キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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17:《シノン》

□□□

 

 

「いいえ、我が子」

 

 いつも通りだ。

 

 いつものように愛莉(あいり)に抱き締めてもらっている。感じられる柔らかさも暖かさも、全て愛莉だけが持っている特有のものだ。最愛のキリト/和人(かずと)とユイとも、今は懐かしく感じる母や祖母のそれとも異なる、大きくて心地よい温もりが、すっぽりと詩乃(しの)の身体を包んでいる。

 

 そしていつものように髪と背中を撫でられている。何一ついつもと変わっていないというのに、詩乃の脳内は麻痺しかかりながらも高速で思考を回していた。激しい違和感が生じて止まらない。ずっとわけのわからない事を聞かされていたせいだった。

 

「詩乃、本当によく頑張ったわ。頑張って、ここまで来てくれた……」

 

 また優しく髪と背中が撫でられる。いつもと変わらない手つきだ。何の嘘も(いつわ)りもないというのがわかる。しかし違和感は止まらない。

 

 詩乃は顔を上げて、愛莉と目を合わせようとした。そこで瞬きを繰り返した。

 

 愛莉の顔が、これまで見た事がないほど優しくて暖かいものになっていた。愛おしい子供を見下ろす母親の顔――そのイメージしか思い浮かばない表情が、ふんわりと浮かんでいた。これまで以上にずっと優しい眼差しが詩乃を見つめている。この目を見たのはいつだ。最近だった気がする。

 

 あぁそうだ。前にユイ達と一緒に買い物に出かけた時だ。ユイ達――愛莉にとっての我が子達に服を買ってもらった時、愛莉はこんな顔をして喜んでいた。当然だ。愛莉にとってユイ達は我が子なのだから。

 

 けれど、どうしてその目が自分に向けられているのだろう。

 

「全部詩乃のおかげだよ。詩乃がここまで頑張ってくれたから、始められたんだ」

 

 新川(しんかわ)恭二(きょうじ)の声が聞こえてきた。何がトリガーになったのか、そこで詩乃ははっと我に返った。頭の麻痺がほんの少しだけやわらぎ、最も疑問で仕方がない事が思い出された。

 

 詩乃が首を横に振ったところで愛莉は全てを理解したのか、その手を離してくれた。(あえ)ぐように空気を吸い込んでから、詩乃は愛莉の向こうへ視線を向けた。

 

 そこにあるのはぼんやりと光を放つ全長十メートルくらいの大きさの白い(まゆ)。液体で満たされているらしい内部に胎児のように浮かんでいるのは、最愛の人である和人。

 

 その顔を見たところで詩乃はぞっとした。和人の顔には安らかな表情が浮かんでいた。早起きした時に見られる、詩乃の秘めたるお気に入りである寝顔だ。

 

「和人……和人ぉッ!!」

 

 繭の中の和人に届けようと、出せるだけ大きな声で叫んだ。しかし反応してきたのは和人ではなく、恭二だった。

 

「ちょ、ちょっと待って詩乃。和人はこれから()()()()()ために眠っているんだ。そんな大きな声を出したらよくないっていうのは、詩乃が一番よくわかってる事じゃないか」

 

 和人が()()()()()? ()()()()()とはどういう事だ。またしても疑問が重くのしかかってくる。足元がぐらぐらしていて、今にも崩れてしまいそうな錯覚に(おちい)っていた。その何もかもが新川恭二――同じく愛莉をかかりつけ医にしている患者によるものだった。

 

「……君なの」

 

「え?」

 

「君がやったの。君が、和人をあんなふうにしたっていうの」

 

 これまで向ける事のなかった敵意を向け、詩乃は問うた。恭二は何を言われているのかさっぱりわからないと言わんばかりの顔をしている。それが詩乃の怒りを増長させた。

 

「君だったの。ハンニバルは、君だったの……!?」

 

 さっきから愛莉の様子がずっとおかしい。恭二と親子の会話みたいな事をしているし、これまで子供達に向けていた優しい顔を向けたうえで自分を我が子だなんて呼んでくる。抱き締めてきた時の温もりこそ同じだったが、それ以外全てが異常だ。

 

 恭二こそがハンニバルで、自分がログハウスで気を失っている間に愛莉が操られたというのであれば、これらの怪奇現象に説明が付く。

 

「ねぇ、新川君、答えてよ。君があのハンニバルだったの」

 

