め、既に午後四時過ぎだったけれども、行く気のなかった食材目当ての買い物にも行った。

 

 いつもならば殺風景な冷蔵庫の中を満たし、目立った部屋の中の汚れ――それでもかなり小さいものではあったけれども――などを全て綺麗にして、いつもどおり夜を過ごし、今日この日を迎えた。

 

 そして彼は今、本当にここに来てくれた。自分の事を誰よりも理解してくれていて、一生自分の傍に居る事を誓ってくれて、一生守ってくれる、愛してくれると誓ってくれている彼が今、目の前にいる。

 

 

「そういえば、どうやってここまで来たの。もしかしてバイク?」

 

「もしかしても何も、バイクだよ。電車と比べると安全性こそは劣るけど、小回りが利くのはバイクの方だからな」

 

 

 話を聞いた時には驚いたのだが、和人は詩乃の知らない間に自動二輪の免許を獲得し、更に現実のエギルのつてでバイクを入手していた。

 

 本人によるとそのバイクは一二五CC・2ストロークのタイ製であり、オンボロであるものの、乗る分には全くと言っていいほど弊害が無いものであるらしい。だが、和人曰く物凄い騒音を立てて走るものだから、最近の全く音を立てないで走れる電動スクーターの何倍も劣っているような気がしてならないらしい。

 

 出来る事ならば排ガス規制後の4ストスクーターにしておきかったらしいのだが、手に入れられるのはそれしかなかったために、結局今のバイクで落ち着いたそうだ。ちなみにこれを聞いた愛莉は意外にも肯定的な反応を示し、「今の車体に不満があるなら、車体を黄色に塗って若干刺々しい装飾のある顔をヘッドライト部に装着するといい」と勧めたらしい。――当然、和人は断ったのだが。

 

 

「けれど気を付けてよ。バイクの事故って本当に危ないんだから」

 

「勿論百も承知だ。その辺りの事は講習で受けてるから、大丈夫だ」

 

 

 そう言って得意気に笑う和人。確かに最近は《壊り逃げ男》事件によって作り直された内閣によって、この国をより良くする政策が次々と出され、その一環として交通整備も目に見えて良くなり、車やバイクの事故もなくなったわけではないものの、件数はかなり減っている。

 

 だとしても、バイクが事故を起こせばドライバーは高確率で死亡するという話を何度も聞いているから、そのバイクを運転している和人の事が、詩乃は時折とても心配になって仕方が無かった。

 

 

「それはそうとして……詩乃。昨日は大丈夫だったのか」

 

「え、あぁ、うん。大丈夫だったわ。やっぱりリランに力を使ってもらったのが効いたみたい。その、ごめんなさい。あなたにも見苦しいところを見せてしまって……」

 

 

 いくら自分の事を良く知っていて、自分の記憶さえも持っている和人にも、発作の瞬間などは見せたくはないし、発作なんて起こしたくない。なのに昨日、仲間の前で、この和人の前で発作を起こしてしまった。

 

 その時のことを改めて思い出そうとすると、胸の中がずきずきと痛んだ。が、その痛みは手に訪れてきた温もりによってすぐに止んでしまった。――和人がとても心配そうな顔をして、その手を重ねてくれている。

 

 

「……俺こそごめん。昨日は君が大変だったのに、あんなに遅くに連絡してしまって。本当はもっと早く連絡するべきだったんだ」

 

「そんな事ないわ。あの時和人の声が聴けて嬉しかったし、落ち着けたのよ。だから、あの時またあなたに助けられたの、私」

 

「そうか? それならよかったけど……本当に心配したよ。久しぶりに見たからな、詩乃がああなったところ……」

 

「……えぇ。けれど今言ったように、もう大丈夫よ。もう、大丈夫よ」

 

 

 少し無理して元気を作り、和人に言ってみせたが、和人はじっとこちらを見たまま動かなくなった。和人に見つめられたりするのは何回も経験しているから、何の気も恥ずかしさも湧き上がって来ないが、やはり気になって仕方がなくて、詩乃は問うた。

 

 

「和人?」

 

 

 いつもなら何かしらの答えを返す和人だが、何の答えも返そうとしてくれない。いよいよどうしたのかと思って次の言葉を出そうとしたそこで、和人は音無く膝立ちになり、そのまま二歩三歩と詩乃に歩み寄って静かに両手を広げ、ふわりと詩乃を抱きすくめた。

