キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 ボクの名前を呼ぶのは、だれ。

 その声に、ボクは答えていいの。







11:ボクを呼ぶ何かの声

 

 

          □□□

 

 

 

「――――うき……ゆうき……木綿季」

 

 

 どこからともなく聞こえる呼び声に、木綿季は目を開けた。目の前は真っ白だった。どこを見回しても、真っ白くて、何もないように見える。身体を見てみると、SAO、ALO、《SA:O》を渡り歩いてきたユウキではなく、現実世界の身体になっていた。ここは現実世界――というよりもメディキュボイドの中の続きらしい。しかし、少なくとも木綿季の見覚えのある所ではなかった。

 

 

「……え?」

 

 

 ここはどこだろう――そう口にしようとした次の瞬間に、また耳の中に声が聞こえてきた。

 

 

「木綿季、木綿季」

 

 

 次の瞬間、霧が晴れるように目の前に風景が広がり始めた。この白さの正体はものすごい濃霧だったらしい。仮想世界くらいにしかありえなさそうなその霧が晴れたその時、見えてきたものに木綿季はひどく驚いた。

 

 目の前にあるのは、緑色の屋根と白いタイルの壁が特徴的な、小さな家だった。他の家と比べると小さくて狭い方に入るけれども、その分大きな庭がある。もう見れないと思っていた、来る事は出来ないと思っていた、家。目の前にあるのはそれだった。

 

 その姿に見とれていると、また声が聞こえてきた。相変わらず名前を呼んでいた。

 

 

「木綿季、木綿季」

 

 

 今度は超えの聞こえてきた方向が分かり、木綿季はそこへ向き直った。その場所は懐かしき家の玄関の前。家に入る時には必ず通らなければならない青銅製の門扉。その丁度前に、三人の人影が見える。

 

 

「……!!」

 

 

 人影はすぐにはっきりし――その形に木綿季は思わず絶句した。人影の正体は、大人の男性と女性の二人、そして自分と同じくらいの少女の一人だった。だがそれらは他人ではなかった。

 

 

 かつてこの家で一緒に暮らし、一年ばかりだったけれども十分すぎるくらいの思い出を一緒に作った家族。父、母、姉の三人だった。

 

 

「パパ……ママ……ねえ、ちゃん……?」

 

 

 自分と同じエイズを患い、新薬が間に合わず、死んでいったはずの家族。

 

 ――どうしてそれが今ここにいるというのだ。

 

 どうして自分は死んだはずの家族と再会しているのだ――普通ならば抱くかもしれない疑問は、木綿季の胸の中には起こらなかった。

 

 

 微笑みながらこちらを見ている三人を見ながら、木綿季は一歩踏み出した。

 

 

「パパ、ママ、ねえちゃん……!」

 

「木綿季」

 

「木綿季」

 

「木綿季」

 

 

 父、母、姉はそれぞれ木綿季の名前を呼んだ。もう聞く事の出来なかった声で、もう見る事の出来なかったはずの微笑みを見せてくれながら、木綿季を呼んでいた。

 

 

「あぅ……あぅぅッ……」

 

 

 ぽろぽろと目元から雫が垂れてくる。大粒の涙が出てきて止まらないのに、目の前にいる家族の姿はぼやけたり、歪んだりしない。父と母と姉の姿は、しっかりと木綿季の瞳の中に映っていた。

 

 

 もう会えないと思ってた。

 

 でも、また会えた。

 

 

 パパとママ、ねえちゃんにまた会いたい――ボクの願いが叶った。

 

 

「パパぁ、ママぁ、ねえちゃぁんッ!!」

 

 

 叫ぶなり、木綿季は走り出した。エイズに侵されていたのは過去の話となった身体は、木綿季の思い通りに動いてくれた。どんどん家族が、家が近付いてくる。《SA:O》などに居る時のような速さは出ていないけれども、今の木綿季にとっては十分すぎるくらいだった。

 

 

「会いたかった、会いたかったぁ!!」

 

 

 涙を散らして笑いながら、木綿季は走った。家族までの距離がどんどん縮んでいく。あと二十メートルくらい、あと十五メートルくらい、あと十メートル――。

 

 そこまで行ったその時だった。

 

 

 突然木綿季は地面から突き上げられ、ほんの少しだけ宙を舞った。

 

 

「――え」

 

 

 世界がスローになっていた。家族の許に走っていたはずなのに、急に地面から足が離れた。地面の中に何かが居たように、空へと突き上げられている。あまりに急な事に頭の中が痺れて、思考が上手く回らなくなる。

 

 

 何が、何が起きたの――?

