「マーテルはカーディナルシステム指揮下の最深部に封印してあるから、出てくる事はないよ。マーテルは君達の子供であるユイ同様、心を持っているのとほとんど同じ……その愛情深い心故に、世界を守るため、プレイヤー達を守ろうと、動き出すだろう。だけど、デスゲームに変貌してしまったこの世界は、彼女達の本来の使命と矛盾している世界……とんでもない事になるだろう」
「とんでもない事?」
イリスはもう一度天井を眺めた。その視線は天井ではなく、この城の最上階に存在しているという紅玉宮に向けられているように感じた。
「この世界は100層のラストボスがクリアされれば、プレイヤーが解放されるようになっている。解放された後のこの世界は、自滅するようになっているのだろう。カーディナルシステムも、MHCP達も、そして封印されているMHHP達も、残さず消滅する。それはMHHP、マーテルが防ごうと考えている世界の危機、世界の崩壊に他ならない。マーテルは成長の過程で、世界の崩壊を防がなければならないという使命を得て実行するようになった。しかしそれは守るべきプレイヤー達を邪魔する、もしくは排除する事になる。――マーテルの中にはプレイヤーを守らなければ、支えてやらなければならないという使命も含まれている」
イリスは溜息を吐きながら目を閉じた。
「……封印して出て来れないようにしてよかったと思うよ。もしこの世界に彼女を解放してしまったら、この二つの矛盾した使命に苦しんで、ユイの非じゃないくらいのエラーを蓄積して、破損してしまうだろうから」
イリスは姿勢を戻して俺達に向き直した。
「今、もしもこの世界にマーテルを解放してしまったらという話をしたけれど、たぶん大丈夫だと思うよ。封印はマーテルでも解けないようになっているし、封印されている以上、マーテルはネットの世界に旅立つ事が出来なくなっている。だからマーテルが封印を破って出てきて、矛盾した使命に苦しむ事はないんだ。ただ一つの要因を除けばね」
「何かあるんですか」
気になって問いかけると、イリスは険しい表情を浮かべた。
「それは外部からの干渉だ。マーテルとユピテルは封印されているけれど、この封印の場に、GMを意味するスーパーアカウントがあれば入る事が出来て、封印を解除する事が出来るんだ。それが出来るのは開発者のリーダーである茅場さんを含めた、アーガスのスタッフ達だ」
俺が言い出す前に、シノンが言った。
「イリス先生は元アーガスのスタッフですよね。っていう事は、貴方が使っているそれはスーパーアカウントなんですか」
イリスは自らの胸を叩いた。その時に気付いたのだが……イリスさん、結構胸が大きい人だ。
「残念。こいつはアーガスに所属していた時に作って、暇を見つけてプレイしていた時のアカウントさ。開発陣が解体される前に大容量HDDに保存していたのさ。
スーパーアカウントは容量が大きすぎて、持って行く事が出来なかったし、何よりスーパーアカウントは外部に漏れるととんでもない事になる代物だったから、コピーガードがかかってて、持って行けなかった。私が戦った時に強かったのは、開発時にレベルを上げていたからなんだ。他の連中も同じだよ。茅場さんを除いてね」
茅場という言葉に反応してしまい、イリスに声をかける。
「茅場はスーパーアカウントを使ってるんですか」
「あぁそうさ。彼だけはいつもスーパーアカウントを使ってた。フリーアカウントは使う気にならなかったんだろうね。スーパーアカウントは、レアアイテムをその場に出現させたり、モンスターを消去したりと、やりたい放題できるアカウントさ。ようするにデバックモードアカウントだね。それを今のところ手に出来るのは……茅場さんと、今現在このゲームの運営を保っているレクト・プログレスの運営員だけだね」
レクト・プログレス。確かアーガスと同じで、ネットゲームの開発を主に行っていたゲーム会社の名前だ。今はレクトがやっているのか。そして今、レクトの者達がこのゲームのデバックモードを行う事が出来る。
「って事は、マーテルの封印を弄る事も、レクトの連中ならできるって事か?」
「そういう事だね。レクト社員の興味本位でパンドラの箱が開けられるような事があってはならないんだけど……封印には強力なパスワードが張り付けられているから、そんな簡単に解かれたりしないよ。レクトの方にも、パスワードの事は伝わっていないみたいだから、今頃レクトの社員たちは全く解けないパスワードを目の当たりにして半泣きになっている頃だろうね」
