キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 もうすぐSAOアニメ三期スタート。








12:それは啓示などではなく

           ◇◇◇

 

 

「うぐ……」

 

 

 目を開けた時、俺の居場所は変わっていた。眼前に広がっているのは見覚えのある鼠色の天井。眠った後はそうではないけれど、アミュスフィアを使って異界へ飛ぶ前と、飛んで戻ってきた時に必ず見るものが、いつの間にかそこにあった。

 

 

「あ……れ……」

 

 

 俺は瞬きを繰り返し、天井をじっと見つめていた。天井が眼前にあるという事は、俺は今自室のベッドで仰向けになっているという事だ。その天井の色は若干小豆色のようになっているように見えた。これはアミュスフィアを装着しているという事を意味する。

 

 俺はアミュスフィアを装着して、ベッドに仰向けになっているのだ。自分の状態がわかってきたところで、俺は上半身を起こした。

 

 

「ぐうぅ……!?」

 

 

 その時、急に身体から力が抜けて姿勢が崩れ、俺はベッドに逆戻りした。身体に力を入れようとしても、上手く入れる事が出来ない。まるで激しい運動を何時間も(わた)って行った後、身体が疲労の限りを極めているかのようだった。

 

 

「一体……何が……」

 

 

 疲れ切っているに重苦しい身体とは違い、頭は普通に回ってくれた。ここに来る直前の記憶が思い出されてくる。

 

 俺は今日、《SA:O》へログインし、皆と一緒にフィールド探索に出かけていた。ジュエルピーク湖沼群の最奥部に出て、エリアボスを倒そうとしていたのだ。

 

 だが、その最奥部に辿り着いた時に異変は起きた。ジェネシスという俺達と因縁のあるプレイヤーが、先にエリアボスを攻略し、俺達の進めているクエストに必要なアイテムを入手してしまっていたのだ。

 

 しかもジェネシスはそれだけで飽き足らず、クエストそのものを俺達から奪おうとし、《使い魔》と共に俺達に戦闘を仕掛けてきた。

 

 仕方なく俺達はジェネシスと戦った。俺達とジェネシスは大きく数の差が開いており、俺達には勝てないと思われていたが、ジェネシスは自分の《使い魔》を進化させるという手段に出た。

 

 その結果、俺達は進化したジェネシスの《使い魔》に苦戦を強いられる事となり、追い詰められた。俺もジェネシスとその《使い魔》と戦ったが、彼らは戦闘中に突然狂暴化して、勢いを上げてきた。

 

 

 その時だ。俺は以前ジェネシスが戦っているのを見た際に感じた《衝動》に襲われた。

 

 以前見た時には抵抗出来、《衝動》に塗り潰されるような事はなかったのだが、《衝動》は以前よりも強いもので、俺はそのまま《衝動》の強さに負けてしまい――。

 

 

(……!)

 

 

 思わずぎょっとする。錘が付いたように重い身体の背筋の辺りに冷や汗が噴き出てきた。

 

 

 ――ない。そこから先の記憶がない。

 

 

 俺はあの時《衝動》に追い詰められ、《衝動》の塗り潰しに勝てなかった。その《衝動》に塗り潰された後の記憶と、今この時までの間の記憶が存在していないのだ。

 

 

 頭の中を、思考を回してみるが、やはり《衝動》に塗り潰された後と思わしき記憶は思い出せなかった。

 

 間違いなく何かあったのは確かのはずなのに、《衝動》の後と今を結ぶ記憶がない。ずっと伸び続けているはずの糸が途中でぷつりと切れてしまっているかのようだ。

 

 

 俺は今まで何をしていたというのか。

 

 あの時と今の間に存在するものは何なのか。

 

 頭の中を探ってみても、その欠片さえ見つける事が出来なかった。完全に記憶が欠落してしまっている事は確かのようだ。

 

 

「う……ぐぅ……」

 

 

 重たい身体から絞り出すように声を出すと、返事が返ってきた。出入り口のドアを叩く音が部屋の中に響いてきたのだ。時刻はまだ昼間だから、かあさんという事はないだろう。俺の予想を肯定するかのように、ドアの向こうから声がした。

