キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 2018年10月最後の更新。

 判明するプレミアの真実?


 


17:再来する黒猫 ―不明竜との戦い―

          □□□

 

 

「セクメト……!?」

 

 

 思わずキリトは目の前の存在の名を呼んでいた。黒い毛並みと甲殻に身を包む、角を生やした禍々しい相貌の巨大な黒猫。エジプト神話の死神セクメトの名を冠するそれが今、アメミットの身体の上に乗り掛かっていた。

 

 アメミットはセクメトに押さえ付けられ、立ち上がる事さえも出来ないでいる。突然すぎる乱入者の登場にその場の全員が呆然とするなかで、シノンが声をあげた。

 

 

「キリト、こいつは!」

 

「セクメトだ。またこいつが出てくるなんて!」

 

 

 《黒猫竜(こくびょうりゅう)セクメト》という名のそれは、以前ユピテルと一緒に探索に出掛けた時に襲いかかってきたモンスターだ。突如として空から現れてキリト達を急襲し、毒を含む紫色の炎を撒き散らして周囲を焼き壊しながらの荒々しい攻撃を仕掛けてきた。

 

 その時キリト達は唐突にも程がある来訪と攻撃に混乱しながらも、セクメトと交戦。できる限りのダメージを与えた。

 

 するとセクメトは傷を負うなり空へ飛び立ち、そのまま逃げ去っていった。

 

 

 キリト達に何一つ情報を残す事なく。

 

 

 突如として襲いかかって来て、ダメージを負うなり逃げていくという、イベントなのかそうではないのかわからない登場と戦闘を繰り広げたものだから、キリト達はセクメトの一切の情報を得る事ができず、その存在に首を傾げるしかなかった。

 

 

 何かのイベントによるボスモンスターなのか、そうではないのか。

 

 リランと同じ誰かの《使い魔》であるというのか。

 

 だとすれば一体誰がセクメトの《ビーストテイマー》なのか。

 

 

 何一つ真相のわかっていなかったセクメトだったが、それが今目の前に再び現れている。自分達が正体不明のセクメトと再会したという事実だけはここに存在していた。

 

 

 だが、そのタイミングが本当に悪い。以前セクメトと戦った時、その強さにかなりの消耗戦を強いられた。セクメトはそこら辺にいるボスモンスターなんかよりも遥かに強い存在だったのだ。

 

 そのセクメトと、よりによってプレミアをパーティに入れている状態で出くわしてしまったのだから最悪だ。しかもこの場にはセクメトだけじゃなく、自分達が相手にしていたアメミットまでいる。

 

 二匹のボスモンスターが揃うという悪夢のような状況がここで起きてしまっていた。

 

 

 セクメトにアメミットが叩き伏せられたのが衝撃だったのだろう、プレミアが目を見開いて言う。

 

 

「黒い、猫……!?」

 

「プレミア、下がれ! こいつは本当に危険なモンスターなんだ!」

 

「危険なモンスター……これが……」

 

 

 プレミアの呟きを聞きながらセクメトの容姿を再度目に入れたその時、キリトは気付いた。記憶違いでないならば、セクメトの姿が変わっている。

 

 全体的な相貌やシルエットこそは変わっていないものの、セクメトの身を包む鎧のような甲殻の形がこの前よりも豪華さを増したようなものへ変わっているのだ。色も黒と紫を基調としているという、恰も自分の使う毒の炎を使う事に特化したような風貌になっている。

 

 そしてその頭上に、変化した事を決定付けるものがあった。

 

 

 《Sekhmet(セクメト)_The()_HadesSunDragon(ハデスサンドラゴン)》。

 

 

 《冥日龍(めいにちりゅう)セクメト》というのが、セクメトの名前になっていたのだ。かつての《黒猫竜(こくびょうりゅう)セクメト》という名前は存在していない。

 

 

 その事実に気付いたのはキリトだけではなく、シノンもリランもそうだった。特にリランに至ってはかなりの驚きを見せている。

 

 

「こいつ、進化しているぞ!? やはりこいつは《使い魔》なのか!?」

 

 

