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アリスの右眼の治療が終わった後、作戦会議が行われた。内容は今後の方針について。
まず、アドミニストレータの復活。これは、ほぼ確定事項になってしまった。
彼の者の復活に使うための神聖力は、メディナ達を利用する事によって《カラントの実》として十分に集められてしまった。アドミニストレータはそれを使い、復活して人界へ再臨する事が可能な状態になっているとされる。
アドミニストレータは元々クィネラに取り憑く事で形を得ていたようなものだが、セントラル・カセドラル最上階における最終決戦で切り離された時、クィネラの身体をコピーしたような姿で具現化していた。
なので、アドミニストレータはクィネラに取り憑いている必要をなくしており、その切り離された時の姿で復活してくると予想される。
もうアドミニストレータが復活して、人界へ再臨するのは時間の問題と言えるだろう。対策本部のやるべき事は、復活してきたアドミニストレータをハァシリアン共々撃破し、今度こそ完全に討滅する事だ。
可能であれば、彼の者がいると思われるセントラル・カセドラル最上階へ攻め込み、討伐戦を仕掛けるのが一番であるのだが、相変わらずセントラル・カセドラルはカセドラル・シダーによって守られており、一切の出入り口が封鎖されている。
その封鎖はあまりにも強固であり、クィネラでもカーディナルでも破れない。今の段階では手の打ちようがなかった。
しかしアドミニストレータが再臨すれば、きっと何かしらの変化がセントラル・カセドラルにも起きるはず。その時に向けて準備を進め、時が来たら攻め込みに行く。
つまりは、十分な警戒をして準備を進め、万全な状態にして挑む。それが対策本部の今後の方針となり、その決定を以て解散となったのだった。
次に何が起きてきたとしても不思議な事はないし、アドミニストレータが何をしてくるかもわからない。だからこそその時に対応できるように、できる限りの事をしておこう――キリトはそう決めて、仲間達と共に母屋を出たのだった。
その時に気が付いたのだ。集まっている仲間達の中に、シリカの姿がなかった事に。同時にアスナとユピテルの姿もない事にも気が付き、キリトは周りにいる彼女達の友人達へ問いかけた。
するとリズベットが答えてきた。なんでもシリカは昨日の夜辺りから具合を悪くして寝込んでいるらしく、アスナとユピテルが看病に当たっているらしい。
確かに昨日は西帝国をあっちへこっちへ飛び回り、《冒険者達》と彼らに利用された人々を央都に運んで西帝国へ戻り、途中まで大雨の降り
恐らく同年代の男子や女子と比べたら強い方かもしれないが、自分の仲間達の中では下から数えて三番目に身体が小さくて弱い方であるのがシリカだ。
昨日の大移動と強敵との連続戦闘が大きな負担になり、身体が耐え切れなくなったのだろう。具合を悪くしていても無理はないし、逆に皆の中で疲労などで体調不良を起こしていない者の方が多いのが不思議にさえ思える。
特に一番身体が小さくて弱いはずのルコがけろっとしているのが、やはり奇妙だ。だが、そんな事を気にするよりも先に、シリカの様子を見に行かなくては。彼女はこれまでずっと一緒に戦ってきた仲間であり、友達なのだから。
キリトはシリカのいる天幕へ行先を変更し、そこへ向かった。一緒に向かっている皆が使っている天幕のある区画に、シリカの使っている天幕はあった。
木の骨組みの上から分厚い布を被せた、比較的簡素な外観だ。見た目自体は他の皆が使っているものと変わりがないため、一見区別が付かない。
これは皆も同じらしく、配備された当初はリズベットが自身の天幕に入ったらそこはリーファのところだったり、逆にリーファが自身の天幕だと思って入ったらアスナのところだったりした事もあったらしい。今となっては自身の天幕の場所を完全に覚えたので、そういう事はないらしいが。
その一見
確認したキリトが奥へ進むと、アスナが反応してきた。
「キリト君。来てくれたんだね」
「あぁ、シリカの話を聞いて心配になって。具合はどんな感じなんだ」
答えてきたのは問題のシリカの方だった。
「キリト、さん……」
キリトはシリカに近付き、腰を下げた。少々悪いが、シリカの顔を
とろんとした目と赤い頬をしているものの、顔色自体は悪い。
キリトは振り返ってアスナに尋ねる。
「風邪か?」
「うん、そうみたい。おでこを触ってみたら熱かったから」
隣のユピテルが歯がゆそうな顔をした。
「傷だとか怪我ならば神聖術で治せるのですが、風邪や病気となると、お薬を服用して時間をかけて回復させるしかないというのが難しいところですね」
この世界には、風邪を筆頭としたインフルエンザなどのウィルス性感染症も存在しており、身体を酷使し続けたりすると、そういったものに罹ったりするようになっている。
