キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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《MHHP》と《MHCP》の真実が明らかに。

 どうなるアイングラウンド編第二章第四話。


04:それは《生命の箱》

           □□□

 

 

 

 

 マイホームを獲得し、ユピテルと共に温泉に浸かった後。アスナは買ったばかりの家の一階に仲間達数名を集めた。

 

 自分の家を買うために必要なコルを集めるクエストを共にこなしていた仲間達は、時刻は既に夜の八時を廻ってもなおログインを続けていた。

 

 流石に何人かは既にログアウトしていたが、それでも相談するには十分な数が揃っていたため、アスナは皆にメッセージを飛ばし、できる限り仲間達を集めた。

 

 結果としていつもの女子組がすべて集まり、その付き添いという形でキリトも来て、その相棒であるリランも来て、更に付き添う形でプレミアも来た。

 

 個人的にアスナはイリスに一番来てほしかったのだが、やはり仕事の関係もあるのか、イリスの姿はなかった。まぁ、その娘であるリランがいたので別に問題はなかったのだが。

 

 仲間達を集める事に成功したアスナは――温泉の事は話さなかったが――ひとまずユピテルの事を皆に話した。

 

 ユピテルの事を知っているは知っているけれども、そこまで詳しくない皆は話の途中で何度も複雑そうな様子を見せたが、最後まで聞いてくれて、話が終わったその時にリランが呟いたのだった。

 

 

「そうか、ユピテルがそんな事を……」

 

「うん。なんだかすごく苦しそうにしながら、何かを思い出そうとしているの」

 

「ユピテル君がそんな事になるなんて、今までありませんでしたよね。急にどうしちゃったんだろう」

 

 

 リーファが困り顔で言うなり、ソファに深々と腰を掛けているリランは「ぬー」という独特な声を出し、額の付近に指を添える。

 

 その隣に座っているキリトには考え事をする時に顎元に手を添える癖があるけれども、キリトと長時間過ごしているリランにも伝染(うつ)っている部分があるのだろう。

 

 キリトの右隣に座っているシノンが、呟くように言った。

 

 

「《治さなきゃいけない人》……何を意味する事なのかしら。プレミアならクエストとかイベントとかの(たぐい)でしょうけれども、ユピテルは全然違うAIだから、そんなわけないわよね」

 

 

 アスナは考えているシノンを視界に入れる。二年近く友人関係を続けてきた事でわかったのだが、シノン/詩乃は時々難しい言葉を使う傾向にある。

 

 それが詩乃自身が読書家であったという事と、やたらと難しい言葉の語彙(ボキャブラリ)を持っているイリスと長い間過ごしているからという事に気付けたのは、割とすぐだ。

 

 そんなシノンを観察するように見ていると、耳に届く声があった。目を向けてみれば、そこに居たのは紫色のロングヘアが特徴的な比較的小柄な少女。《SAO》の頃にはアスナと共に暮らしていて、ユピテルとも長く過ごしていたユウキであった。

 

 

「……そういえばアスナ、あの後ユピテルに何かなかったよね」

 

「何かって?」

 

「ほら、ユピテルがボク達のところに帰ってきた後だよ。ユピテルはものすごく壊れた状態でボク達のところに来たじゃない。その後は一回だけ治されたけれども、そのもっと後は何もなかったよね」

 

 

 今こそは十歳前後の子供といった知能を持っているユピテルだが、その初期状態はもっと低く、幼児に近しいものであった。

 

 それが今の状態になったのは、《SAO》に居た時に《MHHP》に備わっていた機能が変異したものが発動してしまい、ユピテルがその他のAIを吸収。自己修復に充てたからだ。

 

 イリスが《吸収進化》と唱えたそれを目にした後にアスナはユピテルを叱り、もう二度と《吸収進化》をするなと言った。

 

 皮肉にも《吸収進化》によってその意味を理解できるようになったユピテルはアスナとの約束を守ると言い、《SAO》がクリアされるまで《吸収進化》や自己修復を行う事はなかったのだ。なので、今のユピテルはその時から何も変わっていないと言えるだろう。

 

 ――いや、一度《吸収進化》は()されたけれども、それはユピテルの意志が存在していないものだったから、結局行われていない。

 

 

「そういえばそうだったね。ユピテルはあれから何も変わってないわ」

 

