そして、夜は始まる。
ユピテルの事を詳しく聞いた翌日。
明日奈はいつにもなく起こってほしくなかった出来事の中にいた。いつものように学校を終えて帰宅した時、いつもは遅くまで会社に籠っていて帰りが遅いはずの父と兄の姿があった。
当然と言わんばかりにその中には母の姿もあり、話を聞いてみれば、父と兄の仕事が定時で済んだので、一家揃って食事をしようというのだ。
出来るならば明日奈はそれを断りたかったが、いつもはいない父と兄がいるという事もあって、断りきる事が出来ず、結局一家揃っての晩餐をする事になったのだった。
テーブルに用意されているのは普段よりも豪勢な料理。主に高い食材を使用したものばかり。父と兄がいるという事で、豪華なメニューが用意されたのだ。
細々した事ではあるけれども、美味しいものが食べられるという事は素直に嬉しかったのだろう。父と兄はそれなりに喜ばしい様子で料理を食べ始めたが、母は一人だけ厳格な雰囲気を崩さず、ただ黙って食べているだけであった。その母がいるという事そのものこそが、明日奈がこの晩餐に参加したくない理由だった。
あまり明るくない部屋の中での四人での食事。始まってから数分間は沈黙が続き、誰も言葉を発さずに料理を食べ続けている一方だった。そこから何分くらいたった頃だろうか、明日奈の隣に座っている青年、兄である
「明日奈。今度の休みに、またユピテル君に会わせてくれないか」
「え? あぁ、いいけど……ユピテルは今《SA:O》にいるから、ALOにコンバートしないといけないね」
「そうだよなぁ。《SA:O》の参加チケット持ってるの、明日奈だけだもんな。おれのアミュスフィアでもいければいいんだけど、参加チケット入ってないから、面倒を掛けるな」
少しの苦笑いを見せる浩一郎。基本的な顔立ちは母親に似ているけれども、全体的に穏やかな雰囲気が父親の面影を見せている。
出勤時と勤務時では如何にもビジネスマンといった表情と髪型をしているけれど、今は何も整っていない、年相応の青年の髪型と表情をしている。言葉遣いだって出勤時とは全く異なるものだろう。
「いいんだよ。ユピテルも兄さんに会いたがってたし、それに父さんにだって会いたがってたよ」
そう言って明日奈は自分から見て左前方に視線を向ける。そこは浩一郎の前方にある椅子だが、そこに座って食事をしているのが、少しだけ横幅のある体系をした、まだ白髪の無い中年の男。明日奈の父である
日本に存在する大企業の中でも指折りの売上と業績を叩き出していて、いくつもの子会社を持っているレクトの
出社時と勤務時は浩一郎同様、整えられた髪型と表情をしているけれども、今はそれらを崩していた。普通な一家の父親といった風貌となっている彰三は、明日奈に穏やかな顔を見せた。
「本当かい。それならば、わたしも会いに行くとするかな、孫に……」
「それじゃ、父さんと一緒になりそうだな。二人揃っていくんだから、ユピテル君も喜んでくれそうだよ」
「そうだな。何かお土産でも持っていければいいのだが……生憎そうはいかないものだからなぁ」
「お土産なら《ALO》の町中で買っておくよ。あ、でも町中のやつはもう知り尽くされちゃってるかな。あの子は《ALO》に住んでたようなものだしさ」
そう言って苦笑いし合う父と兄。この二人がユピテルの事を知ったのは、《SAO》がクリアされて、明日奈が現実世界へ戻ってきたすぐ後だ。
その時にはユピテルの実物がなかったから、二人とも半信半疑で聞いている程度だったけれども、《スヴァルト・アールヴヘイム》でユピテルが復活して実物に会ったその時。二人は揃いに揃ってユピテルの姿形、その能力にこれ以上ないくらいに驚いて感動してみせた。
それから少々時間を要したけれども、その後二人はユピテルを明日奈の子供としかと認識し、彰三は孫として、浩一郎は甥としてユピテルを扱うようになって、仕事の休日の合間を縫ってユピテルのいる世界へ赴き、会うようになった。
そんな二人の事をユピテルもそれぞれ祖父と叔父と認識し、家族として接している。仲が良いか悪いかと言われたら、良いと言えるだろう。
ユピテルは超高性能なAIであって人間ではない。そんなものを家族に受け入れてもらえるか。それがユピテルを二人に会わせる前の明日奈の一番の不安だったが、それは杞憂に終わったのだ。
