キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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14:暗黒界の大教皇

          □□□

 

 

 

 ――さま……キリト……さま……キリトさま……――

 

 どこからともなく声が聞こえる。その声に導かれるようにして、キリトの意識は浮上していく。水の中から水面へと上がっていく。

 

 ――キリトさま、お目覚めくださいまし、キリトさま――

 

 その声によってキリトの意識は浮上しきった。(まぶた)を開けると、そこにあったのは天井だった。人界によく見られる様式ではなく、ダークテリトリーの石造りの建物に見られる形だ。頭の中がぼんやりしていて、曖昧な事しか考えられないはずなのに、それだけは何故か瞬時に理解できた。

 

「キリトさま」

 

 またしても聞こえてきた声によって、ぼやけかかっている意識が徐々に形を取り戻してきた。そこでようやく、何やら上半身と下半身の境目くらいが少し重い事に気が付く。軽い何かが載せられているかのようだ。

 

 これはなんだ――そう思いながら、キリトは目線を下へ向ける。顔があった。人界人と大して変わらない明るい色の肌と、闇のように黒々とした長い髪と、金色と橙色の中間のような色の瞳をして、頭の側面から一対の角を生やしている少女だった。

 

「おはようございます、キリトさま」

 

 少女の微笑みとその言葉を聞いた次の瞬間、キリトの意識は完全なる形を取り戻した。そして、胸元に載っている重さの正体に理解が追い付いて、

 

「うぉわあああああああああああッ!!?」

 

 キリトはたまらずに叫んでベッドから飛び退いた。床に足を付けた直後に記憶の確認に取り掛かる。

 

 確か、昨日はリルピリン達オーク族の説得に成功し、オーク族領全体が和平賛同派に回った。その後に帰還したところ、シェータを筆頭とした整合騎士達が闘技場にて拳闘士ギルドに勝利し、彼らを和平賛同派に回らせる事に成功したという報告を受けた。同時に、シェータが拳闘士ギルドのボスであるイスカーンと仲良くなっているところも見た。

 

 その時には、無口で何を考えているのかいまいちわからないシェータと、強くなる事を真っ直ぐ追い求める熱血漢のイスカーンが、不思議なくらいに意気投合しているような感じがした。全く根拠らしいものがないというのに、二人はいずれ恋人同士になるのではないかという気がしてならなかったものだから、不思議だった。

 

 二人の事はさておき、拳闘士ギルドとオーク族を和平賛同派に回らせる事ができた事を、和平賛同派の筆頭とも言えるシャスターに告げて、パーティは解散。時刻は既に夕暮れ時だったのだが、そこでイスカーンが強き者達と戦えた事を祝い、宴会を開くと宣言。皆でそれに参加する事になり、そこで食事を摂った。

 

 拳闘士ギルドの者達が用意してくれたのは、とにかく肉尽くしの料理の数々だった。現実世界で言うところのローストビーフやビーフシチュー、魔獣の加食部位の丸焼きなど、如何(いか)にもスタミナ増強だけを考えたような料理の、時に繊細(せんさい)で時に野性っぽさがある味わいで、キリト達は胸と腹を満たした。

 

 そして夜が深くなってきたところでオブシディア城の一室に戻った。いつもならばシノンとリランとルコも一緒だが、彼女達はリズベット主催の女子会に参加し、そこで寝ると言っていたので、キリトは一人だだっ広い部屋で寝たのだった。

 

 そこまで思い出したところで、ベッドの上で男を魅了するような座り方をしている少女の名をキリトは呼んだ。

 

「大教皇……!?」

 

 龍の角を持つ少女は「ふふふ」と微笑みながら答える。相変わらず並みの男ならば見惚(みと)れてしまいそうなほどに可愛らしいが、その中に得体の知れなさが見え隠れしていて、キリトはそうはならなかった。

 

「随分と驚かれておりましたわね。キリトさまならば驚かれないと思っておりましたのに」

 

 いや、寝起きの際に一回しか会っていない暗黒界の頂点の少女が同じベッドに居て、尚且(なおか)つ身体に乗りかかっていたならば誰でも驚くだろうに。こちらを何だと思っているのだろうか、この大教皇は。

 

 そういう女性も何人か見てきたものだし、知り合いにもいるが、大教皇はその人達と肩を並べられるほどの不思議ちゃんだ。いや、不思議ちゃんで片付けていいような人物なのだろうか。

