キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 深まった夜の中で巻き起こるは、混沌の時。

 かつての悪夢は、再来する。




14:全てを破壊する白黒―再来―

          □□□

 

 

 

 

 《アークタリアム城》最奥部、玉座の間

 

 アスナはユピテルを見つける事に成功したが、結局何もできないに等しかった。

 

 ユピテルの状態はアスナの予想を超えるほどに深刻だったのだ。顔中の穴という穴から血を流すように重液を流し、苦しいはずなのに笑い、そして言葉を濁流のように紡ぐ。

 

 今まで様々な事を勉強してきて、ありとあらゆる事柄に対応できるようになっていたはずなのに、学んだ知恵は何一つとしてその力を発揮しなければ、役に立つ事もなかった。

 

 そしてユピテルの《声》が頭の中に響いた次の瞬間、ユピテルを中心に爆発が起こった。

 

 

「うああああああッ!!」

 

 

 アスナは悲鳴を上げたが、その悲鳴すらも爆発音がかき消した。更に爆風がアスナの身体を塵のように吹き飛ばし、宙を舞わせた。三秒も経たないうちにアスナは背中から石床に衝突。一瞬息が止まったような錯覚と苦しさに似た不快感が走った。

 

 痛覚抑制機構(ペインアブソーバ)が作動しているおかげで、本物の痛みや苦しさが走ってくる事はない。改めてその機能に助けられたと思いながら、アスナはすぐに顔を上げたが、そこで絶句した。

 

 

「……え」

 

 

 玉座の間に、嵐が起きていた。本来ならばリューストリア大草原にまんべんなく流れていくはずの風がこの玉座の間に集まって吹き荒び、竜巻を作っている。

 

 竜巻の中心にいるのはユピテルだが、周りの土砂とユピテルから流れ出ている重液が竜巻の中に混ざっているせいで、その姿をよく見る事が出来ない。これまで見た事のないエフェクトだ。

 

 やがて風が止み、巻き上げられていた土砂と重液が地面に落ちた次の瞬間、ユピテルの身体から一気に重液が溢れ出し、その身を瞬く間に呑み込んだ。

 

 黒い半液状の球体となるなり、ユピテルは巨大化を開始する。三メートル、五メートルくらいになっても巨大化は止まらず、膨張し続けていく。玉座の間の大きさなど考えもせず、壁も床も破壊しながら、球体はどんどん大きくなっていった。

 

 黒い半液状の球体の大きさが十メートルを超えたその時、球体は変形を始めた。見えない手でこねられている粘土のように球体の形が変わっていき、頭部と四肢が作られる。

 

 そこから頭は狼のそれを思わせる輪郭となって凝固し、金属のような質感となり、身体もそれに伴う質感のそれへと変化していく。続けて肩から太い触手のようなものが飛び出してきて、瞬く間に腕に近しい形となって凝固、先端部分が金属のような質感となる。

 

 しかも驚くべき事に、肩から生えた二対目の腕は先端が口のような形状となっており、歯のようなものが並んでいるのが見えた。そして仕上げと言わんばかりに尻尾のようなものが飛び出してぶるんと振るわれ、周囲の壁をいとも容易く破壊した。

 

 

「あ……あ……」

 

 

 アスナがか細い悲鳴を漏らしたその時、その目の前に居たのは青色の蠢く半液状の黒い物体で身体を構成しつつも、身体のあちこちが白色になっている、全長四十メートルは越えているであろう巨大な怪物だった。あまりに大きいせいで玉座の間の壁は全て破壊されており、残された床にかろうじて乗っかっているくらいだ。

 

 頭部の形状は狼の輪郭に似て、肩からもう一対の腕を生やしている特徴がある事から、あれは狼竜であると言えるだろう。

 

 見上げるほどの大きさを持つ、全身から汗のように青の蠢く重液をぼたぼたと垂らしている、《異形の巨狼龍》。

 

 

 それこそが、今のユピテルの姿だった。

 

 

「ゆぴ……て……」

 

 

 アスナは口を覆ったまま動く事が出来なかった。頭の中に嵐が起こっている。何が起きているのか何もわからない。

 

 

 ユピテルの身に何が起きてこうなった?

 ユピテルのあの姿は何?

 そもそもあれはユピテルと言っていいものなの?

 

 

 次から次へと疑問が巻き起こって止まらず、身動き一つとれない。

 

 アスナが思わず後ずさりしたその時、それに反応したように《異形の巨狼龍》は咆吼した。金属と液体をぶつけて滅茶苦茶に鳴らしたような、リランのものも、ここにいるはずのレイドボスをも超えるほどの巨大な不協和音に、アスナは思わず耳を塞ぐ。床も壁も《異形の巨狼龍》の声に揺さぶられ、一部はあまりの震動で倒壊していく。

 

 最早この《異形の巨狼龍》の行動の一つ一つが、《アークタリアム城》に甚大な影響を与えていた。紛れもなく、この場に起こっている出来事は、このゲームの運営の想定を超えたものであろう。

 

 それをユピテルが変異したと思われる《異形の巨狼龍》が起こしている。

 

 最早何もかも、わけがわからなかった。

 

 

 

 

          □□□

 

 

 

「な、なにが起こったの!?」

 

 

 シノンはユイとプレミアと一緒になって《アークタリアム城》一階の捜索に当たっていた。

 

 すっかり夜の闇に包み込まれ、お化けと呼ばれるに相応しい存在達が活発に動き回っている廃墟の中。普通の女の子ならば怖がるであろうその場所を特に怖がる事もなく、目的である人物を探し廻っている。

 

 その人物とは、ユピテルの事だ。自分達は今のところこの場所に問題がないが、探しているユピテルには問題がある。

 

 ユピテルは今ウイルスに侵喰されており、戦う事も出来なければあまり動き回る事も出来ないうえに、視力を失ってしまっている。モンスターに狙われれば瞬く間にやられてしまうような状態であるというのに、ユピテルはこの場所に来てしまっているのだ。

 

 

 どうしてユピテルがここへ飛んでしまったのか。

 今のユピテルはどこまでの被害を受けているのか。

 

 

 ぐちゃぐちゃになりそうな頭を抱えながら探し回っていたところ、突然爆発のような音が城全体に響き渡り、激しい震動が襲ってきた。

 

 あまりに突然の事にその場の全員で驚くと、ユイが即座に「二階にユピテルの《アニマボックス》信号がある」と発言。

 

