キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

376 / 564
 引き続きアンケートを実施中です。
 ご協力お願いいたします。



09:交わる猫龍 ―不明竜との戦い―

 

          □□□

 

 

「ア……ティア!」

 

 

 どこかで聞き覚えのある声で、ティアは目を覚ました。身体は少し重く感じられたが、動かせないほどではない。身体にある程度力を込めて、ティアは上半身を起き上がらせた。ふと周囲を見回してみると、そこに広がるのは白い雪の付着した岩壁に囲まれた空間だった。

 

 

「ここは……」

 

「気が付いたのですね、良かったです」

 

 

 もう一度聞こえた声にびっくりして、ティアは咄嗟に振り替える。かつての自分とほとんど同じような姿形をしているが、髪色が変化しておらず、紺色がかった黒髪をしている小さな少女。自身の双子の姉妹であるプレミアだった。彼女は顔に微笑みを浮かべていた。

 

 

「あなたは、プレミア……ここは一体」

 

「ここはどうやら谷底のようです。わたし達は橋から落ちてしまいました」

 

 

 プレミアの言葉が導きとなり、ティアはここに至るまでの始終を思い出した。そうだ、自分はプレミアと戦っていたが、途中で頭痛と《声》に襲われて動けなくなった。その時自分と同じように頭痛に襲われていたプレミアが寄って来て、思わずその手を握ったそこで――突然地面が爆発して、空中に投げ出された。どうやらそのまま、谷底まで落ちてしまったらしい。

 

 

「……!」

 

 

 直後、ティアはもっと重要な事を思い出す。空中に投げ出されたその時、ティアは咄嗟にプレミアを庇った。落下する事自体は避けられなかったが、それでも――。

 

 

「プレミア、あなたは……」

 

 

 ティアの言葉に、プレミアは頷きを返してきた。笑みは変わらない。

 

 

「はい。ティアが助けてくれたおかげで、大きな怪我もせずに済みました」

 

 

 ティアは安堵を感じた。落下は避ける事が出来なかったが、プレミアに大きな被害を与えずに済んだらしい。どうしてかはわからないが、ティアは心から落ち着けて仕方がなかった。

 

 

「それにしてもティア、どうしてわたしを助けてくれたのですか。さっきは戦っていたというのに」

 

 

 少々沈黙してから、ティアは胸の中で気付けた理由を口にした。

 

 

「……あなたが、わたしを助けたいと言ってくれたから。わたしにそんな事を言ってくれた人はこれまでいなくて……だから……急に放っておけなくなって……」

 

 

 ティアはプレミアと、自分自身に説明していた。これまで他人を助ける事など面倒だ、無意味だと思ってやって来なかった。だからこそ自分を助ける者などいなかった。プレミアが現れるその時まで。

 

 そのプレミアを喪ってしまったが最後、そんな事を言う者は二度と現れる事がない。きっとこの場限りの存在だ――そう思えたその時には、ティアはプレミアを助けに入っていた。

 

 

「そうだったのですか。ありがとうございます、ティア。グッジョブです」

 

「……!」

 

 

 プレミアの笑みからこぼれた言葉のうちの一つが、妙に心に響いた気がした。ふともう一度その言葉を繰り返そうとしたが、それよりも先に確認したい事がある事に気付き、ティアはプレミアに問うた。

 

 

「プレミア、気になっている事がある」

 

「なんでしょうか」

 

「あなた達は何故、そこまでしてわたしに関わろうとする。何でもないはずのわたしを助けようとする。さっきだってそう。どうしてあなた達はそこまでして、わたしを助けようとするというの」

 

 

 プレミアは若干きょとんとしたような顔をした。もしかして理由もなく助けようとしていたのだろうか。だとすれば愚かな事この上ない。そう言おうとしたティアより先に、プレミアが口を開いてきた。

 

 

「人との繋がりがないというのには、限界があるという事を教えてもらったからです。人との繋がりを持つ事の出来ないティアには限界があるから、助けようと思いました」

 

「限界?」

 

「はい。問題に直面した時、自分一人ではどうする事も出来なくても、周りの人々に力を借りる事が出来れば、解決させられる事も多くあります。しかし一人のままで居れば、問題に直面してしまえば、そこでどうにもならなくなってしまいます」

 

 

 確かにマスターであるジェネシスとアヌビスが居てくれた時に相手にしてきたモンスターや人間達の中には、ティア一人ではどうにもならないようなものが沢山いた。しかしそれでも、ジェネシスとアヌビスの力が加わればどうという事なく、切り抜ける事が出来た。プレミアの言っている事が的を得ているものだから、ティアは驚くしかなかった。

