どうなるアイングラウンド編第二章第七話。
《ソードアート・オリジン》の主街区、《はじまりの街》の居住区の一角。
家族との食事を終えたアスナはある人物に連絡を取った。
ユピテルやリラン、ユイやストレアを作り出し、父と兄の話にも取り上げられていた、元アーガスのスタッフの一人。イリスというアバターネームを使っており、その名前で呼ぶ事の多い女性、
愛莉は《SAO》の時からの明日奈の恩人でもある。ユピテルの特徴を教えてくれたのもそうだし、ユピテルとの過ごし方もそうだ。そして最後は自分だけが使えるコマンドを使用してユピテルのコピーをとっておき、須郷の魔の手から守ってくれた。
《SAO》がクリアされた後もまた、明日奈と愛莉の関係はしかと続いており、ALOで共に攻略に挑んだり、相談に乗ってくれたりしていた。
その愛莉の電話番号は既に明日奈のスマートフォンにも登録されている。なので、かけようと思えば電話をかけて連絡をする事が出来るのだけれども、愛莉は仕事が忙しくて電話に出られないという事が多く、かけても通じないというのがざらだった。
そのため、基本的に愛莉に相談を持ち掛けるという事は明日奈はしないのだが、今回ばかりはそういうわけにはいかず、愛莉の電話番号にかけた。すると意外な事に、愛莉に電話が通じた。
その時愛莉は仕事が丁度終わったからと言っていたが、すぐさま明日奈は《SA:O》に来てほしいと愛莉に依頼。電話だけで感じ取れたものがあったのか、愛莉は少し深刻そうな声色で承諾してくれた。
愛莉との短い電話を終えた明日奈はアミュスフィアを頭にかけて、愛莉/イリスと出会う事の出来る《SA:O》へダイブ。《はじまりの街》の居住区、自分の家の近くを待ち合わせ場所に指定して、そこへ向かった。
オレンジがかった街灯に照らされている居住区の広場。そこでイリスはアスナを待っていた。装備している服はいつものような白衣を思わせるコート上の戦闘服だ。同じく白を基調とした戦闘服に身を包んでいるアスナの姿を認めるなり、イリスは声をかけてきた。
「珍しいねアスナ。シノンやキリト君じゃなく、君が私のところに連絡を寄越してくるなんてさ」
「……イリス先生、時間は大丈夫ですか。今日もお仕事をされていたのでしょう」
「勿論そうさ。けれど今回は定時で終わってくれてね。タイミングよく君が連絡よこしたってところさ。それが意外だったんだけれど」
「どうしても、イリス先生に相談したい事があるんです」
自分でも驚けるほどに小さな声で言っても、イリスはその一言も聞き逃さなかった。少しだけアスナの事を注視してから、すぐさま表情をちょっと引き締める。
「……その様子だと、何やら厄介な事があったみたいだね。それこそ私が必要になるくらいの」
「この先にわたしが買った家があります。そこで、お話します」
「わかった」というイリスの返事を聞いてから、アスナはイリスを先導する形で自宅を目指した。イリスとの待ち合わせに使った場所は居住区の一角の小さな広場だ。そこからあまり複雑ではない路地を三分ほど歩いたところにアスナの家はあるため、イリスと歩きながらの話をする事はなかった。
家の前に着いて早々イリスは「随分といい家を買ったじゃないか」、「これには結構なコルがかかっただろう」などといった感想を述べたが、それがアスナの頭の奥深くに届いてくる事はなかった。
今のアスナに感想を言っても仕方がない――それを把握したように沈黙したイリスを連れて家の中に入ってみると、明かりが自動で点灯した。家の中はアスナとイリスが来るまで無人であり、普段利用しているユピテルも外に出払っているようだ。
《SAO》の時に暮らしていた家にど事なく似た内装で出来ている一回のリビングにイリスを招き入れ、アスナはドアを閉める。
キッチンとダイニングとリビングが合わさった一つの大きな部屋となっていて、リビング方面にはソファとテーブルのセットがある。どこの家でも見れそうな光景だ。その中にいるというのに、イリスは家に着いた時のような反応を示しており、特にこれといった規則なく並べられている家具達を見ては感想を述べていた。アスナはそれを耳に入れても頭の底まで到達させる事が出来ない。