 リランの言葉をキリトは否定できない。セクメトの名前と姿があの時から変わっていて、より強そうなものへ変化しているという事は、セクメトが自分達を襲った後に進化を遂げたとしか考えられない。

 

 そして進化するモンスターは《ビーストテイマー》の《使い魔》以外に基本的には存在しないもの――セクメトはやはりどこかの《ビーストテイマー》が使役する《使い魔》なのだ。

 

 

 確信を得たキリトは周囲を見回す。

 

 何者かの《使い魔》であるセクメトがここで暴れているという事は、周辺に《ビーストテイマー》が隠れているはずだ。どこかに身を潜めてセクメトをこちらに送り込んできているに違いない。

 

 しかし、どんなに見回してもそれらしきものは見つからなかった。

 

 瓦礫や植物の影に注目しても、人影らしきものは見当たらない。確かにどこかにセクメトの主人がいるはずなのに、どこにもその姿は見受けられないのだ。

 

 持ち得る索敵スキルを全開にして周辺を探り続けるが、プレイヤーの気配は察知できなかった。

 

 

「どこだ、どこにいる……!?」

 

 

 探すのに夢中になりそうになったその時、アメミットの方から轟音がして、キリトは向き直った。

 

 伏せられていたアメミットがセクメトを追い払おうとして、身体をばたつかせていた。アメミットの背中に乗るセクメトは数回振られた後に、猫らしい身のこなしでアメミットの身体から飛び上がる。

 

 そのまま、アメミットからそれなりに離れた地面へ静かに着地した。その様子はALOでケットシーという猫を模した種族となっていたシノンのようだった。

 

 自由を取り戻したアメミットはセクメトに向き直って咆吼する。敵視(ヘイト)が乱入してきたセクメトへ向いたようだ。

 

 敵視を得たセクメトは、猫らしく静かに地面に座っている。

 

 この前戦った時は獅子のように荒ぶっていたのに、今のセクメトは余裕さえも感じられるくらいに静かだ。しかしその視線はしっかりとアメミットに向けられている。この前は一目散にこちらを狙ってきたというのに、今はアメミットを狙っているらしい。

 

 次の瞬間、アメミットは勢いよく口を開き、身体の奥底から燃え出た炎を火炎弾にして放った。やはり口が大きいためか、リランの放つ火炎弾ブレスよりも大きく見える。

 

 

 火炎弾は真っ直ぐセクメトへ飛翔したが、それが発射された時既にセクメトは上空へ飛び上がっていた。瓦礫の山に火炎弾が衝突した頃、セクメトは最大の特徴である紫色のエネルギーで構成された紋様の走る翼を背中から生やしてホバリングしていた。

 

 

 リランでさえも背中からしっかりと生える翼で羽ばたく事で飛んでいるというのに、セクメトは正体不明のエネルギーで翼を作って飛んでいる。

 

 

 あまりに常軌を逸した光景に目を奪われた瞬間、セクメトの口許が紫色に閃いた。

 

 大砲を発射するような音と同時に燃え盛る紫の火炎弾がセクメトの口から発射される。

 

 

 恐らく最初にアメミットを襲った爆発を起こしたものと同じもの――それは真っ直ぐに、キリトとプレミアの許へ飛翔してきた。

 

 

「うわあぁぁッ!?」

 

 

 思わず声を上げて驚き、キリトはプレミアを抱えて走った。今まで立っていたところを紫の火炎弾が襲い、爆発音と毒炎を撒き散らす。それは一回では終わらず、五発ほどの火炎弾がキリトとプレミアを襲った。

 

 

「キリト!?」

 

「プレミア!!」

 

 

 爆発に混ざってシノンとリランの声がした。二人が驚くのも無理はないし、実際キリトも驚きを隠せない。アメミットの敵視はセクメトに向いていたから、セクメトもアメミットに敵視を向け返しているとばかり思っていた。

 

 しかし実際セクメトはアメミットではなく、こちらに敵視を向けているのだ。

 

 

 セクメトは自分達を襲うためにわざわざこの戦いに乱入してきたというのか。

 

