キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 生命達の親であること、その意味。




18:その子達が生まれた理由

         □□□

 

 

 

 

 ユピテルの修復がなされた翌日の夜、《はじまりの街》の宿屋の一室。いつもキリトが使っている部屋の中に、キリト、シノン、リラン、ユイ、ストレア、プレミアといったイリスの作った娘達と、それと家族関係を結んでいる者達が全て揃っていた。

 

 

「やれやれ、また非常時かと思ってきてみれば、そうじゃなかったなんて」

 

 

 その場にいる全員を見渡しながら、椅子に腰を掛けているイリスは少し呆れたような溜息を吐いていた。吐かせる原因を作ったのはほぼキリトだった。

 

 ユピテルの一件が終わった後の日中、キリト達はいつもどおり学校へ、イリスは仕事に戻っていったのだが、その夜になるなり《SA:O》へ揃った。

 

 理由はアーガスの元スタッフの一人であり、《MHHP》と《MHCP》を作った張本人であるイリスと話がしたかったからだ。

 

 ユピテルが復活を遂げた時、いくつもイリスから聞いていなかった話が飛び出してきて、中にはユイやストレアの開発のきっかけに関する話もあった。

 

 自分の娘の誕生の秘密をイリスがまだ隠し持っている。その話を聞きたがっていたのはキリトだけではなく、シノンも、リランも、そしてユイとストレアもそうだった。

 

 だからこそ全員で話を伺おうという事を運ばせ、中でもユイは昨日と同様に非常用回線というものを使ってイリスに招集をかけ、キリトの使っている宿屋の一室へとやってこさせたのだった。

 

 

「ユイが非常用回線を使ってきたから、また何か起こったかと思ったよ。なのに、何も起きてなかったなんて、肩透かしもいいところじゃないか」

 

「すみませんイリスさん。どうしても伺いたい話があったんです」

 

「パパだけじゃありません。わたしもストレアも、おねえさんもイリスさんに訊きたい話があるんです。だから、非常用回線を使わせてもらいました」

 

 

 ユイの話によると、ユイ達の持っているイリスの非常用回線は、本当に非常事態以外には使うなと言われているものだった。それを使ってまで連絡をよこしてきたのだから、イリスも何事かと思ったに違いない。イリスの呆れた様子は仕方のないものだと言えるだろう。

 

 しかし、自分の開発したものであり、娘であるユイからの訴えに耳を遠ざける事は出来ないのか、イリスは溜息を吐いた後に軽く前のめりになり、肘を膝の上に乗せた。

 

 

「それで、君達は何が聞きたくて私を呼んだのかな。と言っても、粗方読めているような気がするんだけれどね」

 

「ユイ達の開発経緯と、リランとユピテルの開発意図です」

 

 

 キリトは忘れる事の出来ないユピテルの話を全て、イリスにもう一度話した。イリスはどこか懐かしんでいるような様子を見せながらキリトの話を最後まで聞いてくれ、話が終わったところですんと鼻を鳴らした。

 

 

「……そうだね。《MHHP》と《MHCP》について、君達に話していない部分が結構あったね」

 

「教えてくれませんか、イリス先生。私も、ユイのママとして気になっているんです」

 

 

 専属患者であるシノンからの問い合わせに、イリスはもう一度深い溜息を吐いた。話してはいけないと決めていた事を話そうとしているようにも見えなくもない。

 

 

「ユピテルの言っていた事は社外秘だったんだけれど、アーガスが解散した今となってはそんなものはどうでもいい。君達も知るべき情報だ。特別に話してあげるよ」

 

 

 そう言って、イリスは何かのおさらいをするように話し始めた。

 

 

「まず最初に、ユピテルの言っていた通り、《MHHP》には二つの型があった。自由に動き廻りながら使命をこなす自由汎用型、使命を遵守する事を優先する使命遵守型。この自由汎用型がリランであって、使命遵守型がユピテルだった。

 

 何で二種類のものを作ったかというと、二つの型を作る事によって、どちらが最終的に必要になるのかの実験も兼ねていたからだ。けれどね、どちらにも最初から欠点があったんだ。

 

