そして迫り来るのは何か。
アイングラウンド編第二章第九話、どうなる。
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オルドローブ大森林の攻略はかなり奥まで進んでいる――キリトはそう思って足を進めていた。
現在地のフィールド名は《アゼクリム腐敗地》。前半こそはゲームによくあるような名前だが、後半からして嫌な予感のするものであり、行く前から既に行きたくないという意志に駆られる有様だった。
そして最悪な事に、キリトの予感は的中する事となった。《アゼクリム腐敗地》はオルドローブ大森林の中でかなり奥まったところに存在しているようであり、ただでさえ多かった木々や草は一気にその数を増し、太陽の光を完全に遮るくらいにまでなっていた。
周囲のどこを見ても真夜中のように真っ暗で、どこが正確な道なのか、スキルやマップを使わないとろくに確認する事も出来ない。
エリアに巣食う敵モンスター達も変化をきたしている。これまでは人間の真似をした巨木や、蔓を触手のように使って歩く異形の植物型モンスターが
けれども、今暗がりから襲ってくるのは、多数の触手を生やす目玉のモンスター、山羊のそれを更に凶悪化させたような頭部と、両手斧を手に持つ黒い人型モンスターなどといった、悪魔系と言われるモンスター達だった。
そんな如何にも邪悪な者達が暗闇の中を
もしかしたらエリアの暗さはこの者達に関連したそれなのかもしれないし、このモンスター達を登場させるために暗く設定されているのかもしれない。そんな事を思いながらキリトは足を進めていた。
「気を付けろよ。敵がどこから来るかわかったものじゃない。襲われても大丈夫なようにしておくんだぞ」
「わかった。気を付けるね」
その声を辿るようにしてキリトは振り返る。そこにいるのは白金色の毛並みに包まれた巨体を持ち、背中から一対の大きな翼を、額から聖剣のような形状の一角を生やして、金色の
黒茶色のセミロングヘアで、もみ上げの辺りを結んでいるという特徴的な髪形をして、露出度の高い緑を基調とした服装と青いマフラーが目を引く少女。キリトの大切な人であるシノンだ。
その隣に目を向けてみれば、雪のような白い髪の毛をアスナのそれに似た形にし、同じく白いパーカーと半ズボンを着こなしている、海のような青い目の、小さな少年。キリトの頼れる仲間達の一人であり、アスナの息子であり、リランの弟であるユピテルが、背中に一本の片手直剣と盾を背負って歩いてきている。
「ユピテル、ここは多分、このフィールドの最奥部近くだぞ。そんな場所に来て大丈夫なのか」
ユピテルは「大丈夫!」と言って頷く。強気な表情を浮かべて背中の剣と盾を背負いなおす様子は、まるでリュックサックを担ぎ直しているようにも見え、遠足に来ている子供のようにしか感じられない。それほどまでに、ユピテルがここにいるというのは不自然極まりない光景だった。
それもそうだ。ユピテルが剣を握って戦う事など、二日前まではなかったのだから。
ユピテルはもともと戦闘を行わない事を前提にしてこのゲームに参加していた。だが二日前、突然ユピテルは攻略に赴く前のキリトの元を訪れ、戦い方を教えてほしいなどと言い出した。
その場にはリランも一緒に居たのだが、ユピテルの発言にはキリトもリランも驚いてしまった。
ユイやユピテルが戦うというのは別に不可能な事ではない。現にリランもストレアもちょっとした切っ掛けで戦いを覚える事となったし、近頃進めているクエストを持っているNPCであるプレミアも、元々は非戦闘NPCだったが、自分達が鍛える事によって強くなり、戦えるようになった。
同様にユイやユピテルも戦えるようになるけれども、二人には戦う理由と必要性がないため、戦わない日々を送ってもらっている。
そんな日々に満足していたユピテルが、どうして戦う必要があるのか。勿論と言わんばかりにその理由を聞いてみると、ユピテルは答えた。
自分もキリト達と一緒に戦いたい。キリト達と一緒に戦って、様々なものを見て聞いて体験したい。そのためには戦う力が必要だから、自分の事を鍛えてくれ。
それがユピテルからの説明だったけれども、その異様なまでの丁寧さと説得力はキリトもリランも驚かせるものだった。
