キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 濃い目、多目。

 


09:進化の高揚 ―黒の竜剣士との戦い―

         □□□

 

 

 プレミアについて、カーディナルの厄災について様々な事がわかった翌日、キリトはいつもよりかなり早く朝食を済ませ、朝八時過ぎに《SA:O》へのログインを果たした。《SA:O》の中にある自分達の家、普段はリラン達が使っているそこから、リラン達を締め出しているのとほとんど同じような形だったからだ。

 

 キリトがログインを果たした時、意外にも一緒に夜を過ごしたシノンは既にログイン済みで、家から出ていた。鍵は既に解放されており、仲間ならば誰でも家の中に入って来れるようになっていた。しかしシノンが鍵を開放してから三分程度しか経っていなかったので、まだ誰も家の中に入ってきてはいなかった。キリトはいつもの服装に誰にも見られる事なく戻るなり、シノンの場所を確認した。

 

 そこで彼女の居場所がリラン、ユイ、ストレア、そしてプレミアと同じ《はじまりの街》である事を確認すると、リランに場所がどこなのかを尋ねる内容のメッセージを送った。AIであるが故にタイピングが尋常でないくらい早いリランはすぐさま返信してきて、「《はじまりの街》の大レストランで朝食中である」と伝えてきた。彼女達の様子をひとまず把握し、キリトは家を出て《はじまりの街》へ転移、彼女達と合流した。

 

 彼女達に朝の挨拶を告げると、キリトはシノンと一緒になってプレミアの様子を見た。昨日で様々な真実を告げられて、心に負担を掛けられたプレミアは二人の心配を裏切るように、元気に朝食を楽しんでいた。ひとまず昨日の負担は癒えた事が確認出来て、二人は一旦安堵する事が出来たが、気になる事があった。

 

 結局プレミアは自分の力の事などに対してどのような思いを抱く事になったのか。尋ねようとしたその時、リランが止めに入ってきた。

 

 シノンから話を聞いていたリランは、プレミアが目覚めて少し経った頃に尋ねてみたと言った。「お前の思っている事は何だ」と。その問いかけにプレミアは悲しそうな顔をし、「まだ、わかりません」と答えたという。それ以上聞き出そうとしてもプレミアは悲しそうな様子を見せる一方だったので、結局尋ねるのをやめたと、リランは報告した。

 

 プレミアの中での収拾は付いていない。あまりに急かすと無意味に混乱させるだけだ。ひとまずプレミアが自分で収拾を付けられるまでそっとしておいてあげよう――キリトは結論を出してシノンに伝え、プレミアが朝食を進めるのを見ている事にした。

 

 プレミア達の朝食が終わった頃に、アスナ、ユピテル、リズベット、フィリアの四人がログインしてきて、キリト達に合流した。クラインやディアベル、シュピーゲルといった男達よりも早いログインにキリトは意外性を感じたが、その三人は来て早々プレミアに話しかけた。誰もがかなり心配そうな様子だったので、三人ともプレミアが心配で早くログインしてきたという事にキリトは気付かされ、意外でも何でもなかった事を把握できた。

 

 プレミアの様子がひとまず大丈夫な事を確認出来るなり、三人のうちのアスナが突然、「ピクニックをしよう」という提案を持ち掛けてきた。彼女によると、昨日でカーディナルの厄災やグラウンドクエスト、プレミアの双子の姉妹の事など、聞いていて疲れるような話ばかりが分かってきてしまったから、一息つくためにもピクニックをしようと思ったという。

 

 確かにこの世界に来てからのんびりと過ごす事はあまりなかったし、昨日この世界に訪れている厄災の事を知ってしまった事により、緊張や忙しさがピークを迎えた。そんな時だからこそ、ピクニックをして休息を摂るのは重要だろう。何よりこれら厄災に関連する出来事に振り回されているプレミアにゆったりとさせてやりたい――キリトはアスナの提案を呑み込み、やがてその場の全員が賛成。

 

 近日中に仲間達全員でピクニックをする事を決定し、それぞれに役割分担がされる事となった。アスナ、シノン、リーファ、ユウキ、ユピテルの五人がピクニックを盛り上げるための料理作り。フィリア、リズベット、シリカ、レインの四人が食材探しに向かう。ユイ、ストレアの二人が道具などの買い出しに向かう事となり、残されたキリト、リラン、プレミアの三人でピクニックのための場所探しをする事になった。

 

 ピクニックをするうえでは、ロケーションこそが一番重要だ。どんなに良い食材で作られた料理があろうとも、食べる場所が悪くては台無しだ。厄災やグラウンドクエストといったモノから一時的に解放されるようなピクニックをするためにも、しっかりと場所を探さねば。キリトはボス戦に向かうような気持ちを胸に、リラン、プレミアと共にフィールドへ赴いたのだった。

 

 

 そうしてキリト達が向かった場所とは、リューストリア大草原の一角であった。オルトラム城砦を攻略する遥か前に攻略した草原地帯。この《SA:O》という世界での冒険を開始したその場所にキリトは降り立ち、歩みを進めていた。

 

 

「キリト、場所はこの辺りなのか」

 

「あぁ。だって他に良さそうな場所なんてないだろ?」

 

 

 キリトと共に草を踏んで歩いているのは、金色の髪と白金色の毛色をした狼耳、狼尻尾を生やした少女。《使い魔》であるリランの人狼形態である。

 