 

 

「それに……ティアとは少し事情が違うのでしょうが、わたしの仲間であるキリトとシノンも同じです。あの人達も、わたし達と出会う前は、人との繋がりを持たないようにしていたと聞いています。あの人達と関わってしまった人達が不幸になってしまったからだと……そんな事があって以降、あの人達は今のティアのように、人と一緒にいる事が出来なくなったと聞きました。同じ事になるんじゃないかと思い込んでしまって……」

 

 

 ティアは引き続き驚いていた。キリトとシノンは、プレミアと一緒にいた人間達だ。特にキリトに至ってはジェネシスと戦って、最終的に打ち負かした《黒の竜剣士》である。

 

 あの者達はジェネシスと違って沢山の仲間と一緒にいるのが今の姿だが、それ以前は自分と同じ一人きりだったなんて。全然そんなふうには思えない。

 

 

「ですが、そんなキリトとシノンも周りの皆から支えてもらう事で、そんなふうに思う事が無くなったと言います。人との繋がりというのは、これだけすごいものなのです。一人では限界でも、人と一緒ならばその先を見据える事も出来ます。だからわたしは、一人きりにされて苦しんでいるあなたを救おうと思いました」

 

 

 プレミアはようやく自分の思っている事の全てを伝えたようだった。その一言一句は、ティアの耳の中にすんなりと入って行き、確かな意味となって伝わってきた。プレミアがどうしてここまで人との繋がりを大切にしようとするのか、その理由がわかった気がした。

 

 プレミアは自分の知らない事を、人との繋がりと言うモノが本来どういうモノなのかを知っている。人との繋がりの真相を知っているからこそ、ここまでそれを大切にしようとしているし、それを教えてくれようとしてくれているのだろう。

 

 ジェネシスがそうであったように、プレミアといれば、もしかしたら自分の知らない事を沢山知る事が出来るかもしれない。そしてプレミアと一緒ならば、もしかしたら自分を襲う未来の可能性を閉ざす事も、出来るかもしれない。小さいながら、ティアはそう思っていた。

 

 同時に、プレミアに向けていた敵意が消え去っていたのもわかった。

 

 

「そう……あなたはわたしの知らない事を、沢山知っている」

 

 

 プレミアは首を横に振った。やがて視線をティアへ戻す。

 

 

「いいえ。わたしが知っている事はほんの少しです。ですが、これからもっともっと知っていくつもりです。そしてティアが一緒に居てくれれば、その幅はもっともっと広がってくれるはずです。人々との、ティアとの繋がりがあれば、どこまでも知れる事が広がっていく。そう信じています」

 

「……そう」

 

 

 ティアの一言を聞いてプレミアは立ち上がった。自分が意識を失っている間に治療したのだろう、身体の傷は無くなっていた。

 

 

「わたし達が谷底に落ちてしまった事で、キリト達が心配していると思います。一緒に行きましょう、ティア」

 

 

 ティアは思わず首を傾げた。プレミアはともかく、プレミアの仲間達が自分の事まで心配しているのだろうか。剣を向け、拒絶し続けた自分を。一度世界を滅ぼす厄災を引き起こそうとした元凶である自分を、果たして心配などしているのだろうか。

 

 

「……わたしは心配されているの。心配されているのはあなただけではないの」

 

「いいえ、わたしの仲間達は全員、ティアの事を心配しています。ティアの身に何か起きていないか不安で、心配だからこそ、こうしてティアを追いかけてきたのです。あなたを心配してくれる人達は、ちゃんといます」

 

 

 プレミアは微笑みつつそう言った。脳裏にプレミアが仲間達と呼ぶ人間達との思い出が蘇る。かつてこの世界を滅ぼす厄災となった自分を止めるために、戦いを挑んできた者達――自分とマスターに剣を向けてきた連中の事は、今でもよく覚えているし、

 

 

(彼らの……)

 

 

 強い眼差しははっきりと記憶に残っている。世界を本当に救いたいという気持ちを抱き、一丸となって戦った戦士達の眼差しは、ティアが見てきた人間達のどれよりも美しく、引き寄せられるものだった。

 

 そんな眼差しをした彼らは今世界ではなく、この自分を救おうとして一丸になって来てくれている。ジェネシスを打ち破った《黒の竜剣士》は今、ジェネシスの連れであった自分を心配してくれて、こんな危険な場所にまでやってきてくれている。