 すぐ近くのアメミットという大物に目もくれず、わざわざこっちを狙うなど、如何なる意図が存在しているのからこその行動なのか。

 

 

 いずれにしてもセクメトの事を信じられない気持ちでキリトは一杯だった。

 

 空から紫の火炎弾は降り注ぎ、地表で爆発して紫色の炎が巻き散らされるのが続いている。プレミアを抱えて逃げ続けているが、周囲は既に紫の炎に囲まれて、退路が塞がれつつあった。セクメトの攻撃は、そう言う指示を出されている《使い魔》のそれのように執拗だ。

 

 間違いなくセクメトは《ビーストテイマー》の命令や指示を受けて攻撃を仕掛けてきている。そしてそのセクメトの主人はこの辺りに隠れている。どこかに隠れて、セクメトに攻撃命令を下しているはずなのだ。

 

 

 そう思って探しているのに、全くそれらしきものは見つけられない。それどころか、セクメトの攻撃のせいで探している余裕がなくなりつつある。もしかしたら、それもまたセクメトの主人の狙いかもしれない。

 

 セクメトに果敢に攻撃させる事で、自信を見つけれるリスクを極力少なくしているのだ。あくまで予測の範囲を出ないが、セクメトの攻撃が全て作戦によるものならば、セクメトの主人は相当な手練れであるに違いない。

 

 

「くそぉッ!!」

 

 

 周囲を取り巻く紫の炎に、キリトは思わず怒鳴った。

 

 

 そもそもどうしてセクメトはそのままの姿で居られるというのだ。

 

 

 アメミットとの戦いが始まった時には、リランが人狼形態となって弱体化した。アメミット戦はエリアボス戦と同じで、《ビーストゲージ》を貯めなければ《使い魔》を元に戻せないようになっている。これは全ての《ビーストテイマー》に課せられるこの戦いの制約だ。

 

 そのはずなのに、セクメトは元の姿のままこの戦いに乱入してきて、弱体化する様子無く襲ってきている。まるでセクメトには制約が課せられていないかのようだ。

 

 

 途中で乱入してきたから制約が適用されていないのか。

 もしくは制約のシステムの穴を突くような裏技が存在しているのか。

 

 

 様々な考えが頭の中で濁流のように渦巻いて仕方がなくなりそうなその時だ、キリトは重いものに引っ張られるように地面へよろけた。

 

 抱えているプレミアが急に姿勢を崩したのだ。

 

 

「プレミア!?」

 

「ごほっ、ごほっ、きり゛、とっ……え゛ほっ」

 

 

 プレミアは胸元を抑え、苦しそうに咳き込んでいた。頭上を見てみたところ、《HPバー》の横に紫色のアイコンが出ているのが見えた。そして《HPバー》が点滅しながら残量を減らしていっているのも確認できる。毒状態だ。

 

 

「いや待てよ……!?」

 

 

 普通の毒状態の時よりも《HPバー》の減りが早い。毒状態の上の状態異常――猛毒状態というモノだ。そしてプレミアだけじゃない、自分の《HPバー》の横にも同じアイコンが出現して、同じように《HPバー》の残量が減少している。

 

 

「!」

 

 

 周囲を取り囲んでいる紫の炎は毒ガスを生じさせながら燃えているから、それ自体が毒属性範囲攻撃だ。ここ一帯は炎が起こす毒ガスで満たされ、容易に毒状態に陥れる場所になってしまっている。しかも毒ガスを吸い込む事でなるのは猛毒状態だから、(たち)が悪いどころではない。

 

 ここに居てはいつまでも猛毒状態は解除されない。追加ダメージを受ける事になるが、炎の中を突き抜けなくては。

 

 思考をまとめたキリトはプレミアに向き直る。

 

 

「プレミアッ、立ってくれ!」

 

「うぐっ、ごほっ、お゛ほっ、え゛ほっ、ごぼっ」

 

 

 プレミアは顔を蒼褪めさせて咳を繰り返していた。彼女も自分も、猛毒状態になって《HPバー》を減らされてしまっているだけだ。状態異常になっている事で、全身に倦怠感に似た弱い不快感があるけれども、動けなくなるくらいではない。

