キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

616 / 645
ハッピーバースデー、シノン。


08:使命に背いてでも

「《EGO(イージーオー)化身態(けしんたい)》……!!」

 

 二人が変じたと思わしき異形は、そうとしか言えない容姿だった。

 

 凶悪そのものと言える顔つきをしている点、体色が全て暗い色である点、そして各所に黒い装甲らしき人工物的部位が見受けられる点。これら三つの特徴を全て揃えた存在こそが、《EGO化身態》だ。

 

 とある人物が強すぎる利己心を抱いた時に、空間神聖力や空間暗黒力と同じように空間そのものに存在している《進想力(しんそうりょく)》というモノが共鳴を起こし、その人物へ流れ込む。

 

 この利己心が正に(かたむ)いたものであった場合は、それを昇華させて《EGO(イージーオー)》という大いなる力に変えるが、逆に利己心が負へ傾いていた場合、《進想力》はその負の利己心をどこまでも膨張させて、やがてその人物を呑み込ませる。

 

 そうして自分自身の利己心に呑み込まれた者は、自身以外の存在を許さず、何もかもを破壊しようとする怪物、《EGO化身態》となる――カーディナルから一番最初に聞いた説明を、キリトは無意識のうちに思い出していた。

 

「カイ……ナン……どの……? にい……さ……ん……?」

 

 ドロシーは完全に腰を抜かしたようになってシノンとキリトに支えられていた。茫然自失という言葉以外が出てこないような顔をしている。

 

 ねぇ、何がどうなっているの。

 

 どうしてにいさんとカイナン殿があんな姿になっているの。

 

 誰か教えて――そう言いたくて仕方がないが、言葉が出てこないのだろう。

 

 それはキリトも同じだった。カイナンもダハーカも、月並みな利己心自体は持っていただろう。だが、《進想力》はその程度の利己心には共鳴しないようになっているという観測が()されていた。

 

 そして《EGO化身態》へと至るのは、長期間抱き続けていた利己心が、共鳴した《進想力》によって膨れ上がった時のみであり、短期間で如何に強い利己心を抱いたとしても、即座に《EGO化身態》へ至る事はないとも言われていた。あくまで長期間抱き続ける必要があると。

 

 そうでなければ、今頃アンダーワールドの人間は全て《EGO化身態》となっているからだ。

 

 だというのに、カイナンとダハーカは何の予兆もなく突然苦しみ出したかと思えば、集まってきた赤黒い光の粒子――濃密な《進想力》に呑み込まれて、数秒後には《EGO化身態》となった。二人が自身の利己心に呑み込まれそうになっているようには、とても見えなかった。

 

 明らかに自分達が見てきた、人間が《EGO化身態》となる過程(プロセス)を無視したシーケンスで、彼らは《EGO化身態》となってしまった。

 

 いったい何が起きた。何がどうなってしまったからこそ、こうなったというのだ。

 

 疑問に襲われるキリトの視線を浴びていた、カイナンが変じた《EGO化身態》である黒く巨大な熊らしきモノ――黒熊獣(こくゆうじゅう)とも言うべきそれが、前のめりの姿勢になりながら咆吼してきた。

 

 カイナンのそれとは全く異なる、禍々しい獣の怒声が耳を(つんざ)いてくる。更にダハーカが変じた黒人狼(こくじんろう)までもが咆吼して、怒声を叩き付けてきた。

 

 二体は確実にこちらを狙っている。《EGO化身態》の最大の特徴である凶暴性を剥き出しにして、本能のままに殺戮(さつりく)するつもりでいるのは間違いないだろう。次には何かしらの攻撃が飛んでくる事も確定事項だ。

 

 どうする。ここで二人を鎮圧して、元に戻させるか。

 

 いや、そんな事をしている暇などあるのだろうか。戦力面から考えても、今ここに居るのはたったの四人であり、敵は《EGO化身態》。幸い、顕現(けんげん)の際に黒い炎が生じていなかったので、特別危険な強さを持っているわけではない事はわかっているものの、《EGO化身態》は《EGO》を用いて鎮圧に取り掛かったとしても、完了までにかなりの時間を要する強さと頑強さ、天命を持っている。

 

 これからそれが二体同時に襲い掛かってくる。そして戦力の内の一人であるドロシーは《EGO》を持っていない。それはリランも同じだが、彼女はその巨躯から繰り出される力で、《EGO化身態》が相手であっても強引に捻じ伏せる事もできたりした。

 

 だが、今の彼女は先程のアガレスの攻撃によって負傷していて百パーセントの力を出せないうえ、捻じ伏せられるのも相手が一体だけであった時。現状は適応外だ。

 

