遠目からでも虹色の光のラインが目立つ白亜の巨塔に、キリト達は辿り着いた。
見た目はかつての浮遊鋼鉄城にそっくりだが、実物より細長く小さい。入口の前から見上げても頂上は見えなかった。
この《塔》の元になっているアインクラッドは全百層からなる巨大な建造物だった。冷静に考えると、迷宮区などのダンジョンを全て取っ払い、フィールドを全て居住区にすれば、数百万から数千万人――何なら一つの国の国民全員を収容できるくらいだったとわかった。
この《塔》はどうなっているのだろうか。まさか中身までご丁寧に再現されていて、一層から百層まで登っていかなければならないのだろうか。
だが、足踏みしている事は許されないだろう。ここで自分達が立ち止まっていれば、次にハンニバルが何を仕掛けてくるかわかったものではない。意を決したキリトは皆に号令して、《塔》の内部と外界を隔てるアンティークな様式の巨大扉を開いた。
狼竜形態のリランが通ってもまだ余裕のある扉は、まるで自動ドアのように開かれた。見えてきたものにきょとんとさせられた。荘厳なエントランスや武装した未知の軍勢が待ち構えているとばかり思っていたそこは、とても広大な――何もない部屋だった。
千人以上を収容できる広さがあるものの、本当に白い壁と白い床だけで構成された部屋だった。強いて言えば壁と床が純白の大理石でできているくらいで、他に特徴はない。
当然周りの仲間達は「なんだこれ?」と怪訝な顔をして口々に言い出し、部屋のあちこちを確認し始めた。壁を触ったり床を蹴ったりしてみるが、何の異変も起こらない。
いよいよどうなっているのかとキリトが仲間達と話し合おうとした時、変化が起きた。連合軍の最後の一人が部屋に入った途端、開いていた扉が自動で閉まったのだ。
戦士達が一斉に「閉じ込められた!?」と声を上げたところ、部屋全体がガタンと揺れた。間もなくして、身体が上方向に運ばれていっているような感覚が起きた。
昇降盤で下層から上層に登っている時の感覚だ。本拠地にそれがある整合騎士達が「昇降盤?」「こんなに巨大な昇降盤があるのか」と驚いていた。それを聞いた暗黒界の戦士達は「昇降盤? 昇降機だろう?」と口にする。
オブシディア城を本拠地とする暗黒騎士団以外もそう言っている辺り、人界ではセントラル・カセドラルにしかない《昇降盤》が、暗黒界では《昇降機》として一般普及しているのだろう。ここでも文明の差を見るとは。そんな呑気な事を考えている場合ではないのに、とキリトは思った。
しばらくすると、千人以上の大軍団をまるごと運ぶ昇降機が止まった。塔に辿り着いた時と同様に自動で扉が開かれる。キリト、ベルクーリ、シャスターを先頭にして、連合軍は昇降機を出た。
全員が言葉を失った。そこは白い鉄製の床で作られた回廊だった。目線を前へ向ければ奥へと続いているのがわかる。だが、問題はそこではなく、壁側にあった。回廊の壁はガラス張りになっていて、外の風景を見る事ができた。
そこに広がっていたのは――広大な街だった。建造物は中世ヨーロッパからヴィクトリア朝、明治時代、近代、現代と様々な時代の様式が複雑に混ざり合った外観で、外壁のほとんどが白で統一されている。明らかにアンダーワールドを上回る文明の技術で作られているが、《GGO》のような未来世界には達していない。
西洋、東洋、日本の歴史的な文化が不和を起こさない奇跡的な調和で混ざり合う、
隣で仲間達が色々話しているが、目の前の光景に意識が集中してしまって、内容を把握する事はできなかった。そのおかげか、キリトは眼下の街の異変に気付けた。
確かに美しい街並みだ。何もかもが輝いて見えるのは、区画から建物のデザインや大きさまで、まさしく黄金比で作られているからだろう。どうせ住むならこういう街がいい。この街で仲間達と日々を過ごしてみたい――そんな感情さえ与えてくる、美しさと生活感を両立した街に人の姿は見えず、静まり返っている。
周りの仲間達はざわめいているが、「あんな建物見た事がない」「なんて綺麗な街なんだ」「ここはいったい何なんだ?」「暗黒界の技術が頂点ではなかったのか?」など、街の様式や建築技術にばかり目が行っており、人が居ないという最大の異変には気付いていないらしかった。
これだけの街ならば、無数の人影を認められてもおかしくはないどころか、そうでなければ逆に不自然だ。《街としては不自然な現象》が起きている。まるで丹精込めて作り上げられたジオラマじゃあないか――そう思ったところで、ようやくキリトは我に返った。