 

 

「あ……」

 

 

 愛莉のそれと同様に、何度も入った事のある和人の胸の中にいきなり入れられた詩乃は、小さな声を出しつつほんの少しだけ驚いた。しかし、肩口に顔を埋めて、優しくて暖かな手によって背中を支えられ、髪の毛を撫でられ始めると、その驚きはすぐに大きな安堵に変わる。

 

 

「……和人?」

 

「いきなりごめん。けど、何だか君が抱き締めてもらいたそうな感じだったから」

 

 

 図星だった。和人が家に来た時――いや、昨日和人と電話をした時から、詩乃は和人の胸の中に顔を埋めたい、抱き締めてもらいたいとずっと考えていた。しかし、まさか自分の身体からそんな感じのようなものが出ているとは、まったく気付いていなかった。

 

 

「そんな感じ、してた?」

 

「してたよ」

 

「……あなたに隠し事は出来ないわね。こうしてもらいたくて仕方が無かったわ。よくわかったものね」

 

「わかるよ。君の傍に居るって誓ってるわけだし、彼是二年近くずっと一緒に居るんだからさ」

 

 

 そうだ。この和人と出会ってから既に二年近くが経過しており、自分と和人はもうそのくらいの時間を共に過ごしている。だが、もう詩乃は和人と出会ってから三年以上一緒に過ごしているかのような気分になっていて、まだ一年以上二年未満であるというのが信じられないくらいだ。

 

 そして、まだそれくらいの日々しか一緒に過ごしていないはずなのに、詩乃は最も和人の事を信頼しているし、愛している。そんな和人に向けて、ある一つの疑問が湧いて出てきたのを詩乃は感じ、もう一度小さく和人に問うた。

 

 

「……ねぇ、和人」

 

「うん」

 

「あなた、前に言ってたわよね。和人だけは私の味方だって。皆が私を見捨てても、自分だけは私の味方でいるって。それって、まだ本当なの」

 

 

 密着しているためか、和人の温もりだけではなく、和人の息遣いや心臓の音までもが聞こえてくる。それに混ざって、和人の喉元から小さな音が漏れて来たのがわかったが、間もなく和人は腕に少し力を込め、ほんの少しだけきつく抱き締めてきた。

 

 

「……本当に決まってるだろ。俺はこれからずっと君の味方だし、何があったとしても君の傍に居る。この先何年も何十年も、最後の瞬間まで一緒に居る。俺の命は君一人のものなんだ。だから、俺は君との約束を最後まで果たし続けるし、君の事を守り続けるし、支え続ける。それにさ、詩乃」

 

「え?」

 

 

 和人の声が一旦止まったが、髪を撫でてくれる手だけは止まらない。その心地よさに身を任せつつも黙っていると、和人の声が再開された。

 

 

「俺にとって、詩乃はもう家族なんだよ。俺達まだ結婚をするのには早いし、子供を作るのも早い。けど、俺達はSAOで結婚してたし、ユイっていう子供も居る。だから、俺はもう詩乃と結婚してるような気持ちだし、本当の子供も居るような気持ちなんだ。家庭を持っているような気持っていうのかな、それなんだよ」

 

 

 詩乃は和人の肩口に顔を埋めつつ、その目を軽く見開いたが、声を出さないようにして和人の声を聞き続けた。

 

 

「今の君がどう思ってくれているかはわからないけど、君が良いって言ってくれるなら、俺はこの気持ちをずっと持っていたい。家族の縁を切るなんて話もあるけれど……俺は詩乃と家族の縁を切るような事には絶対になりたくない。最後の瞬間まで仲のいい家族で、居続けたい。……それが、俺の今の気持ちだよ、詩乃」

 

 

 詩乃は心の中に暖かい雫が落ち、じんわりと広がったのを感じた。あのような事になってしまって、皆に見苦しいところを見せてしまった。

 

 恐らくだけど、皆の自分を見る目は変わってしまっただろうし、今までのように接する事も難しくなってしまったかもしれない。今までずっとそうだった。どんなに仲良くしてくれた人も、自分の発作を一度見れば、見る目を変えてしまい、接する事さえやめてしまうのだ。今回もきっとそうなっただろう。

