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朝が来たのは、いまいちわからなかった。ダークテリトリーはよく言う魔界さながらの空をしていて、その色はいつでも赤黒く、浮かんでいる雲もまた
自室に窓がないというのも、朝と夜の到来をわからなくさせるには十分過ぎていた。一日中この部屋に
それでも朝が来た事を本能的に感じ取ったキリトは起床した。共に夜を過ごしたシノンと一緒に起きて着替えると、シノンの方が一足先に部屋を出ていった。ルコとユイの顔を見に行ったに違いない。
本当は昨日の夜から、二人と一緒に過ごすべきだったのだろうが、昨日は色々とごたごたしていたし、やりたい事もあったので、できなかった。今日からはユイとルコと一緒に居てやらねば。
そしてユイにルコの事を、ルコにユイの事をしっかり教えてやらないといけない。どちらかと言えばルコの方が心配ではあるが、ルコも聞き分けが良い娘だし、ユイも子供っぽいところもあるようで、《MHCP》の
仮に、どちらかが掴みかかって互いに衝突してしまったとしても、ここにはイリスも居てくれている。彼女に頼りっきりになってはいけないが、万が一の助けにはなってくれるはずだ。と言うかそんな事態が起ころうものならば、放っておく彼女ではない――そんな事を考えながら、キリトはベッドから立ち上がり、シノンの後を追うようにして部屋を出ようとした。
その時に、ノック音が聞こえてきた。叩く力の加減からして、女性のようだ。一瞬、大教皇ジブリル――黒龍が部屋に無断侵入してきていた時の事を思い出してぎょっとしたが、黒龍は《ビーストテイマー》であるサトライザーの討滅によってこの世界から脱している。
万が一戻ってきたとしても、黒龍は既に全ての暗黒界人にとって最も憎むべき敵という認識を受けている。この世界へ再臨し、オブシディア城に入って来たならば、既に非常事態となっていて、自分も駆り出されていた事だろう。
気を張り過ぎだ――キリトは自分に溜息を吐き、声を出す。
「誰だ?」
「わたしだよ、キリト。フィリアだよ」
少し意外な来客に軽くきょとんとしながら、キリトはドアを開いた。
オレンジがかった跳ねっ気のあるショートボブヘアに、
「おはよう、キリト」
「あぁ、おはよう、フィリア。どうかしたのか?」
「うん。ちょっとキリトと話がしたくなったって言うか……入ってもいいかな?」
キリトは素直に
戦争の最中、《水神アクアリア》として降臨してきた際に、フィリアの声は確かに聞いた。だが、それ以降面と向かって話す事もなければ、その声をちゃんと聞くという事さえもしてこなかった。
自分達の危機に
「それでフィリア、話って――」
最後まで言えなかった。胸元に大きいものの、そんなに重くないものが衝突してきた。フィリアだった。今しがた部屋に招き入れたフィリアが、いきなり自分の胸目掛けて突進してきていた。いや、突進ではなかった。背後に腕が回されて、手が背中に当たっているのがわかる。抱き締められていた。
しかし、どうしてそうなっているのかがわからず、キリトはきょとんとしきったような顔のまま瞬きを数回繰り返して、視界に映っているフィリアの身体の一部を見ているしかなかった。
「……フィリア……?」
ようやく声が出せたのは、フィリアに抱き締められてから十秒ほど経った頃だった。しかしすぐさま、キリトは再度きょとんとさせられる。フィリアの身体は小刻みに震えつつ、時折肩がびくんと上下していた。そして彼女の顔が当たっている肩口に湿り気を感じる。
「……
フィリアの声は涙声だった。湿り気の時点でわかっていたが、彼女は泣いていた。だが、その理由が上手く掴めず、キリトは軽く混乱していた。彼女を泣かせてしまうような事を、自分は無自覚の内にやってしまっていたのだろうか。前にもそういう事があったものだから、そう思ってしまう。
「フィリア、なんで泣いて……?」
明らかに適切ではない質問だったが、それくらいしか思い付く言葉がなかった。どうして自分の頭は、危機が迫った時の
「よかった……生きてて……ほんと……よかったぁ……ッ」
「え?」
「どれくらい……心配したと思ってるの……和人が、襲われて……病院に運ばれたって聞いて……そしたら、どこに行ったのかわからなくなったって……どこを探しても和人が見つからなくて……