 

 

「うぐっ!」

 

 世界のスローモーションが解除され、木綿季は地面に仰向けに落ちた。その時、地面が激しく揺れている事に気付く。縦揺れの地震が起きている。この揺れに脚を掬われて、自分は倒れてしまったのだ。

 

 

「ぱ、パパ、ママ、ねえちゃ……」

 

 

 三人もこの地震に巻き込まれているはずだ。しかも建物の近くにいたから、危ない。

 

 

 パパ、ママ、ねえちゃん、大丈夫――?

 

 

 木綿季は咄嗟に目の前を見たが、そこで目を疑った。

 

 

 三人は木綿季が向かった時と同じように微笑んだまま、立っているだけだ。

 

 この揺れを何とも思っていないように、突っ立っている。

 

 明らかに常軌を逸した光景だ。

 

 

「え……」

 

 

 家族の様子に木綿季が思わず茫然としたその次の瞬間だ。突然揺れが収まったかと思えば、家を中心にして地面が真っ黒に染まり、ぐちょぐちょという音が鳴るようになった。直後、帰りたかった家が真っ黒に染まった地面の中に沈んでいき始めた。家の下は黒く粘っこく液状化していた。

 

 家を飲み込んだ地面はどんどん広がり、家の前に居た三人の足元にまで及んだ。

 

 

「!!」

 

 

 木綿季は軽く悲鳴を上げた。家の時と同じように、三人も黒く液状化した地面に沈んでいったのだ。木綿季を呼んだ時と同様の微笑みを崩さないまま、ごぽごぽと音を立てて地面の中へと呑み込まれ、消えていった。

 

 木綿季は立ち尽くして、茫然としているしか出来なかった。家も家族も、地面に呑み込まれた。そしてその黒色の地面は瞬く間に広がり――木綿季の足元にまで及んだ。

 

 

「あ……!!」

 

 

 木綿季が声を出した時には、既に足がすっぽりと黒い泥の中に沈んでいた。やがて泥の嵩は足首の上に及ぶ。ごぽごぽという嫌な音を立てながら、家族や家と同様に、木綿季の身体は黒い地面の中に呑み込まれていきつつあった。

 

 

「あ゛、あ、あ゛あ゛、あああ゛あ゛、あっ、あぁっ、あ゛あ゛ぁぁぁッ!!!」

 

 

 木綿季は一心不乱に叫びながら、脚を動かそうとした。沈んでしまった脚を泥の中から引っ張り出そうと力を込めて動かす。しかし脚は動いてくれない。何かに掴まれているかのように、動かせなかった。

 

 その間にも身体は黒い泥の中に沈んでいった。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと、沈んでいった。やがて黒い泥が膝の下にまで及んだその時、泥の中から何かが飛び出した。それは手だった。人間のそれの、腕の部分を異常なまでに伸ばしたような形状をした、黒い泥に包まれた手だった。

 

 手は何本も泥の中から突き出てきて、木綿季の腰へ、腹へ、腕へ、胸へ掴みかかった。生暖かさと氷のような冷たさが入り混じっているような感触の手は、瞬く間に木綿季の身体の自由を奪い取った。足も既に、複数の黒い泥の手にしっかり掴まれて、動かせなくなっていた。

 

 

「木綿季、こっちにおいで、こっちにおいで、こっちにおいで、ゆうき、おいで、おいで、おいで」

 

 

 声が聞こえた。父のものでも、母のものでも、姉のものでもある声。泥の中に沈んだ家族の声が混ざり合った異形(いけい)の声が、泥の音と一緒に耳に飛び込んできていた。それは家族を呑み込んだこの地面そのものの声だった。

 

 

「ゆうき、おいで、おいでおいで、おいで、こっちにおいで、木綿季おいで、おいでおいで」

 

