キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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24:母として

          □□□

 

 

 スーパーアカウント《創世神ステイシア》を用意してもらい、アンダーワールドへ再ログインしてから数日が経過した。

 

 人界と暗黒界の正面衝突という、双方に大きな傷跡を残す戦争があったが、アンダーワールドの人達はラースのスタッフが思うよりずっと(たくま)しかった。既に前を向いて復興への道を歩み始めている。

 

 当初は人界と(にら)み合っていた暗黒界も、実質的に戦争を推進していた大教皇及び暗黒神ベクタを敵視するようになり、和平の方向へ舵を切った。各種族の間で盛んに話し合いがおこなわれ、今度こそ人界と暗黒界の間に和平条約が締結されるのも時間の問題になりつつあった。

 

 世界は良い方向に進んでいる。だが同時に、アスナは不気味さも抱いていた。何もかもがとんとん拍子すぎて――静かすぎる。

 

 他の皆は《アミュスフィア・アクセラレータ》を使用したアミュスフィアで自宅からログインしているが、自分達はオーシャン・タートルの《STL(ソウル・トランスレーター)》から、このアンダーワールドへダイブしている。

 

 オーシャン・タートルは今、PoH(プー)と暗黒神ベクタ/サトライザーを含む武装産業スパイ達の襲撃を受けており、既にメインコントロールルームと隣接する《STL》ルームが落とされた。

 

 館内マップにも記されず、メインコントロールルームからも位置を把握できない場所で、何重もの隔壁の先にあるサブコントロールルームの、サブ《STL》ルームでダイブしているのが自分達の状況だ。

 

 隔壁は一枚一枚が大規模な設備や、オーシャン・タートルの支柱を吹き飛ばすほどの威力の爆弾がないと破れない。

 

 そのうえ、クラッキングを仕掛けても開かないアナログ制御のため、ゼロではないものの、ひとまず武装産業スパイ達の魔の手が及ぶ危険性はないとされている。

 

 それに、現実世界から再ログインしたばかりで菊岡達との通信が繋がっていた時、アンダーワールドの時間は現実世界と等倍になっていた。しかし今は菊岡達と通信ができず、数日経過しても変化が起こっていない。

 

 アンダーワールドの時間が再び加速状態へ戻ったと考えるのが妥当だろう。こちらで何日も経過しているのに、あちらでは数秒しか経っていないかもしれない。だから、ここで一週間、一ヶ月程度は安心して過ごせるかもしれない。

 

 けれども、それは同時にラース側からの迅速な対応は望めないという事だ。いくら菊岡達、自分達の身体が比較的安全な場所に居るとはいえ、自衛隊はサトライザーとPoHを含む武装産業スパイと今も交戦を続けている。

 

 敵側がどれくらいの数で来ているのかは定かではないが、絶対数は明らかに自衛隊の方が上だろう。だから、自衛隊が負ける可能性は低い。しかし、問題はそこではない。

 

 キリトが言っていたように、このアンダーワールドは最悪の脅威であるハンニバルに狙われた。彼の者の忠臣であるPoHがアンダーワールドにログインしてきたのが何よりの理由だ。武装産業スパイ達も、ハンニバルの手先の者と考えるのが自然だろう。

 

 だから、安心して暮らしている余裕などない。PoHとサトライザーが現実世界へと撃退された今、ハンニバルは次の手を打とうとして来ているはずだ。それも、これまでとは比較にならないほどの大規模な作戦に打って出てくるはず。

 

 ――……ナ……スナ

 

 ハンニバルは何を仕掛けてくるつもりだろう。きっと自分達が絶対に乗り越えられない、服従するしかないやり方をしてくるはずだ。

 

 ――……アスナ

 

 でも、こちらにはスーパーアカウントが――。

 

「ねえ、アスナ」

 

「きゃああああああああああッ!!?」

 

 肩を叩かれた衝撃と呼び声に、アスナは飛び上がるように驚いて叫んだ。

 

「うわっ!?」

 

 部屋に木霊(こだま)した絶叫が収まった頃、自分のモノではない声が混ざっていた事に気が付き、ようやくアスナは我に返った。咄嗟(とっさ)に振り向くと、一人の女性がすぐ傍に居た。

 

 ユイのように黒く艶のある長い髪に、クィネラのようなモデル体型、ストレアと同じ大きな胸。そして見慣れた白いコートとスカートのセット。ユピテルの産みの母親、イリスだった。

 

「イリス先生!?」

 