しかもそれらは他のVRMMOと違って《状態異常》や《デバフ》などではなく、現実と同じ《病気》として存在しているらしく、神聖術でも治す事ができないようになってもいる。
ユピテルの言っているように、風邪や病気にかかった時には、それのための薬を服用して休息を摂る。それ以外に治す方法は基本的にない。
最高司祭であり、人界の管理と観測を行う者であるクィネラでもこの摂理を
そしてそれも絶大な効果と即効性があるわけじゃなく、現実の薬のように複数回服用する必要があり、じわじわとしか効いていかない。病気を手早くささっと治す方法など存在しないのだ。
……もしかしたら、最初期のクィネラには病気を治す力もあったのかもしれないが、今の彼女にそれはない。恐らくアドミニストレータを切り離した際に、持っていかれてしまったのだろう。
「薬は飲ませたのか」
「はい。クィネラが作ってくれた薬を飲ませました。今は大分落ち着いている方です。恐らく昨日の夜が一番ひどかったのではないかと思います」
「そっか」
キリトはシリカに向き直った。
「シリカ、その、大丈夫か」
シリカは熱っぽい顔に悲しそうな表情を浮かべた。
「……ごめんなさい、キリトさん」
「え? なんで謝るんだ。謝らなきゃいけないのはこっちだよ。昨日あちこち行ったり来たりを繰り返すような事をしたせいで、君に身体の具合を悪くさせるような事になって……」
シリカは首を横に振った。熱のせいで動きが緩慢だ。
「違います……あたしが……あたしが弱かったせいです……あたしが……弱かったから……今、こんな事になって……皆さんに、迷惑かけて……」
「そんな事ないわよ。昨日は本当に色んな事がありすぎたもの。具合を悪くしたって仕方がないくらいだったわ」
反論したのはシノンだった。概ね自分の思っていた事を言ってくれたが、シリカは不服そうに首を横に振る。
「いいえ……あたしが、もっと強かったら……こんな事、ならなかったです……」
そこでキリトははっとした。こんな事が前にもあったような気がする。当事者はシリカではないものの、シリカと似たような事を言っていて、そして――。
既視感の詳細を思い出し、キリトは思わず背筋に悪寒を走らせた。直後、シリカに飛びつくように駆け寄った者が居た。リズベットとリーファだった。
二人ともキリトの隣に並んだが、その顔はそれなりに焦っているようなものとなっていた。
「待ってシリカ。もしかしてあんた、《声》が聞こえてたりしない? 誰も居ないのに、どこからともなく聞こえてくるような《声》なんだけど」
「それがシリカちゃんに何か言ってきてないかな。例えば、『お前は弱いんだ』とか、『お前が弱いのは何とかが原因だ』とか、そういう事」
二人の言葉で思い出す。そうだ、《EGO化身態》だ。
リズベットとリーファは心の奥底に眠っていた感情が《進想力》によって強引に呼び覚まさせられ、やがてそれが強い
そして彼女達曰く、《EGO化身態》になる直前には頭の中に《声》が響いていて、何かをするたびにそれが
シリカはかなりネガティブな方面に傾いた事を言っているが、もしかしたら既に《声》が聞こえてしまっていて、そちらの方に誘導されているからなのかもしれない。
だからこそ、経験者である二人はシリカにこう尋ねているのだ。尋ねられたシリカはぎこちない動作で首を
「《声》……ですか……?」
「えぇ。《使い魔》になってる時のリランとユピテルのみたいな、頭の中に直接響いてくるような《声》よ。もし聞こえてたりするんなら、耳を貸しちゃ駄目」
「その《声》はシリカちゃんを導いてるんじゃなくて、シリカちゃんを《EGO化身態》にしようとしてるの。《声》はどこまでも追い詰めるような事を容赦なく言ってくるけど、従ったりしたら絶対に駄目なの。もし従ったら……あたし達みたいに《EGO化身態》になっちゃう」
リズベットもリーファも切実な顔をして伝えていた。
あの出来事があったからこそ、二人は《EGO》という自身の利己を昇華させた力を得る事に成功したが、その前にリーファはシノン、リズベットはユピテルという、自身にとっても友人にとっても大切な人を殺そうとしたり、破壊しようとしてしまった。
《進想力》による利己の囁きに耳を貸せば、《EGO》を得られる可能性はある。しかしそうなる前に大切なものを壊してしまい、取り返しが付かなくなる危険性も十分にあるし、仮に《EGO化身態》になってしまえば、鎮圧戦の時に大切な人を殺してしまうかもしれない。
そのうえ、鎮圧された時に《EGO》を得られるかも定かではない。下手すれば《進想力》によって自身の利己共々黒い炎で焼き尽くされて死亡する危険性もあるのだ。
それこそ自分達が《EGO化身態》を最初に目撃した例となり、鎮圧後に死亡したライオス・アンティノスや、その後に発生した《カラント》によって呼び寄せられた、遥か昔に《EGO化身態》に成り果てて戻れなくなった貴族達のように。
自分とアスナ、グラジオはそうならずに《EGO》を得られたが、それは極めて
「イージーオー……けしん……たい……」
