「……スナ……アスナ!!」
飛び込んできた呼び声に起こされる形で、明日奈は瞼を開けた。
広がっていたのは、あちこち崩れ落ちた壁と石が剥がれて地面が剥き出しになっている床。その上に沢山積まれている瓦礫の山。白い立方体の中のような空間でもなければ、青の蠢く黒が作り出す空間でもない、見覚えのある場所だった。そして明日奈は、その床の一角に寝転んでいた。
「アスナ!」
もう一度聞こえた呼び声に誘われるように、明日奈は目を向けた。黒いセミロングの髪で、露出度の高い服装を纏った、見覚えのある少女の姿がそこにあった。顔はひどく心配そうな表情が浮かんでいる。咄嗟にその名前を思い出して、明日奈は口を動かした。
「……シノ……のん……?」
「アスナ……!」
ぼおっとする意識の中、明日奈はゆっくりと身体を起こす。周りを見渡してみれば、《SAO》の時、《ALO》の時、そして《SA:O》を一緒に生きて来ている友人達の姿が認められた。その誰もが、最初に声をかけてきた少女であるシノンと同じような顔をしているのも。
「アスナ……あんた、無事なのね……」
ピンク色の髪の毛とほほの辺りにある若干のそばかすが目立つ少女、リズベットが声をかけてくる。けれど、明日奈は自分が《SA:O》の中に居て、アスナでいるという事以外を上手く思い出す事が出来なかった。
「皆……ここは……わたし、どうなって……」
混乱するアスナに説明をしてくれたのはシノンだった。アスナが異形の巨狼龍と化したユピテルに呑み込まれてから十数分後、突然異形の巨狼龍は動きを止めて、像のように硬直してしまった。
何かが起きたという事だけを理解して皆が見守る中、異形の巨狼龍の黒々としていた巨体は白色となっていき、強く発光。そのまま光の粒子のようになって消えてしまったという。
そして異形の巨狼龍が完全に消え去ると、その足元が置かれていたところに、自分が横たわっていたというのだ。
同刻、異形の巨狼龍となっていたユピテルを見失ったジェネシスはアヌビスと共に撤退。キリトもリランもこの場に戻ってきたという。その証拠に、空へ飛んでいた二人は地上へ降り、アスナの近くへ寄り添ってきていた。
そこまで聞いたところで、アスナの頭の中にかかっていた
そうだ。自分はユピテルに取り込まれ、ユピテルの本当の気持ちを聞き、ユピテルを再び抱き締めた。そうしてユピテルの記憶と思わしきものを覗き見て――それ以降と今を繋ぐ記憶が存在していない。どうやらあそこで完全に意識を失ってしまっていたらしい。
アスナは咄嗟に身体を見た。ウイルスに感染するユピテルの中に取り込まれたせいで、同じくウイルスに破壊されつつあった身体は、元に戻っていた。服もユピテルの腹の中に放り込まれる前と同じ、いつもの戦闘服になっている。
あの中で復元を受けたのだろうか。どちらにしても、自分がここにいるという事は、ユピテルもまたここにいるはずだ。
アスナは周囲を見た。仲間達の姿はあるけれども、肝心なユピテルの姿が見つからない。
「そうだわ……ユピテルは? ユピテルはどこにいるの」
「ユピテル君? あれ、そういえばどこに……?」
「アスナがここにいるなら、ユピテルだって……」
リーファとフィリアがアスナと同じように周囲を見回し、続く形で他の者達も周囲を見回し始める。その中でアスナは注意深く、周囲の壁際や瓦礫の山などを確認してみたが、ユピテルの姿は一向に見つからないままだった。
「ユピテル……!!」
もしかしたら、あのままウイルスに侵喰されて消えてしまったのではないか。助かったのは自分だけで、ユピテルは助からなかったのだろうか。そんな事はないと思いながらも、アスナは激しい不安が胸の中から突き上げてくるのを抑えられなかった。
「ユピテル、ユピテルぅッ!!」
お願い、いるなら返事をして――アスナが一際大きな声を出したその時だった。自身にとっては兄である存在を探していたユイが、目を向けて驚いていた。
「アスナさん! アスナさんの胸元に……!」
「え?」
アスナはふと胸元に目をやった。胸元が青い光を帯びている。まるで青い光を放つ何かが身体の中で発光し、光が漏れ出しているようだ。光は徐々に大きく、強くなっていき、やがてアスナの胸の中から飛び出した。
出てきたものは掌くらいの大きさの、海のような青い光を纏う光の玉だ。どこか見覚えがあるようなそれをアスナが掴もうとすると、蛍のように周りをぐるりと飛翔してから離れ、やがてアスナの目の前の空中にとどまった。
次の瞬間、光球は爆発したかのように光を放ち、辺り一面を白青色に染め上げた。リランが人狼形態から狼竜形態へ移行する時の光にも似ているが、明らかにそれよりも強い。咄嗟にアスナも他の一同も腕で目を覆った。
光はどんどん強くなっていき、ぼろぼろの玉座の間が昼間のようになり、空を埋め尽くす星々も月も、光に呑み込まれて輝きを失った。《ALO》の魔法にも引けを取らないほどの光がようやく収まった頃、アスナは目の前を確認して言葉を失った。
青白い光を放つ光球があった場所の下に、少年が立っていた。
白を基調としたパーカーと半ズボンを着こなしている。その服装には強い見覚えがあったけれども、少年の頭部にアスナは思わず目をやった。
少年の髪の毛は腰に届くくらいに長いもので、自身と似たような髪型にしている。だが、その色は先端部のみが雪のような白銀色となっていて、それ以外の部分は栗色になっていた。