本当に孫と甥に会いに行こうとしているような顔をしている二人を見ていたその時、浩一郎が何かに気付いたような顔になった。見る見るうちに表情が少し険しいものへと変わっていく。何か思い出したくない事を思い出したようにも見えた。
「……明日奈。ユピテル君はアーガスが作ったんだよな」
「え? うん。そうだけど」
「なら、その時のプログラマーがどこにいるかとかわからないか。お前、作った人と話してたって言ってたじゃないか」
二人にはユピテルの開発者であり、仲間であるイリスの事も一部話している。
ユピテルの開発者という話を出されたのは、実物のユピテルと二人が出会った時だ。二人はユピテルに感動した後、すぐさま作った人の話を持ち掛けてきたのだ。明日奈は「その人はゲームの中で会って話をした」とだけ言い、それ以上詳しく話したりはしなかった。
自分がレクトの社長令嬢であるという事を話した後、イリスから直接言われた。「もしレクトのボスである君の父親や、お兄さんに聞かれても、私の事は話すな。ユピテルの事も決してレクトに公表するな。それが出来ないなら、君とユピテルを一緒に居させられない」と。
ユピテルと離れ離れになるのなど断固として御免だった明日奈はこれを呑み込み、父にも兄にもイリスの事は話さず、レクトに決してユピテルの事を伝えないでくれと頼み込んだ。説得は大変だったけれども、最終的に父も兄も、ユピテルをこの結城家だけの秘密としてくれた。
「そうだけど……それは前にも言ったじゃない。その人からの要望で名前は出せないって」
「そこを何とかしてくれないか。今、うちの会社にユピテル君を作った人……いや、ユピテル君のデータを持ち込みたいんだ。もうユピテル君を見せつけるか、ユピテル君を作った人に連絡を取るしかないんだよ」
イリスから禁じられていた事を平然と口走った兄に、明日奈はきょとんとしてしまう。
「何があったの、兄さん。それに父さんも……」
振り向いた時、彰三は俯いていた。表情は浩一郎と同じ険しいものであったが、悔しさを抱いているというのがわかるものでもあった。
てっきりそのまま言葉を発するかと思いきや、浩一郎の方が先に話を始めた。
「……今日、レクト本社で役員会議をやったんだ。今後開発していくものとか、商品をどうしていくとか、そういうのを相談し合う会議だ。社長……父さんも一緒だった」
明日奈の頭の中に、レクトの重鎮達が同じテーブルを囲んで会議をする様がイメージされる。本部にて円卓を囲み、ヒースクリフ――途中からはキリト――を中心にして攻略会議を行っていた血盟騎士団の時にそっくりだ。レクトも血盟騎士団も大企業と大ギルドという同じような存在だから、会議の時も似るのだろう。浩一郎の話は続いた。
「色んな役員達がアイディアを出してきた。いいものが沢山あったよ。びっくりさせてくるようなアイディアもね。
そこにおれも加わって提案したんだよ。レクトでユピテル君みたいなコミュニティAIを作ろうって。レクトでユピテル君みたいなのを作って、コミュニティAIを広める先駆けになろうって……」
IT大企業の社長令嬢ではあるけれども、ITからは縁の遠い明日奈でも、今現在この社会全体の様々なところにAIが普及してきているという話は知っている。
どこかの会社が素晴らしいAIを開発しただとか、それによって著しい効率化が起こって売上も業績も激増したとか、AIの力が潰れかけていた零細企業や地方旅館といった民間施設を救ったなど。便利で強力なAIの登場といった話はネットでもテレビでも毎日のように取り上げられており、環境音のごとく耳に入ってくる。
今、世界は人間とAIが共生していく時代を迎えていると言えるだろう。そんな現実世界の有り様を想像していると、彰三が口を開けた。
「わたしも社長としてその提案を支持した。人間と同様に心と感情を持ち、人間に様々な事を教えられる事によって成長し、人間のように疲労する事も出来て、人間の疲れや辛さを理解する事も出来る。疲れたり、病んだりした人間の心を癒す事が出来、友達になる事が出来……人間と共生していく事の出来るAI。それがユピテル君だ。あそこまで素晴らしく作りこまれたAIを、他の企業は作れないでいる。レクトだってそうだよ」