「それに考えてみればボク達、ユピテルとずっと一緒に暮らして来たのに、ユピテルの事って何も知らないでいるよね。そろそろボク、ユピテルについてもっと知ってもいいんじゃないかなって思うんだけど……」

 

 

 ユウキの言った事にアスナも頷く。確かにこれまで自分達は《SAO》、《ALO》、そして《SA:O》とユピテルと一緒に渡り歩いてきたけれども、その中でユピテルの事を深く知る事はできなかったし、そもそも知る機会さえも設けないまま来てしまっていた。ここまで来るのに、一度はその事について知っておくべきだったかもしれない。

 

 ユピテルを作ったのは《SAO》を作ったアーガス、かつてその社員の一人であり、《SAO》開発者でもあったイリス。イリスに訊けば何かわかるかもしれないし、具体的な事を教えてくれるかもしれない。そう思ったからこそこの集会を開いたようなものだが、結局目当てのイリスは来てくれなかった。

 

 

「ねぇリラン。あんたならわかるんじゃないの。あんたとユピテルは同じように作られたんでしょ」

 

 

 リズベットの問いかけを受けてからリランが顔を上げたのは、ちょっと秒数を置いてからだった。

 

 

「……その前に、我ら《MHHP》と《MHCP》の基本構造と、ユピテルの現在状況について説明しなければならぬな。イリスが居たとしても同じ事を言うだろう」

 

 

 《MHHP》と《MHCP》。《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム》と《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》。それに該当するリラン、ユピテル、ユイ、ストレアとこれまで接してきたし、それについての説明をイリスから数回にわたって受けてきているけれども、本当に核心的な部分には触れていない。

 

 この場にはリラン、ユイ、ストレアの三人が集結しており、その誰もが話すべき事を話す時を待ちわびているような顔をしている。それがわかったのか、三人の家族であるキリトが声を掛けた。

 

 

「アスナだけじゃなく、俺もお前達について知りたい。三人とも、話してくれるか」

 

 

 三人は一度見合ってから頷いた。それから口を開けたのはユイだった。

 

 

「順を追って説明します。まずおにいさんの現在状況ですけれども、おにいさんは内部崩壊を引き起こしています」

 

 

 リラン/マーテルとユピテルはプレイヤー達の心や精神を治療する事を目的に作り出された。

 

 しかし、開発者であるイリスによれば二人ともよくできすぎていたがために、プレイヤー達の心を治療するだけでは持て余してしまう事がわかり、後に《ホロウ・エリア》と呼ばれる没データ置き場の中に封印された。

 

 だが、この時マーテルはアインクラッドの中をモニタリングする事ができており、そこで苦しむプレイヤー達を見ているしかないというのを強いられた。

 

 自分達の使命は人間の心や精神を治療する事。今にも苦しんでいる人間達がいるのに向かっていく事ができない。矛盾を内包したマーテルは膨大なエラーを蓄積させ、内部崩壊を引き起こしていった。

 

 これはユピテルも同じであるようで、ユピテルもまたエラーを蓄積させてしまい、内部が崩壊。精神年齢も大きく引き下がり、与えられていた能力さえも失ってしまい、自分が誰なのかわからなくなり、その末にアスナと出会ったのだ。それがユイとリランからの説明であり、そこで一旦話は区切られた。

 

 

「やっぱりユピテルもリランと同じようになってたって事なんだね。けど、リランはあそこまでひどく無かったよね?」

 

 

 疑問だらけと言わんばかりの顔をしているフィリアに、リランは答える。

 

 

「我の場合は自分で封印を破り、《ホロウ・エリア》に同じように眠っていたデータを片っ端から取り込んで自分を複製したから、ユピテルのように崩壊しきるような事にはならなかった」

 

「って事は、崩壊が進んじゃったユピテル君の記憶は、完全に消えちゃったって事なんでしょうか。それなら、ユピテル君はどうして自分のやるべき事とか、《治さなきゃいけない人》の事を思い出そうとしてるんでしょうか」

 

 

 アスナも気になっていたシリカの問いかけに答えたのは、三人の中で一番下のストレアであった。

 

 

「ユピテルの記憶は完全に消えちゃってるわけじゃないんだよ。そもそもアタシ達の記憶は……」

 

「これは実物を見てもらった方が説明が簡単だ。ユイ、()()()()使いたいが、良いか」

 

 