 信号が検知できるくらいにユピテルが回復したのか。シノンはそう思うと同時に嫌な予感を抱きもした。

 

 しかし、最早四の五の言っている場合ではなく、見つかったのであれば急ぐべきだ。

 

 出来る限り冷静さを保つようにして二階へ続く階段へ急ぎ、その途中でキリトとリラン、ユウキとカイムといった周りの捜索に当たっていた者達と合流した。しかもその時には、捜索開始当初には姿の無かったイリスも居た。

 

 普段全く姿を現さない、恩師であるイリスの登場の理由をシノンは尋ねたかった。けれども、そんな場合ではないし、聞いたところで答えてはくれないだろうと咄嗟に把握し、爆発のような衝撃を巻き起こした元凶のいるであろう二階へ急いだ。

 

 

 二階へ辿り着いた時にも震動は起きてきて、シノン達の足元を掬ってきた。震動が起きるたびに壁も床もみしみしと音を立てて揺れ、土埃を落としてくる。

 

 この古城は本当にボロボロで、ちょっとの衝撃が加われば倒壊するのではないかと思えるくらいなのに、それを本当に倒壊させようとしている存在がいるかのようだ。そしてそれは、きっとレイドボスをも超える何かだ。

 

 それこそ、《SAO》の時にアルベリヒ/《マハルバル》によって改造され、層を守るボス達を喰らい、常識を覆す存在となって暴れまわった《ハオス・マーテル》のような存在が再び現れたのではないのだろうか。シノンはそう思えて、胸の中が不安で満たされて仕方がなかった。

 

 出来る事ならばキリトとリランに話したいところであったが、やはりそんな事をしている場合ではない。シノンは渦巻く不安を抱えながら、ただひたすらに衝撃と震動を引き起こす元凶の許へ急いだ。

 

 そうして辿り着いたのは、この古城の主である《ヴァイス・ザ・コボルドロード》の居た玉座の間。その場所に入り込むなり、広がっていた光景に全員で唖然とした。

 

 

「な……な……」

 

 

 玉座の間で悪夢が起こっていた。いや、悪夢が具現化したかのような存在が姿を見せていた。

 

 龍と人間を複雑に混ぜ合わせたような体型で、狼の輪郭を持ち、腕、脚、頭、胸は黒い鋼鉄のような質感で出来ている。肩からもう一対の、先端部分が口のようになっている巨大な腕を生やし、非常に長い尻尾が尻から、一対の角が頭部から突き出ている。

 

 しかし驚くべき事に、それらの部位以外はところどころ白色の部分のある青い斑模様が蠢く黒色の半液状で構成されており、ぶよぶよとしているように見える。

 

 背中からは半液状の無数の触手のようなものが飛び出て磯巾着(イソギンチャク)のようにうねうねと気味悪く動き回っていて、腹の下からはぼたぼたと黒い重液が垂れ落ちて、黒い水溜まりがいくつも作られていた。

 

 これまで見た事がない特徴をいくつも持った、全長三十メートルは超えているであろう、巨大すぎる狼龍。

 

 この世界は純粋なるファンタジーの世界観で構築されたゲームだ。何が起きてもおかしくはない。だが、目の前にいる悪夢が具現化したような狼龍は、明らかにこの世界で存在すべきものではないと一目でわかる。

 

 

 世界の法則がどこかで狂い、その結果誕生したのが目の前の狼龍。シノンはそうとしか思えなかった。

 

 

「な、なんだよこれ……なんなんだ、この化け物は!?」

 

 

 様々なゲームの世界を渡り歩いてきたであろうキリトでさえも、大声で驚かざるを得ないらしい。キリトだけではない、この場にいる全員がほとんどキリトのような反応をしている。現にシノン自身も、目の前の《異形の巨狼龍》には言葉を失うほかない。

 

 

「……!」

 

 

 皆が愕然とする中で、シノンは《異形の巨狼龍》の前に人影がある事を察した。

 

 栗色の長髪をやや特徴的な髪形にしている、白と赤を基調とした、スカートを伴う軽装備を纏う少女。《アークタリアム城》に入ってから一人で行動をしていた、自分達の探すユピテルの母親である、アスナだった。

 

 腰を抜かして動けなくなっているかのように、《異形の巨狼龍》の前で座り込んでしまっている。

 

 

「……アスナ!」

 

 

 声をかけると、アスナはゆっくりと振り向いてきた。その顔は混乱しきったようなものとなっており、琥珀色の瞳は激しく揺れていた。

 

 

「み……ん……な……」

 

 

 アスナのか細い声で我に返ったのか、キリトとリズベットがアスナの許へ駆けつけ、その身体を支えて後退。シノン達の許へと連れて来させた。

 

 連れ戻されたアスナに、シノンは話しかける。

 

 

「アスナ、一体何が起きたのよ!? あいつは何なの!?」

 

 

 アスナは震える一方で答えない。頭が完全に痺れてしまって、思考が止まってしまっているように見える。もしくは混乱しすぎて何を喋ったらいいかわからなくなっているようでもある。

 

 

「嘘……こんな事が……」

 

「こんなのって……そんな……」

 

「……馬鹿な」

 

 

 アスナに寄り添うように腰を落としていると、周囲から三人の少女の声。振り向いてみればユイ、ストレア、リランがウインドウを展開し、《異形の巨狼龍》を見つめている。その表情は信じられないものを見ているようなものとなっていた。

 

 

「何、何がわかったの!?」

 

 

 戸惑うようにレインが尋ねるなり、ユイがひどく弱々しい声で話した。その目は相変わらず《異形の巨狼龍》に向けられている。

 

 

「目の前にいる超巨大モンスターは……おにいさんです。あのモンスターから、おにいさんの《アニマボックス》信号が検知出来ます……」

 

 

 娘の言葉にシノンは凍り付いた。指先から冷え、全身に悪寒が走る。

 

 あの優しくて愛らしい、小さな少年であるユピテルの今の姿が、あの半液状の身体の化け物である。シノンは信じられなかった。ユイが嘘を言っているようにしか思えなかった。

 

 けれども、ストレアとリランもユイと同じような顔をして目の前の化け物を見ており、何より嘘を言わないのがユイ達の特徴だ。その言葉には基本的に偽りはない。

 

 それだけじゃなく、目の前の化け物の身体を構築する黒い半液状の物体は、ここに来る直前に見た、ユピテルの身体から流れ出る黒い重液のそれに酷似しているのだ。

 