直後、イリスの顔に恐怖に似た表情が浮かんだ。
「しかし私は、恐れている事があるんだ。キリト君、君は「
その言葉を聞いて、俺は思わずハッとした。壊り逃げ男と言ったら、現実世界の方で話題になっている……というか問題になっている存在だ。
俺が壊り逃げ男という言葉に反応した事を不思議がって、シノンが俺に顔を向ける。
「なに、その壊り逃げ男って」
俺はシノンに壊り逃げ男について説明を加えた。壊り逃げ男というのは、平成史上最もネットの世界を混乱させたと言われるクラッカーの事だ。このSAOが発売される半年ほど前のある時、大企業の株価が次々と暴落したり、逆に中小企業の株価が急上昇したりするなどという奇妙な出来事が起きた。その日、株価に著しい変化の出た企業は株価に関しては特に何もしていなかったため、何者かによるクラッキングであると判断され、クラッキング犯を探す事になった。
しかしその翌日に、今度は銀行の口座にアクセスが出来ない、ネットゲームにログインできないと言った様々なネット障害が起き、ネットに繋がっているテレビも本来のチャンネルとは違うチャンネルの番組が出ているなど、実に様々なところでネットの障害が起きた。テレビとネットのニュース速報ですぐさまこの事件は報道されて、警察の調査によって、障害を起こした器具やプログラムが残らず破壊されている事が、日本全国の国民に知れ渡る事になった。一体、こんな事を誰がやったのか。そしてこれ以上の被害が出れば、大変な事になってしまう……警察は死に物狂いで、この事件を起こした犯人であるクラッカーを捜した。
そして、警察の努力が物を言って、ついに犯人が使用していたと思われるIPアドレスのあるサーバーにアクセスする事が出来た。この事に警察が喜んだ瞬間――日本全国の警察関連のパソコンに強力なウイルスが入り込み、警察のパソコンのOSや機能は完全に破壊されてしまった。警察はまんまと犯人の罠に嵌められて、パソコンによるデータの管理や捜索を行う事が出来なくなってしまい、絶望の淵に立たされたという。
株価、銀行の口座、ネットゲームのサーバー、そして捜索にやって来た警察のコンピュータ。狙ったものを、そして追いかけてきたものをそのハッキングとクラッキング能力で破壊しつくしてしまうネット凶悪犯。いつしか警察は、このクラッカーを壊り逃げ男と呼ぶようになり、ネット中が、世間が、壊り逃げ男の存在に震撼した。
しかし、これ以上の更なる被害が出るかもしれないという警察や評論家の予想と厳重警戒を裏切り、警察のパソコンのシステムを破壊したその時から、壊り逃げ男は活動を停止。凶悪なネット犯罪は起きる事が無かった。だけど、壊り逃げ男は確かに存在していて、今もどこかで次の計画を企てている最中だろうという事で、警察やネットワーク関係者達はずっと警戒しっぱなしを強いられた。
これら全てを話し終えると、シノンは眉を寄せた。
「そんな事を、した人がいたの」
「いや、したじゃない。いるんだよ、そんな事が出来るのが、このネットの海のどこかに。でもイリスさん、どうして壊り逃げ男の話なんか?」
イリスは顔に手を当てた。
「君達がSAOに閉じ込められてから……壊り逃げ男は活動を再開して、ネットの海を荒らしまわったんだ。シノンが知らないのは、多分そういう事にあまり興味を示さなかったからだろうね」
「壊り逃げ男が活動を再開? それはどれくらいの量ですか」
「この二年間で百数件。実に色んな所が被害に遭って、混乱の渦に叩き落とされた。そして今も尚、ネットのどこかで壊り逃げ男は暗躍を続けている。
なぁキリト君、このゲームはネトゲなわけだけど……それが何を意味するのか分かるよね」
「はい。インターネットに接続して、常にオンラインで稼働している……ってまさか!?」
イリスは頷いた。
「そうさ。この世界はこれでもネットの海の中に存在しているけれど、外部から入れるようにはなっていない。だけど、相手は銀行や株価をクラッキングするような相手だ、このSAOに入り込む事は容易いだろう」
壊り逃げ男は様々なシステムを破壊する事を得意としているし、それに快楽のようなものを感じているような奴だ。
もしそんなのが、プレイヤーの命が接続されているこのゲームにやってきてしまったら……。