 どんなに頭をフル回転させても、この戦いに勝利するビジョンが描けない。いや、もしかしたら勝てる見込みがごく低確率ながら存在しているかもしれないが、その時には既にアリスがベクタに連れ去られていて、ベクタもPoHもハンニバルも完全勝利の喜びで高笑いしている事だろう。

 

 自分達の最優先事項は、アリスをベクタから守り、ベクタを討ち滅ぼす事。だから、ここでやるべき事は、この二体の《EGO化身態》から逃亡する事だ。

 

 しかし、《EGO化身態》には一度決めた標的を執拗(しつよう)に追いかけて、徹底的に破壊するという傾向が強くある。ここで逃げ出したところで、この二体の《EGO化身態》はどこまでも自分達を追いかけてくる事だろう。地上に居る限り、この二体の追撃からは逃げられない。

 

 ならばリランの翼で空へ逃げるしかないが、もし今飛び上がろうものならば、ベクタに洗脳された暗黒界軍から集中対空砲火をもらって撃墜させられてしまう可能性が極めて高い。そして負傷しているリランでは、耐えられる可能性はゼロだ。

 

 冷や汗が伝うのを感じたのと同時に、頭の回転が停止した。

 

 ――完全に、詰んでいる。

 

 取れる手段の何もかもが、完膚なきまでに潰されている。

 

 アリスを助けねばならないし、ベクタを倒さなければならない。これらに失敗するような事があれば、アリスは現実世界に連れ去られる。その後、彼女は秩序なき破壊殺戮兵器へと改造され、何もかもを蹂躙(じゅうりん)する。跋扈(ばっこ)する彼女の群れによって人類が終焉へ向かわされてもおかしくはない。

 

 そうならなかったとしても、このアンダーワールドは実験継続困難、世界そのものの運用に失敗したと判断され、消去されるだろう。ユージオ、メディナ、カーディナルといった者達を筆頭とした、これまで苦楽を共にしてきたアンダーワールド人の全員が消えてなくなる。

 

 何もかもが、なかった事とされて終わってしまう。そんな結末に至る事が許せなかったからこそ、自分達はここまで戦い抜いてきた。どんなに絶望的な状況に(おちい)ろうとも、足掻き、乗り越えてきた。だから、この現状だって乗り越えられるはずなのだ。

 

 だというのに、今を乗り越えるための行動が、作戦が、何も思い付かない。頭を叩いて再度考えるように(うなが)そうとも思った。だが、そうしたところで答えを導き出せないのも見えていた。

 

 自分の顔がこれ以上ないくらいに蒼褪めて行っているのがわかる。そして、つい数分前まで仲間だった二体の怪物が、自分達の何もかもを潰そうと迫って来る。

 

 ここで、終わりなのか?

 

 俺達がやった事は、結局何もかもが、無駄だったのか?

 

 俺には皆を、アンダーワールドを守れるだけの力などなかったというのか?

 

 投げかけられる相手の居ない疑問と質問がキリトの脳内を埋め尽くし、視界さえも黒く染めようとしてきた。

 

 

 ――こっちよッ!!

 

 

 不意に聞こえた声が、キリトの脳裏の闇を切り裂いた。キリトが我に返ったその次の瞬間、迫り来る二体の怪物の顔が爆発した。赤い爆炎を顔面に受けた怪物達は悲鳴を上げて後退りした。肉と毛が焼ける嫌な臭いを鼻腔(びくう)に入れながら、キリトは周囲を確認した。

 

 シノンの姿がどこにもない。ドロシーを介抱するようにして、近くに居たはずなのに、ここに居るのは自分とドロシーとリランのみだ。

 

 キリトは愛する人を探すべく立ち上がった。直後、二体の怪物の背中の辺りが爆発を起こした。その時に、ある方向から何かが飛来していたのが認められ、キリトはそちらに視線を向けた。

 

 白水色の髪をした少女が、ここからかなり離れた場所で、矢を放った後の体勢をしていた。間違いなくシノンだった。

 

「シノン!!?」

 

 キリトは思わず大声を上げた。何をしていると言うんだ。いや、何をするつもりでいるんだ。嫌な予感がどす黒い水の姿を取り、胸の中に湧き上がってくる。そんなキリトと目を合わせた愛する人は、曇りなき眼で伝えてきた。

 

「キリト、行って! ここは私が引き受けるから!」

 

 最も当たってほしくない予感が当たってしまい、キリトは限界付近まで目を見開いた。シノンは自分を先へ行かせるために囮を引き受けるつもりでいるのだ。アスナがそうして、自分達をここまで進ませたように。

 