「い゛やッ、あッ、う゛あぁっ、ああああ゛ッ」

 

「木綿季、こっちにおいで、木綿季、かわいそう、かわいそう、かわいそう、かわいそう」

 

 

 木綿季は身を捩って、絡みついてくる手を振りほどこうとする。しかし黒い泥の手はしっかりと木綿季の身体を掴み、決して離そうとはしなかった。泥の底から声は続く。

 

 

「木綿季、かわいそう、かわいそう、ゆうきかわいそう木綿季かわいそうかわいそうかわいそう」

 

 

 耳を塞ぎたくても、腕を、手を掴まれているせいで塞げない。身体はもう腹の辺りまで泥の中に沈んでいた。

 

 この泥は自分が一人ぼっちなのを知っている。父と母が、姉が死んだ事を知っている。だから、誘っている。自分をこの一人ぼっちから助け出そうとしている。その誘いを、木綿季は首を横に振って断ろうとする。

 

 

「やだッ、いやだっ、いやだッ、やだっ、やだああッ」

 

「こっちへおいで、こっちにおいで、こっちにおいで、こっちへおいで、木綿季、こっちへおいでおいで、おいで、おいでおいでおいでおいでおいで、かわいそう、ゆうき、かわいそう、こっちへおいで、こっちにおいで、かわいそう」

 

 

 腹が沈み、胸が沈み、完全に身動きが取れなくなる。そして口元にまで泥が及んだその時に、ひときわ大きな声がした。

 

 

 

 ゆ う き

 

 

 か わ い そ う 

 

 

 こ っ ち へ お い で

 

 

 

「――――――――――――――――――――ッ!!!」

 

 

 他でもない、自分の叫び声で木綿季は顔を上げた。

 

 そこは泥の底ではなかった。光を放ついくつもの白い窓が照らす部屋の中だった。

 

 

「はっ、はッ、はッ、はあ、はあ……」

 

 

 ひどい運動をした時のように息が荒くなっていた。仮初(かりそめ)の肉体の中にある臓腑(ぞうふ)、心臓が異様な速度で脈打っている。メディキュボイドに接続されている本来の身体はそうじゃないのだろうが、仮想世界の肉体の心臓は忙しなく動いていた。

 

 

「今の……は……」

 

 

 木綿季はふと周りを見る。周りは少し暗いけれども、浮かんでいる窓から発せられる白い光によって灯りが保たれている。ここは自分の使っている部屋の中で間違いない。あの黒い泥の底ではないようだ。今のはどうやら、夢だったようだ。泥の中に沈んでいく自分の身体は、夢の中の出来事だったらしい。

 

 

「夢……?」

 

 

 木綿季は荒くなった息を整えるように呼吸するが、その時足元を見た。足元は黒かった。この部屋の特徴は暗い事であり、床も壁も闇のように暗い事だ。ウインドウの放つ白い光の影響を受けず、黒さを保っている。

 

 その黒さは――あの自分を飲み込もうとした泥の黒さにそっくりだった。

 

 

「ひッ……」

 

 

 喉からか細い声を出して、木綿季は飛び上がりそうになった。胸の中に何かが渦巻いている。それは恐怖だった。

 

 この部屋の黒はあの泥の黒と同じだ。この部屋の床も壁も、あのように泥になって――自分はその底へ沈んでいくのではないか。

 

 

 このまま足を付け続けていたら、ごぽんと底が抜けて、ずぶずぶと身体が沈んでいって、泥の手が沢山飛び出してきて、自分を捕まえて……そして、誘うのだ。

 

 

 

 おいで、おいで、かわいそう、かわいそう――。

 

 

 

「いやだ……いやだ、いやだッ……!」

 

 

 木綿季は首を横に激しく振ると、この場から逃れるようにウインドウを操作し、他VRMMOへのログインのシーケンスを行った。

 

 

「リンクスタートッ……!!」

 

 

 木綿季が訴えるように言うと、異世界への扉は開かれ、木綿季の意識はその中へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

           ■■■

 

 

 

 

「今日はこれくらいでいいかな。皆の手伝いも上手くいったし」

 

 