 リランに言われるなり、「わたしですか」と若干大きな声でユイは驚く。一体何を言っているのか、この娘達が何を考えているのかわからず、皆――主にキリトとシノン――が「何が?」「ユイがどうしたの?」などの声を上げ始めると、ユイはリランに向き直った。

 

 

「わかりました。わたしのでいいですよ」

 

「すまぬな。できる限り早く終わらせるから、少し辛抱してくれ」

 

 

 ユイは頷いて立ち上がり、キリト達の座るソファの真向かいにあるソファに深々と腰を掛けた。直後、リランはウインドウを呼び出してホロキーボードを呼び出し、手慣れた動作でタイピングを進めていった。

 

 一体何が始まるのかと皆が注目すると、リランのウインドウから蛇が飛び出した。いや、蛇ではない。青白い光を纏ったケーブルだ。それが生きているかのように動いていたために、蛇と錯覚したのだ。

 

 生きたケーブルの登場に皆がもう一度驚く中、ウインドウから延びるケーブルは海蛇のように空中を泳いでいき、やがてユイの項に先端を突き立てた。ユイは電撃を受けたように一瞬身体をびくりと言わせ、そのままソファに(もた)れ掛かって動かなくなる。

 

 ユイが毒蛇に噛まれて死んだとも思えるような光景に皆が瞠目、キリトとシノンが驚いて声をあげる中、リランが更に操作を加えた次の瞬間。ユイの胸元が白い光を宿した。まるでユイの体内に心臓がしかと存在しており、光を放っているようにも見える。

 

 皆で息を呑んで見つめた直後、ユイの胸の中から何かがゆっくりと浮き上がってきて、ユイの胸の上で静止した。

 

 ユイの中から取り出されてきたとしか思えないようなそれは、文字とも模様ともつかない青い光の紋様が刻み込まれている、丁度掌に載せられるくらいの大きさの、ぼんやりと光る白い立方体だった。

 

 少なくともこの《SA:O》の世界には似つかわしくないアイテムの登場に皆で茫然とし、一人だけそうなっていなかったプレミアが呟く。

 

 

「白い、箱……?」

 

「これこそが我らの核、《アニマボックス》だ」

 

「《アニマボックス》……」

 

 

 アニマはラテン語で生命の意味。直訳すれば《生命の箱》。そのような名を冠するそれから皆目を離せなくなり、アスナもその一人となった。

 

 

「《アニマボックス》は我ら《MHHP》、ユイ達《MHCP》の最重要部であり、全ての構成データが内包されている部分だ」

 

「これがお前達のコアなのか……リランもストレアも、これを持っているのか」

 

「そうだよ。《アニマボックス》はアタシにもあるし、リランとユピテルの中にもあるよ。この《アニマボックス》の中にアタシ達の記憶からこの姿に関するデータまで、全部入ってるんだ~」

 

「って事は、これがユイちゃんそのもの!? そんなものをこんな簡単に取り出しちゃっていいの」

 

 

 焦るリーファとその周りの者達を(なだ)めるように、リランが言葉を掛ける。

 

 

「こうでもしなければわかってもらえぬからな。話を戻すぞ」

 

 

 そう言ってリランは説明を再開した。《MHHP》、《MHCP》の中に漏れなく存在する《アニマボックス》とは、この両者の頭脳とも言える部位。そこにVR世界に具現化した時の外観や性格、性質などといった基礎データから、記憶や蓄積した情報までもが全て保存されている。家庭用、業務用のパソコンに例えるならば、コアメモリさえも内包したハードディスクとも呼べるものだ。

 

 しかもこれはそれだけのものではなく、リランやストレアが見たり聞いたり体験したりした時の情報処理も、この中で秘密裏に行われるようになっており、リランやユピテルの持っている自己修復機能や《吸収進化》機能そのものを宿してもいる。

 

 《MHHP》、《MHCP》の全てと言える箱状物質。それが《アニマボックス》だ。その姿から目を離す事ができないまま、アスナは呟いた。

 

 

「これがリラン達の全部……まさかこんなふうになってたなんて……」

 

「恐らくアーガスの社外秘機密事項でしょうね、これは。けれど、これがユイの本体なんて……」

 

 

 まじまじと白き箱を眺めるシノン。その横でリランが呟く。

 

 

「そうだ。これは全ての《MHHP》と《MHCP》に搭載されている。当然ユピテルにもな」

 

 

 ホロキーボードを叩くのを一旦やめたリランに、フィリアが横から声をかける。

 

