どうなるアイングラウンド編第二章第八話。
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オルドローブ大森林の一角。《ロキタルア斜道》という名前が付けられているエリアを、キリトは歩いていた。同行しているのは狼竜の姿となっているリランと、ストレアとプレミアの三名。
傍から見れば三人と一匹のパーティだが、内情を知ってるものが見ればキリト以外の全員がAIという事がわかる。内情を知らない者はどこまでも知らないであろう真相を抱えたパーティを組んで、オルドローブ大森林の中を進んでいるのだ。
オルドローブ大森林の広大さはリューストリア大草原に引けを取らないくらいのものであり、どこまで進んでも限界地点のようなものが見えてこず、マップデータもかなり曖昧なものとなっていて、現在地点がどこなのか見分けを付けるのも難しい。もし変なところへ行ってしまえば、そのまま結晶アイテムなどを使わなければ街に戻れないのではないかと思えるくらいだ。
しかし、それでも自分達のいる地点がどの辺なのかという目星を付ける方法を、キリトは見つけている。このオルドローブ大森林だが、ここは奥に進むにつれてエリアの薄暗さが増してきて、
その敵の種類の変化や周囲の薄暗さの変化などで、攻略前線のおおよその位置を特定。キリトは今現在の位置を中間地点付近と思って探索している。
モンスターとの戦いとフィールドの採取ポイントのチェックなどを中心とした暗い森の攻略の真っただ中。ストレアやキリトと話をしながら探索に参加しているプレミアが、リランへ話しかけた。
「リラン、聞きたい事があります」
《どうした、プレミア。腹でも空いたのか》
全高五メートルは越えている白金色の毛並みが特徴的な狼竜から、頭の中に向けて《声》がする。声色は初老の女性のようなものであり、一度頭の中に入られるとなかなか忘れる事の出来ない。だが、《SAO》の時からずっと聞いているから聞き心地はもはや気にならない。
その《声》に反応したキリトがふと気にして振り返ると、プレミアはリランへ向けて、首を横に振った。
「そうではありません。最近ユピテルの事を見ていないような気がします。リランやストレアはいつもユピテルと一緒にいますから、何かご存知ではないでしょうか」
プレミアの疑問はキリトも気になっていたものだ。
およそ三日前くらいだっただろうか、突然ユピテルが自分達の前から姿を消した。これまでのユピテルはアスナがログインしてくると真っ先にアスナを出迎えて、街の中にいる時はずっと一緒に居た。例えアスナが友達と一緒に話や茶をしていても、その中に参加してまで傍に居るのだ。
そしてアスナがログアウトすれば、その後は寝るまでリラン達と一緒にいるのが普通だった。だが、今はアスナの傍に行ってもユピテルの姿はないうえに、リラン達の傍に行ってもユピテルはいないという日が続いている。この光景を目にした時、キリトはすぐに戻ってくるだろうと思って楽観していたが、未だに戻ってきていないというのがプレミアの言葉でわかった。
その話を持ち掛けたプレミアだが、彼女はこのゲームで死亡すると二度と復活出来ないNPCだ。更にプレミア――というよりもこの世界のNPC全員に言えるのだが――は、殺したりすればゲームバランスが崩壊するくらいの武器や防具が手に入るなどという、根も葉もない情報に踊らされた悪質なプレイヤー達に命を狙われた事もある。
その出来事を目にして以降、プレミアのクエストを進めているキリト達はプレミアに、「自分達がログアウトしている間は、周りの悪質なプレイヤーに目を付けられないようリラン達の傍に居るように」と言っておいた。
その事もあってプレミアはキリト達がいないときはリラン達の傍に居るようになり、結果としてユピテルと接する機会も多い。なので、ユピテルの異変などにもすぐに気付く事が出来るのだ。