ユピテルはその日から三日前くらいにネットワークの中を潜り、様々な事を学習していると聞いていた。具体的に何を学習しているのかは聞いていなかったけれども、その成果は間違いなくユピテルに反映されている。
三日前のユピテルと今のユピテルは違い、そしてユピテルは更に成長しようという確かな意志を持っている。
青い瞳の中に揺らぐ意志の光を目にしたキリトは簡単に折れ、ユピテルの頼みを承諾し、トレーニングする事を決定。比較的扱いやすい片手直剣と盾を買ってきて装備させ、フィールドに赴かせた。
そこからのユピテルの成長具合は目に余るものだった。全く戦えないというは嘘だったのではないかと言わんばかりに、ユピテルは剣の使い方や戦い方を身体に覚えさせていき、ソードスキルも難なく取得してみせ、レベルも一気に上げていった。
その速度はまさしくプレミアの時の再現だ。シノンの二倍、クラインの五倍の言わんばかりの速さで強くなっていくユピテルには、本当にキリトもリランも驚くしかなかった。
そうして二日後の今日、ユピテルは前線で戦っても良いくらいの強さとレベルを得てキリトのパーティに参加。オルドローブ大森林の中を練り歩いているのだ。
今キリトは、リラン、シノン、ユピテルの四人パーティを組んで、このオルドローブ大森林の最前線へと赴いている。
「ねえさん。ねえさんはずっとその姿をしているの」
《こっちの姿の方が敵をすぐに蹴散らせるからな。流石にフィールドの大ボスが出てきたりしたら縮んでしまうが》
「そうなってもねえさんは強いよね。ぼくも早くそうなりたいなぁ」
自分の何倍もの体躯を持つ狼竜の姿の姉に話しかける弟。彼らにとっては日常の光景である姉弟の会話。それが始まったのを見計らったようにシノンが寄ってきて、小声で話しかけてきた。
「キリト、ここが最前線よね?」
「多分な。今のところ敵が一番強いのはこの辺だ。この奥に行けばもっと強いのが出てくるだろう」
「そこにユピテルを連れてきてていいの。とてもあの子が立ち向かえるようなのじゃないのが出てくるんじゃ」
それはキリトも不安に思っていた事だ。
ユピテルは自分達と一緒にトレーニングを積んだ事でレベルを上げ、戦い方も身に着けていった。それこそレベリングと戦闘の学習をそそくさとこなし、成長して見せたプレミアのように。
しかし、それでもユピテルのレベルはキリトやシノン、リランと比べて低く、ステータスの数字も高くはない。攻略最前線に駆り出すにはまだ早いとしか言いようがない状況にある。
それでもユピテルはキリトと一緒に行くと言ってきかなかったので、結局ここまで連れてきてしまった。
更に、不安要素はそれだけではない。このオルドローブ大森林――というよりも《SA:O》全土――には群を抜いて強大なモンスターが出現する事がある。こちらのレベルが今現在二十前後が平均値なのに対し、七十五だとか八十五だとか、馬鹿げているようにしか見えないレベルになっている化け物の事だ。
後々《
あからさまにステータスに差が開いているため、リランの力を用いても勝てる可能性は極めて低い。見越していたキリト達はその化け物に見つかりそうになった時にはやり過ごす事を基本とし、戦わない事を前提に攻略を進めて、ここまで来ている。
今進んでいるエリアだって、どこであのような化け物に出会うかわかったものではないし、狙われたならばその狙いは真っ先にユピテルに向く。ユピテルを連れた状態で如何にあの化け物達に出会わずに進んでいくか。キリトの思考の渦巻く頭の中にはその作戦が練られている。
「そうだな……それから俺達が守ってやるべきなんだろうけれど……あんな化け物まで出てくる始末だからな」
「やっぱりユピテルを連れてくるのは難しかったんじゃ――」
「全然難しくなんかないよ」
突然飛び込んできた声の方向に二人揃って驚く。リランと喋っていたはずのユピテルが、小声で話すキリトとシノンのすぐ傍までやってきていたのだ。
「ユピテル!?」
「ぼくは強くなりたいんだ。だからキリトにいちゃん達と一緒に来たんだ。ぼくの事は大丈夫だから」
海のように青い瞳。その中には確かな強さを蓄えた光が瞬いている。
ユピテルは本気だ。本気で強さを手に入れるためにここへやってきている事は確か。もしそうでないならば、ここまで自分の意志でやってくる事などなかっただろう。強くなりたいという意志があるからこそユピテルはここにいる。