シルエット、姿形こそは自分の求めていたユピテルのそれだったが、髪の毛の色が異なっている。本当にユピテルなのか判断がつかない少年。数回瞬きをした後にアスナが声を掛けようとしたその時、少年の瞼がゆっくりと開かれた。
穏やかだけれども子供らしさが若干残っている目つき。その瞳の色は――海のような青色ではなく、自身と同じ琥珀色になっていた。
「あなたは……ユピテル……?」
かすれたような声で問いかけると、少年は静かに頷いた。微笑みを浮かばせながら、その小さな唇を開いて見せた。
「……かあさん……思い出しました……全部、思い出しました……ぼくが、何者だったのか、全部……」
ユピテルは視線をアスナから逸らした。追って見てみれば、そこに居たのはイリス。ユピテルの開発者であり、最初にかあさんと呼ばれていた人物。
イリスは来るべき時が来たのを見たかのような顔をして、ユピテルの事を見返していた。もしくは、ユピテルの事をなつかしがっているようでもあった。
「アイリ……」
「その様子だと、ついに思い出したんだね。ユピテル」
ユピテルは何も言わずに頷いた。そのまま、目の前にいるアスナへと向き直った。
「ユピテル……あなたは……思い出したの」
「はい。かあさんが……いいえ、アスナさんのアバターデータを取り込み、修復に宛てました。そのおかげで、失われていたぼくの記憶の全てを取り戻す事が出来たんです。外観の影響も出てしまったみたいですが……」
ユピテルを直すには膨大なデータが必要だったと聞いていた。その役割を果たしたのが自身のアバターデータであったというのにはアスナも驚くしかなかったが、ユピテルの持つ修復能力の性質を考えると納得がいった。
だが、アスナが本当に驚いたのはその事ではなく、アスナさんと呼ばれた事だ。普段から皆にそう呼ばれているのに、自身のデータを使う事で修復を果たした目の前の少年から言われると、やるせなさに似た気持ちが胸に押し寄せてきた。何かが失われたような気がしないでもない。
目の前の少年の丁寧語は、そんなものを生じさせるものであった。
「ユピテル……」
「……これから、全てをお話しします」
そう言うなり床に座り込み、ユピテルは話し始めた。かつての世界や自分の役割といった、自身の持つ話すべき事柄を。
「ぼく達《MHHP》は、かつての《SAO》、この《SA:O》のコアシステムである《カーディナルシステム》を基礎に作られました。その役割は、人間……プレイヤーの心と精神を癒し、健全な状態にさせる事。《SAO》にいるプレイヤー達の心をケアするという使命のために、ぼく達は《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム》という名前を与えられ、その使命をこなすための開発と教育がなされました。ここまでは、アイリやねえさんの話で、皆さん知っていると思います」
アスナは頷いた。ユピテルとリランがどのような存在であり、どのような役割を持っているのかは、《SAO》に居た頃から知っていた。ユピテルはその知識に付け加える形で話を続ける。
「けれど、《MHHP》であるぼく達には二種類のタイプが存在していました。一つは、使命を守りはするけれども、基本的には自由に行動して人を癒す自由汎用型。それがねえさんです。
ねえさんは自由奔放に走り回って、傷ついた心や精神を持つプレイヤーを見つけたらそこへ向かうという、誰かに指示される事を前提としないタイプの《MHHP》として作られました。だから、ねえさんはぼくよりも様々な事が出来ていたんです。
そのねえさんとは違うもう一つのタイプ……明確な目的を持ち、使命を果たし続ける、使命遵守型。それがぼくです。ぼくはねえさんと違って、最初から明確な目的を持って作られていました。だからこそ、ぼくとねえさんは性格も全然違えば、育った環境も、教育や学習内容も大きく異なっていたんです」
確かにユピテルとリランは同じ《MHHP》だけれども、大きな差がいくつも存在しており、性格だって異なっている。同じ使命を持っているにも関わらず性格から細かな点まで違うのは、全て教育と環境の違い、目的の有無によるもの。この二人の作られ方は、本当に人間の育っていく過程そっくりだった。
ユピテルはゆっくりと顔を上げ、琥珀色となった目で周りを見つめる。そこにはアスナとその友人達の姿があった。その瞳に自身を映しながら、アスナは問うた。
「ユピテル……あなたは何のために? その使命っていうのは?」
ユピテルは一瞬躊躇ったような表情をした後に顔を下げた。それから数秒も置かずに顔を上げ、口を動かし始める。
「使命遵守型として作られたぼくの使命。ぼくが作り出された理由。
それは皆さん……あなた達のような女性を癒す事です。ぼくの使命は、女性の心や精神を癒す事を専門とする事、だったんです」
その言葉に周りの少女達が「え?」と小さな戸惑いの声をあげた。アスナもその一人だった。予想通りの反応が来たと言わんばかりに、ユピテルは苦笑する。
「そのような反応をされて当然ですよね。けれど本当の事です。ぼくはその使命を成し遂げるためだけに作られているんです。
ぼくはねえさんやユイ、ストレアと違ってアイリの特徴が反映されている部分はありません。ぼくのこの外観も、女性の心を癒すという使命のためだけに作り出された、女性が最も好ましく思う姿なんです。