 

 

「おにいちゃん、おにいちゃん!」

 

 

 毎日聞いている少女の声。その持ち主の姿を想像するよりも前にドアが開かれて、足音が聞こえてきた。ドアをノックしていた本人が部屋の中に入ってきたようだ。そしてそれは、すぐに驚いたような声を上げてきた。

 

 

「お、おにいちゃん、どうしたの!?」

 

 

 次の瞬間には、声の主が視界に入ってきていた。黒髪をショートヘアに切りそろえている、赤い服を着込んだ、胸が大きいのが特徴的な少女。俺の妹である直葉が、俺の顔を覗き込んできていた。その表情はひどく驚き、焦っているようなものだった。

 

 

「……スグ……」

 

「おにいちゃん、大丈夫!? 何があったの!?」

 

「スグ、お前、《SA:O》にログインしてたんじゃなかったのか……?」

 

 

 直葉曰く、シノン/詩乃にログアウトして俺のところへ行くよう言われて、ここに来たらしい。そう話す直葉の声はいつもより大きく聞こえた。すぐ目の前に居て、俺の顔を覗き込んでいるのだから当然だが、身体の疲労が音を大きくしてしまっているらしい。

 

 いつもならば直葉がこういう顔をした時、大丈夫だと返して安心させてやるものだが、今はとてもそんな事が出来る気がしなかった。

 

 

「おにいちゃん、具合悪いの?」

 

「あ……あぁ……ちょっと悪いみたいだ」

 

「ちょっとどころじゃないでしょ!? どうしよう、救急車呼ぼうか!?」

 

 

 俺の身体は身動きが取れないくらいに疲れているような状態だ。だが、それ以上に何か悪いものを感じはしない。本当に疲れているだけだ。この程度で救急車を呼ぼうものならば、やってきた救急隊員たちに迷惑がかかるだけで終わるだろう。

 

 俺は重苦しい身体を動かし、首を横に振った。

 

 

「その必要はない……ただ、すげぇ疲れてるだけだ……」

 

「疲れたって……アミュスフィアで? そんなになるまで疲れてるの」

 

 

 アミュスフィアを長時間使用する事で疲れを感じるというのは珍しい話でもない。現に俺も今までアミュスフィアの長時間使用で疲れ、泣く泣く現実世界に戻ってくる事も珍しくなかった。だが、今のような疲れを感じる事はこれまでなかったし、アミュスフィアでこんなになってしまう事もあるとは、思っても居なかった。

 

 

「あぁ……だけど、この疲れ方はちょっと変だな……」

 

「だからちょっとどころじゃないよ! おにいちゃん、本当に大丈夫なの?」

 

 

 直葉の疑問に答えるよりも先に、俺は気になって仕方がない事を直葉に問いかけた。

 

 

「スグ……俺は一体……俺に一体、何があったんだ……? 俺はお前と、皆と一緒に《SA:O》で……確か、あいつ……ジェネシスと戦ったんだよな……」

 

「そうだけど……おにいちゃん、どうしよう」

 

 

 戸惑っている直葉を見ながら思考を回そうとしたその時、すぐ隣で大きな音が聞こえてきた。動かしづらい身体をなんとか動かして確認したところ、スマートフォンが鳴っていた。ディスプレイには電話がかかっている画面が表示されていて、名前には《ユイ》と出ている。

 

 

「ユイ……?」

 

 

 もう一度身体に力を込めてスマートフォンを手に取り、通話開始ボタンをクリック。耳元に近付けると、スピーカーから声が聞こえてきた。

 

 

《パパ、パパ!》

 

 

 ユイの声だ。しかし普段のそれとは違う雰囲気で、少し焦っているような様子だった。

 

 

「ユイ……」

 

《あぁよかった。ちゃんとお話しできるみたいですね》

 

 

 俺は思わず「え?」と言ってしまった。どうしてユイは俺の状態を知っているのだろうか。

 

 

「ユイ、俺の状態がわかるのか……?」

 

《おにいさんからお話を聞いたんです。今パパは危険な状態だと言っていて……それで今こうして電話しました。パパ、一応お聞きしますが、お身体の調子はどうですか》

 