事実上独り言を言っているに等しい事に気付いたイリスは「座ってもいいかい」と尋ねてきた。アスナが頷くなり、近くにあったソファにイリスは着座。テーブルを挟んで向き合う形になり、如何にもカウンセリングや相談事をする構図となる。
シノンとキリトはよくこうやってイリスのカウンセリングや面談を受けていたというし、そもそもイリスは元精神科医であり、二人以外の人々を相手にこういった構図を作ってきた人物だ。こういった状況こそ本領を発揮出来るだろう。
しかし、イリスは何も言ってこなかった。そればかりか何かを待っているような表情で、じっとアスナの事を見ている。自分の顔に何かついているのか。それとも何か気になる事があるのか。
アスナが口を開こうとしたその時、イリスはようやく言葉を発した。
「……なるほどね。今回は余程の事があったようだね、アスナ」
「え?」
「君は自分の家や自室に客人を招き入れた時にはお茶くらい出すじゃないか。けれど今日はそれをやらない。普段の事をやらなくなってしまうくらいの事が君にあったという事だ」
言われてアスナはハッとする。確かにこれまで自分の家や自室に友達や客人を招き入れた時、茶を出す事を決めていた。イリスに話す事、話したい事ばかりを優先して考えていたせいか、すっかり意識の外へ飛んでしまっていた。
「すみません。今出します――」
そう言ってウインドウを開こうとした瞬間にその手が止められた。イリスの手が伸びてきて、手を掴んでいたのだ。突然だったものだから軽く驚いたアスナに、イリスは首を横に振った。
「今日はお茶はいらない。君は今話したい事があるんだろう。その話を聞かせてくれないか」
言われて、アスナはウインドウを呼び出そうとするのをやめた。イリスから腕を離され、両手を膝の上に置いてぎゅうと握り締めるなり、胸の中にある黒い怒りを吐き出すように話し始めた。
家族と何があったか、母に何を言われたか、レクトがユピテルの事をどう思っているのかを、全て、事細かに。
やはり元精神科医、話を聞く事には慣れているのだろう。イリスは最初からアスナの話を黙って聞いてくれた。そしてアスナが最後の言葉を発し終えると、深々と溜息を吐いたうえに頬杖までも付いた。
「……出来損ない、失敗作……挙句の果てに人間モドキか。言われたい放題、批判されたい放題だな」
「ひどいです。皆揃って……ユピテルを出来損ない扱いして……それにリランも、自分達は失敗作だって言って……!」
「……出来損ない、ねぇ……」
そう言ってもう一度イリスは溜息を吐いたが、アスナはイリスの顔に少し驚いた。
ここまで散々言われているというのに、イリスの顔にはほとんど変化がない。もっと怒るべき事態だし、残念に思うべき事態であるはずなのに、無表情に近しい顔をしたままだ。
まるで言われた事に対して何にも思っていないと言わんばかりだった。様子を見かねたアスナが声を掛けようとしたその時に、ようやくイリスは口を開き、赤茶色の瞳をアスナへ向けた。
「……君は君のおかあさんとあまり仲が良くないみたいな話をリランから聞いていたけれど、その様子だとまだ打ち解け合ってないってわけだね」
「……打ち解け合える気がしません」
「そうかい。そして君のおかあさんはただ一人ユピ坊――ユピテルの事を認めてないって事か。そして君のおかあさんまでもレクトの人達と同じようにユピテルを出来損ない扱いしてるのか」
アスナはただ頷くしかなかった。ユピテルを出来損ない扱いした者達への怒りの炎は未だに胸の中で燃え続けている。それを消し止めたいという思いもあったけれども、それよりも怒りの方が大きかった。そんなアスナを見ながら、イリスは更に呟くように言う。
「それで君は、私に許可をもらいに来たわけか。ユピテルをレクトに見せつけるっていうの」