 

 その自分と同じ状態のはずなのに、プレミアは激しく苦しんでいる。まるで現実世界で有毒ガスを吸い込んでしまったかのような様子だった。自分とは違う状態異常になってしまっているのだろうか。

 

 

「プレミア、どうしたんだ!?」

 

「……ッ!!」

 

 

 プレミアの顔を覗き込んだその時、表情が驚いたようなものへ変わる。まるで自分の背後で異変が起きたのを見たかのようだった。

 

 

 

 視線を追って振り向いたその時に、キリトに巨大な何かが激突した。

 

 

 

 重いものがぶつかってきたような不快感が全身に走った次の瞬間に、キリトの身体は猛スピードで前方へ投げ出されて地面に衝突する。

 

 

「ぐあはッ!!」

 

 

 地面に勢いよく叩き付けられた身体は、そのまま数回転がったところで止まってくれた。痛覚抑制機構(ペインアブソーバ)のおかげで痛みはちょっとしか感じないで済んでいるが、あまりの衝撃で頭がくらくらし、目の焦点が定まらない。

 

 

 今の一瞬で何が起きた。

 俺は今どうなった。

 

 

 ふらふらする頭の中で疑問が殺到するが、意識はすぐにはっきりした。そのタイミングでキリトは上半身を上げる。

 

 四肢に力を込めて地面に降り立っている黒猫の姿と、黄色まで減少した自身の《HPバー》が見えた。

 

 どうやら炎とプレミアに気を取られているところを狙って、セクメトが次の攻撃を仕掛けてきたらしい。

 

 随分と大きな隙を作ってしまっていたようだ――気付いた直後に、キリトははっとする。

 

 先程自分はプレミアと一緒にいたから、今の攻撃にプレミアも巻き込まれてしまったはずだ。彼女は今どこに――キリトは二本の剣を杖代わりにして身体を起こし、周囲を見回した。すぐにセクメトが目に留まった。

 

 セクメトはキリトではない方を見て、そこへ向かおうとしている。

 

 

 その視線の先にいたのは――プレミアだった。

 

 

 プレミアは力なく地面に仰向けになって倒れており、動く気配がない。気を失ってしまっているようにも見えた。

 

 

「プレミア!!」

 

 

 キリトの呼びかけに答えないプレミアの《HPバー》は、既に黄色に変色するくらいの残量しか残されていなかった。毒によるダメージも続いている。そこにセクメトの攻撃が加わろうものならば、一溜りもない。

 

 

 プレミアは《HPバー》がゼロになってしまえば蘇生できず、そのまま死ぬ。

 

 

 エジプト神話で死神とされるセクメトは、ある程度プレミアと距離を詰めてから尻を上げた。飛び掛かり攻撃の予備動作だ。セクメトは本気でプレミアに止めを刺すつもりでいる。

 

 

 このままでは守るべきプレミアの生命が喪われてしまう――。

 

 

「このぉッ!!」

 

 

 次の光景を想像したキリトは、全身に力を込めて立ち上がった。毒状態が続いているせいで不快感が全身に走っているけれど、気にも留まらない。

 

 

 プレミアを守らなくては。

 

 今度こそ、守らなくては。

 

 今度こそ俺の手で彼女を守らなくては――。

 

 

 胸の中で叫んで、地面を蹴り上げて走り出す。

 

 一気にセクメトとの距離が縮んでいく。その中でキリトは思考を巡らせる。

 

 昨日の戦いの時、こう思ったところで《衝動》は来た。自分はその時の《衝動》に呑み込まれてしまい、カーディナルシステムの防衛機構の本能の赴くままに暴れるだけになった。

 

 

 もしかしたら今回もそうなるのではないか。

 

 またあの時のように呑み込まれてしまうのではないか。

 

 カーディナルシステムに意思を読み取られ、《衝動》を与えられてしまうのか。

 

 