「……あぁ、まぁ……大丈夫……かな」

 

 

 心配かけさせまいと強がってみたが、ユイには通じなかった。すぐさまスマートフォンから一際大きな声が飛んでくる。

 

 

《全然大丈夫そうじゃないですよ! パパ、ひとまず病院に行ってください。受けられるなら、治療を受けた方がいいですよ。お話はそれからです》

 

「そうだよおにいちゃん。ひとまず病院に行った方がいいよ。あたし、連れてってあげるから、だから……」

 

 

 ユイの声が聞こえていたのか、直葉が俺の肩に手を載せてきた。

 

 ただの疲労だったならば、今すぐ首を横に振ったかもしれない。だが、俺の身体が普通ではない状態になっているのは明らかだ。こんな状態のまま放置するのは、流石に自分の身体といえど(まず)いだろう。

 

 

「あぁ、ひとまず……そうしようか……」

 

 

 ユイとの電話を終了させた直後、身体にある程度力が戻ってきて、身体を起こす事が出来た。続けて立ち上がる事が出来、多少ふらつきはするものの、歩く事も階段を降りる事も出来た。もし歩けなかったら、本当に救急車を呼ばなければならないかもしれないと思ったが、いけそうだ。

 

 心配する直葉と共に家を出た時、時刻は午後の三時過ぎに差し掛かっていた。目当ての病院はかなり遠いところにあるから、帰ってくるまでにそれなりの時間がかかりそうだし、いつもの夕飯の時間に帰ってくるのは難しいかもしれない。

 

 けれども、直葉はそれを気にしている様子はなく、ひとまず俺を病院に連れて行って、診察を受けさせる事を優先しているようだった。

 時間よりも俺の事を優先してくれているという妹に、兄として嬉しさを感じながら、俺は家を出て駅に向かい、電車に乗った。

 

 椅子に座ると直葉が隣に座り、「大丈夫?」と声をかけてきた。いつも電車に乗る時といえば、本当に一人の時か、もしくは詩乃とデートをしている時だ。こうして電車の中で椅子に座れば、隣に詩乃がいる。

 

 それが俺にとっての当たり前だったけれど、今は詩乃ではなく直葉が座っている。その光景はどこか不思議さを感じるものだと思えたし、同時に一種の安堵を感じる事も出来た。

 

 今の俺はとても詩乃に見せられるようなものではない。もし詩乃に今の俺を見られようものならば、詩乃をひどく心配させる事になってしまうし、ただでさえ普段を抱きやすい彼女の心に、大きな不安を抱えさせる事になる。

 

 この場に詩乃が居なくて本当に良かった――いつもならば抱く事はないだろう気持ちを胸に抱きながら、俺は電車の椅子に深々と座っていた。

 

 直葉とある程度会話を交わしながら電車に乗る事十数分。俺達を乗せた電車は東京都内に入った。そこから数駅乗り続けたところで一旦下車、中央本線に乗り換えて更に都心へ進む。しばらくすると、目的地のある御茶ノ水駅に到着し、俺達はようやくそこで降りて、今度はバスに乗車する。

 

 休日というだけあってか、沢山の車が走っている風景が窓の向こうに見えた。この光景も今の目的地に向かう時には毎回見ていたもの。俺にとっては既に見慣れたものだった。

 

 そんな電車とバスの短時間の旅の末に辿り着いた場所は、東京都千代田区御茶ノ水の都立病院だ。かつて詩乃が入院していたところであり、イリス/芹澤愛莉が精神科医として働いていた場所。

 

 俺がSAOからログアウトした後に、リハビリのために移送されたところでもある。あの事件以降、俺は詩乃に異常があった時や、自身に何かあった時、ここに向かうようにしている。

 

 この前も詩乃の脳の検査をするために詩乃を連れてきたが、今回検査と診察を受ける事になるのは俺だ。愛莉が勤めていた、メディキュボイドを置いている病院がここなのだから、きっと俺の異常の原因も突き止められるはず。

 

 俺は少しだけ希望を抱き、直葉と共に病院の中へ入り込んだ。

 

 