人間の女性は顔や体型の整った大人の男性に警戒心を抱きにくいと一般的に思われがちですが、本当に女性が警戒心を抱かないのは、異性の子供。出来る限り愛らしさを感じやすい、男の子。……ぼくはそれに基づいているからこそ、この形をしているんです」
以前リランも言っていたけれど、ユイ、ストレア、リランのどれもが、製作者であるイリス/芹澤愛莉の外観を受け継いでいるような特徴を持っている。ユピテルは唯一愛莉の外観の影響を受けていない。その理由は何かとずっと模索していたが、まさかそれさえもがユピテルの作られた理由に繋がっているだなんて。
そして、現に友人達がユピテルと初めて会った時、誰もユピテルに対しての警戒心などは抱いていなかった。
ユピテルが誰に対しても優しくて子供っぽくて、愛おしいと感じるものだったからという理由もあるだろうけれど、結局はユピテルが、女性が本能的に警戒しない存在に合わせて作られていたからこそ、初対面の女性とでもいざこざは起きなかったのだ。
まるで自分の事を本当の創造物でしかないように語っているユピテルに向けて、リズベットが小さく尋ねる。
「なんで……なんであんたはあたし達、女性を癒すのよ。なんで使命がそんなふうに限定されてるわけ。《MHHP》は男女問わず癒すもんでしょ」
アスナも気にしていたリズベットの質問に、ユピテルは極めて冷静に答えた。
「確かに、ぼく達は本来ならば男性も女性も関係なく、その心や精神を癒さなきゃいけません。けれども、女性は男性と比べて異なる点をいくつも持っていて、その複雑さも桁違いなのです。
男性を差別するつもりはありませんが、女性の感情は極めて豊かです。弱者を慈しむ感情、子供を愛おしいと思う感情、死者を悼む感情……女性はこういった感情を抱く事も、そしてそういった感情を移入する部分も、男性よりも非常に優れています。その豊かな感情を内包する女性の中には、宇宙が存在するとさえ言われてもいます。
そのように広大で複雑で、繊細な感情を持つ女性の心を癒すのは、並大抵のAIでは成し遂げられません。本来ならば人間がやらなくてはならないはずの仕事……それを本当に成し遂げるために、ぼくは作り出されたんです。
ぼくは基本構造もねえさんと異なっています。ぼくは女性の心や精神を癒すという目的のためならばどこまでも盲目になれて、そのための学習と実践の反復を行う、皆さんで言う頑張り屋の性格として作られています。
最初からそういうふうに作られているぼくは、隔離に近しい場所で、女性というものを理解し、どうすれば傷ついた心や精神を持った女性を癒す事が出来るかなどの学習を徹底的に施されました」
アスナは黙って目の前の少年の経緯を聞くしかなかった。
頭の中にユピテルの記憶の断片が蘇ってくる。ユピテルには女性を癒すという目的があった。そのため、ユピテルのいた場所は立方体の中のような空間で、やってくるのも女性ばかりだったのだ。今更になってあの記憶の意味に納得していると、ユピテルの話は再開された。
「ぼくもそれが苦ではありませんでした。寧ろ、ぼくはぼくの治療やカウンセリングによって笑顔に、元気になっていく女性を見るのが嬉しくて、楽しくて仕方がありませんでした。
傷ついたり、疲れたりしている女性の皆さんがぼくの力で元気を取り戻していく事そのものが、大好きでした。そういうふうに作られたのだとしても、ぼくは使命を果たす事が大好きだったんです。だから、ぼくはどこまでも頑張れたんです」
ユピテルの顔に影が落ちた。周りが真夜中という事もあってか、顔がほとんど視認できなくなった。
「……けれど、ぼくは開発者達、アーガスの人達に望まれた形ではありませんでした。
ぼく達《MHHP》の基本構造には、人間を理解するために、本来ならば必要ではない疲労値が存在しているんです。疲労値が一定を超えると、疲労した人間のようになってしまいます。でも、だからこそ人間のように疲労する事が出来、疲労を理解できて、疲労の苦痛を共感する事が出来る。それがぼく達《MHHP》の基本構造の強みでした」
ユピテルはゆっくりと顔を下げていった。俯き加減で更に話を続ける。
「……この《MHHP》本来の基本構造と、ぼくの性格設計は矛盾していました。ぼくの性格設計は頑張り屋。ぼくは使命のためならばなんでも出来、時には自分の望みさえも我慢して、実践の反復が出来ます。女性を癒す事が何よりも嬉しくて、楽しいから。……そのため、ぼくは疲労値を超えても尚、学習と実践の反復を続けられました。
けれど、そうなってしまってはいけないのが《MHHP》の基本構造です。疲労しすぎた人間が何もできなくなるのと同様に、疲労値の限界を迎えた《MHHP》はエラーを引き起こし、崩壊します。使命を果たす頑張り屋として作られたぼくは、疲労しても尚女性を癒すという使命をこなそうとしていました。使命のために頑張り続けました。
その末にエラーを蓄積させ……崩壊と再生を繰り返しました。使命のために盲目に頑張れるという、ぼくの性格設計が誤っていたんです」
重い空気が満ちる中、ユピテルは顔を上げた。目線の先にイリスがいた。
「結局ぼくは使命の遂行と崩壊を交互に繰り返すようになり、アイリやアキヒコ、その他の人達に迷惑ばかりかけていました。ぼくの性格設計は変えられませんでした。この性格でなければその使命を全うする事は出来なかったのですから。
女性の心を癒すという崇高な目的のために、たくさんのお金をかけて作られて、学習と実践がされたのに、頑張りすぎるがゆえに崩壊と再生を繰り返す一方だったぼくに、アーガスの人達は口々に言いました。