 しかし、そう思うキリトに一向にそれは来なかった。《衝動》はない。自分の意志だけが頭の中にあり、自分の身体に満ちている。あの時と同じ事を思っているが、カーディナルの防衛機構は何もしてこない。

 

 

 やはりシステムを流用している《使い魔》が力を使わない限りは、あの《衝動》は来ないようになっているのかもしれない。

 

 アヌビスはジェネシスの《使い魔》だったからこそあの力を発揮できた。この場にアヌビスはいないし、襲ってきているセクメトも主人がいないから、力を発揮できない。

 

 

 これならいける――口の中でそう呟いたその時、飛び掛かりの姿勢を作るセクメトの身体が大きくよろけて、そのままプレミアから遠ざけられた。

 

 ここを縄張りとしているアメミットが、その大顎でセクメトに噛み付いているのが見えた。縄張りを侵された事にひどく怒っているらしく、思い切り顎に力を込めてセクメトに喰らい付いている。

 

 突然攻撃を仕掛けられたセクメトは驚いたのか、全身をばたつかせてアメミットを振りほどこうとしているが、アメミットが離れていく気配はない。

 

 完全に隙だらけだ――キリトは一気にセクメトに肉薄、赤い光を纏う両手の剣で力強くセクメトを切り裂いた。

 

 

「だあああああッ!!」

 

 

 一発一発に重量が宿る剣撃を八回連続で叩き込むと、その全てがセクメトの甲殻の下の肉へ届き、確かなダメージを与えた。

 

 

 八連続重攻撃二刀流ソードスキル《ナイトメア・レイン》。

 

 

 防御も打ち破る渾身のソードスキルを撃ち終えた時、リランとシノンもまたセクメトへ接近してソードスキルをぶつけているのが見えた。三人のソードスキルを一斉に喰らったセクメトは大きな悲鳴を上げて苦しみ、《HPバー》の残量をかなり減少させる。

 

 直後にソードスキル使用後の硬直が発生したが、その最中でもセクメトは身動きが取れない。アメミットにしっかり噛み付かれているせいだ。

 

 アメミットを振りほどこうとしている間にキリト達の硬直は終わり、リランが咄嗟にキリトへ声を飛ばした。

 

 

「キリト、プレミアを抱えて離れろ!!」

 

 

 返事をするよりも前に、キリトはプレミアへ駆け寄った。プレミアは仰向けになって倒れたまま動かないでいた。猛毒に侵され続けたせいだろう、《HPバー》は赤色になるくらいにまで減ってしまっている。

 

 だが、その猛毒状態は解除されていた。もう少し長引いていたら本当に危ないところだっただろう。

 

 キリトは心から安堵した時、プレミアの瞼が僅かに開いた。

 

 

「キリ……ト……」

 

「プレミア、一旦離れるぞ」

 

 

 キリトはプレミアの華奢な身体を、お姫様抱っこの要領で持ち上げた。そのまま一気に後方へ下がり、取っ組み合いをするセクメトとアメミットから離れる。

 

 そこでキリトはすぐさま、懐に仕舞っておいた緑色の長方形の結晶を取り出し、プレミアにかざしつつヒールと唱えた。SAOの時から存在している、HPをその場で回復してくれるアイテムの《回復結晶》だ。ポーションの何倍もの値段がする代物だが、渋っている場合ではなかった。

 

 結晶は小さな音を立ててポリゴン片へ変わり、プレミアの身体を緑色の暖かい光が包み込む。直後、赤色に変色するほどの量しかなかったプレミアの《HPバー》は一気に満タンになった。

 

 残量が右端に到達したのを確認して、キリトは溜息を吐く。

 

 

「なんとかなったか……」

 

「キリト……わたしは……」

 

「もう大丈夫だよ。ここまで回復できれば――」

 

 

 弱々しくもはっきりと開かれたプレミアの瞳を見つめながら口を動かした次の瞬間、背後から轟音と二つの悲鳴が聞こえてきた。

 

 驚いて向き直ってみると、自由を取り戻した黒猫の姿が確認出来た。黒猫の傍には先程まで噛みついて拘束していたアメミットの姿があり、そのすぐ近くにリランとシノンが倒れていた。

