□□□
セブンの発した爆声でオブシディア城の窓ガラスの多くが割れるという事件があった翌日。その日の朝にも、キリトはシノンと共にドロシーの元へと足を運んだ。
そこにはいつものようにシャスターとリピアという彼女の現在の両親と、兄であるダハーカ、妹のようなサライ、そして友人であるカイナンがいた。
全員が昨日と変わらない顔をしていたのが見えた時点でわかっていたが、ドロシーはベッドに横たわったまま動かないでいた。表情も変わっておらず、胸元が規則正しく上下しているだけで、その身体はそれ以外の動作を見せる気配がない。
全員に「おはよう」と
「おはよう、ドロシー」
「おはようございます、キリト。今日は平穏な日ですね」という、
キリトの隣にシノンが並び、ダハーカと三人連なって目線を低くし、ドロシーに声をかける。
「ドロシー、もうあんたが眠り始めてから一週間近く経ってるわ。あんたは《アメンク》の皆の英雄になったのよ。あんたに会いたがってる《アメンク》はいっぱいいるし、あんたの今の両親だって、あんたが目を覚ますのをずっと待ってるのよ。いい加減起きてあげなさい」
言葉こそいつもどおりのクールなシノンらしいそれであったが、声色はとても優しかった。恐らくも何も、シノンがそんな声をドロシーへとかけるのは初めての事だった。しかしドロシーはやはり無反応を貫いている。もし聞こえていたならば、「本当にシノンなのですか!?」と言ってびっくりしてきそうだ。
「ドロシーさん、今日もこの調子でしょうね……キリトさん達だけでなく、《アメンク》の皆さんも次から次へとお見舞いに来てくださっているというのに」
カイナンが悲しそうな顔で一人呟く。
先の戦争にて、ドロシーを筆頭とした《アメンク》達の活躍によって、彼女達を取り巻く状況は大きく好転した。迫害と差別をされ、
だからこそ、ゴブリン、オーク、ジャイアント、オーガといった多種多様の《アメンク》達の多くが毎日のようにドロシーの元へ足を運び、その目覚めをまだか、まだかと待ち続けている――というのが、カイナンからの話だった。
「……できました」
その直後に、部屋の隅の方から聞こえてきた声にキリトは向き直った。そこに居たのは紫がかった銀色の長髪と、白と金と紫で織りなされる厚い法衣が特徴的な、本紫色の瞳の女性。人界を頂点に君臨する管理者であるクィネラだった。
今、ダークテリトリーの統括者の代理をやっているはずの彼女がここに居るというのは予想外で、キリトはシノンと共に驚いていた。
「クィネラ、居たのか?」
キリトから問いかけられるなり、クィネラはゆっくりと部屋の隅からこちらへとやってきた。
「おはようございます、キリトにいさま、シノンねえさま」
その丁寧な挨拶を聞いて、キリトはシノンと一緒に「おはよう」の返事をした。直後にシノンが再度問いをかける。
「あんた、どうしてここに?」
そこで声を出してきたのはシャスターの方だった。
「俺が最高司祭殿に頼んだんだ。最高司祭殿はベルクーリがこれ以上ないくらいに信頼を寄せている人物で、この世界のあらゆる事を知っている人でもあると聞いた。もしかしたらドロシーを起こす方法を知っているのではないかと思ってな」
そういえば以前、シャスターは「人界の最高司祭殿とやらに頼むか」みたいな事を口にしていたような気がする。その通りの事を彼はやっていたらしい。そして、その頼みの通りにクィネラはやってきてくれたようだ。
「そうだったのか」
「はい。暗黒神ベクタをキリトにいさま達が討ってくださったのが一番の要因ではありますが、ドロシー様が決死の覚悟で神聖術を使って、暗黒神ベクタの洗脳を打ち破ってくださったおかげで、人界と暗黒界の方々が手を取り合い始めるようになったのです。そのような素晴らしい功績を働いてくださった方に、お会いしないでいる事はできませんでした」
クィネラの現状認識を聞いた後、シノンが疑問を投げかける。
「それでクィネラ。ドロシーはどうなの。起きそうなの?」
クィネラはドロシーを見下ろす。
「もう一度お話しさせていただきますが、ドロシー様が使われた神聖術は、普通の人がやろうものならば、その《天命》を全て消費したとしても、まだ発動に至る事のできないようなものです。それをドロシー様が単身で発動できたのは、ドロシー様が桁外れの《天命》をお持ちになられていたからです。しかし、規模が規模なだけに、本当に瀬戸際であったはずです。もし、発動の際にドロシー様の《天命》がほんの少しでも減少されていたのであれば、ドロシー様はご自身の命と引換えに暗黒神ベクタの洗脳術を破る事になっていました」