 戦う時は頼もしいリランの狼竜姿は、探索をする際には巨大な障害物と化す。強敵と戦う必要があれば別だったが、そうではなかったために、リランには人狼形態で来てもらっていた。

 

 《ビーストテイマー》であるキリトの問いかけを受けて、人狼《使い魔》は腕組をする。

 

 

「そうか? ジュエルピーク湖沼群にも、クルドシージ砂漠にも、オルドローブ大森林にも良さそうな場所はあったと思うが」

 

 

 リランの言い分も理解できないわけではない。リランが上げた地の中にも、確かにピクニックをするにはいいかもしれない場所はあった。

 

 だがそれらには地面に泥濘(ぬかるみ)がある、家の近くでしかない、砂嵐が来るかもしれない、広大な縄張りを持つ邪悪なモンスター達が棲んでいるなど、ピクニックをぶち壊しにする要素がいくつも存在している。

 

 そういった妨害要素のないところが、このリューストリア大草原だったからこそ、キリトはここを選んだのだった。現に今目の前に広がる草原地帯は、温かくて心地よい風が草木を揺らし、足元も芝生があって柔らかく、差してくる陽光も適温だ。他の女の子達や男達に聞いてみても、リューストリア大草原が一番だという答えが返ってくるだろう。

 

 その事をキリトが話すと、リランは納得してくれた。

 

 

「それもそうか。確かに他と比べれば、ここが一番であるな」

 

「そうだろう。敵のいないところも多いしな。ここならピクニックするにも丁度いいだろ」

 

 

 そう言うキリトの隣に、プレミアが並んだ。彼女はいつもと同じ服を着ているものの、背中には様々なアイテムの入ったリュックを背負っている。アイテムストレージを介さずにすぐにアイテムを取り出せるようにと、プレミアが自ら考えて持ってきたものだ。ちなみに中には探索に使うアイテムが入っているという。

 

 

「前に聞いた事があります。ピクニックをするのには場所探し事が一番重要。つまりわたし達のやっている事は責任重大です」

 

「そうだよ。最高の場所と美味い飯があってこそ、ピクニックは完成するんだ。どっちかが欠けててはいけない」

 

「最高の場所、ですか?」

 

 

 プレミアは首を傾げていた。いまいち伝わらない部分があったようだ。キリトは咄嗟に次の事を考え、伝える。

 

 

「リランにプレミア、一時停止!」

 

 

 号令するように言うと、二人は立ち止った。

 

 

「その場に腰を下ろす!」

 

 

 キリトに続いて二人はその場に座る。

 

 

「そのまま仰向けに倒れて寝転がる!」

 

 

 三人揃ってバタンと芝生の上に寝転がった。

 

 

「そしてそのまま、周りを見回してごらん」

 

 

 自分で言った事を、キリトは実践した。同じように二人も周りを見回す。上を見れば、どこまでも澄み渡っているような青い空。そこには白い雲がぽつぽつと浮かんでいる。見事な青と白のコントラストだ。

 

 ちょっと視線を落とせば、温かい日差しを受けて喜んでいるであろう緑の草木が、温かさを含んだ風を受けて揺れている。拍子抜けするくらいに長閑(のどか)な風景と雰囲気だった。

 

 

「プレミア、何を感じられる? 君から見て、何が見える?」

 

 

 キリトの右隣に居るプレミアは、きょとんとした様子で風景を見ていた。

 

 

「……暖かい日差しが来ていて……動植物が風を受けて揺れています。とても、綺麗だと思います」

 

 

 誰でもそう思えるくらいに、リューストリア大草原の様子は平和そのものであった。これからカーディナルの厄災が起ころうとしているというのが信じられない。穏やかな風を受け、大地に恵みを届ける陽光を浴びながら、キリトは伝える。

 

 

「そうだろ。ピクニックに最適な場所っていうのは、こういうところさ。どこを見ても綺麗に感じられて、世界の広がりっていうのを感じられる。ピクニックはこういうところでしたいだろ」

 

「はい。こういうところでピクニックがしたいです。最高の場所とは、こういうところを言うのですね」

 

「そういう事だ。ここはピクニック候補地一って事にしておいて、他も探してみようぜ」

 

 

 プレミアはキリトよりも先にむくりと起き上がり、顔を向けてきた。かなりワクワクしている様子だ。

 

 

「はい。わたし達で探し出しましょう、最高の場所を!」

 

「おぉ、乗り気になったな。その調子だぜ、プレミア」

 

 

 キリトとリランが起き上がると、プレミアはふふっと笑んだ。これまでも笑顔は見せる事はあれど、薄らであったプレミアが明確な笑顔を見せてきた事に、思わず二人で驚いた。

 

 

「プレミア、どうした。そんなにはっきり笑って……」

 

 

 明らかに失礼な事を言っているかもしれないが、その自覚がなさそうなリランに向け、プレミアは微笑んだまま答えた。

 

 

「こうしていると楽しいと思いました。世界はこんなにも楽しいところなのですね。楽しくて美しい場所なのですね……」

 

 