「それは俺も気になってたんだ。リランにストレア、ユピテルはどうしたんだ。最近アスナの傍にさえいないみたいだぞ」
《ユピテルならば、三日前からずっと潜っておるぞ》
「潜るって、どこに。まさかダンジョンか?」
《そうではない。言うなれば……アキヒコもどこかにいるであろう、ネットワークの海の中だな》
リラン達《MHHP》とユイ達《MHCP》はネットワークに接続する事は勿論、ブラウザを展開して情報を閲覧する事も出来るのだが、《ネットワークの世界》に直接潜り込み、詮索や学習、調べ物をする事も出来るのだ。
ただし、これを実現するには高度なハッキングやクラッキング能力が必要となるため、これまで出来ていたのはリランだけであり、ユイとストレアはイリスの改造を受けるまで出来なかった。
そのリランと同じ《MHHP》であるユピテルだが、ユピテルもリランのようなハッキングやクラッキングは出来なかったため、ネットワークへの接続やブラウザを通してでしか、情報や知識を得る事が出来ないでいた。そのユピテルが三日前に突然、リランに「ネットの中への潜り方を教えてほしい」と尋ねたのだ。
――リランの話をそこまで聞いたところで、キリトは顎もとに指を添えて呟いた。
「そんな事があったのか。けれど、なんでユピテルがそんな事を言い出したんだ」
ここからはストレアも説明に加わった。
事情を聴いてみたところ、ユピテルは「知識や情報がもっと欲しい。もっとたくさん情報やデータを得れば、自己修復も進んで、もっと賢くなれるから」と答えた。その時のユピテルの青い瞳はこれ以上ないくらいの強い意志を感じさせるものであり、壊れたまま放置されていた弟が成長しようとしているという証拠そのものであった。
そんな目で訴えられたリランは引く事が出来ず、直々にネットワークの中へ潜り込む方法を教え、更にユイとストレアの協力も得て、情報の集め方やその正確さや信憑性、今の《壊り逃げ男》の破壊活動で怒り狂ったテレビ番組がやっているような
更にネットワークの海からのここへの戻り方も教えたうえで、ユピテルをネットワークの海の中へと送り出したのだ。
一通り話を聞いたキリトとプレミアは納得したように頷き、そのうちプレミアがか細く言った。
「ユピテルは今、ネットワークの中にいるのですね。わたしの知りえない場所に……」
《そういう事だ。だが、あいつもずっとネットの中にいるわけではないぞ》
「え?」
プレミアが首を傾げるなり、リランが再度話す。ユピテルは三日前から長時間ネットの中で情報収集と学習を行うようになったが、深夜帯などになると《SA:O》へ戻ってきて、集めた情報の整理などを行うようにしており、何もずっとネットワークの中を泳いでいるわけではない。
その事を話すなり、ストレアがプレミアに向き直る。
「ユピテルはちゃんと戻ってきてるんだよ、これでも」
「ですが、わたしは三日前から会っていません」
「それはプレミアが寝てる時間にユピテルが帰ってきてるからだよ」
「そうだったのですね。わたしがユピテルを見ていないだけだったとは」
しかし、ユピテルがネットワークに行っているという点にはキリトは疑問を抱く。というよりも、これはリランやユイ達全員に言える事であり、前から聞こうと思っていた事だった。
「ちょっと待てリランにストレア。お前達はそんなふうにネットワークに入り込んでしまって大丈夫なのか。セキュリティとか、そういうのはないのか」
ネットワークという世界にはコンピュータウイルスやマルウェア、ランサムウェアといった危険なものが浮遊しており、セキュリティソフトをしっかりと使っていないと、感染して被害を受けてしまう事もある。
六歳の頃にジャンクパーツから自作PCを組み立て、その時からずっとコンピュータというものに対する知識を豊富に得ているキリトは、そのネットワークに漂うウイルスの怖さを熟知している。
