キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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15:俺は確かにここにいる

           □□□

 

 

 リューストリア大草原のエリアボス、《ヴァイス・ザ・コボルドロード》との戦いが終わった事により、キリト達は次のエリアを開放する事に成功した。

 

 大草原の開拓を終えた冒険者達を待っていた次のエリアの名前とは、オルドローブ大森林。名前から察するに、リューストリア大草原のところどころにあった森林よりも遥かに植物が生い茂っている、大森林の名に恥じぬ場所となっているのだろう。

 

 だが、次のエリアに颯爽と向かう事はなく、キリト達は《はじまりの街》の大宿屋の一室に戻ってきていた。

 

 普段はキリトが使っているその場所には一つの大きなベッドがあるのだが、今そこにキリトは腰を掛けており、その身体をシノンに支えられていた。その様子を仲間達は心配そうに見ている。普段はキリトの部屋となっている一室は、集会所のようになっていた。

 

 

「キリト、何とか戻ってこれたけれどよ、大丈夫かよ」

 

「運んでくる時のお前の身体、妙に重かったぞ。力、入れられているか」

 

 

 リューストリア大草原の最深部、《アークタリアム城》から戻ってくるのには転移結晶を使った。そうしなくとも、フィールドのあちこちに点在している転移石というギミックを使えば《はじまりの街》へ戻ってくる事が可能なのだが、その最寄りの転移石に行く事さえもキリトは困難であった。

 

 だからこそ、かなりのコルを支払わなければ手に入れる事の出来ない転移結晶をわざわざ使用し、《はじまりの街》へと戻ってきたのだ。

 

 その時から既にキリトはクラインやエギル、ディアベルやカイムといった男達に肩を借してもらわなければ歩く事さえも困難で、現にここに来るまでもずっと仲間達の肩に頼りっぱなしであった。

 

 

「キリト君、本当にどうしたっていうの。顔色、すごく悪いよ……」

 

 

 アスナの不安そうな声が聞こえてくる。声の発信源にもう一つの気配を感じられる事から、アスナの隣にユピテルがいるというのが分かる。そして、二人そろって心配そうな顔をしているというのも。

 

 しかし、キリトは一向に顔を上げたりする事も出来ず、頭を抱えて下を見ている事しか出来なかった。だが、身体の重さはアークタリアム城の中にいた時よりも軽くなってきており、冷や汗もあまり出て来なくなっている。容体は良くなっている方だと言えるだろう。

 

 

「俺は大丈夫だよ。ちょっと疲れただけなのかもしれない」

 

「本当にそうなの。まぁ確かに、あんたは無理してログインしてまでクエストとかやろうとするから……」

 

「けれどおにいちゃん、それにしたって具合悪そうだよ。無理しないでログアウトして、お医者さんに行った方がいいよ」

 

 

 リズベット、リーファの順で言われ、他の仲間達からも同じような声が上がり始める。

 

 確かに傍から見れば疲労によって、もしくは何らかの理由によって具合が悪くなっているようなのだろう。出来る事ならばあの時の事を皆に話したいところだったが、その正体が掴めていないというのが現状だ。

 

 正体不明の何かに襲われたせいで動けなくなってしまい、今もなお具合が悪い。そんな事を言ってしまったら、皆に余計な心配をかけるのが目に見える。

 

 キリトは(おもり)を付けられたように重くなっていた身体に力を入れ、顔を上げた。

 

 

「皆、心配してくれてありがとう。けれど俺は本当に大丈夫なんだ。だから、もう大丈夫だよ」

 

「とてもそんなふうに見えないから、こうして皆で心配してるんじゃない。キリト、あの時本当にどうしたの。話してみてよ」

 

 

 心配そうな顔をしているフィリアに言われ、キリトは軽く喉を鳴らす。その時にもキリトは話す気になれなかったが、それに強い揺さぶりをかけてきた存在がいた。

 

 この世界の開発者の一人であり、《SAO》でリランやユイを作り出し、更にシノンの専属医師をやっていた女性である、イリスだった。

 

 

「キリト君。話せる範囲で話してみてくれないか。もしかしたら私なら答えが出せるかもしれない。これでも私はドクターだったからね」

 

「……」

 

 