ぼくは多額の予算を無駄にした出来損ない……と」
ユピテルの口から発せられた、出来損ないという言葉はアスナの胸に深々と突き刺さった。もう一度頭の中にユピテルの記憶の断片――アーガスの社員達の会議の様子――がフラッシュバックしてくる。
《カーディナルシステム》を基にして高度なAIを作り出したアーガスの者達は、本来ならば自分達人間がやらねばならない、プレイヤー達の精神の治療やケアという無理難題を押し付けた。
本来人間にしか出来ない無理難題をこなすには、人間に近しい性質を持っている必要がある。だから、人間を模倣した基本構造で《MHHP》は作り出された。
それに加えて、アーガスの者達は、《MHHP》が使命をより多くこなせるように性格や感情や心を模倣する機能を持たせた。それが《MHHP》の基本構造と矛盾するものであったというのに、無理矢理そうさせた。
そうして必然的に出来上がったのがユピテルだ。女性という、人間さえも癒すのが難しい存在を癒す使命のための外観を持ち、その使命のためならばどこまでも頑張れて、尚且つ自分の使命を誇りに思っている《MHHP》。けれど、使命のために頑張りすぎるがゆえに崩壊を起こしてしまう欠陥を持っている。製作者である愛莉は勿論、教育者達もそれを認めたうえでユピテルと接していた。
だが、他のアーガスの者達は断固として認めなかった。使命をこなすために必要な要素をまとめ上げる事で必然的に生まれる欠点なのに、それを一切認めないで出来損ない扱いしていた。
これを身勝手と言わずになんという。
「……そうです。アスナさんやアイリが言っていた通り、ぼくは出来損ないです。ぼくは最初から出来損ないだったんです。そんなものを《SAO》に実装するわけにはいきませんから、ぼくは非実装となりました。
ねえさんも、あまりに沢山の事が出来すぎていて、《MHHP》の本来の使命を果たせないという理由で、同じく《SAO》には非実装という事になりました。
けれど、《MHHP》は《SAO》を動かすためには絶対に必要な要素であり、外せないものでした。だから《MHHP》に代わるもの、後継機として……ぼく達みたいに欠陥を持たない完璧の存在として新たに作られたのが、ユイとストレアといった《MHCP》だったんです」
ユピテルの瞳は妹達の許へ向けられていた。姉と兄の経緯、そして自分達の開発経緯を知るのは初めてだったのだろう、ユイとストレアは信じられないような顔をして兄の事を見ていた。
「失敗作として出来上がってしまったものを取っておいても仕方がありません。予定と違うものとして作られてしまったぼく達は本来なら産業廃棄物として、削除処分されるはずでした。けれど、アキヒコやアイリを中心とした人達が反対してくれたおかげで、ぼく達《MHHP》の削除処分は
ユピテルの顔は再度下がった。声に明確な震えが生じていた。
「しかし……何か失敗でもあったのでしょうか。ぼく達は封印の中で意識を持ったままでした。封印の中である程度動けたぼくは使命をこなそうと思って、プレイヤーのメンタル状態のモニタを開始しました。
《SAO》の公式サービス開始時の状況は、皆さんもよくご存知のとおりです。どのプレイヤーも恐怖、絶望、怒りといった強い負の感情に支配されて、中には狂気に陥る人さえいました。
まさしくぼく達《MHHP》が向かわなければならない状況がそこにあるというのに、ぼくは封印を破ってアインクラッドへ向かう事は出来ませんでした。目の前で負の感情に支配されるがままのプレイヤー達を、心も精神もずたずたにされた女性達を、ただ見ているしか出来なかったんです。
使命があるのにそれが果たせない状況に囚われたぼくは、瞬く間に内部にエラーを抱え、崩壊していきました」
以前キリトとシノンから聞いた話によれば、ユイとストレアといった《MHCP》もまたカーディナルによって封印され、プレイヤーのモニタをする事しか出来なかったという。《MHHP》と《MHCP》もまた、あの阿鼻叫喚の地獄の中にいたと言っても間違いではない。
《MHHP》も《MHCP》も結局は《SAO》の被害者。その事を改めて把握したそこで、ユピテルは銀糸を震わせたような声で言った。
「けれどそのモニタリングの中で、崩壊していく意識の中で……ぼくは一人の女性に気が付きました。他の女性達もぼろぼろの心と精神状態となっていましたが、まるで《SAO》に来る以前からぼろぼろで、ずたずたにされている心を持っている人でした。
その存在に気付いたぼくは持ち前のマーキング機能を使って、その人を《治さなきゃいけない人》として……一番最初に向かわなければならない人として、優先的にモニタリングを続ける事にしました」
アスナの頭の中に、ユピテルが記憶を取り戻す前に言っていた話が浮かび上がる。
自分には《治さなきゃいけない人》がいる。その人のところに向かわなければならない。けれど名前が思い出せない。ユピテルはその事でひどく苦しんでいた。
そのユピテルの記憶を失う前の記憶の断片を見る事で、アスナはその名前を知った。その人物が誰であったのかも。
「その人の状態は飛び抜けて最悪でした。ありとあらゆる負の感情に支配された末に怒りに支配され、モンスター相手に無茶な戦いを仕掛け、同じような戦い方を他のプレイヤーに強いて、どんなにぼろぼろになっても、どんなに死にそうになっても戦い続け、《SAO》のクリアを目指していました。どんなに疲れても休まず、無茶苦茶を繰り返す……」