 アミュスフィアを使ったらこうなった――そう受付で説明すると、極めて迅速に俺への検査が行われた。メディキュボイド程巨大ではないけれども、大きな機械を使ったスキャニングがメインで、血液検査だとか点滴だとか、そういったものは登場してこなかった。

 

 一通り検査が終わると、俺は診察室へ向かった。到着した時には既に直葉と医師が座っており、俺が一番最後に来たという事を教えていた。その光景はかつて愛莉に呼び出され、詩乃と一緒に来院した時のようだった。

 

 直葉の隣に座った時、目の前にいる医師はじっとカルテを眺めていた。愛莉が来ていたものとは違う男性用の白衣を着ていて、その下を青いワイシャツ、黒いネクタイ、黒いズボンで固めている、黒い髪の男性医師だ。

 

 

「先生、兄は……」

 

 

 最初に声を出したのは直葉だった。その顔は相変わらず心配そうなものになっている。きっと俺が検査を受けている間もずっとこの調子だったのだろう。

 

 

「……」

 

 

 直葉の問いかけに、医師はすぐには答えなかった。じっと俺と俺の検査結果が書いてあるだろうカルテを交互に見てから、ようやく返事をした。

 

 

「付かぬ事をお聞きしますが、桐ケ谷さんはアミュスフィアで何かしらのプログラムを使用しましたか」

 

「え?」

 

「貴方の脳を調べてみたところ、脳内物質であるアドレナリンとノルアドレナリンが短時間のうちに、非常に過剰に分泌された形跡がありました。貴方の身体の疲労は、このアドレナリンの過剰分泌によるものです。

 そしてこれは、最近アミュスフィアのプログラムを使って、異常な状態になった患者の人達のものに似通っています」

 

 

 アミュスフィアのプログラムと聞いただけで、その正体を掴めた。医師の言っているのはデジタルドラッグの事に間違いない。その口ぶりから察するに、この医師もデジタルドラッグを使用しておかしくなった、《トランスプレイヤー》達の事を結構な数、診てきているのだろう。

 

 だが、その言葉を聞いて背筋に強い悪寒が走った。

 

 俺が《トランスプレイヤー》達と同じになっているだと?

 

 

「このアミュスフィアのプログラムを、最近ではデジタルドラッグというのですけれど、貴方はそういったものを使用した自覚はありますか」

 

「……」

 

 

 気付けば身体が震えていた。俺は確かにデジタルドラッグというものを知ってはいる。けれどそれだけで、そんなものをアミュスフィアで使えるようにした事はないし、使おうとも思った事はない。デジタルドラッグは麻薬や危険薬物と何も変わらない存在なのだから当然だ。

 

 なのに、俺の脳内物質はデジタルドラッグを使った時のような状態になっていた。直前まで使っていた俺のアミュスフィアは、俺を勝手にトランスプレイヤーに変えていた。

 

 

「桐ケ谷さん。どうでしょうか」

 

「そんなわけありません!!」

 

 

 突然部屋の中に怒鳴り声がした。声の方へ向けば、直葉が立ち上がって医師を見下ろしていた。

 

 

「兄はそんなものを使っていません。あたし、ついさっきまでアミュスフィアを使って兄と遊んでいましたけど、兄がそんなものを使う様子はありませんでした。そもそも兄は、そんなものを使うような人じゃないです!」

 

 

 詰め寄ってきていた医師から俺を庇おうとしているように、直葉は主張した。その様は昔、殴り掛かる祖父さんから俺を守ろうとしてくれた時のようだった。俺は再び直葉に守られている。

 

 その直葉を見上げつつ、医師は気難しい顔をした。

 

 

「しかし、検査の結果は述べた通りです。桐ケ谷さんの脳内は、デジタルドラッグを使った後の患者のものと酷似しています。それこそ、同じようにデジタルドラッグを使用したとしか思えないくらいに」

 

「だから、そんな事はありません!」

 

「それに、これまでデジタルドラッグを使用したという患者は、ノルアドレナリンの分泌が過剰になっている事がほとんどだったのですが、桐ケ谷さんの場合はアドレナリンまで分泌している。アドレナリンの過剰分泌は身体に大きな負担を与えますから、非常に危険です」

 

 

