キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 ついに佳境へ。

 始まるのは最悪の時間。


 どうなる、超長めなアイングラウンド編第二章第十二話。





12:身の程知らずの無茶と蝕む黒

          □□□

 

 

 アスナがアメリカで開催されるイベントに出掛けてから二日目の夜。

 

 シノンはキリト、ストレア、リランの四人でフィールドに出掛けていた。現在地はオルドローブ大森林の最奥部付近と思われる洞穴の中だ。鍾乳洞のような質感の岩壁と床で構成されたそこは、外の光が差してくる事のない闇の国だった。

 

 どこを見ても真っ暗であり、奥を見ても何も見えてこない。しかし、完全に真っ暗なのかと言われたらそうではなく、洞穴のあちこちに光を放つ不思議な粘菌が繁殖しているため、完全に光がないわけではなく、攻略に困る事はなかった。

 

 その中にいるのは、目玉を中心に先端が口のようになっている不気味な触手をいくつか生やしたものや、武器を持った禍々しい外観の人型モンスターだけだ。

 

 敵対した時にはかなり攻撃を放ってくるそれらを確認する事で、ここがオルドローブ大森林と言うフィールドの最奥部付近であるというのを知らせてきた。

 

 闇の国へ入るためのパスポートなんてものがあれば、戦闘を避ける事も出来たかもしれないが、このゲームにそんなものは存在しない。結局戦闘を避けられず、全員がそれぞれの武器を振るって、襲い来る悪魔族のモンスター達を退けていった。

 

 戦闘と移動と採取で織り成される探索。いつも通り攻略を進めていると、事実上パーティのリーダーであるキリトが声を出してきた。

 

 

「今夜だよな、アスナが帰ってくるのって」

 

 

 声をかけてきたキリトにシノンは頷く。

 

 アスナが参加しているロボットのイベントであるが、それは昨日のうちに終わっているらしく、もうじきアスナは日本へ帰ってくるそうだ。

 

 アメリカ在住のセブンからも聞いている事だが、アメリカと日本では、日本の方が時間が進んでおり、その時差は十六時間に及んでいる。

 

 日本で夜ならば、アメリカでは前日の朝。とんでもないとさえ感じるくらいの時差の間を抜け、アスナは帰ってくるというのだ。

 

 海外に移住している人だとか、海外出張を頻繁にする人ならばよく理解している事なのだろうけれども、シノンは一回たりとも飛行機に乗って海外に行った事がないので、時差というものの感覚はよく分からない。時差を跨ぐとはどんな感じなのだろうか。帰ってきたらアスナに聞いてみよう。

 

 そう思いながら、シノンはキリトに言葉を返す。

 

 

「あまり詳しい話は聞いてないけれど、お土産もいっぱい買ってきてくれたみたいよ。アメリカ(むこう)のお土産とか、どんなものなのかしらね」

 

「俺はそれよりも土産話の方がいいな。イベントじゃあどんなロボットがあったんだろう。アメリカの話はあまり日本じゃ報じられないからさ」

 

 

 キリトの口からアスナの参加したロボットイベントの話が消えた事は二日前からあまりない。既にイベントが終了している今でもこんな話をしているのだから、アスナが帰ってきた時にはさぞかし輝いた目で話に食らいつくつもりだろう。

 

 その時の様子が容易に想像出来て、シノンは苦笑いしたが、直後にリランが言った。

 

 

「それにしても、高性能人型ロボットなどというものはあったのだろうか。我らの身体に相当するものの話は聞いておきたいぞ」

 

「ロボットがあれば、アタシ達は現実世界に行けるんだもんね。楽しみだなぁ~」

 

 

 ストレアもリランと同じ様子だった。

 

 アスナがイベントに参加した理由は、高性能人型ロボットがあるかどうかを探すためだ。もし高性能人型ロボットを作れる企業があったならば、近い将来それがユピテルの身体となり、ユイ達の身体になる。

 

 ユイ達が現実世界で暮らせる日の実現。三人が楽しみにしているのもわかるし、シノンも実際アスナの土産話を期待していた。

 

 

 だが、そう思う反面、シノンにはアスナへの懸念が存在していた。ユピテルの事だ。

 

 ユピテルはいきなり学習と戦闘訓練を開始し、強く、賢くなる事を目指し始めた。それ自体は《MHHP》の本能のようなものだから心配ないのだが、如何せんユピテルはそれを奇妙なまでに固執している。

 

 まるで強く、賢くなる事そのものを使命としてしまっているように。

 

 食事だってそう。ユピテルはアスナの料理は勿論の事、シノンの料理も気に入って食べていたけれども、ここ二日のユピテルは料理を作っても食べようとしなかった。

 

 念のために作った料理を小分けして寝室に置いてみたりもしたが、手を付けられている事はなく、いずれも消費時間を過ぎて消えてしまうだけだった。

 

 あんなに料理を美味しいと言って食べるユピテルがなにも食べない。聞いてみてもいらないと答えるだけで具体的な事はなにも話してくれない一方だ。

 

 

 ユピテルがどうしてこのような行為に及んでいるのか、二日たってもシノンはユピテルから何も聞き出せていないし、そもそもあまり話をする事も出来ていない。

 

 ユピテルのこの事をアスナは理解しているのだろうか。

 

 

 アスナが帰ってきたら、すぐさま聞きたい。その事を口に出さずにいられず、シノンはリランに声をかける。

 

 

「ねぇリラン、ユピテルの事だけど………私達が学校行ってる間とか、なにかなかった?」

 