 

「どうやって入ってきた。俺はちゃんと鍵を閉めていたぞ」

 

「うふふふふ。どうやって入ったのでしょうね?」

 

 大教皇はダークテリトリーの管制者として現実世界(リアルワールド)から派遣されてきた存在であり、ダークテリトリーの全ての種族の長である。まだ確認は取れていないが、クィネラのように全ての神聖術――ダークテリトリーでは暗黒術――を使いこなせる力もあるだろう。それを使えば、こんな部屋の鍵など容易に通り抜けて中に入れるに違いない。

 

「……!」

 

 そこまで考えたところで、キリトははっとする。大教皇はダークテリトリーのヒエラルキーの頂点に位置し、全ての種族を統べている。暗黒騎士団、商工ギルド、拳闘士ギルド、オーク族、ジャイアント族、オーガ族の六種族は和平派に回ってくれたが、残りの四種族はまだ戦争推進派。

 

 更に言えば、暗黒騎士団と商工ギルド以外は数日前まで戦争推進派であり、和平使節団を目の上の(こぶ)のように思っていた。そして大教皇はずっとそんな戦争推進派の者達を見て、その言葉を聞き続けていた。

 

 (ある)いは、そもそもダークテリトリーの民達が戦争推進派になったのが、彼らの頂点である大教皇の意思によるものだったとしたら――。

 

「……なんでだ」

 

「あら?」

 

 キリトは(とぼ)けているような大教皇を(にら)み付けながら胸に手をやり、《EGO(イージーオー)》を引き抜いて構えた。

 

「なんで、俺を()らなかった? 俺は和平使節団の中心で、和平使節団は戦争推進派からすれば忌まわしくて仕方がないもののはずだろ。ここで俺を殺れば、和平会談なんて面倒事をせずに戦争を始められたはずだ」

 

 キリトは《EGO》を強く握り締める。

 

「暗黒界の人々に戦争するよう差し向けているのは、君なんだろ。君が暗黒界で一番偉くて、暗黒界の種族達を意のままに操る事ができるのだから」

 

 予測を話したところ、大教皇はまた「ふふふ」と笑った。

 

「キリトさま、それは違いますわ。暗黒界の人々が戦争をやりたがっているのは、わたくしの意思ではありません。暗黒界の人々は元から闘争を好み、人界という大地を手に入れたがっていますの。これはずぅっと昔から変わらない事なのです。

 もし、わたくしが暗黒界の人々を意のままに操っているのだとしたら、シャスターさま達やレンギルさま達が戦争に反対し、和平賛同派になっている事に説明が付きませんし、イスカーンさまやリルピリンさま、フルグルさまとシグロシグさまもキリトさま達の説得に応じなかったでしょう。違いますの?」

 

 キリトは反論できなかった。直後、大教皇は身軽な動きでベッドから降り、静かな足音を立ててキリトに歩み寄ってきた。金色と橙色の中間のような色合いの、見方によっては色付きの水晶のように見える瞳がキリトの瞳と交差する。

 

 背筋を激しく走り回る寒気を、キリトは身構えを強くする事で振り払おうとした。

 

「それに、わたくしはキリトさまを簡単には壊したくないの」

 

「……?」

 

「キリトさまは、わたくしが劫火(ごうか)を浴びせようとしても怯まずに避け、果敢に反撃に転じてきましたわ。わたくしの劫火の前では、何もかもが焼けて溶け落ちてなくなってしまうというのに、キリトさまは焼けも溶けもしなかったですわ。わたくしにとっては初体験、でしたのよ」

 

 大教皇の言葉が耳に入った途端、一切の音が消えた。頭が勝手に大教皇の話を理解する事を最優先するようになってしまった。

 

 大教皇は劫火を自分に浴びせ、焼き溶かそうとしてきたが、自分はそれを避けて大教皇に果敢に挑んだ。だから大教皇は自分の事を特別視している――という事のようだが、全く持ってわけがわからない。

 

 そもそも大教皇と初めて出会ったのは数日前の和平会談の時であり、それより前に大教皇と会った事も、話をした事も、戦いになった事もない。大教皇の劫火とやらを浴びそうになってそれを避けたなんて事もあり得るはずがない。

 

 念には念を入れて頭の中を探ってみるが、やはりこんな小柄で可憐で不気味な少女と交戦した記憶はないし、彼女の放つ劫火に焼かれそうになったシーンも浮かび上がってこない。

