キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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※本作に登場する日本、韓国、中国、アメリカなどの国家情勢、事件、政治的背景は全てフィクションです。実在の人物、団体、国、民族とは一切関係ありません。
 また、特定の国家や国民を誹謗中傷したり、特定の政治的思想を助長したりする意図は一切ございません。あくまで創作の中の出来事としてお読みください。


13:封鎖サレル星

□□□

 

 

「な、なんだ、なんなんだ!?」

 

「何が起きているんだ!?」

 

「どうなっているんだ!? 《不適格》とはなんだ!?」

 

 世界中の国々に最新技術をもたらし、世界の警察とも言われるアメリカ合衆国。先進技術の大国を守る国防省――ペンタゴンという通称で呼ばれる場所の心臓部とも言える国家軍事指揮センター(NMCC)で、大混乱が起きていた。

 

 時刻は午前一時を過ぎた頃。昼間に仮想敵国やアメリカへの敵意ある国からの攻撃、テロリズムなどを監視していた統合参謀本部議長、国防長官、各軍高官といった上層部は帰宅済みだった。残っているのはジョン・アダムスをリーダーとする比較的小人数の夜間当直の作戦監視チームのメンバーだった。

 

 ジョンは一八時頃にNMCCに登庁し、上層部が昼間に行っている業務を引き継いで席に着いた。それ以降はというと、眼前にある巨大なモニターをずっと見ていた。漏れがないか部下や同僚達と確認し合っていたが、異常らしい異常は見受けられなかった。危機を知らせるセンサーも沈黙を貫いている。

 

 今日もこれだ。昨日もそうだった。それどころじゃない、ここ一ヶ月近くずっとこうだ。国家軍事指揮センターはアメリカ合衆国を守る要《かなめ》であり、地球全土から軍事通信と脅威情報が集約される戦略の中枢でもある。

 

 故に配備されている通信設備は最新鋭であり、如何なる異変も絶対に逃がさず掴み取る。異常事態が検知されたならば、他部署や各州の防衛担当機関へほとんど遅延なく伝わり、最終的に大統領へと情報が流され、対策が迅速に練られ、作戦が行使される。

 

 ……のだが、そんな異変など全く起きない。仮想敵国からの攻撃も、テロリズムも起こらない。何という事のない、いつも通りの平穏な夜だった。こうも何も起こらない時間が続いていると段々と暇な気持ちになってくるが、かと言ってNMCCのシステムがアラートを鳴らした時は、考えうる最悪の事態が訪れた時。

 

 何もない事は喜ばしい事なのだ。ジョンは仲間に、自分自身にそう言い聞かせていた。しかし暇な事には変わりなく、同僚達はそのうち日本のアニメとアメリカのアニメの違いの話を始めた。

 

 それはどんどんヒートアップしていき、最近放送された日本のアニメの中でどれが一番面白かったか、どのアニメのストーリーが最も秀逸だったか、作画の問題を気にせずに安心して視聴できた作品はどれだったかなどの会話へと発展していった。

 

 おいおい、ここは合衆国の防衛ラインなんだぞ。日本のアニメの話なら対話型SNSアプリでやってくれよ――ジョンは溜息交じりにそう思いつつ、「アニメの話をするな、レーダーを見ろ」と言おうとしたその時――。

 

「え?」

 

「な、なにこれ!?」

 

 という同僚の焦る声が聞こえた。ジョンは立ち上がり、そちらの方を見る。まさかテロが起きたか。(ある)いは敵国の攻撃か。

 

「どうした」

 

 込み上げてくる嫌な予感を振り払うように、ジョンは同僚に声を掛けた。直後、耳障りな音が聴覚に叩き付けられてきた。レーダーがミサイルを探知した際に発する音とは違う、もっと単純な――コンピュータのエラー音に似たビープ音だ。それがあちこちから聞こえてきて、部屋はその音に支配された。

 

 明らかにおかしな事が起きている。

 

「な、なんだ!?」

 

 ジョンが声を上げたところ、異変は中央モニターにも起きた。アメリカ合衆国の簡易地図と様々な情報が表示されている画面の下部から、何かがせり上がってきた。まるで(おびただ)しい数の蟻が最高級の餌を求めて壁を這い上がっていくかのようだ。しかしそれは蟻でも昆虫でもなければ、生き物でさえなかった。

 

 【STATUS:DISQUALIFIED.RECONSTRUCTION INITIATED.】

 