キリト/和人ははっとした。そうだ。自分は詩乃と共に正体不明の人物の襲撃を受け、何かしらの毒物を注射された。その後、普通の病院では治せないからという事で、オーシャン・タートルに運び込まれて、そこにある《
そして《STL》のログイン先である、このアンダーワールドで二年以上過ごし、クィネラに取り憑いていたアドミニストレータを撃破後、ドロシー達と共にダークテリトリーへ
だが、この事実を知っているのはアスナ/
皆は本気で心配していただろうし、自分達が死んでしまったと思わせてしまっていたかもしれない。少なくともフィリア/
ようやく理解が追い付いてきたが、同時にすまなさが込み上げてきた。皆に本当に悪い事をしてしまった。琴音はその筆頭だ。その謝罪をするつもりで――和人は普段詩乃とユイとルコにだけしてやっている
「ごめん、琴音。本当につらい思いをさせた。心配かけさせて、ずっと不安にさせてしまって、本当に悪かった」
琴音は肩を上下させて泣きじゃくっていた。その背中に腕を廻し、後頭部に手を添え、髪の毛を優しく撫でてやる。
「俺は生きているよ。生きて、こうして君の目の前に居る。だからもう大丈夫だ。もう心配しなくたっていいし、不安にならないでいい。だから、もう泣かないで大丈夫だよ」
言い聞かせてみて、それが昨日詩乃から聞かされた言葉である事に和人は気が付いた。完全に受け売りになってしまっているが、琴音にかけるべき言葉はそれしか思い付かなかった。詩乃やユイ、ルコのそれとは全く異なる質感の琴音の髪を撫でながら、和人は「もう大丈夫だよ」と繰り返す。
しばらくすると、琴音の方から返事があった。
「……もう、こんなのは絶対嫌だからね……和人……」
弱々しいその声に、和人は深く頷く。
「あぁ。もう二度とこんな事は起こらないさ。いや、起こさせないよ」
今度は詩乃にかけた言葉だった。それだけ、詩乃と琴音へ伝えたい事は同じだった。現実世界の自分達を襲った悲劇。この世界を襲った戦争という厄災。どちらも繰り返してはならない出来事であり――もう体験するのも真っ平ごめんである。あんな事はもう二度と繰り返させるものか。詩乃を抱き締めていた時に思っていた事を、和人は改めて思い直していた。
そうしていると、琴音は泣きじゃくりからすすり泣きになり、やがて泣き止んで、和人の肩口から顔を離し、身体からも離れていった。当然だが、その顔はかなり赤く、目元には涙が通った跡がくっきりと残っていた。
「落ち着いたか」
琴音は「うん」と頷き、精一杯の微笑みを顔に浮かべようとしていた。
「……ありがとう、和人。生きててくれて……」
「こちらこそ、来てくれてありがとうな。琴音達が来てくれたおかげで、何とかなったんだからさ」
琴音は袖口で涙を拭い、顔を向け直してきた。跡こそ残っているものの、涙はなくなり、久しぶりに見る、いつもの彼女――フィリアの笑顔がそこにあった。
「どういたしまして! わたしの《水神アクアリア》の力、すごかったでしょ」
そう言われて、和人/キリトは先の戦争でのフィリアの活躍を思い出す。光の柱から降臨してきた、今まさに着ている水の衣を纏った彼女が短剣を振るうと、どこからともなく洪水が起こり、そこから巨大な
その水龍の攻撃によって無数の《
「あぁ、あの水のドラゴンを呼び出したところとか、すごかったな。やっぱりあぁいうふうに水を自由自在に操れるのが、琴音――フィリアの《水神アクアリア》の力なのか」
「うん、そうだよ。《水神アクアリア》は、この世界における全ての水の神様。いつでもどこでも、いくらでも水を生成できるし、水そのものの動きを操って水流を起こしたりとか、強力な水鉄砲を発射したりとかできるよ。あとは間欠泉みたいなもの作れるし、陸地でサーフィンしたりとかもできるよ! 温泉とかも作れるみたい!」
キリトは最後の部分に驚かされた。温泉は水だけではなく、地熱だとかそういうものも必要になるものであるが、《水神アクアリア》の力ならばそれを無視して温泉をも作り出せるというのか。
「温泉も作れるのか……それなら、色んな人達が喜びそうだな。ダークテリトリーで温泉のあるところなんて聞いた事がないし」
「あっ、そうなんだ。じゃあ、わたし特製の温泉とか、この
「いや、この辺りは流石に
そこまで言いかけたところで、キリトははっとした。このダークテリトリーは黒龍が化けていた大教皇によって統治と