 イリスは精神科医だったし、脳に関する異常だったらその正体を大抵出す事が出来る。それに今のイリスは次会えるのがいつになるのかわからないような状態だから、先程のアレの正体を聞けるのは今しかないだろう。

 

 この場で話す事のメリットとデメリットの関係を理解したキリトは、自分の中でまとまっている範囲で先程の事をイリスと皆に話した。

 

 

 話が中盤に差し掛かった頃には仲間達から次々と驚きと疑問の声が上がり、それは最後まで続いたが、キリトが話し終わった頃には部屋の中に重さのよくわからない沈黙が下りていた。

 

 その沈黙を最初に破ったのは、同じようにベッドに腰を掛けてキリトを支えてくれているシノンだった。

 

 

「塗り潰してくるような衝動……ですって?」

 

「あぁ。俺にもよくわからないんだけど……具体的に言うとそんな感じなんだ。何か強いものが突き上げてきて、俺の意識を塗り潰そうとしているような……自分でも変な事を言ってるって思ってるし、皆もそう思ってそうだけど、実際そうとしか言えないんだ」

 

「キリトさんの意識を塗り潰すなんて……キリトさんに何が起きてるっていうんですか」

 

 

 シリカに問われても、キリトは「わからない」と言って首を横に振るしかできない。仲間達から疑問の声も起こらなくなる。何を聞いたらいいのかわからないのだろう。

 

 だが、その中で口を開けてきたのが、キリトの娘であるユイだった。その表情はかなり険しいものとなっている。

 

 

「パパがそうなった原因はパパのアミュスフィアにあるのかもしれません。けれど、パパが使っているアミュスフィアはおねえさんやわたし、ストレアで定期的にメンテナンスしていますから、異変があればすぐに見つけ出せるはず……」

 

「前にやったのは二日前だけど、その時は何も異常みたいなのはなかったよ。ここに来てアミュスフィアに異常が出てきたとか、そういうものなのかなぁ」

 

 

 ストレアが困ったような顔をして言うが、そうなって当然だ。

 

 キリトのアミュスフィアには、リラン、ユイ、ストレアの三人がアクセス権限を持っており、システムメンテナンスなどを行える。キリトはこれを三人に定期的に行うように指示しており、ストレアの言うように二日前にそれを実行させたばかりだった。

 

 それを行った張本人であるリランが、腕組をしながらさらに言った。

 

 

「それに、アミュスフィアにはセーフティ機能が存在している。何かあれば強制的にログアウトがかかるようになっているのだが、それが発動しないというのも奇妙な点だな」

 

「そこまでひどかったわけじゃないよ。けど、何かが内側から出てくるような感じがあったっていうか……」

 

 

 キリトの内側にはもう一つの要素が存在している。それはシノンの記憶だ。

 

 《SAO》の時、キリトはシノンと意識を直結させ、記憶を共有し、その大部分を自分の中に落とし込んだ。それによってキリトの中にはシノンの記憶も存在しており、事実上二人分の記憶を有していると言える。

 

 それが突き上げてきて、どうしようもないくらいに苦しくなる事もあったけれど、今となってはそのような事を起こした事はないし、その危険性も基本的には存在しない。

 

 

「というか、なんであの時いきなりそんな事になったんだろう。ボス戦の時とかはそうじゃなかったよね、キリト」

 

「キリトが具合が悪くなった時、ジェネシスが戦ってたよね。それでジェネシスの様子がおかしくなって、そしたらキリトまで……」

 

 

 ユウキ、カイムの順で言われるなり、皆が当時の事を思い出すような仕草を取り始める。

 

 カイムの言っている事はキリトも思っていた事だ。ボスとの戦いの最中には全くと言っていいほど普段通りであり、その後もまた同じように普段通りだった。

 

 

 そう、ジェネシスとアヌビスが戦いを繰り広げるあの瞬間を目にするまでは。

 

 

 あの時のジェネシスの様子は異様としか言いようがない。まるで自分自身も獣になったか、もしくは何かに取り憑かれてしまったかのように両手剣を振り回し、使っていないのにソードスキルを使っているかのような連撃を繰り出していた。

 

 同じようにアヌビスも自我を失ってしまったかのように――そもそもちゃんとした自我というものが存在しているのかさえも疑問だが――暴れ狂い、コボルドロードを一方的に攻撃し続けた。