 あの黒い重液に完全に呑み込まれてしまったユピテルの姿が、目の前の《異形の巨狼龍》。思いたくないが、そう思うしかなかった。

 

 

「あれがユピテル……どういう事なの? ユピテルに何が起きたの、アスナ!?」

 

 

 《SAO》の時アスナと、ユピテルと一緒に暮らしていた張本人であるユウキが声を掛けたところで、アスナはようやく振り向き、消えてしまいそうなくらいに弱い声を出した。

 

 

「ユピテル……黒い液みたいなの流してて……それで……いきなり……爆発して……あんなふうになって……」

 

 

 アスナの証言に皆で声を出して驚いたが、その中で一人だけ驚かなかった者がいた。石像のように背筋を伸ばして立ち、《異形の巨狼龍》の姿を見つめているそれは、《異形の巨狼龍》の元となったユピテル、その姉妹達を作った張本人である女性イリスだった。

 

 何も言わずにただ《異形の巨狼龍》を見ているイリスに、立ち上がったアスナがゆらゆらと近付く。

 

 

「イリス先生……ユピテルは……ユピテルは……」

 

 

 イリスは「ふむ」と言って一歩踏み出した。その赤茶色の瞳は《異形の巨狼龍》をしかと映し出しており、やがて顎もとに指が添えられた。

 

 

「ユピテル、すごい事になったものだね。あんな姿になってしまうなんて、私も全然予想できてなかった」

 

「イリス先生……?」

 

 

 どこか危機感のないような表情をしながら、イリスは説明をした。

 

 今のユピテルはウイルスに完全に喰われかかっている状態にあり、あの姿はウイルスに僅かに反発しているワクチンプロテクターが、ウイルスに少しでも勝とうとして、ユピテルの中に存在している取り込まれたデータを利用して領域を広めたもの。

 

 形はユピテルが想像している理想の姿と、内に秘めた欲望を叶えるための姿をかけ合わせて再現したものであるという。身体のあちこちに白い斑点のような領域が出ているのは、ウイルスに侵喰されていない部分の表れだ。

 

 

 ワクチンプロテクターがある意味暴走を引き起こし、ユピテル自身をも取り込んで、その中の膨大なデータとエラーを基にする事で誕生した存在。ユピテルが願いを成就するため、ウイルスから自分を守るために、様々なデータを喰らった結末の姿。

 

 

「名前を付けるなら……《ハオス・ユピテル》といったところだろうね」

 

 

 その言葉に誰もが言葉を失う。シノンの脳内に、《SAO》の時に起きた大災害が頭の中にフラッシュバックされる。

 

 マーテルという名の《MHHP》――ユピテルの姉、現在のリランに該当する存在――が、自分を直しつつも目的を果たすためにデータを取り込む事に一心不乱になった姿。程度を失ってデータを取り込み続け、ボスモンスターさえも喰らって膨大な力を付け、その他のボスモンスターもモンスターも、街でさえも喰らってしまうほどの規模となった、陸を行く戦艦のような大きさを持った《異形の裸婦》。

 

 

 その名が、《ハオス・マーテル》だった。

 

 

 そして今、その弟であるユピテルが、《ハオス・ユピテル》という名を冠する存在となって、当時の姉と同じ行動を取ってしまっている。

 

 まさしく《SAO》の悪夢の再現だ。

 

 

「まさか、ユピテルまであの時とマーテルみたいな事を始めたっていうのか……!?」

 

 

 信じられないような顔をしてキリトが言う。無理もなかった。《SAO》の《ハオス・マーテル》の大災厄、悪夢はあそこで終わったとばかり思っていたのだから。この場にいる誰もが、あの大災厄の再現がされるなどという事は夢にも思っていなかったに違いない。

 

 

「ど、どうなるんだよ。こいつを放っておいたら、どうなるの……!?」

 

 

 キリトと同じような表情をしながら《異形の巨狼龍》を見上げたカイムが震えながら言った次の瞬間、《異形の巨狼龍》がもう一度吼えた。直後、その背中から生えている半液状の触手が一気に伸びて天井を貫き、そのまま猛スピードで周辺の床に落ち始めた。触手の先端にあったのは齧られていたモンスター達の死骸だ。

 

 モンスター一匹分の大きさがある触手が真っ直ぐ、周辺に転がるモンスターの死骸に落ちて覆い被さると、死骸はずるりと音を立てて、《異形の巨狼龍》の触手の中に呑み込まれるように消えていった。咀嚼を伴わない捕食だった。

 

 あまりに凄惨な光景を見た一同が悲鳴に近しい声を上げると、《異形の巨狼龍》の触手はその勢いを増してモンスターの死骸を喰らい始める。この城だけではなく、リューストリア大草原にいる全てのモンスターを喰らおうとしていると言わんばかりの勢いだ。下手に近付いたら自分達さえも巻き込まれてしまうだろう。

 

 

「イリス先生、ユピテルは何を……?」

 

 

 アスナの小さな声をイリスは聞き洩らさなかった。頭を軽く掻きながらではあるが、少し険しい表情を浮かべて言葉を紡ぐ。

 

 

「ユピテルはデータを欲しがっているんだ。自分を直すために、そして自分をより強い存在へもっていくために、より大きくて精密なデータを欲している。

 このまま放っておけば、ユピテルはこの城も草原も抜けだして、《はじまりの街》に向かうだろう。精密なデータを持ったNPCを喰らうためにね」

 

 

 この世界はNPC達にとってのデスゲームだ。もしあんなものに捕食されるような事があったならばひとたまりもないし、突然のNPCの激減に運営も異変を感じてしまうに違いない。そうなればこの世界がどうなってしまうかなど容易に想像がつく。

 

 イリスの言葉は続けられる。

 

 

「けれど、そんなのが無茶なわけがないし、そもそもワクチンプロテクターが暴走してあんな事になっているんだから、ユピテル自身には相当な負荷がかかりまくってるだろう。そしてあのままデータを取り込み続けたとしても、ウイルスを除去できる可能性は極めて低い。いずれにしても、このまま放置すればあの子はウイルスに喰われて死ぬ。これは、死の間際の姿だ」

 

 

 シノンは目を見開いた。かつてマーテルは《ハオス・マーテル》となっても死ぬ事はなかった。マーテルが自分を直し、自分を生かすためにとった姿こそが《ハオス・マーテル》だったのだから。

 

 けれども、ユピテルはその逆であり、あの姿を取り続けていたら死に行く。姉弟で対照的な出来事が起きてしまっている。

 

 

「……!」

 

 

 それを察したアスナから非常にか細い声が漏れた次の瞬間、イリスはぐるりと振り返ったが、そこでシノンは絶句した。

 

 イリスの顔に、笑みが浮かんでいたのだ。

 

 

「けれど、よかったじゃないかアスナ。最高の結果だよ」

 

 

 言われたアスナが唖然とする。周りの者達もそうだった。周りの全員の注目を集め、《異形の巨狼龍》の背後にしながら、イリスはアスナに投げかけるように言った。

 

 

「君は批判されるのが嫌だったんだろう? 出来損ないのAIを育てる愚かな女だと罵られたくなかったんだろう?