例え力が弱くとも、戦う事は出来るからこそ、ここにやってきている。その少々無謀にも感じる様子にシノンが軽く溜息を吐き、キリトに言った。
「……そこまでやる気があるなら、いざとなった時も自分の身は自分で守るのよ。私達に出来る事は限られてるからね」
「わかってる。キリトにいちゃんもシノンねえちゃんも、気を付けてね」
俺達の心配よりもお前自身の心配をしろ。キリトはその言葉を呑み、代わりに溜息を吐いた。
ユピテルの持っている武器は片手直剣と盾。盾無しならば純粋なアタッカースキルを組むのだけれども、何故かユピテルは盾も一緒に装備してタンクスキルを取得する事を優先した。
誰よりも弱いくせに、タンクという敵の攻撃やヘイトを集めて防御するスキル構成をしている。それがわかった二日前には、悪い事は言わないからアタッカーに変えろと言ってみたけれども、やはりユピテルは聞いてくれず、タンクスキルのまま戦闘訓練を慣行。リランと同じタンクのポジションについて戦うようになってしまった。
タンクは出来れば熟練のプレイヤーがやるべきであり、初心者がやっていいようなポジションとは言い難い。何故そんなものを選択するのかと聞いてみても、ユピテルは具体的な説明をくれず、とにかくこの形で戦いたいとだけ訴えた。
何もかもがユピテルによって強行されているような状態が現状だ。キリトはもう一度溜息を吐き、ユピテルに声掛けする。
「俺達の心配をしてくれるのは嬉しいけれど、俺がトレーニングしたとはいえ、お前の戦闘経験は浅いどころじゃない。お前はお前の事を最優先して戦えよ」
ユピテルは頷き、もう一度剣と盾を背負い直した。ここにいる敵はかなり強い方に入るだろうけれども、それでも自分達の実力があればどうという事はない。自分達の力を合わせて戦えば、ユピテルも守り切る事が出来るだろう。
これはユピテルを守る攻略だ。その事を肝に銘じるように思い、キリトは言った。
「それじゃあ、先に進むぞ。何が出てくるかわからないから、注意しろ」
皆が呼びかけに答えたのを認めてから、キリトは暗い森の中へ一歩踏み出そうとした。その時、《使い魔》である狼竜が《声》を送ってきた。
振り向いてみれば、白き狼竜は何かを探すように周囲を見回しているのがわかった。耳は空へと逆立ち、フィールド上に満ちる全ての音を聞き分け、中にある一つだけを探り当てようとしているようにも見える。
こんなリランを見たのは《SA:O》では初めてだ。
「リラン、どうした」
《何か……何か来ておるぞ》
《声》にキリトは少し驚いて、周囲を確認する。今いる森は草木が生い茂っているのに加え、特殊な効果がかかっているのもあるのか、非常に暗くて、どのようなモンスターがどの位置に存在しているのかも掴みにくい。
これまで出くわしてきた異常なレベルを持った化け物も襲ってくる可能性があるのがこの《SA:O》のフィールドだから、それが来ているという可能性も十分に考えられる。あんなものに狙われたらいくら百戦錬磨してきた自分達でも一溜りもない。
これ以上ないくらいに気を鋭く保ち、周辺の気配をキリトは
空から何かが来ている。
「上だッ!!」
叫んだその時、空を覆う闇の中に紫の光が見えた。あまりに強く光っている事から、夜空に浮かんでいる星の
それだけではない。紫の光はどんどん膨張していっており、同時に感じる気配の強さも増してきている。紫の光はここへ来ようとしている。
「皆、避けろ!!」
キリトが叫んだ瞬間、紫の光が突如として分裂し、地表へ降り注いできた。間もなくしてキリト達の周囲で爆発が起こり、キリト達は一斉に防御態勢を取る。周囲の草木が轟音と共に吹き飛ばされ、激しい熱風と共に異様な臭いが流れ込んできた。
今のは何だ――思って目を向けてみれば、草木を白みがかった紫色の炎が焼いているのが見えた。しかも瘴気のような紫色の煙が立ち込めているのもわかる。
この《SA:O》での炎のエフェクトは現実世界と同じ赤色やオレンジ色であり、白みがかった紫色の炎など見た事が無い。まだ自分達の見ていないものが姿を見せている――それに注視するよりも前に、キリト達の目の前に何かが落ちてきた。
