キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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04:進むべき道の形

          □□□

 

 

 

「それじゃあおにいちゃん。合宿行って来るね」

 

 

 和人の家の玄関口に立っているのは、制服を着た少女。背中には大きめのリュックと専用の袋に包まれた竹刀が背負われている。和人の妹である直葉は、今日から一週間ほど剣道のための合宿に出かけるのだ。

 

 その見送りをするため、和人は玄関に来ていた。

 

 

「あぁ、いってらっしゃい。それなりに頑張って来いよ」

 

 

 振り向いた直葉は、和人の姿を認めて目を半開きにした。どうやら和人の服装が気に喰わないらしい。

 

 和人の着ている服は白いTシャツの上に黒いパーカーを羽織り、黒い半ズボンを履いているスタイルだ。それは和人にとってのパジャマの代わりである。

 

 

「もう、まだそんな格好してるの。だらしないよ」

 

「これから調べものがあるんだ。進路の事でさ」

 

「だからって、そんな格好してるのは駄目だよ。リラン、もっとおにいちゃんを注意しておいて。おかあさんもあたしと同じくらい、帰って来ないから」

 

 

 左耳にオーグマーを付けている直葉は、和人の右隣を見た。同じように視線を向けたところ、そこには仮想世界の住人でありながらも、和人の家族の一人であるリランの姿があった。

 

 紺色のシャツの上に白いパーカーを着て、同じく紺色のホットパンツを履いているという、これまでファンタジー世界の服装しかしてこなかった彼女からは中々考えられない、直葉達と同じ十代の女の子が着ていそうな格好になっている。

 

 

「任せてくれ。お前の居ない間の和人の世話をするのも、和人の《使い魔》の役割だ」

 

「いや、《使い魔》はそんな事する必要ないんだけど……」

 

 

 和人のツッコミにはリランも直葉も応じなかった。直葉はリランの顔の右を見ていた。

 

 

「そういえば、おかあさんで思い出したけど、リランのその髪留めって、リランのおかあさんのと同じなんだっけ。愛莉先生とは違う、もう一人のおかあさんの」

 

 

 リランが「む」と言って右の前髪付近を触る。オーグマーで現実世界に具現して数時間後くらいに、リランは電子のファッションを自らの姿に適応したのだが、その時リランは右前髪を小さな髪留めで留めるという髪型にした。

 

 それはリラン/マーテルのもう一人の母親である神代凛子のものと同じであるという事に、和人はすぐに気が付いた。前に再会して以降、凛子の事はあまり考えず、意識もせずにいると思っていたが、どうやら彼女はしっかり凛子を意識していたらしい。

 

 

「……まぁな。個人的に好きなのだ、この髪型は」

 

「結構似合ってると思うよ。これからVRでもその髪型にしたら?」

 

「いや、こうして居る時だけにしよう。ゲームでの我は和人の《使い魔》だからな、これはあくまで現実にいる時だけのものだ」

 

 

 今のリランの容姿は最大の特徴である狼耳と尻尾を欠いて、身長も縮んでいる。これはリランの本来の姿であるマーテルのモノだ。彼女は現実世界にいる時にはマーテルに戻るのだろう。

 

 ならば今もマーテルと呼ぶべきなのだろうが、前にそう言った時には「お前の《使い魔》であるリランに変わりないだろう?」と返されて、結局リランの扱いを続ける事になっている。

 

 外観はマーテルなのに、扱いはリラン。こんがらがりそうだった。

 

 

「というか直葉、早く行かないと遅れてしまうのではないか」

 

 

 リランに話を戻され、直葉は一瞬はっとした。話を長引かせてしまった事に気が付いたのだろう。

 

 

「あ、そだね。早く行かないとだ。それじゃあリラン、おにいちゃんをよろしくね。一応詩乃さんにも応援を頼んでおいたから」

 

 

 直葉は和人を見る。急な視線変更に和人は少しきょとんとした。

 

 

「おにいちゃん、詩乃さんに迷惑かけちゃ駄目だからね。詩乃さんからの最終報告によっては、お土産無しにするから」

 

「いやいや、詩乃に迷惑かける程、俺はずぼらじゃないんだが」

 

 

 それでも直葉と詩乃の間では、自分の知り得ない情報交換や意見交換がなされる事もある。直葉の言っている事は本当だろう。詩乃に迷惑をかけるなど、自分が何よりもしないでいようと思っている事だが、ここ数日間は気合を入れてやる必要があるようだ。