 プレミア――そもそもこの世界のNPC達全員がそうだが――は成長段階にあり、世界そのもの有り様を楽しんだりする事は少なかったし、それが出来る者さえ少なかった。他と比べて圧倒的な成長力を持ち、ここまで成長しているプレミアは、世界の美しさや楽しさを感じられるようになっていたのだ。キリトは一種の嬉しさを胸に抱き、プレミアに応える。

 

 

「そうだろう。皆と一緒にピクニックすれば、もっと楽しくなるぜ。綺麗なものも、もっと綺麗に見えるようになるよ」

 

 

 プレミアは自分の胸元に手を添えた。

 

 

「そうですね、期待に胸が膨らみます。……あ」

 

 

 そう言うなり、プレミアは何かに気付いたような反応を示した。

 

 

「……胸が膨らむ……大きくなる……つまりわたしは今、巨乳になっている!」

 

 

 その一言にキリトはリランと一緒に吹き出した。巨乳なんて言う単語がプレミアの口から飛び出したのだから、吹かざるを得ない。

 

 

「その表現は何なんだ、プレミア。巨乳って……」

 

「クラインから教わりました。こんなにも期待で胸が膨らんでいるのですから、わたしは巨乳になっているはず。キリト、わたしの胸は巨乳ですか」

 

 

 そう言ってプレミアは自分の胸をとんとんと叩き、キリトに見せてきた。キリトは溜め息を吐く。

 

 プレミアの成長力は素晴らしいが、その代わり間違った知識や冗談なども真実として受け入れてしまう傾向にあるらしい。彼女はクラインの言った事を真に受けてしまっているのは確かだった。なんて余計な事をしてくれたんだか。

 

 そしてプレミアの胸だが――服の上からでも膨らみは一応確認出来るものの、リーファやストレアやイリスといった本当の巨乳からは程遠い。

 

 俗に言う貧乳というのが、今の彼女の乳房だった。

 

 

「んーとだな……」

 

 

 答えに困ると、間を空けずプレミアはがっくりと肩を落とした。ひどくショックを受けたようだ。

 

 

「その反応は、わたしは巨乳ではないという意味ですね……前に皆で温泉に入った時、イリスやリーファやストレアの胸は大きかったというのに、わたしとシリカなんかは真っ平ら(ぺったんこ)でした。シリカは「あれらはズルい、女の子の胸の大きさは平等であるべきだ」と言っていましたが、わたしも賛成です。わたしもリーファやストレアやイリスのような巨乳になりたいです! 憧れの巨乳に!」

 

 

 キリトは何も言えなかった。また溜め息が出る。

 

 確かにリーファやストレアやイリスの胸は巨乳だし、女の子はあぁいう巨乳に憧れるものだ。そして男も巨乳の女を好むという話もあるが、キリトはそうでもない。現に守るべき人であり、恋人であるシノンの胸はリーファは勿論、アスナのそれよりも小さい方に入るが、キリトは一切気にした事が無い。

 

 女は胸が全てではないし、男だって女は胸が全てと思っているわけではない――そう告げようとしたキリトよりも先に、リランがプレミアに返事をする。

 

 

「プレミア、前にイリスから聞かなかったか。女性の胸の大きさなど、どうでもよい事なのだぞ。女性の胸が持つ本来の機能というモノが全う出来れば、それでよいのだ」

 

「本来の機能? 女性の胸には何か機能があるというのですか」

 

 

 「あ、ヤバい」。キリトは直感でそう思った。

 

 確かに女性の胸というものにはやるべき役割がある。それを成し遂げられれば大きさなど気にするに値しない――リランはその内容を細かく伝えようとしているようだが、そんな事を学習したプレミアが何を言い出すようになるかなど、安易に想像が付く。今のプレミアに教えるのは拙い。

 

 

「いやいやいやいやリランさん、今教えなくていいですからね!? プレミアさんもまだ知らなくていいですからね!?」

 

 

 リランは「なぬ?」と言い、プレミアは首を傾げてキリトを見つめた。

 

 

「キリト、これはプレミアに教えなければならぬ事であろう」

 

「キリト、わたしがまだ知らなくていい事が女性の胸にあるというのですか」

 

 

 二人一斉に尋ねられ、キリトは慌てた。この二人をどう説得すべきだろうか。正しい事を教えようとしているAIと、知識を欲しがっているAI。そんなものの対処方法など思い付きそうにないし、頭も思い付いてくれない。ボスモンスターや強敵と戦っている時はものすごい勢いで攻め方を思い付いてくれるキリトの頭は現在、業務放棄をしていた。

 

 

「た、助けて、助けてくれ、ぐ、ぐあああああああッ!!」

 

 

 二人のAIに迫られていたそこで、キリトの耳に音が飛び込んだ。悲鳴だった。それが聞き間違いではないという事をリランとプレミアが示していた。彼女達もまた、驚いたような顔をしていたのだ。

 

 

「今の悲鳴はなんだ!?」

 

「あっちだ。あっちから聞こえてきたようだぞ!」

 

 

 リランの頭に生える狼の耳が忙しなく動いている。人狼形態のリランの聴覚はプレイヤーの何倍も優れており、どこから音がしたかなどを探り当てるなどお手の物だ。その能力を持つリランは、丁度キリトの背後方向を音の発生源としていた。

 

 こんな最初期のフィールドで、悲鳴を上げる程の事に遭遇してしまったプレイヤーでもいたのだろうか。しかしプレイヤーのものにしては、妙に迫真だったというか、心から叫んでいるようなものな気がした。ただならない事が起きたのは確かのようだ。