「そうすれば……誰もユピテルの事を出来損ない扱い出来なくなると思います。イリス先生の作ったユピテルみたいなAIはどの企業も作れてません。レクトだってユピテルの実物を見れば……そうすれば母さんだって……」
「……ふぅん……」
イリスはどこか妙な
「アスナ、君は悔しいのかい。ユピテルを失敗作だとか出来損ないだとか言われてさ」
アスナはかっと顔を上げると同時に立ち上がった。胸の中にあった怒りが一気に昇って口元へきて、言葉として出てきた。
「当然ですッ! 自分の子供を出来損ないだとか、そんなふうに言われて悔しくない親なんか居ませんよ!! そもそもユピテルはイリス先生が作ったんですよ? 自分の
家中に響いていきそうなくらいの大きさの声で怒鳴り散らしているという事を、アスナは気にも留めなかった。とにかく怒鳴り散らしたくて仕方がない。怒鳴り声の中には、こうまで言われて無反応であるイリスへの怒りもいつの間にか混ざっていた。
そして対象であるイリスはというと、アスナの目をじっと見つめていた。何も言ってこない。
このまま黙っているつもりか。もっと腹が立ってきて、アスナが更に言葉をぶつけようとしたその時、イリスはそれはそれは大きな溜息を吐いて俯いた。そのまま肩の力を抜いたかのように肘を膝の上に乗せ、その口を開けた。
「……あぁ、そうだね。実に悔しいよ」
「……!」
「だって、その人達が言ってる事が正論で、こっちは何も言い返せないんだもの」
「……!?」
アスナはもう一度驚いた。イリスは再度顔を上げ、驚いているアスナの瞳に自身を映す。
「リラン……マーテルの言っている事は真実だし、レクトの人達の、君のおかあさんの指摘も的を得ている。
あの子達は失敗作だったから、ユイやストレア達を作って実装したんだし、そもそも《MHHP》は私と茅場さんの反対が無ければ無駄だったモノとして削除される予定だったんだ。そしてユピテルも明確な目的があって作られたけれど、結局それを成し遂げるには至らなかった。ユピテルが失敗作、出来損ないっていうのは間違いじゃないんだよ」
イリスは次から次へと言葉を紡ぎ続ける。その様子は先程話し合った母に何となく似ているような気がした。
「それにさアスナ、考えてごらんよ。ユピテルは《MHHP》であるけれど、人を癒したりした事があるかい。そんなところを君は見た事があるかい。ないよね。それにあの子は崩壊しっぱなしで治されてないし、治す事も出来ない。リランみたいに《使い魔》になれたり、ストレアみたいに戦えたり、ユイみたいに高度情報処理が出来ればよかった。けれどあの子は何も出来ない。君の庇護が無ければ何一つ出来ないじゃないか」
アスナは何も言い返す事が出来なかった。イリスの言っている事が槍のようになって胸に突き刺さってくるような錯覚を覚える。
確かにユピテルは何も出来ない。リランみたいにドラゴンになる事も、ストレアのように剣を握って戦う事も、ユイのように素早い分析や情報処理など、何一つ出来た試しがないし、リランと同型であるというのに、人の心や精神を癒す事も出来ない。姉と妹が出来ている事を、ユピテルは何も出来ていないのだ。
イリスの言葉は更に続けられる。
「はっきり言って、今のユピテルはこれ以上ないくらいにみっともないよ。あんな事になっているくらいなら、《SAO》で君と関係のあった須郷が改造して生み出した、《皇帝龍ゼウス》とかいうのの方がまだ存在意義があったと思うよ。ちゃんとした事が出来るっていう点ではね」
《皇帝龍ゼウス》。その名前を聞いた途端、アスナは自分の目が見開かれたのを感じた。
忘れもしない。須郷伸之がユピテルを連れ去り、心を破壊して様々なモンスター達と融合させた結果誕生した、忌々しき巨大な狼龍。自分の剣で止めを刺す事になった悲劇。その時の皇帝龍ゼウスとなっていたユピテルの方がいい――そのようなイリスの言葉が信じられなかった。
「それにアスナ。君のおかあさんはユピテルの事を人形とか人間モドキとか言っているけれど、私はそれを否定出来ない。アスナ、デカルトは知ってるよね?」