 

 

 拙い、アメミットによる拘束が解けた――キリトが焦ろうとしたその時だ。

 

 

 セクメトは四肢に力を込めてその場で踏ん張り、空高く咆吼した。ネコ科の動物のそれとドラゴンのそれが混ざったようなおどろおどろしい声が周囲に響き渡り、セクメトの近くで紫の火柱がいくつも起こる。

 

 

 今度は何が起きた――と思ったそこで、セクメトは体勢を立て直す。そのセクメトの目に視線を向けたそこで、キリトは背筋を凍らせた。

 

 

 

 セクメトの目は赤い光に包み込まれ、爛々と輝いていたのだ。昨日戦ったアヌビスが狂暴化したその時のように。

 

 

 

 それはセクメトがカーディナルの防衛機構の器になった事の証明だった。

 

 

「嘘だろ……!?」

 

 

 思わずキリトは呟いていた。

 

 《使い魔》は主人である《ビーストテイマー》が危機に陥った時、カーディナルの防衛機構を呼び出して、自身を器にする事ですさまじい力を得る事が出来る。

 

 しかしセクメトの近くには《ビーストテイマー》がいないうえに、セクメトの主人が危機に陥っているのもわからない。

 

 なのにセクメトはカーディナルの防衛機構の力を引き出してしまった。

 

 一体なぜ――言葉を紡ごうとしたその時だった。

 

 

 《衝動》が来た。

 

 

「ッ!! あぐッ……!!」

 

 

 全身から力が抜き取られ、プレミアのすぐ近くにキリトは崩れた。呼吸が一気に苦しくなり、力が抜けた身体の奥底から得体のしれない《衝動》が突き上げてくる。それは今にも全身の感覚を塗り潰しにかかってきていた。

 

 《使い魔》によってこの場に呼び出されたカーディナルシステムの防衛機構がかつての器を見つけ出し、具現化しようとしている。

 

 

「ぐっ、うううッ……!!」

 

「キリト……!!」

 

 

 キリトは両手で頭を抑え込み、髪の毛を握り締める。思い切り歯を食い縛った後に、つい先ほど聞いたイリスからの助言をなんとかして頭の中で再生した。

 

 

 カーディナルの防衛機構は感情や意識をノイズと認識して除去を試みてくる。昨日暴れまわっている時に意識が無かったのはそのせいだ。

 

 しかしカーディナルの防衛機構が除去しきれないくらいに意志を強く持って反発すれば、或いはカーディナルの防衛機構に支配されずに済むかもしれない。カーディナルの防衛機構をアバターから追い出すのだ。

 

 

 キリトは歯がすり減るくらいに食い縛り、念じた。

 

 

 これは俺の身体だ。

 

 お前の支配に呑み込ませない。

 

 俺はお前の器なんかじゃない。

 

 出ていけ。

 

 俺の中から出ていけ――。

 

 

 深く浅く、全身の奥底をイメージして呼吸し、全身の感覚を取り戻そうとする。

 

 そして何度も何度も意識を塗り潰そうとしてくる《衝動》に訴えかけた。

 

 

「ぐっ、うぁあッ……」

 

 

 効果はあった。

 

 意志を強く持ち、強く念じる事で確かに《衝動》は薄れた。

 

 しかしカーディナルの防衛機構の力は想像以上で、負けないと言わんばかりに《衝動》の勢いを強くしてきた。

 

 目の前がスパークして赤く染まっていく。意識がどんどん薄くなり、頭の中が白く霞んできている。

 

 

 昨日のあの時と同じだ。

 

 このままカーディナルの防衛機構に乗っ取られ、ホロウアバターになる。

 

 

「く……そ……ぉ……」

 

 

 自分はこれまで様々な者達に英雄やヒーローと言われてきた。

 

 仲間の皆もそう言ってくれている。お前は英雄だと、ヒーローだと。

 

 

 けれど自分の本質は英雄でもヒーローでもなんでもない。

 

 本質はただの一プレイヤーにすぎない。結局ただのプレイヤーでしかない。

 

 