 

 

 けれど、この人だけは違う。この人は、自分の家族で居てくれて、傍に居てくれて、愛してくれて、信じ続けてくれる。ほとんど事故に近しい形で自分の記憶さえも頭の中に入れてしまう事になってしまったけれど、そのおかげで自分の感じた痛みや苦しみさえも理解してくれている。

 

 皆が居なくなったとしても、この人だけは傍に居て愛してくれる。自分を愛してくれて、同じように自分も愛する事の出来る、家族なのだ。

 

 そして自分もまた、この人の事を心の底から信じられ、その傍に居られ、愛情を注ぐ事が出来る。何のためらいもなく、出来る。それだけはこの先何十年、何があっても変わる事はない。

 

 ずっと前からわかっていた事だけど、和人に言われる事でそれが改めてわかると、心の底から熱いものが突き上げてきて、胸の中へ飛び出し、胸、喉、口とどんどんせり上がっていって、目元に達したそこで涙になって出てきそうだったが、詩乃はそれを堪えて、和人の肩口に顔を擦り付けた。

 

 

「私も、私も同じ気持ち。あなたの事はもう家族だって思ってるし、ずっと傍に居て欲しいって思ってるし、傍に居たいって思ってる。この先何年も何十年も、ずっとずっと。今はまだ早いけれど、早くあなたと結婚だってしたいし、一緒に暮らせるようになりたい。一緒に歳を取って、暮らしていきたい。だからね、和人。私……」

 

 

 言いかけたそこで、詩乃はそっと和人の肩口から離れて、抱かれながら顔を合わせた。何度も見ている夜空のような黒色の瞳に自分の姿を映し、自身の瞳に和人の顔を映しながら、詩乃は口を開く。

 

 

「私、あなたの事が大好き。あなたの事を……ずっとずっと、愛してる」

 

「……俺も同じだよ。君の事が大好きで……君をずっとずっと、愛してる」

 

 

 二人で同じ言葉を言い合い、音無く顔を近付けて、そのまま自分の唇で互いの唇を塞ぎ合った。十数秒程度だったが、互いの存在を互いの中に入れ合い、刻み合うのには十分すぎるくらいの時間だった。そんな長いキスを経た二人やがて、お互いにほとんど同じタイミングで顔を離したが、そこで詩乃がある事に気が付き、口を開く。

 

 

「あ……」

 

「どうした、詩乃」

 

「考えてみたら私達、リアルでキスするの、今のが初めてじゃない?」

 

 

 SAOの中で和人と出会ってから、詩乃は結構な回数和人と口付をしたし、それ以上の行為に及ぶ事もあった。だが、それらは全てVR世界での出来事であり、現実世界では一回もした事が無いというのが現在まで続いていた。いや、正確に言えば現実でもやりそうになった事はあったけれども、その時は何かしらの事情があって出来ない事がほとんどで、やはり実現する事は出来ずにいた。

 

 それには和人も気付いたようで、顎元に手を添えつつ、言う。

 

 

「確かにそうだったな。俺、リアルで君とキスするの、初めてだった」

 

VR世界(あっち)で何気なくやってたから、やっちゃったわね」

 

「そうだな。けれど、これからはこれが当たり前になるんだろうな」

 

「……えぇ。きっとそう」

 

 

 互いに一緒に居続ける事を決めていて、愛し合っているのだから、いずれにしても自分は和人と夫婦になって、家庭を作っていく事になるのだろう。そうなったならばこうやって口付をする事も珍しい事ではなくなるのだろうし、それ以上の行為に及び……リランとユイとストレアの妹か弟にあたる子供を作る事にもなるのだろう。

 

 きっとこれからは、これまで体験した事がないような出来事に何回も直面する事になるだろう。そういう事がさも当然のようにあるこれからの事を考えると、正直不安になってしまうのだが、和人と一緒ならばどんな困難でも乗り越える事が出来るだろうと、詩乃は思えた。

 

 そんな事を胸の中に抱きながら和人の事を見つめていたそこで、和人は突然何かを思い出したかのような顔になり、声を発した。

 

 

「そうだ。詩乃、今日の予定はどうするんだ」

 

「え」

 