 まるで何よりも苦手な幽霊(ゴースト)に出くわしたような反応をしたが、今のイリスはそんなアスナを映す鏡だった。全く同じように目を見開いている。しかし二秒後には、心臓を落ち着かせるように胸に手を当て、口を開いた。

 

「ひゃー、びっくりした。どうしたんだいアスナ。そんな大声出して」

 

 それはこっちの台詞です――そう言うべきかアスナは迷った。確かにイリスに声をかけられてびっくりした。心臓が口から飛び出るかと思った。

 

 けれども、イリスが部屋に入ってきた事に完全に気付かなかった。それくらい深く思考に(ふけ)っていた。悪いのはわたし? それともイリス先生?――ひとまずその疑問を腹に押し込んで、アスナはイリスに向き直った。

 

「イリス先生、来てたんですか?」

 

「あぁ、廊下を歩いてたユピテルに聞いたら、アスナなら部屋に居るって教えてくれてね。そんでもってあの子の言う通り、君がここに居たんだが、声かけても全然反応しないから……」

 

 いよいよ、どうしたのかと思い、肩を叩いてきた――そういう事だろう。思考を巡らせ始めたのは、彼女の言う通り、ユピテルを部屋の外へ送り出した辺りからだ。そこから今まで、イリスが部屋に入ってきたが、自分は気付かなかった。そして心配してくれたイリスを驚かせてしまった。

 

 なんて失礼な事をしてしまったんだろう。胸中から恥ずかしい気持ちが湧き出て、顔にまで出そうになったところで、イリスは意外そうな顔をした。

 

「もしかして考え事に夢中になってて気付かなかったとか、そういうパターンかね」

 

「……はい」

 

「ほぇー、珍しい事もあるもんだ。そういう事はキリト君がよくやってるけど、まさかアスナがやるとは」

 

 返す言葉も見つからない――アスナはそう思った。前にシノンと話している時、「キリトはたまに考えに耽りすぎて、全然反応しなくなるのよね」と、彼女は困り顔で言っていた。当時はキリトの意外な欠点を知れて、「そうなんだ」と苦笑いしていたが、まさかシノンに困られるキリトと同じ事を自分がしていたなんて。

 

 今の話をシノンや皆が聞いたらどんな反応をするやら。確実に笑われるか、心配されるかのどちらかだろう。現にキリトは考えに耽りすぎて危険な目に遭う事が度々あったと、シノンは言っていた。アスナまでそうなったのかと、皆心配するに違いない。

 

「まぁいいさ。君だって考える事がいっぱいありそうだし。この先についても色々考えなきゃいけないのも事実だからね」

 

 イリスの言葉にひとまず(うなづ)き、アスナはテーブルを見てはっとした。来客をもてなす茶も菓子も、何も用意していなかった。

 

「今、お茶()れますね」

 

 アスナはそう言って茶や茶器が収納された棚へ向かった。そこでイリスに呼び止められる。

 

「まぁ待ちなさいな、アスナ。慣れない場所でいつも通りにするのは難しいだろう?」

 

「いえ、お茶の淹れ方くらいは身に付いてますんで……」

 

 棚の扉を開き、ティーカップをまず手に取ってテーブルへ運んだ。もう一度棚に戻り、ティーポットを手に取る。シノンやリラン、クィネラから教わったやり方を思い出し、ポットに茶葉を入れ、神聖術でお湯を作って注ぐ。あっという間に紅茶で満たされたポットを持ってテーブルへ戻った。

 

「できました、イリス先生」

 

 報告したが、イリスは「んんー……」という何とも言えない声で反応した。この反応はいったい? 彼女の好きな紅茶を淹れたはずなのに。もしかして間違えた?

 

 確認すべく、アスナはティーポットから中身をティーカップへ注ぐ。赤橙色の香り立つ茶。紅茶だった。

 

「えっと、紅茶です……」

 

「うん、ありがとう」

 

 イリスはそのままの声でそう答え、「座るね」と言ってテーブルに備え付けられた椅子に腰を下ろした。アスナも対面の椅子に腰を掛ける。イリスはティーカップを手に持ち、ゆっくりと口元へ運んだ。音は全く聞こえないが、喉が動いているのが見えたので、飲んでもらえているとわかった。

 

「どう、でしょうか……」

 

 イリスはティーカップを口から遠ざけた後に、アスナの問いかけに答えた。

 

「あぁ、美味しいよ。この世界でのお茶の淹れ方をしっかりと熟知しているからこそ出せる味と香りだ。流石アスナだね」

 