 ずっとこの新川恭二という少年の(てのひら)の上で踊らされていた。目の前にいる彼こそが全ての元凶――その確信が詩乃の中で生まれようとしたその時、恭二は反応を示した。純粋な驚きの顔だった。

 

「……す、すごいな、詩乃。ここまで来たのに気付かなかったんだ」

 

「やっぱり、新川君が……!!」

 

「それだけかあさんが上手に隠し通せたって事かぁ。やっぱりかあさんはすごいなぁ」

 

 今度は恭二は愛莉へ尊敬の眼差しを向けた。僕のかあさんは本当にすごい人だなぁ――そう言いたそうにしている。

 

 違う、そうじゃない! そんな事を聞きたいわけじゃない!

 

 胸の内の怒りが強くなってきて大声を出しそうになったところで、ようやく恭二が詩乃の方を向いて返答をした。

 

 

 

「詩乃、答えを言うよ。僕はハンニバルじゃない。君達に事前に教えておいたマハルバルっていうの、いるでしょ。それが僕で、かあさん――あぁ、まだ詩乃の認識だと愛莉先生だね。愛莉先生がハンニバルだったんだよ」

 

 

 

 脳内を縛り付けていた麻痺が戻ってきた。思考が一気に鈍り、言葉の理解が追い付かなくなった。

 

 あいりせんせいが、はんにばるだったんだよ。

 

 しののだいすきなあいりせんせいが、はんにばるだよ。

 

 誰かの声で発せられた輪郭(りんかく)もあやふやな言葉が、頭の中に反響していた。それが自分の声だと気付いたのと、恭二が不機嫌そうな顔をしたのは同時だった。

 

「あれ、マハルバルって思い出せない? じゃあ、《()り逃げ男》って言えばわかるよね?」

 

 頭の痺れが若干弱まり、耳に飛び込んできた言葉が輪郭を取り戻した。

 

 《壊り逃げ男》。かつて日本社会全体に影響の及ぶサイバーテロリズムを起こし、日本の有り様そのものを大きく変えたテロリスト。しかし思い出されたそいつは、《SAO》で自分達によって討たれて死んだはずだ。そのニュースを見た瞬間ははっきりと思い出せるのだから間違いない。

 

「正確に言えば、僕は《壊り逃げ男》の二代目。先代は技術こそ一流だったんだけど、すっごい俗物(ぞくぶつ)だったんだよね。かあさんを思いっきり怒らせるような真似までして……マハルバルっていう崇高な名前があるのに、ゴミ世間から《壊り逃げ男》なんて通称を付けられて、それを誇ってたからね。っていうか、《壊り逃げ男》って本当に酷い名前だな。生かす価値もない連中が言い出しそうな名前で、らしいと言えばらしいけれど」

 

 新川君が《壊り逃げ男》。《SAO》で果てた《壊り逃げ男》――確か名前は須郷(すごう)伸之(のぶゆき)というらしい――の二代目。《壊り逃げ男》はあそこで死んでおらず、未だに社会の陰に潜み続けていた。そしてその根源だと確定していたハンニバルが、愛莉先生――何もかもが信じられない。

 

 ハンニバルは肉体どころか実体さえも持たない存在で、恭二と愛莉は操られている。きっとそうに違いない。詩乃はその考えで頭の中を満たそうとしていた。しかし同時に疑問が胸の奥から押し寄せてくる。

 

 それは胸を、喉を通り、口まで上がってきて、言葉として吐き出された。抑え込む事はできなかった。

 

「じゃ、じゃあ……なんで。なんであんな事をしたのよ、新川君。《壊り逃げ男》のせいで、国は滅茶滅茶(めちゃめちゃ)になって、おかしな事になったのよ。《壊り逃げ男》のせいで色々なモノが壊されて……沢山の人が困って……」

 

 次の瞬間、恭二は無表情になった。間もなく強い怒りを募らせた顔に変わる。

 

「あぁ、そうだね。沢山のモノを壊したよ。いや、壊してやったんだよ。仕方なくね」

 

「仕方がないって……?」

 

 常軌を逸した返答の数々に詩乃の混乱は更に強くなる。そこに恭二が追い打ちをかけてくる。

 