その名前を知らないアスナではない。
ルネ・デカルト。フランス生まれの哲学者であると同時に数学者であり、合理主義哲学の祖ともいわれている、歴史に名を遺す哲学者の筆頭の一人とも言える人物だ。そのデカルトが遺したものの中でもっとも有名なものを、アスナは思わず口にした。
「我思う故に我あり……」
「そう。後に偉人として語り継がれるデカルトだけど……彼は人間と機械、生物と無生物を区別出来ない人だったらしくてね。愛娘が五歳の時に病気で死んでしまった後、その愛娘そっくりの人形をフランシーヌと名付けて溺愛したそうだ。
けど考えてごらんよ。死んだ愛娘じゃないのに、愛娘そっくりなだけなのに、人形に話しかけたりするなんて……傍から見れば異常者だろう?」
やはりアスナは何も言い返せない。頭の中に別なイメージが浮かんでくる。大の大人が何でもない人形に名前を付けて話しかけたり、愛したりする光景。それを異常ではないとは言えそうにない。それを察したかのように、イリスは言ってきた。
「つまりその時のデカルトが今の君。周りの人間からは、君が人間そっくりの作り物をユピテルと名付け、溺愛しているようにしか見えないのさ。まぁ、自分である程度ものを考えたり出来るあたり、デカルトのフランシーヌよりも気味が悪くないとは思うけれど……それでもユピテルは君の庇護が無ければ何も出来ない壊れかけのAIだ。
そんなものを公表してみなよ。レクトもその他の企業も腹を抱えて嘲笑するだろうし、ユピテルに出来損ないのレッテルを貼るだろう。そして母親である君も、『出来損ないのAIを育てる、異常で愚かな女』と罵られ、批判されるだろうね」
アスナはぎゅうと拳を握り締めた。再びあのイメージが頭の中に浮かび上がってくる。
自分がユピテルの隣に並んで座っているのだ。そして大人達に罵声をぶつけられている。
親子揃って出来損ないだ。
こいつは出来損ないを愛している異常な女だ。
そんな言葉が次々から次へと飛ん出来て止まらない。今のところはすべてイメージの中だけで済んでいるけれども、もしレクトにユピテルを公表する事になれば、これは現実となる。それが許せなかった。
胸の中の怒りが強くなってくる。胸の中が黒い炎で燃え上がっているようだ。イリスに相談すれば止むかと思っていたのに、実際は真逆だった。顔を上げないままアスナは視線をイリスへ向ける。
その時イリスは廊下の方を見ていたが、アスナの視線を察したかのようにすぐさま目を向けなおしてきた。
「……それで作った私も一緒に批判されるわけだ。失敗作や出来損ないを作る馬鹿科学者って。だから嫌なのさ、ユピテルを世間に公表するのは。君に約束したのもそれが理由なのだよ。わかってくれたまえ」
ユピテルはこれ以上ないくらいによく出来たAI。だけど様々な部分が欠けてしまいすぎているがため、出来損ないと言われる。そしてそれを一生懸命育てている自分も、作り出したイリスも罵られ、批判される。だからこそイリスは自分達にユピテルやリランの公表を避けるように言っていたのだ。
約束の理由を掴めたアスナは納得を覚えたが、それさえも怒りが焼き尽くそうとしてくる。その様を感じ取ったように、イリスは再度言葉をかけてきた。
「……もっとも、レクトの連中にそんな事を言われて、君も気持ちが悪いだろう。どうすればレクトの連中を、君のおかあさんを納得させる事が出来るか。批判の声から遠ざかる事が出来るか。私が思い付いている限りの事を教えてあげようか」
「……」
「ユピテルを出来損ないと呼ばれたくないなら、ユピテルを誰よりも強く賢いAIに育て上げる必要があるよ。それこそアスナに全然甘えなくて、アスナの料理を食べなくても平気で、誰かに世話を焼かれる必要もなければ、一人ぼっちにされても全然平気で、寧ろ一人の方が黙々と色々な事が出来て、そこら辺の企業は勿論、日本の政府機関や、