 そんなものがカーディナルシステムという、この世界の神たる存在に打ち勝てるわけがないのだ。

 

 

 やはり自分は――カーディナルの赴くまま目を閉じようとしたその時、キリトは急に地面の方へ引っ張られた。

 

 目を開けてみると、泣き黒子のある少女の顔がすぐ近くにあった。その少女の額と、自身の額が重ねられていた。細いその手はしっかりとキリトの顔を包み込み、キリトの全身を支えてもいた。

 

 

 急な少女の行動に思わず驚いてしまっていると、その口元がゆっくりと動いた。

 

 

「もう、させません。わたしのためにキリトを……あんなふうになんかしません」

 

「プレ……ミ……」

 

 

 赤く染まりつつある視界の中で、少女の名を呼んだその時、少女の口が一際大きく開かれた。

 

 

「絶対に、させませんッ!!!」

 

 

 これまで聞いた事が無いくらいに凛とした少女の声が響いた瞬間、時間が止まった。

 

 いや、時間は止まっていなかったが、それくらいにまで世界がスローになってしまったように感じられた。

 

 耳から入ってきた少女の声は、キリトの全身へ行き渡っていった。

 

 頭の中、胸の中と進んでいき、やがて指先にまで到達したそこで――仮想の肉体と現実の肉体に意識が再接続される。

 

 

 塗り潰しに来ていた《衝動》は瞬く間に消え去っていき、全身に力が取り戻された。

 

 

 キリトが意識をはっきりとさせたその時には、迫り来ていたカーディナルの防衛機構が完全に退いていっていた。身体の自由は取り戻されていたが、キリトはプレミアに顔を包まれたまま動けなかった。

 

 

 今、何が起きたというのか。

 

 プレミアは今、自分に何をしたというのか。

 

 どうしてカーディナルの防衛機構が退けられたというのか。

 

 

 何一つわからないまま茫然としていると、プレミアが額を遠ざけてその目を開けた。美しい水色の瞳の中に自身の姿が映り込ませ、キリトは問うた。

 

 

「プレミア、君は今……一体……?」

 

「あ……あ、ぅ……?」

 

 

 プレミアは小声を交えながら首を傾げた。何が起きたのかわからないような顔をしている。まるで自分の身に何が起きたのかわかっていない、それこそ今の自分のような気持ちになっているかのようだった。

 

 

「お、おいプレミア……」

 

「キリト、大丈夫……ですか」

 

「へっ?」

 

 

 プレミアは顔色を変えずに、もう一度問うてきた。

 

 

「キリト、大丈夫ですか」

 

 

 キリトは思わずきょとんとして現状を把握しようとする。

 

 セクメトが力を使ったせいでカーディナルの防衛機構が来そうになっていた。そして自分はそれの作る《衝動》に呑み込まれそうだったが、プレミアの額に触れたて叫びを聞いた途端、《衝動》は消えてしまった。

 

 《衝動》に呑み込まれそうで危険だったけれど、それは今ない。つまり危険ではなくなっている。

 

 

「あ、あぁ。大丈夫みたいだ。君のおかげで助かったらしい。けれどプレミア、今のは一体?」

 

「わかりません。ただ、キリトがまたあんなふうになりそうだったので……それだけは嫌だったので……わたしは……何をしたのでしょうか」

 

 

 プレミアは戸惑っているような表情を見せている。自分のやった事がわかっていないようだ。何をしたのか聞きたいのは自分なのに、本人に聞き返されてしまっている。

 

 迷いながら次の言葉をかけようとしたその時、轟音が連続して鳴り響いた。二人揃って向き直る。

 

 

 赤い目をしたセクメトの姿がまたそこで確認できた。強い攻撃を出し終えたような姿勢を取っており、そのすぐ近くにはアメミットが倒れ伏していた。

 

 

「アメミットが……!」

 

 

 次の瞬間、アメミットの身体は水色の光に包み込まれてシルエットと化し、爆発。その身体を無数のポリゴン片へと変えて、消滅した。カーディナルの防衛機構を味方につけたセクメトにはアメミットも敵わなかった。

 