「そうよ。もし《EGO化身態》になったりすれば、ここにいる誰かを確実に傷付けるし、誰かを殺したりしても不思議じゃないのよ。実際あたしはアスナの目の前でユピテルを殺そうとしたし……」
「あたしも、もうちょっとでシノンさんを殺すところだった。あたしの場合は《EGO化身態》になる直前だったけど、その時にはもう、シノンさんを殺す事に
シリカが小さく「ひっ」と言い、ただでさえ悪い顔色を更に悪くさせる。自身がそうなった時の事が想像できてしまったのだろう。リズベットが続ける。
「だからシリカ、正直に教えて
皆が緊張を走らせて見つめる中で、シリカは首を横に振った。
「聞こえて……ません……」
「本当に?」
「……はい……」
シリカはか細い声で答えた。皆が一旦
ひとまずシリカが《進想力》に当てられている可能性は消え去ったのだろう。シリカが伝える以前に、自分のすぐ傍にいるルコが何の反応も示していないのがその証拠だ。
もしシリカに《進想力》の囁きが聞こえていて、それが深刻化しているならば、ルコが反応しているはず。しかし何もないという事は安心という事だ。
《進想力》は確かに《EGO》という強い力をもたらしてくれるが、《EGO化身態》にならずにそれを得られる可能性は低い。基本的には《進想力》に当てられず、《EGO》も得なければ《EGO化身態》にもならないのが一番良いパターンなのだ。
「それなら良いんだけど……もし何かあったら言って
リズベットが言うと、シリカは小さく「ありがとうございます……」と答えた。
シリカは《SAO》の時からずっと一緒に苦楽を共にしてきた仲間であり、自分やシノンにとっての大切な友人の一人だ。リーファやリズベットの時のように《EGO化身態》へ堕とさせたくはない。
それはきっとここにいる全員が思っている事であろう。だからこそ、皆で同じような表情をしてシリカを見つめていたのだった。
その中で、仰向けになっていたシリカが急にこちらに背を向けるように身体を横にした。
「シリカ?」
キリトの声掛けに、シリカのか細い声が返ってくる。
「ごめん……なさい……なんだか急に……ふらふら、してきて……」
リランがシリカに近寄り、腰を落とす。
「
《メンタルヘルス・ヒーリングプログラム》の名に恥じないような口ぶりで適切な処置を伝えていた。流石は人の精神を治療する事を使命に産み出されたAIなだけある。
《使い魔》としての戦闘力も十分過ぎるくらいであるというのに、こういった場面では何が適切かを瞬時に判断して助言や処置をする事もできる。
万能ではないけれども、万能に近しい力を持つ仮想世界の少女。彼女が《使い魔》であるという事を、キリトはとても頼もしく、ありがたく感じていた。
「リランの言う通りだよシリカ。ゆっくり休んでくれ」
シリカは背を向けたまま頷いた。了承してくれたようだ。続けてシノンがリランと同じように姿勢を低くしながら告げる。
「夕方になったらご飯を持ってくるわね。私とアスナとユピテルでお粥を作ってあげるから」
聞いていたアスナが「うん」と、ユピテルが「はい」と頷くと、シリカももう一度頷いた。一連の流れを見て、キリトは立ち上がる。
ここに居ては眠ろうとしているシリカの邪魔になってしまうだろう。
「皆、外に出よう」
シリカを除くその場の全員の返答を見て、キリトはなるべく音を立てないように歩き、天幕の外へ出た。見えてきた空は、まだまだ青かった。
その中に居座るかのようにして、黒い大樹のようになりかけているセントラル・カセドラルの姿があったが――奇妙な事に、禍々しい色合いの黒をした巨大な根の集合地帯、
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天幕に一人残されたシリカはベッドの上に
「キリト……さん……」
お見舞いに来てくれた彼の姿を頭に思い描いたその時だった。
――偉いわね。あたしの事を言わないでくれたなんて。
《声》が頭の中に響いた。そう、リズベットとリーファの言っていた《声》。
どこからともなく聞こえてきて、耳ではなく、頭の中に直接響いてくる。男か女かと言えば女の声色で、どこか自分のそれに似ているようなもの。
それはキリト達が来て、その事を話すよりも前に、シリカの頭の中に数回聞こえてきていた。
「……だって……」
――そうよね。あたしだけだもんね。あなたの事を弱いと思っていないのは。
頭の中に響く《声》に、シリカは頷きそうになる。直前でそうではないと思い直して、両手で耳を塞ぐ。
――他の人達は、皆あなたの事を弱い奴だって思ってるもんね。
しかし《声》に全く効果はなかった。耳を塞いでも、すり抜けて入り込んでくる。
――だから言わなかったんでしょ? 弱いうえにおかしな奴だって思われたくなかったから。
シリカは首を横に振って否定する。
そんな事ない。キリトさん達は、あたしの事を――。
――まさか、認めてくれているとでも思っているの?