 

 だからユピテルを出来損ないのAIじゃなくそうとして、ユピテルに成長してもらおうとしたんだろう? それがユピテルの本心から外れ、ユピテル本人が望んでいない事だったのに、無理矢理やらせ続けたんだろう? あの子の無理に気付こうと思えばいつでも気付けて、やめさせようと思えばいつでもいくらでもやめさせられたのに、それをやらなかったんだろう?

 

 本当はユピテルはあんな事なんかやりたくなかったけれど、君の期待に応えようと思って強がってたのにいい気になって、強がりだって気付かないでやらせ続けたんだろう? ユピテルがどんなに辛くても、どんなに不調を起こしていても、知らん顔をしていたんだろう? 自分が愚かな女だと、出来損ないAIの息子の母親だって周りの連中から批判されるのが嫌だったから!」

 

 

 弾幕のようなイリスからの言葉に、アスナの瞳がどんどん開かれていく。イリスの言葉は止まらなかった。

 

 

「その結果どうだよ。ユピテルは強くなったよ。自分で望んでないくらいに強くなったよ。きっとリランよりも強いAIになれたんだ。あれこそがユピテルの思い描いていた、君の思い描いていた強くなったユピテルだよ。

 

 けれど結局駄目だった。ユピテルは君の無理強いと教育に耐えられるほどの強さを持った子じゃなかった。物の見事な出来損ないだよ、ありゃ。あんなに頑張ってたのに、嫌な事を耐え凌いだのに、母さんの期待に応えようと必死だったのに、あの(ざま)だ。

 

 けれどこれでよかったんだ」

 

「……なんで……」

 

 

 問いかけられたイリスは一歩踏み出し、アスナにぐいと顔を近づけた。互いの息が当たるくらいのところにまで近付いたところで、再度口を開く。

 

 

「だってそうでしょう? あの子があのままだったら、あなたは間違いなく出来損ないAIの母親だって罵られ、馬鹿にされ続ける事になったんだから。

 けれどあの子はここで死んじゃうから、あなたはそうは言われないわ。だってあの子のせいであなたはそんなふうに言われるかもしれなかったんだもの」

 

 これ以上ないくらいに瞳を見開き、アスナは自分の顔を両手で覆った。そのまま力いっぱい顔を握り締めていき、「あ、あぁ」とか細い声を出し始める。アスナの両目に自分が映っている事を確認しながら、イリスは両手を開いた。歓喜に満ちているかのような表情を浮かべながら。

 

 

「これであなたは批判されないし(けな)されない! これであなたは出来損ないのAIの母親から解放よ! あなたの名誉は、名声は守られた! 批判の声を浴びる事もなくなった! あの子も本望でしょう、自分の死のおかげで母親の名声と名誉を守れるんだから! 大好きなかあさんを守って死ねるんだから!!」

 

 

 次の瞬間、布を裂いたような声でアスナが絶叫した。《異形の巨狼龍》の咆吼に劣らないとも思える悲鳴。それがアスナから出ているという事を、シノンは信じられなかった。

 

 いや、目の前の光景の何一つが信じられない。恩師であるイリスは今度は、崩れ落ちて絶叫するアスナを見下ろし、期待外れと言わんばかりの顔をしているのだ。

 

 

「……何よその反応。名声と名誉を守りたかったんでしょ? そのためにあの子を成長させたんでしょ? けれど上手くいかなかった。あの子は正真正銘の出来損ないだった。それがわかったからいいじゃない。寧ろ出来損ないの子供が死んで清々するでしょう。なんでそんな悲しそうな顔をしてるのよ。なんで泣いてるのよ」

 

 

 アスナは何度も激しく首を横に振った。目から次々と涙があふれ出しており、顔が降られるたびに周囲に飛び散っていく。

 

 

「違う、違う、違う違う違う違う違うッ!! わたしは、わたしは、そんなつもりじゃなかったのぉッ!!」

 

「そんなつもりじゃなかった? そんなつもりだったでしょ? そんなつもりだったからあの子に目を合せなかったんでしょ? あの子に成長と学習を強いたんでしょ? あの子に強くなってもらおうって思ったんでしょ?

 

 あの子と一緒に暮らしていく幸せよりも批判されるのが嫌の方が大きかったから、批判する連中をぎゃふんと言わせて泡吹かせてやりたかったから、あの子を利用したんでしょ?

 

 自分を愛してくれるあの子の事なんか、あの子の心や感情なんかどうでもよかったから、あの子を利用して周りの批判から自分を守ろうとしたんでしょ?」

 

「違う、ちがう、ちがう、ちが、う……」

 

 

 アスナの声に弱りが生じた。動作も徐々にゆっくりとしたものに変わっていく。

 

 イリスの言っている事は信じがたい内容だったが、その全てこそが真実だったのだ――シノンはそう思った。イリスの暴言に近しい指摘は、ユピテルがあの時言っていた事と、アスナの思っていた事を全て的中させている。

 

 だからこそ、アスナは何も答える事が出来なくなってきているのだ。これ以上ないくらいに真実を暴露されているから、反論も出来ない。

 

 その様子をじっと見つめるなり、イリスは更に期待外れと言わんばかりの顔をする。

 

 

「……違うの? あなたは確かに望んだわよね? ユピテルが強くなる事を、出来損ないじゃなくなる事を。だからあの子に無理をさせたんでしょ。あの子の心を(ないがしろ)にして、あの子の気持ちを見向きもしないで、続けさせたんでしょ?