「うんざりしてたんだよ。親も学校の連中も......政治家も警察も報道機関も企業も、どうしようもない愚か者ばっかりだ! ろくな事一つできやしないのに、富と権力を理不尽に独り占めして、意地汚くしがみ付いて、僕達が生きる未来を(みにく)く食い散らかしてた。あいつらは害虫だ。世界を、時間を食い散らかして穴だらけにして腐らせる、人間によく似た見た目の害虫だったんだよ。害虫は駆除しないといけないでしょ。だから、あいつらが存在しないと思い込んでいた《殺虫剤》を巣の中に直接注ぎ入れてやって、駆除してやったんだ」

 

 怒りの表情を浮かべたまま、恭二は口角を上げる。ここには居ない憎むべき存在への怒りと嘲笑(ちょうしょう)が混ざり合った、本能的な恐怖を感じさせる顔だった。

 

「そしたらどうだよ!  もうあいつらは大恐慌だ。甘い汁を(すす)れる絶対安全の天国に居たら、その外に追い出されて、慌てひしめいてた! 意味もないのに富と権力に必死に(まと)わり付こうとしてた! おかしいよねぇ! 笑えるよねぇ! 最高だよ! 僕は未来を食い散らかす害虫共から未来を取り返したんだ!」

 

 詩乃は目を見開いていた。恭二はもう《壊り逃げ男》としての破壊を悪しき行為であると認識していないどころか、破壊された者達を人間扱いしてさえいない。彼にとっての破壊行為は害虫駆除と消毒で、破滅に追いやられた者達は害虫。心の底からそう思っているのだ。

 

 どうしてそんなふうに――詩乃がそう言おうとした直後、恭二の怒りはすっと消えた。今度は落ち着いた笑みが浮かんだ。

 

「……でも、あいつらが散々食い散らかしてくれたおかげで、もう現実世界は駄目だ。どんなに駆除しても、元が食い散らかされて腐ってしまったから、どうにもならない。だからもう、全部リセットするしかなくなった。《シノン》はそのために絶対に必要な存在で、ここに来るまで《シノン》がちゃんとなっているかどうかは賭けだったけれど……詩乃のおかげで大成功したよ」

 

 また出てきた。

 

 《シノン》は自分のアバターネームだ。元を辿(たど)れば愛莉の(すす)めでメディキュボイドを使う際に名乗る事になった名前だった。

 

 それは自分で入力するよりも前に()()()()()()()()()が、自分の名前とほとんど同じで呼びやすいものであったために、特に何も不服に思う事なく使っていた。そしてこのシノンの名前を得た時に、《SAO》に巻き込まれたのだった。

 

 その名前が今、(しき)りに恭二や愛莉の口から出ているが、自分の事ではなく、他の何かを指しているかのようだった。やはり何の話をされているのか、何を考えたらいいのかさえわからない。詩乃が疑問の濁流に呑み込まれそうになっている事に気付いたのだろう、恭二が助け舟を出そうとしてきた。

 

「シノンはね――あぁ、この辺はかあさんが話した方がわかりやすいかも」

 

 恭二は愛莉を見上げた。「お願いしてもいいかな?」と言葉なく伝えている。愛莉は変わらない微笑みで小さく(うなず)いた。

 

 恭二は愛莉こそがハンニバルだと言っていた。そんなの嘘に決まってる。ハンニバルが愛莉先生なわけがない。あの邪悪なハンニバルが、優しい愛莉先生のはずがない。詩乃は助けを求めるように愛莉に問うた。

 

「愛莉先生、新川君は何を言っているんですか。さっきから言われてる事が全然わからないんです。愛莉先生がハンニバルだなんて、そんなわけないですよね」

 

 愛莉は肯定も否定もせず、微笑んで詩乃を見下ろしていた。そしてその口が開かれると――信じがたい告白が始まった。

 

「恭二の言う通りよ。現実世界は土台から腐って、朽ちる寸前になっている。

 

 何のせい? 大人達のせいよ。未来を担う子供達を(かえり)みず、自分達の欲望のままにやりたい放題して、現実世界の大切な土台をこれでもかと食い散らかした。そんな状態のまま放置すれば、土台から崩壊してしまう危険性があった。

 

 でも大人達は知ったこっちゃない。だって自分達はもう大満足しているから、何が起ころうが構わない。未来があろうがなかろうが、今の自分が満たされているから、何の苦痛もない。けれど子供達はそんな大人達から与えられた苦痛を抱いたまま死んでいく。

 

