キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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 もうすぐ、クライマックス。

 


19:新月の黒猫

          □□□

 

 

 

「ま……マキ……?」

 

 

 その異形ともいうべき黒き巨人の顔は、確かに似ていた。猫科の動物の特徴が混ざっているが、月夜の黒猫団の名付け親であり、強さの面で中核であり――かつてキリトが守ろうと決意していたサチの妹である少女の顔に。

 

 よく見てみれば闇のような黒き身体は、人間の女性のものに酷似している。肩と背中から一対ずつ巨大な腕が生えていて、この戦場の淵を掴んでいるという特徴こそあるが、見えている上半身は確かに女性のそれだ。その作りもまた、マキのそれに酷似している。

 

 黒き巨人は(あたか)も、この世界から消えたはずのマキが無理矢理戻ってきて、その副作用によって原形を辛うじて留めている異形の姿になってしまったものと思えるものであった。

 

 そしてそんなものがここに現れている事自体、信じ難い光景であるため、誰もが言葉を失って巨人を見ているしかなかった。やがてその中の一人だったシュピーゲルが声を張り上げる。

 

 

「な、なんなんだよ、あれ!?」

 

 

 そう言いたかったのはキリトも同じだった。あれは本当に何だというのか。ようやく特異点を止めてプレミアとティアを助ける事に成功したかと思えば、突然ゲームがクラッキングを受けているなどという情報が入り、そして目の前の黒き異形の巨人が出現してきた。何もかもが唐突過ぎて頭が付いていけていない。

 

 

《あ、あ、ああはは、あはははは、あはあはははははははははああはははは》

 

 

 巨人の口から音が漏れ出す。笑い声だった。いくつものノイズが混ざっていてわかりにくいったらありゃしないが、確かにマキ/マキリの声に似ていた。その壊れたような笑い方もまたマキリのものと同じだ。やはりあれはマキリであるというのか。

 

 

「マキリ!? マキリはもうこの世界に戻ってこれなくなったんじゃなかったの」

 

 

 アスナが信じられないように戸惑っており、それはどんどん周りに伝染していく。誰もが戸惑い、誰もが状況を把握できない。誰もこの状況が何なのかがわからないのだ。戸惑いと混乱があの巨人を中心にしてウイルスのように散布されている。キリトはとっくにそのウイルスに感染していた。

 

 あれがマキリであるのが真実ならば、マキリはどうやって戻ってきたというのだ。あの時マキリは確かにアカウントを剥奪され、ここには戻ってこれなくなったはずなのに。

 

 そしてあの姿もどういう事なのか。確かにマキリと似てはいるものの、あまりに違い過ぎている。首元を覆う獅子のそれに似た漆黒の(たてがみ)、上半身のところどころに見受けられる金と黒の鎧、そして目の上の禍々しい黒い角は、彼女の《使い魔》であったセクメトのものと似ている。恐らくこれは、セクメトが進化し続けた末の姿なのかもしれない。しかしその顔はセクメトのものに似ているが、彼女の顔も混ざっていて、更に左目が潰れている。

 

 まるでセクメトが急激に進化して、《ビーストテイマー》であるマキリをも取り込んだか、もしくは急激に進化するセクメトをマキリが取り込んで自分に適応させたかのようだ。いずれにしても常軌を逸していて、この世界の(ことわり)を根本からぶち壊している。そうとしか思えなかった。

 

 

《……おやおやおや。久しいね、諸君》

 

 

 黒き異形の巨人とは違う《声》がした。どこから聞こえてきているのかは定かではないが、はっきりとした《声》。それは頭の中に直接響いてきているものだった。狼竜形態のリラン、《使い魔》形態のユピテルが発するものと原理は同じであろう。その声色は両者と一致しない男性のものだった。

 

 やや老いた男性の、高めのハスキーボイス。その声の主をキリトは知っている。だからこそ信じられなかった。その声が聞こえてきた事が。

 

 

「その《声》……お前は!?」

 

《ふむ、忘れてくれていないようだね。また会えて嬉しいよ、諸君》

 

 

 仲間達の間に一気にざわめきと動揺が広がった。この声の主は、存在していないはずだった。既に倒されて、終わったはずのもの。その《声》が頭の中に響いて来ている。終わりのない悪夢の中から、亡霊が囁いて来ている。