 

「そういうふうになってたんだ。それで、この《アニマボックス》にリラン達の記憶が保存されてるんだよね。って事は、ユピテルの場合は《アニマボックス》が壊れちゃってるとか、そんな感じ?」

 

「それで間違いない。というよりも、《アニマボックス》が破損していたのは我ら全員だな」

 

 

 ユピテルのアニマボックスは破損した状態にあるが、完全に壊れてしまっているのかと言われたらそうでもない。ユピテルの場合はアニマボックス内の記憶領域の一部が破損してしまっているがゆえにあの状態なのだ。

 

 

「ユピテルはな、記憶を思い出す事ができなくなっているだけなのだ」

 

「思い出せなくなってるだけ?」

 

 

 ますます理解ができなくなったのだろう、皆が気難しそうな顔をし始めると、ストレアが人差し指を立てた。

 

 

「んーとね。ユピテルの記憶はなくなってるんじゃなくて、参照できなくなってるの。記憶そのものが壊れちゃってるんじゃなくて、記憶を読み取る部分が壊れちゃってるって感じかな。だから、ユピテルの言ってる事は断片的だったんだよ」

 

 

 その説明を受けるなり、キリトは「あぁ、そういう事か」と言って納得したような顔をし、アスナもすぐさまそれに続いた。てっきりユピテルの記憶が壊れてしまっているから、ユピテルは何も思い出せずにいるとばかり思っていたが、真実はそうではなかった。

 

 

「ん? ちょっと待って。ユピテル君の記憶はこの《アニマボックス》の中なんだよね。って事は、ユピテル君の《アニマボックス》を直接直しちゃえばいいんじゃないの。《アニマボックス》にアクセスして、それで修理すれば……」

 

 

 リーファの疑問に皆が「そうだよね」や「そうそう」などの声をあげ始めるが、そうならなかったのがキリトだった。

 

 

「残念だけど、そういうわけにはいかないんだよ」

 

「えっ、なんで?」

 

 

 妹に問われるなり、キリトは部屋中の皆に説明するように言った。

 

 リランやユイ達の本体を持っているキリトは以前、興味本位で彼女達の本体の解析を行おうとしたが、《SAO》にいた時にイリスに言われた通り、彼女達の本体にはとんでもない強さのセキュリティがかかっていた。

 

 それを破る事は現時点のキリトではできなかったらしく、結果としてここにいる者達の手でリラン達の中身、アニマボックスを開ける事は不可能だ。

 

 その話が終わった頃にストレアが付け加える。

 

 この《アニマボックス》はリランでも具現化させる事だけしかできず、その中身を触ったり開いたりするような事はできないし、コピーや削除をする事もできない。それができるのはリラン達の事実上の母親であるイリスだけなようになっている。

 

 更に、《アニマボックス》を開いて操作する事のできるイリスでも、《アニマボックス》内の記憶領域を直す事は不可能としているそうだ。その事実に皆で驚き、リズベットが言う。

 

 

「イリス先生でも直せないってどういう事なのよ」

 

「記憶領域は我らの中で最もデリケートな構造でできているのだ。下手に手を加えてしまうと記憶そのものが書き変わってしまうし、最悪全ての記憶が失われる危険性もある。人為的な方法で直すのは難しい」

 

 

 人間の脳と同じだ。普段傷付く事がほとんど無い脳に傷が付いたり、内部疾患が起こったりすると、性格が激変してしまったり、記憶がなくなってしまったり、最悪死に至ってしまう事もある。《アニマボックス》の記憶領域はまさしく人間の脳なのだ。理解したアスナは溜め息を吐くように言った。

 

 

「イリス先生でも直せないなら、どうしたらいいの。どうすればユピテルは元に戻れるの」

 

「アスナ。そもそもお前、疑問だと思わないか。どうしてユピテルが突然そんなふうになり始めたのか」

 

 

 問われたアスナはハッとする。確かにユピテルはこれまであんなふうにならなかったし、今日のだって発作的だった。

 

 

「そういえば……どうしてユピテルは急に?」

 

「アスナ、我らには自己を修復する機能がある事は知っているはずだ。そして他のデータを吸収する事でより強く自己修復ができる事も」

 

「それはわかるけど、ユピテルはもうそんな事やってないよ」

 

 