「……そうならずに済んでいたのは奇跡だったと」
ドロシーの兄の言葉に、最高司祭は
「ドロシー、《天命》をいっぱい使っちゃったせいで、病気になっちゃったの? 病気になっちゃってるから、起きないの?」
クィネラは視線をサライへ向け、首を横に振った。不安に怯える子供を安心させようとしている母親のような、優しい女性の顔をしていた。
「いいえサライ様、ドロシー様が目を覚まされないのは、《天命》の回復のためです。《天命》は何もしないでいても回復しますが、回復速度が最も早くなるのは就寝中です。ドロシー様のお身体は活動を止めて眠り続ける事で、《天命》を十分な値になるまで回復させようとしているのです」
「その
シャスターが苦い表情をすると、クィネラは再度頷く。
「はい。このまま放っておくだけでは、少なくとも一年はかかってしまうかもしれません。なので、これを使います」
そう言ってクィネラは静かに何かを床に置いた。いや、立てた。それは
その形はどう見ても――。
「点滴?」
見た目の雰囲気こそこの世界に馴染むデザインにされたもののようだが、確かに静脈注射用の点滴スタンドだった。あまり予想していなかった物の登場に首を
「わたくしが作れる物の中で最も効果の強い《天命回復薬》が入っています。こちらをドロシー様に静脈注射で与えるのです」
「それは、直接飲んだりできないものなのですか?」
「いいえ、経口摂取は可能です。ですが、今しがたお話しした通り、ドロシー様のお身体は呼吸以外の活動が止まっています。無理に飲ませようとすれば、
それで静脈注射という方法に出たのか――キリトは納得した。しかし、そんな方法は人界には普及していないはずであるため、周りが驚くのではないかと思っていたが、果たしてドロシーの関係者達は静かにしていた。
そう言えば、人界はアドミニストレータのせいで技術、文明レベルなどが長い間停滞していたが、ダークテリトリーは正常に文明発展を続け、蒸気機関と銃が普及するくらいのレベルになっているのだった。ここでは、静脈注射は一般的な医療処置として知られているようだ。
静観する者達の視線を受けながら、クィネラは流れ作業のようにてきぱきと処置を行い、一分後にはドロシーの右腕の静脈に《天命回復薬》が伝う管が通されたのだった。
「これで妹は良くなるのか、最高司祭殿」
ダハーカが一番知りたいであろう問いに、クィネラは頷く。
「はい、ただ眠っているだけの場合よりも、遥かに回復速度が上がります。無くなり次第、替えの《天命回復薬》を繋いでいけば、環境やご本人の状態にもよりますが、数日で目を覚まされるかもしれません。これで一安心でございます」
クィネラが自信を持った口調で言うと、キリトとシノンを除く全員が深い安堵の反応を示した。すぐさまシャスターが「恩に着る」と、リピアが「ありがとうございます!」とクィネラに礼を言った。ひとまず全員がクィネラの言葉通り安心した事だろう。
と思ったが、浮かない顔をしていた者が居た。カイナンだった。
「人界の皆様に聞いたところ、最高司祭様は幾多の神々を統べる神といいますか、神の中の神が持つそれと言える力を持っていらっしゃるというお話でした。そんな方のお作りになられる《天命回復薬》は、凄まじいんでしょうね……」
「カイナン、何が言いたい?」
ダハーカが目を半開きにしながら尋ねると、カイナンはクィネラに迫った。一瞬食って掛かろうとしているようにも見えたが、しかし攻撃的な姿勢はしていなかった。
「最高司祭様! その《天命回復薬》はおいくらですか!? いくらならば売ってくださいますか!?」
クィネラはびっくりしたような顔をしたが、キリトはそうはならなかった。寧ろ、やはりこうなったかという気持ちの方でいっぱいだった。
流石に《
「今、病院区画には多くの負傷者が入院を余儀なくされています! 彼らを助けるためにも、どうか、その《天命回復薬》をワタクシ達に売ってくださいませ! 族長レンギルにはすぐに話を付けますから!」
キリトは目を見開いた。カイナンはいつものように、てっきり自分の商売のために迫っているのだと思っていた。まさか、本当に病院区画の入院患者達を助けるために――?