 《はじまりの街》の転移門エリア、転移門の傍らで独り言ちた。今日はALOからの仲間達であるスリーピング・ナイツの皆が《SA:O》への参加チケットを手に、ログインしてくるという大きな用事があった。

 

 それをぼくはユウキと一緒に迎えたのだけれど、日中はユウキの病院の用事があって、皆と遊ぶ事は出来なかった。皆と遊べるようになったのは夕食と風呂が終わった後からになってしまい、皆と合流できたのは午後八時を過ぎた頃だった。

 

 日付が変わるまでゲームをしているというのは、ぼくにとっては日常茶飯事だ。十二時までログインしているのはよくあるし、時には午前二時頃までログインしてやっている時もある。だからログインした時間が遅くなっても問題はない。けれども、スリーピング・ナイツの皆はそうではなかった。

 

 スリーピング・ナイツの皆は重病を患っていた者達であり、それらから回復した今も睡眠による体調管理、免疫力向上を義務付けられている。治美先生と倉橋先生曰く「《超人の骨髄》を持っている」とかいうぼくのようにいかないのだ。

 

 だから今日スリーピング・ナイツの皆と遊べた時間は二時間ちょっとくらいで、午前十二時三十分過ぎの現在、ログインしているのはぼくだけになっていた。

 

 新たなるチケット入手者達、新規参加者達によって盛り上がっていた《はじまりの街》の人気(ひとけ)も、かなり下火になっている。フレンドリストを見てみれば、残っているのはキリトやクライン、ディアベルくらいだ。残りの仲間達は既にログアウトしていた。

 

 

「……木綿季」

 

 

 フレンドリストの中にある、《ユウキ》という名前を見つけて、ぼくはソートを止める。

 

 今日の病院での面会の後、ユウキ/木綿季はぼくと一緒に帰っていたけれど、その途中でスリーピング・ナイツの皆との会話をして、ぼくを置いて一人でログインしていってしまった。病院を出る時に「《SA:O》に行く時は一緒」という約束をしたというのに、だ。

 

 約束したのに平然と破り、電車の中に置き去りにした。そんな事をされたものだから、流石にぼくも木綿季を怒る気になった。

 

 木綿季とは一緒に食事を摂るようにしていて、彼女は夕食時には必ずログアウトして、プローブの中に戻ってくるようにしている。夕食時になったらまず木綿季を怒ろう――そう思ってぼくは家に帰った。

 

 けれど、そこで意外な事が起こった。夕食時になっても木綿季は戻ってこなかった。昼食はすっぽかす事はあっても、朝食と夕食だけはすっぽかさず、ぼくとぼくの家族と一緒に食事する事を習慣にしている木綿季なのに、彼女はプローブの中に戻ってこなかったのだ。

 

 時間になっても木綿季が来ないから、「どうしたのか」とおかあさんとおとうさんは心配しているようだった。

 

 ぼくとの約束どころか、一緒の夕食さえもすっぽかしたのか。そしてぼくとぼくの両親にいらない心配をかけさせているとまで来た。木綿季にしてはあんまりな行動の連続に、ぼくは更に怒りたくなった。

 

 ログインしたら木綿季を即座に捕まえて怒らなければ――そう思って木綿季のいない夕食の後、入浴を済ませ、ぼくは《SA:O》へログインした。

 

 そこでのスリーピング・ナイツの皆からの話に、ぼくは驚かされる事になった。木綿季/ユウキはあの後、《白の竜剣士》の異名を持つヴェルサとデュエルして勝利したが、その頃から具合を悪くしてログアウトしたというのだ。「夕食の時に戻って来れなかったのは、具合が悪かったからだ」――皆はぼくにそう言い、「ユウキを怒らないでやってくれ」と頼んできた。

 

 

 その皆の頼みを聞くより前に、木綿季が具合を悪くしているという話が出てきた時点で、ぼくの中の怒りの気持ちは消えていた。

 

 いつもは馬鹿みたいに元気で天真爛漫(てんしんらんまん)な木綿季。そんな木綿季が具合を悪くしていると聞くと、なんだか胸騒ぎが起こる。もう木綿季の身体は大丈夫だと言われているし、その話を何度も聞いている。

 

 木綿季はもう大丈夫――そう思えるはずなのに、その中に紛れて不安が起きてくるのだ。

 