 それを、受け入れられるわけがなかった。キリトは首を横に振り、再度大声を出す。

 

「何言ってるんだよシノン! 戻ってきてくれ! 君も一緒に逃げるんだ!!」

 

 二体の怪物は彼女の思惑通りに狙いをつけ、こちらに背を向けた。そのまま走り出して、シノン目掛けて一目散に突撃していく。シノンはバックステップして二体に矢を浴びせた後に、後方へと走っていった。どんどん距離が開いてく。

 

 何をしているんだ。そんなところまで行かれたら、俺は君を――。

 

 そこまで考えた時点で、キリトは《EGO》を抜刀していた。彼女を、愛する人を、守るべき人を、守らなければ――その意志が全ての雑念を吹き飛ばし、身体に力を吹き込んでくれていた。その勢いのまま、キリトは渾身の怒声を放つ。

 

「こっちだ、こっちに来い! お前らの相手は俺がやって――」

 

 その言葉は最後まで言えなかった。途中で身体がふわりと宙に浮かび上がったかと思えば、足が地面から離れた。かと思った次の瞬間、ぐっと上方向に引っ張られるように持ち上げられた。そして再度身体が宙を舞うと、がっと巨大な何かに挟まれるようにして拘束された。

 

 すぐ近くに、大きな牙と、白金色の毛が見えた。リランだ。リランが自分とドロシーを、牙の当たらないところに挟んで(くわ)えていた。

 

「何するんだよ、リラン!!」

 

 リランは元から命令を無視するような行動を取りがちだったが、そこが可愛い部分だと思えていたからこそ、指摘もしなければ修正も求めなかった。そんなリランが、最悪のタイミングで最悪の行動を取り始めてしまった。

 

「離せ! 離せよッ!!」

 

 暴れようとしても、彼女の拘束はそれさえも許さなかった。こちらを潰してしまわないくらいの力加減なものだから、余計に腹が立った。その中で、シノンの叫びが聞こえてきた。

 

「キリト、私達が守るのはアンダーワールドそのものよ。今までずっとそうやって来たじゃない。ここで立ち止まっていれば、これまであなたが積み重ねたモノが全部無駄に終わってしまうわ」

 

「だけど、君を置いて行けるわけないだろうが!! 君は、俺の――」

 

「さっき言った通りよ、リラン! 走って!!」

 

 また最後まで言えなかった。リランが何も言わずに走り出した。上下に身体が揺れて、びゅうびゅうと風が容赦なく吹き付けてくる。

 

「シノンッ、シノンッ!!」

 

 シノンの姿がどんどん小さくなっていく。

 

「詩乃――――――――――――ッ!!」

 

 喉が裂けるほどの声で彼女の本当の名前を叫んだ時、愛する人の姿はそこにはなかった。発した声は、ただ虚空へ吸い込まれるようにして消えていっただけだった。

 

 リランがキリトとドロシーを咥えたまま、戦場の最前線へと向かって走り続ける。彼女の負傷はその脚にまでは及んでいないため、こうやって走る事ができるのだろう。その中で、キリトの頭の中は回転力を取り戻していた。

 

 ――なら、あなたが一生私を守ってよ!!

 

 かつてアインクラッドで、シノン/詩乃の全てを知った後に言われた言葉が脳裏に木霊する。そう言われた自分は、彼女の要求を呑み込む事を選んだ。

 

 この人を伴侶として生きていくのだと。彼女の痛みと苦しみの全てを受け入れ、共に背負い、共に生き、一生かけて守っていくのだと。自分の命と力はそのためにあるのだと心に誓い、これこそが自分に課せられた使命なのだと理解し、彼女の全てを受け入れた。

 

 片時も忘れる事なく、迫り来る幾多の危機から彼女を守り続けた。だというのに、今、自分がやった事はなんだ。守るべき彼女を見捨て、先に進んでしまった。アンダーワールドとアリスを守るという任務のために、彼女への誓いを反故にした。

 

 その最大の要因となった《使い魔》に、キリトは話しかけた。

 

「リランお前……なんでシノンを置いて逃げた?」

 

 一心不乱とまではいかないものの、駆けるリランの《声》が頭に届いてきた。

 

《……すまぬ、キリト。お前が《EGO化身態》となったカイナンとダハーカに気を取られている隙に、シノンが我に言ってきたのだ。「私が囮になるから、キリトとドロシーを逃がしてほしい」、とな》

 

 リランの何度も聞いた初老の女性の《声》には、すまなさと悔しさが(にじ)んだ震えがあった。

 