現在、その両方が倒されてアンダーワールドから不在になっている。それだけならばまだしも、よりによってラースの職員ではなく、オーシャン・タートルを襲撃している者達の一人であるサトライザーが暗黒神ベクタになって降臨し、好き勝手してしまったがために、暗黒神ベクタ及び黒龍はダークテリトリーの全ての人々から、《再臨してきたならば全力で倒すべき世界の敵》という認識になってしまっている。
そういうわけで、ダークテリトリーは管轄者不在の状態で動いているのが現状だ。今のところ何とかなっているものの、いつまでもこの状態にしておくわけにはいかない。人界もそうであるように、ダークテリトリーにだって管轄をするリーダーは必要なのだ。
それに相応しい人物はいったい誰なのだろうか。今のところクィネラとカーディナルが来てくれて、人界軍の統括をしてくれているが、彼女達にダークテリトリーの管轄までやらせるのは、あまりにも荷が重くなってしまうのではないだろうか。
「……キリト?」
聞こえてきた声でキリトは我に返った。フィリアが不思議なものを見ているような顔で、こちらの顔を覗き込んでいた。青緑の瞳の中に、自分の顔が映っている。恐らく自分の黒色の瞳にもまた、彼女の顔が映っているのだろう。
「どうしたの、キリト。わたし、何かおかしな事言っちゃったかな?」
少し不安そうな表情になったフィリアに、キリトは慌てて首を横に振る。
「いやいや、そんな事はないよ。君は何もおかしな事言ってない」
「やっぱり勝手に温泉作るとか、良くないかな? この世界の人達に喜んでもらえるんじゃないかって思ったんだけど……」
「いや、その発想は悪くないよ。この都の人達は風呂とかサウナは知ってるけど、温泉は知らないらしいんだ。だから温泉ができれば、すげぇ喜ぶと思うぜ」
「じゃあ、今急にキリトが止まったのは?」
「その温泉の場所の確保と、温泉を作る事の許可を誰に取るべきかって考えちゃったんだ。今、このダークテリトリーは総括者なしだからさ」
素直に思っていた事を報告すると、フィリアはきょとんとしたような顔をした。つい今、彼女は自身が妙な事を言ってしまったのではないかと気にしていたようだが、逆転した。もしかして自分の口にした疑問は、おかしな内容だったのだろうか。
次の言葉をかけようとしたそこで、フィリアは笑んだ。柔らかい微笑みだ。
「……なんだか安心した」
「え?」
「キリトって、そういう事をちゃんと気にする人だったじゃない? だから、ここに居てくれてるのはいつも通りのキリトだってわかって、安心したの」
キリトは目を丸くした。先程からいつも通りの自分でいたつもりだったのだが、彼女には伝わっていなかったらしい。もっとわかりやすくしているべきだったか。何故だか小さな失敗をしたような気持ちになって、キリトは後頭部を掻きたいような感覚になった。
「ねぇ、キリト」
「うん?」
「その、もう一回……抱き付いてもいい?」
頬に若干の赤みを射させた彼女の頼みに、キリトは少し
「別に構わないけれど……でもな」
言い切るより先に、フィリアは再度キリトに抱き付いてきた。その華奢な両腕を廻し、背中に手を当ててくる。身体の前面に彼女の身体の前面の色々が当たって、心地良い柔らかさと温もりがしっかりと広まってくる。
普通の男子ならば、ここで興奮を禁じえなくなるのだろうが、果たしてキリトはそうはならなかった。それには複数の理由があるのだが、そのうちの一つが頭の中に鮮明に浮かび上がって、冷や汗が出てきそうになっていた。
それでも冷静さを保つようにして、肩口に顔を当ててきているフィリアに伝える。
「えぇっとな、フィリア。こんなふうにしていると――」
「――こんなふうにしているところをシノンに見られたら大変な事になっちゃうって?」
今まさに伝えようとしていた事がフィリアの口から飛び出してきたものだから、キリトは目を見開いた。まさかフィリアは《水神アクアリア》となっている事によって、読心術みたいなものまで使えるようになっているというのだろうか。
いや、それとも自分があまりにも考えている事のわかりやすい顔をしていたか。一人静かにあたふたするキリトに、フィリアは聞いていて心地良いほどの軽い声をかけてきた。
「大丈夫だよ。シノンには許可をもらってきてるから」
「えぇっ、そうだったのか」