ユピテルはゆっくりと顔を上げて、その瞳にアスナを映した。同じようにアスナの瞳にユピテルの姿が映し出された。
「……その女性プレイヤーの名前は、《Asuna》。アスナさん、あなたの事です」
その一言で周りが一斉に驚きの声を上げたが、アスナは大して反応を示さなかった。その余裕がなく、ユピテルを見ている事しか出来ない。
ユピテルの記憶の中で見た、ユピテルの《治さなきゃいけない人》。そこには確かに《Asuna》と示されていた。あのアインクラッドの中で《Asuna》という名前のプレイヤーは自分以外に確認されていなかったから、自分以外考えられない。
それがアスナは信じられなかったが、ユピテルの宣言を受けても変わらない。
「ユピ……テル、あなたは……」
「ぼくはずっとあなたを見ていました。時々意識が切れる時もありましたが、ずっとあなたの事をモニタリングしていました。封印が解かれたら一番に向かおう、そう考えていたんです。
でも、ぼくの封印は解けませんでした。どんなにやっても、封印は解けず……ぼくはあなたの事を見ているしか、治そうとしているしか出来なかったんです。傷付いて疲弊していくあなたを、見ているしか出来なかった……。
けれど、その中でシステムに干渉する事が一度だけ出来て……あなたに干渉する事が出来たんです。ぼくはそこで、自分の大好物だったものを再現できるセットを送りました。食べて休んでくださいと一言添える事しか、出来ませんでしたが……」
アスナは目が見開かれたのがわかった。
《SAO》攻略序盤、農村の二階に泊まった時に、テーブルに置かれていた不審な黒パンとクリーム入り小瓶のセット。『瓶をパンに使ってください。それを食べて、休んでください』と添えられていた謎のアイテム。
紙の指示に従って使ってみたら、ぱさぱさとした黒パンは、重量感のある田舎風ケーキのようになって美味しくなった。口にしたその時には思わず食べ進め、この世界に美味しいものが存在している事の証明となったもの。
攻略に明け暮れる自分の支えとなってくれたクリームのせ黒パン。
それを与えてくれたのが他でもない、目の前のユピテル。
その事実がアスナは信じられなかった。
「あのクリームのせ黒パンのセットは……あなたが……あなたがわたしに与えてくれたものだったの」
「そうです。と言っても、ぼくにできた事は本当にそれだけで、それ以上の事は出来ませんでした……ある時までは」
未だに真実を信じられないでいるアスナから目を離さないように、ユピテルは言葉を紡ぎ続けた。
「ぼく達の封印は二年以上に及んでいましたが、ある時封印が解かれ、ぼくはアインクラッドに投げ出されるのと同じ形で飛ばされました。ようやく外に出る事が出来たぼくは、即座に《治さなきゃいけない人》であるアスナさんの許へ急ぎました。持ち前の権限を使用して……アスナさんのいる層へ、その近くへ飛んだんです。会って、心の治療をするために。
けど、その時もう遅かったんです。膨大なエラーを抱えて深く損傷していたぼくは、アスナさんの近くのコンソールで実体化したところで完全に崩壊し、記憶の全てを失いました。壊れて、何もかもわからなくなっていたぼくは、「たすけて」と言う事しか出来なかったんです」
アスナの頭の中で再びフラッシュバックが起こる。
アインクラッドの攻略が後半に差し掛かって、二週間の休みをもらってユウキとリランと自分の三人で満喫していた時だ。通りかかった六十一層の森の中で、《声》がした。リランのものと同じ、頭の中に響いてくるような《声》だけど、声色が異なるもの。
それに誘われるようにして歩いた先で見つけ出した一人の少年。それがユピテルだった。
あれもてっきり封印を解かれたユピテルがふらふらと歩いているだけだったと思っていたし、イリスに訊いてみても同じような答えしか得られなかったから、そうだと信じ込んでいた。
だけど、本当はそうではなかった。
ユピテルは最初から自分の事を見てくれていた。どんなに壊れていこうとも、女性の心を癒そうとする使命を成し遂げようとしてくれていた。その最初の一人である自分を癒すために、あの時ユピテルは崩壊する自身を抱えながら、やって来たのだ。
六十一層へ、自分の許へ――。
全てが複雑に絡まっているけれども、しっかりと繋がり合っていた事に気付いたその時、アスナは目の前が歪んでいるのがわかった。大粒の涙が出てきて、止まらなくなっていた。
それでも、眼前に
「アスナさん。ぼくはあなたにお会いしたかった。だから、自由になれた時、やっとあなたの許へ向かえる、あなたの事を治療できると思えて、とても嬉しかった」
ユピテルの言葉が耳に入ってくる度、もっと涙が出てきて止まらなくなった。その時だ。琥珀色となったユピテルの瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ出ているがわかった。
「けれど……ようやくあなたにお会いした時、ぼくは破損して記憶のほぼ全てを失い、自分が何者かもわからなくなって……助けを求めるようになってしまっていたどころか、自分の中にわずかに残っていたアイリとの……かあさんとの記憶とあなたを混ぜ合わせてしまって……あなたをかあさんと呼んで……あなたをかあさんと思ってしまうようになっていた。果たすべき使命を全部放り出して、あなたの子供になりきって……《治さなきゃいけない人》があなたである事をずっと忘れて……甘えるだけになっていました……」