 

 人間達の事は信じられない。しかし、彼らならば、任せてしまってもいいのかもしれない。彼らのところへ行く価値は、あるだろう。

 

 

「それにティア、ようやく顔を見せてくれましたね。皆もきっと喜んでくれます」

 

 

 プレミアの一言にティアはきょとんとした。顔を見せてくれたとはどういう事だ。自分はここ最近ずっと仮面で顔を隠してきた。誰かに顔を憶えられて追跡されないように。ふと仮面のあったはずの場所を触ってみると、肌に直接触れられた。

 

 仮面がなくなっていて、隠していたはずの顔が露出してしまっている。

 

 

「あ、仮面が……」

 

「きっと落ちた時に割れてしまったのだと思います。ですが、ティアにはもう仮面は必要ないと思います」

 

「何故。あの仮面がないと、わたしはレアモブ扱いされて狙われて……」

 

 

 戸惑いを胸に生じさせたティアの手を、プレミアがそっと握ってきた。感じた事のない、柔らかくて細い、それでもしっかりとしている温もりが流れ込んでくる気がした。

 

 

「もう、そんな事は起こりません。キリト達の傍に行けば、彼らが守ってくれます。わたしは今までずっと、彼らに守られて来ました。これからはティアも一緒です。ティアはこれから狙われる側ではなく、守られる側です」

 

 

 ティアは瞬きを繰り返した。プレミアの水色の瞳には暖かい光が瞬いている。それはプレミアの言うキリト達が、自分を止めるべく戦いを挑んできた際に見せてきた瞳の光と同じだった。プレミアは真実を言っている。もう心配はないという確かな証拠があるかのように。そんなものは確認できていないはずなのに、何故かティアはそれを信じる事が出来る気がした。

 

 本当にもう、大丈夫なのかもしれない――そんなティアの思いを汲み取ったように、プレミアはもう一度笑んだ。

 

 

「キリト達のところまで、わたしが案内します。そしてキリト達のところに着くまで、わたしがティアを守ります」

 

「あなたが、わたしを守る?」

 

「はい。世界を滅ぼす厄災が失われた今ならば、わたしはまた《むがむちゅうのちから》を振るう事が出来ます。わたしはティアのために、もう一度《むがむちゅうのちから》を使って戦います」

 

 

 《むがむちゅうのちから》。その言葉を聞いたのはジェネシスとキリトが戦った時だった。確かあの時、プレミアが教えてくれた《むがむちゅうのちから》を信じる事で、自分はジェネシスに大きな力を与える事が出来た。あんな事が出来たという事は、プレミアの言っている《むがむちゅうのちから》とは本当に存在するのだろう。

 

 プレミアはその《むがむちゅうのちから》を使って、自分を守ってくれようとしてくれている。それが何故だか、ティアはとても心地よく感じられた。その中に混ざって、産まれた気持ちもあり、ティアはすぐさま口に出していた。

 

 

「……わたしはそこまで貧弱じゃない。あなたが守ってくれなくても、大丈夫」

 

 

 そう言ってプレミアの手を離し、ティアはプレミアと並んだ。前方には道がある。恐らくこの谷間から崖の上部へ登れる部分があるだろう。だが、この谷間はあの様子のおかしいモンスター達が渡り歩いている場所であろう。崖の上に着くまで、戦闘は避けられまい。

 

 

「この先に登り道があるはず。そこに着くまでに、あなたの力を見せて」

 

 

 プレミアはきょとんともせずに、腰に携える細剣の柄に手を置いた。

 

 

「わかりました。わたしも強いという事を、ティアに改めて教えてあげます」

 

 

 ティアは思わずふふんと笑った。それは一種の安堵の笑みでもあった。

 

 

 

          □□□

 

 

 迷宮と崖を繋げる橋の上空での戦いは続いていた。キリトとシノンを乗せたリランと、突如として現れてきた猫龍セクメトの空中戦は、長引く一方だった。これまでセクメトが襲ってきた時は、ある程度ダメージを与える事で、セクメトを撤退させる事ができていた。

 

 しかし今のセクメトは一向に逃げ出す気配がない。リランのブレス攻撃は勿論、爪や牙による攻撃も受けて、かなりのダメージを負っているはずなのに、リランを、背に乗るキリトとシノンを襲い続けているのが現状だった。

 

 

「くそっ、これだけ弱らせても逃げないだなんて……!」

 