「だから、それを作ろうって言ったんだ。データの処理が出来るだけとか、人間の作業を効率化するだけのものじゃない。人間と一緒に成長出来て、人間の心を理解できる心を持っているコミュニティAIを作ろうって……人間とAIが本当に共生し合う時代の先駆けのAIを作ろうって……なのに……なのに他の役員達は……!」
人間のように心と感情を持つ、人間のように疲れる事の出来、人間の庇護を受けながら学習する事で成長していく、コミュニティAI。ユピテルに極めて近しい人工知能を作ろうという計画。その素晴らしさがどれほどのものかは、会社の事情を知らない明日奈でもわかる。
だが、この話を浩一郎と彰三が話したところ、レクトの役員や社員達はこう答えたそうだ。
AIは死も疲れも知らない、給料さえもいらない究極の労働力だ。AIが疲れたり感情や心を持っているのはあり得ない。
AIは人間の利益のために忠誠を尽くす存在でなければならない。人間の庇護が必要なAIなど無駄だ。
AIが心や感情を持っていたら消す。人の手で育てる必要のない、人をどこまでも助けるのがAIなのに、心や感情を持っていて成長させる必要があるとは何事だ。そんなものを我が社がわざわざ金をかけて作る必要などない。
心や感情を持ったAIなんか、出来損ないだ――。
その最後の言葉を聞いた瞬間、明日奈は頭の中が痺れたようになり、手に持っていたフォークをテーブルに落とした。それさえ気にしようとせず、喉からか細い声を出すしか出来なかった。
「ユピテルが……出来損ない……?」
「いや、ユピテル君の事じゃない。ユピテル君の事は何も出さなかったけれど、ユピテル君みたいなAIを作る事に関して、皆はそう言ったんだよ。どこまでも好き放題に……それでおれ達の提案は却下されて、そういう労働力になるAIの開発を進めるっていうのだけ採用されたよ。……初めて自分の会社の役員に幻滅出来た」
怒りが込められた浩一郎の言葉を聞いた直後、痺れた頭の中に一つのイメージが浮かび上がってきた。
真っ黒の空間の中にぽつんとユピテルが座っている。その周りをスーツを着込んだ大人達が取り囲み、悪罵をぶつけている。
お前は失敗作だ。お前はなんの役にも立たない。
お前は奴隷ですらない。お前なんか出来損ないだ。
そんな心無い言葉をひたすら繰り返しユピテルに浴びせていくのだ。その大人達はどんなにユピテルが悲しそうにしていても、泣いていても、何一つ気にする事なく悪罵をぶつける。ユピテルは何も言い返せないで
やがてその光景は先ほどの会議のイメージと融合した。
浩一郎と彰三が出席した会議はきっと円卓で行われた。その円卓の中央にはユピテルがいたのだ。会議の中でユピテルを悪く言わなかったのは浩一郎と彰三の二人だけで、残りの大勢の者達はユピテルを取り囲んで罵っていたのだ。
そんなレクトの役員の連中は誰一人としてユピテルのような存在を認めようとせず、AIを現在の奴隷か何かと思っている。明日奈はそうとしか思えず、心の中から強い怒りが突き上げてくるのを感じた。
「何それ……何、それ……」
思わず口から言葉を漏らすと、彰三が答えるように言ってきた。声に悲しみの色が含まれていた。
「……これにはわたしも驚かされたよ。誰も浩一郎とわたしの案に賛同しなかった。だが、社員達の言っている事が間違っているわけでもない。
AIは確かに人間の働きを助けてくれる存在だし、極端な言い方をすれば、絶対の忠誠を誓う給料のいらない究極の労働力だ。現在の社会でそういったものが歓迎されるのもわかる。それを作ろうというのは何も間違ってはいない。心を持ったAIを作ろうという考えを持ち出したわたし達の方が異常と言われても、仕方ないだろう」
「けれど、今の時代に必要なのはそんなのじゃない。今の時代に本当に必要とされてくるのが、ユピテル君みたいなAI達だよ。おれ達人間と一緒に生活していけて、おれ達人間を理解して癒してくれるAI……それこそが本当に必要とされるものなんだよ。それを皆はわかってないんだ」