 自由汎用型であるリランはその自由さが故に学習能力があまり高くなく、寧ろ他の事にばかり興味を示し、《MHHP》として運用していくうえでは必要のない能力を沢山獲得するようになっていって、使命遵守型であるユピテルは使命を守りすぎるが故に疲労値が溜まっていても無視して動き続けようとして、エラーを溜め込んで崩壊するようになっていた。

 

 欠点はどうしても生じるものだった。当然だよ。本来ならば人間がやらなくちゃいけない事をAIにやらせようっていう、無茶ぶりもいいところな企画だったからね。何かしらの障害が起こったとしても不思議じゃなかったし、私達も結局それを前提に作っていたんだ」

 

 

 イリスは一旦姿勢を直し、脚を組んだ。そのまま両手を下腹部周辺に添える。

 

 

「けれど、リランとユピテルの欠点を克服する事は可能だった」

 

「それは何なのでしょうか」

 

 

 ユイからの問いかけを受け、イリスは視線をそちらに向けた。同じ色の髪の毛をしているけれども、瞳の色の異なっている二人の視線が交差する。

 

 

「それはね、これらの型を複数体制作する事だよ。リランもユピテルも人間の疲労を理解するために疲労値というものを持たされている。この疲労値が大きくなってしまうと、疲労した人間のようになってしまい、身動きがあまりとれなくなる。けれど、疲労値は人間の心や精神を治療するうえでは不可欠なものだった。この欠点を補うには、いわば交替制で人間の治療に当たらせるというのが有効だったんだよ。けどね、それを会社が許してくれなかったのさ」

 

 

 そこでキリトはかつてのユピテルの生存経緯を思い出す。アインクラッドの攻略中、ユピテルはある時からイリスによってコピー体となっており、本体はずっとイリスの手元にあった。なので、アルベリヒ/須郷伸之によって戦闘AIに改造されても無事だった。このコピー機能があったならば、テスト運用時に使って、ユピテルを複数体作って交替で当たらせる事も出来たはずだ。

 

 

「何故ですか。ユピテル達にはコピー機能があったじゃないですか。それを使えば交替運用だって……」

 

「そうだよ。そうすればユピテルの抱える欠点は克服可能だった。けれど、《MHHP》一体を運用しているだけで常に膨大な予算喰いが発生しちゃってね。予算とコストの都合上、ユピテル達を増やして運用する事は出来なかったのさ。クィネラが作ったのに運用されていなかったのもそのためだったんだよねぇ」

 

 

 《MHHP》は三体存在していた。リラン、ユピテル、そしてクィネラ。

 

 このうちのクィネラは《SAO》の時、キリト達も知らずにいたのだが、《ALO》に行ってからある程度経った時にイリスが連れてきて、その存在を明らかにさせた。

 

 その後はキリト達の仲間の一人、リランとユピテル、ユイとストレアの家族として一緒に過ごしていたが、《スヴァルト・アールヴヘイム》がクリアされた頃にイリスが勝手に回収してしまい、結局今は行方をイリスだけが知っているという状況になっている。

 

 イリスの話は依然として続いた。

 

 

「そしてコピー機能だけど、これを上手く使うには本体とコピー体を一定周期で同期させる必要がある。しかしこのコピー、記憶とか情報とかと一緒に疲労値も同期しちゃうようになってたんだ。だから、どんなにコピーを作り出したって、同期しなきゃいけないうえに疲労値も同期するから、結局意味がなかったのさ。そうならないように作ると、今度は使命に弊害が出てきちゃったものだったからね。まさに八方塞がりだった」

 

 

 下方向に向けられていたイリスの瞳は、再びユイとストレアに向けられる。

 

 

「このどうしようもない事実が、アーガスのお偉いさん方は大層面白くなかったみたいでね。《MHHP》の開発を止めて、後継機を開発しろだなんて言い出した。私も茅場さんもあまり気持ちがよくなかったんだけど、《SAO》を作るうえでは必要な事だったからね、仕方なく《MHHP》の廉価版を作る事にした。

 

 《MHHP》みたいに疲労値を持たず、《MHHP》みたいな本物の心や感情に近しいものではなく、あくまで感情模倣機能でしかないものしか持っておらず、更に《MHHP》みたいな強い治療能力を持たず、プレイヤーの許に赴いて話を聞くだけの治療方法しか持たないプログラムAI。それがユイとストレア。君達《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》だ」