「え、ええっと……」
しどろもどろするクィネラに、カイナンは更に迫る。
「それで、《天命回復薬》は暗黒界の
あ、違った――キリトは即座にそう思い直した。結局いつも通りのカイナンだった。クィネラの《物体生成能力》で大儲けを考えているだけだった。入院患者を助けたい気持ちもあるのだろうが、最後は自分達の利益にしたいという、何も変わっていない本心がそこにあった。
クィネラが昏倒するドロシーを助けるために作ってくれたのが、《天命回復薬》だというのに、それを売り物にしたいなんて、不謹慎極まりない。だが、キリトは何故だか怒る気にはならず、寧ろ変な安心感を覚えていた。《EGO化身態》になった後遺症は見受けられないのだと。
「えぇっと……はい、一応《天命回復薬》の作り方については、後で表にまとめてお渡しいたします」
「本当ですか!?」
「はい。ですが、その前に教えていただきたい事がございます」
「なんでしょうか!? 商工ギルドの総予算でも、一日の利益獲得率でも、何なりとどうぞ!」
カイナンは目を輝かせていたが、クィネラはそちらから目を背け――ドロシーの現在の父親といってもよい、暗黒騎士団団長へと振り向いた。
「ドロシー様が、人界人と暗黒界人との間に生まれた子供であるというお話は、本当なのでしょうか」
□□□
クィネラからの話はキリトに重要な事を思い出させた。ドロシーの本当の両親の事だ。母親こそは暗黒界人であるが、父親は人界人――とアンダーワールドの人々からは思われているが、本当は現実世界人。ラースの職員のうちの一人だったという話だった。
自分達のようにアンダーワールドへログインしてきて、そして一人の暗黒界人と恋をし、愛を育み、そして子を産むに至った。そしてその後は彼女達の記憶を曖昧にし、この世界を去った。一度はその一連の行為を身勝手と思い、怒りを抱いたものの、クィネラからの説得でそうは思わなくなった。
だが、その人物とはいったい何だったのか。ラースの誰で、何を目的としてそのような行為に及んだのか。その疑問を改めて思い出したキリトは、仲間の中で唯一無二のラースの職員の元へ向かった。
オブシディア城の一角、自分達現実世界人組のために設けられた部屋の一室のドアの前に立ち、軽い力で二回ノックした。中からの「入りなさいなー」という独特な言い方の女性の声を耳にしてから、ドアを開いて中へ入る。
自分達の使っているそこ同様に窓がなく、ベッドやテーブルや椅子があるだけの簡素な部屋の中に、その人は居た。リラン達、ユイ達をこの世に産み出し、今はラースの職員としてアンダーワールドの制作と運営に深く携わっているとされる、イリスだった。
てっきりどこかへ出かけていると思っていた彼女は、椅子に深々と座っていた。相当にリラックスしているように見える。テーブルには白い陶器のポットとカップが置かれていて、湯気が立っている。彼女の趣味からして、紅茶が入っているらしかった。
「おや、キリト君じゃないかい。どうしたのかな」
いつも通りの反応の仕方だった。《SAO》で出会った時から何一つ変わっていない、自分達の仲間の一人であり、シノンの専属医師であり、自分にとっての恩師であり、先生。そんなイリスの元へとキリトは歩み寄る。
「今日はどこにも行かないのかい。君にはアンダーワールドでやるべき事が無数にあって、休んでいる暇なんてないんじゃないかって思ってたんだ。だから結構心配していたのだけれど……」
「イリスさん、ラースの研究員の中で、アンダーワールド内の女性と関係を築いた人はいましたか」
キリトは何の前置きもせずに尋ねた。イリスは紅茶入りのカップを取ろうとした手を空中で静止させる。まるでこんな話が出てくるとは思ってもみないでいたかのような反応の仕方だった。しかしその顔は冷静を保った、いつもの《イリス先生》だった。
その赤茶色の瞳を、キリトへと向けてくる。
「……どうやら、既に行ってきていたようだね。それで、その話はどこから聞いて、何に関係しているんだい」
キリトは再び実直に、クィネラから聞いた話をイリスへと伝えた。話している最中、イリスは無言ではないものの、「ほぅ」、「ほほぅ」といった不思議な話を聞いているような反応をしていた。
「あのドロシーって娘が、暗黒界人の母親と人界人の父親の間に生まれたハーフだって言われてたけれど、本当はアンダーワールド人と現実世界人のハーフである、と。そしてその父親こそがラースの職員で間違いない……と」