キリトは再度驚かされる。シノンがこの部屋を出たのはつい先程の事であり、フィリアは彼女と入れ替わるようにして自分の元へとやってきた。その一分にも満たない時間で許可を得たとは思えないので、恐らく昨日のうちに話し合って、許可をもらったのだろう。
フィリアはあんなに泣くくらいに自分を心配してくれていた。そんな彼女の気持ちと思いを、シノンは昨日のうちに聞いていたのだろう。そしてそれを素直に受け入れて、シノンはこうして自分のところへフィリアを送り出した。そういう事なのかもしれない。
そのフィリアは、キリトの肩口で小さな声で言ってきた。
「だから、いくらでもこうしてていいみたいよ」
ならば、フィリアの思うようにさせてやるか――そう思ってキリトは抱き締められたままの姿勢でいた。肩口付近に彼女の顔があるため、吐息の音が耳元にほとんど直接届いてくる。先程のように嗚咽の混ざったようなものではなく、一定間隔を保っている、彼女の心がすっかり落ち着きを取り戻している証だった。
だが、それでも先程の彼女の泣き声は耳にまだまだ残っていて、思い出す事も容易だった。その声を聞いてからずっと思っている事でもあったが、やはり彼女には本当に悪い事をしてしまった。彼女が自分達の死に怯えて、胸が張り裂けそうな気持ちで日々を過ごしていた事も露知らず――問題が問題だったので仕方がないのだけれども――アンダーワールドの事に夢中になりすぎてしまっていた。
もう一度謝罪をするつもりで、キリトは手をフィリアの背中に廻し、その髪をできる限り優しく撫でてやった。てっきりびっくりして離れるかと思ったが、しかしフィリアは何も言わずにキリトの肩口に顔を
そうしてから一分ほど経過したところで、フィリアは自らキリトから離れた。心の痛みも気持ちの陰りもすっかり良くなったような笑みが顔に浮かんでいる。
「今度こそ、安心した?」
もしかしたら、からかうような内容だったかもしれない質問を投げかけたところ、フィリアは
「わたし、これからは今までよりずっとキリトの力になるから、期待しててね!」
「あぁ、君の力は本当に頼もしいからな。期待してるよ、フィリア」
フィリアは「任せてね!」と元気よく返事した。完全に元の彼女に戻ったのが見えて、キリトは心の中の
「あと、わたしだけじゃないよ。セブンもレインも、クレハもアーサーも、みんな本当にキリトの事を心配してたんだからね」
「あぁ、みんなにも謝りに行かないといけないな。それにお礼も言わないと」
「そうでしょ。早く来てね、キリト。今日これからみんなでオブシディア城の庭園広場に集まる予定だから!」
そう言うなり、フィリアはドアへ向かっていき、足早に部屋を出ていった。随分と素っ気ない様子だったかもしれないが、構わなかった。
フィリアはあんなに自分を心配してくれていた。それはきっと他の仲間達もそうなのだろう。今日はみんなから色々言われ、色々説明するのに全ての時間を費やす事になるに違いない。さて、どう話したものか――キリトはフィリアのおかげですっきりとした頭の中で、改めて思考を巡らせながら、ドアをくぐった。
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オブシディア城の一角にやってきて、フィリアは立ち止まった。周囲を見回してみても、この世界の兵士達の姿は見えない。それもそうだ。わざと無人の区画にやってきたのだから。
「……」
フィリアは深く息を吸いながら、胸元に手を添えた。とても暖かい。胸だけではなく、全身がとてもぽかぽかと暖かかった。それは
冷たくて苦しかった時間が、ようやく終わった。不安で、怖くて、でもどうにもならなくて、つらくてたまらない日々が、終わってくれた。
また、キリトが助けてくれた。
やっぱりそうだ。いつもそうではないけれども、本当に駄目な時には何故だかキリトは颯爽と現れて手を差し伸べてくれて、そのまま救い上げてくれる。わたしがどうにもならなくなった時に助けてくれるのが、キリトなのだ――いくら身勝手でも、フィリアはそう思っていた。
キリトは既にシノンという大切な伴侶を持っていて、そのシステムがあれば全部のゲームで結婚をしている。だから、キリトの隣に並ぶのはシノンであり、シノンの隣に並ぶのもまたキリトなのだと決まっている。
それはわかっている。けれども――。
「……わたしね、大好きだよ。……愛してる、和人」