 《MHHP》の自己修復、《吸収進化》は常時発動しており、自己が破損していた場合は常日頃様々なデータを吸収し、自己を回復させていくようになっている。それまで何もなかったはずのユピテルがそうなってきたのは、アスナが振る舞う料理やその食材のデータを取り込んだが故である。リランはそう言ってアスナを驚かせた。

 

 

「わたしの料理を食べて、ユピテルは自己修復してたの!?」

 

「そうだ。目で見てもわからなかっただろうがな」

 

「そういう事だったのね。ユピテルはおかあさんの料理を食べる事で、《吸収進化》をしてた。ある意味、子供が成長する過程の再現ね」

 

 

 シノンが呟くように言うと、アスナは納得が深まったような気がした。

 

 

 ユピテルはこれまで自分が食べさせてきた料理を吸収しており、それに伴って《吸収進化》を遂げてきた。その結果、アニマボックス内の記憶領域が修復されて、かつての記憶が思い出されようとしているのだ。

 

 

「そうだったんだ……わたしの知らないところでそんな事が起きてたなんて……」

 

 

 そこでアスナは気付いた。ユピテルが自分の料理を食べる事で《吸収進化》して、自己修復を行ってきたのであれば、最終的にユピテルは全てを直しきれるのではないか。あのときのようにモンスターのデータを捕食したりせずに。

 

 

「それじゃあ、このままいけば、ユピテルは全てを取り戻せるのね。本人も歯痒そうにしてるから、なるべく早い方がいいんだけど……」

 

 

 少し早口になったアスナに、リランが少し申し訳なさそうに答える。

 

 

「そう、それこそが問題なのだ。今ままでのままでは足りぬ。お前の料理のデータは、ユピテルの記憶領域を若干直せていた程度に過ぎないのだ」

 

「え?」

 

 

 《アニマボックス》の構造の中で最も複雑かつ膨大なのは記憶領域だ。破損してしまっている記憶領域を完全に修復するには、膨大かつ濃密なデータが必要となる。

 

 これまではアスナが食べさせた料理のデータだけで細々と修復されてきたが、それは必要最低限であって完全なものではない。ここより先に進むならば、そんなものでは足りない。

 

 かつてのリランのように全てを取り戻すには、より濃密で大きなデータが必要なのだ。これまでどおりのアスナの料理では別なところが直されてしまうだろう。

 

 そこまで聞いたところで、アスナはこの先ユピテルが必要とするものを理解できたような気がして、眉を寄せた。

 

 

「じゃあ、ユピテルの記憶を取り戻すのに必要なものは……」

 

「というよりも、ユピテルを手っ取り早く直す方法っていったら、一番最初にユピテルがやった事をもう一回させるくらいしかなさそうだな」

 

 

 顎に手を添えるキリトにシノンが呼び掛ける。「なんて事を言うの!」という意思が明確にあった。だが、リランもストレアもそれを否定しようとはせず、やがてリランが言った。

 

 

「キリトの言うとおりだ。ユピテルを素早く直すならば、それをする以外の方法は存在しない。アスナの料理を遥かに上回るような濃密かつ膨大なデータを、ユピテルの《アニマボックス》に喰わせるしかないのだ」

 

 

 そう言ってリランはホロキーボード再度操作した。直後、具現化していたユイの《アニマボックス》が光に包み込まれてユイの胸の中へ戻り、溶け込むようにして消えた。リランがホロキーボードを閉じると、閉じられていたユイの瞼が開かれた。

 

 閉じられていたユイの瞼が開かれて、いつもの黒色の瞳が姿を現す。ユイの意識がこの場に帰ってきたのを認めるなり、シノンが咄嗟にユイの元へ駆けつけ、声をかける。

 

 

「ユイ、あなたは……」

 

「ただいまです、ママ」

 

 

 たった今休止状態から戻ってきたという意味。言われるまでもなく察したシノンはユイの華奢な身体を抱き締め、その傍へキリトも寄っていく。三人のいつもの光景。

 

 だが、アスナは今のユイを見ても、ユイの胸の中から召喚されてきた白い箱の姿に上書きする事はできなかった。同時に、《SAO》の時に見る事になってしまった光景がフラッシュバックされてくる。

 

 突然フィールドに飛び出したかと思えば、フィールドボスに襲いかかり、その遺骸をばりばりと捕食するユピテルの姿。《吸収進化》という機能が具現化したその瞬間。頭の中に広がるそれは、アスナに目眩にも似た気持ち悪さを与えてきた。