どすんという轟音と共に地面が縦に揺れて、シノンとユピテルが悲鳴を上げ、巻き起こされた暴風が焼かれた草木を砕く。その時瘴気のようなものが吹き荒んできたものだから、キリトは咄嗟に腕で目を守った。
暴風が止んだのを見計らって目から腕を離したそこで、キリトはこの一連の出来事を起こした張本人を見つけるにあたった。
「なっ……」
瘴気のような紫の煙と霧が立ち込め、白紫の炎が木々を焼く光景の中に一つの巨大な影。
リランとほぼ同じくらいの、ネコ科の動物を思わせる体躯をし、ほとんど全身を黒色の毛に、腕と足を黒銀の甲殻に包み込んでいる。輪郭は狂暴な猫を思わせるもので、首の周りには身体と同じ黒色をしたライオンのような
長い尻尾は先端が槍の穂先のようになっており、全体的にしなやかさを感じさせる雰囲気の、黒き猫。それこそがキリトの目の前にいる巨大な影の正体だった。
「黒い、猫だと……?」
ただの猫ではない。顔立ちこそ確かに猫だけれども明らかにそれより大きく、猫とはかけ離れた要素をいくつも持ち合わせているうえに、空からやってきたとしか思えないような登場の仕方をしている。そして口元からは周囲を燃やす炎と同じ白紫の息が吐き出されているのが認められる。
これらの特徴から考えるに、猫型モンスターではなく、猫型ドラゴンというべきだろう。勿論これまで見た事がなかった竜の登場に、キリトは目を見開き、シノンが槍を構えながら言う。
「なに、何なのこいつは!?」
シノンの声が聞き取れたのか、黒き猫の竜は吼えた。ネコ科の動物とドラゴンの咆吼を合わせたような声が木霊すると、リランが抵抗するように咆吼し返す。二匹の巨大な獣の声が森の中に届けられていくと、一斉に周囲のモンスター達の気配が離れていくのがわかった。自分よりも強い存在達が繰り広げる争いから逃げているのだ。
周りのモンスター達が完全に姿を消した次の瞬間、黒猫の頭上に三本のゲージが出現。更にその上部に文字が姿を現した。
《
「セクメト……?」
セクメト。エジプト神話に登場する伝染病や疫病、破壊を司る女神であり、死神でもあるとされる存在。
ついこの前にはアヌビスという名前を冠する黒き狼竜と交えたから、エジプト神話の神の名を冠したモンスターとの出会いはこのセクメトで二回目だ。
こうもエジプト神話の神々の名前を関する存在が出てくると、《SA:O》はエジプト神話を元に作られているのではないかと、キリトは錯覚しそうになる。そんなキリトの横で、シノンが慌ただしく声をかけてきた。
「キリト、こいつは一体なんなの!?」
それはキリトにもわからない。確認してみたところ、セクメトのレベルは自分達と近しい二十一。出現を恐れている《邪神》達のレベルからは程遠いため、《邪神》達のうちの一匹というわけではないらしい。
それでもこうやって攻撃してきているという事は、キリト達に明確な敵意を持っている。闇のような黒銀の毛並みを持っており、尚且つ周りの森も黒く深い。もしかしたらここは、このセクメトの縄張りであるのかもしれない。ある程度セクメトに対して分析を行ったキリトは、結論をシノンとリランへ話す。
「俺にもわからない。けれど、こいつが俺達の敵っていう事だけは変わらないみたいだぜ」
「……でしょうね。レベル二十一か。私達で勝てる相手かしらね」
「さぁな。それでも戦わないわけにはいかないよ」
キリトが一同に指示を与えようとしたその瞬間だった。セクメトは跳躍して宙を舞った。リランも基本攻撃としている飛び掛かり攻撃だ。その矢先はキリトに向けられていたらしく、セクメトの黒鉄のような爪がキリトへ降りかかる。
セクメトの急襲に驚いたキリトは咄嗟に横方向へ飛び込みをしてセクメトの攻撃範囲から離脱。転がりから態勢を立て直し、キリトは視線をセクメトに向けて背中の二本の剣を抜き払い、《二刀流》の構えを作る。同刻、一同がキリトを心配するように声を上げていた。
「キリトッ!」
「キリトにいちゃん!」
「大丈夫だ」と答えたが、キリトは背中の辺りに冷や汗が出てきているのを感じていた。コートの裾を見てみたところ、鋭い剣で斬られたような切れ口がすっぱりと出来てしまっている。セクメトの爪が当たってしまったらしく、間一髪の回避だったという事の証明だった。
今のはコートを斬られるだけで済んだけれども、もし身体に当たってしまっていたならば、かなりのダメージを追う事になってしまっていただろう。