 

 

「ハンニバル……なのか……!?」

 

 

 それは古代カルタゴの英雄の名前であり、古代ローマにとって最悪の脅威であった者の名。そのハンニバルと同じ名を冠するそれは突如としてこの国に現れ、マハルバルという部下を使い、史上最悪のサイバーテロを何度も何度も引き起こしてこの国を混乱させたうえで、社会構造を大幅に書き換える事に成功した。

 

 そしてSAOの時にはマハルバルを引き続き使い、ありとあらゆる異変と事件を起こし、プレイヤーを何度も死の恐怖に晒した。《声》はそのハンニバルと同じ物だった。

 

 

《そうだ、私だとも。《声》しか届けられないからわかってもらえないかと杞憂に思っていたが、無事に伝わってくれていて良かった》

 

 

 《声》の主は否定してこなかった。SAOクリア後には姿を消したが、ALOのスヴァルト・アールヴヘイム攻略完了時に自分達の前に姿を現し、戦った。その際、ハンニバルは肉体を持たず、電子の海で生きている生命体であるという驚くべき事実に遭遇する事になったが、最後はキリト達SAO生還者達の手によって完全に消去され、肉体も電脳での意識も死に絶えたはずだった。――今この時まで。

 

 

「なんでだよ、なんでお前が生きてやがるんだよ!?」

 

「あんたは確かにあの時死んだはずでしょ!?」

 

 

 クラインとレインが上に向かって話しかけると、《声》が返ってきた。如何にも聞いてもらいたかった事を聞いてもらえたかのような、嬉しそうな声色だった。

 

 

《その様子だと、私が思っていた以上に大成功だったようだね。あの()()は》

 

()()……!?」

 

 

 リーファの問いかけにハンニバルは引き続き答える。

 

 

《諸君は思いの(ほか)、私の計画というモノを深く知ってしまった。このままでは、入ってもらいたくないところにまで入ってこられる危険性があった。だから私は事前に手を打つ事にした。諸君のところに代役を送り込んだのだ。そしてその代役を噛ませ犬のように諸君に倒させ、そのまま死んだように見せかける演出をさせてもらった。

 その結果諸君は私が死んだと思い込み、それ以上私のところに深々と入ってくる事はなくなった。おかげで私は諸君に邪魔される事なく、余裕をもって計画を進める事に成功した》

 

 

 誰もが目を見開いていた。キリトもその一人であり、その頭の中にはハンニバルを倒した時の光景がフラッシュバックしていた。あの戦い、あの時自分達は全力で戦い、そして勝った。SAO事件の悲劇の黒幕を、社会を混乱させた元凶を討ち取ったと思い込んでいた。

 

 しかしそれは全てハンニバルの用意した舞台だった。自分達の討ったそれは事前に用意されたデコイ。デコイを倒して、すべてを終わわせた気になっていた。

 

 

(これじゃあ……)

 

 

 憎きサイバーテロリストであるマハルバルの別名《()り逃げ男》を逮捕したけれども、本当は全く違うものであると気が付かず、社会を救った気になっていた警察やマスコミと同じじゃあないか。自分達は警察やマスコミを騙した時と全く同じ単純なやり方で、騙され続けていた。

 

 SAOの時と同じように、ハンニバルの掌の上で踊らされていただけだった。ハンニバルは腹を抱えて笑いながら、それを見ていたに違いない。

 

 

《代役にはマハルバル……いや、《()り逃げ男》を使わせてもらった。君達もよく知っているアルベリヒ、須郷と言ったかな。彼の付けていたナーヴギアからデータを引き上げ(サルベージ)して、素体にさせてもらったよ。彼も一年以上生きて、ナーヴギアの中に人格データのコピーが出来上がっていたからね》

 

 

 アルベリヒ。本名を須郷(すごう)伸之(のぶゆき)というのもまた、SAO事件内で起きた数々の悲劇の黒幕だった。しかしその傲慢な性格が災いして、攻略組の総攻撃を受けて敗北、止めを刺されて死亡した。

 