 たったそれだけを書いた黒背景の赤文字の大群が、合衆国の地図と情報を表示させていなければならない画面を乗っ取った犯人だった。

 

「なんだ、これは!?」

 

 ジョンが声を上げると、同僚達も同じような声を上げた。ヘッドセットを付けてスクリーンを見ていた職員は装着していたそれを投げ捨てるように外す。この耳障りなビープ音に耐えれなくなったのだ。

 

「まさかコンピュータウィルスに感染した!? 誰ですか、NMCCでそんなモノを見ていた人は!?」

 

 女性同僚の怒声にジョンは首を横に振る。そんな馬鹿な事があるか。NMCCのコンピュータシステムは独自OSで動いており、一般企業や家庭で脅威とされているコンピュータウィルスに感染する事など起こりえない。ウィルスが如何(いか)にコンピュータ内に入り込もうとしても、広く出回っているパソコンのOSと規格が全く異なるために入り込めないのだ。

 

 これはコンピュータウィルスではない。NMCCのシステムがウィルス感染するわけがないのだから。

 

 では、これはなんだ?

 

「『状態:不適格。再構築開始』……? なんだよそれ……?」

 

 同僚の職員の一人がそう呟いた。視線を向けてみれば、彼が操作する小型オペレーションモニターにも同じ症状が出ていた。ジョンは彼が口にした言葉を反芻(はんすう)する。

 

「『状態:不適格。再構築開始』……」

 

 何の事なのかはさっぱりわからない。何が不適格で、再構築とは何を意味するのか。考えている暇はないし、そもそも答えに辿り着ける可能性もゼロである。ジョンは湧き上がってくる熱のような焦燥感を抑え込みながら、同僚達に指示を下した。

 

「統合参謀本部議長、国防長官、各軍高官、大統領閣下に連絡を入れろ! ご就寝中でも構うな!」

 

「どうやって!?」

 

「は!?」

 

 すぐさま返って来た言葉にジョンはそう返すしかなかった。同僚の多くが一斉に振り向き、或いはジョンに駆け寄ってくる。

 

「通信が完全にオフラインになっています! どこにも通信できません!」

 

 ジョンは耳を疑った。NMCCがオフラインになっている? 何の冗談だ。しかし誰も冗談を言っている顔をしていない。

 

「外部への通信、有線、無線、全てのチャンネルが応答しません……通信手段が全部ダウンしています!」

 

「まさか、電磁パルス攻撃(EMP)!? 上層部が居ない時間帯を狙われたか!?」

 

「いえ、それなら電源自体が付かないはずです。システムの電源は動いている……じゃあ、これはいったい!?」

 

 ジョンを含めたその場の全員が焦燥に駆られるまま動いていた。ある者はスマートフォンで、ある者は今となっては古典的なそれとなった無線機で、ある者は固定電話でとにかく通信を試みた。ジョンも彼らと同じようにできる手段の全てを行使した。

 

 スマートフォンを動かす。ディスプレイが『状態:不適格。再構築開始』の大群に占拠されて操作を受け付けない。スピーカーからは耳を(つんざ)くビープ音が止まらない。

 

 無線機を手に取って操作する。耳障りなビープ音が聞こえてくるだけで全ての操作を受け付けない。

 

 最終手段の固定電話を操作する。無線機と同様にこちらを嘲笑するかのようにビープ音を鳴らして、その他の機能は沈黙。

 

「……馬鹿な」

 

 通信手段は全滅していた。ここはNMCCだぞ。一体全体何がどう間違ったら、このような事が起こるというんだ――そんな言葉ばかりが胸の中から湧き上がってきて止まらなかった。吐き出したい気持ちに駆られるが、吐き出したところで何が変わるというのだという疑問が()き止める。その堂々巡りがジョンの中でループし続けていた。

 

《聞こえるか、諸君》

 

 同僚の混乱の声とビープ音を、精悍(せいかん)な声が断ち切った。ジョンは咄嗟(とっさ)に発生源に向き直る。黒背景赤文字の大群に占拠されているメインモニターの中央付近に、穴が開いていた。一枚のウインドウだった。そこに映し出されているのは――。

 

「大統領閣下……!!?」

 

 間違いなく合衆国大統領だった。ジョンは救世主を見たような気持ちになった。やはり大統領、このような事態でも通信手段を確保してくれていた。

 

《私の声が聞こえるか、諸君》

 

 福音のような声に、ジョンは即座に答える。

 

「大統領閣下、NMCCのシステムに異常が発生しています! 画面に『状態:不適格。再構築開始』と表示され、一切の操作を受け付けず――」

 