レベルが僅差という事もあるけれど、それ以上にこのセクメトは強敵だ。そう思ってコートから目線を戻したその時、キリトはハッとした。
目の前に白紫の光の玉が現れていて、こちらに迫ってきている。セクメトが飛んできた時に見た、空に浮かぶ白紫の光と同じだった。
その再来を目にした直後、キリトに光の玉が着弾。割れた球の中からは森を焼く白紫の炎が
「ぐああはッ!!」
突風を通り越した爆風に吹き飛ばされ、キリトは地面に激突して転がる。あまりに衝撃が強かったのか、肺の空気が圧迫されたような苦しさに似た不快感が走り、耳鳴りが起こった。眼中の左上端に表示されている三本のうちの最上部に位置する《HPバー》の残量が一気に減らされ、危険を示す赤色となっている。
「ぐっ、うぅ……」
「キリトぉッ!!」
《キリトッ!!》
耳鳴りに混ざってシノンの声が聞こえてきて、激しく揺さぶられた頭の中にリランの《声》が響き渡る。そのおかげで意識をはっきりとさせたキリトは今の一瞬の出来事を整理した。
迫ってきた白紫の光の玉は燃えており、着弾時に爆発した。リランの放つ火炎弾ブレスと同じものであり、ドラゴンならば基本的にどの個体でも扱う事の出来る代物の一つだろう。
だが、それにはリランの放つものとの決定的な差があった。《HPバー》の真横に、毒状態になっている事を示す紫色の小さなアイコンが表示されており、《HPバー》の残量が刻一刻と減って行っている。着弾するまで何ともなかったから、あの火炎弾の着弾で毒状態を付与されたのだろう。あのセクメトは火炎と毒を操るドラゴンであるらしい。
毒を含んでいる火炎。瘴気を含んだ災火。そんなものを軽々と扱う黒猫の姿は、まさしくエジプト神話に登場する疫病を司る破壊の女神、セクメトだ。
そしてセクメトは、自分を含めた四人がこの場にいるにも関わらず、自分にだけ狙いを向けてきている。ターゲットを明確に自分へ向けてきているようだ。
その理由を模索しながら同時に立ち上がったその時、当然と言わんばかりにセクメトが飛び掛かってきていた。
しかし、その爪が届こうとしたその瞬間に、セクメトの身体は横方向へ吹き飛ばされていった。巨体の黒猫がぶつかった事で、燃えてぼろぼろになっていた木々は粉々に砕け散る。
目の前に視線を向けなおすと、そこには白き狼竜の姿があり、突進攻撃を決めた後のような姿勢をしていた。リランがセクメトに突進攻撃を仕掛け、追撃を阻止してくれたらしい。その足のまま、リランはセクメトへ向かっていき、同じように飛び掛かる。
相棒のフォローに感謝しつつ、キリトは懐に入れておいた小瓶を取り出し、勢いよくその中身を飲み込んだ。
小瓶と言ってもペットボトルくらいの大きさのあるそれはグランポーション。今のところ道具屋で売られているものの中で最も高価なポーションであり、一回の使用でHPを五千回復させて、更に最大HPの二十パーセントを一分間で回復する効果を持っている。
その効果は一瞬で発揮され、セクメトの攻撃で減らされたキリトのHPは一気に緑色まで戻った。
セクメトの狙いが未だにリランに向けられているのを把握してから、キリトは続けて青色の四角形の結晶を懐から取り出してヒールと一言。青色の結晶は砕け、キリトを侵す毒と共に消滅した。毒状態を一瞬で治療する解毒結晶だ。
このゲームではポーション系アイテムでは毒状態を治療する事は出来ず、結晶アイテムか回復スキルに頼るしかない。ダメージと共に毒状態になってしまったならば今みたいに二種類のアイテムを使わなければ完全回復が出来ない。
大ダメージと共に毒状態を付与してくる特性を持っているセクメトは、これ以上ないくらいに厄介なモンスターと言えるだろう。とんでもないものに出会ってしまったと思いながら、キリトはセクメトに向き直る。
セクメトはリランとの取っ組み合いをしており、森の木々を破壊しながら互いの身体を切り裂いたり、噛み付きあったりしていた。現実世界でも見れるであろう獣同士の格闘だが、今の両者は現実ではありえないくらいに大きいため、木々をなぎ倒しながらの格闘戦になってしまっている。《SAO》や《ALO》の時もそうだったけれど、リランと大型モンスターが格闘を始めると、怪獣映画のワンシーンのように見えて仕方がない。