 

 

 極めて冷静に告げたイリスにキリトはごくりと息を呑み、ユイとストレアへ目を向ける。二人は瞬きを数回繰り返しながら、じっとイリスの事を見ているだけで、何も言おうとしていない。ユイは膝に置かれている手がシノンの手に、ストレアはリランに手を握られているが、反応一つ返そうとしていなかった。

 

 

「君達が私の事を知らなかったのも当然だ。余計な教育だとか、そういうものを施すと《MHHP》の二の舞になりかねないと判断されたからね。だから君達は《MHHP》で一応出来上がったノウハウの基、人格、性格、使命、判断基準をプログラミングされ、作り出されたんだよ。特にユイ、君はユピテルを、ストレアはマーテルを元に作っている。君達に性格上の一致があるのものそれが理由さね。

 

 そして君達は十体制作されていたけれど、それは君達の運用賃金が驚くほど安かったからだ。《MHHP》よりも大量運用出来て、おまけに《MHHP》の欠点を全て克服している。だからアーガスのお偉いさん方は《MHCP》にゴーサインを出して、《SAO》に実装したってわけ。

 

 《MHHP》は《MHCP》の上位版じゃなく、《MHHP》は《MHCP》を作り出すための(いしずえ)……悪く言えば《MHCP》の搾り(かす)みたいなものだったのさ。少なくともアーガスのお偉いさん方はそんなふうに言っていた」

 

 

 その言葉にキリトは思わず反応した。ここには《MHHP》であるリランがいて、リランは元はと言えば茅場晶彦とイリスの子供みたいなものだ。自分の子供を搾り滓扱いするだなんて、親のする事とは思えないし、イリスの言い方もひどいとしか言えない。

 

 

「イリスさん!!」

 

「――そうよキリト君。わたしも《MHHP》をそんなふうに扱われて悔しかった。せっかく生まれ来てくれた二人を大人達の都合でそんなふうにされて、最高級に気持ち悪かった。予算の無駄なんて言う理由で《MHHP》を消そうとしてくる人達が許せなかった」

 

 

 イリスの口調は変わっていた。芹澤(せりざわ)愛莉(あいり)という人間として、心の底から物事を口にしている時の口調に。

 

 

「だからわたしは《MHHP》であるリラン……マーテルとユピテルとクィネラを茅場さんと一緒に守った。そして事実上会社(おとな)の都合で作られた《MHCP》もまた、ちゃんとわたしから生まれてきた子供という事は変えたくなかった。だからユイとストレア、その他の《MHCP》にもわたしの外見的特徴を与えた。

 ユイ、あなたの髪色が、ストレア、あなたの胸とか瞳の色とかがわたしと同じなのも、そのためなのよ」

 

 

 前から気になっていた、ユイとストレアのイリスとの外観上の類似。それは会社の都合で作られた《MHCP》であろうとも自分の子供であるという、イリスの思想と美学の表れだったのだ。

 

 子供は親から外観や性格などの要素を遺伝という形で受け取り、具現化させる。これは地球上に存在する生物の全てにあるものだ。

 

 そしてイリスはアスナの言っていた通り、《MHHP》と《MHCP》を本当の生命だと思って接している。だからこそイリスは、いくらアーガスの都合で作られたと言っても自身の子供であるという事は変わらないという事実に基づき、ユイに髪色を、ストレアに瞳の色と胸の大きさなどを、マーテルには髪質などを遺伝させたのだ。

 

 

「ユイ、ストレア。あなた達は確かに感情模倣機能を持っているに過ぎない。けれど、それは今パパやママ達のおかげで《MHHP》や人間と何ら変わりのないものとなっているわ。あなた達は本物の知性と心を持っている。そしてあなた達のパパとママは、そこにいるキリト君とシノン。その事をちゃんと自覚するのよ」

 

 

 穏やかな声色でイリスは二人に言い、やがてある方向へと向き直った。そこにいたのは、座って話を聞いている一方だった、ユイとストレアの姉であり、記念すべき《MHHP》の初号機である、《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム 試作一号 コードネーム:マーテル》。現在はリランという名前を冠するその少女に、イリスは優しく声をかける。

 

 