 シノンの受けたクエストであるというのに、乱入者であるセクメトが止めを刺してラストアタックボーナスを持っていった――普通のプレイヤーならば憤りを隠せない状況であるが、キリトにはそう思う暇などなかった。

 

 

 邪魔者であったアメミットを排除したセクメトは、視線を真っ直ぐこちらに向けていた。口からは禍々しい牙が覗き、(よだれ)と一緒に紫の炎が(くすぶ)っている。本来の獲物の狩猟に取り掛かろうとしているかのようだ。

 

 

 ハッとしたキリトはプレミアに向き直る。そもそもセクメトはこの戦闘に乱入してきてから、ずっと執拗にプレミアを狙っていた。

 

 一体何の目的があるかは定かではないし、主人からどういう命令を受けているかもわからない。けれどもセクメトは確かにプレミアを狙っている。

 

 セクメトは進化を遂げた事でただでさえ強くなっているのに、カーディナルの防衛機構の器になって狂暴化まで果たしている。

 

 

 今のセクメトの攻撃をプレミアが受けようものならば、間違いなくその時点で終わりだ。

 

 

「今度こそ、やらせてたまるかッ」

 

 

 キリトは落ちていた剣を拾って立ち上がった。《HPバー》の残量は少々心もとない。回復結晶をもう一度使いたいところだが、その隙にセクメトが襲ってくるに違いない。

 

 何の目的のために戦っていて、一体誰に使役されているのか。何一つ真実が明らかになっていない《冥日龍》は目を一際赤く光らせるなり、地面を蹴り上げて走り出した。

 

 黒猫との距離が十メートル前後になったその瞬間だ。キリトは両手の剣に光を宿らせて態勢を変えた。そして迫りくる異形の黒猫の顔に狙いを定めた――

 

 

「させない!」

 

 

 その時、突然耳元に声が届いたかと思えば、目の前に黒くて大きな影が横切った。

 

 迫っていた黒猫は轟音と共に右方向にすっ飛んでいき、大きな音と土煙エフェクトを起こしながら地面を何度も転がっていく。何か大きくて重いものの衝突を受けたような様子だ。

 

 あまりに突然の事だったが、そのような事が連続して起こっているために頭は痺れず、キリトは目を前方へ向けた。白くて大きな影がそこにあった。

 

 白い巨影と言ったら、《使い魔》であるリランの狼竜形態だ。アメミットが倒された事でリランの制限が解除され、狼竜となって助けてくれたのだろう。

 

 

 だが、すぐさまキリトは目の前の存在がリランではない事に気付き、声なく驚いた。

 

 

「……!!」

 

 

 目の前にいるのは大きな猫だった。

 

 

 マントのような白い布の装飾のある、白銀の鎧のような甲殻を纏い、背中からは模様の走る純白のエネルギーの翼が生えている。なのにその毛並みは黒く、耳の後ろからは黒曜石のような色合いの、牛のそれのような角が生えている。

 

 頭上に日輪を思わせる光の輪が浮かんでおり、尻尾の先端は豪勢な槍の穂先のような形状になっている、穏やかな顔をした異形の猫。

 

 

 セクメトと似ても似つかないようなその姿に、キリトは目を奪われた。

 

 

「な、なんだ……」

 

 

 突然飛来した猫。その姿をじっと見ていると、頭上に表示されている名前が目に入ってきた。

 

 

 《Hathor(ハトホル)_The()_SunLifeDragon(サンライフドラゴン)》。

 

 

 《日命龍(にちめいりゅう)ハトホル》。

 

 

「ハトホル……?」

 

 

 セクメトやアメミットと同じエジプト神話の神の名を冠するそれの背中に目を向けると、人影が見えた。

 

 

 それはスカートを伴う、見覚えのあるデザインの白い軽装の上から白いポンチョを深く被り、顔を隠している女性。それが今、新たな黒猫の背中に跨っていた。

 

 

「《ビーストテイマー》……?」

 

 

 




 急襲してきたのはもう一匹の黒猫。

 その背に跨るは白い衣の女性。

 彼女らの目的や正体とは。

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