 いつでもあの子の無理をやめさせる事が出来たのに、いつでもこんな結果になる事を回避できたのに押し通し続けて、そしたらこんな結果は望んでなかった? こんなつもりじゃなかった?」

 

 崩れ落ちて泣きじゃくるアスナに目線を向けつつしゃがみ込むなり、イリスははっきりとした声で言った。

 

 

「あの子をあれだけ振り回した末にそれなんて、あなたはどれだけ都合がいいのよ」

 

 

 やがてアスナは声を発さなくなり、地面に手を付けて跪くだけになった。気付いた時、シノンはアスナの傍へ近寄り、その身体に両手を添えていた。アスナの身体は小刻みに震え、喉から小さな嗚咽が漏れ続けていた。

 

 その間にも、アスナの息子であった《異形の巨狼龍》の捕食は続いていた。しかもこの場にあった全てのモンスターの死骸の捕食が終わったようで、触手を伸ばすのをやめている。いよいよこの城を出てフィールドへ乗り出すつもりなのだろう。

 

 《異形の巨狼龍》の親である少女を見下ろして数秒、イリスは深々と溜息を吐き、立ち上がって振り返る。

 

 

「……そんなつもりじゃなかった、こんなつもりじゃなかった、かぁ。

 そうね、わたしもこんなつもりじゃなかったわ。あなたは子供達に人気で面倒見もよかったから、ユピテルの事を任せられるって思ったんだけど……わたしもデスゲームに入ってたせいで見る目が狂ってたのね。ユピテルはあなたには過ぎた代物、あなたは母親になるべき()ではなかったわ。でもいい経験、本当の子供が出来た時の糧になったでしょ」

 

 

 イリスは再度振り返った。その目線の先に居たのは《異形の巨狼龍》の姉であり、狼竜形態となっているリランだった。

 

 

「リラン、いえマーテル。力を貸して頂戴。あの子を治すわ」

 

《治せるのか、あいつを》

 

「治せるわよ。わたしはあなた達の開発者だからね。あなたをコンソールにして開発者コマンドを呼び出し、ユピテルを初期化するわ」

 

 

 イリスの発した単語に、キリトが驚いたように食らいつく。

 

 

「初期化だって!? そんな事をしたらどうなるんだ!?」

 

「文字通りの事が起こるわ。あの子の中のウイルスは除去されて、あの自身も開発完了時に戻る。ワクチンプロテクターも《アニマボックス》も元通りになるわ。記憶は消えちゃうけどね」

 

「記憶が消えちゃう……!? アスナさんとの記憶とか、全部消しちゃうんですか!?」

 

 

 慌てるリーファに、イリスは極めて冷静な様子で頷いた。

 

 

「勿論。ユピテルの記憶は全部消える事になるわ」

 

「そんな、それしかないんですか!? 初期化以外ないんですか!?」

 

 

 戸惑いを隠さないでユウキが言うと、イリスはアスナへもう一度向き直った。

 

 

「数時間前まではアスナが出来た。けれど、もう無理よ。アスナはユピテルの母親に不適格ってわかってしまったからね。不本意だけど、初期化するしかないわ。けれどそれでいいのよ。あの子にとって、アスナとの記憶はもう余計なモノでしかないもの。ひどい親に無理難題を押しけられ続けた最悪の記憶。そんなものは消してしまうのが、本人のためよ。それで……」

 

 

 イリスは顔をキリトとシノンへ、そしてユイとストレアへ向け、少しだけ穏やかな表情を浮かべた。

 

 

「あの子を初期化した後はキリト君、あなたがおとうさんになって、シノン、あなたがおかあさんになるのよ」

 

「えっ、私達が……!?」

 

「大丈夫よ、あなた達にはマーテルもユイもストレアもいるんだから。六人家族になるから、あの子もすくすくと育ってくれるわ」

 

 

 シノンにはわかっていた。この人は本気だ。本当にユピテルを初期化して、自分達を親にしようと考えている。

 

 確かに自分達は既にユイという子供を持っているから、ユピテルを同じように育てる事もできるのかもしれない。

 

 だが、ユピテルは自分達の子供になるべき子と言われたら、いやそれ以前にそんな話を急に持ち出されても、シノンは戸惑う事しかできない。ユピテルは……。

 

 

「…………って」

 

 

 一瞬小さな声が聞こえた気がした。シノンは咄嗟にアスナを見る。アスナの身体は小刻みに震えていた。しかし、気がしたのは自分だけだったようで、イリスは構わずに口を動かしていた。

 

 

「あまり時間がないわ。マーテル、これからユピテルの初期化作業を始めるからーー」

 

「待ってぇッ!!」

 

 

 急に大きな声がして、シノンは驚いた。イリスを含めたその場の全員の元に届いたようで、全員が声の発生源を見ていた。全身の力を込めて出したような声のもとは、アスナだった。

 

 

「……ユピテルの記憶を……初期化を……しないで……」

 

 

 懇願するようにアスナが言うなり、イリスはすんと鼻を鳴らした。呆れが混ざっているような様子だった。

 

 

「今さら何を言うかと思えば。何でそんな事が言えるのよ。まだユピテルを苦しめたりないとでも言うのかしら」

 

 

 アスナは首を横に振った。全身で思っている事を表現しているかのようだ。

 

 

「わたしは……ユピテルと一緒にいられれば……それでよかった……あの子さえ居てくれれば幸せだった。もう何もいらなかった。もう何も、欲しくなかった……。

 なのに、そのはずだったのに、わたしは、わたしは……あの子が出来損ないって言われたのが悔しかった……あの子は誰よりも素晴らしいAIだって……出来損ないなんかじゃないって、証明したかった……あの子を……」

 

 

 語るように言うアスナの顔の下には、小さな水溜まりが二つできていた。ぼろぼろとその瞳から大粒の涙が流れ出している。

 

 

「けれど、今のままのユピテルじゃ、そう言われるってわかってた……あの子が何もできないって言うのを否定出来なかった……それでもよかったのに……わたしは悔しさに勝てなかった。あの子にそれを伝えようとしたら……あの子は強くなろうと頑張ってくれた。わたしのために強くなろうとしてくれた……それがあの子の願いだって思ってた。ううん、そう思いたかった……勝手にそう思い込んでた……」

 

 

 アスナはぎゅうと拳を握った。声に力が込められる。

 

 

「成長するあの子の姿を見る度に嬉しくなった。出来損ないなんて言う人達を見返せるって思った。

 

 だから、もっともっとユピテルに強くなってもらおうと思った。強くなってほしかった。そのとおりにユピテルが強くなっていくのが、楽しかった……。

 けれど、本当は……あの子はそんな事を望んではいなかった……あの子の正直な気持ちを聞かなきゃいけなかったのに、それを叶えてあげなきゃいけなかった。

 