その大迫力の縄張り争いを繰り広げる中、セクメトが猫のそれとは思えないくらいに鋭い牙を剥き出しにし、がぶりとリランの首筋に噛み付いた。
リランは悲鳴と共に異様な声を上げ、《HPバー》の横に毒状態を示すアイコンを出現させた。牙から毒を直接流し込まれたのだ。セクメトの毒は何もブレスだけではないらしい。
「リランッ!!」
思わずキリトが叫んだその時、セクメトはその手でリランの身体を押さえつけて立ち上がり、そのままリランをぶん投げた。
セクメトの咆吼と共にリランの巨躯が投げ出され、紫の炎に焼かれていた木々に衝突。森を作っていた木々はあっけなくバラバラに破砕され、リランが轟音と共に衝突した事で地面が捲れあがり、
更に燃え盛る紫の炎の中に飛び込んだせいで、リランは余計にダメージと毒を負った。《HPバー》は黄色になってしまうくらいにまで減らされており、あと一撃でも喰らえば赤になるところだろう。
対峙するセクメトは尻を上げて左右にゆすっており、目線をダウンしているリランへしっかりと向けている。猫が獲物を仕留める時にする姿勢だ。リランへ起き攻めを仕掛けるつもりらしい。
「拙いッ!」
咄嗟に立ち上がったキリトが向かおうとしたその時、セクメトは飛び掛かった。しかし、その先に居たのはリランではない。リランの毛並みに近しい白銀色の髪の毛をした、白い服を纏って、片手直剣と盾を装備した小さな少年がその先に居た。自分達のパーティの中で最も弱いユピテルだった。剣を握るその右手は空へ掲げるように伸ばされており、その周囲には赤い光で構成されたエフェクトが立ち上っている。
タンクは敵の注意やヘイトを集め、パーティメンバーを敵から守るスキルをいくつか備える、基本的には守りに徹して戦うポジションだ。何故かそれを選択しているユピテルは、当然そういったスキルを使う事が出来る。
セクメトの狙いがリランからユピテルへ突然移った事から考えるに、ユピテルはパーティプレイヤーとのヘイトを交換して敵をおびき寄せるスキル、《ヘイトチェンジ》を使ったのかもしれない。
セクメトが迫りくるユピテルに向けて、キリトは咄嗟に声をかける。いくらタンクスキルを上げて防御力を上昇させていても、ユピテルがセクメトの攻撃を防げるわけがないのだ。
「ユピテル、避けろッ!!」
キリトの声が届くよりも前にセクメトは全身をユピテルに叩き付けた。ユピテルは咄嗟に盾を構えて防ぐ姿勢を作ったが、小さな少年でステータスが全く足りていない者が作る防御壁は簡単に突破され、その身体は
「あぐッ……」
暴風に吹かれたようにユピテルは、手より外れた剣と盾と一緒に宙を舞い、十秒もしないうちに地面へと落ちた。どさっという音と共に地面へぶつかったユピテルは声にならない悲鳴を上げ、《HPバー》はあっという間にゼロになる。そのままユピテルは動かなくなり、戦闘不能状態を示す血色のアイコンを空になった《HPバー》の横に出現させた。
自分達よりもステータスの値が低いのだから、セクメトの攻撃を喰らえば当然そうなる。予測こそしていたものの、本当の出来事になってしまった事にキリトは歯ぎしりをし、シノンが叫ぶ。
「ユピテルッ!!」
「このぉッ!!」
シノンがユピテルの蘇生へ向かうと、セクメトは再びキリトへヘイトを向けて走ってきた。繰り出されてきた突進攻撃をキリトは横方向へステップする事で回避したが、セクメトは急ブレーキをかけて勢いを殺し、キリトへ向き直ってきた。キリトの目とセクメトの目が合う。セクメトの目は扱う炎や毒の色に反して青水色だった。
この《SA:O》に存在するボスモンスターにもそれ相応のAIが搭載されており、ある程度組まれたパターンの
それこそジェネシスの使っている黒き狼竜、アヌビスのようだ。
どこかで《ビーストテイマー》がいて、隠れながら指示を出しているのかもしれない。その位置はここから近しい場所のはずだ。セクメトが《使い魔》ならば、《ビーストテイマー》を倒せばこの戦いは終わる。
しかし、どんなに周囲に気を向けてもそれらしきものは見つからず、静まり返ってしまっている一方だ。溶け込んでいる異物を探そうとしても、やはり見つからない。極みに近しいハイディングスキルでも使っているのだろうか。
キリトが模索していると、隙有りと言わんばかりにセクメトが咢を開き、火炎毒弾を放ってきた。模索と同時に予感を感じていたキリトは発射と同時に横に逃げると、キリトの居た空間を火炎毒弾が貫いた。