 その須郷こそが、ハンニバルの部下であり、ハンニバルの指示を受けてテロリズムを働いていた《()り逃げ男》だった。

 

 結局須郷はハンニバルに使われるだけ使われて死んでいったが、ハンニバルはそれだけに飽き足らず、須郷のナーヴギアのデータまでも使っていたらしい。須郷は到底許せない悪人だったが、死んでも尚ハンニバルに利用され続けているというのには、どこか哀れみを感じた。

 

 いや、それこそが報いなのかもしれない。散々悪事を働いた報いとして、死んでも尚ハンニバルに利用され続けるという因果応報。――キリトはそう思い直した。

 

 

「《SA:O》をクラッキングしているのはお前なんだね。どうして今更そんな事を」

 

 

 そう食いかかったのはカイムだった。キリトも同じ気持ちである。なんのためにハンニバルはここへやってきて、わざわざ接触してきたというのか。その理由をハンニバルは答えてきた。

 

 

《無論、この少女の願いを叶えてやるためだ。キリト、君のよく知っているマキリの願いというものをね。彼女が私の役に立ってくれた事への報酬だよ。そのためにクラッキングを仕掛けてみたところ、あっさりと乗っ取れてしまった。拍子抜けしたくらいだ》

 

「報酬だと……?」

 

《マキリは最初から私のために働いてくれていた。キリトがどこにいるか、どうしているかを教えてやると言ってやったところ、すんなりと言う事を聞いてくれるようになってね。《SA:O》で取れる様々なデータの収集、私の開発したものの検査や実験をやってくれた》

 

 

 ハンニバルはいつだって、ゲームの中を実験場にして何かしらの悪事を働いていた。今回もそうなのだろうが、それらしき事柄が見つからない。ハンニバルが今回マキリにやらせていた実験とは一体何か。

 

 

《いや、彼女一人ではない。もう一人と一緒にやってくれたね。まぁお互いに教え合わなかったから、私の協力者同士である事を最後まで理解する事はなかったが》

 

「もう一人……実験……まさか、お前はあの時の!?」

 

 

 反応したのはティアだった。ハンニバルは得意げな声で答えてくる。

 

 

《そう。キリトが相手にし、ティアを従えていた剣士ジェネシスだ。彼もまた私の協力者だったのだ》

 

「ジェネシス……あいつもお前が動かしていたっていうの?」

 

 

 ユウキが信じられないように言う。他の者達も同様に驚いている。あのジェネシスさえもハンニバルの手で動いていた末端。知らず知らずのうちに、自分達はハンニバルに接触していた。

 

 

《彼は《エヴォルティヴ・ハイ》というデジタルドラッグを使っていただろう? それは私が彼に与えてやったものだ。彼は私の《エヴォルティヴ・ハイ》に適合した最強の存在だった。現に彼は強かっただろう、諸君?》

 

 

 確かにジェネシスは《エヴォルティヴ・ハイ》によって常軌を逸した強さを手に入れていた。その時剣を振るう様子は人の姿をした獣であったのは記憶に新しい。ジェネシスを禍々しい邪悪な獣にさせたのもまたハンニバルだったのだ。

 

 

「あいつはゴッド・オブ・チート、ゴッド・オブ・モッドとかいう有名人だったな。だから接触したのか」

 

 

 ディアベルの問いかけに声は答える。そのとおりだと言わんばかりだ。

 

 

《そうだとも。彼はとても可能性に満ちていた。もしSAOに参加できていれば、彼もまたキリトのような英雄になっていたかもしれない。彼は英雄の素質を持った存在だった。だから私は彼に協力してやる事にしたのだよ。データを収集する事と《エヴォルティヴ・ハイ》やその改良技術などを提供する事を条件にね。なかなか掴みどころのない者だったが、彼はとても上手くやってくれた。中でもキリトと仲間の諸君、君達との戦闘データも取ってくれたのは最高だった》

 

 

 ジェネシスも同じだ。ハンニバルという存在の見えざる掌の上でずっと踊らされていた。本人は知っていてもそんなつもりはなかったかもしれないが、結局最後まで踊らされていたのだろう。そして自分達もジェネシスの背後にハンニバルがいると思いもせず、色々見せびらかしてしまった。