シリカは耳から手を離した。
――自分自身に嘘を吐いてどうするのよ。あなたの事を誰も認めてなんかいない。なんにもないあなたをね。
あたしには、なんにもない?
――そうよ。元々あなたは《ビーストテイマー》で、その力と知識を使う事で皆の役に立っていたようなものじゃない。
そうだ。あたしにはピナっていう小さな竜が居て、その子を《使い魔》にしてる《ビーストテイマー》だった。
――でも、ここにピナは居ない。ピナの居ないあなたは《ビーストテイマー》ではないじゃないの。ピナが居なくなったあなたには、何が残っているの?
……何が残ってるんだろう。
――何も残ってないわ。リーファさんみたいに剣術に秀でてるわけでもなければ、リズさんみたいに鍛冶ができるわけでもないし、アスナさんみたいに戦況を読んで皆を統率したりできないし、シノンさんみたいに遠距離戦ができるわけでもない。
あたしには……皆みたいなものがない……?
――《ビーストテイマー》としてもそうよ。キリトさんはあなたよりずっと後に《ビーストテイマー》になったのに、キリトさんの《使い魔》のリランさんはピナよりずっと強くて賢くて、頼りになる。キリトさんもあなたよりずっと《使い魔》の使い方が上手い。皆が頼りにしている《ビーストテイマー》はあなたじゃなくて、キリトさんなのよ。
あたしには最初から何もなかったの?
――そうよ。でも、あなたは頑張った。何も持たないからこそ、誰よりも一生懸命に努力した。この世界に来てから、自分にできる事を頑張った。そうじゃないの。
そうだった。
あたしはキリトさんとシノンさんを助けるために、この世界に飛び込んだ。
そこにはピナを連れていけなかった。《ビーストテイマー》としての活躍はできないとわかっていたから、神聖術に秀でたアカウントを選んで自分に適応した。
それから、神聖術の鍛錬に打ち込んだ。強い術を使えるようになって、キリトさんを、皆を支えられるようになろうと思って、日を空けないで鍛錬し続けた。
――でも、それでも誰もあなたの事を認めなかった。
……いくら鍛錬を積み重ねても、どんどん強い敵ばかりが出てきた。あたしの神聖術やサポートはすぐに通じなくなって、あたしはパーティにいるだけの賑やかし要員みたいになっていった。
何とか付いていこうとした。でも、キリトさん達も新しい力を得ていって、
――皆あなたの事をお荷物としか思ってないわよ。口で言ってなくても、心ではあなたの事を足手まといだと思っているの。当然じゃないの。あなたには何もないのだから。
あたしには何もないから……だから、誰も……。
――体調を崩したあなたのお見舞いに来たのも、あなたが仲間っていう共通認識があるからに過ぎないのよ。弱いけど仲間だから仕方なく来たの。皆、あなたが本当に弱い奴だって思ったでしょうね。
そう、なの……?
――だけど、あたしはそうは思わない。あなたは弱くなんかないし、あなたは頑張れる
本当に……?
――ええ。あなたは弱くないわ。そろそろその事を言った方がいいんじゃないかしら。
あたしは――そう思いかけたところで、身体がぐらぐらとし始めた。眩暈が再び襲ってきている。
意識がどんどん遠のいていく中で、《声》が頭の中に響く。
――あたしは弱くないの。その事を教えてあげましょう。
「その《声》はシリカちゃんを導いてるんじゃなくて、シリカちゃんを《EGO化身態》にしようとしてるの。《声》はどこまでも追い詰めるような事を容赦なく言ってくるけど、従ったりしたら絶対に――」
という言葉が《声》に混ざって聞こえた時、シリカはもうそれが誰のものなのかさえ思い出せないくらいに意識を遠のかせていた。
次の《声》は聞こえてなかった。その時既に、シリカは気を失っていた。