「む? 特に何もなかったぞ。いつものようにネットワークに潜り込んで、帰ってきては戦闘の反復訓練をしている」

 

「本当にそれだけなの」

 

「というと?」

 

 

 リランの問いかけを受け、シノンは予め思っていた疑問を話した。

 

 

「私、どうにもユピテルが引っ掛かるって言うか、そんな気がするのよ。あの子、何かありそう。ううん、絶対に何かあるわ」

 

「何かと言うのは」

 

「それは上手く説明出来ないって言うか……とにかく、ユピテルの行動には何かありそうな気がするの。ユピテル、何か抱えてるから、あんな行動をしてるんだわ。それがなんなのかはよくわからないけれど………」

 

 

 キリトも同じ事を考えていたらしく、シノンに続く形で声を発する。シノンは横目でキリトを見た。

 

 

「それ、俺もシノンと同感だ。ユピテル、何か変だよ。なんていうか、あいつらしくないっていうか……いつものあいつじゃないって感じがあるっていうか」

 

 

 キリトからもユピテルの異変の事は聞いている。

 

 つい昨日、ユピテルにも食事を作ってあげた時の事だ。キリトはユピテルの事を迎えに行ったけれども、そこでユピテルに激しく怒られた挙げ句、ネットワークに戻られてしまったと言うのだ。

 

 これにはシノンも驚いたし、リラン達も同じように驚いた。その時シノンはリランに再度ユピテルに連絡をするように言い、実行してもらったけれど、結局ユピテルが戻ってくる事はなかった。

 

 あのユピテルに一体何が起こっているのか。この事が気がかりで、シノンは日中の学校の授業もあまり手につかなかったくらいだ。

 

 

「やっぱりユピテルには何かあるのよ。よくわからないけれど……」

 

「一概にそうとは言えぬぞ」

 

 

 そう言ったリランに二人で向き直る。いつにもなく、リランは険しい顔をしていた。

 

 

「前にも言っただろう、ユピテルは記憶を欠損してると。それを修復しようとしてると。ユピテルは思い出したい事を思い出すために頑張ってるのだ」

 

「それはわかるけれど、本当にそれだけなのかしら。私にはそれ以上の事があるような気がするんだけれど……」

 

「言っておくが、自己修復は簡単ではないぞ」

 

 

 少し険しげな顔をするリランに二人で向き直る。

 

 何度も聞いているリラン達の自己修復機能。一見それは人知れぬところで簡単に行われているように見えるが、直す部分の大きさや深刻さなどで、自己修復の難度も上がり下がりするのだ。

 

 そしてユピテルの崩壊具合と破損具合は、極めて深刻なもの。リランはそう言って、話を続ける。

 

 

「あそこまで崩壊と破損をしてしまっているのを修復するのは簡単ではないのだ。ユピテルもそれを理解したうえであのような行動を取っている。あぁでもしなければ、あいつは元に戻る事は出来ぬ」

 

「そんなものなの」

 

「そうだ。現に我が破損した時も、死に物狂いでデータを集めたものだからな。我のように完全に戻ろうとしているのであれば、ユピテルがそこまでするのもわかる」

 

 

 ユピテルとリランは同じ境遇にいて、同じように破損した。その時の光景を見た事があるわけではないけれども、リランがどれ程の苦しみを抱き、それに立ち向かうための行動がどのようなものだったのかは想像出来る。その時のリランと同じように、ユピテルは直るために必死になっているのだ。

 

 

「確かに、本気で直るつもりなら、それくらいの事は必要なのかもしれないけれど……」

 

「今夜アスナが帰ってくるのだから、その時に聞いたらよいのではないか。アスナならユピテルの詳しい事も知ってるだろう」

 

「そうするつもりだけど……」

 

 

 ユピテルはかつての自分を本能的に取り戻そうとしている。全ては《MHHP》の本能に突き動かされてのもの。そう考えると、ユピテルがあそこまで必死になっているのも納得出来るような気がしたが、やはり解せない部分も残る。それは心の中に(もや)がかかっているような感覚を(もたら)してきて、どうにも気持ちが悪かった。

 

 

 ユピテルの行動は本当に《MHHP》の本能によるものなのだろうか。

 

 《MHHP》の本能はそこまであの子を突き動かすものなのだろうか。

 

 それ以上のものはないのだろうか。

 

 

 頭の中で思考を巡らせてみても、答えを導き出す事はどうしても出来ない。

 

 

 キリト曰く現在地はオルドローブ大森林の最奥部付近であるそうで、このまま進めばエリアボスに差し掛かる可能性が高いらしい。そうなれば皆を集めてのレイドボス戦になるだろうが、この疑問を解消しなければ集中して戦えそうにない。やはりアスナへの聞き込みは避けられなさそうだ。

 

 そんな事を考えるシノンを横目にしながら、ストレアが口を開く。

 

 

「それにさ、もしユピテルに何かあれば、もう何かしらの事が起こってると思うよ」

 

「何かしらの事?」

 

 

 リラン達《MHHP》、ユイ達《MHCP》は基本的に異常を起こしたりなどしないが、例外も存在する。

 

 それは矛盾を内包する事だ。

 

 《MHHP》、《MHCP》は自分の意志や使命に背くような命令や指示を下されたり、実行を強要されたりすると、内部でエラーを抱え込んでしまって、不具合や異常を起こしたりする。

 