そこまで聞いたところで、明日奈は浩一郎の最初の言葉の意味がわかった気がした。浩一郎は見せたいのだ。分からず屋で頭の固い役員の者達に、超高性能AIであるユピテルの姿を、その性能を。散々ユピテルに悪罵をぶつけた連中の腰を抜かさせたいのだ。
「だから……兄さんはユピテルを」
「そうだよ。なぁ明日奈、ユピテル君を作った人に連絡して、ユピテル君を公開する許可をもらってくれよ。なんなら作り方とかも。連中もユピテル君を見れば考えを変えるはずだし、今後の社会で必要とされるのがユピテル君みたいなAIだっていうのを理解できるはずなんだ」
明日奈はぎゅうと
そして浩一郎の言う通りだ。レクトの役員がユピテルを出来損ない扱い出来るのは、ユピテルの実物を見た事が無いからなのだ。ユピテルの実物を見て接すれば、散々ユピテルを馬鹿にしたレクトの社員達も盛大に腰を抜かすに違いない。自分達が間違っていたという事を認めるしかなくなるはずだ。
ユピテルを公開しないのはイリスとの約束だが、きっとイリスもこの話を聞けば許可をくれる。自分の子供をここまで好き放題言われているのだから。
心の中の怒りを口にしようとしたその時。
「わかっていないのはあなた達の方よ」
鋭い刃の切れ味を彷彿とさせる声が部屋の中に響き、明日奈も浩一郎も思わず黙り込む。それを発したのは彰三の隣に座っていて、この厳格な雰囲気を作り出している張本人でもある明日奈の母、
女性にしては長身――それでもイリスには届かないが――でありながら華奢さはない、しっかりとした体形。ダークブラウンの髪の毛を左右均等に分けて肩の上で切りそろえていて、皴がほとんど見受けられない、整えられた顔立ちをしている。
それら全てを合わせる事で四十九歳よりも下回って見えるのが特徴的である京子は、シェリー酒の入ったワイングラスを片手に持ったまま明日奈と浩一郎を見ていた。本人はそのつもりはないだろうが、見られている側からすれば睨みつけられているようにしか感じない。
「浩一郎に明日奈。いいえ、主に明日奈。あなた達はいつまでそんな
その言葉に明日奈は目を見開く。似たような顔をしている浩一郎の方が先に声を出した。
「……それ、どういう意味で言ったんだよ、母さん」
「そのままの意味よ。お父さんもそう。ユピテルだっけ? あんなものは明日奈の息子じゃないし、私達の孫でもないし、浩一郎の甥でもないわ。
浩一郎と彰三はユピテルの事を認めている。家族であり、自分達を理解する存在であるという事を。だが、その中で京子だけは、決してユピテルの存在を認めようとはしていなかった。京子さえわかってくれればもう何も心配事はないのに、京子はどんなに話してもユピテルの事を理解し、認めようという姿勢を見せてくれなかった。それが明日奈の悩みでもあった。
それなりに早口で紡がれた言葉に、浩一郎が明日奈よりも先に反論する。
「母さん……なんだよ人間モドキって。あの子は明日奈の子供で、母さんの孫なんだぞ? それが自分の孫に向かって言う言葉なのか」
「何度も言わせないで。ユピテルは明日奈の子供じゃないし、私の孫でも何でもないわ。そもそもアレは明日奈が宿して産んだ子じゃないし、人間でさえない。人間の真似をするように人間に作られた人形。それと何が違うっていうのよ」
「あの子は人形なんかじゃない。他のAI達と違って、ちゃんと心も感情も――」
「――心や感情を模倣する機能を備えてるだけで、本物の心や感情を持っているわけじゃない。あったとしてもそれは結局作り物。そんなものを搭載している以外ならお
恐らく同級生達にもさんざんやった事があるのだろう。慣れたように浩一郎の主張を全て跳ね除けるなり、京子は明日奈に視線を送る。
「それに明日奈、あなたはあのおかしなゲームでアレの母親になったとか言ってるけど、それってアレの目の前にあなたが偶然居合わせたから、あなたを母親扱いするようになっただけでしょう。鳥の刷り込みと同じじゃない」
明日奈は咄嗟に頭の中でユピテルとの思い出を開いた。ユピテルと一緒に作り上げた日々。数々の思い出が次々と思い出される。だが、それら全てを寄せ集めても、京子に反論できる部分は何もなかった。