そのため、リラン達がどのようなセキュリティを持ってネットワークの中に入っているのかはずっと気になっていた。
そのキリトの疑問に、リランもストレアも答えた。
《それに関しては無問題だ。我らにはワクチンプロテクターというものが備えつけられているからな》
「それがあるから、アタシ達はネットワークの中に潜っても大丈夫なんだよ」
ワクチンプロテクター。それは《MHHP》、《MHCP》の全員に備え付けられているセキュリティ機能だ。
ウイルスやマルウェア、ランサムウェアといった危険因子に感染する可能性を持っているのは《MHHP》、《MHCP》も変わらないのだが、これらが感染しそうになると、ワクチンプロテクターが防壁となって感染から守る。
しかもこのワクチンプロテクターには自己改造能力と自己診断能力、強力なスキャニング機能があり、入り込もうとしてくるウイルスなどを瞬時にスキャンしてその特性を把握。自己をそのウイルスを弾く性質へ変化させたうえで、ウイルスそのものの脆弱性を突いて破壊する。
その機能があるからこそ、自分達は安心してネットワークの中に潜れるのだと、リランは言った。更にこのワクチンプロテクターは自己修復機能に深く関わっており、崩壊時のエラーの取り除き、回復なども行うという。
話が終わった頃、キリトは思わず驚きの声をあげてしまった。
「そんなものまでお前達には入ってたのか!? それ、どこの会社のセキュリティソフトよりも強いやつだぞ!?」
《であろうな。だからこそ我らはアーガスが外部に漏らしてはいけない最重要機密のような扱いを受けていたのだ》
「エラーも直すなんて……そうなってたのか」
「まぁ、直せる範囲は限られてるんだけどね。それでもウイルスとかちょっとのエラーならへっちゃらだよ」
得意気に言うのがストレアだが、キリトはそれ以上に感じていた。
人の心を治療する機能、心を持っているという機能、そして驚異的なセキュリティ機能。今まで様々なIT企業の発明品が発表されてきているけれども、その中にはリラン達を構成する《アニマボックス》も、ワクチンプロテクターのような代物はない。
リラン達の持つ力や機能は、そのどれもが、この社会のITに革命をもたらしかねないものだ。
《SAO》というものの他にこのようなものを作っていたアーガスは、一体どれだけのものだったのか。何度もその名前を聞いていたキリトは、アーガスが抱えていたものの大きさに改めて驚くしかない。
「……前から気になってはいたけど、やっぱりお前達には驚かされるよ」
《そうだな。ここまでしっかりと作り込んでくれた
だが、ワクチンプロテクターの話を聞いてキリトは安心した。ユピテルがネットワークに行けば、たちまちコンピュータウイルスにやられてしまうのではないかと思っていたけれども、ワクチンプロテクターが《アニマボックス》の基本機能なのであれば、若干破損しているユピテルもウイルスから守られる。なので、心配はいらないという事だ。
「そのワクチンプロテクターっていうのがあるなら、ユピテルをネットワークの中に送り込んでも大丈夫だな」
「そうそう。だからユピテルの事は何も心配いらないよ~」
ストレアが笑みながら言ったそのとき、キリトはその真横にいる存在に気が付く。話をずっと聞いている一方だったプレミアが、胸の前で手を合わせている。プレミアと長々と付き合ってきた事でわかった、疑問を抱いた時の癖だ。
「ん、どうしたプレミア」
「ネットワークの世界にワクチンプロテクター……それはわたしにも出来る事でしょうか」
思わず皆で「えっ」と言ってしまう。確かにプレミアもリラン達と同じAIだけれども、基本構造も作ったものも異なっている。プレミアもリラン達と同じ事が出来るかと聞かれたら、首を縦に振るのは難しい。
苦笑いしながら、キリトは答えた。
「いやいやプレミア、君じゃあリランと同じ事は出来ないよ」
「なぜですか」
