二週間くらい空いてしまいましたが、アイングラウンド編第六章第三話をどうぞ!
□□□
「畜生、さみぃなァ……ここまでさみぃのかよ」
「しっかりしろクライン。防寒着はちゃんと着てるんだしさ」
呆れた様子のキリトが振り返りながらそう言ったのは、野武士のような風貌が特徴的な青年クラインに対してだった。クラインは両腕で自身の身体を抱き締めるようにして摩りながら、白い息を返した。
「それにしたって寒すぎるんだよ。絶対これは異常気象地帯か何かだって!」
クラインの文句にキリトは尚更呆れそうになる。辺り一面どこを見ても白い雪に包み込まれており、空は黒い雪雲に覆われている。更に軽い吹雪が起きているため、視界も悪かった。如何にもと言わんばかりの氷雪地帯であるここは、これまで渡ってきたどのフィールドよりも寒い。夜になったクルドシージ砂漠もそうだし、オルドローブ大森林の地下洞窟よりもそうだった。
そんなクラインも震え上がらせる寒さに包まれているそここそが、次の目的地であるノーザスロット氷雪地帯の一角であった。スタルバトス遺跡群から歩く事十五分近く、下り坂を下って、更に空を浮かんでいる小さな小さな浮き島を乗り継いでいくと、開けた場所に出た。
スタルバトス遺跡群よりも妙に空気が澄み渡り、やや肌寒さを感じさせるような気温の草原の広場の真ん中に、ワープポイントである転移石があった。その転移石こそがノーザスロット氷雪地帯へ飛ぶためのものであると、アルゴとフィリアから説明を受けて、キリト達は早速その転移石を起動させた。
SAOの時から何度も経験している転移が終わると、キリト達は一気に真っ白になった。転移先はどこもかしこも雪と氷で包まれていて、時折
キリト達はやってきて早々猛吹雪の餌食になり、全身真っ白の
《SA:O》ではフィールドによっては大幅に気候が異なる場所に転移させられる事も多ければ、昼夜で気温が大きく上下するような事も多かった。なのでそこを冒険するキリト達は、どんなフィールドに行くのだとしても耐寒防具、耐暑防具を持っていくのを忘れていない。今回もその耐寒防具を事前に用意していたため、ノーザスロット氷雪地帯の雪に呑まれずに済んだ。
それでもノーザスロット氷雪地帯の寒さは堪えるもので、耐寒飲料アイテムを使わないと本当に寒さが平気にはなれなかった。そのアイテムを使ったためにキリトは猛吹雪もへっちゃらになっているが、クラインはそうでもあっても震え上がっている始末だったため、キリトは少し呆れるしかなかった。
そんなクラインとキリトが一緒にいるのは、探索メンバーになったからだ。ノーザスロット氷雪地帯に着いて早々、キリト達はいつもの探索の時のようにメンバーを分け、それぞれ少人数で探索を行う事になった。
その時キリトは何故かクラインとリランの三人チームで探索する事となり、現在に至っているというわけだった。だが、それを拒否しようと思ってはいなかった。クラインと一緒に探索する事はこれまで滅多になかったからだ。
キリト、リラン、クライン。その組み合わせにキリトは新鮮味を感じたからこそ、そのまま探索をする事を決めたのだった。まぁ、その最後にパーティを組んだのがいつだったか思い出せない野武士は、探索を開始して早々放っておいたら本当に雪男になってしまいそうな様子になったのだが。
そんな野武士もしくは侍に、キリトは声かけする。
「あんまり寒いと思うなら、リランの近くに行くといいぜ」
《左様だ。我の近くにいれば寒さも多少和らぐというものだ。我慢せずに来い、クライン》
初老女性の《声》が頭に響くと、クラインが若干涙目になった。その目線はキリトの少し後方に向けられる。吹き荒ぶ猛吹雪の中でも平然としている巨影がそこにいた。それに向けてクラインは若干の涙声を出す。
「り、リラン~、お前、そんな事言ってくれるようになったのかぁ~」