「マーテル。あなたはキリト君という素敵な主人に出会えた。あなたの使命は今、リランというキリト君の《使い魔》である事。もうアーガスも、誰もあなたにこれまでの使命を強制したりしない。あなたはあなたの今の使命を、実行し続けなさい。これまでどおり、ね」

 

 

 リランははっとしたように背筋を伸ばした。そうなっているのはキリトも同じだ。

 

 かつてはプレイヤーの心を癒す事を使命としていたユイもストレアも、リランも、今は全く別な状況に置かれて日々を過ごしている。それは使命を実行するだけだった時のものよりも、ずっと充実していると思うし、現に彼女達は毎日楽しそうにしている。ユイもストレアもリランも、アーガスや《SAO》に居た時の使命からは既に解放されて、大人達に利用されることもなくなっていると言えるだろう。

 

 イリスは続けて、手招きするような動作をした。

 

 

「ユイ、ストレア、リラン。ちょっとこっちにおいで」

 

 

 名指しされた三人は立ち上がり、そのままゆっくりとイリスの許へと向かった。三人を集めてどうするつもりだ。(いぶか)しむキリトとシノンにほとんど目を向けないまま、イリスは大きくその腕を広げると、一気に三人を抱きすくめた。

 

 一人抱き締めるだけでもせいいっぱいだというのに、三人まとめて抱き締めようとしたものだから、一同は一斉に驚いてしまった。彼女の子供達も無理矢理詰め込まれたような形になって戸惑っていたが、ほとんど構わず、イリスは囁きかけた。

 

 

「あなた達はどんな形であろうと、わたしの産んだ子供に変わりがないわ。

 ユイ、ストレア、マーテル。生まれて来てくれて、ありがとう」

 

 

 アスナがユピテルに向けて伝えた言葉。それがもう一度告げられると、抱き締められた三人も、キリトもシノンもプレミアも沈黙した。

 

 たとえ大人達の都合で作られたものであったとしても、生命であることに変わりはない。生命として生きていい事に何も変わりがない。その事実を全て証明するその言葉が、キリトは胸の中に響き渡った気がした。

 

 腹を痛めて産んだわけでもない子供達。それを抱きしめる事数十秒後、母親であるイリスは子供達を離し、もう一度優しく声を掛けた。

 

 

「けれど、今のあなた達のいるべき場所はわたしのところじゃない。ユイ、パパとママのところへ。リラン、ご主人のところへ。ストレア、おねえちゃん達のいるところへ、戻りなさい」

 

 

 三人の娘は静かに頷き、振り返った。そのまま足を進め、ユイは駆け足で父と母の許へ向かってきた。やってきた娘の身体を、キリトとシノンの二人で抱き締めてやる。

 

 

「ユイ……」

 

「パパ、ママ……わたしは……」

 

「いいのよユイ。あなたはもう何も気にしなくたっていい。あなたは……私達の子供なのだから。この私の、娘なのだから……」

 

 

 ユイの髪の中に顔を埋めたシノンが言う。確かにユイもストレアも、結局はアーガスの権力者達の規格によって作られた、人間の模造品のようなものなのかもしれない。

 

 けれども、彼女達に人間を癒すだけの力があり、人間と同じ心があるという事実は変わらないし、自分とシノン/詩乃の娘であるというのもまた揺るがない。

 

 どんな目的があって作られたものであってもユイはユイ。この俺と詩乃の子供。それを再確認したキリトは、シノンに続く形で言葉を掛けた。

 

 

「ユイ……俺達のところに来てくれて、俺達の娘になってくれて、本当にありがとう。お前はたった一人の、俺達の愛しい子供だ」

 

 

 キリトは顔を上げる。そこにはユイと姉と妹であるリランとストレアが確かにいた。

 

 

「リランとストレアもそうだ。お前達も、俺達の家族だよ。お前達がどんな意図があって作られたのであっても、それは変わらない。俺達の家族になってくれて、本当にありがとう」

 

 

 これまで抱き続けてきた気持ちを改めて口にすると、リランとストレアの顔に微笑みが浮かんだ。人間を模倣して作られたけれども、ちゃんとした生命であるという証拠が、そこにあった。

 

 

「あの、キリト」

 

 

 その時だ。それまでずっと黙っている一方だったプレミアがようやくその口を開き、言葉を出していた。急な声に少しだけ驚きつつ、キリトはプレミアに応えた。

 