「こうやって詩乃の部屋に泊まりに来たのはいいけど、何しようかなって思ってさ。何か俺とやりたい事とか、行きたいところとか、あるか」

 

 

 問われて、詩乃はハッとする。

 

 しまった。和人に会いたい、抱き締めてもらいたいという気持ちだけを率先させてしまっていて、その他の事は何一つ考えていない。いつもならばやる事が無かったらALOにログインするのだけれども、和人と一緒にいるというのにログインするというのも、もったいないような気がしてならないから、やりたくない。

 

 やる事を何も考えないまま、和人に来てもらってしまった――それが顔を見ただけでわかったようで、和人は苦笑いをした。

 

 

「その様子だと、何も考えてなかったみたいだな、また」

 

「……ごめんなさい」

 

「別に気にしてないさ。それなら一緒にこれからを考えてみよう。何がいいかな……」

 

 

 そう言って考え始める彼を眺めたそこで、詩乃はとある事に気付く。前までは和人は電車に乗ってここまで来ていたけれども、今回はバイクに乗ってここに来ている。そして話によれば和人のバイクは普通に二人乗りが出来るくらいの車両となっているそうだから、自分と和人の二人で乗って出かける事も出来るだろう。

 

 外の天気は晴れ晴れとしていて、如何にも行楽日和といったところだから、ドライブに出かける事も可能だ。

 

 

「ねぇ和人、あなたのバイクって二人乗りできるのよね」

 

「え? あぁ、そうだけど。ヘルメットも二つ常備してるし」

 

「それなら、私の言うところに連れてってくれないかしら。勿論そんなに遠いところじゃないんだけど」

 

「ドライブか。確かに君と一緒にドライブした事はないしな……そうしよう。けど、詩乃の行きたいところってどんなところなんだ。どの辺?」

 

 

 ドライバーである和人からの問いかけに応じる前に、詩乃はある場所への行き方を思い出す。行ったのは結構前で一度しか訪れていないけれども、その場所まで行く時の事は今でも鮮明に覚えているうえに、ちゃんと行き方を教えてもらったため、ルートは意外とはっきり思い出せた。当然和人はそこまでの行き方は知らないのだけれども、教えればいけるはずだ。

 

 

「行き方なら、私が教える。行ったのは結構前なんだけど、意外と覚えてるものなのね」

 

「そうなのか。それじゃ、詩乃にナビをお願いして、俺は運転すればいいんだな。けど、本当に大丈夫なのか」

 

「えぇ大丈夫。これでも記憶力には自信がある方だし……それはあなたもよくわかってるでしょ」

 

「よくわかっております。では、ナビの方をお願いしますよ、姫様」

 

 

 和人の一言にすんと笑うと、和人は早速出かけようと言い、詩乃もそれに応じた。そこから二人は身支度を開始したのだが、和人が「半袖の上から長袖を着て、下は長ズボンを履いてくれ」と頼んできた。

 

 理由を詳しく聞いてみると、夏場にバイクに乗る時は長袖に長ズボンの方がよくて、そうでもしないと火傷に等しい凄まじい日焼けをする事になってしまうからであるらしい。全く想像が付かなかったけれど、バイク乗りとなった和人がこう言っていて、尚且つ和人本人も長袖長ズボンの恰好をしているという事は、間違ってないのだろう。

 

 詩乃はそれに大人しく従い、夏場用に買っておいた白色の長袖のジャケットを羽織り、同じく薄い生地で出来ている黒いジーンズを穿いた。

 

 まさかの着替えを要求されたものだから、和人と一緒にマンションの通り慣れた廊下を通り、エントランスを抜けて外に出れたのは、出かける事を決めた十分後だった。

 

 空を見上げてみれば、行楽日和という言葉がそのまま当てはまるような快晴に近しい天気だったが、まだ八月の下旬付近であるため、砂漠のそれほどではないものの、かなりの熱を含んだ日光が容赦なく照り付けて来ている。

 

 足元のアスファルトは熱したフライパンのようになっており、遠くを見ればゆらゆらと陽炎が揺らめいているのが見え、日光の反射もあるのか、立ち止まっているだけで身体のあちこちから汗が出てきそうになる。

 

