撃ちなさい、詩乃」
耳が一瞬聞こえなくなるほどの破裂音と共に空気が熱く弾けた。
やった
やった
うばおうとしたやつをころせた
これでかずとは、たすかった
――そう思った直後に、詩乃は気付いた。手が動かない。それどころか腕さえも動かせない。自分の身体が自分のそれでなくなってしまったかのようだった。
すぐ近くに温もりを感じる。
こっちは両手で、あっちは片手。力の入り方はこっちの方が上のはずだった。なのに動かせない。どんなに力を込めても、愛莉の手が離れない。まるで接着してしまっているかのようだった。
「めっ」
子供を
「詩乃」
愛莉はもう一度呼びかけてきた。何度も聞いてきたいつもの声で続けてくる。
「一番最初に《シノン》の構想を練っていた時ね、《シノン》が完成した後には、その素材になった人は須郷先輩みたいに
愛莉は前かがみになって、目の高さを同じにしてきた。そして手を差し伸べてくる。
「おいでなさい、詩乃。あなたはもう我が子なの」
わけがわからなかった。どうしてあなたの子供にならなきゃいけない。どうしてあなた達の都合のいいように書き換えられなきゃいけない。
「そうだよ、詩乃。君はもう家族なんだ。
恭二まで続いてくるが、わけがわからないというのは変わっていない。完全に一方通行の話になっている。
「あなたはもう、悪い事の全てを忘れるべきなの。どうしてかわかる?」
詩乃は首を横に振った。わかるわけがない。愛莉は「そうよね」と言うなり、その指を詩乃へと伸ばしてきた。
あまり力が籠っていないように見えたが、凄い力で押し込まれたように詩乃は仰向けに倒れた。頭が痺れて思考が一気に遅延する。何、何が起きたの。
《あなたは生まれ直すべきなの。どうしてなのか、わかる?》
頭の中に直接響いた愛莉の《声》で詩乃は我に返った。身体に力を入れると、立ち上がれた。すぐさま驚かされる事になった。辺り一面が真っ暗になっている。
真っ黒で、一メートル先すらも見えない。完全なる闇の中に放り込まれていた。これはいったい? 私はあの繭のある大部屋に居たはずなのに。
《《シノン》はこれから大人達の手を操って核を放たせ、世界を焼くわ。大人達はあっという間に焼き尽くされる。でも考えてみて。
確かに、恭二があれだけ憎んでいる大人達は、肉体が消滅しようとも魂だけの亡霊となってこの世に残りそうなのはわかる気がする。
《そうなったら、大人達は何を憎んで、何を呪って、何を恨むか、わかる?》
詩乃が「え?」と言った次の瞬間、ずぶんという嫌な音がして足元が沈んだ。目を向けてみたところで詩乃は悲鳴を上げそうになる。地面が真っ赤に染まっている。ただの赤ではない。血と肉が溶けたような、生々しく毒々しい赤色だった。周囲は血肉の湖と化し、詩乃はそこに足を突っ込んでいた。
「あ、あ、ああ、あ、あ」
《憎悪と呪いの行き先は、あなたになるわ。だって、《シノン》はあなたを基にして生まれた存在だもの。身勝手で傲慢な大人達は《シノン》じゃなく、《シノン》を生んだ元凶としてあなたを憎悪し、呪うのよ》
どろどろの肉塊が湖から飛び出してきて詩乃を捕まえる。服を引き千切り、肌を直に掴んでくる。べちゃべちゃという粘着質の音が鳴り止まず、脚に留まらず、腰を掴み、腹を掴み、胸までせり上がって来る。そして老若男女の混ざり合った声が響く。
おまえのせいだ
おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ
おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだおまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ おまえのせいだ
「い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ」
喉が裂けてしまうほどの絶叫を吐き出して、身体を動かそうとした。迫りくる肉塊の群れと溶けた腕を振り払おうと藻掻く。それでも手は離れてくれない。
喉が裂けようとも声を出し続ける。聞こえてくる何もかもが混ざり合った怨嗟の声をかき消すために。
そして腕は胸を昇り、肩へ迫り、顔へ、頭へ迫って来る。詩乃の全てを呑み込むために。
《わかったでしょう》
怨嗟の声が突然消えて、代わりに女の人の《声》が頭にもう一度響いた。身体に纏わりついてくる血肉の泥も、腕も、肉塊も消え、詩乃は解放されていた。いつの間にか床に横になって倒れている事、元の場所に戻ってきている事に気が付いたのは同時だった。
「う゛っ、ぶっ」
直後、凄まじい吐き気が突き上げてきた。何とかして上半身だけをもたげたが、腹の中に岩石を突っ込まれたような吐き気は止まらない。胃の内容物が口を目指してせり上がってくる。
それを察したかのように、大きな洗面器のようなものが目の前に現れてきた。詩乃はその端にしがみ付いて握り締め、吐いた。
「う゛え゛ッ、お゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛ッ」
あの時の感覚を身体の外に出すかのように、詩乃は激しく吐いた。
完全に吐き気が治ると、目の前にあった大きな洗面器が内容物共々消えてなくなった。それでも背中には温もりが当たり続けている。
「今のが、生まれ直しを選ばなかった場合にあなたに降りかかるモノのビジョンよ。どいつもこいつも、あなたに責任を
愛莉の声に詩乃は限界まで目を見開く。あれが、げんじつになるの……?