 

 

《しかし、最終的に彼は諸君に負けてしまって、裏方に回るしかなくなった。なのでそれまでの彼の役割を、このマキリに引き継がせる事にした。彼女は喜んで引き受けてくれたよ。キリト、君ともう一度出会う事ができると言ってやっただけでね》

 

 

 マキリは月夜の黒猫団の仇討ちをするべくキリトを襲った。しかし、それまでキリトが《SA:O》にいる事を、そもそもVRMMOをやっているかどうかをどうやって突き止めたかが不明瞭だった。その答えは、ハンニバルがここまで導いた、だった。

 

 傷心したマキリはハンニバルに無理矢理動かされ、ここまで連れてこさせられたのだ。怒りが胸に湧いてきて、キリトはハンニバルに問うた。

 

 

「マキを駆り立てたのはお前なのか、ハンニバル」

 

《いや、キリトの許へ行きたがったのはマキリ自身の意志だ。私はその手助けをしてやったに過ぎない。現に彼女は喜んでいたよ。報復すべき相手にようやく出会えた事に、ようやく復讐すべき相手を殺せる事にね。そうだっただろう、キリト?》

 

 

 言葉が詰まった。確かにマキリは憤怒すると同時に歓喜していた。報復、復讐の相手に出会え、殺す事ができる事に。すべてを踏みにじる事ができる事に、彼女は喜びを抱いていたようだった。彼女をそんなふうにさせたのは、結局月夜の黒猫団を壊滅させた自分自身にほかならない。

 

 

「けど、マキリはあの時確かにアカウントを凍結されたんじゃ……!?」

 

 

 アスナが戸惑いつつ言う。そうだ。あの戦いの後、運営の手によってマキリはアカウント凍結処分を受けて、この世界から永久追放されたはずだった。なのに、マキリはここに来ている。モンスターにしか見えないような姿となって。

 

 

《この娘は賢い娘だ。マキリというアカウントと、ヴェルサというアカウントの二つを持っていた。それぞれナーヴギアとアミュスフィアで使い分けてね。そのやり方には私も驚かされたものだ》

 

 

 その告白に驚かざるを得ない。マキリはナーヴギアとアミュスフィア、二つのVR機器を使い分ける事で、アカウントの多重所持をしていたのだ。どちらかが凍結を受けても、もう片方を使う事で凍結された世界に戻る事ができる。かつてSAOに閉じ込められたものの生還し、ナーヴギアを所持しているという事自体が、マキリに最大限に味方していたのだ。

 

 

《今のマキリこそが真のマキリだ。ナーヴギアを使い、アミュスフィア以上の出力を得られている。だからこそ、彼女は私の用意したその姿に適応できた。ナーヴギアとは、実に可能性に満ちた機器なのだよ。諸君も使ったらどうだね?》

 

 

 ハンニバルはあからさまな挑発してきているが、皆の意識はそちらに向いていない。ずっと、異型の巨人となったマキリに向けられている。かつて猫耳服と顔つき、身体付きの可愛らしかったマキリは、かつての物を全て投げ捨て、狂気の魔物と化した。《使い魔》であるセクメトと似通った見た目を持つ、黒き巨人に。

 

 いや、その姿は古代エジプト神話の破壊神セクメトの再現であろう。報復心に囚われた少女は、破壊神セクメトの化身へ姿を変えて戻ってきた。神話では、地上に降り立ったセクメトは歓喜に塗れて殺戮の限りを尽くし、主神ラーを後悔させた。セクメトと同一の存在となった彼女はこれから殺戮を行うつもりなのだろうか。

 

 

《あははは、あはははははははは、あげる、おねえちゃん、いきかえらせて、あげるうねぇ》

 

 

 黒の猫神からマキリの声がしたと思うと、急に風が吹き始めた。どこからともなく流れてきて、黒の猫神に向かっていく。その中に、水色の破片のようなものが混ざっている。それはこれまで見てきたモンスターの消滅時のエフェクトに酷似していた。青水色のガラス片が、風とともに流れ、黒の猫神に吸い込まれていく。何かが起きているのは確かだが、何が起きているのかわからない。

 

 

「こ、これは、た、大変です!!」

 

 