 

 キリトは咄嗟に二人に振り返り――もう一度驚く事になった。プレミアの頭上に黄色い光を放つ《!》マークが浮かんでいる。クエストマーク。プレミアのクエスト、カーディナルの仕向けた厄災のクエストがここで進行してしまっているらしい。今の悲鳴はそれに関連するものなのかもしれない。

 

 

「二人とも、行ってみるぞ!」

 

 

 キリトは二人に声掛けすると、リランに狼竜形態になるよう指示。彼女の姿が白き狼竜に変わると、プレミアと共にその背中に跨り、リランの導きを基にして悲鳴の発生源へ急がせた。その時プレミアの様子はクエストマークが出ているにも関わらず、いつもどおりであった。

 

 

 

         □□□

 

 

 

 しばらく進んでいくと、森の中で集落を見つけた。そこに集落があったなんていう記憶はキリトには無い。プレミアのクエストによって一時的に具現化しているインスタンスマップだった。入り口に近付いたところでキリトとプレミアはリランより降りたが、そこでもう一度声と悲鳴が聞こえてきた。やはり集落の奥で何かが起きている。真偽を確認すべく、三人は急ぎ足で集落を進んだ。

 

 道中の集落の有様は異様だった。どこにもNPCの姿がなく、気配さえもない。街や村のものによく似ている外観の建物はあちこちが倒壊し、多くの場所で火の手が上がっている。まるで巨大で強力な何かの蹂躙(じゅうりん)に遭い、全てが破壊されてしまったような光景だ。

 

 ここで何が起きたというのか。いずれにしても嫌な予感しかしない。キリトは不安を胸に突き進んだ。

 

 

「力の無い者、弱い者は淘汰される。――さようなら、モブ」

 

 

 集落の建物の中で最も大きなそれの目の前まで来たそこで、三人は立ち止った。火の手の上がる建物の前に、三つの人影と、一つの大きな影が見えた。そのうちの一つは老人であり、もう一人は豪勢な大剣を背負った剣士。

 

 そして三人目は――キリトの隣にいるプレミアと全く同じ容姿をした少女であった。巨大な影を見るよりも先に、キリトはそこに目を奪われた。少女は大剣を振りかぶっており、その先に老人が命乞いするように倒れているのだ。明らかに少女は老人を狙っていた。

 

 

「なッ……!!」

 

 

 キリトが声をあげると同時に、少女の大剣は老人の身体を頭から斬り抜いた。血のような赤い光が飛び散ると、老人の身体は瞬く間に水色のシルエットとなり、やがて無数のガラス片となって消滅した。

 

 老人はNPCだった。一度命を落とせば本当に死に至るデスゲームを生きる住人――それをプレミアと瓜二つの少女が殺してみせたというのには、キリトも言葉を失うしかなかった。

 

 

「な、なんで……こんな……」

 

 

 ようやく声が戻った時にそう言うと、少女は老人のいたところに煌めく物を手に取った。それは光を放つ卵型の石、聖石だ。キリトも途中まで集めていたモノを手にした少女はゆっくりと振り向き、キリトと目を合わせた。少女はとっくにキリト達の存在に気付いていた。

 

 

「やはりやってきた。《黒の竜剣士》」

 

「なんでこんな事をしたんだ。その人にそんな事をするとどうなるのか――」

 

「お前に答える必要性を感じないが、禁止されてないから教える。

 こいつらはわたし達の求める石を持っていた。けれどわたし達にそれを渡すのを渋ったから、こうして手に入れた。それだけ」

 

 

 少女は冷酷かつ冷静にそう告げた。今少女が殺したNPCは、聖石を渡してくるNPCだったのだ。提示する条件を満たせば、ちゃんと石を渡してくれるようになっていると言うのに、彼女はその一切を無視。殺害して奪い取るという暴挙に及んだ。それがキリトは信じられなかった。

 

 NPCがNPCを殺すなどという事があるだなんて――。

 

 

「よぉ英雄(ヒーロー)。また会ったな。中々(しつけ)がなってるってもんだろ?」

 

 

 少女の横に男が並んできた。血のような赤い髪のオールバックに凶悪な目つき、黒い戦闘服と豪勢な大剣。キリトと同じく《黒の竜剣士》の異名を手にするジェネシスであった。その存在を認めた際、キリトはジェネシスと少女の近くにある巨大な黒い影の正体が、リランとまた異なる特徴と容姿を持つ黒き狼竜アヌビスである事に気が付いた。

 

 

「ジェネシス、お前がやらせたのか」

 

「あぁそうだぜ。結構苦労したんだぜ、ここまでにするのはよ」

 

 

 直後、少女がキリトから視線をそらさないまま聖石をジェネシスに手渡した。ジェネシスはちらと確認してからそれを受け取り、懐に仕舞い込む。五つ目の聖石がジェネシスの手に渡ってしまった瞬間だった。

 

 

「知ってたか。面倒なクエストはこんな感じでNPCをぶっ殺すと、ショートカットになるんだぜ。けどよ、このゲームでNPCを攻撃したり、殺すような事をすれば《ブルーカーソル》になっちまう」

 

 