 これがもっとも顕著に起きたのが《SAO》のデスゲーム開始時だ。《MHHP》と《MHCP》は精神に多大な負荷を受けたプレイヤーを確認したら、すぐさまその傍に向かうように作られている。

 

 デスゲーム開始時には数多のプレイヤーがそうなったのに、リランやユイ達はそこへ赴く事を禁じられた。その出来事を原因に、彼女達は内部にエラーを蓄積してしまい、破損と崩壊をしてしまったのだ。

 

 そう話したストレアから引き継ぐように、リランが更に言う。

 

 

「もしユピテルに何かあるとすれば、やはりエラーの内包であろう。だが、あいつはエラーを内包するような事はしておらぬ。至って正常だ」

 

 

 ユピテルと高頻度でいる上に、嘘を吐かないのが最大の特徴のリランの言葉。

 

 リランがそう言っているならば、信じるしかない。ユピテルは正常であり、問題を抱えているわけではないのだ。シノンは腕組をしながら、軽く溜め息を吐いた。

 

 

「あんたが言うならそのとおりか。まぁ確かに変な部分もあるけれど、ユピテルはまともそうだし……私の思い違いだったかも」

 

「そうであろう。それにしても、シノンはユピテルの事をよく見ようとしているな」

 

 

 かつてはアスナがユイとリランを預かって、自分とキリトだけの時間を作ってくれたのだから、今度は自分がそれをしてやる番だ。アスナからユピテルを預かってから、シノンは胸の中でそう思いながら、様々な事をやってきていた。

 

 そのためなのか、シノンも自覚出来るくらいにユピテルの事がよく見えているような気がするようになっていたし、リランに言われても頷ける。

 

 

「そりゃそうよ。事実上私が今ユピテルを預かってるわけだし、あんた達と一緒に面倒を見てるわけだから。アスナがユイとあんたを預かった時みたいに。あの時の恩返しって言ったらいいのかしらね」

 

「そうか。だが、それも今夜で終わりだ。アスナが帰ってくれば、家もユピテルもアスナの許へ戻る」

 

 

 リランに言われて、ふとシノンはウインドウを開く。時計は午後九時半を指している。アスナによれば今日の九時くらいに帰宅するという事だったから、既にアスナはアメリカ旅行を終えて帰ってきているだろう。

 

 だが、十時間以上に渡る飛行機の旅の後だから、家に帰って早々疲れて眠ってしまうかもしれない。今日《SA:O》へアスナがやってくるかどうかはわからなそうだ。

 

 同じような事を考えていたのだろう、キリトが呟くように言う。

 

 

「けれど、詳しい話を聞けるのと、家とユピテルの受け渡しは明日になりそうだな。今日これからじゃ、とても無理だろう」

 

「そうね。やっぱり今夜いっぱいは……」

 

「あ、見つけました! パパー、ママー!!」

 

 

 次の言葉を紡ごうとしたその時、不意に背後から声が飛ん出来たものだから、シノンは若干声を上げて驚いてしまった。驚きは声色が加速させていた。何故ならば、耳に届いてきた声は、本来ならばフィールドでは聞く事の出来ないものだったからだ。

 

 その根源を探すように暗い後方を見つめる事数秒後、こちらに向けて走ってきている人影が一つ。一瞬こちらを発見した人型モンスターかとも思ったが、明らかにそれらとは小さいうえに武器を持っていないので、モンスターではないとわかる。

 

 人影はどんどん近付いてきて、やがてその姿をはっきりとしたものにした時、全員が大きな声で驚いた。攻略中のこちらに向けて走ってきていたのは、長い黒髪が特徴的な、白いワンピースに似た服装に身を包んだ小柄な少女。

 

 自身とキリトの娘であり、リランの妹、ストレアの姉であるユイだった。

 

 

「ユイ!?」

 

 

 全員で声を合わせて驚く。ユイは完全なる非戦闘プレイヤーの一人としてこのゲームに参加しているため、その他のプレイヤー達のように戦闘をする事は出来ず、街などの安全圏内から出る事も基本的に出来ない。そうでなければ、モンスターの獲物にされてしまうからだ。

 

 そのユイがフィールドに、しかもその最奥部にやってきているというのには、驚くしかなかった。ユイはさぞかし急いでいるような様子で駆けてきて、シノン達のすぐ傍までやってきた。

 

 

「パパ、ママ……やっと追いつきました……」

 

 

 足を止めたユイは上半身を折り、膝で腕を支え、肩で息をする。ここまで全力で走ってきたようだ。だが、そんな事も気にせずに一同はほぼ一斉にユイに声掛けした。

 

 

「ユイ、お前、なんでここに!?」

 

「あなた、街から出るなって言ってたでしょ? どうして!?」

 

「というか、どうやってここまで来た!?」

 

 

 キリト、シノン、リランの順で言うと、ユイは背筋を元に戻して顔を上げた。ここまでやってくるのに相当疲れたはずなのに、その顔は青ざめているように見えた。

 

 

「ここの入り口にある転移石から転移して、パパの居場所を追ってきました。モンスターはパパのハイドポーションを使う事で避けられたんです」

 

 

 この洞穴の入り口付近に、《はじまりの街》の転移門から直接転移出来るポイントである転移石はあった。なのでこの洞穴自体には容易に行く事が出来る。

 

 そしてユイは自分達と共有ストレージを使っているので、いざとなった時はキリトのアイテムをユイが使う事も出来るのだ。わかりきっていたそれらの仕様を四人に認知させるなり、ユイは大声を出した。

 

 