確かにユピテルは自分がお腹に宿したわけでもないし、陣痛や出産時の痛みに耐えながら産んだ子供でもなんでもない。そしてユピテルと出会った時だって、あの時偶然自分の目の前に姿を現したというだけだし、自分をかあさんと呼んで慕うのも、目を覚ました時に自分を初めて認識したからだ。京子の言っている事は何一つ間違っていない。
そうじゃない。わたしとユピテルは本物の親子だ。そう言い返したくても、明日奈は言えなかった。京子はどこか不満げな、もしくは残念そうな顔をし、言葉を続けた。
「そもそも明日奈。あなたは不運だったのよ。あんなゲームに閉じ込められた上に、変な存在に目を付けられて母親呼ばわりされて、おまけにそれに
「
「そうよ。私は今の
明日奈は言葉を失うしかなかった。自分はここまで京子に育てられてきた。あまりやりたくなかった習い事もしっかりやってきて、選ばれた友達だけと関係を築いてきた。母がいつの間にか敷いていたレールに沿って人生を歩んできた。
その母が敷いたレールから少し離れた今、母は自分を異常者扱いするようになっていたのだ。驚愕するしかない明日奈を他所に、京子の言葉は続けられた。
「それにあなたの学校の事もそう。あんなところはあなたが通うに相応しくないわ。あなたが行くべき場所はちゃんと存在しているのよ」
「……わたしの学校を変えるっていうの」
「変えなきゃいけないわ。あんなところは学校とは呼べないもの。そうでしょう」
明日奈の今通っている学校――多くの友人達と通っているあの学校は元々、《SAO》生還者達が学業の遅れなどを取り返すために急ピッチで作られたところだ。その授業内容は母や兄が通っていたであろう高校とは比べ物にならないくらいに低品質なものであるというのは一目でわかるし、カリキュラムだってあまり高度なものであるとは言い難い。
更に言えば、あの学校は確かに様々な勉強ができるように態勢が整えられているし、卒業すれば大学へ行く資格も手に入ると大盤振る舞いになっているけれど、週一回に個別カウンセリングを受ける事を義務付けられている。そこで聞かれる内容と言えば、反社会的行為に至ろうとしている気持ちがないかなどを確認するかのようなものばかりであり、場合によっては投薬による治療や病院への再入院を持ち掛けられる事もある。
《SAO》生還者という名の
《SAO》という極限状態の世界。そこを最後まで戦い抜いた友人達と仲間達の集まっているあの学校だ。そこで残りの高校生活を続け、自分のやりたい事を見つける。
それが明日奈の思っている事であり願いであったが、京子はそれに全く聞き耳を持っていない。それを主張するかのように京子はテーブルの脇に置かれていたものを明日奈に差し出した。京子がよく操作しているタブレット端末だ。中には編入試験の概要だとか、どこどこの高校であるとかなどが表示されている。
「なにこれ……編入試験……?」
「そうよ。お母さんのお友達が理事をやっている高校の三年次への編入試験を無理言って可能にしてもらったのよ。あんな学校じゃなく、ちゃんとした学校に通えばあなたはまだやり直せるわ。それにあなたが持っている才能なら、この単位制学校は前期だけで卒業要件を満たせるわよ。これなら九月から大学へ通える」
あまりに早口なものであったが、明日奈はその全てを聞き取れて唖然とする。
母は今の学校から自分を退けさせ、自分の思い描いたレールの上へ戻そうとしているのだ。娘の意志など何も考えていない。娘が
最早独善や偽善に等しい行為だ。それがわかったのか、浩一郎が再び反論をする。
「ちょ、ちょっと待てよ母さん。まだそんな事をやるつもりでいるのか。明日奈の成績はあの学校でトップクラスだし、そもそもあの高校だって
「あんなものはカリキュラムに含まれないわ。あの学校はそもそも、ゲームの中で
京子の言う事の間違いのなさを叩き付けられたかのように浩一郎が喉を鳴らした直後に、明日奈が引き継ぐように京子へ言い返す。
「困るよ、そんな話を急に出されたって……わたしは今の学校が好きなの。あそこはいい先生もいっぱいいるし、友達もいっぱいいる。勉強だってちゃんと出来るから、転校なんか必要ないわ」
「いけません。あなたは結城家の人間であり、あなたには素晴らしい能力が秘められている。それを開花させて思う存分振るっていく事が人生なの。それを実現させるためにお父さんとお母さんがどれ程心を砕いてきたかはわかっているでしょう。