「イリスさん、そういう人は居ませんでしたか。アンダーワールドに潜っている最中に、アンダーワールド人と関係を築いて、恋人同士になり、夫婦になった男性職員が……」
イリスはカップを手に持ち、紅茶を軽く
「あぁ、居たよ。私や菊岡さん、比嘉君なんかは完全に開発と運営担当だったから、やらなかったけれども、ラースの職員の多くがテストや観察のためにアンダーワールドに潜っていたんだ。基本的には神聖術師のアカウントを使っていると言っていたような気がするよ。キリト君達のようにゲーム歴の長い人の中には、剣士アカウントを使って潜ってる人も居たようだけれどね」
ラースの内部事情を頭の中に入れながら、キリトは沈黙で続きを促した。その通りにイリスは続けてくれた。
「オーシャン・タートル内じゃなく、六本木支部辺りだったかねえ。そこの職員――いや、テストプレイヤーと言うべき人達の中に、一際アンダーワールドに潜っている時間が長い人が居たんだ。その人はまるで本当にアンダーワールドに情熱を注いでいるような感じで、アンダーワールドの小さな異変も見逃さないような細かい観察をしてくれていながら、尚且つ行動範囲はアンダーワールド運営に強い影響が出てしまわない程度。まさしく模範的な職員って言われていた。だから、話を聞いた菊岡さんは彼を高く評価し、私もよくやってくれていると思っていたよ」
そう語るイリスの表情はどこか嬉しそうだった。その職員がアンダーワールドに情熱を注いでいるようだったという事は、彼が自分達のようにアンダーワールドを愛していたという事と同じと考えていいはず。それがイリスにとっては嬉しい事のようだ。
菊岡や比嘉はアンダーワールドを実験場程度にしか思っていないのだろうが、イリスは違う。イリスはリランやユピテルやクィネラ、ユイやストレア達を制作物ではなく我が子と思い、そして「作った」ではなく「産んだ」と言い切るほどに、AIに対する特別な思いや感情を持っているくらいの人物だ。
そんな彼女が、AI達が生きる世界をただの実験場程度に思うわけがない。このアンダーワールドを本当の異世界のように思い、自分達がそう思っているように、大切に思ってくれている。きっとそうなのだろう。
たまに怖いところもあるけれども、この人がアンダーワールドの運営者の一人で良かった――キリトはそう思いながら話を聞いていたが、直後にイリスの顔は曇った。
「けれども、彼は最終的に解雇とまではいかずに済んだものの、プロジェクト・アリシゼーションから外されてしまったんだ」
キリトは首を傾げる。
「どうして。アンダーワールドの運営をしっかり助けている、模範的な職員だったんでしょう。プロジェクト・アリシゼーションを続けていくのには必要な人じゃないですか。……まさか、何か犯罪とかそういうのをやってしまったとか」
「いやいや、彼は何一つ法に触れるような事はしていないよ。ただ、ラース内の規律を破ってしまっていたんだ。彼の報告と、実際のアンダーワールドで彼が活動した範囲の記録をよぉく照らし合わせたところ、一部が虚偽報告だったとわかってしまったんだ」
イリスは深い溜息を吐いた。
「……君の言った通りさね。彼はアンダーワールドの観察とテストを繰り返すうちに、このダークテリトリーに生きる一人の女性と恋をしてしまったのさ。それで交わって子を成すにまで至ってしまった。
更に、その子供達に本来教えるべきではない英語――神聖語や神聖術まで教えちゃってたんだ。流石にそれは人工フラクトライトの育成及びその後のアンダーワールドの行く末にまで影響が出てしまうかもしれないとして、ラースは厳しく受け止め、彼にアンダーワールドで関わったアンダーワールド人全員の記憶を消去させ、彼をプロジェクト・アリシゼーションから除外した。これが一度は模範的な職員と評価された彼の結末だよ」
神聖術師としてアンダーワールドに降り立ち、ダークテリトリーの女性と恋に落ち、子を成した。その後は子供達に様々な神聖術、神聖語を教えていったが、ある時その人達が持つ自身との記憶のほとんどを消去し、この世界より姿を消した。
完全にドロシーとダハーカから聞いた、ドロシーの実の父親の話と一致していた。やはりドロシーの父親は、アンダーワールドへのダイブを担当していたラースの職員の一人だった。