 もしかして、もしかしたら、木綿季は――。

 

 

「ううん」

 

 

 ぼくは首を思い切り横に振った。そんなわけがない。この不安は気のせいだ。

 

 それに、こんな事は前にもあった。その時焦って原因を調べてみたら、長時間ログインによる寝不足が原因だったりして、呆れた。

 

 きっと今回もそれと同じだ。ちょっと調子が悪くなっただけ。寝不足で、睡眠不足で調子が悪くなっただけだ。明日――正確には今日の朝――には元の木綿季に戻っている。スリーピング・ナイツの皆には怒るなと頼まれたけれど、明日木綿季がプローブの中に戻ってきたら、その時は怒らないといけない。

 

 夕食は仕方ないにしても、一緒にログインの約束のすっぽかしは明らかに故意なものなのだから。

 

 

「全くもう……」

 

 

 思わず溜息を吐いた。それにしても、もう午前十二時を軽く過ぎている。他に遊んでいる友達もヘビーユーザーだけだ。そろそろぼくも落ちるべき頃だろう。ピックアップされていたコルや経験値の美味しいクエストもスリーピング・ナイツの皆と一緒に片付けたから、やりたい事は特に残っていない。落ち時だ。

 

 

「さてと……」

 

 

 大宿屋に戻ってログアウトしよう。そう思ったその時だ。丁度向かおうと思っていた大宿屋のある商店街エリア方面から、ぼくを呼ぶ声が聞こえてきた。

 

 

「――カイム!」

 

「え?」

 

 

 声に呼ばれるまま、ぼくはそこへ向き直る。そして驚かされる。数えられるくらいしかいないプレイヤー達の間に、見覚えがあるどころじゃない人影が一つ。菖蒲のような色の長髪に赤いリボン、同じく紫色を基調とした軽装に、赤紫の大きな瞳が特徴的な少女。

 

 

「……ユウキ」

 

 

 こんな時間にここにユウキがいる。その光景にぼくは更に呆れた。

 

 ユウキは具合が悪くなってログアウトし、夕食も摂らずに休んでいた。休んでいるべきはずなのに、ユウキは今《SA:O》の《はじまりの街》、転移門広場にいるぼくの前方に確かにいる。

 

 具合がよくなったと勝手に自己判断してログインしてきたというのか。早めのログアウトになったから物足りなくなって、こんな時間になってもログインしようと思ったのか。どんな理由があるのかはわからない。だけど、いずれにしてもいよいよ怒らないといけない。

 

 具合が悪い癖に、こんな時間にここで何をしてるんだ。いやそれ以前に、昼間の約束がなんだったか覚えてる――? そう尋ねようとしたそこで、ぼくは身体に軽い衝撃を感じた。何か重くもなければ軽くもない物がぶつかってきたような感触だった。

 

 ぶつかって来たモノ、その正体を探ろうとしたその時。ぼくは胸のすぐ前に菖蒲色の物体がある事に、身体の前の方が暖かくなっている事に気が付いた。

 

 

「――え」

 

 

 一瞬何が起きたのかわからなかった。でも、すぐにわかった。ぶつかって来たモノの正体は、ユウキだった。

 

 

 ユウキが――ぼくに抱き付いてきていた。

 

 

「カイム……かい、む……ッ!」

 

「え、え、え」

 

 

 キリト以外の誰にも話していないけれど、ぼくはユウキが好きだ。そしてユウキ/木綿季とは家族になる事が確定している。でも、まだ好きだという気持ちを伝えられておらず、恋人関係になっていない。だけど、恋人同士の関係になりたい。

 

 そう思っている対象であるユウキが、ぼくの胸に抱き付いてきている。

 

 

「ちょ、ちょ、ユ、ユウキッ!?」

 

 

 心臓がかなり早く鼓動を刻んでいた。明らかにどきどきしているし、気持ちが落ち着きを失っている。ユウキを抱き締めたい、ユウキと抱き締め合いたいという気持ちは、ぼくの中にずっとあったものだ。いつか実現させたいと思っていたものだ。

 

 だけど、こんなに早く実現してもらいたかったわけじゃない。そんなぼくの気持ちを一切無視して抱擁をかましてきたユウキに触る事も出来ず、ぼくはどぎまぎするしかなかった。