《その時には「我の方こそ囮になる」と、「我ならばあいつらが相手でも何とでもなる」と言い返した。だが、シノンは聞いてくれなかった。「あんたはキリトの《使い魔》で、いざとなった時にキリトを守れるのはあんたしか居ないんだから」と言ってな……》

 

 シノンらしい言葉だった。確かに、あの状況ともなれば彼女はそう言うのかもしれない。自分とリランとドロシーを生き延びさせる事が、最も良い手段だと考えて、自ら囮を買って出る事を選んだのだろう。アスナがそうしたように。

 

 しかし、普段は彼女を疑う事などしないけれども、今は違った。シノンは、本当は自分と一緒に居たかったのではないか。自分と共に生き延びて、アリスを救いたいと思っていたのではないか。

 

 そうであるならば、自分はその気持ちに応えなければならなかった。だというのに、ベクタを倒してアリスを救うという目的のために、彼女を見捨てて、ドロシーとリランの三人で生き延びている。

 

 何故、こうなったというのだろう。ベクタを倒してアリスを、アンダーワールドを救い、尚且つシノンも守る。アンダーワールドで二年の歳月を積み重ねておきながら、どうして俺にはこれら全てを掴めるだけの力がないと言うんだ。

 

 俺がこの世界でやってきた事は、なんだったんだよ――無力感が押し寄せてきて雁字搦(がんじがら)めになっていた。

 

「うあああああああああああああッッ」

 

 その時にすぐ隣から聞こえてきた絶叫でキリトは我に返った。絡みつく無力感が緩和された事によって、そちらに振り向けた。ドロシーだった。リランに咥えられたままの姿勢で、腹の底から大きな声を出していたのだった。

 

「ドロシー……?」

 

 キリトが戸惑いを隠せないで声を出すと、リランが立ち止まった。吹き付けてくる風の音、リランの大きな足音が止まり、ドロシーの声だけが聞こえてくるようになった。とても鮮明な――嗚咽(おえつ)と泣き声だった。

 

「皆……皆……死んで……しまいました」

 

 それは誤魔化しようのない事実だった。ドロシーの嘆きは続く。

 

「小さい頃から……いつもそう……みんな……みんな……どうして、先に死んでしまうのですか……? どうしていつも、小官だけが、生き残ってしまうのでしょうか……? 誰よりも……この世界に不要なのは……小官なのに……どうして」

 

 (うつむ)いたドロシーの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れていた。溢れ出て止まらない。

 

「小官を……真っ先に殺せばいいのに……この世界は、いつも、それだけはしない……どうして、ここまでして……小官だけを(いじ)めるんでしょうか……とうさんも、かあさんも居なくなって……にいさんまであんなふうになった……この世界で……どうして、こんなにも、苦しい思いをして生きていなくてはいけないのですか……」

 

 それがドロシーの心からの叫びだという事が痛いほどわかった。人族からは生まれないとされていたはずなのに、生まれてきたという、ただ一人の《アメンク》。その彼女がどれだけの目に遭わされてきたのかは、シャスターとリピアから聞いていたが、それによってドロシーの心がどうなっていたのかまでは掴めていなかった。

 

 彼女の心は、傷だらけだった。かつての詩乃と同じくらいか、それ以上か。いずれにしても、どこもかしこも傷ができていて、止血と出血を何度も繰り返していたのだ。そしてそれは今ばっくりと開き、どくどくと出血して、止まらなくなっている。

 

「……もう、こんな世界で生きていたくないッ!!」

 

 ドロシーは一際大きな声で言った。胸の中に杭を刺されたような感覚が起こる。だが、ここで何をするべきなのか、キリトは理解していた。それもまた、詩乃と共に生きて、その治療法を教えてもらっていたからだった。

 

「ドロシー」

 

「認め合えた者達も……また再会しようと約束した者達も……アスナ達も、シノンも、皆、死んでしまった。アリス殿も、ユージオ殿も、カイナン殿も……シャスター様も、リピア様も……にいさんも」

 

「ドロシー、やめるんだ」

 

「みんな、みんな、もう、死んでいるのかも……」

 

「ドロシー、やめろッ!!」

 

 それが彼女の傷の止血に繋がるかは未知数だった。だが、彼女の心の自傷だけは、これ以上自ら心の傷を開いて、血を流させるのだけは止めなければならない。

 

 血が流れ続ければ、やがて失血死に至る。心が失血すれば、壊れる。それだけは回避しなければならなかった。キリトの訴えが効いたのか、ドロシーは何も言わなくなった。ただ肩を揺らして(むせ)び泣いている。

 

 こういう時、ダハーカならば対処方法がわかったのかもしれない。こんな事ならば、ダハーカから聞いておけばよかった。

 