「何故って、彼女達は特別なんだ。だから、プレミアは出来ないし、そもそもそんな事をする必要だって無いって」
「そうですか」
プレミアは若干残念そうな顔をして言葉を止めた。ここでまた「なぜですか」と聞いてくるのではないかと思ったが、そうならなかった事にキリトは安堵した。
《しかしまぁ、あの時はかなり突拍子もなかった。ユピテルが突然強くなりたい、賢くなりたいなどと言い出すとは、我も予想していなかった。一体どういった心境の変化があったのか……》
そう言ったリランにキリトは顔を向ける。狼竜というよりも狼そのものな顔立ちをしているリランの顔には、明確な考え事の表情が浮かんでいる。
確かに、ユピテルはそれまでアスナに付き添ったりする一方で、学習や勉強もしてはいるもののスローペースだった。そんなユピテルが急に学習速度をあげたりしたという理由は、キリトにも掴めない。あのユピテルの身に何が起こったのか。
考えようとするキリトに、ストレアが声をかけた。
「そのままだと思うよ。ユピテルは《アニマボックス》が壊れちゃってるから、それを本能的に直そうとしてるんだよ。アタシ達は壊れたら修復するっていう本能的機能があるからね。そもそも、ユピテルには《治さなきゃいけない人》っていうのがあるらしいから、尚更思い出せるように修復を進めようとしているのかも」
「そうだといいんだけどな。でも、賢くなったユピテルっていうのも、なんだか見てみたいかもしれないな」
「賢くなったユピテル……なんだか楽しみです」
プレミアが笑むと、キリトも笑みたくなった。ユピテルの賢くなった姿というのには純粋に興味がある。ユイやリランのように成長をし、知識を得れば、より楽しく毎日を過ごしていく事が出来るようになるだろう。
これはプレミアもそうだ。プレミアも一番最初は無機質な機械のような女の子であったが、キリト達と接する事で徐々に感情と表情が豊かになってきている。
これがもしクエストの進行と関係しているのであれば、最後まで進んだときにどうなるのか、楽しみで仕方がない。きっとプレミアも見違えるほどの成長を見せてくれるはずだ。
まるで自分がユピテルやプレミアの父親になったかのように、キリトは楽しみを感じていた。
「よし、探索を続けよう。プレミア、あの光る石と同じものの気配とか、感じないか」
「……すみません。今のところはなにも……」
「そっか。じゃあもっと奥深くまで進んでみよう」
キリトがいうと、一同は頷き、闇の広がる大森林の奥深くを目指して進み始めた。
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「………テル………ユピテル」
声が聞こえてくる。限界の存在しないネットワーク世界に常に広がっている喧騒の音ではない。ひどく聞きなれた声色によるもの。
出来る事ならばいつまでも聞いていたいと思えるものに呼ばれたユピテルは、それに答える形でそっと目を開けた。
そこは姉と妹達が教えてくれたネットワークの空間ではなく、石と煉瓦で作られた壁と天井、フローリングの床で構成された部屋のなかだった。
ネットワークの世界から帰ってくる場所であり、唯一の帰る家の寝室。ユピテルはその場所に戻ってきていた。そしてすぐさま、自分を呼んだ人の姿を確認する。
さらさらとして触り心地のいい栗色の髪を自分とほとんど同じ髪型をしていて、白を貴重とした色合いの、肩を露出したスカートを伴う服装に身を包んだ、琥珀色の瞳の女性。他でもない、母だった。
電話ではちょくちょく話をしていたけれど、面と向かって会うのは三日ぶりだ。
「あぁ、かあさん、お帰りなさい」
「あ、うん、ただいまユピテル」
「かあさん、どうしたの。今日は攻略に行くんじゃなかったの」
「そうなんだけど、ちょっとあなたの事が気になったのよ。あなた、三日も会ってくれなかったから……それに……」