イリスの言っている事に途中で驚く。確かにユピテルならばそれくらいの事が出来るようになるのかもしれないけれども、そもそも《アニマボックス》が破損してしまって本来の事が出来なくなっている今のユピテルが、そこまで行けるのだろうか。
……いや、そうまでしないと駄目だ。そこまでユピテルが強くなければ、レクトに公表する事も、母を納得させる事だって出来やしない。そう思うアスナの背中を押すように、イリスは廊下の方から視線を戻し、声をかけてきた。
「……今のユピテルには、君のいう事なら何でも聞く聞き分けの良さが残っている。そしてあの子には自己修復機能が搭載されてるから、君がちゃんと育てれば自己修復も進んで、私の言った事も出来るようになるよ。あの子だって、かあさんである君の役に立てるならば本望だろうし、今のままでいる事には不満があるはずだ。あの子の事を考えれば……答えは自ずと出てくるはずだ」
このままではユピテルの事を母に認めてもらえないし、母は自分をずっと異常者扱いし続け、最悪ユピテルを無理矢理にでも削除しようとするだろう。そのうえレクトの連中も母もユピテルを出来損ない扱いして批判するのをやめないに違いない。
連中を認めさせるためにわたし達親子がやるべき事はなんなのか。
その結論を出すよりも前に、イリスが立ち上がった。手元にはウインドウが表示されている。
「あの子の母親は君なんだ。君にはあの子をちゃんと育てる義務があるという事を忘れてはいけない。出来損ない扱いされないように育てるんだよ」
「……イリス先生、どちらへ」
「シノンからメッセージが来た。ログインの有無でわかっちゃったみたいだね。……シノンに呼び出されたなら行かなきゃなんだ。急で悪いけれど、これで失礼させてもらうよ。久々に君から近況を聞けてよかったけれど、君はどうだった」
「……イリス先生にお話を聞いてもらえて、よかったです。やるべき事が見えてきたような気がします」
「そうかい。それなら私も嬉しいよ。私はまた当分の間ログイン出来ない日が続くかもだけど、次にログイン出来たその時には、成長したユピテルを見せてくれたまえ」
イリスは軽く笑み、アスナの見送りを受けながら家を出て行った。駆け足気味だったのか、すぐさまイリスの気配が家から遠ざかっていき、やがて探知出来ないほど遠くへと消えていった。
アスナはゆっくりと立ち上がり、歩みを進めて廊下を出る。やはりユピテルは出来損ないと言われる状態であり、どんな企業や人からも罵られるようなモノなのだ。
そんなふうに言われるしかない今のユピテルを助けてやれるのは自分しかいないし、きちんと説明すればユピテルだってわかってくれるはずだ。ユピテルの母親は自分なのだし、ユピテルはそもそも物わかりの悪い子でもないのだから。
思ったアスナは咄嗟にウインドウを開き、他プレイヤーの居場所を探すモードを起動する。ユピテルの居場所を探そうとしたそこで、アスナは軽く驚いた。既にユピテルはここにいる。この家に帰ってきて、いつの間にか二階へ上がっていたらしい。ここならば誰にも話を聞かれたりしないし、ユピテルも落ち着いて話を聞いてくれる。これからの事を話すには丁度いい。
ウインドウを閉じたアスナは階段を上がった。廊下にもちゃんと照明があるため、暗くて足場がよく見えないなどという事はないので、安心して上がっていける。そうして最上段を上がると、すぐさま寝室へ続く扉の前に辿り着いた。中からプレイヤーの気配がする。やはりユピテルはここにいるようだ。
時間は今二十時を過ぎた頃であり、まだユピテルが就寝する時間ではない。話をするならば今だ。思ったアスナはドアノブに手をかけ、ドアを開けた。
「ユピテル」
その名前を口にしながら部屋を覗いたその時に、アスナはもう一度軽く驚かされる。事実上ユピテルの部屋として使われている寝室、その壁際にベッドがあり、更にその近くにはテーブルと椅子があるのだが、その椅子に白銀色の長髪をアスナのものと似た形の髪型にしているのが特徴的で、白いパーカーを着た少年が座っている。