なのにあなたはあのゲームに囚われた上に、あんなユピテルとかいうわけのわからない
あなたは一流の大学に入って、そこでキャリアを築ける資格と能力があるの。大企業、政治……そういったところへ行って能力を生かすべきなの。そのための高等教育を放棄するなんて許されないわ。あなたは誰にでも胸を張って誇れるキャリアを築くべきなのよ」
さながら弾幕のように飛んでくる京子の言葉。かなり無茶ぶりな事を言っているし、明日奈の意志を完全に無視してしまっている。それがわかっているはずなのに、彰三は何も言い返さずに黙って京子の言っている事を聞いているだけだ。何かを言おうとしているようにも見えるけれど、やはり京子に弁論で勝てない。その父にさえ、明日奈は心の中で怒りを覚える。そして京子は相変わらず話を続ける。
「それに、あなたの婚約相手に選んだ裕也君だけど、あの子こそあなたに相応しい子だわ。派閥争いの激しいメガバンクよりも一族経営の地銀の息子の方がよっぽど安定してる。ちょっと覇気がないというのはわかるけれど、素直でいい子よ。あなたも裕也君と話せばユピテルよりも気に入るわ。あの子とはこれからも会う機会が多くなってくし、最終的に結婚もする事になるから――」
京子はシェリー酒の入ったグラスを置き、明日奈を睨んだ。
「そのユピテルを作った人に連絡して、ユピテルの削除を依頼して頂戴。交渉が難しいならお母さんも手伝うから。ユピテルは今後のあなたにとって邪魔でしかないのだから、理解しなさい」
その言葉に明日奈は絶句した。母は結婚まで強いようとしているうえに、ユピテルを削除するべきなどと言い出している。夫である彰三は既にユピテルを孫だと言っているのに、母は断固として孫の存在を認めていない。
明日奈の中にあった円卓の会議場のイメージが再び起こされ、その中に京子が加わる。京子も同じだ。ユピテルを出来損ないと罵り、削除を平然と求め、AI達を人間のために忠実に働く奴隷にしようとしている、忌まわしき連中なのだ。
それがわかった途端、明日奈は胸の中に怒りがこみ上げてくるのがわかった。燃えるような怒りだけれども、黒い。黒い炎の怒りを起こさせるのが自分の母親だ。認めて歯をぎゅうと食い縛ったその時だ。浩一郎が意を決したように口を開いた。
「母さん。今まで黙って聞いてきたけど、もうやめようよ、そういうの。おれで充分じゃないか。おれは父さんと同じ会社に入れたし、もう役員レベルにまで行けてる。会社を通じて社会への貢献だって出来てる。それで充分だろ。明日奈までおれみたいな事をする必要なんかない。あとは全部明日奈の好き勝手でいいじゃないか」
そう訴える浩一郎には明日奈への思いがしっかりとあった。
浩一郎もまた結城家の長男として厳しく育てられており、父と母が敷いたレールに沿って生きてきた。明日奈のように父と母が許可した学校に通い、友達を作り、勉学を重ねてきた。レクトへの就職もまたその一環であり、生まれてからずっとエリートの道をひたすら突き進み続けた。
その結果、浩一郎もまた母のような超絶エリート思考になるのではないかと明日奈は思っていたが、現実は逆。
浩一郎は母のようにはならなかった。寧ろレクトへの就職をしてからは荷が下りたように物腰柔らかくなり、厳格な京子に反論する事が多くなった。
浩一郎はエリートの道を進んでいたが、それに伴う形でずっと苦汁をなめさせられてきた。その結果、自分の味わった苦汁を明日奈にまで味わわせたくないという思いが、浩一郎の中で生まれていたのだ。その事から、浩一郎は明日奈のキャリアへついては口出ししないし、こうして頻繁に口出しする京子に異を唱える。
それを理解したのは明日奈が《SAO》から帰ってきた後であり、それ以降明日奈は浩一郎を味方と思っている。その浩一郎にさえも京子は反論で返した。
「いいえ浩一郎。これは明日奈の人生にかかわる問題よ。私は明日奈の事を思って言ってるのよ。あなたも明日奈の事を思っているならば、この話に積極的に参加して協力するべきだわ。妹のキャリアだって大事なのよ」
「なんでそうなるんだよ。明日奈のキャリアは明日奈のキャリアだ。明日奈が好き勝手に決めるべきものなんじゃないのか。それとも、まだおれに何か不満でもあるっていうのか。おれはここまでやってきたのに!」