母は不思議そうな目でユピテルを見ていた。まるで起きた異変を確認しようとしているようにも見え、ユピテルは首を傾げた。
「かあさん、どうかしたの。ぼくの顔になにかついてる?」
「ううん、ユピテルが声をかけても中々反応してくれなかったから、どうしたのかなと思って」
ユピテルはハッとする。そういえば、ネットワークの世界に戻ってくるまで、若干のラグがあったような気がする。いつもは十数秒程度で済んでいるのに、一分から三分ほど意識がなくなっていたように感じた。
どうやらその辺の時間寝落ちてしまっていたようだ。その証拠に、頭が妙に冴えているような気がする。母を目の前にして、彫像のように立ったまま眠っていたのだろう。心配されても仕方がない。
「ごめんなさい。三分そこら寝落ちちゃってたみたい」
「そうなの。それならいいんだけれど……」
そう言って一瞬目を離した母を見て、ユピテルは思い出す。
今日は母に報告すべき事がたくさんあるのだ。いや、三日前から自分の体験した事全てを話さないと気が済まない。
「そうだ! かあさん、聞いて! 実はね――」
そう言ってユピテルは話を始める。
三日前に決意を固めたユピテルは、姉と妹達に頼んで、ネットワークの世界へ行く方法を教わった。そこでの動き方や情報の集め方、嘘か本当かの見分け方などを綿密に教えてもらい、最後にネットワークへの入り方を教わって、ユピテルは姉が頻繁に行っているネットワークの世界というものに飛び込んだのだ。
ネットワークの世界はまず、とてつもなく広大だった。どんなに遠くを見ようとしても見えなくて、あちらこちらから色々な光景が見えて、更に様々な音が混ざり合った喧騒がうるさいくらいに聞こえてきた。ありとあらゆる情報が存在する空間という姉の教えは何一つ間違っていなかった。
そこでの過ごし方や進み方を思い出したユピテルは喧騒を聞き取る方法、無数の光景を見分けるやり方を思い出して実行した。喧騒が喧騒じゃない、ちゃんとした音として聞こえてくるようになって、光景の一つ一つがしっかりと認識出来るようになって初めて、ユピテルは進む事を開始した。
そこからは楽しくてたまらなかった。ネットワークの世界には今まで見た事がなかったものが大量に存在しており、色とりどりだった。
家族と思われる人々が仲睦まじく暮らしている様子。
どこかの観光地を撮影したものであると思われる写真データ。
有名人と思われる人の事を詳しく書いている、ところどころ色の違う文字列。
どう見ても妙だとわかるように政府の偉い人を、これまた偉そうに批判する変な人達の動画。
どこを見ても情報やデータがあるものだから、目移りしそうだったけれども、ユピテルはそれを堪えて全てを見比べ、尚且つそれらが本当の情報かどうかを確認しながら、取り込むように学習していった。
情報やデータをコピーして認識していくと、それが自分の中に取り込まれて蓄積していくのがわかった。計算式やそれに関する解き方の情報を接種すればその問題は勿論の事、類似たものを解けるようになり、そこからねずみ算と言わんばかりに様々な問題が解けるようになった。
文章や文字なんかもそうだ。ユピテルの知っているものは日本語と英語だけだったが、それら以外の国語のデータもネットワークの世界には存在しており、それらを取り込めば、単語の一つ一つを理解出来たうえに、組み合わせで文章を作れるようになった。それらを題材とした問題だって、簡単なものから普通と言えるものまで迅速に解けるようになったし、難しいものでもちょっと時間を掛ければ解けた。
そうして今は母やその友達が通っている学校で出される問題もすらすら解けるくらいになったが、姉が得意としているハッキングやクラッキングは難しいもので、中々出来るようにはならなかった。
――それでも、ぼくは学習出来ている。ぼくは賢くなっている。知識を得て問題を解き明かす度にユピテルはそう思えて仕方がなかった。