 

 一人で考え事を進める和人と隣のリランをもう一度認めると、直葉は「いってきまーす!」と言って玄関から出ていった。

 

 かつて自分が投げ出した剣道を自分の分まで頑張ると決意して、今や全国大会に出場する程になっているのが直葉だ。合宿中も同志と一緒に竹刀を振り、足を運び、叩き入れる練習に明け暮れる事だろう。

 

 もし俺が剣道を投げ出さなかったなら、今日は直葉と一緒に合宿に行っていたのだろうか。そして全国に進もうとする俺は仮想世界の剣やオーディナル・スケールでのロッドではなく、竹刀を振っていたのだろうか――そんな考えが、和人の頭によぎった。

 

 間もなくして、右隣から声がした。リランが呼びかけてきていた。

 

 

「和人、どうかしたか」

 

「……俺がもし剣道をやめなかったら、今頃どうなってたかなって。スグと一緒に合宿行って、練習して、大会行ってたのかなって」

 

 

 もしもの出来事――そんな思った事を口に出すと、リランが腕組をした。

 

 

「そうだな。お前は反射神経が抜群に良いから、運動神経は後付けにして、剣道をやっていく事も出来ただろう。お前の言っているとおり、直葉と一緒に大会に出る事も出来ただろう」

 

「……」

 

「だが、もしそうだったなら、お前が我を《使い魔》に選び、我の背中に乗って戦う事もなかっただろう。詩乃とも出会わず、ユイともストレアとも出会わず、だっただろうな」

 

「……!」

 

 

 和人ははっとしてリランに向き直る。仮想世界レイヤーにしかいない、自分の大切な《使い魔》は、微笑んでいた。

 

 

「剣道を捨てた代わりに、お前はVRを、我らを掴んだ。お前の捨てた剣道は直葉が拾って、楽しく打ち込んでいる。何も気にする必要がない。これでいいではないか」

 

 

 リランの言っている事は全て、的を得ていた。もし剣道をやり続けていたならば、その時自分は今ある全てを手に入れられてはいなかっただろう。

 

 リランもユイもストレアもいなくて、詩乃もいない。あるのは剣道というスポーツだけ。それもそれでいいのかもしれないが――そんなのは想像するのも嫌だった。

 

 それに剣道は直葉が楽しんでいるから、気にする事はないというのを、何度も本人から言われた。竹刀を手放した事でかつて空っぽになった手で、今は猛々しい狼竜リランの剛毛と、愛する人である詩乃の暖かい手を掴んでいる――改めて思い出した和人は、リランに笑みを返した。

 

 

「……そうだな。お前の言う通りだよ、リラン。俺が剣道をやめなかったら、俺はお前の背中に乗る事もなかったろうな」

 

「お前は今、大切なものを手にできておるのだから、そこから目を離すな」

 

「そうするよ。ありがとう、リラン」

 

 

 リランは「すすん」と笑った。やがて和人はやるべき事を思い出し、玄関を後にした。

 

 ダイニングへ向かい、自分用のマグカップにブラックコーヒーを淹れるべく、カップをコーヒーバリスタにセットする。ボタンを押されたバリスタが音を立ててコーヒーを作り、淹れ始めると、リランがまた声を掛けてきた。

 

 

「ところで和人、オーグマーに我の本体を移さないのか」

 

「なんでだ」

 

「オーグマーならばアミュスフィアの起動よりも簡単だし、場所を選ばぬ。お前がオーグマーを使えば、すぐにお前の傍に行けるぞ」

 

 

 これまでリランの本体は和人の使っているアミュスフィアにあった。アミュスフィアを回線に接続し、充電をしたままスタンバイ状態にしておけば、リランはアミュスフィアからオーグマーの回線を担うドローンに飛び、自分達の許へ来る事が出来る。

 

 そのアミュスフィアからオーグマーへリランの本体を移せば、確かにオーグマーを使うだけでリランをその場に呼び出せるようになっている。現に明日奈はユピテルの本体をパソコンからオーグマーへ移し、いつでもユピテルを呼び出せるようにしているそうだ。

 

 

「そうだけどさ。お前の移動作業、結構面倒なんだぜ。お前だけで四百GB(ギガバイト)あるし、ユイとストレアもそれぞれ三百GBあるんだぞ。合計して一TB(テラバイト)もある。移動させるだけで二時間はかかるっての」

 

「だが……」

 