 ではどうすればいいか? ジェネシスは問題をキリトに投げかけていた。その答えは即座に出た。NPCを飼いならし、NPCにNPCを攻撃させて殺させればいい。《ブルーカーソル》になってしまうのはプレイヤーだけで、NPCにはこの概念は適用されていない。

 

 

「だから、その娘にNPCを襲わせたのか」

 

 

 ジェネシスは「ははっ」と笑った。正解だ――言わないでそう伝えてきている。

 

 

()えてんだろ? これからはこの攻略法が流行るぜ」

 

 

 それからジェネシスは少女とプレミアを交互に見た。見比べているようだ。

 

 

「てめぇのところもそうだろ。こいつらの学習スピードは異様に早え。成長力も他のNPCと比べて段違いだ。だからこういうやり方も出来るんだよ」

 

 

 やはりジェネシスのところにいる双子巫女も同質だったようだ。彼女もまたプレミアと同じ異常な成長力と学習速度を持つ存在。だからジェネシスの命令も難なくこなせたのだろう。そしてジェネシスが教え込んだために、NPCを殺す事に何の躊躇(ためら)いもなかったのだ。

 

 まさか彼女の性質をそんな風に利用するとは――歯を食い縛るキリトの裾を、プレミアが引っ張った。何かを見つけたらしい。キリトがそれを確認するよりも前に、異変は起きた。周囲の風景が一気に変わり、草原地帯の一角になったのだ。ジェネシスとアヌビスのコンビに蹂躙された集落は跡形もなく消え果て、ジェネシスは珍しくきょとんとしていた。

 

 クエストが進行した事によりインスタンスマップが消滅、本来のマップに戻されたのだ。キリトは咄嗟にウインドウを開き、クエストログを確認する。《五つ目の聖石》なるクエストはクリアされ、次のクエストが記されていた。

 

 

「「『二人の女神を連れて《祈りの神殿》へ赴き、祭壇にて祈りを捧げさせよ』」」

 

 

 (そらん)じた時、キリトとジェネシスの声は同時だった。《祈りの神殿》の在処はオルトラム城砦の最奥部、全体マップから見て丁度中央部に位置するところだった。目的地はそこにセットされてしまっていた。

 

 

「おい、《祈りの神殿》だってよ。そこに行けばクエストは完了、アインクラッドは誕生するわけだ」

 

 

 ジェネシスの目には喜びの色が浮かんでいた。純粋なゲーマーが浮かべるそれとは明らかに異なる、禍々しい闇のような光だった。キリトは現在の黒の竜剣士に尋ねる。

 

 

「本当にアインクラッドを作るつもりでいるのか。そうなればこの世界はどうなるかって、忘れたわけじゃないだろ」

 

「勿論だ。この世界は崩壊するが、それでいいじゃねえか。自分の手でここまででけえイベントを起こせんだぞ? これをやろうと思わねえゲーマーがどこにいるっていうんだよ!」

 

 

 ジェネシスはぎらりとキリトを睨んだ。つい今の目つきとは違うものになっている。同族を見るような眼だ。

 

 

「それによ、てめえこそアインクラッドの誕生を望んでるんじゃねえのか。アインクラッドの《黒の竜剣士キリト》。あそこはてめえの故郷みたいなもんだろ」

 

 

 その一言にキリトはごくりと唾を呑んだ。以前から気になってはいた。ジェネシスがかつてのアインクラッドに興味を持っていた者、もしくはSAO生還者なのではないかと。アインクラッドで起きた事を知っているのではないかと。

 

 その予想は当たりだった。ジェネシスは自分があのアインクラッドで《黒の竜剣士》として活躍していたのを知っていた。そもそも今では《SAO事件記録全集》なんていうものまで出回っているのだから、知られていても不思議ではない。

 

 そんなアインクラッドへの知識を持つジェネシスからの問いかけに――キリトは首を横に振った。アインクラッド創造を望む者などいやしない。SAO生還者の中にも、それ以外の者達の中にも、あの浮遊城の再誕を望んでいる者などいない。

 

 あそこは、既に決着のつけられた場所だ。

 

 

「そんなふうには思ってない。アインクラッド創造は誰も望んでいない事だ」

 

「そうかよ。けど俺とこいつは望んでるんだ。だからてめぇのところのモブをよこせ。今度ばかりはこいつらが二人揃ってねえと進んでくれそうにねえんだ」

 

「断る」

 

 

 ジェネシスは深く溜息を吐いた。わかっていた事に直面して残念に思っているような顔だ。この展開を予想できていたのだろう。

 

 

「だろうな。おい、この男をぶっ殺してお前の双子を奪い取ってやれ」

 

 

 ジェネシスの命令を受けた少女は「はい、マスター」と頷き、大剣を構え直した。少女の顔と姿勢には明確な敵意と戦意があった。本当にマスターとしているジェネシスの命令を実行するつもりでいるようだ。少女の形相にプレミアが怖気付いたように後退ったのを把握し、キリトはプレミアに更に後退させた。

 

 

「はあッ!!」

 

 

 それからすぐに少女の大剣がキリトを襲った。キリトは咄嗟に双剣を構えて防御態勢を作った。少女の大剣がすぐ眼前で双剣に受け止められて停止する。間一髪で防御に成功した。だが、少女はぎりぎりと歯を食い縛って力を込めて、キリトの剣を押し込もうとしてきた。

 