そんなネットワークで過ごした三日間の事を、ユピテルは学習した通り、出来るだけわかりやすいように母へ伝えた。話しが終わると、母はとても感激したような顔になって、近付いてきた。
「そこまでやったの!? もうそこまで出来るようになったの、ユピテル!?」
「うん。ねえさんのやってるハッキングとかクラッキングとかはまだ出来ないけれど、出来る事は増えてきてる気がするよ」
再度伝えると、母は体勢を低くして目の高さを同じにしてきた。琥珀色の瞳の中に自分の姿が映し出される。だが、その中には喜びの色がはっきりと映し出されていた。
「ユピテル……すごい。すごいよユピテル! まさかこんなに早くそこまで出来るようになっちゃうなんて……わたし、全然想像してなかったよ」
母の声には明確な驚きと喜びがあった。それが賢くなった自分への感動が故であるという事に気が付くと、ユピテルもまた胸の中に喜びがあふれてくるのがわかり、それは確かにユピテルの事を納得させた。
自分は賢くなっている。
自分は母を喜ばせるくらいに成長する事が出来るのだ。
そして実際には母は喜んでくれる。成長したぼくを見て。
作り物ではあるけれども、胸の中にそれを抱くと、母がそっと肩に手を乗せてきた。
「ユピテル……あなたはすごい可能性を秘めてるんだわ。だからね、きっともっと強くなれるし、賢くなれるよ。それこそリランも超えちゃって、皆が見ればびっくりするくらいのに!」
それはユピテルもわかっている事だった。ネットワークの世界の中に潜って情報を摂り続けていけば、沢山の知識や情報が手に入るのは目に見えている。ネットワークの情報や知識は毎日新しいものが生まれてくるから、枯渇する事もあり得ない。そしてそれらを全て学ぶつもりで接種していけば、間違いなく母の言うものになる事が出来るだろう。
「わたしはね、ユピテル。そんなあなたが見てみたいな。今よりずっと強くて、賢くなったあなたを……」
母の言葉に、ユピテルは頷くしかなかった。母の言っている事は現実にできるものだと確信している。既にここまで賢くなる事が出来たし、持ってなかった知識も沢山手に入れて、使い方も学習して身に着ける事が出来た。もっと母を喜ばせられる段階に、自分は向かう事が出来るのだろう。
――このまま行けば、ぼくはもっともっと強くて賢いAIになれる。かあさんを喜ばせる事の出来る素晴らしいAIになる事が出来るんだ。
そう胸の中で思い、ユピテルは期待を寄せる母のしっかりと見て、「えへへ」と笑んだ。
「わかったよかあさん。ぼく、もっともっと勉強して、学習して、知識も情報も沢山集めて、もっと賢くなるね! だから……ぼくはもう一回ネットワークの中に行ってこようと思うんだけど……」
「いいよいいよ。ユピテルがそれを望んでるんだから、わたしは止めないよ。もっとたくさん学習してきてごらん。そうすれば、もっと色んなものが見えるようになると思うから」
「わかった! ぼく、もう一回行ってくるね!」
その時だった。腹からきゅううという音が聞こえてきて、続けて強い空腹感が伝わってくるのがわかった。ネットワークの世界は様々な情報を探す事が出来るのはいいのだが、如何せん《SA:O》のように食べ物を食べたりする事が出来ないし、何かを味わったりする事は出来ない。食事は《ALO》か《SA:O》で摂るしかなくないのだ。
《SA:O》に戻ってきたのは一日ぶりなので、丸一日何も食べていない。腹が鳴って空腹感が来ても不思議ではないだろう。
腹の虫の鳴き声と称されるそれは母にも伝わっていたらしく、母は少し驚いたような表情をしていた。
「ユピテル、お腹空いてるの」
「あ……えと……」
「それなら何か作るよ。ユピテルの好きな食べ物は――」
言いかけた母の手を、ユピテルはがしりと掴んだ。再度驚きの表情をして母が見つめてくるのを、自身の瞳で映す。