クラインの目線の先にいるのは、白金色の毛並み、豪勢な鎧のような甲殻に身を包んで、肩と腰から白い翼を生やした、大剣のような角を額に持つ狼竜リランだ。炎と熱を司る竜であるリランは身体の熱が外部に漏れ出ていて、身体に付いてくる雪を溶かしてしまう。SAOの時にはなかった特徴に助けられているリランの周囲は、雪も寒さも平気になれるくらい暖かい。くっついていれば尚更だ。
その姿を認めたクラインは、迷わずそこへ飛び付いていき、剛毛にへばりついた。間もなく幸せそうな間抜け面がクラインの顔に浮かび上がる。
「うへぇ~、あったけぇ~……リランってこんなにあったかいんだなぁ~」
「いつまでもこうしていてぇよ~」と次にクラインが言い出すのは目に見えた。恐らくそう思っているのだろう。だがそうはいかない。
リランの暖房能力は仲間達全員に伝わっており、女の子達からも「ある程度したらこっちに来て」と頼まれている。まだ時間にはなっていないが、そのうちリランはこのパーティを離れて他パーティへ向かい、女の子達を暖めに行かなければならないのだ。今回のリランはキリトの《使い魔》というよりも暖房器具か何かだった。
大事な《使い魔》をそんな扱いにされているキリトは複雑な気分だったが、現にリランがいるかいないかだけで探索の効率は上下するのだから、どうしようもない。
「暖まれるだけ暖まっておけよ。そのうちリランは他パーティに行くんだからさ」
「そうなのかよぉ。リランはお前の《使い魔》なのに、いいのかよ」
「別に構わないよ。それだけリランが皆の役に立ってるって事だからな。《ビーストテイマー》の俺も鼻が高いってもんさ」
流石に大きなボスモンスターが出てきたならば呼び戻すが、現時点でそんな様子はない。リランの力がなくても対処できる敵ばかりだから、リランが近くにいなくても大丈夫だ。SAOの時はこうはいなかったものの、《SA:O》ではこういう事が出来ているから、キリトは肩が軽く感じられた。
その直後、クラインの声かけが続いてきた。
「それにしてもキリトよぉ、お前、思い出さねえか」
「思い出す?」
SAOの時の事であろう。SAOのコピーサーバーを流用している《SA:O》では、SAOの時を思い出させるものがいくつもある。そういえばこの猛吹雪が吹き荒ぶ氷雪地帯にも覚えがあった。確か《ユキノハナ》という和風文化が普及する街も、外は氷雪地帯であった。SAOの時から和風デザイン装備を使い続けているクラインとその仲間達は、そこにきた途端大興奮して歓喜に包まれていたものだ。
「SAOの和風の街の時か。確かにあそこもこんな雪の降るところだったな。けど、あそこの温泉は絶品だったよな」
「おぅおぅ、そうだったな! あそこは本当に最高の街だったぜ。温泉も和食も刀もとんでもなく良くてよぉ。あれは本当に忘れらんねぇぜ。けどよ、そこじゃあねえんだ」
キリトはふとクラインに振り返った。いつの間にかクラインはリランの剛毛から離れている。
「お前がリランと会う直前の時だ。あの時のお前、荒れ放題だったもんだから、
「……!」
その一言にキリトは思わず動きを止めてしまった。クラインの言った事は、まさに今キリトが思い出している事だったからだ。しかし思ってはいたものの、はっきりと考えているわけではなかったため、頭の中にあっても形はあやふやだった。そのあやふやをしっかりとした形にしてくれて――しまったというべきか――のが、クラインの言葉だった。
頭の中が澄み渡り、吹雪の音、雪の音が遠ざかっていったが、そこで飛び込んできた音があり、キリトはハッとした。クラインの悲鳴だ。リランのすぐそばにいたクラインはいつの間にやら尻餅をつき、頭を片手で掻いていた。
リランが鼻に皴を寄せているため、軽くボディタックルでもかましたのだろう。
「いててぇ……なにすんだよ、リラン!?」
《お前こそなんて事を言うのだ。お前はキリトがあの時どのような思いをしていたのか、聞いていないのか!?》