 

「ん、どうかしたかプレミア」

 

「ユイもストレアも、リランもユピテルも、生命(いのち)であると知りました。では、わたしはどうなのでしょうか。わたしもまた、生命なのでしょうか」

 

 

 プレミアはユイ達と同じAIであり、ユイ達同様に感情模倣機能と思わしきものを搭載したうえで動いている。そのためか、最近プレミアに明確な感情が見え始めているし、心というものを理解しているようにも思えてきている。プレミアもまた、事実上心を持っているに近しい。

 

 そして何より、プレミアは《SA:O》という、HPが尽きれば死に至るようになっている世界で暮らしている。

 

 そのプレミアをユイ達と同じ生命と言わずになんというのだろう。

 

 思ったキリトは一旦ユイを離してプレミアへ近づき、その頭に軽く手を乗せてやった。プレミアは少しきょとんとした様子を見せてから、その水色の瞳をキリトと合わせた。

 

 

「そうだよプレミア。君もまたユイ達と同じ生命だ。君は生命を持っているんだよ」

 

「わたしもまた、生命……」

 

「そうだ。生命は一度に一つしか持てないものだ。だから、大事にするんだぞ」

 

 

 キリトに言われるなり、プレミアはそっと自身の手を胸へ添えた。まるで胸の中にある心臓の鼓動を感じ取ろうとしているかのような仕草。

 

 

「……わかりました。わたしもこれからは自分の生命というものを大事にしていこうと思います。ユイと、ストレアとリランとユピテルと同じ生命を……」

 

 

 プレミアはそう言い、顔に微笑みを浮かべた。これまでわからなかった事がわかったことに喜んでいるものというよりも、自分がユイ達と同じ存在であるということに納得し、改めて喜んでいるようにも見えた。

 

 プレミアだけではない。この世界にいるNPC達全員が生命を宿して生きている。一見するとゲームの中の存在でしかないように見えるけれども、彼女達はしかと生きているのだ。この世界のNPC達は生命であって、生きている。その事をしっかりとキリトが認識するなり、耳元にイリスの声が届いてきた。

 

 

「……生まれてきてくれてありがとう、か。まさかそんな言葉を出せるまで成長してくれるなんて……ハードなレッスンをした甲斐があったというものだ」

 

 

 その呟きにも等しい声にキリトは思わず反応をする。そのまま声をかけようとすると、イリスは椅子から立ち上がって、出口へと向かい始める。

 

 

「イリスさん、どこへ」

 

「せっかくログインしたんだから、ちょっと遊んでいこうと思ってね。キリト君達、クエストに行く予定があるなら、私も一緒して良いかね」

 

 

 この後はシノンとリランとストレアとパーティを組んでクエストに出掛ける予定ではあった。そこにイリスが加わることは何も問題がないのだが、キリトが気にしているところはそこではない。

 

 

「クエストには出掛けるつもりですが……」

 

「ならば一緒させてくれ。けれどちょっと久しぶりの攻略だから、私は準備に取りかかっておくよ。あとで転移門広場で落ち合おう」

 

 

 そう言い残してから、イリスは部屋を出ていった。

 

 イリスは明らかに何かを含んでいることを口にしていた。恰もこれまでのことで何か予定していたことがそのとおりになったかのようだ。

 

 それに昨日、アスナに向けてただならない事をイリスは言っていたのも覚えているし、そもそもユピテルがあんな行動に走ったのだってアスナとイリスの会話を聞いたのが原因であって――。

 

 

「……!」

 

 

 キリトは咄嗟に立ち上がり、イリスの出ていった方へ向き直る。シノンやユイの声がするけれども、それを気にしている余裕はない。

 

 突然消えたり、なんの気配もなく現れたりするイリスだけれども、まだ追い付ける位置にいるはず。

 

 キリトはその場の者達に「ちょっとイリスを追ってくる」と言い、部屋を飛び出した。そのまま廊下を駆け渡ろうとしたが、すぐさま足を止めることとなった。部屋を出て十メートルも満たない地点で、イリスの後ろ姿があったのだ。

 

 まるでキリトがやって来ることを待っていたかのようだったが、キリトはあまり気にしなかった。

 