 

 あんな戦い方をしているプレイヤーを見たのはあれが最初であり、ジェネシス以外にあのような戦い方をしている存在など見た事がない。

 

 その事を踏まえて言葉を出そうとしたその時、壁に寄りかかっていたアルゴが先に声を発した。

 

 

「あれこそが《黒の竜剣士》ジェネシスの戦い方ダ。戦闘中突然ハイテンションになって、斬って斬って斬りまくり始めル。そのうえ、突然感覚が鋭くなったみたいに、相手の攻撃もみんな避けて斬り返すんダ。

 そして《使い魔》もジェネシスと合わせるように狂暴化して、怒涛のラッシュを仕掛けル。相手がどんなモンスターであろうとナ」

 

「《黒の竜剣士》? もしかして、プレイヤー達の間でそう言われてたのは、あのジェネシスっていうプレイヤーの事だったのか」

 

 

 少し驚いたような顔をするエギルの横で、リズベットが複雑そうな顔をした。

 

 

「《黒の竜剣士》がどうのこうのって話をしてたプレイヤーがいっぱいいたから、キリトが何かやらかしたんじゃないかって思ってたんだけど、そうじゃなかったみたいね。ま、それを聞けて安心したけど」

 

 

 キリトはアルゴから聞く事によってジェネシスが《黒の竜剣士》と呼ばれている事を知っていたが、皆はそれぞれ別のところで《黒の竜剣士》の話を聞いていたらしい。だが、その《黒の竜剣士》がキリトではなくジェネシスの事であるというのは、今回初めて知った事であるそうだ。

 

 皆からそれを聞いて納得したキリトの横で、シノンがある場所へと目を向ける。視線の先にいたのはいつの間にか腕組をして、何かを考えているような様子のイリスだった。

 

 

「イリス先生……どうでしょうか。キリトに何が起きたか、わかりましたか」

 

 

 かつてはシノンの専属医師だった黒髪の女性は、患者の問いかけに首を横に振る事で返事をした。

 

 

「いや、現状では何もわからないね。キリト君の中に何かいるみたいな話も、正直言って信じがたいよ。アミュスフィアの物理的もしくはシステム的な不調の可能性も捨てきれない。キリト君について私が言える事は、今のところないかな」

 

 

 その言葉に、皆が肩や視線を落とす。精神科医であり、ユイやリランといった素晴らしいAIを作り出す事さえできたイリスならば、この時点で何かを掴むのではないかとキリトも期待していたが、それはかなう事はなかった。

 

 その事にキリトが肩を落とそうとしたその直後、イリスは言葉を続けてきた。

 

 

「けれど、ジェネシスのあれについては、若干わかった気がするよ」

 

「え?」

 

「あくまで私の推測でしかないけれども、ジェネシスはコンバット・ハイ状態になっていたのかもしれない。だからあんなハイテンションで異様な戦い方になったんだろう」

 

 

 人間はある種の極限の状態に置かれた時、脳内麻薬物質を過剰に分泌させる事がある。その際にアドレナリンという物質が過剰分泌されると、気分が異様なまでに高まったり、我を忘れるほど攻撃的になったりする事がある。これが運動の最中に起こるのがランナーズ・ハイ、登山中に起こるのがクライマーズ・ハイと言われるそれなのだ。

 

 だが、これは運動中や登山中だけではなく、戦闘状態でも起こる時があり、戦闘中にそれが起きてしまうと、我を忘れたかのようにふるまう上に、痛みや疲労を感じる事なく攻撃を続行してしまう極めて危険な状態となる。

 

 これをコンバット・ハイと言う――というのが、イリスの説明だった。

 

 

「ジェネシスはわざと自分を追い込む事によってコンバット・ハイになって、あんなテンションになったのかもしれない。実際VRも現実も感覚自体は同じだからね。現実世界で起きるコンバット・ハイがVR世界で起きたとしても何ら不思議な事はないよ」

 

「確かに、このVRMMOでもジャンルによれば、プレイヤーがランナーズ・ハイやクライマーズ・ハイに似た症状を経験する事は多々あります」

 

 

 イリスと似たような雰囲気を出しながら、ユイもまた話を始める。

 