 イリスは満面や弾けるとまではいかないものの、笑顔でそう答えた。しかし、それがアスナに安心を与える事はなかった。アスナは本題に入ろうとする。

 

「それで、イリス先生……その、何のご用事でしょうか?」

 

 イリスはアスナをじっと見つめた。紅玉のようなリランとは異なる、赤茶色の瞳がしかとアスナの姿を捉え、映し出す。彼女が全国に名を馳せた精神科の名医である事もあってか、まるで心の憶測を見透かされるような気持ちになる。

 

「アスナ」

 

 そんな彼女からの呼び声に、アスナはまたもやびっくりする。わかりやすく身体がびくりといった。

 

「はい!?」

 

「硬い」

 

「え?」

 

 アスナは目を点にした。硬いとは何の事だろう? 

 

 お茶が硬い? どういう事?

 

 もしかしてお茶を淹れる際に使ったお湯のもとの水が硬い、硬水だったのだろうか? お湯は神聖術、それも《創世神ステイシア》だからこそ出せる高度なものだったから、硬水になったのだろうか。

 

 連想ゲームのように疑問が湧いてきて止まらない。

 

「アスナ、硬いのはカップでもお茶でもなくて、君だ」

 

 苦笑いするイリスからの答えでアスナはもう一度「え?」といって、下げていた顔をイリスに向け直した。

 

「……アスナ、まずは肩の力を抜いて、ゆっくり深呼吸して」

 

 そう言われるまで、アスナは肩に強い力が入ったままになっている事に気付かなかった。その必要はないと自分に言い聞かせるように力を抜き、イリスに言われた通り深呼吸を繰り返した。三回ほどやると、無駄な力が適切な力に変わり、気持ちも少し軽くなった。

 

 そこでイリスは(うつむ)き加減になり、溜息を吐いた。

 

「……やっぱりそうか。いや、そうだよね、普通」

 

「イリス先生?」

 

 首を傾げるアスナに、イリスは再度顔を向けた。申し訳なさそうな表情に、アスナはもう一度驚きそうになる。

 

「アスナ。君……私が怖いって思ってるだろう」

 

 アスナは目を見開いた。――図星だった。皆が一緒にいる時はそうでもないが、こうしてイリスと面と向かうと、不快な緊張感が身体を縛り付けてくる。そしてイリスからどのような言葉が飛んでくるのかと身構えてしまう。たまらないくらいではないが、怖いのは確かだった。

 

 けれども、あなたが怖いですなんて面と向かって言うほど失礼な事はない。アスナは精一杯否定に取り掛かる。

 

「え、ええっと、そんな事は……ないです」

 

「無理しなさんな。今日はその事で謝りに来たんだ」

 

 アスナはきょとんとする。何が何だかな気持ちになっていると、イリスは軽く頭を下げてきた。

 

「アスナ、すまなかった。あの時は私も流石に言い過ぎていた。あんなふうにぼろくそに言ってしまって、悪かったよ」

 

 それが何を指し示しているのか掴めて、アスナははっとした。

 

 イリスが言っているのは、《SA:O(オリジン)》でユピテルが死にかけ、そして全てを取り戻すに至った事件の時の事だろう。それはアスナにとって《SAO》に閉じ込められた時よりも衝撃的で、忘れられない、人生観や価値観が全て変わった出来事でもあった。一応アスナは確認を取る。

 

「イリス先生、もしかしてそれ、《SA:O》でユピテルが……?」

 

「そう、その時の事だ。後になって冷静に考えたら、私もあそこまで言う必要はなかったと思い直したんだ。確かに頭にきてたんだけど、それでも私は言い過ぎていた。君に不適格な言葉を投げつけてしまった。その時からだろう、君が私を怖いと思うようになったのは」

 

 アスナは口を開けなくなった。そのとおりだった。今、少しでも思い出そうとすれば、あの事件の光景、言葉、衝撃の全てを昨日の事のように鮮明に思い浮かべられる。

 

 自分のせいで追い詰められ、死にそうになり、苦しみのあまりハオスと呼ばれる姿になってしまったユピテル。自分の悔しさしか考えられず、そうなっている事に気付かなかった自分。そんな愚かを極めた自分へのイリスからの言葉。

 

「……」

 

「……アスナ、本当にごめんなさい。あの時はわたしも頭に血が上りすぎていたわ。本当は、あそこまで言う必要なんてなかったのに、わたしこそ冷静な判断ができなくて、あんな事を言ってしまった。やりすぎて、ごめんなさい」