「それにアミュスフィアで《SA:O》もよくやるし、その場合お前達はオーグマーからアミュスフィアに飛ばなきゃいけないだろ。しかもオーグマーが電池切れしてれば、アミュスフィアにも《SA:O》にもいけなくなる」

 

 

 アミュスフィアはノートパソコン等と同じで、電源とバッテリーで駆動している。もしダイブ中に停電などが起きたとしても、バッテリーで動くため、止まる心配はない。

 

 オーグマーも同じと言えばそうだが、オーグマーは左耳元に付けて使う機械であるため、充電中は原則使えないし、アミュスフィアのようなスタンバイモードもない。もしリラン達の本体をオーグマーへ移せば、《SA:O》などで合流できなくなるなどの不便さが出る。

 

 

「それもそうだが……」

 

「だから、俺はお前達の本体をオーグマーに入れるつもりはないよ。アミュスフィアをいつでもスタンバイさせておくから、それで我慢してくれ」

 

 

 リランは渋々納得したようだが、しょんぼりしていた。オーグマーに彼女達の本体を移動させる事へのメリットの確認はあまり取れていない。具体的にどういったメリットが存在しているのか、もう少しよく聞き出すべきだろう。

 

 和人が一人思考を巡らした時、リランは何かを思い出したように立ち直り、声掛けしてきた。

 

 

「それはそうとして和人、先程進路がどうとか言ったな。進路とは大学の事であろう?」

 

「あぁ、そうだぜ。来年には俺達も受験生だからな。どこに行くかを決めなきゃいけない時期が来てるんだ」

 

「ほぅ。どこに行きたいかの目星は付いているのか」

 

 

 その問いかけに対する答えを、和人は既に出していた。可能であれば、そこの出身者に話を聞こうと思っていたところでもある。そしてその大学とは――。

 

 

「東都工業大学重村研究室――お前の両親の行ってた大学だ」

 

 

 リランが声なく驚くと同時に、コーヒーが入った事を知らせるチャイムが鳴った。

 

 

 

 

          □□□

 

 

 

 

 SAO生還者が住宅として利用しているマンションの一室が、詩乃の暮らす家だった。以前使っていたアパートから越してきて、既に二年近くが経過している。基本的にSAO生還者だけが利用する事を許されている、特殊な守りの中にあるところ。

 

 そこに客人を呼び込む事は可能だが、今日は珍しくて嬉しい客人が来る。ここまで自分の事を連れてきてくれて、自分の持っている病気――後天的なモノではあるが――を治そうと必死になってくれた女性。今は医者をやめているが、関係をやめてはいない、大切な人。

 

 その客の到来の準備を、詩乃は既に完了していた。ベッドも直したし、目に見えるところにだらしないところなどはない。汚れやごみもないし、汚れていたところは綺麗に掃除した。後はその人を待つだけだった。

 

 

「……」

 

 

 その人が来てくれるのはこれが最初ではない。会って話をした回数だってとても多い方に入るから、慣れている。だが、どうしてか部屋に招き入れる時には決まって緊張してしまう。詩乃の緊張など、その人には見透かされていて、来てもらう度に「緊張しなくていいよ」と言われている有様だ。

 

 だから何度も緊張しないように取り組もうとしたのだが、一向に効果がない。その人がやってくる回数があまりに少ないのが原因なのだろうか。もしかしたら自分は、その人をこの部屋に入れたくないと、無意識に考えていたりするのだろうか。大切な人であるというその人なのに――。

 

 

「……そんなわけない」

 

 

 詩乃は首を横に振って、考えを否定した。そんなはずがない。あの人のおかげで自分の持っている病気は大きく良化したし、自分の今の生活はあるのもまたあの人の手回しのおかげだ。

 

 そして元を正せば――愛する人である和人との出会いもまた、あの人の治療の一環で起きたアクシデントが引き起こした事象である。あの人に出会わず、あの人からの治療を受けなかったら、今の自分の生活も、何もなかったのだ。病気だってきっと、良化に向かっていなかっただろう。

 

 あの人から与えてもらったものは、あまりに多く、大きい。詩乃は改めて思った事で、疑問を上書きした。

 

 直後、キンコーンというチャイムが部屋の中に響いた。即座に立ち上がって出入口のドアに向かい、魚眼レンズを覗き込む。予定の客人の顔がそこにあった。間もなく声もした。

 

 

「おはよう、詩乃。着いたよ」

 

「愛莉先生、おはようございます。今開けますね」

 

 