 

 その光景を最初から最後まで見ていたユウキはアスナよりも深刻な顔をしており、リランへ尋ねる声も弱々しいものだった。

 

 

「それじゃあユピテルは、あんな事をもう一回やらないと駄目なの」

 

「今のところはな……そうでもしないとあいつの記憶は蘇らない。我のように、データを喰わなければ……」

 

 

 そう答えるリランの表情は良くなかった。実際リランは他のデータを捕食続けた結果、かつての自分を取り戻した上に、強大な力を手に入れる事に成功している。

 

 その力に自分達はずっと助けられてきた。もし、あの時リランがキリトの元へ、自分達の元へ来なかったならばどうなっていただろうかと、思考するだけで悪寒がする。

 

 けれど、本来リランはそうなるべきではなかったし、今の力も本来ならば必要の無いものだ。弟のユピテルまでそうならなければならないというのは、リランにとっても不本意なもの。できれば避けたい事なのだろう。アスナもそれには同意見だった。

 

 

「……それじゃあリラン、ユピテルの言ってる事とか、かつてのユピテルとかは覚えてない? リランはユピテルのお姉さんだから、交流はあったでしょ。かつてのユピテルの事を話せば、ユピテルが何かを思い出したりするんじゃない」

 

 

 フィリアの問いかけを受けて、リランは腕組みをする。

 

 

「ユピテルの言っている《治さなきゃいけない人》というのは、マーキング機能の事だ」

 

 

 例えば工事現場での事故が起きた際、病院に二人の患者が運ばれてきた時だ。それぞれ足の指の骨が折れた患者と、身体を鉄パイプで貫かれた患者だったならば、後者の治療が優先される。

 

 それと同じように、《MHHP》も複数の治療対象に出くわした時には優先順位を決め、独自で判断してマーキング、治療へ向かうのだ。

 

 ユピテルの言っている《治さなきゃいけない人》とは、当時ユピテルが重症と判断したプレイヤーを指している。リランはどこか淡々としながらそう話した。まるで自分を客観視しているようにも見えた。

 

 

「《SAO》の時の《治さなきゃいけなかった人》って、いつ見つけたのよ。もしデスゲームが始まった直後なら、二年も前の事じゃないの。そんなものを今更思い出してどうするって……」

 

 

 眉を寄せるリズベットをアスナは否定しない。言っている事はもっともだ。

 

 ユピテルが治さなきゃいけなかった人と言っているそのプレイヤーがいつマーキングされたものなのかは釈然としていないし、デスゲーム開始直後だったならば、すぐに亡くなった可能性もある。デスゲーム開始直後は何百もの人が第一層のモンスターに殺されたのだから。

 

 当事者の一人であるシリカが悲しげな顔になる。

 

 

「これは思い出さない方がいいんじゃ? その人がもう亡くなってたなんて事だったら、あたしもショックです……」

 

「そうだ。それに……ユピテルは思い出さない方が幸せな事が多いかもしれぬ」

 

 

 俯くリランの顔に影が落ちる。いつの日かの苦い思い出を連想しているようだったが、アスナは尋ねるという衝動を止められなかった。

 

 

「それってどういう事なの。やっぱりリランはユピテルを知ってるの」

 

 

 その場の全員の意思を代表するようにアスナが言うと、リランは少々黙った後に口を割った。

 

 

「我とユピテルは同じアーガスで、姉弟として作り出された。人間の心を理解し、精神を癒すという目的で作られた我らには、使命を全うするための教育と訓練、学習プログラムが施された。それは今さっき話したな。だが、我らは決して一緒ではなかった。

 

 ……ううん、一緒じゃ駄目だった()()()。ユピテルの開発には明確な目的があったんだ。皆はユピテルの形はわかるよね。ユピテルはアイリに似てないんだよ。()()()達みたいに、アイリに似た特徴を持ってないんだ。これもきっとその目的のため……」

 

 

 途中でリランの言葉遣いと声色が変化を(きた)す。リランではなく、《MHHP》の一号機マーテルとしてのものだ。かつてのアーガスの事を話すから、口調が当時のものへ戻ってしまうのだろう。

 

 今のリランはキリトの《使い魔》ではなく、ユピテルの姉のマーテルであった。それも気にせず、キリトがマーテルへ声をかける。

 

 

「その、明確な目的っていうのは?」




 長くなったので二分割です。

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