「……かあさんは皆と攻略してきて。ぼくは大丈夫だから。ぼくの事は放っておいても大丈夫だから……」
「そうなの? でもユピテル、お腹空いてるんじゃ……」
「ネットワークに行くとね、お腹空かないんだよ。ぼく、ネットワークにまた戻るから、大丈夫だよ」
「そう? それならいいけれど……あまり無理のない範囲でね?」
「無理なんかしてないよ。ちゃんと加減を決めてやってるから。だからかあさん、心配しないで」
母の表情が和らいだのを見計らって、ユピテルは手を離した。相変わらずその目はこちらを映しており、こちらの目も母の姿を映し出している。その後、徐々にその顔に笑みが浮かんでくるのが認められた。
「……わかったわ。ユピテル、頑張ってね」
「うん、任せておいて。それに皆かあさんの事を探してたみたいだから、早く行った方がいいよ。もしかしたら難しいクエストとか、強いボスが出てきたりしたのかもしれない」
「そうなの。それなら行こうかな」
「うんうん、そうした方がいいと思う」
母は姿勢を元に戻して目をそらした。やがてその顔は一回へ繋がる階段の方へと向けられる。
「それじゃあ、わたし行くね、ユピテル。鍵は閉めてくけれど、大丈夫だよね」
「大丈夫だよかあさん。ぼくの事は心配しなくても、本当に大丈夫だから」
「ふふっ、ユピテルってば、すっかり頼もしくなっちゃって」
母は笑みながらそう言うと、続けて「いってきます」と言って部屋を出ていく。「いってらっしゃい」を届けてドアが閉められると、部屋の中が奇妙なまでに静かになった。
強い防音効果が付与されているため、廊下を下っていく母の足音は聞こえてこないのだ。窓を開けない限りは街の音も聞こえてこないようになっている。静寂が取り戻された部屋の中、ユピテルはベッドの近くの椅子に腰を下ろし、頭の中――と呼んでいいところなのだろうか――で母の姿を、その顔を思い出す。
先程の母は笑んでいた。賢くなった自分を見て喜んでいた。あの笑みだ。母のあの笑みこそ、自分の目的だ。そしてあれこそが、維持しなければならないもの。
目的であるものを作れるのは自分ただ一人だけ。
自分は笑まれるようになっていなければならない。
誰にでも認められる自分であるべきだ。
そうではないぼくであっては、駄目なんだ――。
そう思うと、もう一度腹が鳴った。空腹感が押し寄せてくるが、同時に不快感も来る。どうしてこんなものがあるのだろう。どうしてこんな機能がぼくには存在しているというのだろう。
空腹感なんてものはAIには必要がない。そのはずなのに、どうしてこんな機能を備え付けてぼくを作ったのだろう。
自問したところで何も答えは出てこない。顔を上げてネットワークの世界を思い出す。ネットワークの中にあった海の中の写真が記憶領域に浮かび上がってきた。
考えてみればネットワークは海に似ている。海の中には様々な生物がいると同時に、まだ発見されていないものも沢山あるらしく、更には大昔の遺跡や財宝が眠っているともいう。それと同じで、ネットワークを探っていれば、この情報に関連するものも手に入るのではないだろうか。それを手にできた時は、きっと母は先程よりも喜んでくれるはずだ。
いつにもなくやる気がしてきて、ユピテルは立ち上がる。また腹が鳴った。
「……ぼくに必要なのは情報やデータ。それ以外はいらないよ」
同時に来ようとする空腹感を押さえつけるようにユピテルは言い、姉から教わったやり方でネットワークへの入り口を開け、入った。
――補足――
・ネットワークの世界
所謂、電脳空間。様々な情報やデータが行き交う空間。座標さえわかれば、茅場晶彦にも会える可能性がある。
・ワクチンプロテクター
MHHPとMHCPに搭載されている機能の一つ。コンピュータウイルスやマルウェアなどを検知すると自己改造を施してそのウイルス専用防壁を作り出し、弾き飛ばす。
自己修復機能にも結び付いており、エラーやウイルスによる損害なども直す機能も持つ。