 なのにわたしは出来損ないって言われた悔しさに負けたから、負けるくらいに弱かったから、あの子の心を無視した。踏みにじった。あの子を自分の思い通りにしようとしてしまった。あの子に嫌な思いをさせる事を強いた。

 

 わたしの身勝手な願望を押し付けて、あの子の無理に気付こうともしないで、あの子の心を縛り付けて、ぼろぼろにして、自分のくだらない感情を無理矢理現実にさせようとしてした!」

 

 

 アスナの頭はどんどん地面へ近付いていき、姿勢そのものがうつ伏せに近しい形になっていく。

 

 

「……父さんと母さんにさせられて一番嫌だった事を、ずっと嫌で仕方なかった事を……一番ユピテルにやってはいけないと思って決めてた事を、やっちゃった……誰よりも大切なあの子に……大好きで愛おしいあの子に……取り返しのつかない事を、しちゃった……わたしはあの子の気持ちを、何にもわかってなかった……あの子の心を何もわかってなかった……あの子の母親、なのに……あの子に、あの子に、あの子にぃぃ……」

 

 

 リランは近くにいるが、力を使っていない。そうであるにも関わらず、胸の中のものをアスナは吐き出していった。まるで自分の全てをさらけ出し、懺悔をするように。

 

 

「アスナ……あんたは……」

 

 

 シノンはか細く声をかける。頭の中にアスナと仲良くなった時の事がフラッシュバックしてくる。あの時アスナは罪を抱えた自分と友達になってくれて、親友にもなってくれた。それほどまでに自分を受け入れてくれたのだ。

 

 けれど、アスナがユピテルを知らなかったように、自分もまたアスナの事を何も知らなかった。いや、アスナの思いを知ろうとも思っていなかったのかもしれない。

 

 アスナは自分の事や感情を理解してくれたのに、自分はアスナを理解せず、怒鳴り散らした。自分にはアスナを怒鳴り付ける資格なんか、なかったのかもしれない。

 

 シノンは大きな後悔を感じて、アスナの身体をさすった。気付けば、周りの者達のすすり泣く声が聞こえてくるようになっていた。

 

 その中でキリトが呟くように口を動かす。

 

 

「アスナ……君は……」

 

「……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ユピテル、ごめんなさい……ごめんなさいぃ……ユピテルぅ……」

 

 

 何度もアスナが咽びながら言い続けると、それを掻き消すように《異形の巨狼龍》が咆吼する。先程のものよりも苦しそうに聞こえるものだった。

 

 《異形の巨狼龍》は周りのモンスターの死骸を喰らっているが、そもそも《異形の巨狼龍》となっているユピテルはウイルスの侵喰を受けて苦しんでいた。ユピテルは《異形の巨狼龍》となった今でもウイルスの蝕みで苦しんでいるのかもしれない。イリスの言っているように、《異形の巨狼龍》には、ユピテルには時間が残されていないのだ。

 

 苦しみを継続してしまっている《異形の巨狼龍》となったユピテルを見上げ、イリスは深く溜め息を吐いた。

 

 

「全く、今更そんな事を言い出すだなんて……本当に都合が良いわね」

 

 

 イリスは振り返り、アスナへと歩んだ。ゆっくりとイリスがやって来ても、アスナは反応を示さず、身体を擦ってやっているシノンが先に見上げた。

 

 

「……血が繋がっているどころか、人間ですらないのに、かあさんって呼んでくれて、愛してくれて、愛させてくれる子供がいるという事が、どれだけ暖かくて、ありがたくて、幸せな事か……自分の言う事を聞いてくれる事にいい気になって、その心の有り様を無視して、自分の思い通りの形にしようとする事が、どれだけ残酷で、惨たらしくて、愚かな事なのか……これでよくわかったでしょう」

 

 

 イリスから向けられた言葉に、アスナは嗚咽を漏らしながら頷いた。言い訳をしているわけでもなく、心の底から頷いている。直後、イリスはゆっくりと腰を落とした。

 

 

「顔をあげてみなさい」

 

 

 イリスに言われるまま、アスナはようやく顔を上げた。いつにもなく、その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。けれども、ただ泣き散らしているようなものではないとわかるものだ。その様子を見るなり、イリスは口角を少しだけ上げた。

 

 

「……良い顔になったじゃないの。出来損ないって言われて悔しいだの言ってた時のあなたより、随分と綺麗になったわ」

 

 

 アスナはしゃっくりに近しい嗚咽を漏らしながらイリスの目を見ていた。その背後にいる《異形の巨狼龍》の姿も。

 

 

「アスナ。今あなたは自分の過ちを理解したみたいだけど、それで? あなたはどうしたいのかしら」

 

 

 アスナは一瞬だけきょとんとして、顔を一旦下げる。熟考するつもりかと思いきや、すぐさま意を決したように顔を上げ直した。瞳からは再び大粒の涙がこぼれ落ちている。

 

 

「わたし……わたしは許されない事をした……でも、ユピテルとこれからも一緒にいたいです! ユピテルにきちんと謝って、ユピテルの心を、ちゃんと教えてもらいたい! ユピテルの事を、ちゃんとわかりたい!!」

 

「一緒にいたいの、アレと? あの子は出来損ないよ。あなたはその出来損ないを育てる愚かな女よ。愚か者の母親って罵られるわよ。批判されるわよ?」

 

 

 アスナは再度首を横に振って、大きな声で言い返した。

 

 

「そんなのどうでもいい! 批判されるのも罵られるのも、どうだっていい!! どんなに出来損ないって言われても、どんなに失敗作だって罵られても……あの子は……ユピテルは……わたしの……わたしの」

 

 

 アスナはかっと顔を上げ、大きな声を出した。

 

 

「わたしの、たった一人の可愛い息子です!!!」

 

 

 《異形の巨狼龍》の咆吼に負けないくらいの音量でアスナは自身の心を叫んだ。声はぼろぼろになった城中にまで届いて木霊する。その言葉を受け取った皆が声を失うと、アスナは力尽きたように四つん這い姿勢に戻った。

 

 

「だから……お願いですイリス先生……初期化しないで……あの子の記憶を……消さないでください……あの子を助ける方法を……教えてください……」

 

 

 アスナの心の底からの懇願に、シノンは熱いものが胸から込み上げてくるのを感じた。今にもそれは涙となって出てきそうであったが、ぐっと堪えてアスナを見る。他の者達のうち数名は泣いてしまっていたが、アスナを見る事はやめていない。

 