 キリトと少女の鍔迫り合いを目に、ジェネシスが笑い声を上げる。

 

 

「どうするよ英雄様よ。そいつの事を殺せるか? 傷付けられねえよなぁ! だっててめぇはモブの英雄様だもんなぁ!!」

 

 

 ジェネシスはいつものように煽ってきていた。いや、いつもよりひどい。この状況を嘲笑できるだけ嘲笑していた。

 

 

「このぉ……」

 

 

 キリトが声を漏らすと、少女は一気に力を抜いて大剣をキリトから引き離し、そのまま勢いを乗せて横一文字を描く回転斬りを放って来た。キリトは咄嗟にバックステップで回避するが、少女は体勢を一瞬で立て直して追撃を仕掛けてくる。キリトは防御するしかない。人型モンスターを相手にした時のような対応は出来なかった。

 

 少女はプレミアと同じNPCだから、プレイヤーである自分が斬ればたちまち《ブルーカーソル》行きだ。いや、それ以前に彼女は命を持つ存在――傷付けるような事があれば最後には命を奪う事になる。そんな事が許されてなるものか。

 

 

「貴方はわたし達の生き方を拒絶した。貴方も結局わたし達を迫害する者……ここで消えなさいッ!!」

 

 

 少女はその身からは考えられないような力で、大剣を振るってきていた。ジェネシスが鍛えたからというのもあるだろうが、明らかにそれ以外の要因がある。彼女の剣を受け止める双剣から、そして彼女の鬼気迫る表情から感じ取れるものがあった。

 

 これは、憎悪と憤怒だ。少女の中に積もった人間――彼女達を迫害する者、略奪しようとする者達への憎悪と憤怒が、彼女の身体を動かす手助けをし、大剣に爆発的な速度と威力を含ませている。彼女は憎悪と憤怒を燃やしてエネルギーに変え、攻撃をしてきている。

 

 本来ならば持つべきものではない力を彼女の中に宿らせてしまったのは、自分達プレイヤーだ。プレミアのように清らかであった少女は今、プレイヤー達からの穢れに染まり、いくら燃やしても燃え尽きさせれない憎悪と憤怒を抱く事になってしまっている。

 

 そんな娘を斬る事など、キリトには到底出来そうになかった。防御する一方だったキリトに更なる怒りを募らせたように、少女は大声を上げた。

 

 

「何故だ! 何故反撃してこない!?」

 

「何故じゃないだろ! 君と戦う理由は俺達にない! 俺はこの世界を、この世界に生きる人々を喪いたくない。その中には、君だって含まれてるんだ。喪いたくない人を斬れるわけないだろう!!」

 

 

 憎しみと怒りの色に染まる少女の顔に、驚きの色が浮かんだ。力が一気に抜きとられ、速度が失われる。キリトから出た言葉があまりにも予想できないものだったかのようだった。

 

 

「わたしも……喪いたくない……?」

 

「そうだ。君だって、本当にこれでいいのか。世界を滅ぼしてしまう事を、本当に君は望んでいるのか!?」

 

 

 少女の瞳が見開かれ、小刻みな動きが加わる。動揺しているのだ。キリトにこんな事を言われる事を想定していなかったのか、それとも言われた事が核心をついていたものだったのか。いずれにしても少女の力が弱体化した。チャンスは今だ。

 

 

「どおらぁッ!!」

 

 

 少女の大剣を押し返そうとしたその時、キリトは横方向から来た何かに吹き飛ばされた。

 

 

「ぐわはぁッ!!」

 

 

 鋭い何かに斬られたような痛みに似た不快感が身体の下から上を駆け抜けていた。大剣で斬られたような感覚だ。何が起きたのかよくわからないままキリトは地面に激突し、剣を手放して転がった。肺の空気が押し出されるような苦しさに似た不快感が胸に走る。

 

 重力が強くなったように、身体を上手く動かせなかったが、キリトはなんとかして上半身を起こした。ジェネシスが得意げな顔をして肩に大剣を乗せていたのが確認できた。

 

 

「相手は一人じゃねえぞ。油断したな、英雄キリトさんよぉ」

 

 

 キリトは歯を食い縛って身体に力を入れ、咄嗟に双剣を両手に取り戻した。少女は動揺する瞳のまま茫然と立ち尽くしており、襲ってくる気配を見せていなかった。それがキリトにとって気がかりだった。先程はあれだけの敵意と憎悪と憤怒を見せつけてきたと言うのに、今の少女からはそれを感じられない。

 

 少女の中は人間に対する負の感情でいっぱいになっているというわけではないのか――少女について思考を回すキリトを他所に、ジェネシスは突っ立ったままの少女を後方に払いのけた。大剣の重さもあってよろけ、少女はジェネシスを見る。

 

 

「やっぱりお前にこいつはやらせられねえ。俺がやってやるから、よく見ておけよ」

 

 

 少女ははっとしたような顔をして、すぐさま「わかりました、マスター」と言って後退した。直後、轟音と震動が届いてきて、キリトはそちらに目を向ける。ジェネシスの《使い魔》である黒き狼竜アヌビスが、白き狼竜リランと戦闘を開始していた。今の轟音と衝撃はアヌビスの突進がリランに直撃した事によるもののようで、リランは姿勢を崩している。

 

 アヌビスもジェネシスもやる気だ。本気でここでプレミアを、聖石を奪い、アインクラッド創造を成し遂げようとしている。

 