《いいか、落ち着いて聞いてくれ》

 

 ジョンの報告を大統領が(さえぎ)った。合衆国を(ひき)いる最高権力者は悔しそうな表情を(にじ)ませた後に、口を開いた。

 

《アメリカ合衆国は今、東アジア諸国から核攻撃を受けている。既に一発が着弾し――ロサンゼルスが炭になった》

 

 ジョンは言葉を失った。あちこちで同僚達の手から滑り落ちた物が床に激突した音が聞こえた。

 

 

□□□

 

 

 ユイ(いわ)く八〇〇人程度残っているという連合軍と共に、キリトは《塔》の中を突き進んでいた。ヤビコマガツキ/ガブリエル・ミラーの守っていた扉の向こうも、それまでの回廊とほとんど変わらない様相だった。奇跡的な調和で成された和洋折衷(わようせっちゅう)の街の上空を貫く管のような巨大通路だ。

 

 しかし、窓の外から白亜の街を見下ろしてみたところ、明らかに先程よりも小さくなっているのがわかった。急斜面や階段がないせいで把握しにくいが、少しずつ上に向かっていっている。このまま頂上にまで続いているのだろうか。

 

 この《塔》の原型になった鋼鉄浮遊城アインクラッドの最上階・百層目にはラストボス――ヒースクリフこと茅場晶彦が待つ《紅玉宮(こうぎょくきゅう)》という宮殿があった。大分細長くなっているものの、この《塔》がかつてのアインクラッドの形を再現しているのであれば、最上階に《紅玉宮》があったりするのだろうか。

 

 だとすれば、そこがハンニバルの待つ玉座だろう。かつての玉座を真似たそれにハンニバルは深々と座り、世界の命運を賭けて勇者と相まみえる魔王のように自分達を待っているに違いない。

 

 このまま《塔》を昇り続け、ハンニバルの待つ玉座の間に辿り着き、あの仮面を剥ぎ取って正体を暴き――今度こそ完全に討ち滅ぼし、因縁を断ち切る。決戦の時はすぐそこだ。キリトは全身に力が(みなぎ)ってくるのを感じながら、一歩一歩確実に歩みを進めた。

 

「来たな、ブラッキーよぉ」

 

 しばらく進むと、またしても大部屋に出た。最奥部にあるのは、やはり巨大な扉。その前方に二つの人影が認められた。

 

 片方は簡素な黒い衣装を身に纏い、紫色の髪で目元がほとんど隠れてしまっている小さな体躯の少女。右側頭部から黒い角が突き出ているのが特徴的だ。

 

 もう片方は理想的な体型の長身の男。ポンチョを深く被っているために顔がほとんど隠れてしまっているが、全身から空間を支配するほどの猛烈な悪意が放たれている。ガブリエルのモノとはまた異なる性質の、身の毛もよだつ悪意の奔流(ほんりゅう)と、黒緑色から白色へと変わったポンチョによって、誰なのかを容易に判別できた。

 

PoH(プー)……!!」

 

 ポンチョによって目元が隠れた顔の、口角が上がったのが見えた。(かたわ)らに居る少女はPoHの足元に隠れるように退(しりぞ)く。

 

 キリトは抜刀した。周りの皆――特に《SAO》の頃からの因縁を持つ仲間達も鋭い怒気を剥き出しにして各々の武器を構える。

 

「ようやくまた会えたな。あんまり(おせ)ぇもんだから、アガレスと一緒に昼寝でもするかって思ってたところだ」

 

「……」

 

「ここまで来れたって事は、兄弟(ブロ)を殺ったって事だな。信じてたぜ。アインクラッドでオレ達を殺ったお前らが、兄弟に負けちまうなんて事はないってな。完全にBOSSの読み通りだ」

 

 自分達がここまで辿(たど)り着く事は計算済み。こいつのBOSSであるハンニバルは余程高く自分達を評価しているようだ。それもそうだろう。彼の者は現れる度に常軌(じょうき)(いっ)した試練を課して、乗り越えるか敗北するかを見てきたのだから。

 

「なぁキリトよ。そろそろ気付いて、受け入れろよ」

 

「何がだ」

 

「BOSSの愛にだよ。BOSSはお前を、お前達を心の底から愛しているんだ。お前達が穢れないまま生きる姿を見るのが好きだ。だから、BOSSはお前達を欲しがっているんだよ」

 

 キリトは目を細めた。

 