 ランナーズ・ハイ、クライマーズ・ハイは起きたとしてもそこまで深刻な影響を及ぼす事がないので、アミュスフィアのセーフティ機能である強制ログアウトは働かないようになっている。

 

 ジェネシスは戦闘を繰り広げる中でコンバット・ハイになり、それ故にあのラッシュ攻撃を繰り出せたのではないか。というのがユイからの結論だった。

 

 しかし、だとしても一つの疑問が残る。それがわかったのだろう、ディアベルが挙手するように言った。

 

 

「待ってくれ。ジェネシスが仮にコンバット・ハイになってたとして、あの《使い魔》はどうなんだ。なんで《使い魔》まで一緒に狂暴化するようなことになったんだ」

 

「この世界の《使い魔》に該当するモンスター達の中には、主人に危険が及ぶと身を挺してまで守ろうとする性質を持っているものもいる。あの時にはジェネシスに危険が及んでいたからこそ、アヌビスもあのように狂暴化したのかもしれぬな」

 

 

 キリトの《使い魔》そのものであるリランの説明を受け、皆が納得したように頷く。

 

 アヌビスもあの時主人であるジェネシスが追い詰められていたからこそ、あのように狂暴な姿へ変異し、主人に危害を加えるモンスターの殲滅(せんめつ)を開始したのだろう。

 

 しかし、それでさえもキリトの気にしている事ではなかった。その事を感じ取っていたのか、一瞬シノンはキリトを見てから、ユイに問うた。

 

 

「待ってユイ。ジェネシスがあぁなったのもわかったわ。それであいつの《使い魔》もあぁなったのもわかった。けど、どうしてそれにキリトが反応してるの。キリトとジェネシスは何も関係がないはずでしょ」

 

 

 皆がはっとしたような顔をした。それこそがキリトが最も知りたかったことであり、是非ともそういった事に詳しいユイ、リラン、イリスの三人に尋ねておきたかったが、その三人は俯き加減となっていた。

 

 

「ごめんなさいママ。それはわたしでもわかりません。どうしてジェネシスのそれにパパが反応してるのかまでは、しばらく調べてみないと……」

 

(おおむ)ねユイと同意見だ。我もキリトのアミュスフィアを調べてみようとは思うが、わかるまでは時間がかかりそうだ」

 

 

 ユイとリラン。事実上産んだ娘達と言える少女達の反応を見てから、事実上の母親であるイリスがキリトを見つめた。

 

 

「もし、キリト君が感じた衝動というのがジェネシスの近くにいて、ジェネシスがコンバット・ハイになった時に来るものなのだとすれば、キリト君はジェネシスの傍に行かない方がいいだろう。ひとまずキリト君のそれの正体が掴めるまではね」

 

 

 イリスがそう言うなり、キリトに視線が集められた。

 

 確かにジェネシスの戦闘を目にするまで、ジェネシスがコンバット・ハイになるのを見るまであの時のような症状が出る事はなかった。あの症状のトリガーがジェネシスなのだというのならば、ジェネシスと遭遇せずに攻略していくというのが、あの症状の最大の予防策となるだろう。

 

 

「難しそうだけど、やるしかなさそうだナ。オレッち達みたいな高ランクプレイヤーに攻撃を仕掛けてくるのがジェネシスだから厄介だけど、それでもキー坊が接触しなきゃいいんダ」

 

「ジェネシスか……思ったより厄介な奴だったんだな。俺達も気を付けないと」

 

 

 アルゴが難しそうな顔をして、ディアベルも似たような顔をする。

 

 ジェネシスは高ランクプレイヤーを狙って攻撃を仕掛けてくるというのは真実であり、既にキリト達も襲われている。だが、それはまだ一回であり、そこでジェネシスがコンバット・ハイになってまで襲ってくる事はなかった。だから結局のところ、ジェネシスが戦闘をしているところに出くわさなければいいのだ。

 

 それをキリトが理解すると、更にイリスが言ってきた。

 

 

「今日はもう夕暮れ時だ。まだ冒険し足りない思うけれども、キリト君はもう落ちた方がいいよ。身体と頭を休める事を優先するんだ」

 

「そのつもりでいました。だから今日はこれで落ちさせてもらいます。皆もお疲れ様。また明日から新エリアの攻略、よろしくな。今日はこれで解散だ」

 

 