 

 

「ちょっと、ちょっとユウキってば、ど、どうしたんだよ!?」

 

「カイムッ……かいむぅッ……!!」

 

 

 ユウキはしっかりとぼくの胸にくっついていた。慌てながら周囲を見る。奇跡というべきなのか、転移門の周辺にいる人々は全員NPCになっていた。プレイヤー達は全員ここから去ってしまっているらしい。

 

 しかし、そのNPC達も明らかにこっちを見ているし、プレイヤー達が来ようものならば、達まち注目の的だ。そんなものに耐えられるほどの強さなど、ぼくは持ち合わせていない。

 

 

「や、やめてよ、やめてってば! ユウキ、離れてって!」

 

「いやだッ!! 離れたくないッ!!!」

 

 

 突然のユウキの叫びに、ぼくは驚いた。その声は転移門広場全体に木霊するくらいだった。そしてそれは周りの喧騒や環境音を全て無音に変え、ぼくの焦りを全て打ち消し――異様な集中力に似た何かを与えてきた。

 

 そこでぼくは、ユウキの身体が震えている事、ユウキは単に抱き締めてきているのではなく、縋り付いてきているという事に気が付いた。明らかに、今のユウキはぼくの知るユウキのいつもの状態というモノではなかった。

 

 やがてユウキは絞り出したような声で、訴えた。

 

 

「お願い……近くに居て……カイム……近くに居て、よぉ……」

 

 

 ユウキの顔がくっついている胸元に、湿り気に似た感覚があった。涙だ。あのユウキが、泣いている。今までお腹を抱えて笑った時くらいにしか見せなかった涙。どんなに悲しかろうが辛かろうが、流す事の無かった涙を流しながら、ユウキはぼくに訴えかけている。

 

 その現状に思考が止まりそうだったが、ぼくは首を横に振って我に返り――ひとまずユウキの肩に手を添えた。

 

 

「……わけがわからないけど、近くにはいるよ。近くにいる事はやめないから……だからさ、その……離れてくれない、かな……」

 

 

 ユウキは……頷かなかった。ぼくの胸にしがみ付く事をやめない。このままでいるしかないらしい。通行人達にどんなふうに思われようとも、今はこうしているしかない――ぼくは気付かれないように溜息を吐き、ユウキに問うた。

 

 

「……ユウキ、どうしたの。こんなの、ユウキらしくない」

 

「……カイム」

 

「なに」

 

「ボクは……生きてて、いいんだよね……?」

 

 

 この状況になった時と同様に唐突なその質問に、ぼくはきょとんとする。ユウキはぼくの胸の中で、ぼくの胸元を強く握りしめた。

 

 

「ボク、海夢の家族になっていいんだよね? 海夢のおかあさんとおとうさんの子供になって、一緒に暮らしていいんだよね? 海夢の家の神社の巫女さんになって、海夢達に恩返しして、いいんだよね?」

 

 

 いつにもなくユウキは質問攻めをしてきた。答えではなく、助けを求めるように、涙ながらに訴えかけてきていた。どうしてそんな事を聞くのか――まずはそう聞きたいところだったけれど、それに今のユウキが答えられないというのは明らかだった。

 

 

「ねえ、海夢、教えてよ。ボクは、ボクはあ……」

 

 

 ユウキは顔を上げて訴えかけた。自分の生きる意味。自分は生きてていいのか。正直なところユウキ/木綿季の口から出てきているのがかなり違和感のある質問。それに対する答えを、極めて唐突に出している。でもそれは簡単なものだった。学校のテスト――家庭科のテストよりも簡単に答えを出せるものだった。

 

 それがなかなか口のところまで上がってきてくれなかったけれど、不思議な事に、今すぐ近くにあるユウキの瞳が後押しをしてくれた。

 

 

「……木綿季は生きてていい? そうに決まってるじゃないか」

 

「へっ……?」

 

「話したでしょ。木綿季はもうすぐうちに来る事になってるんだし、おとうさんとおかあさんももう木綿季の事を受け入れてる。それに……木綿季がおねえちゃんの跡を継いで巫女になるっていう話も、おとうさんとおかあさんは認めてるんだ。それはいいねって、木綿季が白嶺の巫女になるなんて素敵だねって……今日の夕食の時に言ってたんだ」