 

 となると、大教皇は自分を他の誰かと勘違いしているのだろうか。自分によく似た人界人の、それこそベルクーリに匹敵するくらいの実力を持つ勇者と交戦した事があって、その時の勇者と自分を間違えている――それくらいしか整合性の取れる予測を思い付かなかった。

 

 そのような事を考えるキリトに大教皇はにじり寄ってくる。途中で闇のような黒髪の一部に《EGO》の刃が当たり、伝わった高熱により焼ける。しかし大教皇は全く意に介さず、キリト達以外の男を釘付けにするであろう微笑みを崩さずに歩み、距離を縮めてきていた。

 

 やがて大教皇はキリトのすぐ目の前にまでやってきて、(ささや)くように言った。

 

「だから、わたくしにとってキリトさまは特別なの。簡単に壊してしまうのは、あまりにも惜しいのですわ」

 

 大教皇の瞳には妖しい光が(またた)いていた。人のものとは到底思えないものの、かと言って獣のものなのかとも思えない。そもそも光なのか闇なのかさえも判別できない。そんな正体を掴む事のできない光で満たされた瞳に見つめられ、キリトは影縫いをされたように身動きを取れなかった。

 

 その口から出ている言葉も、この拘束の要因の一つなのかもしれない――ふとそんな事を思い付いたキリトは拘束を破るべく、大教皇に問うた。

 

「……さっきから何の話をしてるんだ。俺達はどこかで会った事があるのか?」

 

 大教皇と呼ばれる名前もわからない少女はきょとんとした顔になる。

 

「あら、お(おぼ)えでないのですか?」

 

「あぁ。君と初めて出会ったのはほんの数日前だ。少なくとも、俺はそれより前に君と会った事も、見た事もない。君は人違いをしているんだ」

 

 ゴシック・アンド・ロリータの衣装に身を包む少女は目を丸くした。その途端に少しだけ身体に力が戻ってきて、キリトは精一杯後ずさった。今の一言で動揺させられたらしい。どうにか相手のペースを崩す事に成功した。

 

 そう思った直後に、大教皇は――微笑みを取り戻した。

 

「……大丈夫ですわよ。キリトさまはわたくしを忘れてなどおりません。思い出せないだけなのです。時が来れば、きっとわたくしの事を思い出してくださいますわ」

 

 大教皇は一向に引き下がらない。こちらは大教皇のような少女との記憶など一切ないというのに、大教皇はあると決めつけて譲らない。その確信はいったいどこから来るのかと気になってきたところで、大教皇はようやく身体をこちらから逸らした。影縫いのような拘束が解かれて、自由に身動きできるようになる。

 

「……キリトさま。今日も戦争推進派の皆さまのところへ向かうのでしょう? 和平賛同派になってもらうために」

 

「あぁ。やっぱりそれが気に喰わないか?」

 

「いいえ。ただ、向かうのにおすすめのところを紹介したいと思いまして」

 

 キリトは戦争推進派の種族を思い出す。暗黒術師ギルド、暗殺者ギルド、山ゴブリン族、平地ゴブリン族の四つだ。どれも一筋縄では説得できそうにない者達である。

 

「残っている十候のうち、ディーさまのところへ行くといいかもしれません」

 

「ディー様……ディー・アイ・エルか。つまり暗黒術師ギルド?」

 

「ええ。ゴブリン族の皆さまは本当に血気盛んでして、キリトさま達がどんなに丁寧にお話をされようとも、最終的には武力で叩き伏せるしかなくなってしまいますわ。その時には、他の十候が味方に付いている方が数に対抗できるでしょう」

 

 ゴブリン族がどれだけ好戦的なのかは人界に居た時からよく知っている。話自体は通じるだろうが、聞き入れてくれる可能性は極めて低そうだ。大教皇の言う通り、ゴブリン族の説得に行くのは後回しにするべきだろう。

 

「暗殺者ギルドは気難しい人々ばかりで、話を通すのも苦労される事でしょう。ですが、ディーさまは違いますわ。ディーさまは損得勘定で動かれるお人です。利がなければ動こうともしないお人、ですわ」

 

「ディー・アイ・エルは和平会談の時、君と一緒に行動していたな。あれもディー・アイ・エルに利があったからなのか」

 