文句を垂れるクラインに怒るリランを見て、キリトは再度気付く。そういえばあの時だ、自分の許へリランがやってきて、自分が《ビーストテイマー》になったのは。よくよく考えてみれば、クラインこそが自分が《ビーストテイマー》になる直前を知っている唯一のプレイヤーではないか。自分の愛する人であるシノンでも知らない事を、クラインは知っているのではないか。
そんな事を考えるキリトを横目に、クラインは立ち上がり、膝元の雪を払う。
「聞いてるぜ。キリトはあの時、入ってたギルドの皆を生き返らせようとしてたんだ。オレも丁度
「……」
赤バンダナの侍の言い分に反論する事が出来ない。何もかも真実だからだ。やがて彼の目は心配しているような光を宿す。
「なぁキリト。お前はまだやっぱり気にしてたりするのか、その時のギルドの事とかよ。お前はそれで傷付いてたから、リランがお前のところに来たって話は聞いたんだが」
そこでリランはクラインに吼えた。敵にしか向けない声で仲間に吼えたというのは、それだけリランが怒ったという証拠だった。クラインは当然のようにリランに驚いて後ずさる。明らかに仲間に向けてする事ではない事をしている。
「リラン、やめてくれ!」
思わず大声を出すと、リランはハッとしたような反応を見せ、やがて申し訳なさそうな顔をして《声》を送ってきた。
《……クライン、すまぬ。お前にこんな事をするのではないな》
「あ、あぁいや。オレの方こそ余計な事を言っちまった。こんな事、ずかずかと聞くもんじゃないな。悪かったぜ、キリト」
クラインに謝られたキリトは、首を横に振って返した。
「いや、俺もそろそろだと思ってたんだ。そのギルドの事を話さなきゃいけないって、そう思ってた頃だったんだ」
自分にとってSAOの中の一番の悲劇であり、一番のトラウマと呼べる記憶。聞かせているのはシノンとリランの二名だけで、その他の仲間達は誰も知らない。あの時の自分の入っていたギルドがどうだったのか。どんな人々が居たのか。
その記憶は、いつの間にか使われていたリランの力によって、頭の奥深くに追いやられてしまっていたが、今は完全に思い出す事が出来るようになっていた。これも成長なのだろうか。
「……丁度いい。話してやるよ」
「いいのかよ。無理しなくたっていいんだぜ」
「いいんだ。もう、我慢してるのはやめようと思うんだ」
そう言ってキリトは、かつてのギルドの事を語り出し、思い出した。
□□□
「我ら、《月夜の黒猫団》に、乾杯!!」
「「「「「乾杯!!」」」」」
一人の掛け声の後に六人が続き、かちんというコップ同士がぶつけられる音が鳴り響いた。その中の場違いではないかとも思えて仕方がないキリトは六人の掛け声の後、
「か、乾杯……」
とごく小さな声を出して、手に持ったコップを軽く上へ出した。誰にもぶつかる事のなかったコップの中身が揺れた後、六人のうち四人が一気に手持ちのコップの飲み物をぐびぐびと音を立てて飲んでいった。やがて飲み干すと、四人は一斉に「ぷはー!」と心地よさそうな息を吐いてみせた。まるで宴会や祝祭のワンシーンのように感じられて、キリトは増々胸の中の戸惑いを加速させた。
「いやぁ、本当に助かりましたよキリトさん。危ないところを助けていただきました」
戸惑うキリトに声をかけてきたのは、赤茶の戦闘服の上から軽鎧を纏った青年――出会った時にケイタと名乗ったその人だった。その声で戸惑いから若干解放されたキリトは、ケイタに首を横に振って返す。
「いやいや、それほどの事でもないよ。どうって事、ない。というか敬語はやめにしませんか」
やはり危機を助けてもらったという事もあってか、畏まっている様子のケイタはきょとんとしてみせた。キリトからそう言われる事を予想していなかったらしい。
「あ、そうですか? それなら敬語はやめにして……本当にありがとうな、キリト。キリトには本当に助けられた」