 

「てめえなんか取るに足らねえ。この世界最強の剣士はこの俺だ。今からそれを教え込んでやるよ」

 

「出来るのか。お前にそんな事が」

 

「出来るって事を教えてやるって言ってるんだよ。見せてやるよ、《エヴォルティヴ・ハイ》……進化って奴を!!」

 

 

 《エヴォルティヴ・ハイ》――その言葉をキリトは聞き逃さなかった。初めて聞く単語だ。ジェネシスがそれを口にするという事は、ジェネシスがこれから使おうとしているものという事なのだろうか。

 

 それに《Evolutive(エヴォルティヴ)》とは即ち《Evolution(エヴォリューション)》……《進化》だ。《進化》とは何だ。

 

 警戒するキリトから視線を外さないまま、ジェネシスは右手の指で右蟀谷(こめかみ)の辺りを叩いた。あんな動作で発動させるスキルなど確認できていない。一帯ジェネシスは何をしようとしているのか――そう思った直後、ジェネシスは突然右手で頭を抑え込び、声を上げた。

 

 

「ぬぉあああああああッ!! 入ってきた、入って来たぜぇッ!! 最高の感覚がよぉぉッ!!」

 

 

 ジェネシスの叫びは人間のモノとは思えなかった。まるで人の姿をした別の何か、人の皮を被った獣が咆吼したかのようだった。それを裏付けるように、ジェネシスの様子は変わっていた。口元からは異様なまでに熱い息が吐き出され、全身に白い煙のようなものが薄らとかかっている。それは水蒸気のエフェクトだ。どういう理屈なのかわからないが、ジェネシスは水蒸気を纏っているらしい。

 

 

「な、なんだ!?」

 

「片付けてやるよぉッ!! 行くぞおらぁぁッ!! 」

 

 

 キリトの反応など一切無視し、ジェネシスはキリトに斬りかかった。顔に熱気がかかり、キリトはすぐさま驚いてバックステップしたが、その時既にジェネシスはすぐ近くに来て、先程の少女と同様の斬り払いを放っていた。大剣はキリトの腹をわずかに掠めていた。あとほんの少し――もはやフレーム単位で――避けるのが遅かったら、確実に腹を斬り飛ばされていた。

 

 

「早い……!?」

 

 

 キリトが言葉を発した時、ジェネシスは既に次の攻撃である斬り下ろしを仕掛けていた。目視出来ない程の速度で剣が飛んできたものの、キリトは咄嗟に剣をクロスさせる事で受け止められていた。

 

 

「ぐあッ!」

 

 

 ジェネシスの大剣を受け止めた瞬間、二人を中心にして衝撃波が駆け抜け、全身の筋肉が悲鳴を上げた。膨大な金属音が鳴り響き、尋常でない火花が散った。ほぼ破られているに等しい防御だった。

 

 ここまで重い攻撃を繰り出せるのは、剣を使う体躯の巨大なモンスター――フィールドを時折闊歩している《騎士型邪神(エピソードエネミー)》くらいだ。プレイヤーは出来ない芸当のはずなのに、ジェネシスはそれを再現できる力を得ていた。

 

 異変はそれだけではない。ジェネシスから異様な熱気を感じる。ジェネシスの体温が上昇しているようだ。晒されているだけで肌が焼かれてしまいそうなくらいの熱が、ジェネシスから外部へと漏れ出ている。ジェネシスの周囲に発生する水蒸気エフェクトは、空気中に含まれる水分とジェネシスの外皮を流れる汗などが(事ごと)く蒸発している結果であるらしい。

 

 そんな事が起こせるまでに、ジェネシスの体温が上昇してしまっている。仮想世界だからこそできるが、出来たとしても無茶極まりない極限状態が、今のジェネシスに起きていた。

 

 

「おらおらおらおらおらおらおらぁッ!!」

 

 

 ジェネシスは極限の興奮をしながら大剣を振り回してきた。ありとあらゆる角度と方向から大剣が飛んできて、防御姿勢をやめられない。防御できているのが奇跡的だった。反撃の隙を見出したいところだが、荒れ狂うジェネシスからは全く何も掴めない。ジェネシスは最早人の姿をした嵐や竜巻だ。明らかに異常に、ジェネシスは強くなっている。

 

 そういえば、ジェネシスの戦いを初めて目にした時、ジェネシスは戦闘中にメニューを開き、その後異様なまでの興奮状態となって戦闘力を爆発的に上げていた。そして以前イリスより聞いたデジタルドラッグの話。これらを照らし合わせると、答えがぼんやりと出た。

 

 ジェネシスはあの時デジタルドラッグを使い、戦闘力を上げていたのではないか。

 

 ジェネシスの様子がトランスプレイヤー達と同じように見えるのは、本当に同じだったからではないか。

 

 

「どうした、どうしたよ! 退屈させんじゃねえよ英雄様よぉ!!」

 

 

 ジェネシスの攻撃は止まる気配を見せない。活路も見出せないまま、キリトは追い詰められていた。

 

 ジェネシスがデジタルドラッグを使ったのであれば、最初に見た時と同じような動作をしたはずだ。なのに今のジェネシスはあのような動作はせず、見慣れない動作の後にここまでの戦闘力を発揮した。プレイヤーが発揮できる極限の戦闘力を。明らかにあの時とは異なっていた。