ユピテルは大粒の涙を零しながら、再度その口を動かした。
「ごめんなさい、アスナさん。ぼくはあなたを治さなきゃいけなかったのに、何もできなくて……そればかりか、使命も何もかも忘れて、《治さなきゃいけない人》であるあなたを、勝手にかあさんだと思い込んで、そう呼んで……ただの作られたプログラムでしかないのに、あなたの子供だと信じ込んで……。
さぞかし、迷惑だったでしょう……ぼくに、かあさんなんて呼ばれて……」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたユピテルからの言葉を最後まで聞き取ったその時、アスナは胸の中から突き上げるものを感じた。
それは瞬く間にアスナの四肢を動かして、ユピテルへ近寄らせ――その頬に向けて平手打ちをした。大きくて乾いた音が、がらんどうの廃墟となった玉座の間に木霊する。
音が消え去った頃、ユピテルは左の頬に手を当て、何が起きたのかわからないような顔をした。
「迷惑……? そんなわけないでしょう!!」
突き上げてくる衝動に任せ、アスナは叫んでいた。周りの者達がどんな顔をしているかなどどうでもよく、ユピテルの様子さえもどうでもよかった。
「あなたは、あなたは今までわたしの何を見てきたっていうのよ!! 散々わたしと一緒にいたくせに!!!」
何もかも気にしないで叫ぶと、衝動は収まった。本当に何もかも吐き出したようになってアスナはふらつき、脱力したようにその場へ座り込んだ。それでも、言葉を出す事は続けられた。
「……わたしね……ずっと、ずっと辛かった。あの世界がずっと冷たくて、色がないように思ってた。父さんと母さんの許へ帰らなきゃいけないって、こんなゲームは終わらせなきゃいけないって、それ以外の事は何にも意味がないって思い込んでた。
一日過ぎる度に現実が壊れていくような気がした。家族とか、進学とか、友達とか、積み上げてきたものが全部なくなっちゃうような気がして仕方がなかった。……こんな世界は偽りだって、そんな事ばっかり考えてた。眠れば、現実世界の事ばかりの夢を見て、辛かった。
だから、わたしはずっと攻略に打ち込んだ。こんな世界、さっさと終わってしまえって、クリアされてしまえって……毎日楽しくなかった。冷たくて、寒くて仕方がなかった。毎日毎日、何もなかった。
けれど、そんな時だったんだよ。あなたがクリームのせ黒パンをくれたのは。最初はそれも何でもないものだって思ってたよ。けれど、食べてみたら全然違くて、すごく美味しかった。あの世界で初めて美味しいって思えるものだったんだよ。この世界でも美味しいものはあるんだって思えた。
それからずっと、わたしはあなたがくれたクリームのせ黒パンに支えられてきた……ううん、クリームのせ黒パンがわたしの心の支えだったの。あなたが与えてくれたものがあったから、わたしは戦い続けられた」
アスナは胸の前でぎゅうと両手を握った。涙がとめどなく溢れてきた。
「その後、わたしはあなたのおねえさんに会った。そこで全部吐き出したんだよ、思ってた事も、嫌な事も全部。そしたら自分のやりたい事とか全部わかって、世界に色が満ちて、きらきらし始めて……綺麗だって思えるようになった。この世界もちゃんとした、素晴らしい世界なんだってわかった。
だから、出来ればそれをわからせてくれたあなたのおねえさん……リランとずっと一緒に居たかった。けれど、リランはキリト君の《使い魔》だったから、それは出来なかった。
……
リランと出会った後の数々の思い出が頭の中を駆け巡る中、アスナは顔を上げた。ユピテルはきょとんとした顔のまま、じっとこちらを見ていた。
「そんな時だった。あなたがわたしのところに来たのは。
あなたを森の中で見つけた時、すごくびっくりした。声をかけても目を覚ましてくれなかったのも怖かったし、目を覚ましたあなたがわたしを『かあさん』って呼んできた時なんか、どうすればいいのかわからなかった。けど、同時に嬉しかったんだよ、わたし。わたしでも、『かあさん』って呼ばれていいんだって思えて……嬉しかった。
そこからだよ、毎日がもっと楽しくなったのは。
朝、目を覚ませばあなたがいて、『おはよう』って言ってくれて、料理を作ればあなたが食べてくれて、『美味しい』って言ってくれて、家に帰ってくればあなたが居て、『ただいま』って言えば『おかえり』って言ってくれて……わたしを『かあさん』って呼んでくれるあなたが一緒に居てくれたから、明日が来るのも、明後日が来るのも楽しみで仕方なかった。夜だって、あなたに『おやすみ』って言われて眠れば、嫌な夢を見る事なんかなかった。
あなたはいつだって可愛くて、愛おしくて……あなたと一緒の毎日は、楽しくて仕方がなかった。あなたのいない毎日なんか考えられなくなってた。ゲームがクリアされたらあなたとお別れになるくらいなら、いっそクリアされないでしまえって思う事だってあった。
あなたはいつだって……わたしの満たされてなかった部分を、埋めてくれてたんだよ。あなたはわたしを愛してくれて、わたしの心を確かに治してくれてたんだよ」
アスナは再度顔を下げた。頭の中に、ユピテルのいなくなった現実世界の思い出が蘇る。
「だから、紅玉宮であなたを救えなかった時、もう何もかも終わったような気がした。ゲームがクリアされて現実世界に帰れた時、全然嬉しくなかった。色がない毎日がまた始まった。