 ニュースで見た話、そしてリランとユピテルから聞いた話によると、(ちまた)で拡散されているデジタルドラッグは、ノルアドレナリンを過剰分泌させ、幻覚や幻聴を発生させて気分を異常高揚させるというものだった。だが、アドレナリンまでも過剰分泌させるなどというデジタルドラッグの話は聞いた事が無いし、そしてそれを所有したという記憶も、勿論ない。問い詰められても、俺は医師に返す言葉が見つけられなかった。

 

 

「もしこれがデジタルドラッグによるものならば、相当危険なものを桐ケ谷さんは使っている事になります」

 

「だから――!」

 

 

 直葉はいよいよ医師に噛みつきかかりそうだった。このまま俺が何も言わずに居たら、直葉は更にヒートアップしてしまうに違いない。それに、直葉がこれ以上何かを言ったところで無意味だろう。ここは俺が直接言うしかない。

 

 

「スグ、落ち着いてくれ」

 

「……! おにいちゃ……」

 

「いいから、座ってくれ」

 

 

 直葉は少し驚いたような顔を見せた後に、すぐに表情を曇らせて座った。ひとまず(なだ)める事に成功したのを確認して、俺は医師に向き直った。

 

 

「……先生、俺はそんなものは使っていないつもりです。やり方もわかりません」

 

 

 医師は(いぶか)しむように俺を見ていた。きっと俺の言っている事が信じられないのだろう。しかし俺はこう言うしかなかった。

 

 

「けれどもし、これから今みたいな事が繰り返されると、どうなりますか。またデジタルドラッグを使ったようになったのだとしたら……」

 

「……今回だけでも、桐ケ谷さんの脳と身体にはかなりの負担がかかっています。もしこれが繰り返されようものならば、更なる負担が桐ケ谷さんにかかり、桐ケ谷さんの命が削られる事になります」

 

 

 現実世界の麻薬や危険薬物も、使用者が使いすぎるような事があれば、瞬く間にその命が削られて死に至る。形は違えど効果も症状も結局現実の危険薬物と同じなのがデジタルドラッグだ。使い過ぎの末路も同じものなのだろう。

 

 その事実がわかるなり、俺は寒気を感じた。血の気が一気に引いていくような錯覚が起こる。

 

 俺はデジタルドラッグなど使っていない。使っているアミュスフィアだってそんな危険物を搭載していない。なのに、俺はいつの間にかデジタルドラッグを使ったような状態になり、今に至っている。俺が意識していない間にデジタルドラッグと同じ性質を持ったモノが俺に使われ、俺の命は削られていた。

 

 危険薬物を使い続ければ、使用者は死に至る。

 デジタルドラッグを使い続ける《トランスプレイヤー》も命を削り、死に至る。

 そういったものとは一切無縁だったはずなのに、いつの間にか俺はデジタルドラッグを手に入れて、トランスプレイヤーになっている。そして命を知らない間に削られている。

 

 

 俺は何故そんな事になっているというのだ。

 

 俺はいつの間にデジタルドラッグを手に入れたのだ。

 

 俺はどうしてそんなものを。

 

 

 床の底が抜けて、落ちていくような錯覚が起こる。頭の中は目に見えない蛆虫が脳を食い荒らしているようなイメージでいっぱいになっている。

 

 

 この蛆虫はどこから来た。

 

 いつ俺の中に入ってきた。

 

 なんで俺を食べようとしているんだ。

 

 

「……桐ケ谷さん!」

 

 

 耳元に届けられた声で俺は我に返った。いつの間にか医師が俺の肩に手を載せている。

 

 

「大丈夫ですか、桐ケ谷さん」

 

 

 医師は心配そうな様子で俺に声をかけてきていた。隣には直葉もいる。二人揃って俺の事を心配そうに見ていた。それに気付くのとほぼ同刻、自身の息が荒くなっている事がわかった。

 

 

「おにいちゃん……」

 

「スグ……」

 

 

 これまで度々見る事のあった直葉の心配そうな顔。それを見ても呼吸と心は落ち着く気配がなかった。こういう時はどうしたものかと思ったその時、頭の中で一筋の光が走り、それは徐々に形を成していく。