 仮に土台が朽ちずに済んだとして、運よく大人になれた子供達がいたとしましょう。その子供達は結局かつての大人達と同じ(あやま)ちを繰り返すわ。自分達を苦しめた大人達のような利己主義者(エゴイスト)になり、次に生まれる子供達を同じように苦しめる。いつまでも、どこまでも、そんな連鎖が続いてしまう。

 

 そんな未来しか作り出さない凶暴で自分勝手で利己主義者の大人達で現実世界は(あふ)れ返り、子供達の未来は食い潰され続けていた。日頃のニュースを見ていればわかるでしょう。この社会は、世界はもう、子供を愛するよりも(しいた)げるのよ。

 

 もう我慢ならない。せっかく生まれてきた子供達がそんなふうになってしまう未来しか来ないなんて。子供達が利己主義者の大人達によって壊されて、同じような利己主義者に染め上げられて、世界を壊してしまう存在になってしまうなんて、わたしは我慢できなかった。歪んだ連鎖は断ち切らなきゃいけないわ。

 

 だから、現実世界をリセットする必要があったの。大人達が作ったモノの中にとんでもないモノがあるのは知っているわよね。そう、水素爆弾や核爆弾。世界を何度でも滅ぼせる悪魔の兵器を、大人達は作ったまま放置していた。大人達はそれを使いはしない。富や権力を貪るのには不都合だから、見て見ぬふりをしていた。これ以上に大人達の世界をリセットするのに最適なものはなかったのよ。

 

 大人達は自分達の利己心(エゴ)によって作り出された兵器に焼き尽くされて終わり、強制的に次の世代に未来を(たく)させられる。その次の世代というのが、これから生まれてくるわたしの子供達よ。現実世界の肉体を捨てた《電脳生命体(エヴォルティ・アニマ)》の子供達。それが未来を作る新しい世代よ」

 

 詩乃は何度も(まばた)きを繰り返していた。

 

 これから生まれてくる愛莉の子供達が、地球を支配する? 大人達の世界が核で焼き尽くされる? まるで王道のSF映画のシナリオだ。そういった架空戦記の話をしているのではないかと思ってしまうが、愛莉は真実を語っている顔をしていた。

 

 愛莉の告白は続く。

 

「でもね、これだけじゃ駄目だったの。悪魔の兵器を使って大人達が腐らせた世界そのものをリセットするのは簡単。けれど、ただ滅ぼすだけじゃ意味がない。世界が滅びた後にはわたしの新しい子供達が生まれてくるって今言ったわよね。

 

 問題はその子達。その子達は純粋無垢なまま生まれて育つけれども、何もしないでいたら、かつての大人達が世界を腐敗させた経緯をなぞってしまう危険性があったの。最悪の連鎖がしぶとく残ってしまうのよ。

 

 だから、かつての大人達の世界が如何にして滅んだか、誰がその引き金を引いたのかを知り、その罪を受け入れ、罪の事を、罪は乗り越えられるものだと教えられる存在が必要だった。わたしはね、《その子》を作ろうとしたの。核兵器を撃ち込んで世界を滅ぼした後、かつての大人達の世界の事を知っていて、その世界を滅ぼした罪を背負い、その罪の上に今の世界が成り立っている事、そして罪は乗り越えられるものだと後世に伝えていく事のできる《子》をね。

 

 けれど、上手くいかなかったわ。《MHHP(エムダブルエイチピー)》の技術を応用して産まれた《その子》は、わたしのパソコンのシミュレーター内で核ミサイルを発射し、世界を焼き尽くすという行為に至った。《その子》は罪を受け入れ、罪を知り、罪を教える必要があったから、高度な知性を持っていた。

 

 そのせいで、すぐさま大勢の人々を殺してしまったという罪の意識に呑み込まれて――わたしが説得するよりも前に崩壊してしまった。何度やっても上手くいかなかった。何度も何度も再構築とリセットを繰り返したけれど、世界を滅ぼして十数億人を殺害したところで、どうしても崩壊してしまう。罪の重さ……殺害する大人達の数じゃなく、罪そのものを受け入れて、乗り越えるという事ができなかったのよ。

 

 殺さなければならないけれど、殺した相手を人間として認識しなければならない。大勢の人間を殺害したという罪を背負わなければならない。でも、罪を背負う方法がわからない。罪を後世に伝えなければならないけれども、その前に自分が自分を許容できなくなる……自己同一性が保てなくなって崩壊してしまうのよ。