 

 イリスは本来の口調に戻り、頭を下げた。アスナは思わず言葉を出せなくなる。こんなふうに謝られたのは初めてだったからだ。だが、すぐに頭が回転力を取り戻し、思考が再開される。

 

 あの事件の時の事はいつでも思い出せる。イリスからの言葉も脳裏に焼き付いている。

 

 形は確かに罵倒だったかもしれない。けれども、あれは全て事実であり、言い返せない正論だった。自分がどれだけ愚かだったか、どれだけの苦痛を、愛する息子であるユピテルに与えていたかの指摘であり、気付かなかった自分へ与えられた真っ当な罰だった。

 

 もし、あの時あそこまで言われていなかったなら、いや、イリスが言ってくれなかったなら、今の自分はなかっただろうし、ユピテルだってどうなっていたか定かではない。少なくとも、あの時のイリスの言葉は罵倒ではなく、救いだった。

 

「頭を上げてください、イリス先生。わたしは、あの時イリス先生に救われたんです」

 

 イリスは顔を上げてきた。きょとんとしているような表情がそこにあった。

 

「イリス先生、あの時言ってくれましたよね。「あなたはどれだけ都合がいいのよ」って。本当にその通りでした。あの時――あの頃のわたしは、ユピテルの事を、本心を何も知ろうとせずに、自分の都合だけを考えていたんです」

 

 悲しそうな顔をした父が言っていた、「ユピテルはAIとしては出来損ないだ」という何も知らないレクト社員達の悪く固まった価値観と、「その通り」と言ってそれを肯定した母とのやり取りを聞き、底知れぬ怒りを抱いた時の記憶が(よみがえ)る。けれども、その怒りが今のアスナを侵喰(しんしょく)しようとする事はなかった。

 

「わたしは、ユピテルに治療される前の母のようにはならないって決めていました。自分の子供を自分の都合の良いように作り替えようとするような母親にはならないって。けれども、わたしはユピテルを少しでも罵られたら、自分が罵られたような気持ちになってしまって……だから、もう罵られるものかと思ってしまって、ユピテルを自分の都合の良いように作り替えようとしていたんです。それが母と同じ事をしてるって気が付かなくて……だから、あんなふうになってしまったんです。あの時、わたしは本当に悪い事をしていたから、イリス先生にあそこまで言われても、仕方がなかったんです」

 

 心が徐々に軽くなってきた。次から次へ言葉が出てくる。

 

「ユピテルが記憶を取り戻して、今の姿になってから、わたしはもっとユピテルが大好きになりました。髪の色とか瞳の色とか、わたしと同じ色になってるから、本当に血の繋がった子供って気がしちゃって、今までよりずっと可愛く感じられて。

 何を欲しがってるのか、どうしてもらいたいのかがわかるようにもなってて、けれど、何をしたらいけないのかっていうのもわかって……ユピテルとの毎日があの時の前よりもずっと楽しくて仕方がないんです。この前なんてユピテルが、わたしに料理を作ってくれて――」

 

 そこまで言いかけたところで、アスナはまたしてもはっとする。ユピテルが記憶を取り戻し、今の形になったのは、あの事件の際に容姿情報を含んだユピテルの内部が著しく破損し、その修復のために自分のアバターのデータを吸収したためである。

 

 しかしそれは同時に、自分がユピテルを追い詰めなければ起こらずに済んだ事である。そして、あの奇跡が起きたからこそユピテルは助かり、生きている。

 

 今の自分の言っている、ユピテルが可愛くなって毎日が楽しくなったという話は、「あの事件で酷い事をしたけれども結果オーライになってよかった」と思っていると受け取られても仕方がない内容ではないか。

 

「あ……」

 

 またイリスに怒られても仕方がないような事を言っている。そんなつもりで言ったんじゃない――それはあの時言ってイリスに一蹴された言い訳だ。

 

「え、えと、イリス先生」

 

 恐怖が一気に突き上げてきて、顔が青ざめてきそうになったその時だった。急に視界が暗くなり、顔に柔らかくて暖かい、好ましい感触の物が当たっている感覚に包まれた。顔だけではない。背中にも暖かさを感じる。

 

 それがイリスに抱き締められているが故とアスナが気付いたのは、数秒後の事だった。そして、アスナがこうしてイリスからの抱擁を受けたのは、初めてだった。

 

「……よかった」

 

「え?」

 

 優しい声が耳に届き、背中に心地良さが一定間隔で起こる。イリスがその手で背中を撫でてくれていた。

 