 ただ様子を変えずにじっとアスナの叫びを聞いていたイリスは、もう一度溜め息を吐き、腰を上げた。

 

 

「……もっと早くそう言っていれば、こんな事にはならなかったのに。あなたは罪人(つみびと)よアスナ。あの子をあそこまで傷付け、ここまでの事態を引き起こしたという罪を犯した。その罪を(あがな)おうという意志が、この罪を繰り返さないという意志が、あなたにはあるわね」

 

 

 アスナは深く頷いた。確認したイリスがゆっくりと《異形の巨狼龍》に振り返ったその時、《異形の巨狼龍》は悲鳴に近しい声をあげていた。身体にある白い部分は黒に侵喰されて小さくなっているのだ。そしてアスナと同じように、嗚咽のような声を出して必死に呼吸している。

 

 ユピテルのウイルスの侵喰は容赦なく進んでいた。

 

 

「今のユピテルの状態だけれども、ウイルスに侵喰されて死にかかっている。本来あの子達はワクチンプロテクターに守られていて、ウイルスに感染しても侵喰される前に除去できる。けれどユピテルは今、自身の意思に反した命令をこなそうとしているがために、膨大なエラーを生んでしまっている。その無尽蔵に湧いてくるエラーにワクチンプロテクターを使ってしまっているから、ウイルスの除去ができないのよ」

 

「……なら……」

 

「そう。あの子が成し遂げようとしている命令を中断させれば良いの。そうすればエラーは生まれなくなり、ワクチンプロテクターは本来の動きを取り戻し、ウイルスも除去されるわ。そうなればひとまず、あの子の死だけは回避される」

 

 

 イリスはもう一度アスナに向き直った。鋭さと暖かさと優しさの混ざった目付きで、訴えかけるように言う。

 

 

「アスナ、あなたは今わたしにごめんなさいって言ってたみたいだけど……その言葉はわたしに言うべきものじゃない。本当にごめんなさいって言わなきゃいけないのは誰なのか……そしてここからじゃ、そう言ったところで届きはしないのも、もうわかるでしょう」

 

 

 アスナは数回瞬きをしてから下を向き、やがて顔をあげつつ立ち上がった。伴ってシノンが立ち上がった頃、アスナは腕で顔をぬぐった。

 

 その手が離れた時には、今まで見た事ないくらいに、決意を固めたような表情が浮かんでいた。アインクラッド攻略時の攻略の鬼、閃光のアスナのものの時とは全く異なる、力強さと優しさが満ちたその顔に、シノンはごくりと息を呑んだ。

 

 

「アスナ……」

 

 

 シノンに呼ばれたのに答えるように、アスナは腰に下げていたレイピアを鞘ごと外し、シノンに差し出した。

 

 

「シノのん、ちょっと預かっててくれる。あの子のところにいくのに、武器は必要ないから……」

 

 

 その言葉にシノンは驚いてしまう。

 

 アスナは《異形の巨狼龍》の元へ向かおうとしているのではなく、その最深部にいると思われるユピテルのところへ向かおうとしているのだ。《異形の巨狼龍》は様々なデータを食らう存在であり、今もなお自身を直せるくらいの大きく、濃密なデータを求めている。

 

 そして自分達もこの場にアバターという名のデータとして存在しているから、あの《異形の巨狼龍》の捕食対象と言えるだろう。その《異形の巨狼龍》の最深部へ向かうという事の意味は、一つ。

 

 

「まさかあんた、あれに食べられにいくつもりなの!?」

 

《あいつの中はウイルスでいっぱいだ。取り込まれればお前もただでは済まされないぞ!?》

 

 

 頭の中に響くリランの《声》に、アスナは頷いて見せた。他の者達も同じようにと目に入ろうとするが、アスナは戸惑いも躊躇いもないように言い返した。

 

 

「もう、そうするしか手段はないもの。それにあの子は、わたしのせいであぁなってしまって、苦しんでるの。もうこれ以上、あの子を苦しませるような事はしたくないし、止められるなら止めたいの。あの子を助けられるのはわたしだけ。だからわたしは、あの子のところへ行くよ」

 

 

 アスナはもう、何を言われたところで立ち止まったり、踏み止まったりしない。異形の巨狼龍になってしまったユピテルを助けたい。愛する我が子を苦しみから解放してあげたい。その気持ちだけがアスナを突き動かしているのだ。

 

 心配だけれども、もうアスナを止める手段はないーー察したシノンはアスナからレイピアを受け取った。アスナは小さく「ありがとう」と礼を言って、一点を目指し歩き出す。その先にいたのは黒い重液で身体を構築する《異形の巨狼龍》ただ一つだけ。

 

 

 世界の理を超越した、あまりに巨大な存在に取り込まれるために向かっていくアスナの姿と様子は、荒ぶる神を鎮めるために捧げられた生け贄だった。この世界の民を守るために、そして我が子を救うために、アスナは狼龍の姿をとっている荒神へ向かっていくのだ。

 

 アスナは何も言わずに《異形の巨狼龍》となった我が子へ一歩一歩近付いていき、ある程度距離を詰めたところで立ち止まり、そのまま我が子を見上げた。

 

 目が存在していない、痛ましい我が子の姿をしっかりと目に映し、アスナは声をかけようとした。

 

 

「ユピテ――」

 

 

 次の瞬間、《異形の巨狼龍》の背中が爆ぜた。蠢く触手が千切れたのが見えたのと同時に轟音と爆風が吹いてきて、シノンは咄嗟に腕で目を覆った。

 

 金属がぶつかり合ったような音に近しい悲鳴を《異形の巨狼龍》が上げるなり、視線を戻す。

 

 《異形の巨狼龍》の頭上に《HPバー》が出現しており、残量が黄色になるまで減っていた。《異形の巨狼龍》自身の悲鳴と《HPバー》の減り方から、《異形の巨狼龍》自身が爆ぜてしまったわけではないとシノンは察した。

 

 近付いていたアスナも何が起きたのかわからないような顔をして《異形の巨狼龍》の事を見ていた。

 

 

「な、なに!?」

 

 

 このタイミングで何が起こった。そう思って、爆発した《異形の巨狼龍》の背中を認めてシノンは気付いた。《異形の巨狼龍》の背中に、赤い電撃のようなものが黒い煙と一緒に走っている。しかもただ赤いのではなく、赤黒い。

 

 

 以前もあんな電気を見た事がある。その時も確かここ、《アークタリアム城》の玉座の間だった。そしてその時にこの赤黒い電撃を放っていた存在は――。

 