 そう叫んだのはユイだった。ウインドウを開き、何かを観察しているようだが、その顔は真っ青になっている。

 

 

「どうしたんだ、ユイ!?」

 

「マキリに流れ込んでいるのは、アイングラウンドのNPC達のHPです! マキリがアイングラウンド中のNPC達のHPを奪い取っているんです!」

 

 

 ここ《SA:O》のNPC達は、全てが実験体である。その特性のために、HPがゼロになると完全に消去される。つまり、HPがゼロになれば本当の意味で死に至るようになっているというのが、この《SA:O》のNPCの特徴だった。だからこそキリト達はなるべくNPC達を危険から遠ざけるように、守るようにしてきたのだ。

 

 その守るべきNPC達のHPが吸い取られ、マキリに吸い込まれていっているという事は、マキリがNPC達の生命を吸い取って集めているに他ならない。

 

 

「そんな、なんでそんな事が!? ううん、なんでそんな事を!?」

 

 

 フィリアの問いに答えたのは、ハンニバルだった。

 

 

《それがマキリの願いだよ。マキリは辛くも姉の死を受け入れた。姉の死から逃避し続けていたマキリは前に進んだのだよ。そしてマキリは、姉の生き返りを望んだ。だから私は手を貸してやったのだよ。NPC達のHPを糧に、姉を生き返らせる方法を与えてあげた》

 

「なんだって……?」

 

 

 かつて守れなかった人である、サチという少女。その人こそがマキリの最愛の姉だった。マキリはサチを生き返らせようとしている。サチが、生き返ろうとしている。キリトはその言葉に食いつかざるを得なかった。あのサチが、あの時死んでしまったはずのサチが、生き返る?

 

 

《私はサチのナーヴギアのデータを引き上げする事に成功したが、欠損だらけで完全じゃなかった。彼女を完全にするためには、その欠損を直さねばならなかった。それに適しているのが、この《SA:O》のNPC達だった。NPC達がどれだけ大きな存在であるのか、諸君の方がよくわかっているだろう》

 

 

 この世界のNPC達は、どれもが常に学習と進化を続けている。プレミアとティアはイリスが作ったアニマボックスを搭載しているので特別に進化も成長も早いが、いずれにしてもこの世界のNPC達全部が、彼女達のようになる可能性を持っている。データの濃さであれば、ここのNPC達はどのゲーム、どの企業の運営しているAI達にも勝っているだろう。だからこそ、NPC達は命を亡くせばそれっきりという代償を背負っている。

 

 だが、キリトはそこを気にしてはいなかった。

 

 

「サチが、生き返るのか……?」

 

 

 か細い声で話しかけると、ハンニバルは答える。

 

 

《そうだ。君も渇望していたはずだ、キリト。サチが生き返り、君の前に姿を現す瞬間を》

 

 

 そのとおりだった。もう一度サチと会う事ができたならば、もう一度サチと話をする事ができたならばーー彼女を喪ってから、そんな事を考える事も少なくはなかった。それは願いでもあった。決して叶う事のない無意味な願い。

 

 それが叶おうとしている。ハンニバルの手ではあるものの、サチが生き返ろうとしている。意識が完全にそこへ持っていかれていた。このままいけば、サチが本当に生き返る。

 

 

「サチが、生き返る……サチが……」

 

《続々とNPC達の生命力が集まってきている。このまま行けばその時はすぐに来るだろう。君の願いが叶うのだ》

 

 

 頭の中にサチの姿がはっきりと浮かび上がっている。もう会えない、話もできないと思っていた彼女が、ここに現れようとしている。夢のような話だ。いや、ここは夢を叶える事もできる世界だ。だからサチが生き返っても不思議ではないかもしれない。

 

 そう思って呆然としていたその時だった。黒の猫神となったマキリが突然吠えたかと思えば、その巨大な右手四本を思い切り振り下ろしてきた。その唐突さのおかげでキリトは我に返り、咄嗟に右方向にダイブして回避する。仲間達も同様に回避行動を取ったようだが、数名は避け損ねたらしく、ダメージを受けて倒れていた。

 

 

「な、なんなんですか!?」

 

 