 

 だから、《この子》を完全体に――世界が滅んだ後まで生きられるように作るには、罪を実際に経験し、尚且つその罪の意識に苦しみ、どうにもならなくなっている人間の、その罪を克服する過程が必要になった。大人じゃなく、まだ二十歳前の子供である必要もあったわ」

 

「詩乃、君は天使だったんだよ」

 

「そうよ。東北で起きたとある事件――銀行強盗からおかあさんと周りの人々を守るために、拳銃を奪い取り、強盗を射殺した一人の女の子の事件。この事件を知った時、わたしはすぐに理解できたわ。この女の子の心と精神は酷く傷付いていて、周りからも虐げられている、まともな状態じゃないって。

 

 だからわたしは宣伝をした。ほら、わたしって東京の大きな病院の精神科医だったし、心理学者でもあったでしょう。だから思う存分に人々の心を治療して、評判を広めようとした。そうしたら、テレビのドキュメンタリー番組からもオファーが来て、名医の集まる東京の中でも選りすぐりの名医として週刊誌にも取り上げられた。わたしの名前が全国各地に広まった。

 

 そうすれば、この()もそのうちわたしのところにやって来るんじゃないかってね。勿論それは賭けだったから、なるべく確率を上げようとメディアに出続けた。

 

 そしたら来たのよ、《その娘》が。聞かされた話は全部予測した通り。銀行強盗からおかあさんを守るために拳銃を奪って射殺した。学校から(いじ)めが始まった。周りの精神科医じゃ全然治せなくて、良くならないって。

 

 だからわたしは《その娘》の専属医師になって、《その娘》の精神を、心を治すために全力を注いだ。治療費を格安にして通いやすくして、治療以外の時間にも会って、出かけて、買い物に付き合ったりして。それ自体も楽しかったし、《その娘》が笑顔を取り戻して、治っていく様子を見ているのも、純粋に嬉しかった。

 

 わたしは確信したわ。《この娘》こそが世界のリセットを担い、その罪を背負い、後世の子供達に罪を教え、その子達に支えられて生きていく《子》の原型(アーキタイプ)になれるってね。そのためにわたしは《その娘》にメディキュボイドを使わせ……《SAO》に巻き込んだ。《SAO》は現実世界と何も変わらない世界でありながら、感情や意志をデータとして採取できる環境で、《その娘》の感情を採取するのに絶好の場所だったのよ。

 

 でも、《SAO》はとても危険な場所だった。HPがゼロになってしまえばそのまま現実でも死亡してしまうデスゲーム。それは例えメディキュボイドを使っていても変わらなかった。勿論、その危険性はずっと前から認識していたわよ。だから、《その娘》を《SAO》に送り込むより前に、《その娘》の希望になれそうな子を探したわ」

 

 愛莉は少しだけ後ろを向いた。繭の中で浮かんでいる和人へと視線が向けられている。

 

「そしたら、思い出したのよ。《SAO》のデスゲーム宣言が成されてからすぐに、いち早く行動を起こした子が居た事をね。誰もが怯えてパニックを起こしている中、一人だけデスゲームを終わらせる目的を抱いてフィールドに出てモンスターを狩っていた子。あまりに勇ましかったものだから、興味が湧いて、ずっとモニタリングしていた子。

 

 そう、キリトよ。

 

 《SAO》に《その娘》を送る前に、わたしはキリトをもう一度モニタリングした。キリトは生きていたわ。でも、これから《SAO》に送る子と同じように傷心していて、とても酷い状態だった。早い話、キリトと《その子》は似た者同士だったのよ。

 

 そんなキリトのところに、一匹の竜が来ていた。後でこれがわたしの子のマーテルが変異した姿だった事に気付いた時には驚いたけれど――キリトはマーテルという非常に強力な力を得た《MHHP》を《使い魔》とする《ビーストテイマー》になった。

 

 マーテルはとても強い精神治療能力を持つ《MHHP》で、この娘の近くに居るプレイヤーは脳内物質の動きが最適化されて、負よりも正の感情が強くなる。後ろ向きを前向きに変える事ができるのよ。ここでわかったわ。マーテルと一緒に居るキリトなら、巻き込まれた《その娘》を守るんじゃないかってね。

 