「それよりパパ、ママ、大変です! おにいさんが……おにいさんが!」

 

 

 その一言を聞くなり、シノンは背筋に悪寒が走ったのを感じた。すかさずキリトが驚いたように言う。

 

 

「ユピテルか!? ユピテルがどうかしたのか!?」

 

「とにかく《はじまりの街》に戻ってください! 今プレミアさんがなんとかしてくれてますが、プレミアさんだけでは足りません!」

 

 

 普段ならばメッセージを飛ばせばいいだけなのに、わざわざユイはここまでやってきたうえ、ひどく慌てている。

 

 ユイでも慌ててしまうような重大な出来事が起きてしまったという事を瞬時に理解したシノンは、キリトに声を飛ばす。

 

 

「キリト、転移結晶あるわよね!?」

 

「ある! ひとまず攻略は後回しだ。急いで戻ろう!」

 

 

 来た道を戻って転移石を使い、《はじまりの街》に戻る事も出来るけれど、ユイがここまでの事をしている以上はそんな事をしている余裕はない。それを同様に理解してくれていたキリトは、ストレージより青色の四角い結晶を取り出し、掲げるようにして「転移、《はじまりの街》!」と唱えた。

 

 次の瞬間、シノン達の視界を青い光が覆い、一瞬だけ意識がふわりとした。

 

 

 

 

 

 

          □□□

 

 

 

 

 

 青い光が消え果た頃、目の前に広がっていた光景は暗い洞穴の中から、オレンジ色の街灯に照らされた街中に変わっていた。

 

 周囲にある円状の建物と、背後にある黒い屋根の宮殿、そして中心にある大きな石柱のオブジェクトを認める事で、現在位置が《はじまりの街》の転移門へ変わった事を察する。

 

 

 直後、キリトを先頭にした一同は一斉に走り出し、転移門を後にした。多数の出店と行き交うプレイヤー、NPC達の間を縫うように走り、商店街エリアを抜けて居住区エリアへ向かう。

 

 家を手に入れたプレイヤー達の数は増えてきているらしく、居住区エリアもかなりの数のプレイヤーが見受けられた。満足そうな顔をしているプレイヤー達にぶつからないように走り、目的地である家を目指す。

 

 

 そういえば《SAO》の時にも、こうして住宅街の中を駆け抜けた事がある。その時は本当の危機が始まる一歩手前だったけれども、今は既にそれが起こっているのだ。その事がシノン達の足を更に急がせてくれ、瞬く間にアスナの家の前に辿り着かせてくれた。

 

 

 玄関口を蹴破るように開けて廊下を走り抜けると、キリトは一気に階段を駆け上がっていく。それに続いて大きな足音を立てながら階段を駆け上がると、すぐさま寝室に辿り着けた。

 

 寝室にはユイの言っている通りプレミアが居たのだが、五人が一斉に駆け込んで来たのには流石に驚いたのだろう、ひどくびっくりしたような目で五人を見てきた。

 

 

「キリト、シノン……!」

 

「プレミア、何があった!? ユピテルは!?」

 

「キリト……ユピテルが!」

 

 

 戸惑ったような声を出すプレミアの右方向に目を向け、シノンはハッとする。そこにはベッドの近くに設置された簡易テーブルと椅子のセットがある。その椅子に腰を掛け、項垂(うなだ)れるようにしてテーブルに突っ伏している小さな少年の姿を認めたシノンは、キリトと一緒に駆け寄った。

 

 

「ユピテル!!」

 

 

 ほぼ二人同時に声をかけたその時、シノンはユピテルの異変を即座に把握した。

 

 ユピテルは雪のような白銀色の長髪を、アスナのものによく似た髪型にしているのだが、今は頭頂部から目の辺りまでにかけての部分と、最先端部分が黒色に変化しているのだ。

 

 しかも、その黒はただの黒いのではなく、青い(まだら)模様のようなものが蠢いている。まるで、黒色そのものが生きているかのように。

 

 

「ユピテル、あんた、どうしたのよ!?」

 

 

 聞いてもユピテルは答えようとしない。顔を覗き込もうとしても深く突っ伏しているせいでよく見えなかった。それでも肩で息をしているというのがわかると、キリトがその身体に手を伸ばして抱き上げ、そのままベッドへ寝転がらせた。

 

 

「……ッ!?」

 

 

 (あらわ)になったユピテルのその顔を見た時、シノンは思わず口を覆った。

 

 ユピテルの髪の毛に現れている蠢く黒は、ユピテルの肌にまで出ていた。目から上は完全に青の蠢く黒に覆われてしまっており、目、口、耳、鼻からはどろどろとした黒い液体が流れ出ている。その液体の中にも青い斑模様が蠢いており、ユピテルが顔中の穴という穴から血を流しているようにさえ見える。

 

 あまりの光景に言葉が喉で詰まり、頭の奥が痺れたようになって思考が止まる。しかし、ユピテルの嗚咽が耳に届いた事で、シノンの思考は再び動き始める。ユピテルはこれ以上ないくらいに苦しそうな表情を浮かべており、必死になって息をしているのがわかった。

 

 だが、息を吐く度に口から黒い重液が流れ出てくるせいで、上手く呼吸出来ていないようだった。

 

 

「な……なに、これ……」

 

 

 絞り出したような声を出すと、反応したようにユピテルが瞼を開けた。普段は浅瀬の海のように美しい青色をした瞳だが、今それはほんの少しだけ青の混ざっている、光の無い深海のような黒色へ変化していた。白目に至っては灰色になってしまっている有様だ。