《……ドロシー。まだ壊れるには早いぞ》

 

 それまで黙っていたリランの《声》が頭に届いてきた。ドロシーは上げられる範囲で顔と頭を上げる。

 

《シャスターもリピアも死んではおらぬ。カイナンもダハーカもだ》

 

「リラン……どうしてそんなふうに、言えるんですか……」

 

《我は歴戦の猛者達を見てきているからわかる。あやつらはそんな簡単に死んでしまうほどの器ではない。そしてシャスターとリピアは、ベクタに洗脳されながらも、お前の事を待っているはずだ》

 

 ドロシーは驚いたような顔になった。ぼろぼろと流れ続けていた涙が止まる。

 

「小官を……待っている……?」

 

《あやつらにとって、お前はかけがえのない存在……愛する娘も同然だ。あやつらはドロシーが無事かどうか不安で仕方がなかったのだ。そこをベクタに付け込まれて洗脳された》

 

「……」

 

《あやつらはお前が無事かどうか確認できるまで死ぬつもりはないはずだ。死にそうになっていたとしても、しぶとく生き残っているだろう。彼らはそれだけの器のある人間だ》

 

 ドロシーは沈黙してリランの《声》を聞いていた。

 

《ドロシー、お前にとってシャスターとリピアは、なんだ。答えよ》

 

 リランの本名はマーテル。その名前の由来はローマ神話の地母神マグナ・マーテルであると、産みの親であるイリス/愛莉から聞いた。今のドロシーに声をかけ続けるリランの姿は、まさしく慈悲深き地の女神のようだった。

 

 リランをそんなふうに感じられたのは初めてなものだから、キリトは横で驚いていた。

 

「……とうさんとかあさんとは、一緒に居た時間……意外とそんなに多くないんです……シャスター様とリピア様と一緒に居た時間と……ほとんど同じくらいなんです。お二人は、小官が人族でただ一人の忌むべき《アメンク》だというのに、全然そんなふうには扱わず、小官を大事にしてくれました……小官がにいさんと共に居られたのも、暗黒騎士になれたのも、今ここに居られているのも全部、シャスター様とリピア様のおかげです」

 

《それで、お前にとってのシャスターとリピアとは? シャスターとリピアにとってのお前は、今言った通りだが》

 

 ドロシーの顔から徐々に悲しみの色が消えてきていた。同時に若干の明るさが戻って来る。

 

「もう一人の……とうさんと、かあさんです」

 

 ドロシーはきっぱりと断言した。シャスターとリピアとの日々が思い出され――心の傷からの出血が止まっていっているようだった。いや、止まったようだ。

 

 その言葉を聞いたキリトは、ようやくまともな言葉を返せるようになった。

 

「ドロシー、リランの言う通りだ。折れるのはまだ早いよ。ダハーカもカイナンもあんなふうになったけど、死んだわけじゃない。シャスターさんとリピアさんだって、まだ生きているのは間違いないよ。あの二人は……愛娘の無事を確認しないまま死ぬような人達じゃない」

 

 ドロシーは振り向いてきた。まだ瞳が涙で潤んで揺れているのがわかった。

 

「だからドロシー、進もう。せめて、シャスターさんとリピアさんに顔を見せてやろう。それまで、俺とリランで……君を守るから」

 

 ドロシーが瞬きをすると、瞳で揺らいでいた涙が零れ落ちた。やがてドロシーは何かに気付いたような顔をした後に、再び悲しげな表情になる。

 

「……キリト……君とシノンは……思い合う婚約者同士……というお話でしたよね。シノンが居なくなってしまって、誰よりもつらいのは、悲しいのは君なのに……ごめんなさい。君だって怖いのに、悲しいのに、つらいのに、小官は自分の事ばかり……」

 

 ドロシーは腕で目を覆った。溢れ出てくる涙を抑えようとしている。そんな彼女に向かって、キリトはやるべき事を再確認するように言った。

 

「行こう、ドロシー。これ以上ベクタの思い通りにさせるわけにはいかない。ベクタを倒して、君のもう一人のとうさんとかあさんと、にいさんを取り戻そう。君がもう生きていたくないなんて言わない未来を、作ろう」

 

 ドロシーは目から腕を離した。涙が流れた跡がくっきり残っていたが、それでもその瞳は凛とした騎士のそれになっていた。

 

「……はい。行きましょう、キリト」

 

 キリトは(うなづ)き、リランに声掛けした。リランが姿勢を低くして口を開けてくれたところでドロシーと共に地面へ降りた。しかし、すぐさまジャンプしてリランの背中に飛び乗り、ドロシーと共に(またが)った。

 

「リラン、走れ!」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。