「そうですよ。わたくしがディーさまに利を与えているからこそ、ディーさまはあぁして一緒に居てくださったり、準備のお手伝いをしてくださったりしているのですよ。

 ディーさまと接触すれば、(おの)ずと何かを要求してきます。何を望むかまではわたくしでも予想できませんが、用意できれば多少なりともお話を聞いてくださる事でしょう。ディーさまはオブシディア城内の暗黒術師ギルドの陣屋に居られますので、足を運んでくださいまし」

 

「……そうするかな」

 

 とりあえず今日の行き先は決まった。しかし、肝心なディー・アイ・エル本人との会話や要求が全くイメージできない。あれだけ魔女という単語が似合いそうな彼女が自分達と話をした際、何を要求してくるというのだろう。無理難題を押し付けられそうな気がする。

 

「ですが、キリトさま。ディーさまと接触されるのであれば、その時にはドロシーさまを奪われないよう、お気を付けくださいまし」

 

 大教皇からの進言に、今度はキリトが目を丸くする。何故急にドロシーが出てくるというのだ。

 

 ……そう言えば、前にドロシーがディー・アイ・エルに付け狙われ、攻撃を受けたという話を聞いた。それでドロシーはダハーカとサライの三人でディー・アイ・エルの繰り出したミニオンに狙われ続けながら飛竜を駆り、最終的に人界に辿り着いて、自分達に助けられた――そういう流れだった。

 

 ディー・アイ・エルとドロシーには確執がある。それはわかったが、ディー・アイ・エルにドロシーを奪われないようにしろとはどういう事なのか。疑問を抱くキリトに大教皇は続ける。

 

「ドロシーさまは人族で唯一無二のアメンクなのは、ご存知ですよね」

 

「あぁ、知ってる」

 

「ドロシーさまはアメンクの中でも別格の存在なのです。それは異種族間の果てに産まれた事だけではありません。ドロシーさまは、生まれつき天命値が異様に高いのです。わたくしを超えるくらいに」

 

 大教皇は軽く、しっかりした足取りで数歩歩いた。

 

「暗黒術師ギルドは、生贄を前提にした暗黒術の使用者も多いのです。暗黒術師の皆さま、筆頭であるディーさまからすれば、天命値の高い存在はとても良い実験道具なのです。ディーさまはドロシーさまに興味津々で……気を抜けば、一瞬のうちにドロシーさまを連れ去ってしまう事でしょう」

 

「君の命令で止める事はできないのかよ、それ」

 

「それはできません。わたくしは皆さまのご自由を縛るような真似はしたくないのです。現にわたくしが『ご自由に過ごしてくださいまし』といつも暗黒界の皆さまに言っていたからこそ、皆さまは何にも縛られる事なく生き、わたくしのもたらした技術と知恵を呑み込み、ここまで発展を遂げ、強くなる事ができたのですから。暗黒界の皆さまには、やりたい事をやりたいようにやりながら、暮らしていてほしいのです」

 

 そのやり方はかつての人界の支配者として君臨していたアドミニストレータの全くの逆であり、今現在の人界の管理者たるクィネラと同じだった。アドミニストレータが支配のために作り出した禁忌目録によって、人界人はありとあらゆる発展と進化と自由を制限され、様々なモノを停滞させてしまっていた。結果、真逆のやり方をしていた大教皇によって発展したダークテリトリーに何もかも追い抜かれ、今や人界が発展途上国、ダークテリトリーが先進国のような構図になってしまった。

 

 ダークテリトリーを先進国へと導いた大教皇は、ディー・アイ・エルが如何なる暴挙を働こうとも止めはしない。狙われるドロシーを守ろうとする事もない。つまり、ディー・アイ・エルの暴挙からドロシーを守れるのは自分達しか居ないわけだ。

 

 ようやくドロシーの様々な事がわかってきて、仲良くなる機会を掴めそうになっている頃だというのに、ここでドロシーがディー・アイ・エルに連れ去られ、暗黒術師達の実験動物にされるような事になってはたまったものではない。

 

 ディー・アイ・エルとは接触しない方が一番良いと思うが、全ての十候を説得しなければ戦争に突き進んでしまうのが現状だ。そういうわけにもいかない。

 

 ドロシーの事を守りつつ、ディー・アイ・エルと接触するしかないだろう。いっその事ディー・アイ・エルのところには整合騎士達も含んだ全員で向かうべきか?