 

 シノンのフラッシュバックに応じるように、再び《異形の巨狼龍》の背中で赤黒い電撃の爆発が起こった。《異形の巨狼龍》が悲鳴を上げて崩れ落ちたその時、夜空の方から爆発と同じ電撃を帯びたエネルギー弾が飛んできているのをシノンは見逃していなかった。シノンだけではなく、周りの者達もそうだ。誰もが夜空を見ている。

 

 この《SA:O》という名の仮想世界の夜空、月と無数で色とりどりの星々が煌めく中、明らかにそれらと比べて大きい赤い光。それは星ではなかった。

 

 

 月の光を浴びて独特な輝きを放っている、ところどころに金色の装飾のある、漆黒の鎧と毛並みに身を包む、狼のそれに酷似した鋭い輪郭と耳と一体化した角を生やす、背中から羽毛の翼を生やして羽ばたかせている、尻尾の先端の無い狼竜がその正体だった。

 

 更にその背後に目をやると、一つの人影が認められた。

 

 夜に闇に混ざりこんでいるせいでわかりにくいが、血のように赤い髪をオールバックにして、ノースリーブの黒い戦闘服に身を包んだ、凶悪な目つきをした男。

 

 

「じぇ、ジェネシス!!?」

 

 

 自身の愛するキリトと同じ《黒の竜剣士》の二つ名で周囲のプレイヤー達から呼ばれている男の名を、咄嗟にシノンは口にしていた。同刻、《異形の巨狼龍》を襲ったのがジェネシスとその相棒であるアヌビスであるというのを把握する。

 

 

「なんだよ、何かすげぇエフェクトが城から見えたから来てみれば……とんでもねぇ獲物が出て来てやがったとはな。こんなものがまだこの初期フィールドに残されてたとはなぁ」

 

 

 遠いけれども、ジェネシスの顔には明確な笑みが浮かんでいるのがわかった。とてもいい獲物を見つけて興奮している獣のような、凶悪な笑みだ。明らかに《異形の巨狼龍》となったユピテルを敵モンスターとして狙っている。察したキリトがシノンの隣に並び、腕で前を払う。

 

 

「ジェネシス、やめろ! こいつは敵モンスターじゃない! 攻撃するな!」

 

「あ? おいおいもっとマシな言い訳を考えろよ。獲物を横取りされたくないっていう意図が見え見えだぜ。ん、待てよ。てめぇらがそんな事を言ってるって事は、よっぽどこいつは美味い獲物らしいな」

 

 

 主が言うなり、《使い魔》であるアヌビスは再度咢を開き、赤黒い電撃弾をいくつも放った。夜空を切り裂いて直進する電撃弾は残らず《異形の巨狼龍》の背中に直撃し、大爆発。赤黒い電撃と黒い煙を吐き出しながら爆風を引き起こす。

 

 ただでさえウイルスに侵されて弱っている《異形の巨狼龍》は大きな悲鳴を上げて再度崩れ落ち、《HPバー》を赤にまで減らしていた。《異形の巨狼龍》はモンスターのデータを取り込む事は出来るけれども、戦闘能力や防御力などはユピテルとほぼ同程度しか持っていないのだ。このままアヌビスの攻撃されたらひとたまりもない。

 

 我が子の更なる惨状を見たアスナはアヌビス、その背にいるジェネシスに向き直り、叫ぶ。

 

「やめてッ!! この子に、この子に攻撃しないで!!」

 

「モブがいちいちうっせぇって事は、やっぱそうか……こいつは最高に美味い奴だぜ! 殺さねぇ理由がねえよ!!」

 

 

 興奮を隠す様子もなく、ジェネシスとアヌビスは吼えて《異形の巨狼龍》の周囲を飛び回り始める。ジェネシスの目には《異形の巨狼龍》が強力なレアボスモンスターか何かのように思えているのだろう。

 

 当然だ。本来ならば《異形の巨狼龍》はこの世界に出現する事の無い存在であり、ジェネシスは何も事情を知らないのだから。

 

 けれど、このまま《異形の巨狼龍》に攻撃させてしまってはユピテルがやられてしまう。そうなってしまったら元も子もない。

 

 その場の皆がジェネシスに攻撃停止を呼びかける中、頭の中に《声》は響いた。

 

 

《戦闘中毒者が!! キリト、我らで止めるぞ!!》

 

「そのつもりだったよ!!」

 

 

 キリトがリランの背に飛び乗り、そのまま跨る。皆の注目を集めるなり、キリトはその目をアスナへと向けた。

 

 

「ジェネシスは俺とリランで止める! アスナはユピテルを!!」

 

 

 アスナが応答を見せるよりも前にリランは勢いよく羽ばたいて空へ舞い上がった。そのままジェネシスの駆るアヌビスの許へと飛翔。邪魔をしに来たというのが一目でわかったのだろう、ジェネシスとアヌビスはキリトとリランに応戦、激しい空中戦を開始した。

 

 そのおかげで《異形の巨狼龍》への攻撃が止んだのを見図るなり、アスナはついに《異形の巨狼龍》に声を掛けた。

 

 

「ユピテルッ!!」

 

 

 ウイルスにやられて盲目になっている分、他の感覚器官が非常に発達している――あるいは母の声だけは忘れずにいた――のだろう、《異形の巨狼龍》はアスナの声に答えるように立ち上がり、真っ直ぐ身体をそちらへ向けた。

 

 目が見えなくても、どこに何があるのかはわかる。そう示しているかのように、《異形の巨狼龍》はアスナに狙いを定めて、上体をゆっくりと起こした。ぼたん、ぼたんと大きな音を立てて黒い重液が《異形の巨狼龍》の身体から垂れ落ちる中、アスナはゆっくりとこちらに振り返った。これから起きるであろう何事も恐れていないかのような、強い眼差しで、アスナは《異形の巨狼龍》のすぐ前に立っている。

 

 あまりの光景に皆が言葉を失う中、リズベットが悲鳴に近しい声色でその名を呼んだ。

 

 

「アスナッ……」

 

「……大丈夫だよ。この子も、わたしも……」

 

 

 次の瞬間、《異形の巨狼龍》は前足を地面に叩き付けるように倒れ、その大きな口でアスナの身体を飲み込んだ。

 

 

「アスナ――――――――――――ッ!!!」

 

 

 

 

 








 イリスがアスナをめっちゃ罵ってるけれど、これってアンチ・ヘイトにはならない、よね?

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