 PoHは「BOSSのためにお前らを棺桶にぶち込んでやる」とでも言うかと思っていた。自分達はここまでずっとハンニバルの計画を頓挫(とんざ)させてきた。完全に脅威と見なされてもおかしくはない。だからハンニバルも、そろそろそういった命令をPoHに下す頃ではないかと推測していた。いい加減計画の邪魔をする自分達を消せという命令を。

 

 しかし現実のハンニバルは一向に自分達を殺そうとしてこない。ここまで計画を掻き乱されているというのに。恐らく先のガブリエルも、ここにいるPoHも、ハンニバルがこれまで通りの試練として配置したモノなのだろう。

 

「何よ。あたし達が欲しい欲しいって。ハンニバルは理想郷みたいなものでも作って、そこにあたし達に住めって言ってんの?」

 

 怒気を全身から溢れ出させているリズベットが言い、リーファが続く。

 

「いつまでもふざけた事言ってないでよ! あたし達の誰が、あんた達の理想郷に行くっていうの!」

 

「そんなものは願い下げだわ。悪いけど私達、今度こそあんた達をボッコボコにしてやるって決めてるのよ」

 

 シノンが弓を構えて言うが、その横でキリトは思考を巡らせていた。それまで散らばっているだけだった線と線が結ばれていく。

 

 ハンニバルが自分達に試練を課していたのは、自分達を強く育て上げ、やがて築く理想郷の住民に相応しくするためだ。PoHと《笑う棺桶》――《電脳生命体(エヴォルティ・アニマ)》として生を取り戻したジョニー・ブラックやザザ達はいち早くその住民に選ばれた。そして自分達を同じ理想郷の民にすべく、降伏させようと襲い掛かってきていた。そういう事なのだろう。

 

 そんな悪しき者達に崇拝されるハンニバルの理想郷に行くかどうか。答えは既に神の力を得た彼女達が言っている。そこへキリトは続いた。

 

「……PoH。《SAO》の頃のお前の遣り口には本当に手を焼かされた。人を争わせ、憎悪の種を()き、次の争いを引き起こさせる。それを何回でも繰り返させる」

 

 PoHは「くっくっく」と笑う。

 

「あぁ、そうだな。けれどよキリト。そんなもんに何回でもホイホイ引っかかっちまう人間達の方が、どうかしてるって思わねえか?」

 

「何?」

 

 キリトの問いかけにPoHは両手を広げるジェスチャーをする。

 

「だってそうだろ。オレがBOSSに教わった()()()()()()()()()()でちょっと小突けば、人間達は簡単に仲間割れして、お互いに滅ぶまで争い合う。一度こうなっちまえば、もうオレが手を下すまでもねぇ。奴らは勝手に憎悪の種を作って蒔いて、その輪をどこまでも広めていく。ちょっと考えればおかしいって思うはずだ。なのに全然そうしねぇで殺し合うだけ殺し合って、何も残さねえ。そうじゃねえか」

 

 まるで天界から人間達を見下ろす神のような言い草だった。ハンニバルはこの世界における最高神になり、PoHにも「お前はもう神の一員だ」とでも言ったのだろうか。しかし、彼の者達は決して神ではない。もっともらしい理屈を並べて気に入らない人間達を滅ぼそうとする(おぞ)ましい邪神だ。

 

 その邪神の遣いへ、クラインが怒鳴りつけた。

 

「そりゃあ、てめぇらみたいなのが扇動するからだろうが! 人々をわざと煽って、洗脳して、争わせてたんだろ!」

 

「それで、お前らは人々が争う様を攻撃の届いてこない高みから見て大笑いしてんだろ。さぞかし滑稽(こっけい)で楽しかっただろうな」

 

 怒気を(にじ)ませた声でエギルが言うと、皆の意思が一つに(たば)ねられたのを感じた。神を気取る巨悪ハンニバルを討ち、今度こそ世界に平穏を取り戻す。自分達が当初から抱き続けていた最後の大いなる目的が、皆にも宿ったのだ。

 

「もういい。口を閉じろ、PoH。あとはお前のBOSS(しゅじん)に直接聞く」

 

 そう言ってキリトは双剣を構えた。目の前で「くっくっく」と怒りを誘う声で笑っている殺人鬼をロックオンする。《SAO》時代からずっと続いてきた忌まわしき因縁。その一つをここで断ち切り、その大本も斬る。全ての悪しき循環に引導を渡してやる。

 

 湧き上がる意志を刃に乗せ、先制攻撃を加えるべく床を蹴ろうとした――

 