 詩乃がドアを開けると、愛莉と呼ばれたその女性は部屋の中へ足を踏み入れてきた。玄関から部屋を見回し、愛莉はうんうんと頷く。

 

 

「ふむふむ、特に変わった様子はないみたいだね。前に来た時から結構経ったから、それなりに変わってると思ったんだが」

 

「そんなに部屋を模様替えしたりしませんよ。愛莉先生、ご存じないですか?」

 

 

 詩乃の悪戯の混ざった問いかけに、愛莉は「ふふっ」と笑った。

 

 

「存じてるよ。君は派手なものを好んだりしない、落ち着いた娘だ。部屋が殺風景でも、特に気にしないんだったね」

 

「さ、殺風景!?」

 

 

 愛莉に言われて、詩乃は慌てて部屋を見る。相変わらず物がない部屋だ。にぎやかしであるぬいぐるみも、和人に取ってもらったペンギンのぬいぐるみ、直葉からもらったカピバラのぬいぐるみくらいしかない。その他に目立つものなどやはりない。

 

 これじゃあ本当に殺風景じゃあないの。今更ながら気が付いた詩乃が慌てるなり、愛莉はもう一度笑った。

 

 

「おいおい、冗談だよ。物が無いのは確かだけど、殺風景でもないよ。詩乃らしい、いい部屋だ」

 

「……もう」

 

 

 思わずそう言ってしまったところ、愛莉はもう一度気持ちよく笑んだ。やがて靴を脱いだ愛莉は、詩乃と足並みを揃えて部屋の真中、テーブルのすぐ近くに腰を下ろした。そこは和人が来た時に座るところでもあった。その隣に、詩乃も腰を下ろす。

 

 

「改めまして愛莉先生、お久しぶりです。元気そうで、嬉しいです」

 

「こちらこそ、変わりがないようで何よりだ。如何せんずっと現実(リアル)で会えなかったからね」

 

 

 前に愛莉と現実世界で会ったのは、去年の誕生日の時だ。それ以来愛莉はALOや《SA:O》の中だけで会える存在となっていた。その愛莉が、思い出したように天井を見上げる。

 

 

「前に君の部屋に来たのは、去年の春頃だったね。その時もう既に《SA:O》の開発やって、すぐに今のところ行ったから……私の仕事の随分長いらしい」

 

「愛莉先生のお仕事って、まだ終わりそうにないんですか」

 

「あぁ、終わりは全然見えてこない。更にその仕事場に寝泊まりしなきゃいけないから、健康や美容に気遣う事なんて出来やしないよ。全く(もっ)て女性が働くには良くない職場だ」

 

 

 ぶつくさと文句と愚痴を零す愛莉。しかしその愛莉の先輩である神代凛子博士によると、愛莉は心の底から本当にやりたいと思った事以外にはてんで興味を示さない人物であるとの事だ。

 

 VRにログインする暇もあまりなく、休む暇もなく、寝泊まりする必要さえある職場であろうとも留まっているという事は、そこが愛莉が心の底からやりたい事のある場所だという事なのだろう。

 

 現に愚痴を言っている割に、愛莉は嫌そうな様子を一切見せていない。まるで毎日充実している事を噛み締めているかのようだった。

 

 

「まぁでも、こうして中期休暇をくれる辺り、私の働きをしっかり評価してくれる良い会社だって事なんだがね。現に私の意見も沢山取り入れてくれるし」

 

「そうだと思います。愛莉先生、すごく楽しそうにしてる気がしますから」

 

 

 愛莉は詩乃に向き直った。その顔は、やはり楽しい仕事をしている表情だった。

 

 

「あ、わかる?」

 

「わかります。ずっと先生の患者やってますんで」

 

 

 詩乃が言うなり、愛莉は「そうだね」と言って笑い、詩乃も釣られて笑った。

 

 愛莉とはいつもこんな感じだ。出会ったばかりの時はこちらが縮こまったりしていたせいもあって、こういう流れにはならなかったが、やがてわかった。愛莉はこれまで接してきたどの医者とも違う人だ。本当に安心していい場所を作ってくれる人だ、と。

 

 その時から愛莉の傍が、詩乃が一番安心できる場所になった。――今は更新されて、和人の傍になってしまっているけれども、愛莉の傍も安心できるという事に変わりはない。

 

 もしかしたら自分にとっての愛莉とは、リランやユイが思っているのと同じように、もう一人の母親なのかもしれない。愛莉がもう一人の母親だという意識が、詩乃さえ知り得ない心のどこかにあるからこそ、招き入れる時に緊張してしまうのかもしれない。詩乃は改めてそう思っていた。