 

 それにジェネシスがあぁやった時、キリトにもカーディナルシステムの防衛機構による異変が起こったが、今のキリトにそれは無い。頭に介入し、塗り潰してくる衝動は無いのだ。何から何まで異なり過ぎていて、把握するだけで精いっぱいだった。

 

 変化に変化を重ね、普通の人間ならば辿り着けない境地に辿り着いたジェネシス。まさしくその様子は、《進化》のようだった。

 

 

「終わらせてやる! 終わらせてやるよぉッ!!」

 

 

 本当に人間が出来る動きなのか疑わしい《黒の竜剣士》の連続攻撃は、ついにキリトの防御を打ち破った。ジェネシスの斬り上げを受けて、腕が強引に左右へ引っ張られていく。手に力が入らなくなり、体勢を戻せなくなる。ジェネシスは一気に口角を上げ、大剣を両手で振り上げた。唐竹割の構えだ。

 

 

「この世界最強の《黒の竜剣士》は、この俺だぁッ!!」

 

 

 咆吼するジェネシスの大剣が、ついにキリトを一刀両断しようとしたその瞬間、キリトには世界がスローになっているように見えた。ゆっくりとジェネシスの大剣が迫ってくる。ここまでゆっくりならば避けられそうだが、生憎キリトの身体が高速化しているわけでもなかった。身体は言う事を聞かない。世界と同様にスローモーションだ。ジェネシスの攻撃を受け止める以外の選択肢はないらしい。

 

 こんな状態のジェネシスの攻撃を喰らって、耐えられるわけがない。これで終わりだ。

 

 この後はどうなるのだろう。ジェネシスに倒されれば、勝負はジェネシスの勝ちだ。ジェネシスはプレミアを奪い、聖石を奪い、カーディナルの厄災を発動させる。ここまで守り続けてきたプレミアを、彼女達の生きる世界の全てを、ここで奪われるというのか。こんなにあっけなく、この世界が終わってしまうというのか。

 

 俺はまた、奪われるだけなのか。かつてアインクラッドで起きた数えきれない悲劇の一つのように、何も守れないまま、奪われて終わるだけなのか――。

 

 俺はまた、大切なものを喪うだけなのか――。

 

 

 

 ――――わたさないよ――――

 

 

 

 瞼を閉じた時、声が聞こえた気がした。聞き間違いではないかと思ったが、頭の中にしっかりと届く声だった。その声に導かれるように、キリトは瞼を開いた。

 

 目の前から水蒸気を纏う《黒の竜剣士》の姿は消え去り、その大剣が起こす嵐はいなくなっていた。

 

 

「……え」

 

 

 キリトは呆然としていた。

 

 

 何が起きた?

 何故ジェネシスが居ない?

 自分の身に何が起きている?

 

 

 何一つ掴めそうになかったが、直後に物音がして、キリトは目線を引っ張られた。先程まで剣の嵐を起こしていた《黒の竜剣士》が居たが――それと対峙する新たな人影が認められた。

 

 全身を黒い戦闘装束に包み込み、顔も頭もすっぽりと隠してしまっていて、外観的特徴が何も掴み取れない。だが全体的にシノンやフィリアより少し小さいくらいの体型、肩幅の狭さと腰部の広さから女性であるとわかった。だが、キリトの記憶の中に存在する人物達の容姿と一致する者ではなかった。

 

 

「なんだなんだ、なんだよてめぇは! 俺の邪魔をするんじゃ――」

 

 

 興奮しっぱなしのジェネシスは言いかけて止まった。ある一点を見て、酷く驚いてしまっているようだ。だが、キリトはそこよりもまず先に、女性の手元に目を向けた。女性は剣を両手に一本ずつ握っている。自分と同じ《二刀流使い》だ。確認出来た時、女性から声がした。

 

 

()っちゃ駄目。本物の《黒の竜剣士》は誰にも渡さないよ。絶対に奪わせない……」

 

 

 女性の声は大人のものではなかった。自分と同じくらい、或いは自分より少し下の女の子の声だ。だが、その声色にキリトは聞き覚えがあるような気がした。どこかで聞いたような気がするが、それはどこだった、いつの話だったか――思い出すより前に、もう一度声がした。今度はジェネシスの声だった。

 

 

「て、てめぇは……そのカーソルは……!」

 

 

 驚いているジェネシスの目線は、丁度少女の頭上にあった。キリトの目線もまたそこへ引っ張られ、その正体を掴まされる事となった。直後に少女は大きな声で笑い出す。

 

 

「あははははははッ……《黒の竜剣士》を壊すのはあたしだ。最初からそう決まってるんだ。それを邪魔するんなら、先に壊したげるよ! 《黒の竜剣士》の偽者ぉッ!!」

 

 

 狂気を孕んだ声で笑う少女の頭上にあるカーソルの色は、青かった。キリトは咄嗟に以前聞いた話を思い出す。

 

 黒い服に身を包み、狂気的な声で笑いながら、フィールドのモンスターもNPCも(みなごろし)にする《二刀流使い》の女性プレイヤー。その通称を、キリトはか細い声で口にした。

 

 

 

「《黒服のブルーカーソル》……!!」

 

 

 




 現れた《黒服のブルーカーソル》。その狙いとは。

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