 

 

「その……こえ……きり……と……にいちゃ……しの……んねえ……ちゃ……?」

 

 

 黒い重液の漏れ出す口を一生懸命に動かし、ユピテルは小さな声を出した。溢れる黒い重液のせいで舌が動かせないのか、呂律がほとんど回っていないように聞こえる。重液はユピテルの何もかもを妨げているのだ。

 

 

「ユピテル、お前、どうしたんだ!? ユイ、プレミア、ユピテルに何があった!? ユピテルはどうなってる!?」

 

 

 怒鳴るようにキリトが言うと、プレミアが過程を説明した。

 

 四人が攻略に出かけた後、プレミアとユイは一階で留守番をしていたのだが、その時丁度ユピテルが寝室に戻ってきたのを感じたという。軽食でも摂ろうかと考えたプレミアは寝室へ向かったが、そこでこうなっているユピテルを発見し、ユイに知らせた。

 

 驚いたユイはスキャニングをするよりも先にキリト達に事情を知らせる事を優先し、転移門へ向かい、キリト達の元へ飛んだのだという。

 

 

「突然こんな事になったっていうの!?」

 

 

 思わず戸惑ったような声をシノンが漏らすなり、リランが咄嗟にウインドウを開いてホロキーボードを操作し始める。加わる形でユイとストレアが同じようにウインドウの操作を開始し、部屋の中はユピテルの嗚咽と三人がキーボードを操作する音で満たされるようになった。

 

 まもなく、その異様な静寂はユイによって破られる。ユイは信じられないような顔をしてウインドウとユピテルを見ていた。

 

 

「そんな、こんなのって!?」

 

「ユイ、何がわかった!?」

 

「ウイルスです、パパ! おにいさんの《アニマボックス》が、ウイルスに感染しています! おにいさんの異変は全て、ウイルスによるものです!」

 

「ウイルスだって!?」

 

 

 ユピテルの黒色の正体を掴んだユイの叫びを聞いたシノンは、キリトと一緒に驚く。

 

 ユピテルはネットワークの世界で学習をしていると聞いていた。もしその中でコンピュータウイルスに感染したりしたらどうなるのかという話もしたが、まさかそれが現実になってしまうだなんて。

 

 だけどおかしい。《アニマボックス》にはワクチンプロテクターという機能が搭載されているから、ウイルスに感染しても大丈夫なようになっているのではなかったのか。彼らはウイルスの脅威にさらされる事はないのではなかったのか。

 

 

「ちょっと待ってよ! あなた達はウイルスとか、そういうのは大丈夫なんじゃなかったの!?」

 

「そうだよ、そのはずなんだけど……!」

 

 

 珍しく焦りを顔に浮かべてキーボードを操作するストレア。ほどなくして、その顔は驚きのそれに変わった。何か見つけたくなかったものを見つけたような反応であった。

 

 

「そんな……ユピテルのワクチンプロテクター、機能してない! ワクチンプロテクターが動いてないよ!」

 

「な、なんで!?」

 

「原因は……これは、エラー……?」

 

 

 ユイがストレアと同じような顔をする。何か信じられないものを目の当たりにしたかのようなその様子に、シノンは思わず突っかかるように近付く。

 

 

「なに、何がわかったのよ」

 

「おにいさんの中に……ものすごい量のエラーが蓄積されています……このエラーの処理にワクチンプロテクターが当たってしまっていて、ウイルスの対処が上手く出来なくなってるんです……その隙を突いてウイルスも増殖し続けていて……一応おにいさんの身体からウイルスの除去は行われています。おにいさんから流れ出てる黒い水みたいなのがそうです。けど、ウイルスの増殖の方が早くて、追いついてません……!」

 

 

 かつてのアインクラッドの時、MHHPとMHCP達は全員がエラーを抱えて崩壊した。ユピテルはユイ達のように修復されないでいたが、まさかそのエラーが今もなおユピテルの中に残っていたというのか。疑問を抱えながら、シノンはユイに問うた。

 

 

「エラーって……ユピテルのエラーはとうに解消されたんじゃないの? エラーが溜まってたのはアインクラッドの時だけでしょ!?」

 

「おにいさんの中にあるのはここ数日で起こったエラーです! おにいさんは……ここ数日間、ずっとエラーを起こすような事をやり続けてた……!?」

 

 

 その言葉にシノンは愕然としそうになる。

 

 エラーを抱えるような行為などというものは、本来ならば本能に従って避けるはずなのに、それが起きてしまっている。どういう事なのか全くわからなく、混乱が頭の中から去っていかない。ぐちゃぐちゃになりそうな頭を抱えながら、シノンはユピテルを見る。

 

 ぎしぎし、みしみしという異様な音がユピテルの身体から、ぐちゃぐちゃという重液が流れる音がユピテルのあちこちから聞こえてくる。まるでユピテルの身体が刻一刻とウイルスに侵喰されていっているようだった。いや、実際そうなのかもしれない。

 

 そう思っていると、ユピテルがもう一度か細い声を出した。

 

 

「キリ……ト……兄ちゃ……シノ……ン……姉ちゃ……」

 

「ユピテルっ!!」

 

 

 キリトが声をかけても、ユピテルはキリトを見ようとしない。目を動かしてはいるけれども、視線はここにいる一同を通り過ぎていく一方だった。

 

 

「ど……こ……どこに……い……るの……?」

 

「どこって……目の前にいるだろ!?」

 