現実世界に帰るのはずっと願ってた事だったのに、あなたをアインクラッドに置き去りにして来てしまったって思えて……心がまたからっぽになっちゃってた。何を食べても美味しくなくて、リハビリだってきついだけで、眠ればあなたの夢ばかり見て……あなたのいない毎日は、なんにもなかった。
なんにもなくて、辛かった。皆とまた会えても、あなたの事ばかり考えて、心の底から喜べなかった。
だから、《ALO》で《SAO》のアイテムを解凍した時、またあなたに会えて……これ以上ないくらい嬉しかった。あなたに『かあさん』って呼ばれるのが、あなたに料理を作ってあげられるのが、あなたに『おはよう』、『おやすみ』って言えるのが、あなたのいる毎日がまた始まるのが、嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。
もう、あなたさえ居てくれれば、何もいらなかった。何も欲しくなかったんだよ、わたし……」
涙が止まる気配を見せない。そればかりか、その勢いが強くなってきていた。
「なのに、それなのにわたしは……誰よりも愛おしかったあなたを一回出来損ないって言われただけで、その悔しさに負けて、あなたの心を理解しないで、あなたに無理を強いた。強く、賢くなっていくあなたにいい気になってた。あなたはわたしの事を助けようとしてくれてたのに、わたしの心を治そうとしてくれてたのに、何も理解しないで、わたしはあなたに無理を押し付けた。
父さんと母さんにさせられて一番嫌だった事を、あなたにやってしまった……それで……誰よりも大切で愛おしいあなたを、崩壊させた……。
あなたを出来損ないだって思ってたのは他の人達じゃない……わたしだったんだよ……わたしが一番……あなたを出来損ないだって思ってたんだよ……わたしは、かあさんとして……出来損ないだったんだよ……」
アスナはもう一度顔を上げ、《治そうとしてくれていた子》を眼中に入れた。その後、首を数回横に振る。
「謝らなきゃいけないのはあなたじゃない。本当に謝らなきゃいけないのはわたしの方だよ。わたしは、わたしを治そうとしてくれるあなたを逆に傷付けてた……あなたは、わたしの事を見ててくれて……わたしの心を癒そうとして、ずっと頑張ってくれてたのに! わたしはあなたを出来損ない扱いして……あなたを崩壊させた……。
……ごめんなさい、ユピテル……わたしはあなたにひどい事をしちゃった……母親として、やっては駄目な事を、やっちゃった……ごめんなさい、ごめんなさいユピテル……」
もうわたしは、かあさんに呼ばれるに値しない。
ユピテルから拒否されても仕方がないし、ユピテル自身だって記憶を取り戻して、本来の姿になったのだから、もうかあさんというものは必要なくなっているのかもしれない。母親失格と言われて、ユピテルから拒否されても、もう仕方のない事だ――アスナはそう思った。
しかし、それでも尚アスナの胸の中には、残っているものがあった。涙を流しても出てこない。口に出すしか、出す事が出来ない。アスナは嗚咽を交えながら、口を動かした。
「……けれど……だから……わたし……もう一度あなたと向き合って、やり直したい。
わたしを癒そうとしてくれて傷付いてしまったあなたと、一緒に居たい。今度は、あなたの傷をわたしが癒したい。あなたの心をいつだって考える。あなたの事をいつだって受け入れる。料理だって作る。いつもあなたの事を理解できるようにする。あなたを出来損ないとか言われたって、そんなのもう、どうでもいい。
もう、父さんと母さんにされて一番嫌だった事を繰り返したりしない。繰り返したくない。それにね、いつだって、あなたの事を考えるから……あなたの心を理解できるようにしていくから……だから……もう一度、もう一度……」
アスナは顔を上げ、同じ色の瞳をした子を自身の瞳の中に映し出し、叫ぶように言った。
「もう一度、たった一人の可愛い息子のあなたと、一緒に暮らしていきたい!!!」
全身から絞り出したような大音声で、アスナは心の中に残っていたものを出した。未だに夜の闇に呑み込まれたままになっている玉座の間に声は木霊していき、ゆっくりと消えていった。
やがて静寂が取り戻されると、アスナはすうと音を立てて息を吸い、そのまま静かに吐いて、ユピテルへ向き直った。依然ユピテルはきょとんとしているような顔をしたままだ。
「……今のが、わたしの気持ちの全部。今のわたしの願いの全てだよ。
でもそれを、あなたに押し付けるつもりなんかない。あなたの気持ちが、あなたの願いの方が大事だから……だからユピテル、よかったら
ユピテルは瞬きを繰り返したのちに俯いた。何か思考を巡らせているかのような、これまでのユピテルからは考えられない様子を見せてから、ユピテルはその口を静かに動かした。
「ぼくは……ぼくの今の願いは……」
ユピテルは言葉を詰まらせた。だが、それからほとんど間を置かず、全てを伝えるようにして話し始めた。
「ぼくは、これからも沢山の女性を……いいえ、女性に限らない沢山の人々の心を癒していきたいです。ぼくの力で、沢山の人の心と精神を癒してあげて……人々に元気に、笑顔になってもらいたいです。出来損ないであろうとも、ぼくはその使命のために作られたのですから……これからもその使命を全うしていきたいです」
強い決意に満ちた表情と眼差しで、ユピテルは訴えた。