アスナの子供であり、今話をしようと思っていたユピテルは、テーブルに向かってホロウインドウを展開して操作をしていた。しかもあらゆる資料を見ているかのように、何枚も表示させているのだ。いつものユピテルからはあまり想像出来ない光景に、アスナは驚いたのだ。
「ユピテル?」
もう一度声をかけてみると、ユピテルはくるりと振り返り、海のような青色の瞳を見せてきた。母の顔をその中に映すなり、嬉しそうな顔をする。
「かあさん、ただいま」
「あ、うん。おかえり。ところでユピテル、何をしてるの」
「勉強だよ。今数学の数式を解こうとしてたんだ」
ユピテルの口から飛び出す言葉に首を傾げた。ユピテルは自主的にあまりそういう事をやろうとはしなかったはずだ。何故そのような事をしているというのだろうか。
「なんで、そんなのを?」
ユピテルはアスナから軽く視線を逸らした。そのまま少しだけ下を向く。
「あのね、かあさん。ぼく、強くなりたいんだ。もっと賢くなりたいんだ」
「強く、賢くなるため……?」
「うん。ねえさんやストレアは強くて、ユイは賢い。ぼくより色んな事が出来て、ぼくより何倍も楽しそうな事を沢山やってる。だから思うんだ。ねえさんやストレアみたいに強くなって、ユイみたいに賢くなれば、きっともっと色んな事が出来て楽しいと思うし、何よりかあさん達の役に立てるって。
そう思って、勉強を始めたんだ。強くなるために、賢くなるために。それにね、ねえさんが言ってたんだ。例え今ぼくが壊れてても、勉強したり戦ったりすれば、元通りになっていくのと一緒に強くなって、賢くなっていけるって。
だからこれから勉強するんだ。勉強してくんだ、色んな事を。強くなって、賢くなって、かあさんや皆と一緒に色んな事を楽しめるようになりたいんだ」
そう伝えるユピテルの言葉には強さがあり、尚且つその内容にアスナは驚きと感動さえ覚えた。
ユピテルは今、自分が言おうとしていた事をやっている。自分の言われるまでもなく、己のやるべき事を探し出して決定し、実行した。
ユピテルの理想図は多分、自分の思っているものと若干の違いはあるのだろうけれども、ほとんど似た形であろう。自分とユピテルの心は通じ合っていた。
自分と京子のような一方的なものではなく、ユピテルはやるべき事さえも自分と通じさせていたのだ。強くて賢いAIに育とうという思いがユピテルの中にあり、ユピテルを強くて賢いAIに育てようという思いが自分の中にある。自分達親子は同じ目標を持って進もうとしているのだ。
ユピテルの意志が違ったならば、また考える事も違ったかもしれないけれど、ユピテルの意志と自分の意志が同じであるというのであれば、何も問題ない。
アスナはユピテルに近付き、腰を落として目の高さを同じにする。
「そうなの……ユピテルもそう思ってたのね!」
「かあさんも?」
「うん。ユピテルは今やれる事がすごく限られてるけれど、もしユピテルがもっと強くなったり、賢くなったりしたら、色んな事出来て楽しいんじゃないかって、わたしも思ってたんだよ。わたしも、ユピテルに強くなってほしいし、賢くなってほしい」
ユピテルの目が見開かれる。驚いたのではなく、嬉しさによる見開きだ。そのままユピテルは頷き、笑んだ。
「それじゃあぼく、頑張るね! 頑張って強くなるし、賢くなるね!」
「うんうん! あなたはきっと強くなれる。賢くなれる。だからわたし、あなたの事を応援するね」
ユピテルはもう一度頷いたが、すぐに何かに気付いたような顔になり、やがて何か言いにくい事を言おうとしているような仕草を取った。アスナが首を傾げたその時、ユピテルはもう一度アスナに向き直る。
「それでね、かあさん。ぼく、かあさんにお願いがあるんだ」
「なに?」
「ぼく、勉強したり、学習したりする時には集中していたいんだ。だからぼく、あまりかあさんと一緒に外に出たり出来なくなるかもしれないし、あまりお喋りしたり出来なくなるかもしれないし、時間になってもかあさんの料理を一緒に食べられないかもしれない。かあさんは、それでもいいかな」