この街の正体も異変も気になるが、今それを突き止めるのが先決ではないうえ、立ち止まっている場合でもない。
キリトが「進もう」と声掛けしたところ、仲間達も我に返って行軍を再開した。しかし、その間にも回廊の外から見える風景を、アンダーワールド人も現実世界人も見続けていた。
「来たか。歓迎しよう、諸君」
美しくも不自然な街を貫く回廊をしばらく進んだところで、不意に声が聞こえてきた。いつの間にか広大な空間に出ていた。リランが狼竜形態になっても問題ないどころか、連合軍の全員が入ってもまだ余裕がある巨大な部屋だ。思い出されたのは、《SAO》で次の階層への扉の守護者が待ち受けていた、いわゆる《ボス部屋》だった。
その最奥部に人影が二つあった。一人は短く切り揃えた金髪で、この世界から浮いたデザインのコンバットスーツに身を包んだ長身の男。もう一人は艶のある黒い長髪を
サトライザーと黒龍ジブリルだった。暗黒界にとって因縁の相手が、次の階層への扉を守っているかの如く立ち塞がっていた。
「ようこそいらっしゃいました、皆さ――」
見る男の心を掴もうとする可憐なジブリルが、如何にも芝居がかったお辞儀をしようとした瞬間、その顔面を黒い爆発が襲った。あまりに一瞬の出来事であったが、真横を黒い何かが通っていったのが見えていた。
首だけを動かしてそちらを見たところ、暗黒術師ギルドのリーダーである魔女ディー・アイ・エルが右腕を突き出していた。何をしたのかは言うまでもない。
「ディー・アイ・エル……」
比較的離れた位置にいるシャスターが声を掛けると、ディー・アイ・エルは答えた。これまでの彼女と言えば、妖艶な女性のふりをしつつ常に獲物を狙う獣の顔をしていたものだが、今の表情はほとんど無表情に近かった。
「あら、ごめんなさい。あいつを見ると、もう勝手に手が出るのよ」
その声を聞いてキリトはぞっとする。ディー・アイ・エルから発せられる声は並みの女性よりもずっと感情的であり、聞くだけで何を思っているのかがわかるくらいだったが、今は無機質にも感じられるような声色になっている。怒りが限界を突破して他の感情が静まり返っているためだと瞬時にわかった。
「あらあら、ディーさまったら……随分と手荒になってしまわれたこと」
そんなディー・アイ・エルの先制攻撃を受けたジブリルはというと、爆発の起きた箇所を華奢な手で撫でながらけろりとしていた。女性の理想形とも言えるその肌に一切の傷はなく、髪もまた乱れていない。ディー・アイ・エルはかなりの力を込めて暗黒弾を撃ち込んだようだが、ジブリルの身体の頑強さが勝ったらしい。ディー・アイ・エルは舌打ちをして「化け物……!」と零す。
「サトライザー……!」
「もう現れてほしくなかったんだけど、相変わらずだね、お前」
キリトの前にユウキとカイムが《EGO》を構えながら躍り出た。サトライザーは先の戦争で二人に敗れ現実世界へ強制送還され、その時をもって暗黒神ベクタのスーパーアカウントは消失した。もう戻ってくる事はないとも思っていたが――それでも彼の者は戻ってきた。
何となくだが、今のサトライザーの恰好には見覚えがあった。確か《GGO》で交戦した際、黒色のコンバットスーツを着ていた気がする。クライン達と同じ要領で《GGO》のアカウントをコンバートして戻ってきた――そんなところだろう。
だが彼の者のコンバットスーツが黒から白に変わっているところが、ただの再ログインではないという事を如実に物語っていた。サトライザーではあるものの、これまでとは違う――そう思えてならない男は目を伏せる。表情自体は不敵な笑みから変わっていない。
「サトライザー……か。そろそろその名前で呼ばれるのも飽きたな。それに、もう隠している意味もなさそうだ」
「……?」
《ALO》から因縁のあるユウキが反応すると、サトライザーは顔を上げた。
「私の名はガブリエル・ミラー。もうガブリエルと呼んでもらって構わない」
その言葉に嘘はなさそうだった。ガブリエル。ありふれたアメリカ人男性の名前ではあるが、その原典は遥か古代の聖書にまで
ミカエル、ラファエルと合わせて三大天使、あるいはウリエルも加えた四大天使の一つとされ、神のお告げを人間に伝える天使と言われる反面、最後の審判の時に
「なんでお前がここに居るんだ。お前もハンニバルの部下だったのか」
最も気になっている質問をキリトは投げかける。ガブリエルは肩を一瞬だけ上げて下げる笑い方をして答えた。
「部下になったつもりはないが、あれのおかげでここまで来られ、アリスと出会えたのは事実だ。あれが私の上官というのは、