「でも、わたしの子供として《電脳生命体》へ生まれ直せば、あいつらはあなたに纏わり付くどころか、近付く事も、呪う事もできなくなる。そしてあなたはわたしやみんなと……何より和人と一緒に、平穏に暮らす事ができるわ」
詩乃は
「……まだ、踏ん切りが付かない? ならもう一回見せてあげ――」
気付いた時、詩乃は愛莉の胸元にしがみ付いていた。涙が止まらなくなって周囲がぼやける中、愛莉の少し驚いている表情だけははっきり見えていた。
「んんんぅぅぅ、ん゛ん゛う゛う゛ん゛ん゛ん゛う゛う゛ん゛ん゛ぅん゛ん゛う゛う゛う゛う゛う゛ん゛ん゛ん゛ん゛――ッッ」
喉が潰れたように声が上手く出せない。今しがた叫んだせいだった。その中でいやいやをするように首を横に何度も振って伝える。いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、やだ、やだ、やだやだやだやだ。
「そうでしょう。嫌でしょう、あんなのは。わたしだって嫌よ、あなたがあんなふうになってしまうのは。
だから、もう一度聞くわね、詩乃。《生まれ直し》、する?」
詩乃は――――深く
「あぁ、やっとだね。ようやく詩乃も解放されるんだ」
恭二の声がしたが、もう気にならなかった。背中と後頭部に優しい手が当たり、心地良い温もりがじんわりと伝わってくる。全てを吐いたせいか、冷たくなっていた身体に暖かさが宿っていく。
「よく、今までずっと頑張ったわね、詩乃。あなたは本当に偉いわ。もう大丈夫よ。もう苦しまなくていい。もうあなたに罪が擦り付けられる事はないわ。……お疲れ様、詩乃」
愛莉の優しい声が耳を通り、脳へと運ばれてくる。そして心地良い温もりが、冷たくなった胸の中を満たしていく。
「次に目が覚めたら、和人があなたを迎えてくれるわ。みんなもそのうち一緒になる。だから、待っていて」
詩乃は愛莉に全体重をかけ、身体を
目を覚ましたのはそれから数秒後だった。そこは何もない空間だった。一瞬あの血肉の湖かとも思ったが、あそこではなかった。目の前に広がっているのは純白。白色がどこまでも続いている空間の中に、詩乃は仰向けになっていた。
何かに膝枕されているような感覚があるが、身体を動かす気になれなかった。今までの事が頭の中で思い出される。
ずっと、ずっと苦しめられてきた。忌まわしい存在扱いされて、突き飛ばされて、どこにも行く事ができなかった。誰かを信じる事もできなかった。そんな詩乃を憎んでいるとしか思えない闇の世界でも、和人や明日奈達という希望を見出した。特に和人と一緒に居ると、世界から闇が晴らされた。和人は詩乃にとって唯一無二の光だった。
その和人がユイやリラン、そして明日奈達といった光を更に連れてきた。だが、結局それも奪われた。もう何も残っていない。現実世界には何もないのだ。
あるものと言えば、核という最悪の炎で焼き尽くされた大地と、利己的だった者達が変じた怨霊達。それらは生き残った詩乃を永遠に呪うつもりでいる。そんな場所で生きる理由は何だというのだろう。
何もない。
そう、なんにもないのだ。
だが、そんな思考の中で、ふと思い浮かんだものがあった。もし、ここで愛莉達を止める事ができたらどうなるのだろう。核は撃たれず、皆は《生まれ直し》にならず――。
――ううん。これ以上頑張る必要なんてないんだよ。
声が聞こえた。はっきりとした声。もう一人の自分の声だった。
――もういいの。諦めていいんだよ。
詩乃は胸中の言葉で問いかける。これ以上、頑張らないでいい?
――そうだよ。もう諦めていいんだよ。もう和人も居ないんだから。
和人。自分にとっての光は、どこか遠い場所へ消えてしまっている。遠のいていくのは、今も自分がここに留まっているせいだ。
早く和人に追い付かないと。きっと私を待っている――そう思った時、膝枕の感覚がゆっくりと消えた。
身体に力が戻ってきたのと同時に頭の辺りに気配を感じ、詩乃はそちらに向いた。そこには一丁の拳銃が落ちていた。空間の色とは真逆の、黒々とした銃。グリップに黒い星の意匠が見える。
あの時の銃だ。これのせいで全てが始まった。全ての苦しみが、闇が、この銃から始まったのだ。今までずっと見る事さえできなかった拳銃に、詩乃は手を伸ばした。拾い上げたその銃は、あの時のように気持ち悪い熱を持ってはいなかった。
いつまでもここに留まっていては、和人のところに行けない。詩乃は手慣れた仕草でスライドを引いた。マガジンは空のようだが、薬室に弾丸が一発分だけ入っている。
確認した詩乃は膝立ちで祈るような姿勢を取り、その銃口を――開けた口に入れた。そのままトリガーに指をかける。
これで、終わる。いつまでも和人を待たせていちゃいけな――――