 車ならば冷房があるからどうって事ないが、これから使うのは全てが剥き出しになっている二輪車だ。本当にバイクでドライブの出来る気候と言えるのだろうか、今日は。気になった詩乃は駐輪場へ向かっている和人に声をかけた。

 

 

「和人、かなり暑いんだけど、本当に大丈夫なの」

 

「大丈夫だって。止まってる時は暑いけど、走ってる時はそうでもないんだ。けど、水分補給は大事だから、途中で何回か休憩しよう」

 

 

 そう言いながら、和人は詩乃の元までバイクを押してきた。バイクには全く詳しくないから、どういった車種なのかはまったくわからないけれども、青いカラーリングにその身を染めた小型バイク。如何にも小回りが利きそうな大きさではあるけれども、二人乗りできるスペースはしっかりと存在しており、ドライブに出かけるには申し分ないくらいのものだ。

 

 だが、剥き出しになっているエンジン部分やところどころ塗装が剥がれているその様子から、最近車道を走っているバイク達などと比べると、かなり古めかしいものであるというのもわかった。

 

 

「これがあなたのバイクだったわね」

 

「見ての通りオンボロだ。けれど、これしかいいのが無かったんだよなぁ」

 

「将来的には乗り換える必要がありそうね」

 

「その時にはちゃんとした普通自動車にしてるよ。さ、これ被って乗ってくれ」

 

 

 そう言って和人が渡してきたのは、ライトグリーンのヘルメットだった。VR世界では和人/キリトの操るリランの背に跨り、一緒に飛んだりする事もあったが、まさか現実世界でも似たような事になるなんて――意外性を感じつつ、詩乃はオープンフェイスタイプのヘルメットをすぽんと被るが、顎下のハーネスの止め方が上手く掴めずに手を止めた。

 

 「あれ」と思いながら何とか自分で止めようとしたそこで、和人がそっと手を伸ばしてきて、手早く詩乃の首元でベルトを固定してくれた。和人は何気なくやったんだろうし、自分の何気なくしていたけれども、傍から見ればかなり恥ずかしい光景だったとすぐに気付き、詩乃は慌てて周りを見回したが、駐車場と駐輪場には自分達以外の人影は確認出来ない。

 

 どうにか人目に付かずに済んだようだ――安心してシールドを降ろした時には、既に和人も自分の黒いヘルメットを被り、シートに跨っていた。

 

 SAOで初めて和人/キリトに出会ってから、キリトが相棒――今は家族――であるリランという狼竜に跨る姿をずっと見てきているためか、目の前で和人に跨られているバイクはとても小さく、不格好なモノに見えて仕方がない。そんな光景に詩乃は思わず笑い出しそうだったが、それを堪えてバイクのリアシートに跨る。

 

 

「リランと比べるとすごく小さいわね、これ」

 

「あぁ。リランと比べて速度もないし、すっごくうるさい。せめて色が白ければもっと手に馴染みそうだったんだけど……エギルめ、もっと良いものを持ってろっての」

 

 

 ぶつくさと文句を言いつつ、VR世界では《黒の()剣士》の名で呼ばれる事もある《ビーストテイマー》の彼は、普段乗っている狼龍の剛毛の代わりにハンドルを握る。

 

 

「さてと、道順は全部君に任せるけど、大丈夫だよな」

 

「大丈夫よ。ここから行ってそこまで行く方法、ちゃんと覚えてるから。さぁ、行きましょう!」

 

「了解。しっかり掴まっててくださいね、姫様」

 

 

 声と共に和人がキーを回すと、身体の下の鋼鉄とエンジンで構成された獣は目を覚まし、咆吼するように内燃機関から甲高い爆音を出す。鼻元流れてきた排気の臭いと腰に伝わる振動を感じると、祖父の操るバイクの後ろに跨っていた小さい頃の時の事が不意に蘇ってきた。

 

 またこんなふうにバイクの後ろに乗って、どこかへ出かけられる時が来るなんて。

 しかもそれが、この世界の誰よりも大好きな人と一緒だなんて。

 

 懐かしさと嬉しさを心の中に募らせ、バイザーの奥で微笑みながら、詩乃は目の前の愛する人の身体に手を回した。

 




 ※特別編に限定したお願い

 お分かりかと思いますが、特別編への感想や評価は、特別編終了後にまとめてお願いします。

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