「キリト兄ちゃ……どこ……なの……?」

 

 

 ユピテルは怯え切った表情で、深海のようになった色合いの目を何かを探るように動かしている。(あたか)も視力が失われてしまっているかのようだ。これは一体なんだ。シノンが思うと、ストレアが驚いたように言った。

 

 

「ユピテルのウイルス、データ破壊型のタイプだよ! しかも次々増殖してて、もう《アニマボックス》のかなり深いところにまで入っちゃって、もう視力野がやられちゃってる!」

 

 

 人間が感染する感染症の中でも、目に感染して神経を破壊し、視力を奪ってしまうものも存在する。それと同じようなものがこの仮想世界というところにも存在し、実際に感染するようになっているだなんて、シノンは信じられない。

 

 ストレアに続けてリランが言葉を小さく出す。その表情は険しいものだったが、色合いは青ざめているように見えた。

 

 

「ここまで入ってこられてるならば拙いぞ……このままウイルスの侵喰が進めば、ユピテルの構成データそのものが破壊される……!!」

 

「構成データが破壊? そ、そうなったら……?」

 

 

「……ユピテルは自身を維持出来なくなる。つまり、ユピテルは死ぬ……」

 

 

 その言葉にシノンは凍り付いた。身体の中に流れている血液までも凍り付いてしまいそうな錯覚に陥り、指先が一気に冷たくなっていく。

 

 ユピテルが死んでしまうとはどういう事か。そんな事がありえるというのか。

 

 確かにユピテル達の構成データは《アニマボックス》、生命の箱という意味を持つそれだが、それは本当に生命を意味しているというのか。もしそうならば、《アニマボックス》の内部が破壊されたとき、生命が破壊されるという事だ。

 

 そして今、ユピテルの《アニマボックス》はウイルスによって破壊されようとしている。

 

 

 死の無いはずの存在に、死が訪れようとしている。

 

 

 現状を改めて確認し、意識が薄れかかったその時、耳に飛び込ん出来た大声でシノンはこの場に意識を取り戻す。

 

 

「リラン、どうすれば止まる!? ユピテルはどうすれば直る!? ウイルスバスターか!?」

 

「そんなものはない! ウイルスの除去が出来るのはワクチンプロテクターだ。ワクチンプロテクターさえ動けばウイルスの除去は出来る。だが、そもそも何故ワクチンプロテクターを阻害するほどのエラーがあるのだ!? このエラーはどこから来ているのだ!?」

 

 

 普段はいかなる時も冷静沈着なリランでさえも、戸惑いを隠せないままホロキーボードを操作している。今この場で起こっているのはリランの予想も、このゲームの運営の想定も超えた出来事なのだ。そんなものを自分達でどうにか出来るわけがない。

 

 今私に出来る事なんか――そう思おうとしたその時、キリトが歯を食い縛ってから、リランにもう一度声を掛けた。

 

 

「リラン、ひとまずアスナのスマホに連絡して、ログインするように言うんだ! ユイはスキャニングを続けて、ストレアはイリスさんに連絡だ! 前に教えてもらったっていう非常用回線を使うんだ! ひとまずは二人にこの事を話すんだ!!」

 

 

 かなり早口でキリトが指示を飛ばす。あまりの高速口調なものだから、平常心を失っているように見えるけれども、的確な指示を出せている。血盟騎士団で団長を務め、攻略組を率いた時の経験が今になって活きていた。

 

 キリトの指示を受け取ったリランとストレアはホロキーボードの操作をやめ、外部へ連絡するためのウインドウを開き、リランはアスナへ向けて、ストレアはイリスに向けて連絡を取ろうとし始める。

 

 そうだ。今この状況を知らなければならないのはアスナだ。アスナはユピテルの母親なのだから、息子の危機を聞けば飛んでこなければならない。ユピテルだってアスナが戻ってくれば、安心するはずだ。

 

 そして、自分の恩師でもあるイリスこそがユピテルの開発者だから、こうなってしまった時の対処方法も知っているはず。この二人が揃えばこの状況は打破出来、ユピテルを助ける事は出来る。平常心を失いそうになっている最中で安堵を抱こうとしたその時、耳元に小さな声が聞こえてきた。

 

 

「や……めて……」

 

 

 声の発生源はユピテルだった。ウイルスの生み出す黒に変色した手を上へ伸ばし、何かを訴えかけるように小さな声を発している。咄嗟に振り返って、シノンは答えるように言う。

 

 

「ユピテルここよ! もうすぐ、もうすぐあんたのかあさんが帰ってくるから!」

 

「やめて……かあさんを……呼ばないで……」

 

「え……」

 

 

 ユピテルの声をしっかりと聞き取り、全員で硬直して目を向ける。注目を集めたユピテルは、顔中の穴から黒い重液を流しながら、言葉を紡ぎ始める。

 

 

「かあさんは……今のぼくを……望んでなんかいない……から……」

 

「ユピテル、あんた……何言ってるの……!?」

 

 

 ユピテルは激しく咳き込んだ。黒い重液がびちゃびちゃとベッドに飛び散る。

 

 

「かあさんは……弱いぼくを……望んでない……」

 

 

 言っている意味が分からなかった。アスナが弱いユピテルを望んでいない? こんな自分は望まれていない? 頭の中が疑問符で溢れかえりそうになって、尚更混乱がひどくなりそうになったそこで、キリトがユピテルの肩に掴みかかる。

 

 