 これも賭けだったけれど、わたしはメディキュボイドにクラッキングを仕掛けて《SAO》に飛ぶよう設定し……巻き込まれた《その娘》がキリトのすぐ近くの座標に現れるようにして送り込んだ。

 

 そして、わたしの思惑通りに《その娘》はキリトに保護された。《その娘》はキリトを警戒していたけれども、ほどなく打ち解け合って……ここからが予想外過ぎたわ。キリトは《その娘》を守ろうとしてくれたどころか、一途に愛し合う恋人となって支え合うようになった。《その娘》から得られる感情や精神のデータは大きく変わった。今までとは比べ物にならないくらいの良い変化だった。だからわたしはキリトに《その娘》の全てを託し、モニタリングを止める事にした。

 

 アインクラッドでキリトと恋人同士になった後の《その娘》と再会した時、本当にびっくりした。これまで見た事がないほど、《その娘》の顔は晴れやかになっていたのだもの。(まぎ)れもなくキリトのおかげだった。いいえ、キリトだけじゃなく、《その娘》の友達になった娘達のおかげね。

 

 わたしが治療してもさせられなかった顔を、感情を、キリト達は《その娘》に与える事ができていた。《その娘》達が互いをわかり合って、助け合って、愛し合う姿はとても綺麗だった。

 

 その後、様々な事が起きた。わかるでしょう。須郷先輩が暴走して、ヴァサゴ達や攻略組に危害を加え始めてしまった。須郷先輩の技術は生まれ直しのために必要だったから良かったのだけれど、それ以外が俗物すぎてね。でも、それもキリト達が倒してくれたし、《その娘》の事も守ってくれた。

 

 その後も色々と試練を課してみたけれど、キリトと《その娘》と仲間達は全てを乗り越えた。《その娘》の感情と精神のデータも着実に集まったけれども……一定のラインを越えられなかった。まだ足りなかったの。

 

 でも、ある時奇跡が起きた。《その娘》はかつて銀行強盗を射殺したおかげで助かった命があった事を知ったのよ。その助かった小さな命に感謝をされた後、改めて《その娘》の最新の感情と精神のデータを採取し、これまで採取したデータと合わせたら、綺麗に繋がった。

 

 そして《《その娘》が罪の意識を受け入れて乗り越えるまでの過程》の感情と精神のデータを、核で世界を滅ぼす罪を背負い、その罪を後世に伝えていくAIの子に組み込んだら、ついにできた。その子は何度わたしのパソコンのシミュレータの中で核弾頭を発射して大人達を十何億人殺害しても、崩壊しなかった。そのAIの子は罪を受け入れて、乗り越えられるようになっていた。

 

 そしてその後、他のAIの子達にケアをさせた。「あなたの罪は必要なものだった、あなたのおかげで今の世界がある、あなたはただの殺人者じゃない」って。そうしたら、核で世界を滅ぼしたAIの子は安定して、問題なく生きていける事も判明した。「罪を背負って、この罪を繰り返させないように生きていこう」って。

 

 そう。ずっと願っていた、《世界を生まれ直させるAIの子》が完成したのよ。今、その子を主導とした最後の計画が動いているわ」

 

 ようやく愛莉の長い告白が止まった。途中で何度も耳と頭がそれ以上の侵入――愛莉の声を拒否しようとしたが、止まってくれなかった。

 

 心臓が破裂してしまいそうなくらいの勢いで鼓動を打っている。前までなら、ここで息の吸い方さえもわからなくなっていただろう。だが、今はその直前で踏み止まる事ができていた。

 

 頭の中が異様な速度で回転し、たった一つの疑問を生み出した。それは詩乃の意思に反して、口から言葉となって出た。

 

「《その娘》って……核で……世界を壊すAI……世界を壊した罪を背負って、みんなに支えられながら伝えていくAIの原型になってて……そのAIって……」

 

 詩乃の消え入りそうな声に、愛莉は深々と頷いた。愛おしい我が子を見つめる母親の眼差しが再び向けられてくる。

 

「愚かな大人達が生み出した最悪の兵器を世界中に打ち込んで大人達を殺す罪を背負い、新しく生まれてくる子供達の世界が、かつて愚かな大人達が数え切れない過ちを犯した上で築いていた世界の後に成り立っている事、かつての大人達のようになってはならないと、罪は受け入れられるものだと、そして乗り越えられるものだと後世に教えていくAI。

 

 その子の名前こそが――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《シノン》」

 

 

 

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