「本腰入れて攻撃してきてるとか、そういう事なのかしら!?」

 

 

 シノンの言った事はキリトも脳裏にちらつかせていた。セクメトはこれまで主の命令を受けて、こちらの偵察をして来ていただけだったのかもしれない。苛烈な攻撃を仕掛けてきはするが、あくまで偵察任務なので、ダメージを受ければ撤退するようにしていたのだ。

 

 だが、今のセクメトはHPが黄色に変色するほどのダメージを受けても、戦い続けている。これは主の命令が対象の偵察から撃破に変わった事を意味しているのかもしれない。セクメトは偵察ではなく、こちらを本当に叩き潰すつもりでやってきたのかもしれない。

 

 しかし、そんな事になってもなお、セクメトの主の目的はわかりそうにない。一体何のためにセクメトを飛ばさせてきているというのだ。何が望みで、セクメトにこちらを襲わせているというのだ。

 

 いずれにしてもただの嫌がらせだとは思えない。セクメトの主は余程の暗い情熱を持って、セクメトに命令してきているのだろう。それがキリトは少し恐ろしく感じられた。その時、使い魔の声がした。

 

 

《ここまでの事を《使い魔》にやらせているという事は、こいつの主人はろくでもないやつに違いない。場合によってはセブンや運営に知らせた方がいいかもしれぬぞ》

 

 

 確かにセクメトとセクメトの主人である《ビーストテイマー》のやっている事は、他プレイヤーへの悪意ある嫌がらせの域を越えているように思える。これだけの事を仕出かしている事を運営に連絡すれば、対応が下るだろう。

 

 だが困った事に、セクメトの主人の事は《使い魔》がセクメトであるという事しかわからない。名前も容姿もわからないので、運営に連絡しようがないし、セクメトを使っているという情報だけでは、セクメトというモンスターをテイムしている《ビーストテイマー》全員があらぬ疑いをかけられてしまう。セクメトを使っている《ビーストテイマー》である以上の情報が必要だ。

 

 それをどうやって手に入れるか、キリトは思い付かない。いや、考えている余裕さえない。今はセクメトをどうするかを最優先に考えなければならないうえ、この戦いを長引かせるわけにもいかないのだ。

 

 こうしている間にもプレミアとティアに危機が迫っている。早くセクメトを倒すか撃退するかして、谷底へ落ちてしまったプレミアとティアを探しに行かなければならない。今、セクメトは最悪の障害だ。

 

 そのセクメトはリランの背後を飛んでいたが、キリトが確認するのと同時に上空を飛び去った。遅れて風圧と音が鳴る。戦闘機のように音速を超えて飛んできたのだ。搭乗する者がおらず、正体不明の半重力エネルギーで飛んでいるからこそ出来る芸当であった。

 

 これだけの速度を出して地上付近を飛ぼうものならば、衝撃波(ソニックブーム)で地表のあらゆる物体が引き裂かれて吹き飛ばされるだろう。地上を破壊と殺戮で埋め尽くす所業と力は、まさに破壊と死の女神のそれだ。

 

 そんなふうにしてキリト達の目の前に躍り出た死の猫神は、ブレス攻撃の雨を降らせてきた。毒を含んで紫の混ざる白い火炎弾が降り注いで来る中を、リランはなるべく縫うようにして飛んでいく。その中で数回リランの翼を毒火炎弾が掠め、ぐらりと身体が揺らされた。

 

 既に剣を鞘に仕舞い、両手でリランの剛毛を掴んでいるが、それでもかなりの揺れがきて、振り落とされそうになる。

 

 そもそもリランは劣勢であり、その原因は自分達である事をキリトは知っていた。リラン自身が望んだ事ではあるが、リランは自分達を乗せているがために、無理な動きはできない。攻撃も回避も、背中にいる自分達を振り落としてしまわないように加減しながらのものになってしまっている。

 

 だからこそ、無人で好き勝手に動き回り、攻撃してくるセクメトに及ばないのだ。これならばリランの背中に飛び乗らず、崖で指示を出していた方がよかったかもしれない。なんなら今すぐ橋に飛び降りてリランに自由を与えるべきか――。

 

 

《キリト、お前はこいつに何をしたのだ?》

 

 

 思考を巡らす頭の中に、リランの声が乱入してきた。明らかに思考の邪魔だ。苛立ちを覚えて、キリトは思わず大声で答えた。

 

 

「なんだよ急に!? 今作戦を考えてるんだ――」

 

《こいつの攻撃は、明らかにお前を狙っているぞ》

 