 

「イリスさん、待ってくれ」

 

 

 部屋のすべてに防音機能が搭載されているため、周りに気にすることなくキリトは大声を出した。声は当然のように届き、イリスの足を止めた。

 

 

「イリスさん」

 

「なんだい、キリト君」

 

 

 いつもの返事が来ると、キリトは続けて言葉を掛ける。

 

 

「イリスさん……あんたはわかっていたのか」

 

「わかっていたって、何をだい」

 

「アスナとユピテルがあぁなる事を。あんたは知ってたんじゃないのか。ユピテルを放っておけばあぁなってしまう事を」

 

 

 イリスはくるりと振り向き、その赤茶色の瞳でキリトの姿を捉えた。目つきはいつもと変わりのないものだ。

 

 

「何を根拠にそんな事を訊いてくるんだい。私がこの一連の事を知っていたというのは、何を根拠にしているのかな」

 

「あんたの漏らしてた小言、聞いてましたよ。それにユピテルが言ってました。あんたはアスナとあの時話し合っていたって。あんたと話し合ったのを聞いたからユピテルはあんなふうになったって。その時、あんたはアスナを止める事も出来たんじゃないですか。こんな事態を引き起こさせる事だって、未然に防げたんじゃないですか」

 

 

 ユピテルから聞いた事の中でもっとも気になっていたことを全て話したが、イリスは一つ一つ頷きながら聞いていた。その様子はいつにもなくミステリアスであり、自分の知っているイリスと違う人物のようにも思える。

 

 それこそ、自身が茅場晶彦であることを隠し続けていたヒースクリフのようだ。かの創造者の面影をどことなく現わしている恩師は、静かに笑んでみせた。

 

 

「……やっぱり鋭いなぁ、キリト君は。流石、ヒースクリフが茅場さんだったことを見抜いただけある」

 

「……」

 

「そのとおりだよ、キリト君。私はあの時アスナを止める事が可能だった。あの子の間違いを指摘してやる事も出来たし、あそこまでの事態を引き起こす事も防げただろう」

 

 

 キリトは黙ってイリスの話を聞いていた。本当にアインクラッド七十五層のボス戦後に起きた、茅場晶彦がヒースクリフだったという事実を当てた時の再現のようだった。

 

 

「けれど、そういうわけにはいかなかったんだよ。キリト君、人間ってのはね、時には極端なまでに痛い目に合わないと学習できない事だってあるんだよ。あの時のアスナにはユピテルのかあさんになったっていう自覚が足りなかった。その事を言ってやる事も出来たけれども、言ったところで本当に気付かせてやることは不可能だった」

 

 

 確かに、これまでのアスナはユピテルを愛する一方で、本当にユピテルの事を理解しているかどうかは不明瞭だったし、その結果がユピテルの無理の連続とウイルスの感染だった。アスナはユピテルを子供として認識していたけれども、母親になった自覚が足りなかったというイリスの言葉は正しく感じられた。

 

 

「だから、あえてアスナを……」

 

「一番痛い目に合わせてやったってわけ。あの子達にはちょっと酷な事だっただろうけれども、よく効いたはずだよ。あぁでもしなきゃ、アスナはユピテルの本当の母親になる事は不可能だったし、自分の家族を納得させることだってできなかっただろう」

 

「だからって……」

 

 

 その時、イリスは一歩踏み出した。そのままゆっくりとキリトに歩み寄ってくる。

 

 

「こればかりは加減しちゃいけないんだよ。親になるという事がどういう事なのか、子供を持つ事がどういうことなのか。子供の事をちゃんと理解して、向き合う事がどれほど大切な事なのか。その事を知るには、子供騙しとか加減とかしちゃ駄目なんだ、キリト君。

 ……子供の事にはね、死ぬほど本気にならなきゃいけないんだよ、親は」

 

 

 いつの間にか目の前にまで迫ってきているイリスから、キリトは目を離す事が出来なかった。普段見慣れているイリスだけれども、今のイリスは学校の教師が教える事よりも本当に大切な事を教えようとしている教育者の類のようだ。少なくともキリトはそう思うしか出来なかった。

 

 