「アスナ……立派になったわね。あなたは正真正銘の、ユピテルのかあさんよ」

 

 アスナはきょとんとしたまま動けなかったが、やがて首を横に振った。

 

「……今でも不安になるんです。ちゃんとした母親になれているかとか、あの時みたいにユピテルを私物みたいにして、わたしの一方的な願いを押し付けようとしてないかとか……また、そういう事をやってしまうんじゃないかって……」

 

 イリスの抱き締める腕に力が入る。

 

「いいえ、あなたはもう大丈夫よ。あなたは、きちんとユピテルを一人の子供として見る事ができている。あなたは本物の愛情を、ユピテルのたった一人の母親という責任をしっかり持って……ユピテルと接している。もうあの時みたいにユピテルを私物化しないし、あの時のような過ちを繰り返さないわ」

 

 イリスの声はより優しいものとなり、そして極まったものとなった。

 

「アスナ、あなたはあの子の母親として、とても適格だわ。ありがとう」

 

 それは、あの時とは真逆の言葉であり、アスナが最も欲していた言葉だった。

 

 イリスはあの事件の時、「アスナは母親として不適格だから」と言って、ユピテルの初期化する事で直そうとしていた。その時にようやく、アスナはここまで至った原因の全てが自分自身である事に気が付き、許しを乞うた。イリスがそれを聞き入れてくれたのもまた、奇跡だった。

 

 それ以来、アスナの胸の奥底で、自分はユピテルの母親として適格なのかという疑問がこびり付いていた。ユピテルを愛おしく思うと同時に、本当に心の底からそう思えているのか、あの時みたいな怒りと劇場に駆られたりしないか、不安が湧いてきていた。

 

 その不安の源泉が、ついに断たれた気がした。現に今、その不安が湧いてくる気配が皆無になっている。心のどこを探っても、母親として不適格かもしれないという気の根源は見つからなくなっていた。

 

 まるで穏やかな海に浮かんでいるような感覚になってきて、胸の奥から熱い何かがゆっくりと出てきた。それは鎖骨の間を通り、喉を通り、そして顔へと昇ってきて、目にまで到達したところで涙として溢れ出てきた。たまらないほどの嬉しさを源とする涙だった。

 

 それは抱き締めてくれているイリスの胸元へと吸われていくが、イリスは変わらずに受け入れて、アスナの背中を撫でてくれていた。

 

「……アスナ。聞かせて」

 

 アスナは顔を上げた。イリスの優しい光の瞬く瞳と、自分の琥珀色の瞳が交差する。

 

「あなたにとってのユピテルは?」

 

 アスナは心の内で全てを思い出していた。その中で一際強い光を放っていたのは、ユピテルの弾けるような笑顔、そして自分を呼ぶ声だった。そんなユピテルについて思う事は、あの時から変わらず、ただ一つ。

 

「……わたしの、たった一人の、可愛い息子です」

 

 それ以外の何物でもないという気持ちを、アスナは伝えた。受け取ったイリスのとても優しい微笑みは、今までアスナが一度も見た事がないものだった。

 

「……その気持ち、忘れては駄目よ――」

 

 とイリスが言いかけたその時だった。

 

「えっ、ええッ!?」

 

 部屋に一際大きな声が響いてきた。アスナはきょとんとして、イリスに抱き締められたまま、そちらに振り返る。先程部屋から出ていったはずのユピテルが、いつの間にか戻ってきていた。酷く驚いたような顔をして、こちらを見ている。

 

「どうしたの、ユピテル」

 

 いつものように尋ねたところ、ユピテルは表情を変えないまま呟くような口ぶりで言った。

 

「……かあさんがアイリに抱き締められてるところ、初めて見ました……」

 

 それはこうなった時にアスナも思っていた事だった。当然それを見るのはユピテルも初めてだから、驚いて当然だろう。直後、イリスはユピテルに顔を向けた。

 

「ユピテル、おいでなさいな。あなたも一緒に抱き締めたい」

 

 ユピテルは目を丸くする。急に何を? と言いたそうだ。アスナはイリスに続く。

 

「おいでユピテル。わたしもあなたを抱き締めたいの」

 

 そこでユピテルは「何が何だか」と思っていそうな顔をしていたが、やがてそれを柔らかい微笑みに変えて、歩み寄ってきた。

 

 そうしてすぐ傍までやってきたユピテルを、アスナは胸の中に招き入れる。その上から、イリスが再度抱き締めてきた。

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