 

 

 こっそりと木綿季のいなかった夕食の時の話もすると、木綿季の目は丸くなった。

 

 

「それにさ、そうだよ。木綿季はぼくから新薬を、ぼくの家族から家をもらってるのに、何もしてない。ぼく達はこれだけ木綿季の事を助けてあげたっていうのに、木綿季からは何もない。こんなの不公平じゃないか。こんなの、助け損だよ」

 

 

 木綿季はぱちぱちと瞬きを繰り返した。そんな木綿季の頬にぼくは手を当てて、かつておねえちゃんがぼくにしてくれたように、そっと撫でてあげた。

 

 

「だから、生きてていいとか、生きる意味があるとかないとかどうとか以前に、木綿季には生きてもらわないといけないよ。生きて、元気になってもらって、ぼくとぼくの家の家族になってもらって、一緒に暮らしていってもらわないと。それで……」

 

 

 ぼくは一呼吸置いてから、一番楽しみにしている事を木綿季に話した。

 

 

「それで、やる気なら巫女になってもらって、白嶺神社のお祭りで(おど)ってるところを見せてもらわないと。……だから、木綿季は生きてていいんじゃない。木綿季には、()()()()()()()()()()()()()

 

「生きててもらわないと……こま……る……」

 

「そうだよ。木綿季には生きててもらわないと困るの。わかった?」

 

 

 そこまで言ったところで、ぼくは大きく失敗したと思って俯いた。もっと良い言い方があったはずだ。木綿季の心を立ち上がらせるような、良い伝え方があったはずなのだ。

 

 なのにいつもの癖で、明らかに木綿季の(へそ)を曲げさせるような言い方になってしまった。これならもう一回言い直すべきか――そう思って前に向き直ったそこで、ぼくはもう一度驚く羽目になった。

 

 あれだけ辛そうな顔をしていた木綿季の顔に、笑顔が浮かんでいたのだ。涙の痕はくっきり残っているけれども。その顔をしたまま、木綿季は口を動かした。

 

 

「……わかった……わかったよ。ボク、ボク生きるね。生きてていいんじゃなくて、生きるね。ボクを助けてくれた海夢のために……」

 

「……そうして」

 

 

 そこでようやく、木綿季の手がぼくの胸から離れてくれた。木綿季の身体がほんの少しだけ遠ざかる。

 

 

「満足した?」

 

「うん、満足した……ありがとう、海夢」

 

「どういたいまして」

 

 

 ぼくはもう一度ウインドウを開いて時刻を確認する。午前十二時三十分を過ぎているのは変わりない。そして具合が悪いはずの木綿季がログインしている事も、良くない。

 

 

「さてと、もう落ちないといけない。ユウキ、なんでこんな事をしたのか、朝ご飯の後で話してよ。聞いてあげるから」

 

「うん。朝になったら話すね。おやすみ、カイム」

 

 

 木綿季/ユウキにしては随分と素直に言い、すぐさまログアウトの処理。見慣れた白い光に全身を包み込ませ、彼女は《SA:O》を脱していった。

 

 こんな時間にあんな事をされたのは初めてだ。余程の事があったからに違いない。ここに来た木綿季は何を思っていたのか。何が木綿季にあんな事をさせたのか。それなりに濃い疑問を胸に起こしながら、ぼくもウインドウを操作。ログアウト処理を実行した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            □□□

 

 

 

「これは……そんな、なんて事……」

 

 

「これは、一体どういう事ですか」

 

「わからない……とにかく、これを一刻も早く私の研究機関の方に伝えてください! それと、研究機関のスタッフ達にここへ来るよう伝えてください!」

 

「情報などは……」

 

「他の病院への情報提供や、入院している患者達に話したりしないでください。特にマスコミへの漏洩にだけは気を付けて! 報道されたらどんな混乱が起こってしまうか……!」

 

「わかりました! とにかく、研究機関へ連絡します!」

 

 





















 ――おいで、おいで――

 ――かわいそう、かわいそう――

 ――こっちへおいで――

 ――こっちへきてあげて――

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