そう言ってガブリエルはアリスに目を向けた。チャレンジ精神旺盛なダイバーを惹き付けて呑み込むブルーホールのような青い瞳を向けられ、アリスは身構えた。
「やっぱりわたしを付け狙っているのね。あんた、何なのよ」
ガブリエルはもう一度目を伏せた。
「……まだ思い出せていないか。私達はあれだけ通じ合っていたというのに……君と再び出会う瞬間を追い求め続けて、私はここまで旅をしてきた」
アリスは怪訝な顔をした。隣にいる恋人であるユージオもまた同じような顔をしている。ガブリエルの言っている事が何一つわからないといったところだろう。現に自分もガブリエルの言い分を掴む事は一切できないでいる。完全にガブリエル側からの一方通行の会話だった。
「わたしに再び出会う旅? 何の話をしているの……」
「あいつの言葉に耳を貸したら駄目だよ、アリス。滅茶苦茶な事しか言ってない」
そう言ってユージオが《EGO》を構えつつアリスとガブリエルの間に割り込んだ。ガブリエルは表情一つ変えずにただアリスを見つめている。まるでその目でアリスを取り込もうとしているかのようだ。
「随分とアリスに執着してるみたいだけど、それもハンニバルからの命令なわけ?」
シノンが自身の《EGO》である最強の弓を構えつつ言うと、ガブリエルはすんと鼻を鳴らした。
「私はハンニバルからの命令など受けていない。自らの意思で諸君が来るのを待っていた。全ては愛するアリス――アリシアと共にある日々を取り戻す《旅》を終わらせるために」
ガブリエルが部屋全体に届くほどの声で告げると、近くで微笑み続けていたジブリルがその傍に寄り添った。
「マスター、これ以上話していても平行線です。マスターはマスターのやりたい事を……アリシアさまを取り戻すという願いを叶えてくださいまし」
ジブリルが
直後に引き抜かれてきたのは、ガブリエルが暗黒神ベクタとなっていた時に使っていた魔剣だった。とてつもない《波動》が伝わってくる。やはり彼の者の《EGO》であるようだ。
「思い出させてあげよう、アリシア。そこにいる邪魔者達を全て排除した後に、しっかりとね」
ガブリエルはそう言いつつ、自らの利己心の昇華物である魔剣を天高く突き上げた。
「システムログイン――
ガブリエルが高らかに宣言した次の瞬間、その全身からどす黒い闇が噴き出した。オーラなどというレベルではない。まるで実体を持つかのような
人が《
「なんだ、何が起きてやがるんだよ!?」
クラインが刀を構えつつ叫ぶ。周りの戦士達も武器を構えてはいるが、同様と恐れを隠せない様子だった。
「暗黒神ベクタのアカウントは既に消失しているはず。ならばこの力はいったい何なのじゃ!? 暗黒術や神聖術でもないぞ!?」
「ただ、ろくでもねえ事が起こりそうだってのだけはわかるぜ」
焦燥するカーディナルの横で、整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンが冷静に《EGO》を手に身構えていた。いついかなる攻撃が飛んできても対応できる体勢だった。その直後に、ガブリエルとジブリルを中心に渦を巻いていた闇の旋風が切り裂かれるように打ち払われた。
中から現れたのは――異形の龍だった。全身を鎧のような黒い甲殻に包み、リランを超えるほどどっしりとした体型で、それに見合う太さの四本足で床を踏み締めている。
尻元からは鋭く長い尻尾が突き出ていて、首はリランや冬追と比べるとずっと長く、頭部の形状は長い一対の角を生やした西洋のドラゴンそのものである。その邪眼は不気味な青い光を放っているが、一番の特徴は肩、背中、腰から羽毛の黒翼が付属する巨大な腕が六本も突き出ている点だった。
西洋神話の恐ろしいドラゴン像に、聖書の天使と堕天使という相反する存在の要素を加え、極限まで恐ろしい形に再解釈して具現化させたような
「こ、これが……サトライザー……?」
「ねぇ、何の冗談だよ、これ……」
ガブリエルとの因縁に決着を付けるべく意気込んでいたユウキとカイムも、化け物としか思えない姿となったその者を見て呆気に取られていた。他の者達もほとんど同じような様子で、何をしたらいいのかわからないでいるような顔で固まっている。
《ジブリル、この姿はなんだ。このスーパーアカウントは人間らしい姿を持たないモノだったのか》
禍々しいエフェクトがかかったような声が聞こえてきた。驚くべき事に、根底にある声色はガブリエルのそれであり、発生源は黒龍の居る方角だった。