まぁ当然だろう――キリトはそう思った。視界の中に映り込んでいるステータスバー、名前を示すところの横にあるレベルには四十とある。レベル四十の自分がここアインクラッド第十一層の敵を相手にしているのだ。楽に勝利出来て当たり前と言ったところなのだ。
そんなレベル四十のキリトが、いるべき最前線ではなく、そこよりも遥かに下の層に来ているのはレベリングのためではないし、そもそもここに来る前には最前線にいた。しかしその最前線の攻略の途中、必要なアイテムの残量が切れてしまった。しかもそのアイテムはよりによって第十一層にまで下りないと手に入らないアイテムを素材としているものだ。
別に無くてもいいけれども、無いなら無いで困る代物。命の係る攻略に必要なアイテムは揃えておかなければならない。
結局キリトは誰にもその事を告げないで――告げる相手もいないが――最前線を離脱。この第十一層へと降りてきたのだった。
「……」
キリトは目の前に集まっている者達をぐるりと見回した。六人のチームであり、男が四人、女が二人。この第十一層へ降りてきて、森林フィールドで目的のアイテムの素材を探していたところ、キリトは大きな物音を聞いた。
金属がぶつかるような音、獣の声、そして話し声にも似た人の声。戦闘音だった。プレイヤー達がモンスターと戦っているらしい音。そんなものはこれまで何度もフィールドで聞いてきたため、大して気にするような事でもなかったのだが、その時キリトは気にした。声の中に悲鳴や「下がって!」などの声が混ざっていたからだ。モンスターと戦うプレイヤー達は追い詰められている。
ゲームオーバーになるとそのまま現実でもデッドエンドに直行するのがこのゲームだ。流石に追い詰められているプレイヤー達を見過ごす事は出来ない。キリトはアイテム探しを打ち切り、声の許へ向かった。
一分もしないうちにキリトは声の発生源を見つけ出した。六人パーティのプレイヤー達。それが大きな
そこでキリトは軽く驚かされた。その者達のバランス構成は極めて良くなかったのだ。
前衛と言えるのが盾と片手棍を持った青年だけで、後は短剣使いのシーフ、クォータースタッフを持った棍使い、長槍使いが二人に、片手剣使いが一人。前衛の片手棍使いが追い詰められればじりじりと後退するしかないような構成である。
本来前に出るべき片手剣使いは、長槍使いの一人を守るような動きをしていて、役立っているように見えない。最前線の攻略チームを見ているキリトからすれば、最悪の立ち回り方だ。そんな立ち回りや構成を根本から間違っている者達は、中ボスにやられる事でその間違いを学習するのが今までのゲームだったが、このSAOでは死ねば終わりだ。
彼らを終わらせるわけにはいかない――そう思ったキリトは助けを乞うまでも無く飛び出し、大蟷螂と六人パーティの間に入り込み、戦闘を開始した。
「……まぁ、助けられて良かったよ。俺も急に声がして、行ってみたらあんな事になってたんだから、びっくりしたよ」
そう言ったキリトに、周りの者達――主に青年達――が苦笑いした。
彼らを襲っていた大蟷螂はキリトも散々戦った中ボスモンスターであった。その特徴的な鎌が武器の素材として要求されるうえ、倒しても必ず鎌をドロップするわけではない。けれども身を守る武器を強くするモノ。必要数揃えるまで、キリトは大蟷螂と戦ったのだった。
その大蟷螂の鎌を使って強化された片手剣と、ソロで鍛えられたキリトの剣技の前に、大蟷螂など歯向かえるものではなかった。大蟷螂はキリトと、キリトが来た事によって勢いを取り戻した六人組のコンビネーションの前に倒され、武器を強くできる鎌をドロップして消えた。
勝利が確認されるなり、七人は一斉に安堵の溜息を吐いたが、やがて六人パーティは一斉にキリトの許へ向かい、礼を言ってきた。キリトはそこで別にお礼はいらないと言って立ち去ろうとしたが、六人はキリトを離さなかった。命の恩人にもっとお礼をしたいと頼み込んできた。その様はあまりに切実なもので、見えない壁となってキリトの退路を塞いでしまった。