「ユピテル、何だ!? お前は何を隠してるんだ!? 今までの事は何のためにやってたんだ!? 聞いてやるから話すんだ!!」

 

 

 まるで尋問のように激しく、キリトが言葉をかけた。とても弱り切ったユピテルにやるべき行為ではないが、それをシノンは止めようと思わなかった。

 

 

「ユピテル、話せッ!!!」

 

 

 キリトの怒鳴り声が部屋中に轟き、一瞬だけ家具がみしみしと揺れた。あまりの声に全員が言葉を失ってしまって五秒ほど経ったその時、ユピテルは最後の力を振り絞るかのように深呼吸をし、言葉を出した。

 

 

「ぼくは……かあさんを……喜ばせたいんだ……。

 

 一週間くらい前に……かあさんとイリスが言ってたのを聞いたんだ……ぼくは誰よりも劣ってて、かあさんの庇護なしじゃ生きていけないAIだって……そんなのは、出来損ないのAIだって……そんなのを育ててるかあさんは……愚か者の女だって……。

 

 かあさんのとうさんとにいさん……おじさんとおじいさんの勤める会社の人達も、イリスも、そう言ってたんだ……かあさん、その話してるとき……すごく怖い顔してた……」

 

 

 ユピテルはゆっくりと首を動かし、顔をリラン達へ向けた。見えなくなった目に代わって様々な感覚センサーがフル稼働し、リラン達の居場所を突き止めたように思えた。

 

 

「けど、それは本当の事だよ……だってぼくは……ねえさんみたいに《使い魔》にもなれないし、上手なハッキングもクラッキングも出来ない……ユイのおにいさんなのに、ユイみたいに状況分析も情報処理も出来ないし、ストレアみたいに戦う事も出来ない……ぼくは誰よりも弱くて、誰よりも役に立ててない、出来損ないだよ。ユイとストレアのにいさんで、ねえさんの弟なのに……何も出来ない……」

 

 

 スキャニングを続けていたユイはホロキーボードから口元へ手を移し、覆う。ストレアとリランもウインドウを展開したまま硬直し、ユピテルを見ている事しか出来なくなっていた。

 

 

「ぼくが弱かったら……弱いままだったら……かあさんは皆に罵られるんだ。傷付けられるんだ……またあんな怖い顔をするんだ……苦しくて……怖い顔をするんだ……ぼくのせいでかあさんが傷付けられてしまうなんて……あんな顔にさせちゃうなんて……嫌だった……絶対に嫌だった……。

 

 だからぼく、強くなろうとしたんだ……賢く、なろうとしたんだ。そのために……本当にやらなきゃいけない事を放っておいた……本当は強くなろうとなんて思わなくていいし、賢くなろうと思う必要もなかった……。

 

 けれど……それじゃあ駄目だから……皆と遊ぶ時間も……かあさんと一緒に過ごす時間も……寝る時間も……全部削って学習して、賢くなろうとしたんだ……強くなろうとしたんだ……」

 

 

 そこでユピテルの顔は、ユピテルに剣術やスキルの指導を行ったキリトへ向けられた。流れ出る黒い重液でぐちゃぐちゃになったその顔に見つめられ、キリトのごくりという息を呑む音が聞こえた。

 

 

「そしたら本当にぼくは強くなれた。出来なかった事が出来るようになって、強くて賢くなったのが自分でもわかった……。

 

 そしたらかあさんが褒めてくれた。喜んでくれた。それでぼくに言ったんだ。「あなたはもっと強くなれるよ、賢くなれるよ、強いAIになれるよ」って。「今よりずっと強くて、賢くなったあなたをわたしは見たい」って。

 だからぼく、どんなに無理してでも強くなりたいんだ。出来損ないを卒業するんだ。そうすればかあさんが喜んでくれるから……かあさんが喜んでくれるから、どんな無理でも出来るんだ……」

 

 

 ユピテルはリランへ向き直る。リランはウインドウをタッチしようとしている姿勢のまま固まって、石像のようになってしまっていた。

 

 

「だからねえさん……この事はかあさんに伝えないで……かあさんにはぼくは元気だって、勉強して学習して強くなってるって伝えて……ぼくがこんなになってるって聞いたら、かあさんがっかりしちゃうから……だから……お願い……おね……がい……」

 

 

 その言葉を皮切りに、長かったユピテルの話は終わった。部屋に静寂がやってきたが、完全なものではない。ユピテルの身体から聞こえる蝕む音が鳴り続けていた。

 

 

 シノンは何も言えない。信じられなかった。

 

 アスナはユピテルが自分の意志で強くなろうとしていると言っていたが、それはユピテルの本心ではなかった。本当はユピテルは強くなる事など望んでいなかった。賢くなる事も望んでいなかった。

 

 しかし、ユピテルはアスナのために、それを必死に我慢し続け、耐え続けた。強くなり、賢くなり続けていた。ユピテルは本心も話さずに無理し続けていたのだ。

 

 そして母親であるアスナはその事も知らず、我が子の心を知ろうともせず、ユピテルに強くなる事と賢くなる事を強要し続けていたのだ。

 

 

 その結果が今の惨状を生んでいる。

 

 

「そんな……あんたは……アスナのために……?」

 

 

 頭の芯が痺れたようになったまま、シノンは呟くように言った。うまく聞き取る事が出来たのか、ユピテルはシノンの元へ顔を向けた。そして、シノンは更に信じられない光景を目にした。

 

 苦しみで歪んで、黒い重液でぐちゃぐちゃのユピテルの顔に、笑みが浮かんだ。「えへへ」という、か細い声と共に。

 