「私は明日奈の事を言っているのであって、あなたはそれで充分よ」
「ならなんで明日奈にまで!」
「や、やめないか二人とも!」
焦った彰三が止めに入るが、もう明日奈は三人の事は気にしていなかった。それ以上にこの場に居たいという気持ちが失せていたし、母と弁論をするのも耐えられなかった。食べかけの料理をそっちのけてナイフとフォークを置き、テーブルから立ち上がる。彰三と浩一郎は驚いたような反応をし、京子は無反応に等しかった。だが、丁度三人が黙ってくれたのが良く、明日奈は京子へ静かに言った。
「……編入も婚約も、しばらく考えさせてよ」
「期限は再来週までですからね。それまでに必要事項を記入して三通プリント。書斎のデスクに置いておきなさい。それとユピテルの削除の方法も」
明日奈は何も言わずに部屋を去ろうとしたが、途中で立ち止まった。胸から湧き上がるものを感じ、瞬く間に口元へ上ってきて、言葉として出てきた。
「母さんは何も反省してないのね。母さんが大嫌いなユピテルを殺人兵器に改造したのも、この社会を滅茶苦茶にした《
「あれの話を出すのはやめなさい」
「それに母さんは……亡くなったお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの事を恥じてる。自分がただの農家出身だっていう事に囚われて……
次の瞬間、京子は鋭い言葉を飛ばしてきたような気がしたが、明日奈はそれら全てを無視して部屋へ戻った。
部屋の主がやってきた事を察知したセンサーが部屋の照明とエアコンを起動させる。その音が耳障りに感じた。
そのまま部屋の中を歩いてベッドへ向かい、そのまま倒れ込むように身を投げ出した。ぼふんという音こそしたものの
明日奈は歯を食いしばりながら
ユピテルは出来損ないだ。
お前の子供は人間モドキだ。
お前の子供は出来損ないだ。
お前の子供は子供じゃないから削除しろ。
先程のイメージが消えていかず、そんな声が頭の中に響き続け、止まってくれない。胸の中が黒い感情で詰まっているような感じがして苦しささえ来る。母もレクトも、ユピテルを出来損ないと罵っている。
誰も知らないのだ。ユピテルを。ユピテルを知らないからレクトの連中も、母もあんな事が平然と言えるのだ。ユピテルの姿を、その持っている能力を見れば、誰もが自分の言っている事は間違っていたと自覚する。母だって仰天して自分の間違いを認めるはずなのだ。
ユピテルは出来損ないなんかじゃないし、人間モドキじゃない。
それを証明するためにやるべき事はなんだろうか。
自分に残されている手段とは何だろうか。
自分には何が持たされているのだろうか。
咄嗟に考えた明日奈は蹲りから戻り、ベッドの脇に置いてあったスマートフォンを手に取った。
そして自分に残された方法の一つを、実行した。
《……明日奈じゃないか。君が電話してくるなんて、どうしたんだい》
「……イリス先生、お願いがあります」
どうなる、アスナとユピテル。
ここからが本当のKIBTの始まり。
――登場人物の補足――
・結城彰三
明日奈の父親。一人称は「わたし」。
原作ではレクトを辞任していたが、アインクラッド編で須郷が死亡したために騒動が起きず、レクトのCEOを続けている。
ユピテルを孫として、結城家の人間の一人として迎えているなど、明日奈の事情を理解している。
・結城京子
明日奈の母親。原作同様堅物頭。ユピテルを不気味がって孫と認めようとせず、明日奈の将来ルートも勝手に決定してしまっている。そのためユピテルへの扱いも散々である。
・結城浩一郎
明日奈の兄。一人称は「おれ」。
明日奈と同様にエリートとして育てられているが、エリートを強制されることの苦痛を明日奈にまで味わわせたくないという意志を持っているため、明日奈のキャリアに口出しせず、明日奈をエリートにさせようとしている京子の方針に反発している。
ユピテルをしっかりと甥と思っていて、アミュスフィアを使って会いに行く事も多い、明日奈の良き理解者である。
原作では名前しか出てこなかったため、事実上本作のオリキャラ。
くだらない事だが、イメージCVは鈴村健一さん。