逃げられないキリトは致し方なく六人の頼みを承諾し、この第十一層の宿屋のラウンジにて開かれた小さな小さな祝勝会に参加させられる事となったのだった。しかしそこで、キリトはこの六人の雰囲気に惹かれるものがあった事に気付かされる事となった。
「いやぁ、あの時キリトが入ってくれなかったら、今頃どうなってたんだろ。本当に危なかったよな」
奇妙な帽子と癖っ毛が特徴の青年ササマルが言うと、更にニット帽を被った小柄なシーフであるダッカーが続く。いずれもあの時前に出るか出ないかを迷っていた者達だ。
「ほんとほんと! キリトはマジで救いの手とかそういうものだったよ。何度でも頭下げなきゃいけないかもだな」
「おいおい、それはやりすぎだって。キリトがドン引きしてるぞ」
そう言ってダッカーとその周りを笑わせたのがケイタだ。彼はクォータースタッフを持って戦う棍使いで、この集団のリーダーであった。この集団、超小規模ギルド《月夜の黒猫団》は、このケイタを中心にして動いているという話を、ここに戻ってくる最中に聞かされた。
そんなケイタの横方向から、キリトに接近してくる人影が二つあった。声が掛けられたものだから、キリトは迷わず向き直る。
「あの、キリト」
そう声を掛けてきたのは、この《月夜の黒猫団》の紅一点ならぬ紅二点のうち一人だ。青みがかった黒髪を切り揃えたショートヘアにして、青と白を基調とした軽装に身を包んでいる。青水色の瞳と泣き黒子が特徴的な少女が、その人だった。名前を聞く限りサチというその
「ありがとう……本当にありがとう。すごい、怖かったから、キリトが助けに来てくれた時、助けてくれた時、本当に嬉しかった……」
今にも泣き出してしまいそうなサチに、キリトは思わず反応を示した。胸の内に、抱いた事のない感情が生まれたような気がした。
あの時の戦いの中で最も追い詰められていたのが、このサチであった。長槍使いであるサチは中衛から後衛にかけてのところにいたのだが、運が悪かったのか、大蟷螂からターゲットにされてしまっていた。キリトが助けに入った時、彼女の《HPバー》は黄色にまで減らされていた。あまり防御力やスキル数値などが高くないらしかった彼女を、キリトは間一髪で救っていたのだった。
「そんな、大丈夫だよ。そんなにお礼しなくたって」
「ううん、本当に怖かったの。怖くてどうしようもなかったの。だから、あの時キリトが助けてくれたの、本当に嬉しかったの」
そう言ってサチは涙を拭った。あの戦いの時から思ってはいたが、サチはひどく怯えている。怖くて仕方がなくて、槍をちゃんと構えられず、逃げ腰で隙だらけだった。元々戦う事が得意ではないのだろう。彼女は本来いるべきところではないところに投げ出され、駆り出されているのだ。
そんな彼女を救う事が出来て本当に良かった――キリトはいつの間にかそう思っていた。そして、自分の強さが彼女を救えるくらいのもので良かったとも思った。
「おねえちゃん、だいじょぶだよ。おねえちゃんはあたしが守るって、そう言ってるじゃん」
キリトとサチを横目にそう言ったのが、紅二点のもう一人だった。デフォルメされた黒い猫があしらわれたデザインの猫耳帽子を被り、サチのものと似た黒い軽装に身体を包んでいる、若干小柄な少女。目の色、髪の色はサチと同じである事、サチを『おねえちゃん』と呼んでいる事から、サチの姉妹であるというのがすぐにわかった。
「『おねえちゃん』……」
キリトの独り言は誰にも聞こえていないようだった。当然サチの妹にも。そんなサチの妹が次の言葉を出そうとしたそこで、その頭に手を乗せたのがケイタであった。彼女の猫耳の真ん中をぽんぽんと軽く叩きつつ、口を動かす。