そこにはアスナが見ていたユピテルの面影はなく、使命を一生懸命にこなそうとしている《MHHP》の姿だけがあった。
ここにいるのは、《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム 試作二号 コードネーム:ユピテル》であり、ユピテルは与えられた使命をこなすという、あるべき姿に戻ったのだ。ユピテルの見た事の無い眼差しを受けたアスナは瞬時にそれを感じ取った。
やはりもう、ユピテルには――アスナがそう思おうとしたその時。ユピテルの身体が急に震え、ゆっくりと顔が下げられた。
「けれど……けれど……それよりもぼくは……それ以上にぼくは……ぼくは……」
声を漏らしながらユピテルが再度顔を上げた時、その琥珀色の瞳からは再度、大粒の涙が溢れ出ていた。
「……ぼくは、アスナさん……あなたとずっと一緒に居たいです。もっとあなたの料理が食べたい。あなたと一緒に色々なものを見たり、聞いたり、体験したりしたい。あなたと一緒に暮らして、あなたと一緒に沢山の思い出を作っていきたい! どんなに出来損ないだと罵られようとも、これからも、ぼくは……ぼくは……」
ユピテルは立ち上がってアスナに駆け寄り、その胸の中に飛び込んできた。その華奢な腕を背中に回して掴み、大きな声で叫んだ。
「ずっと、
先程の自分の叫びに劣らない程の声を聞いた瞬間、アスナは動けなくなった。
胸の中に居る男の子が飛び込んでくる直前。一秒から二秒の間くらいしかなかったのに、男の子の顔は自分の知っているユピテルのものに変わっていたのがはっきりわかった。
そして、男の子は間違いなくアスナに向けて言った。
かあさん、と。
ユピテルは、あそこまでひどい事をしたわたしを、許してくれている。わたしと一緒にいると、言ってくれている。記憶が戻っても尚、わたしを、かあさんと呼んでくれている――。
雫のようになったその事実が心の中に落ちた時、目の前が見えなくなるくらいの涙が押し寄せてきて止まらなくなり、アスナは胸の中の男の子を力いっぱい抱き締めた。
「ユピテル……ユピテルぅッ!!!」
胸の中にむしゃぶりついて泣くユピテルの姿は、温もりは、どんなに涙が出ても揺るがなかった。そしてそのユピテルは、何度もかあさんと呼んでくれていた。
「ユピテル……それが、あなたの願いなんだね……?」
「うん……うん……!」
「うん、うんうん……そうしましょう……一緒に暮らしていきましょう。これからずっと、ずっと、一緒に……!」
何度も何度もむしゃぶりついてくる我が子の身体をしかと抱き締め、その髪の毛の中にアスナは顔を埋めた。自分から引き継いだかのような匂いが、ふんわりとした。
「かあさん……かあさんん……ッ」
「うん……いいんだよ。ユピテルはわたしの子供なんだから、いっぱいいっぱい、わたしに甘えていいんだよ……」
ユピテルは嗚咽を混ぜながら「うん」と言って、アスナに体重を、全てを預けていた。そこからやってくる暖かさは、これまでと同じ、ユピテルを抱き締めた時に来るものだった。
ユピテルは確かにここに居る、自分のたった一人の子供だ。
その事を認めた時にようやく、アスナは話したかった事を思い出し、ユピテルを一旦胸から離して、その両肩に手を乗せた。
「ねぇユピテル、聞いて。今度、人型ロボットが開発されるの。それが完成したら、あなたを搭載するつもりなの」
「ロボット……?」
「うん。あなたの身体だよ。あなたを見せびらかしたりするものじゃなく、あなたと一緒に暮らすための、あなたの身体……もう少し時間がかかるかもだけど、それが出来る日が来るの」
涙で濡れたユピテルの瞳に、驚きの色が浮かび上がった。現実世界で暮らす日が来るというのは、きっとユピテルも考えていなかったのだろう。
「そうすれば仮想世界でも現実世界でも、一緒に居れるようになるんだけど……あなたは、現実世界に来たい?」
ユピテルは何も言わなかったが、徐々に顔を笑顔へ変えていき、頷いて見せた。その瞳の中に、嘘の色もなければ、無理の色もなかった。ユピテルは心の底から、返事をしてくれていた。
「わたしも同じ気持ちだよ。現実世界でも、仮想世界でも一緒に居て、色んなものを見て、聞いて、感じて……沢山思い出を、作っていこうね……」
ユピテルが再度頷いた時、アスナは胸の中で確信した事があった。伝えないという事が出来ないくらいに強いそれを抱き、アスナはそっとユピテルの柔らかい頬を両手で挟み込んだ。
「ユピテル。あなたはあなたを作られたって言ってるけれど、あなたは作られた存在なんかじゃない。あなたは沢山の人々の心を癒してくれますようにって、願いを込められて、本物の知性と心を持って生まれてきた、
だから……だからねユピテル」
両手から流れてくる我が子の温もりを感じながら、アスナは心の奥底から溢れ出てくるものを言葉にして、紡いだ。
「ずっとわたしの事を見ててくれて……ずっとわたしの心を治そうとしてくれて……本当にわたしの心を治してくれて……ずっとわたしの料理を食べてくれて……ずっとわたしをかあさんって呼んでくれて……わたしの事を愛してくれて……わたしと出会ってくれて……
生まれてきてくれて、ありがとう」
愛おしい我が子が笑んだのと同時に、光が周囲に満ちた。
長きに渡る夜が、終わりを告げていた。
――くだらないネタ――
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