 キリトが言うと、仲間達は少しキリトを心配そうにしてから「お疲れ」や「お大事に」と言って、キリトの使っている部屋を出て行った。その中に混ざる形で、一番心配そうにしていたユイもリランも出て行ったのだった。その頃、部屋の中には半分以上沈んだ太陽の夕日が差し込んできていた。

 

 

 

 

 

 

           □□□

 

 

 

「……シノン、どうしたんだ。皆と一緒に行かないのか」

 

 

 皆がキリトの部屋を出て行った後、シノンはただ一人だけ部屋に残り、キリトの傍に寄り添い続けていた。皆が出て行ったというのに、キリトがこれからログアウトするつもりだというのに、一人だけこんな事をしているのだから、キリトも戸惑ってしまって当然だろう。

 

 だが、たとえそうなのだとしても、シノンはキリトの傍を離れたいとは思えなかった。

 

 

「キリト……あなたは……」

 

「え?」

 

「今のあなたは、本当にあなたなの」

 

 

 彼の顔にさらなる困惑の表情が浮かび上がるが、シノンの見つめている場所は彼の瞳だ。

 

 見方を変えれば鏡のようになる彼の瞳はいつものように黒かったが、暖かさを感じさせる光が瞬いていた。

 

 だが、それに異変が起きていたのをシノンは見逃していなかった。

 

 

 ジェネシスが暴れ回る中、内に潜む何かの侵食に苦悶していた時、キリトの瞳が血のような赤色へ変化していたのを。充血だとかそういうものではない。キリトの瞳そのものの色が、確かに一瞬だけ赤色に変わっていたのだ。

 

 

 まるでキリトが、自分の知っている桐ヶ谷(きりがや)和人(かずと)が全く異なる存在へ変わっていこうとしているかのように。

 

 

 皆が気付いていたのかどうかはわからないが、確かにシノンはそれを見ていた。その時からだ。キリトの傍を離れたくない、キリトがキリトであるという事をしっかりと認識したいという意欲に駆られたのは。

 

 

「キリト、ううん和人。あなたは本当に私の知っている和人なの」

 

 

 彼は相変わらず戸惑ったような顔をしていたが、やがてそれを徐々に険しいものへと変えていった。同刻、シノンは背中に暖かいものが当たったのを感じた。彼の手が静かに添えられており、しっかりとした温もりをシノンへと伝えてくる。

 

 

「……シノン、なんでそんな事を聞くんだ。君は何か知ってるのか」

 

 

 表情の割には囁くような声色。耳の中にそれを入れると、シノンは自然と口を動かし、あの時見たものを全て吐き出すように彼に話した。彼は表情を変えずに聞き続けていたが、終わったその時には少し俯いた。

 

 

「……俺はそんなふうになってたのか。目の色も変わってたなんて……」

 

 

 目がまるで血液のような赤色に変わった彼の姿は忘れられない。俯く彼の目はいつも見ている黒色に戻っているけれども、それでもシノンの中の不安が消えていく事はなかった。

 

 

 あの時既に彼が彼でなくなってしまっていたのだとしたら。

 

 目の前にいる彼が本当の彼じゃなかったら――。

 

 

「和人……まるで別な何かになろうとしてるみたいだった。あなたがあなたじゃなくなりそうだったのよ。あなたが私の知ってるあなたじゃなくなったら……私は……」

 

 

 その次の言葉を発そうとしたその時、シノンの唇は急に塞がれた。彼が自分の唇でシノンの唇を合わせてきていたのだ。それ以上は言わなくていい――そんな彼の意志が言葉なく伝わってきたような気がした。

 

 それからすぐに彼は唇を放し、シノンの両肩に手を乗せてきた。

 

 

「俺はここにいるよ、詩乃。俺は確かに君の目の前にいて、君と話をしてる。それに俺が例えこの後どうなったとしても、俺は君を守る。どうなろうとも、それだけは忘れないよ。

 だから安心してくれ。俺は……確かにここにいるよ、詩乃」

 

 

 彼の言葉を耳に入れながら、シノンは彼の瞳をじっと見つめる。現実に帰っても、ここに来ても、彼にさえ会えれば見れる黒い瞳。その瞳の中には確かな強さと温かさ、そして優しさで作られた光が満ちて瞬いていた。

 