 その時だった。背後から小さな音がした。足音だった。「え?」「なんだ?」という同胞達の声も届けられてくる。思わず意識を取られてしまい、咄嗟(とっさ)に振り返ろうとしたその時には、足音の根源はキリトの横を通り過ぎていた。

 

「え……?」

 

 可愛らしい足音を立てて歩いているのは、人間の耳に加え、頭からも獣の耳という、合計四つの耳を持つ小さな少女。ルコだった。

 

「ルコ……!?」

 

 アンダーワールドで最初に出会った人物であり、それ以降ずっと一緒に苦難を乗り越えてきた仲間の一人でもある彼女は、キリトの声に応じずに歩き続ける。PoH達との距離がどんどん詰まっていく。

 

「何してるのよルコ! 危ないから下がりなさい!!」

 

「ルコちゃん、下がって! 近付いては駄目!!」

 

 ユイが来るまでの間、母親のように接してきたシノンが叫び、アスナも彼女に続く。そこでようやくルコは立ち止まった。

 

 予想外だったのは、PoH が何もしなかった事だった。連合軍の中で最も小さくて弱い少女がふらふらと前に出てきたのは、残虐な彼の者にとってはまたとない好機のはずだ。すぐ人質に取れたはずだし、彼の者にとってはそれが一番性に合っていて、尚且(なおか)つこちらの身動きを封じる有効な手段だったはずだ。

 

 なのに、そうしない。

 

「ルコ、お前……!?」

 

 混乱を隠せなくなったキリトが言うと、ルコは(きびす)を返して身体を向けてきた。

 

 次の瞬間、目を限界まで見開くような現象が起きた。ルコのトレードマークだったオーガ族のそれとも異なる獣の耳、まるでカーバンクルのような印象を与える赤い宝石のような角が――

 

 

 ずるり、と音が聞こえそうな動きで()()()()()()

 

 

 言葉が出ない。キリトだけではなく、シノンもリランも、その他の仲間達全員が、目の前で起きた現象に絶句していた。歴戦の猛者(もさ)すらもそうさせるには十分すぎる光景を見せ付けてきたルコは、やがて笑みを浮かべた。純真無垢な幼い少女の、こちらの頬までも緩ませる愛らしい笑みだった。

 

「見つけた。こんな近く、居た」

 

 最初から見てきた笑みを浮かべたまま、ルコはそう言った。だが、何の話なのかはわからない。

 

「え」

 

 キリトがか細く声を漏らすと、ルコは両手を伸ばしてきた。しかしこれまでのような、抱っこを求めている時のそれではない。

 

「《はじまりの姫巫女(ひめみこ)》、《(まもり)(かんなぎ)》――シノン、キリト」

 

 《はじまりの姫巫女》と《護の巫》という存在を探し出す。それが一番最初に聞かされたルコの《お役目》だった。ずっと謎のままだった二つの名を改めて口にしたルコは、達成感に包まれた顔をしていた。

 

 その直後だった。ルコの背後の床に大きな白い染みのようなものが湧き出てきた。それは瞬く間に広がっていき、ついには巨大な水溜りとなった。今度はいったいなんだ――そう思って目を奪われていたところ、そこから何かが飛び出してきた。

 

 水溜りと同じくらいに巨大な《手》だった。しかも一つではなく、二つ並んで(てのひら)を向けている。この床の下に巨人が居て、水溜りを通じて両腕だけを出しているかのようだ。巨人型のエネミーはこれまでのVRMMOで散々見て、相手取り、倒してきた。だから今更威圧感など覚えない。

 

 なのに、目の前の白い《手》が放つ威圧感は、こちらを見えない糸で()い付けて動けなくさせるほどのものだった。白い以外何の特徴もないのに、見ていると何故か動けなくなる。恐怖ですくんでいるわけでもないのに身体が動かない。

 

 最早(もはや)、自分の身に何が起きているのかさえわからなくなりそうだった。

 

「おうち、帰ろ。《はじまりの姫巫女》、《護の巫》」

 

 満面の無垢な笑みを浮かべたルコがそう言うと、巨大な両手が一気に近付いてきた。あまりにも大きな掌を広げ、(つか)みかかってくる。足は――動かない。

 

 

「――シノンッ!!」

 

 

 誰かの叫びが聞こえた時、キリトは白い手に握り締められていた。

 

 白い手が作り出す黒い闇の中で、ぷつんと糸が切れるように意識が途絶えた。

 

 

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