「それで、キリト君。そんな事を私に聞いてどうするんだい」
「イリスさんはその人の事をどう思いますか。その人が、ドロシーの母親となった女暗黒騎士の事を、生まれたドロシーの事を、本当に愛していたと思いますか」
イリスはテーブルに肘を置き、頬杖をついた。その表情は徐々に柔らかい微笑みとなっていく。
「それ、本当に言わないと駄目な事かな? 少なくとも、彼は本気でその女性の事を妻として愛していたと思うよ。ロールプレイとかそういう偽りのモノじゃあなく、真実の愛を抱いて、その女性を妻として愛していたからこそ、ドロシーという娘を成すに至った。
それが規則に違反している事だとわかっていても止めようとせず、その人との愛を育み、そして産まれた子供にも自然と愛情を注いだ。そうだからこそ、ドロシーは君達の話から聞く、真っ直ぐな娘に育った。そうじゃあないのかい?」
キリトは自然と頷いていた。ドロシーは現実世界人であり、尚且つこの世界を管理するラースの一人である父親の事を心の底から愛している。その愛情が、あの娘の清らかな人間性の原点だ。
もし、ドロシーの父親がラースの上層部だとか菊岡のようにアンダーワールドを実験場扱いしているような人間だったならば、そもそもドロシーは生まれなかっただろうし、生まれたとしても、父親に愛情を注がれない不完全な環境で育った子供となり――下手すればディー・アイ・エルのようになっていたとしても不思議ではなかっただろう。
今のドロシーがあるのは、アンダーワールドを、そこに生きる人を愛した職員が居たおかげだ。その者と同じ職場で働いていて、今はキリトとテーブルを挟んで座っているイリスは、ゆっくりと顔を近付けてくる。
「キリト君。君も同じ事を思っているだろう? この世界はただの実験場じゃあなく、アンダーワールドという名の異世界。人々が営みを続け、ちゃんとした歴史を歩んできている、一つの惑星であると。そう思っているからこそ、君は、君達はこんなにもこの世界のために頑張っている。そうだろう?」
キリトはもう一度頷いた。このアンダーワールドは、ラースの上層部や開発者からすれば、ただの文明シミュレータや、実験場程度にしか思えないだろう。だがそれは、実際にこの世界で生きた事がないからこそだ。
この世界はイリスが言った通りの、異世界なのだ。他のVRMMOなどと同じようなものではなく、確かに人々が生きていて、現実世界同様に営みが行われ続け、そして歴史が紡がれて、輝いている。
ドロシーの父親は、その事にいち早く気付いたからこそ、女暗黒騎士と愛し合い、そしてドロシーという子供を作るに至った。全てはこの世界が、歴とした《世界》だからこそ起こり得た事なのだ。
「はい。この世界はただの実験場じゃありません。人々が暮らして、懸命に生きている世界そのものです。現実世界と本当に同じの……かけがえのない場所です」
キリトはきっぱりと言い切った。その様子をイリスはまじまじと見つめてきていたが、やがてその口を再度開いた。
「……約束してくれるかしら。その気持ちを絶対に忘れないって」
あまりに唐突な言葉にキリトはきょとんとしてしまった。イリスが《素の口調》で言ってきたのも、余計に拍車をかけてきていた。
「え?」
「約束できるのって聞いているの。この世界はかけがえのない場所だって事を忘れないでいる事を、約束できる?」
それに対する答えは既に決まっている。というか、既に話している。だからこそ問われている事そのものが疑問であったが、ひとまずそれを置いておき、キリトは返答した。
「はい、約束できます」
イリスはじっとキリトの瞳を覗き込んできた。こちらの真意を探ろうとしているかのように、赤茶色の瞳の中に光が
「……安心したわ。そう言ってもらえて」
「え?」
キリトがもう一度首を傾げると、イリスはすっと背筋を伸ばして、顔を遠ざけた。
「キリト君がかけがえのない場所だと思っているのであれば、素晴らしい世界だっていうお墨付きをもらえているっていう事だ。なら、問題なく我が子達に楽しい時間を過ごさせてあげられるってわけだ」
「え? え?」
キリトは疑問符で頭の中がいっぱいになりそうになっていた。イリスはそんなキリトを面白そうな目で見て、
「キリト君。シノンとリラン、ユイ達、ストレア達を連れておいで。皆でお出かけしようじゃないか」
と言ったのだった。