 

 こうなってしまった時のために、俺の大切な人がくれたものがある。本当はその人が持っていなければならないものだけれど、俺のためにくれたもの。その存在をしかと思い出した俺は、直葉と医師から目を離し、自身の右手に目をやった。

 

 そこにあったのは、植物のような模様が刻み込まれていて、かなり年代の入っているはずなのに、そうとは思えないくらいに劣化も汚れもない、白銀色の腕輪だった。

 

 

「……!」

 

 

 自分ではどうにもならないくらいの出来事に出くわした時、落ち着きを取り戻すためのお守り。今、それは照明の光を浴びてきらきらと煌めいていた。

 

 その光を見つめていると、荒くなっていた息が徐々に戻っていき始めた。様々な思考が行き交っていた頭の中が静かになっていき、お守りを見つめる事だけに集中出来るようになる。頭の中にまで突き上げていたものが、広がっていた嫌なイメージが全て消えていき、徐々に心臓の鼓動の感覚がゆっくりになっていく。

 

 やがて頭の中が静けさに包まれると、身体の底から上がってくるものがあった。それは胸へ、喉へと上がっていき、口の到達したところで、大きな溜息となって出てきた。

 

 そこでようやく、心臓の鼓動も呼吸も元に戻ってくれた。

 

 

「おにいちゃん……大丈夫?」

 

「……あぁ、なんとかな……」

 

 

 直葉は相変わらず心配そうな様子で俺の事を見ていた。いつもは元気な俺が突然こんな風になっているのだから、当然と言えばと当然だろう。勿論俺の肩に手を置いている医師もそうだった。

 

 俺は直葉からその医師へと視線を動かし、改めて声を掛ける。

 

 

「先生、それで……俺はこれからどうすればいいんです。これからは、何をするべきですか」

 

「……貴方が本当にデジタルドラッグを使っているのか、そうではないのかはわかりません。しかし、貴方がもしデジタルドラッグを使っているのであれば、これからは絶対に使わないでください。例えどれ程使いたくなっても、絶対に使わないで。貴方が使っているデジタルドラッグは、非常に危険なものなのです」

 

 

 そんな事を言われても――と返したいところだったが、そんな気分にはならなかった。現に俺の身体は、脳はデジタルドラッグ――と思われる正体不明のもの――によって、かなり危険な状態に陥っていたのだから、医師の言っている事は間違いない。

 

 そして、運がいいと思った。デジタルドラッグは高い常習性を持っている事が特徴の一つであり、それによって問題視されている。けれど、俺が使ったと思われるデジタルドラッグには常習性がないらしく、また使いたいという欲が生まれてこない。

 

 一般的なデジタルドラッグが引き起こす症状と異なっているのがまた謎だけれど、常習性が今のところ確認できないのは救いだった。

 

 

「わかりました……もうこんなのはこりごりです」

 

「そうでしょう。デジタルドラッグは現実にある麻薬などと同じで、使用者の命を削り取るものです。どうか、くれぐれも使用しないようにしてくださいね」

 

 

 医師の言葉に頷くと、診察は終わりとなった。俺は直葉と一緒に診察室を出て、病院の出入り口付近にある受付で会計を済ませた。そのまま真っ直ぐ帰るかと思ったが、そんな俺を他所に直葉が「ちょっと休んでから帰ろう」と提案してきた。

 

 ログアウトした直後と比べたらすっかり良くなった方ではあるけれど、本調子かと言われたらそうではないというのが俺の状態だった。直葉は俺から聞かなくてもそれが分かったのだろうし、きっと無理矢理帰ろうとすれば怒り出す事だろう。

 

 ここは直葉の提案に乗っておくべきだ――俺は直葉に言われた通り、受付前に並んでいる椅子の群れの一角に腰を下ろした。

 

 

「おにいちゃんがデジタルドラッグって、どういう事なの。おにいちゃんはそんなの使ってないよね? いくらデジタルオタクのおにいちゃんでも、そんなのは……」

 

「勿論そんなものは使ってないし、導入してもいないよ。けど、医者があぁ言ってるって事は、俺はデジタルドラッグを使ってたんだろう」

 

 