「君もそうだよ、キリト君。君は既にユイのパパだ。君もユイに何かあったならば本気でユイと向き合わなきゃいけないし……もしユイやストレアの妹か弟かを授かるつもりなら、君も詩乃も本気でその子を理解して、そのうえで正しい道に導いてやらなきゃいけない」

 

「……」

 

「親になるという事は、子供に対して子供騙し抜きで本気になる事が肝心なんだよ。

 

 子供はね、最初から善人でも悪人でもない。親の育て方次第で、人を救う事を頑張れる天使のような人にも、人を傷つける事に快楽を覚える悪魔のような人にもなるんだ。子供がどんな大人になるのかは、全て親の育て方と理解の仕方次第なんだよ。親が間違えれば高い確率で子供も同じ間違いを犯すんだ。

 

 君は十七歳でパパになってしまった子だけれども、こうなってしまった以上は後戻りはできない。詩乃の事を守る伴侶になって、そしてパパになったからには、本当にユイの事を、その妹や弟の事を理解して、育てていきなさい」

 

 

 直後、イリスはそっと右手を伸ばし、キリトの頭に乗せた。すぐにその顔に微笑みが浮かび上がる。つい先程キリトがプレミアにやってやった事を、イリスにそのままされていた。

 

 

「……あなたのやるべき事は詩乃を守る事と、ユイと、詩乃の間に出来た子供としっかり向き合って育て行く事よ。あなたがそのために頑張っていくつもりなら、わたしはどこまでもあなたの事を応援するし、教えられる事はいくらでも教えてあげる」

 

 

 イリスの様子は再び様変わりしていた。まるで本当の事を理解している教育者から、子供に本当の事を教えようとしている母親のようなものとなっている。キリトはいつの間にかイリスの教え子、もしくは本当の子供のようになっていた。

 

 

「あなたのやるべきことは、もう言わなくてもわかるでしょう。これからも詩乃とユイの事をお願いね、和人君。彼女達を守れるのも、あなたと詩乃の子供を育てていけるのも、あなただけよ」

 

 

 キリトは何も言わない。頭の中に詩乃とユイの顔が、彼女達との思い出がフラッシュバックしてくる。

 

 自分は事実上詩乃の夫だ。そしてユイのたった一人の父親。なのに、自分は育児などについてほとんど知識を得てこなかったし、ユイからパパと呼ばれてもそう呼ばれる意味について、考えた事もあまりなかった。

 

 

(……俺は)

 

 

 今まで世間で言われているパパの真似事をしていただけなのかもしれない。この前ユイのアニマボックスの話を聞いた時も、自分のユイへの理解度の無さに驚かされたものだ。だが、これからはそうはいかない。ユイからパパと呼ばれて生きていくという事は、ユイを本当に理解していく事と同じだ。

 

 そして詩乃との間に子供が出来たならば、その子とも本気で向き合っていかなければならない。父と母がこうして育ててくれたように、自分もまた、ユイや詩乃との子供を育てていかなければならないのだ。

 

 

 俺のやるべきことは、詩乃を守ること、ユイとその妹か弟と向き合い、しっかりと育てていく事。

 

 

 改めて自分のやるべきことを理解させられた和人/キリトは顔を上げた。もう一度イリスと目が合う。そこには優しげな光が蓄えられて、穏やかに煌めていた。

 

 

「あなたがそれに対して本気で頑張っていけるっていうなら、わたしはあなたに何が起こったのだとしても……あなたの、あなた達の味方よ」

 

 

 キリトはゆっくりと頷いた。その直後、イリスはその手をゆっくりと離し、目線を壁の方へ向けた。だが、その視線はずっと向こう、どこか別なところへ向けられているように見えた。

 

 

「そういえばキリト君、セブンから良い話を聞いたよ。今のフィールドをクリアした後のフィールドについてだ」

 

「えっ? セブンと話が出来たんですか」

 

「あぁ。詳しい事はネタバレになるから伏せておくけれど……《ツリンヴィル森道》っていうところに差し掛かったら、北に向かって御覧。きっといいものが見つかるはずだよ。でも、ひとまずはオルドローブ大森林のエリアボス倒さなきゃね。さぁ、攻略の準備にかからなきゃ」

 

 

 そう言って、イリスは今度こそ宿屋の廊下を後にした。

 




 次回、アイングラウンド編第二章、最終回。

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