「そう言うけど、あの時お前も手いっぱいになってたじゃないか。しかもサチを守るのに集中しきってて、全然前に出なかったぞ」
むすぅとサチの妹は頬を膨らませた。周囲の光の影響もあるのか、膨らんだ頬が可愛らしく桃色を帯びた。
「仕方ないでしょ、先輩。あたしだっておねえちゃんを守らなきゃいけないんだもん」
「そればかりに集中されると困るんだって。っていうかそれ、僕達は守るべき対象に入ってないって事か?」
「そんな事ないよ。あたしがこの中で一番強いんだから、あたしがおねえちゃん達も先輩達も守るんだ」
彼女は強く意気込んで言った。その言葉に偽りがないというのはキリトもわかっている。
《月夜の黒猫団》に助けに入った際、サチを守るように立ち回っていた片手剣使いがこの娘だ。大蟷螂に不意を突かれて姉を狙われていた彼女は、その際は混乱しているようだったが、キリトが参加するなり一気に巻き返した。長らくソロで戦う事によって鍛え抜かれたキリトに匹敵する程の剣捌きを見せつけ、劣勢だったのが嘘だったかのように大蟷螂をキリトと一緒に追い詰めた。
無論《月夜の黒猫団》の皆もしっかり戦ってくれたが、その中で最も戦闘貢献してくれたのは彼女だった。その腕前と剣捌きは最前線のプレイヤーチームに匹敵しているのは確かだ。もしかしたら《月夜の黒猫団》の誰よりもレベルが高かったりするのかもしれない。これだけの実力者がこんな下層に存在しているとは、予想もつかなかった。
そこでキリトは気が付いた。棍使いケイタ、盾持ち片手棍使いテツオ、短剣使いダッカー、槍使いササマル。そして同じく槍使いサチと、《月夜の黒猫団》のメンバーの名前を聞いたが、そのサチの妹の名前は聞いていなかった気がする。現に言い出そうとしても彼女の名前が出てこない。
キリトが聞き出そうとするより前に、彼女は声を掛けてきた。
「キリトって言ったっけ。あたしのおねえちゃんを助けてくれてありがと。それから先輩達の事も。皆、なんだかこのゲームが下手みたいでさ、あたしがフォローしてあげないと全然なんだよ」
「おいおいなんだよ。皆を味噌っかすみたいに言って。そんな事、後輩のお前が言っていい事じゃないぞー」
ケイタの反論に彼女は更に反論を行う。どうやら彼女が最も年齢が下らしい。
「事実を言ってるだけですー。それにケイタ先輩、やっぱりおねえちゃんが前衛なんて無理に決まってるよ。ケイタ先輩達、おねえちゃんがどれだけ怖がりで、あたしのフォローなしじゃどうにも駄目だって昔から見てきてるはずでしょー。特にケイタ先輩はあたし達の家の近くに住んでるわけだし」
「だから一番ゲーム得意のお前が前衛出れば解決するんだって。なのにお前はサチに引っ付いて離れないじゃないか。一番強いくせにさ」
「あたしがおねえちゃんを守らなきゃいけないんだって! 大切な事なので二度言いました!」
彼女の一言に皆が「わぁっ」と笑い出す。その雰囲気にキリトは驚きっぱなしだった。
これまで見てきたSAOの最前線は殺伐としていて、
そんな最前線の者達と正反対の様子を見せる《月夜の黒猫団》のやり取りは、どこか眩しく、微笑ましく思えた。ゲームオーバーになればそのまま終わりな最悪の世界であるここに、こんなに暖かい者達が居るだなんて――キリトが胸中でそう思ったその時、サチの妹が何か思い付いたように手を一度叩いた。そのまま華麗な身のこなしでケイタの拘束より離脱、キリトの前のテーブルに両手を乗せて顔を突き出した。
これまで女性との交流経験の乏しかったのがキリトだ。そこに一気に彼女の顔が近付いてきたものだから、思わずどきりとした。
「そうだよキリト、あたし達のギルドに入ってくれない!? キリトは強いから、すぐに他のギルドに取られちゃいそうだし!」
「へっ?」
呆然とするキリト。突然近付いてきたかと思いきや、ギルドに入れという要求が飛んできた。もしかしたらこのSAOで見てきた光景のどれよりも衝撃的だったかもしれない。そんな話を持ち掛けてきたサチの妹に、ケイタが呼びかける。