態勢を立て直したキリトにセクメトはもう一度火炎毒弾を放つが、キリトは迫りくる火炎毒弾を左右にジグザグにステップして回避しつつ、セクメトに接近。その懐に入り込んだタイミングで、両手の剣に水色の光を纏わせる。
「はああッ!!」
リランやセクメトに負けじと咆吼したキリトはセクメトに突進しながら、二本の剣で黒い毛に包まれた身体を六回連続で斬り付けた。斬り付ける毎にしっかりとした手応えが返ってきて、水色の光がセクメトと自身の周囲を照らす。
六連続攻撃二刀流ソードスキル《デュアル・リベレーション》。
キリトの渾身のソードスキルを受けたセクメトは悲鳴を上げ、その《HPバー》の残量を減らす。リランの攻撃が効いていたのか、セクメトの《HPバー》は一番上が終わり頃になっており、キリトのソードスキルが炸裂した時には一本目が空になり、二本目に突入した。
確かに強いけれども、自分達で倒せない敵ではない。その事を悟ったキリトからの攻撃を受けたのに激昂したのか、セクメトは怒りの声を上げて腕を振り上げて、キリトを叩き潰そうとしてきた。
「キリト、スイッチだ!」
その瞬間、キリトの耳に一人の少女の声が響き、キリトとセクメトの間に一つの人影が割り込む。両手剣を握り締め、赤いコート上の服を白い服の上から着込んでいる、白金色の狼耳と尻尾のある金髪の少女。《使い魔》であるリランが人狼となった際の姿だ。
自分がセクメトの注意をひいている間に狼竜形態から人狼形態へ移行しながら来たらしい。その事にキリトが驚くよりも先にセクメトの邪悪な腕が振り下ろされてきて、同時にリランは両手剣にオレンジ色の光を纏わせて斬り払った。振るわれた大剣はセクメトの腕を弾き、火花を散らしてキリトから遠ざける。
単発攻撃両手剣ソードスキル《ブラスト》を用いた《パリング》。リランならではの荒業。
攻撃を弾かれたセクメトは体勢を崩して後ずさりし、キリトとリランとの距離を開ける。
ソードスキル使用後の強制硬直が解けていた。今ならばもう一発セクメトにソードスキルを叩き込める。
見込んだキリトがリランの前に躍り出てセクメトへ向かおうとしたその時だ。セクメトはキリトからの追撃を避けるように大ジャンプした。巨大な物体が飛び上がった際に生じる暴風が吹き荒れ、キリトは思わず途中で止まり、腕で目を覆った。
風が止んだのを掴んで見上げたその時、キリトは絶句する。
「な……に……!?」
キリトの視線の先でセクメトが空を飛んでいた。セクメトの肩の辺りから、紫色の奇妙な文様の走っている黒くて大きな翼が生じており、それを羽ばたかせてセクメトは飛んでいるのだ。
竜という名を冠している割にはセクメトには翼がなかった。それがキリトにとって気がかりな事だったが、結論は今出た。
セクメトには翼がある。文様はそれそのものが生きているように蠢いている事から、セクメトの翼が何かしらのエネルギーで構成されているものだというのもわかった。
この世のものとは思えないものを見ているようなキリト達を見下ろしながら、セクメトはどんどん上昇していき、やがて空さえも覆う闇の中へと消えていった。
突如として現れた黒猫が消え去ると、森の中は再び静寂を取り戻した。キリトはセクメトが去っていた空を見上げて、呟いた。
「何なんだよ、一体……」
今のは一体何だったのか。
あのセクメトの名を冠する黒猫竜は、確かに自分を狙っていたような気がする。そうでなければそこまで執拗に攻撃を仕掛けてくる事などないはずだ。そして何より、セクメトは普通のボスモンスターとは違う動きをしており、まるで《使い魔》のようなルーチンで動いていた。
あのセクメトは何故現れ、何故自分を狙ったのか。
そして《使い魔》なのか、そうではないのか。
頭の中でセクメト戦で取り入れた情報をまとめ上げても、それがまとまって結論を出してくれることはなかった。現段階では考え込んでも仕方なさそうだ。
キリトは一旦思考を中止し、後ろを振り返る。セクメトとの戦いで燃え、ぼろぼろになった森が広がっていた。《SA:O》ではフィールドにあるオブジェクトも、攻撃を受けたりすることで壊れてしまう事がある。だが、壊れてしまっても《カーディナルシステム》の機能によってすぐに元に戻るから、心配はいらない。