「え?」

 

 

 その一言が思考を中断させた。セクメトが狙っているのは自らと同じ使い魔であるリランの方ではないのか? 風に吹き消されないように声を出して、キリトはリランへ問い返す。

 

 

「セクメトが俺を狙ってるって、どういう事だよ」

 

《そのままだ。あいつの放つブレスの軌道はお前を先端に捉えている。それに肉弾攻撃の時も、お前を狙うような動きを見せていた》

 

 

 そういえばこの空中戦の中で、セクメトが爪と牙による攻撃を仕掛けて来るときもあったが、その時セクメトの爪と牙がリランではなく、背中にいる自分目掛けて飛んできた。勿論リランが防いでくれはしたものの、もう少し近ければ届きそうで、ぎょっとしたものだ。あれは偶然ではなかったというのが、キリトは信じられなかった。

 

 

「あいつは、俺を狙って攻撃してきてるのか。何のために」

 

《……その様子だと、我らが見ていない間にセクメトとその主人の怒りを買うような事はしていないらしいな》

 

「当たり前だ。あいつの《ビーストテイマー》の事はなんにも知らない」

 

 

 キリトは吐き捨てるように言った。これで増々謎が深まってしまった。セクメトのターゲットが自分であるというならば、その理由はなんだというのか。このゲームで取ってきた行動の数々を省みても、セクメトとその主人らしき人物に何かしたという記憶は出てこない。全く記憶にないのにセクメトに狙われているのだから、何かのとばっちりを受けている気にさえなってくる。

 

 そんな感じで頭の中をぐるぐる回すキリトに声をかけてきたのは、シノンだった。

 

 

「キリト、こんな状況で話すのも間違いかもしれないけど――」

 

「え、なんだ」

 

「あいつの元になってるエジプト神話のセクメトって、報復の神でもあるって知ってた?」

 

 

 あの猫龍のモデルであるエジプト神話のセクメトは、元々は太陽神ラーが自身を信仰しない人間達に報復するために、自身の代わりに地上に遣わせたと伝えられている。セクメトの破壊と殺戮は、神が人間へ報復するためのものであったのだ――それが読書家であるシノンからの説明だった。

 

 そこでキリトに新たな疑問が生じる。もしそのセクメトの設定があの猫龍にも適用されているのであれば、あの猫龍は報復をするためにやっていているという事になる。先程からの攻撃とは、自分への報復を成し遂げるためのものだったのか。

 

 では、その報復とはなんだろう。自分は何をしてしまったために、セクメトに報復されようとしているというのか。

 

 

「……ッ!」

 

 

 ふと考え込もうとした瞬間に、キリトははっとした。前方から猛スピードでセクメトが迫ってきていた。それは突進を交えた飛びかかり攻撃だった。そしてその狙いはこれまでどおり自分に他ならなかった。

 

 世界がスローになり、セクメトがゆっくりと迫ってくるが、自分の身体も当然ゆっくりとしか動かない。意識だけ高速化し、身体が置いてけぼりになっているのだ。セクメトが攻撃してくるならば、やるべき事はなんだろう。ここで自分のやるべき事は――。

 

 

(……シノン!!)

 

 

 自分の後ろにいるのはシノンだ。このままでは守るべきシノンまでセクメトにやられてしまう。自分のやるべき事はシノンを守る事。どんな敵からも、だ。そう思い出したキリトは咄嗟に後ろへ向き直ろうとした。

 

 

 その次の瞬間、前方を黒く染めていたセクメトが突然姿を消した。世界のスローモーションが解除されると、解放されたように爆音が飛んできた。セクメトが先程飛んできた時と同じだ。音速を超える速度で何かがやってきたらしい――キリトは瞬時に把握する事が出来た。

 

 

「なっ……!?」

 

 

 

 痺れかかった頭のまま、キリトは周囲を確認する。間もなくリランが《おい!》と言って《声》をかけてきた。その視線に誘われるように目を向けたところ、また想像を絶する光景が繰り広げられていた。

 

 こちらに襲い掛かってきていたセクメトに襲い掛かる、新たな存在が認められた。あまりに突然の事だったのでセクメトも混乱したのだろう、速度を大きく緩めてホバリングし、襲い掛かってきたそれを睨み付けていた。

 

 

「あれは……」

 

 