 けれども、それでもシノン/詩乃の中に居座る不安は消えていかない。

 

 

 もっと確かな彼の温もりが欲しい。

 

 彼が彼である証明が、欲しくてたまらない。

 

 

 詩乃は方に置かれる彼の手で自分の手で包み、頬へあてた。少しだけ不思議そうな顔をする彼の眼差しを見つめながら、詩乃は小さく言った。

 

 

「……今、私の目の前にいるのは、私の知っているあなた。それを、あなたの手で証明して欲しい……って、言ったらわかる……?」

 

「……うん。きっとそうして欲しいんだって、思ってたよ」

 

 

 詩乃が頷くと、和人は一度立ち上がって入口へ向かった。鍵をしっかりと閉めて都が開かない事を確認すると、そのままベッドへ戻ってきて詩乃の隣に座る。それから穏やかな目をした後に、和人は言った。

 

 

「俺も今日は君にいっぱい心配をかけさせた。そのお詫びをさせてくれないかな」

 

「……えぇ」

 

 

 微笑みながらもう一度小さく言ってから、詩乃は和人の唇に自身の唇を重ね、体重を預けた。

 

 その時既に、これからの事に不必要なものは切っておいてあった。

 

 

 きっと彼にも自分にも問題は山積みであろう。これから何が起こるのか、何が起ころうとしているのか。どんなに考えても答えを導き出す事は出来そうにない。

 

 これからきっと、私達はたくさんの事に立ち向かわなきゃいけないだろう。けれども、今だけはそれを忘れていたい。彼との時間であるこの時だけは、全てを忘れていよう。

 

 詩乃はそう思いながら、沈みゆく夕日を浴びていた。

 

 

 

            

《キリト・イン・ビーストテイマー アイングラウンド 01 終わり》




―アイングラウンド01 後書き―


 どーも、本作を読んでくださっている皆=様。クジュラ・レイです。
 
 今回にてアイングラウンド編の第一章、『アイングラウンド01 ―始まりの大地―』が終了いたします。

 アイングラウンド01は本当に様々な事柄の始まり、アイングラウンド編そのものの起承転結のうちの『起』に該当する章でありました。

 この章では、《SA:O》という新たなゲームが舞台であるという事、原作キャラクターであるジェネシスが《ビーストテイマー》であるという事や、《白の剣士》なる新オリキャラが登場する、そしてキリトそのものへ異変が起きつつあるなどの事がありました。

 様々な事が矢継ぎ早に起こりまくったわけですけれども、お楽しみいただけたでしょうか。

 これらがどのような事をして、どのようにしてキリト達の冒険や攻略にかかわってくるのかが、これからのアイングラウンド編という事になります。

 なので、これら登場人物達に光が当たるのはこれからという事になりますね。彼らに光が当てられた際、どれだけの事が起こるのかを、皆さまに楽しみにしていただけたらと思います。


 そして、次回から始まるアイングラウンド02ですけれども、これに関して皆様に重要な報告があります。

 だいぶ前ですけれども、アイングラウンド編は原作でいうキャリバー編、マザーズ・ロザリオ編、GGO編を内包した内容となると言いました。実は今回で終了するアイングラウンド01こそが原作でいうキャリバー編に該当していたんですよ。普通な攻略回が多かったのもそのためといったところですね。

 それで、キャリバー編に該当するアイングラウンド01が終了した今、次回から始まるのはアイングラウンド02ですけれども、ここからが原作でいうマザーズ・ロザリオ編に該当します。

 マザーズ・ロザリオ編のヒロインと言えば、アスナとユウキ。そしてマザーズ・ロザリオ編自体がアスナの掘り下げのような章でしたから、今作でもアスナを、そしてその息子となったユピテルの掘り下げを行う章にしていきたいと思います。

 つまり次回からはメインがアスナとユピテルにスポットライトが当たるようになります。が、それでもこの作品の主人公はキリト、メインヒロインはシノンというのだけは変わらないので、この二人が忘れられるなんていう事は決してありません。なので、その事だけはご安心していただけたらなと思います。


 何がともあれ、無事にアイングラウンド01を今回で終わらせる事が出来ました。ここまで読んでくださった読者の皆様方に、深くお礼申し上げます。

 本当に、本当にありがとうございました。

 出来れば感想や評価、お待ちしております。

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