 驚いているシリカ。他の者達も同じように黒の猫神に驚く一方だ。

 

 

《マキリは諸君を快く思っていないようだ。大切な姉を復活させる前に、諸君を殲滅するつもりでいるのだろう。いや、もしくは諸君の生命力を欲しているのか……》

 

 

 つまりマキリは姉が生き返ろうとしていても、かつて姉を殺した者、それに与する者達への報復をやめるつもりはない。報復すべき者達を殺し尽くして、姉への生贄ににするつもりだ。そんな意図が読み取れた。

 

 

「そもそも、この世界のNPC達はHPがゼロになれば死んじゃうんですよ! そのNPC達が大量に死んでしまえば、この世界がどうなるかわかっているんですか!?」

 

 

 そう抗議するのは、生命の重さを知ったユピテルだった。そんな彼の言葉もわかり切っているようにハンニバルは答える。

 

 

《勿論、この世界は破滅に向かうだろう。運営もこの世界を凍結、処分するに違いない。だが、そんなものはサチの命と比べたらどうという事ない。そうだろう、キリト》

 

 

 ハンニバルはあくまでキリトに語りかけてきていた。逃れようとしても逃れられない。サチが生き返ろうとしている。この世界の多くのNPC達を犠牲にする必要があるが、サチが生き返る。

 

 あのサチが、生き返る。

 

 

「本当に、サチが……」

 

 

 頭の中いっぱいにサチの姿が広がり、意識がぼんやりしかかった。やっと君に会える。やっと君とまた話ができるーー。

 

 

 

「キリトッ!!!」

 

 

 

 その時、乾いた音と共に、頬に痛みに似た不快感と衝撃が走った。あまりに強く感じられる一撃によって、頭の中の全てが一瞬にして吹き飛び、真っ白になる。視界が取り戻された時、目の前にいたのはシノンだった。

 

 彼女は平手打ちの後のような姿勢で、肩で息をしていた。

 

 

「なんで騙されようとしてるのよ! そんなわけないでしょうが!!」

 

「シ……ノン」

 

「サチが死んじゃったって誰よりもわかってるのは、あなたじゃない。その事で苦しんでるのも、あなたじゃない。生き返らせられないってわかってるから、苦しんでたんでしょ」

 

 

 サチの死というものを忘れた事は片時もない。そしてそれが覆る事がないという事もわかってきていたつもりだった。だが、もし本当にサチを生き返らせられるというのであれば――それをくみ取ったように、シノンが続ける。

 

 

「それに、そのサチって人は二度と生き返れないNPC達を沢山犠牲にしたうえで生き返ってきたって知ったら、喜んでくれるの。サチは、そんな自分の命の事しか考えてないような人なの!?」

 

 

 その問いかけにはっとさせられた。足元ががらがらと崩れていくような錯覚に陥る。

 

 そうだ。もしサチが本当に生き返る事が出来たとしても、それがアイングラウンドに暮らす無数のNPC達を犠牲にした儀式によるものだと知ったならば、サチは決して喜ばない。嘆き、悲しみ、傷付き――もしかしたらまた死のうとするかもしれない。

 

 無数の生命達を犠牲にした事への償いとして、死へ戻ろうとしてしまうかもしれない。何かを犠牲にして生き返ったところでサチが喜ばない人であるというのは、短かい間しか一緒にいられなかった自分でもわかる。

 

 思考と困惑でぐちゃぐちゃになっていた頭の中が冴え渡り、キリトは顔を上げた。

 

 

「……そんなわけない。サチは、誰かを犠牲にして生き返ったとしても、喜ばない人だ。生き返ったところで喜ばない。きっと悲しむだけだ」

 

 

 そう言うと、またマキリの《声》が聞こえてきた。

 

 

《あははは、あははははは、おねえちゃん、いきかえる、おねえちゃんがいきかえる、あたしがいきかえらせる、いきかえらせてあげるぅぅ》

 

 

 まるで狂いに狂い、理性も何もかも失い、ただただ姉の許へ行きたがっている。黒の猫神というべき姿は、彼女が純粋な人間でなくなり、ただ望まれない姉の復活、姉を殺した者達への報復だけを望むようになったものなのだろう。

 