 キリトもシノンも、セクメトと対峙しているそれに釘付けになっていた。金と青の装飾がされた、女神のモノを思わせる服のような豪勢な白い鎧を纏い、頭には白色に輝くエネルギーの輪を浮かべている。しかし鎧の下は黒い毛並みで覆われていて、尻尾の先が槍の穂先のようになっている。セクメト同様背中から半重力エネルギーの翼を発生させて宙に浮いている、猫の輪郭をした龍。

 

 次の瞬間にキリトは、その名を口にしていた。

 

 

「ハトホル……!?」

 

 

 ハトホル。エジプト神話に登場する、黒い猫の頭部を持つ神。死神であるセクメトとは正反対の、生命を司る優しき女神だ。その名を冠する猫龍とは、キリト達は遭遇した事がある。丁度今のように、セクメトに襲い掛かられている時に。

 

 直後、セクメトは猫とは思えない、獰猛な獣の声を出してハトホルを威嚇した。ハトホルはほとんど動じずにセクメトを睨んでいる。セクメトの強さなどに怯んでいる様子などは一切なかった。

 

 間もなくセクメトは牙を剥いてハトホルに飛び掛かったが、そこでハトホルはセクメト同様重力を無視したような動きをして回避、逆にカウンターを仕掛けていく。ハトホルの攻撃に、セクメトは興奮した様子で襲い返した。セクメトの狙いは完全にハトホルの方へ向けられていた。

 

 キリトはすっかりハトホルに気を取られ、セクメトとの戦いを見ているしか出来なくなった。前にハトホルと出会った時と同じだ。

 

 あの時、セクメトに襲われていた自分達の間にハトホルは現れてきた。突然の事にキリト達が驚いていると、ハトホルはセクメトに襲い掛かり、一方的な戦闘を開始した。そしてその後は、セクメト共々空へと消えていった。

 

 ハトホルは自分達に襲い掛かる事なく、セクメトを撃退してくれた。その事から、キリトはハトホルが味方であると認識するようになったが、重要なのはそこではない。

 

 ハトホルはセクメトと違って、主人を乗せて戦っていた。ハトホル自身の意思ではなく、主人の意思に従って、ハトホルは自分達を助けに来てくれたのだ。しかも驚くべき事に、そのハトホルの主人とは、クエストを探し出せなくて困っていたシノンに目当てのクエストを無料で教えた情報屋と思わしき人物でもあった。更に、キリトはそのハトホルの主人に見え憶えがあったような気もしていた。

 

 そのハトホルの主人と遭遇出来た時、キリトは接触を試みた。だが、ハトホルの主人はほとんど何も教えてくれないまま、キリトの前から姿を消した。それ以降何の情報も掴めないうえに、遭遇さえもできないでいたので、ほとんど忘れていたようなものだったが――彼の者はついにもう一度、キリト達の前に姿を現した。セクメトと同様に。

 

 

「え、あれ……!?」

 

 

 咄嗟にハトホルの背中を見たキリトは思わず目を疑った。

 

 ハトホルの背中に人の姿はない。あの時のように主人を乗せておらず、ハトホルは単独で飛んでいた。それはハトホルが主人の命令を受けてその傍を離れ、ここまでやってきているという事を意味していた。

 

 そしてそのハトホルは今、セクメトから自分達を助けに来てくれたように見える。

 

 セクメトが自分を襲う命令を受けているのであれば、ハトホルはセクメトから自分を守る命令を受けてここにきている――キリトはそう思えて仕方がなかった。どちらにしても、その意志の深層にある物を掴む事は出来ない。

 

 セクメトの主は何のために自分を襲い、ハトホルの主は何のために自分を助けるのか。様々な憶測と情報不足で、頭の中が絡まってしまいそうだった。直後、呆然から我に返ったであろうリランの《声》が飛んできた。

 

 

《今ぞ! 今のうちにプレミアのアニマボックス信号の位置に飛び込むぞ!》

 

 

 出来る事ならば、撃退されたセクメトの後を追い、セクメトの主の許へ向かいたかった。だが、今はプレミアとティアの無事を確認するのが先であり、そのために自分達はここに向かってきているのだ。しかもセクメトを追うにはリランの翼が必要不可欠であり、リランが居なければプレミアとティアのアニマボックス信号を拾えない。最悪のタイミングであるが、認めざるを得なかった。

 

 

「わかった……リラン、プレミアの居る位置まで行け!」

 

 

 主人の命令を受けた狼竜は一気に方向転換し、その先の谷底目掛けて飛んだ。谷を満たす白い靄の中に飛び込んですぐ、二匹の猫龍が戦う音は聞こえなくなった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。