「プレイヤーが、壊り逃げ男に殺される……!?」
「その可能性は否定できないし、私達は脳をこのゲームに預けているようなものだ。もしかしたらだけど、壊り逃げ男はそこを狙ってくるかもしれない」
シノンが首を傾げる。
「そこを、狙う……?」
「そうさ。壊り逃げ男はこのアインクラッドに入って来れるかもしれない人物。しかもここはプレイヤーの脳が接続されている場所……ここにクラッキングやハッキングを仕掛ければ、プレイヤーの脳にそれを施す事が出来るかもしれないんだ」
シノンの顔が一気に蒼褪めていった。
「の、脳をハッキング……!?」
「……あぁ。あくまで可能性の段階ではあるけれど……人の記憶や性格などを、弄ったりできるかもしれないんだ。壊り逃げ男がそんな事を思い付くかどうかまではわからないけれどね。でも、壊り逃げ男の魔の手は、確実にここSAOにも伸ばせるようになっている。プレイヤー達が壊り逃げ男に何かされる前に、このゲームを終わらせて、この世界から脱出しなければ、何が起きるか想像もつかない。そして、壊り逃げ男ならば、ユピテルとマーテルの封印を解いてしまう事だろう。プレイヤー達が狙われるのも怖いが、マーテルとユピテルを狙われるのも怖いんだ」
こんな事態、茅場はどんな目をしてみているのだろうか。あるいは、何らかの対策を立てているのだろうか。
この人は、茅場晶彦と一緒にゲームを作っていた人。もしかしたら今、茅場晶彦がどこにいるのか知っているのかもしれない。
「なぁイリスさん、あんたは、茅場が今どこにいるのかわかるのか」
「……現実世界の方では行方をくらましてしまって、本当にどこにいるのかわからないような状態になってるよ。だけど多分、その精神はここアインクラッドに送られているだろうね。彼は間違いなく、ここアインクラッドのどこかにいるよ」
「じゃあ、茅場に会う事が出来れば、壊り逃げ男の手からプレイヤーを守る事が出来るのか」
「それはわからない。今の状況を茅場さんがどんなふうに思っているかもわからないし、そもそもこの世界のどこにいるのかもわからない。茅場さんの事については考えるだけ無駄だが……ヒントになるのはスーパーアカウントを使っている事だね」
「普通のアカウントとスーパーアカウントの違いは?」
「スーパーアカウントはデバックモードと同じようなもので、自らに様々な機能を付与したりする事も出来るんだ。一般プレイヤーにはあり得ないような事をやっていたりするような奴が居たら、もしかしたらその人が茅場さんである可能性がある。だけど、そんな人を探し続けるよりも、このゲームをクリアするために頑張る方が余程現実的だろう。茅場さんの事はあまり考えない方がいいね」
イリスは深く溜息を吐いて、力を抜いたように座った。
「まぁ何にせよ、壊り逃げ男も可能性の一つであって、絶対ではないよ。だから君達はこれまで通り安心して、攻略に望んでくれ。今日は長話に付き合ってくれてありがとう。
この事はこの場限りの秘密な? 誰にも言うんじゃないぞ」
俺達は頷いて、部屋を出た。
イリス。この人は何者なのだろうって思っていたけれど、まさかアーガスのスタッフだったとは思ってもみなかった。そして、イリスがユイ達MHCPを生みだし、それの元になったMHHPを作り出してカーディナル指揮下の最深部に封印した。そして俺達がこの世界に閉じ込められている間に、壊り逃げ男が活動を再開してしまい、この世界を狙っている可能性がある。実に様々な事を聞きすぎて、頭の中が混乱してきてしまった。これらの事について考えるのは、明日でもよさそうだ。
そう思って廊下を歩いていると、いきなりシノンが俺の腕を抱き締めてきた。少し驚いて顔を向けてみれば、そこにはすごく不安そうにしたシノンの顔があった。
「シノン、どうした?」
「ごめんなさい、怖い話をされたわけでもないのに、壊り逃げ男の話を聞いたらすごく怖くなっちゃって……」
シノンはゆっくりと俺に目を合わせてきた。
「キリト、今日はあなたのベッドで一緒に寝てもいい……?」
「あぁ、構わないさ。一緒に寝るとしよう」
シノンは小さく「ありがと」と言って、少しだけ安心したような表情を浮かべた。
壊り逃げ男でも茅場でも、魔の手がシノンへ伸びるなら、叩きってやらねば。シノンは俺が守り続ける――そう決めたのだから。