 直葉は信じられないような顔をして、一旦俯いた。直葉は俺の事をよく見ているし、俺がそんなものに手を出さないと信じてくれている。今だってそうだ。

 

 しかし、それをあの医師の診断が覆してきたのだ、ショックを受けずにいられないのだろう。何も悪い事はしていないはずだが、一種の罪悪感が胸の中に込み上げてきた。

 

 その時だ。直葉は俯きながら何かを思いついたような顔をし、その顔を上げた。

 

 

「ねえおにいちゃん、デジタルドラッグを使った時の事とか覚えてないの? さっきから全然話してくれないけど、どんな感じだったの」

 

 

 一番されたくない質問が来た。出来る事ならばずっと隠していたいところだが、直葉が詰め寄っている以上、話さないわけにはいかないだろう。後の事をなるべく考えないようにしながら、俺は事実を話した。

 

 

「……覚えてない。何も覚えてないんだよ。デジタルドラッグを使ってる間の事……何もわからないんだ」

 

「えぇっ!?」

 

 

 直葉はさぞかし驚いたような顔をした。予想通りの反応だ。こんな話されれば誰だってそんな反応をするに決まっている。

 

 

「デジタルドラッグを使ってるはずなのに、その記憶がないって……え? どういう事なの」

 

「俺が知りたいくらいだよ。なぁスグ、俺はあの時どうなってたんだ。お前は俺と一緒にログインしてて、俺と一緒に居ただろ」

 

 

 直葉に一番聞きたい事がそれだった。あの時は直葉/リーファも俺と一緒になって、ジェネシスとアヌビスのコンビに立ち向かっていた。あの戦いの途中で俺は意識を失ったが、リーファまでそうなっていたとは考えにくい。きっと俺が見ていなかったものも見ているはずだ。

 

 思わず期待を寄せたその時、直葉はもう一度俯き、小さな声で言った。

 

 

「そうだけど……あの時あたし、あいつらにやられてて……復活した時には全部終わってた」

 

 

 《SA:O》では戦闘不能になると、蘇生されるか、もしくは黒鉄宮に戻されるまで気を失った状態となる。リーファもしっかり戦える娘だけれど、ジェネシスとアヌビスの猛攻には耐えられなかったのだ。仕方ない事ではあるけれど、見ていてほしかったものを見てくれてはいなかったという事実に、思わず落胆してしまった。

 

 

「そうか……お前も見てなかったのか」

 

「ごめん……けど、それ言った方がいいじゃないの。先生のところにもう一回行って」

 

 

 俺はすぐに首を横に振った。この話をしたところで、医師が俺の求める答えを返してくれるとは思えないし、そもそも信じてくれるかどうかさえわからない。俺がデジタルドラッグを使っていないと言っても、信じているような様子は見られなかったのだから。

 

 

「いいんだ。言ったところで信じてもらえそうな気がしないよ」

 

「だけど!」

 

「それに、きっと医者より……彼女達に()いた方が早いし、正確だ」

 

 

 こういった事柄が起きた時、ここにいる医者よりも正確な答えと情報を出せる娘達は居る。この病院で話を伺うよりも、その娘達に訊いた方が確実なのは、今まで散々思い知ってきた。今回も彼女達を頼った方が手っ取り早いに違いない。

 

 

「だから――」

 

「――和人!」

 

 

 言いかけたその時、突然聞こえてきた声に二人で驚いた。すぐさま声の主を割り出す事が出来たが、そこで俺は言葉を出せなくなる。この声の主はどうしてここにいる?

 

 

「和人!」

 

 

 もう一度声がして、俺は直葉と一緒に向き直った。病院の出入り口のすぐ近くに、一人の少女の姿があった。

 

 セミロング未満ショート以上の黒い髪の毛で、もみ上げの辺りを白いリボンでまとめている髪型をして、眼鏡をかけているのが特徴的な少女。

 

 俺にお守りを贈ってくれた人であり、俺の愛する人。

 

 その名前を、気付けば俺は口にしていた。

 

 

「……詩乃?」

 

 

 




 さて、KIBTのアリシゼーション編はどうするべきか。

 一応プロットは固めてるんですが。

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