焼かれた森を気にする事なく、キリトはある一点へ向かった。そこに居たのはシノンと、セクメトの攻撃を受けて戦闘不能になっていたユピテルの二名。
シノンによって蘇生されたのだろう、ユピテルはその場に座り込んで動かないでいた。その傍にシノンが付き添っているが、その表情は浮かないものであった。ユピテルに至ってはとても申し訳なさそうな顔をしてしまっている。まるで何か悪い事をしでかしてしまった事を猛省している子供のようだった。いや、実際そうだ。
ユピテルに歩み寄り、キリトは声をかける。
「ユピテル」
「ごめんなさい、キリトにいちゃん」
それがユピテルからの第一声だった。だが、内容はきっと自分の求めているものではない。キリトはそう思い、ユピテルに言う。
「どうして謝るんだ」
「キリトにいちゃんも、シノンねえちゃんも、ぼくに怒ってるんでしょ。ごめんなさい。あいつの攻撃を受け止めきれなくて。誰よりも先に戦闘不能になって、シノンねえちゃんに手間を掛けさせて……」
がっくりと頷くユピテル。その言葉の内容にキリトは溜息を吐き、ユピテルの肩に手を置いた。ユピテルは顔を上げなかった。
「ユピテル、確かに俺は怒ってる。けれど、それはお前が戦闘不能になったからじゃないよ」
ユピテルは顔を上げた。意外な事を聞いたような表情が浮かんでいる。キリトはその青色の瞳を見ながら更に言った。
「ユピテル、なんでヘイトチェンジなんかやったんだよ。あいつはリランでさえも戦う事で精一杯な奴だったんだぞ。そんなにお前が狙われたらどうなるかなんて、簡単に想像がつくだろう」
「……それは……」
「ユピテル、お前のやった事ははっきり言って無謀だ。お前はまだあれとまともに戦えるような状態じゃない。あの時お前は逃げるか避けるかをすればよかったんだよ。そうすれば――」
「……それじゃあ強くなれないよ」
ユピテルに割り込みにキリトは軽く驚く。主導権を握ったかのように、ユピテルは続けた。
「ぼくは強くなりたいんだ。強くならなきゃいけないんだ。弱くちゃ駄目なんだ。もっと強くなって、もっと沢山の敵と戦って、沢山のボスを倒して、強くならなきゃいけないんだ。そうじゃなきゃぼくは……」
首を横に振りつつ、何度も似たような事を口にするユピテル。その様子にはキリトも眉を寄せるしかない。
ユピテルは強くなりたがっているようだし、実際そのためにここまでやってきているようなものだ。強いモンスターを倒して経験値を得て、ボスも倒せるようになる。その過程はキリトもずっと経験してきたものであり、だからこそその本当の形を知っているし、今のユピテルのやっている事が無茶であるという事もわかる。
強くなる事は階段を上るのと同じだ。無茶の無い範囲で練習を積み重ねる事でようやく次の段階へ進む事が出来るようになっている。
ユピテルはまだ地道な練習が必要な段階であり、ボスモンスターに挑めるようなステータスだって持っていない。なのに、ユピテルはいきなりあのセクメトのようなモンスターと張り合おうとしていた。
キリトにはユピテルは強くなる事に焦っているようにしか見えなかった。
「ユピテル、なんであんたはそこまでして……」
同じ事を思ったのか、シノンがか細く言うと、ユピテルは俯いた。しかし、それからまもなくしてすたりと立ち上がり、キリトもシノンも、リランも驚かせた。
「……勉強になった。ぼくのやった事は間違ってた。もうあんな事を繰り返さないって約束する。
ぼくはまだ戦える。キリトにいちゃん達と一緒に戦える。ぼくはキリトにいちゃん達の力になりたいんだ。だから、早く先に進もう。もっと攻略しよう」
早口で言うなり、ユピテルは森の方へと進み始めた。ユピテルの強くなりたいという意思は確かに存在する。それは瞳を覗けば明らかだ。
だが、その原因を作っているのは何なのだろうか。
何がこのユピテルを突き動かしている。
ユピテルの身の程知らずの無茶の原動力はどこにあるというのだ。
また答えがうまく出せないキリトはシノンとリランに声をかけ、ユピテルを追いかけた。
――補足――
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正式名称《
飛行能力も持ち、飛行時には背中から黒いエネルギーの翼を作り出して飛ぶ。