 

 直後、愛莉は「おっと」と言って笑うのをやめた。何か大事な事を思い出したように見える。

 

 

「それはさておき、聞かせてもらいたい事があったんだった。そのために来たっていうのに、忘れちゃってたよ」

 

「え?」

 

 

 愛莉は改まったように、表情を引き締めた。それは精神科医だった頃のモノに似ていなくもない。今、愛莉は診察を始めた。

 

 

「詩乃、最近の調子や具合はどうだね。随分と長く君の事を診ていないからさ」

 

 

 そう言われて詩乃ははっとする。そうだ、愛莉がかつて自分の専属医師になってくれた理由とは、自分が他の医者では治せないような病を患っていたからだ。愛莉はその治療の途中で転職したけれども、未だに経過観察は続けている。そして自分は――すっかり愛莉に経過を話すのを忘れていた。

 

 詩乃は一旦愛莉から目を逸らしたところで、経過を話す事にした。

 

 

「……調子はすごく良いです。皆とも仲良くできてますし、最近は明日奈や里香とか琴音とかと一緒に買い物したり、出かけたりしてます。和人とも上手くいってますし、学校の授業も楽しいです」

 

 

 元から勉強が得意だったので、学校の授業で困っている事は特にないし、交友関係もこれ以上ないくらいに上手くいっている。友人である明日奈、里香、珪子、直葉――彼女は事実上義妹らしい――、琴音、木綿季との関係も良いし、皆で出かけるのも楽しいと思える。

 

 そして愛する人である和人との仲も――どんどん深まっていっているし、一緒に居ると幸せだ。彼の《使い魔》であり、もう家族の一人であるリランとの時間も楽しいし、自分達の娘であるユイと一緒の時間もまた幸せのひと時だ。

 

 最近はそういう事ばかり、嬉しい事ばかりで、辛い事も苦しい事もない。以前のように悪夢に苦しめられる事もない。自分の中に巣食う忌々しい宿痾(しゅくあ)は、友人達と、愛莉と、家族と、そして和人と一緒に過ごしてきた日々によって、死に絶えたのではないか。

 

 今の自分はあの宿痾、記憶に正面から向き合っても、叩き伏せられるようになっているのではないか。今度こそ本当に好きな人達の幸せな日々を手に入れられるようになったのではないか。そんな自信がどこからともなく湧き上がって来て、胸の中に広がる。

 

 

「だから愛莉先生、私はもうきっとだいじょうぶ――」

 

 

 そう言って愛莉に向き直った次の瞬間に――詩乃の時間は止まった。身体も凍り付いたように動かせなくなる。

 

 

「――――ぁ」

 

 

 愛莉は右手をある程度上げて、人差し指と中指を伸ばし、親指を立てる形にしていた。それは子供が拳銃を模す時にやるような、なんて事のない仕草であった。だが、詩乃にとってその存在意義、意味は全く異なっていた。

 

 全身が冷気に包まれて、熱と力が抜けていく。平衡感覚がなくなってぐらぐらとし、目の前から色彩が消失してモノクロになる。ふらふらとしているのに、愛莉の人差し指と中指から目を離す事が出来ない。

 

 聞こえてくる音は加速していく心臓の音と耳鳴りだけになり、他は失われている。――忌々しい宿痾が(うごめ)き出したのだ。宿痾は生きていた。

 

 

「ばん」

 

 

 愛莉がはっきり聞こえる声で言うと、詩乃は姿勢を崩した。座ったまま上半身を折り、(うずくま)る。口の中から水気が飛び、舌が貼り付いて動かせない。胃の萎縮が始まりそうだ。

 

 嬉しくて楽しくて幸せな思い出で満ち溢れているはずの頭の中が空っぽになり、代わりに宿痾は忌々しい記憶を蘇らせようとしている。考えては駄目、思い出しては駄目、やめて、やめてやめて――そう思って宿痾を止めようとしても、まるで効果がない。増々空っぽの頭が忌々しい記憶に支配されゆく。

 

 手に巻き付いて来るように重くて、濡れたような嫌な熱さの鉄、鼻を突いてくる血と火薬の臭い――。

 

 

 

「……詩乃ッ!!」

 

 

 

 声がしたと同時に急に身体を包み込む感触があり、顔が何かにぶつかった。暖かくて柔らかい事だけはわかる。声は続いた。

 