 

「シノン姉ちゃ……ぼく、強く、かしこ、く……なった……でしょ……かあさん……喜ぶ……でしょ……」

 

「……!!」

 

 

 シノンは歯を食い縛った。頬に伝うものがある。いつの間にか涙が零れてきていた。仮想世界ではちょっとの感情の揺らぎで出てきてしまう涙を、シノンは止めたかった。

 

 本当に泣きたいのはユピテルの方だ。今ここで苦しい思いをして、そのまま死にゆこうとしているのはユピテルの方だ。泣いていいのは自分ではなくユピテルだ。なのにそのユピテルは黒い涙のような重液を流しながら、笑っている。

 

 

「どうして……どうしてあんた、笑ってるのよ……苦しい思いを散々してきて……全部抑え込んで……苦しくて、死にそうなのに、なんで笑ってるのよ……」

 

「え……へへ……」

 

 

 ユピテルは笑うのをやめない。どうしてこの子はこんな事が出来てしまうのだ。

 

 疑問を再度抱いたその時、シノンは頭の中に一筋の光が走ったのを感じた。かつてのリランの言葉だった。

 

 

「結局ユピテルは致命的な欠陥を抱えた失敗作だった――」

 

 

 これを聞いてから、シノンはユピテルが抱えているであろう致命的欠陥とやらがずっと気になっていた。出来る事ならば早く見つけてやろう、そしてアスナに教えてやろうとも思っていた。けれど、話を聞いてから今日まで、何一つそれらしきものは見つける事が出来なかった。この時まで。

 

 けれど、ユピテルからすべてを聞いた今ならば、それが分かるような気がしてならない。ユピテルが抱えている致命的な欠陥。その事を口にしようとしたそこで、キリトと目が合った。何かに気付いたような顔をしていた。

 

 

「キリ……ト……ユピテルは……」

 

「これだ……これがユピテルの致命的な欠陥だったんだ……」

 

 

 ユピテルは思う人のためならばどんな命令でもこなす。たとえそれが自分の意志や想いに反したものであろうとも、無理矢理実行し続けてしまう。どんなに辛くて苦しい思いをしても、矛盾を抱えても、その命令を遂行しようとしてしまうのだ。その結果、エラーを大量に内包してワクチンプロテクターを動かせなくなり、ウイルスの感染などを引き起こして修復が必要になったり、最悪崩壊を引き起こしてしまう。

 

 

 誰かの命令のためならば本来の命令も、自分自身の意志や想いや願いを無視し、身の程知らずの無茶をする。その無茶を誤魔化して悟られないようにまでして命令を遂行してしまう、極端なまでの滅私奉公(めっしこうほう)

 

 これが、ユピテルの抱える致命的な欠陥だ。

 

 

 その事を知っていなければならないのは、気付かなければならなかったのはアスナだ。母親であるアスナは、一刻も早くユピテルの致命的欠陥に気付かなければならなかった。

 

 だのにアスナはそれに気付こうとせず、ユピテルの事を何も知ろうともしないで一方的な願いを押し付け、無茶をさせ続けた。

 

 ここまでの無茶をしていたのだ、ユピテルはきっとどこかでアスナの前でも無茶をしている事を現していたはずだ。どんなに無茶をしてないように取り繕っても、見せてしまった部分はあったはず。

 

 なのに、アスナはそれにさえも気が付かず、ユピテルの事を気に留めず、自分のくだらない思いや一方的な願いを押し付け続けたのだ。

 

 シノンはもう一度ベッドに横になるユピテルを目線を合わせた。白銀色の髪の毛の大部分が青の蠢く黒に染め上げられ、目から上も黒色に染まり、顔中の穴という穴から黒色の重液を流している。

 

 このユピテルの身体中を覆い尽くそうとしている黒こそが、ユピテルの()()を脅かす忌々しきウイルスであり、世界の境界を越えてやってきた死神の手だ。

 

 このウイルスにユピテルが感染する原因を作ったのは他でもない。アスナだ。

 

 その事を受け入れたシノンは音がするくらいに歯を食い縛った。涙は出てこず、胸の中から燃え上がる炎のような熱い怒りが込み上げてくる。

 

 

 本当にユピテルの事をわかっていなければならなかったのはアスナなのに、何も気が付かないでいただなんて。

 

 可愛いはずの我が子をこんな目に合わせていたなんて。

 

 苦しむ我が子を見て見ぬふりをしてたなんて。

 

 

 シノンは俯いたまま、リランに声を掛けた。

 

 

「リラン……ちょっと部屋を出ましょう」

 

「何故だ。ユピテルがこうなっているのだぞ!?」

 

「いいから出るわよッ!! ストレアはイリス先生に連絡を急いでッ!!」

 

 

 胸の中から突き上げてきた怒りを吐き出すように怒鳴りつけると、シノンは部屋を出て階段を下った。

 

 一階に辿り着いた頃に同じ足音がして、振り返ってみればリランが階段を下ってきているのが見えた。

 

 

 リランが階段を降り切ったのを見計らって、シノンはもう一度声を発した。

 

 

「……リラン、アスナに連絡しなさい。出るまで……かけ続けて」

 


















――補足――

・誰かの命令のためならば本来の命令も、自分自身の意志や想いや願いを無視し、身の程知らずの無茶をする。極端なまでの滅私奉公(めっしこうほう)

 わかる人は、これで何かがわかるかもしれない。

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