如何にも申し訳なさそうに言うユピテルだったが、アスナはその内容を想像しても平気だった。ユピテルは自分から強くなろう、賢くなろうとしているわけだし、最終的にユピテルは強くなり、賢くなり、出来損ないと言われなくなる。どこにいっても。
その時のユピテルの事を考えれば、今ユピテルとの時間が減るのはどうって事ない。
頭の中の思いをまとめたアスナは、そっとユピテルの頭に手を乗せた。
「大丈夫だよ。わたしは大丈夫だから、
「本当に?」
「うん。わたしも、強くて賢くなったあなたを早く見たいから……」
ユピテルは徐々に表情を元へ戻していき、やがて再度笑顔となった。
「わかったよ。ぼく、頑張って強くなるし、賢くなるね!」
その笑顔を認め、アスナもまた笑んだ。今でも自分の母親である京子は無理強いを続けていて、自分の思いどおりの形に娘を作ろうとしている。
けれど自分は違う。自分とユピテルはしっかりとわかり合っているし、ユピテルは強く賢くなる事を自分で選び、実行に移している。
今はまだ初期段階だから何も言えないけれど、ユピテルがこれから強く賢くなっていけば、きっとその時京子やレクトはユピテルの事を認めざるを得なくなるだろうし、誰もユピテルの事を出来損ないだと批判出来なくなるだろう。
そうなればもう、自分だって何も言われなくなる――立派な子を育てた立派な母親として認めてもらえる。
目指すべき道が見えた気がしたアスナは、我が子の頭をそっと撫でた。強くて賢くなった我が子のイメージが、徐々に生まれてきているような気もした。
□□□
時間が現実世界とリンクしているために、すっかり夜の
一度はならず者集団と化した大きなギルドのせいで、街全体が人のいない空虚な箱のようになってしまっていた事もあったが、今はちゃんと街のあちこちに人がいて、露店も出てきている。
露店はほとんどが食べ物屋であり、店員達はさぞかし忙しそうに調理器具を手に具材を炒めたり、油で揚げており、空腹を
あまり長居するとお腹が空いてきそうな気がする。このままでは彼らのためにコルを
そうして居住区エリアを抜けて、ある程度進んだところで、イリスは歩みを止めた。こちらを尾行してきているような気配を感じる。しかもそれはアスナの家から出た時からずっと付いてきているようだ。
だが、こんな状況に出くわすのは、《SA:O》を始めてから一度や二度ではない。今回もきっとこれまでのと同じだろう。思って振り向いてみれば、その考えは当たっていた。
真っ直ぐ後ろの方に一つの人影。白を基調としているスカート付きの軽装を纏い、そのうえから真っ白なローブを被って、顔の上半分を完全に覆い隠している。スカートを履いているという点、そして腰周りが広くて肩幅が狭いという体型から少女だとわかるそれに、イリスは話しかける。
「……これから私は大事な人のところへ行くんだ。その隣には君の大事な人もいる。どうだい、一緒に来ないかい。そりゃあ君が出てくれば皆驚くだろうし、君の大事な人も
《少女》は答えないし、声一つ発してきさえしない。
毎回そうだ。この《少女》は大事な要件があるというのに、それを実行しようとはしないのだ。イリスは半分呆れたようになって、再度声をかける。
「……ねぇ、いつまでそうしているつもりなんだい。せっかくそうなれたっていうのに。まぁ確かに、あの時から状況はかなり変わっちゃってるから、出ていきにくいっていうのもわかるけれどさ、君を理解出来ない子じゃないんだよ。しかも君の場合は、
「……」
「……
「……」
《少女》は軽く喉を鳴らしたような音をたてて回れ右。そのまま街の中へと歩いて行った。今は一緒に来る気はないという意思表示に、イリスは腰に手を添えた。
「やれやれ、困った
頭の中にそれらの姿を思い浮かべ、やがて一人の少女を特定、
「詰めが甘かったね……あんなあの娘は、見たかなかったよ……」
そう呟いて、イリスは待つべき人のいる場所への歩みを再開した。