 

「詩乃、呼吸をしなさい。大きく深く……息を吸って吐くの」

 

「ぁっ、は、ぁ、ぁ゛っ」

 

「わたしの言うとおりにする事だけ考えて。他は何も考えないで。わたしの言うとおりに、して……大きく息を吸って、深く吐いて……」

 

 

 詩乃はひとまず、聞こえてくる声に従った。

 

 息を大きく吸い、深く吐く。

 肺の中いっぱいに息を吸って、全部吐き出す。

 また吸って胸の中をいっぱいにして、全部吐き出して空っぽに戻す。

 

 それ以外の事は何も考えないで、ただただ繰り返す。

 

 

「息を大きく吸って、深く吐いて……そう、そうよ……息を吸って、吐いて……うん、上手……」

 

 

 聞こえてくる声にただただ従い続け、大きくて深い呼吸をする事だけをしているうちに――鼻の中に流れてくる暖かくて良い匂いと、自身と自身とは違う呼吸の音が聞こえてきて、フラッシュバックしかけていた悪夢と記憶が遠ざかっていった。

 

 やがて宿痾が眠気を訴えて眠りに就いた頃に、詩乃は自分の居場所が愛莉の胸の中であり、愛莉に抱き締められていた事に気が付いた。回された手が、背中を優しく摩ってくれている。

 

 

「……詩乃」

 

「せん、せい……」

 

「……ごめんなさい、詩乃。わたしのせいで……」

 

 

 愛莉は謝っていた。先程拳銃の真似をした事についてだろう。詩乃はそれに――答えようとはしなかった。

 

 

「せんせ……わ……たし……わた……し……」

 

「……えぇ。もしかしたらあなたはもう大丈夫なんじゃないかって思ったんだけど……ごめんなさい、高をくくってしまっていたのね。あなたはまだ大丈夫なんかじゃない。まだ駄目だったのに、あんな事をしてしまって、ごめんなさい……」

 

 

 謝る気持ちを形にしているかのように、愛莉は背中を摩り続けてくれた。優しくて暖かい手つきに身を任せると、身体は穏やかになっていった。だが、愛莉の手は、詩乃の胸の内にある心までもを穏やかにしてはくれなかった。

 

 大丈夫だと思っていたのに。

 もう何もないと思っていたのに。

 これじゃあ何も変わらない。

 結局大切な人達に迷惑をかけてしまう。

 もう、和人と一緒に幸せになれると思ったのに――。

 

 

「先生、わた……し……」

 

「……えぇ。あなたの治療はちゃんと続けるべきだったわ。もっとよくやっておけば……」

 

 

 そうじゃない、そうじゃない。詩乃は少しだけ言う事を聞いてくれる身体を動かし、首を横に振った。やがて頭の中に蘇る思いを認め、口に出す。

 

 

「先生、私、強く、なりたいです」

 

「え?」

 

 

 苦しさが混ざっているせいで、言葉が途切れ途切れになる。だが、それでも詩乃は続けた。

 

 

「こんなふうに発作を、起こしてたら、皆に、かずとに、迷惑かかっちゃ、う……私、そんなの、そんな、の、もういや、嫌、です……だから私……強くなって、なって……和人と……幸せになりたい、です……」

 

 

 これを抱えている上では、きっと和人と、皆と本当に幸せになる事など出来ない。だからこそ、この宿痾と向き合い、正面から叩き伏せられるようにならなければならない。強くなるとはそういう事であり、自分の求める強さとはそうだ。

 

 だが、その強さは一向に手に入らないでいる。どうすればいいのか、わからない。詩乃は愛莉にしがみつき、訴える。

 

 

「愛莉先生、私、どうしたら……いいんですか……」

 

 

 愛莉はじっと詩乃の瞳を見つめていた。詩乃も同じように見つめ返しているが、信じがたい事に、戸惑いの色が浮かんでいた。そんな、愛莉でさえもわからないなんて。それじゃあ私はどうすればいいの。

 

 もう一度問いかけようとしたその時、愛莉に変化が起きた。また、何かを思い出したかのようだった。

 

 

「詩乃、あなた昨日……オーディナル・スケールで銃を使っていなかった?」

 

 

 

 




――アンケートについて――

 前々回から行っていたアンケートの結果ですが、下が答えです。


【挿絵表示】


 投票してくれた皆様に感謝申し上げます。

 本当に、本当にありがとうございました。

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