 

 いや、それだと総力戦か何かと勘違いされて、戦争勃発に繋がってしまいかねないか。やはり整合騎士はアリスとユージオ、メディナとグラジオの四人くらいにして、残りをいつもの現実世界(リアルワールド)組にするべきか。

 

 思考を巡らせるキリトに、大教皇は再度尋ねてきた。

 

「ドロシーさまは、キリトさま方からするとお友達なのですよね」

 

「あぁ」

 

「なら、キリトさまらしく、お友達をお守りくださいまし。守るべきものの存在は、キリトさまの強さの秘訣(ひけつ)なのですから」

 

 そう言って大教皇は静かな足音を立てながらドアの方へと向かっていった。大教皇との距離はかなり空いた。しかしそれでも、キリトは《EGO》を収める気にはなれなかった。

 

 立ち止まった大教皇はくるりと振り返り、再びキリトを見つめてくる。

 

「……キリトさまは水面に投げ入れられた綺麗な石。石は波紋を生み出します。キリトさまと一緒に居る事で、誰もが何かしらの変化を起こすのです。フルグルさま、シグロシグさま、リルピリンさま、イスカーンさまがそうであったように……」

 

「それは良くない事か?」

 

「いいえ。(むし)ろ良い事です。わたくしが統治してきた暗黒界が如何なる変化を遂げるのか、わたくしも興味津々なのですよ。新しい歴史がどのようにして生まれてくるのか、見てみたいのです。それを……と一緒に……のも……」

 

 途中で大教皇は下を向いて小声になった。そのため、最後の部分が上手く聞き取れなかった。何を言ったんだ――と尋ねようとしたその時に、大教皇は再び顔を上げた。つい先程から何度も見ている微笑みが、そこに浮かんでいた。

 

「それでは、今日も頑張ってくださいね、キリトさま」

 

 大教皇はそう言って(きびす)を返し、ドアに近付いた。直後、ドアに黒紫色の闇でできた、大教皇よりもほんの少し大きいくらいの穴が開く。何かしらの暗黒術が発動したのは間違いなかった。どうやら彼女は、あの術を使って部屋に入って来たらしい。なるほど、あれならば合鍵がなくても入ってこれるだろう。

 

 同時に、このオブシディア城の中では秘密の話ややり取りはできそうにないともわかった。ふとした時に大教皇が勝手に入ってきて、その内容を聞かれてしまったり、見られてしまったりするかもしれないからだ。

 

 そのような事を大教皇はしないと思いたいところだが、こうして勝手に自分の部屋に入ってきたうえにベッドの中にまで潜り込んできたのだ、とてもじゃないが信頼する事は難しい。

 

 人のプライバシーを考えているのか、そうではないのかよくわからない大教皇は「ごきげんよう」と言い残し、ドアに空いた穴の中に入っていった。大教皇の姿が完全に消えると、穴もまた一秒も経たないうちに消えた。

 

 そこでようやくキリトは《EGO》を胸の中に戻した。寝て起きたばかりなうえ、戦った後でもないというのに、どっと疲れが来た。今日も戦争推進派の説得――よりによって一番の問題人物であるディー・アイ・エルのところへ行かなければならないというのに。

 

 なんだかこれも大教皇の狙いだったのではないかという気がしてくる。そう思ってしまうのは、やはりつい先程の大教皇の言葉によるものであろう。直後、脳裏でそれがリフレインする。

 

「キリトさまは、わたくしが劫火を浴びせようとしても怯まずに避け、果敢に反撃に転じてきましたわ。

 ……大丈夫ですわよ。キリトさまはわたくしを忘れてなどおりません。思い出せないだけなのです。時が来れば、きっとわたくしの事を思い出してくださいますわ」

 

 キリトは顎元(あごもと)に指を添えた。あのような少女の事は本当に見た事がないし、その劫火とやらに焼かれそうになって避けた記憶もない。だというのに、大教皇は自分の事を知っていて、自分は忘れているだけだと言っていた。

 

 少女の放つ劫火に焼かれそうになったなんて目に遭っていれば、流石に憶えていそうなものだが、そうではないのだから不気味で仕方がない。あの大教皇とやらはいったい何者だというのだろう。

 

 彼女について知る方法は何かないものか――考えを巡らせても思い付けず、キリトは深く溜息を吐いた。

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