 そんな原形を失いながら暴走する少女を一瞥(いちべつ)した後に、シノンはそれに駆け寄り、大声を出した。

 

 

「あんた、一体なんだっていうのよ。そんな姿になってまで、憎い相手を引き裂いてズタズタにして、押さえ付けて、踏みにじりたいっていうの」

 

 

 黒の猫神の視線がシノンへ向けられる。狂気に染まった眼光に睨まれても、シノンは動じる気配を見せない。

 

 

「……確かにあんたの大切なものが奪われた原因が、キリトにあるかもしれない。あんたの大切なものを、キリトが奪ったかもしれない。あんたを踏みにじったかもしれない。だけど、だからってあんたがキリトの大切なものを奪っていい言い訳にはならないわ」

 

 

 黒の猫神の瞳孔がゆっくりと細くなっていく。猫が敵意を向ける際の目だ。

 

 

「あんたが憎んでるキリトだって、大切なものを何度も失ってる。あんたのお姉さんを死なせた事に、今も苦しんでる。向き合わないわけにもいかないから、ずっと向き合い続けてる。逃げずに、ずっとずっと、苦しみ続けてる。あの時あそこで大切なものを奪われたのは、あんただけじゃないのよ」

 

 

 シノンはぐっと両手で拳を握っていた。

 

 

「なのに、あんたがやろうとしてる事は何よ。全然関係ない人をお姉さんだと思い込んで、キリトを更に苦しめて、傷付けて、結局お姉さんの事なんか何も考えてない事ばっかりやってる。お姉さんが望んでない事ばかりやって、暴れてるだけ。あんたのお姉さんは、あんたのやろうとしてる事で生き返るなんて望んでない。

 あんたはお姉さんの事なんか全然わかってない、逃げてばっかりで大切な事に向き合おうともしない、報復に狂ったただの怪物よ! そんなあんたなんかに、キリトが負けるわけない……」

 

 

 シノンは一旦下を向いた後にかっと顔を上げ、叫んだ。

 

 

「キリトが負けるわけ、ないんだからあああッ!!」

 

 

 その叫びが引き金となったように、黒の猫神は怒りの声を上げて、両手を上で組み、そのまま振り降ろしてきた。合体した拳がシノンを襲うのと同時にキリトは駆け付け、シノンの手を引っ張った。間もなく大きな拳が振り降ろされて地面に衝突した。

 

 轟音と共に地面が捲り上がり、爆風が吹き荒れる。間一髪で直撃は(まぬが)れたが、爆風に吹き飛ばされて身体が後方へ吹っ飛ばされる。その中キリトはシノンの身体を抱き、両手で頭を覆っていた。二人が土煙から出て地面を転がって止まると、仲間達が駆けつけてきた。皆武器を構えている。その中の一人、プレミアが声を掛けてきた。

 

 

「キリト、このままではマキリが、サチの喜ばない事をしてしまいます。わたし達の手で防ぎましょう!」

 

 

 キリトはシノンと一緒に起き上がると、背中の鞘から双剣を引き抜いた。同時にシノンも槍を構えて戦闘態勢に入る。

 

 

「皆……最後まで巻き込んでごめん。マキリを止めるのに力を貸してくれ!!」

 

 

 仲間達は「任せて!」「止めてやる!」などとそれぞれ息巻いて、戦闘態勢に入った。間もなくしてハンニバルの《声》が聞こえてきた。彼の者は――笑っていた。

 

 

《おやおや、おやおやおや、やはりそうするか。そうだな、諸君ならばそうすると思っていたよ。いいぞ、いつものようにそうしたまえ。だが、そのマキリは私が創り直した上物だ。一筋縄ではいかないぞ》

 

 

 そしてハンニバルは上機嫌な様子で、言い放った。

 

 

 

《私が創り直したマキリか? それともアインクラッドが育んだ諸君か? 私の愛しい怪物達よ、せいぜい楽しむがいい。Ciao(チャオ)

 

 

 

 その言葉を皮切りに、最終決戦の火蓋は落とされたようだった。

 

 

 
















 次回『月喰の黒猫』











――くだらない事――

オリキャライメージCV

マキリ:喜多村英梨さん

ハンニバル:貴水博之さん

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