《いいえマスター、これはこの方々を殲滅するための最適な姿です。キリトさま達は、最早人の姿では相手にしきれませんわ》
同じようなエフェクトの効いた少女の声による返事が聞こえてきた。ジブリルの声色だった。やはり黒龍の居る位置から聞こえてきている。まさか、あの二人が同一化しているとでもいうのか。
《今のマスターには闇界神ヤビコマガツキの力と、わたくしの力の両方が備わっています。さぁ、思う存分に戦い、願いを叶えましょう》
ジブリルの声がそう言うと、二人が合一していると思わしき黒龍は改めてキリト達を睨み付けた。ガブリエルは人間の姿の時点で禍々しい瞳をしていたが、今のそれはその時の比ではない。自身の欲を満たす事だけを求めている者の純粋なる闇が
ガブリエルはあの姿になる前に《闇界神ヤビコマガツキ》と名乗り、ジブリルも同じ名を口にしていた。あの異形の黒龍の名は《ヤビコマガツキ》と考えてよさそうだ。
《無論、最初からそのつもりだ!!》
ガブリエルの声がしたかと思うと、ヤビコマガツキは咆吼した。人間の声はそこになく、獣声と金属音が混ざり合ったような耳を
その隙をヤビコマガツキが突いてこないわけがなかった。禍々しい牙が規則正しく並ぶ口内に闇ではなく光が生じた。ごうごうと揺らめくそれは、リランも放つ火炎だった。瞬く間に勢いが増し、口から漏れ出す。
「何か来るぞ! 回避しろ!」
いち早く事態を把握したサクヤが叫ぶと、彼女をリーダーとする《ALO》からの戦士達も同様に回避に移った。キリトも周囲の仲間達に回避を指示して離れたが――連合軍の全員が即座に動けたわけではなく、大勢がその場に取り残された。急な指示に対応できなかったのだ。
《させるか!》
狼竜形態のリランがヤビコマガツキに接敵する。タックルを入れて射線を逸らさせるつもりだ。しかしガブリエルという優れた戦闘力と判断力を持つ人間と、ダークテリトリーをあそこまで発展させてきた大教皇ジブリルの融合体であるヤビコマガツキの行動速度が無慈悲にも上回った。
リランが攻撃に入る直前、ヤビコマガツキの口内で燃え盛っていた火炎が巨大な火球となって轟音と共に放たれた。全てを焼き尽くさんとする
火炎の嵐が収まったタイミングを見計らって、その爆心地を確認したところ――逃げ遅れた四十人ほどの戦士達の姿は消え去り、黄金の光が漂っていた。
「なっ……」
キリトは思わず息を呑んだ。ヤビコマガツキが放ったのはリランが使うそれと同じ、シンプルな火炎弾ブレスだった。連合軍の戦士達はここに至るまでに全回復しており、十分な《天命》があったはずだ。それがたった一撃で死亡だと――?
《ほぅ、今の一撃を避けたか。だが、四十人は殺せたぞ》
ヤビコマガツキがガブリエルの声で告げてくる。あまり長時間見てきたわけでもないが、ガブリエルはどこか無感情的な部分が多く、声もまたそうであった。しかし、今しがた聞こえた声は上ずっていた。自身の手に入れた大いなる力の片鱗をその目で見て、
「たった一撃で《天命》全損か……もう常識も何もあったものじゃないな」
シャスターが《EGO》を構えつつ言うが、その
リランやユピテルはその優しい性格故にそんな事をしなかったが、それぞれ火炎と雷撃を最大出力で放てば人を跡形もなく消し飛ばせる。ただし、それには十数秒動きを止めて力を溜める必要があり、放った後の疲労も大きいというデメリットがある。
対してヤビコマガツキは、リランの最大出力の火炎弾ブレスに匹敵、あるいは
「何なのよ、こいつは……」
先程までジブリルへの激しい怒りを露わにしていたディー・アイ・エルと、彼女に
「皆、恐怖するな! 奴はそこに付け込んでくるぞ!」
カーディナルが高らかに叫び、杖の先端で床を叩いた。彼女を中心に巨大な魔法陣が展開され、ヤビコマガツキと対峙する全員の足元に及ぶ。間もなく身体の重さが軽減され、力が
その効果が早速出たのか、戦士達が咆吼するヤビコマガツキへと突撃を開始した。ヤビコマガツキの力はただ超高出力の火炎弾ブレスを放てるだけではあるまい。地を踏む四本の脚に加えて六本の巨大翼脚という十本もの脚を持ち、そのどれもがリランのそれを超えるほど筋骨隆々だ。単純な打撃だけでも致命傷になるだろう。
だが、それでもこの場の全員の力がなければ、あの邪龍を倒すのは不可能だろう。キリトは一旦ヤビコマガツキから離れていたリランへ駆け寄り、声をかけた。
「リラン、力を貸してくれ!」
《言われるまでもない。乗れ、キリト! 共にあの化け物を討つぞ!》
いつにもなく戦意を