「おいおいおい! お前が言っていい事じゃないぞ。それはリーダーである僕が言うべき交渉であって!」
「そう言うけど、このギルドの名付け親はあたしだし! それにケイタ先輩だって、キリトに入ってほしいって思ってるでしょ?」
彼女の問いかけにケイタは「むぐッ」と言った。どうやら図星を突かれたらしい。そしてケイタもこの娘と同じ事を考えていたようだ。キリトが目を点にする中、ケイタは観念したように苦笑いし、キリトに歩み寄った。
「……そういう事なんだ。キリト、是非ともうちの《月夜の黒猫団》に入ってくれないか。キリトが来れば、僕達も安心して戦えるよ」
「そうなのか」
「あぁ。僕達はレベルこそ高いんだけど、どうにもスキル構成がなってなくてさ。前衛出来るのはテツオとこいつだけで、戦ってるうちに追い詰められてジリ貧になりやすいんだ。こいつが前衛に出てくれれば解決するのに、姉を守るのに必死でさ。しかもその姉もかなりのビビりで槍のスキル構成も全然で。盾持ち片手剣にして前衛に出そうと思ってるんだけど、それも芳しくなく……」
なんだって?――話の一部を聞いて、キリトは思わず大声を出しそうになった。《月夜の黒猫団》の立ち回り構成は如何せん
……いや、それだけではないし、それが問題ではない。
「……サチ」
キリトはサチに目を向けた。懇願している光がその瞳で瞬いているが、その中に怯えの色が混ざっている。彼女は今も怖くて仕方がないのだろう。本当は戦う事自体が怖くて仕方がないはずだ。それはあの時の戦い様で痛いほどわかった。
しかし戦うしかなく、しかも前衛に駆り出されようとしている。もう、あんな目に彼女を遭わせてはいけない。サチに怖くて不安な思いをさせてはならない。ここで自分が、忌まわしき《ビーター》である自分が加われば、サチが前衛に出る必要はなくなる。サチの中の怯えを取り除いてやれるかもしれない。キリトの胸の中はいつの間にか、そんな気持ちで満たされていた。
サチの事を守ってやりたい――その気持ちを、別な言葉でキリトは口に出した。
「……それなら、仲間に入れてもらおうかな」
そう言った途端、《月夜の黒猫団》の皆の目の色が一気に変わった。歓迎の色であった。
「本当!? 本当に加わってくれるのか!?」
とても喜んだ様子のケイタが飛びついてきて、キリトは若干びびった。とても仲間が欲しかったようだ。
「うん。行く当てもないし、ソロだしさ。だから、加入させてくれ」
キリトが改めて決意表明すると、皆一斉に喜びの声を上げ、「よろしく!」「ありがとうキリト!」などと言い出した。これまで人とのかかわりを避けてやってきたわけだが、この者達とならば一緒に居たいと思える。この者達は最前線の攻略組とは訳が違うのだ。そう思ったところで、キリトはいつの間にか忘れていた疑問を思い出した。
「……それで、質問があるんだが」
「え?」
「サチの妹さんだっけ。なんて言うのかな? 名前聞けてない気がするんだ」
《月夜の黒猫団》の者達はほぼ一斉に「あ」と言った。その中にはサチの妹本人も含まれている。全員揃って忘れてしまっていたようだ。
気付いた直後、サチの妹は胸を張った姿勢で両手を腰に当てた。顔に
「そうだったそうだった。僕達の《月夜の黒猫団》っていうギルド名は、こいつが付けたんだよ。もう聞いてるかもしれないけど、こいつは僕達の中で一番年下なんだけど、僕達の中で一番頼れる奴なんだ。
サチの妹の、『マキ』っていうんだ。本当は違う名前……と言っても一文字足すだけでいいんだけど、僕達は『マキ』って呼んでるんだ。怖がりの姉とは大違いだろ?」
マキ――それがサチの妹の名前だった。しかも《月夜の黒猫団》の名付け親であり、一番の年下であるというその少女は改めて、言った。
「よろしくね、キリト!」
――原作との相違点――
・サチに妹がいる。