本作品の描写は全てフィクションであり、作中人物の思想・行動・過去は、現実の該当先天性疾患の患者・当事者の方々とは一切関係ありません。
また、本作品には該当先天性疾患の患者・当事者の方々を悪く描く意図、差別する意図、揶揄・中傷する意図は一切ございません。
あくまで作品内の人物設定及び物語上の出来事としてお読みください。
その市は当時の全国でも珍しい、出産・子育て支援に全力を注いでいて、「京都府で子供を産み、育てるならここ」とさえ言われるような場所だった。
その評判は誇張でも嘘偽りでもなかった。駅前に大きな保育園があり、無邪気な子供達の元気な声が環境音の一つとして受け入れられていた。商店街の方へ向かえば授乳室やおむつ替えスペースがあり、歩道は広く作られていた。ベビーカーを利用しやすくするためだ。
駅から程近いのは保育園だけではなく、子育て広場や公園や児童館、図書館から小児科までもが徒歩圏内にあった。市内に新しく家を建てれば補助金が出て、子供が生まれれば子育て支援金も出るという、若者や夫婦を優遇する制度が設けられていた。
まさに子育てをするには至れり尽くせりな環境である市に、全国中から若い夫婦が集まり、子供達が次から次へと生まれた。それだけでは終わらない。市全体が子供という存在を受け入れ、
商店街では店を
夏祭りでは子供達が主役となって、子供達が担ぐ
子供は未来を作る最高の宝――そのスローガンはただ市が
そして愛莉もまた、多くの人々に祝福されて産まれてきた子供の一人だった。
近所の子供達はほとんどが同年代かそれ以下であり、保育園も一緒だった。保育園を卒園して小学校に上がる直前の頃、近所には新しい家が次々と建ち、沢山の若い世帯の夫婦が移住してきていた。
そしてその人達もまた赤ちゃんを産み、育て、にこにこしながら幸せそうに暮らしていた。そんな近所の家々から聞こえる赤ちゃんの泣き声、小さな子供達がはしゃぐ声が愛莉にとっての日常の音であり、身の周りに小さな子供や赤ちゃん達が沢山居るというのが、当時の愛莉にとっての当たり前の光景だった。
そんなある時、おかあさんとおとうさんと共に外に出た時、偶然近所の若い夫婦と出会った。母親は赤ちゃんを抱っこしていた。「誰にでも微笑む愛想の良い子」と評判だった愛莉に、母親はこう聞いてきた。
「抱っこしてみる?」
母親は愛莉が赤ちゃんに興味津々だという事に気付いていたようだった。願ってもみない問いをかけられた愛莉は目を輝かせ、
「うん!」
と答え、母親が渡してきた赤ちゃんをそっと抱き上げた。当時六歳の愛莉にとって赤ちゃんは、少し重く感じられた。その場に居合わせているおかあさんとおとうさんは少々おっかなびっくりだったが、愛莉はふらつく事なく赤ちゃんをしっかり抱っこできた。
最初に強く感じられたのは、温かさだった。
赤ちゃんってこんなに温かいの? そう思って抱っこし続けていると、赤ちゃんと目が合った。愛莉がきょとんとしていると、赤ちゃんはにんまりと笑った。そのとても可愛らしくて愛おしい仕草と表情を目にしたそこで、愛莉に強い衝撃が走った。これまで体験した事がないほどの温もりが胸の奥から湧き出してきたのだ。
外の春と夏の中間の気温を押し返すほどの温かさは、愛莉の小さな胸を満たし、そこにこれ以上ないくらいの心地良い温もりと、嬉しいという感情と、愛おしさがいっぺんに加わって込み上げてきた。すぐさまそれらは愛莉の胸から出て喉を昇り、顔に到達して――笑みとして出た。
「あぁ、可愛い!」という赤ちゃんの両親からの声は赤ちゃんだけではなく、愛莉にも向けられていた。
愛莉は「えへへ」と笑ったまま、赤ちゃんを微笑む両親の元へと返した。そうして赤ちゃんの両親と別れた後、愛莉の中に一つの夢が生まれた。隠す必要もなかったので、愛莉は即座におかあさんとおとうさんに話した。
「わたしも、おとうさんみたいな素敵な男の人と結婚して、赤ちゃんを産んで、おかあさんになりたい!」
「世界一の科学者になる!」だとか「パティシエさんになって沢山の可愛いお菓子を作りたい!」だとかと比べれば、なんて事のない、平凡な夢。それでもおかあさんとおとうさんは肯定してくれて、おかあさんは、
「愛莉ならなれるよ。おかあさんみたいなおかあさんに!」
と言ってくれたのだった。優しくて温かいおとうさんみたいな男の人と出会って、お付き合いして、結婚して、赤ちゃんを産んで、おかあさんになる――それが愛莉を突き動かす夢であり、その胸の中に灯った
その後、試しに他のビジョンを頭の中で描こうとした。
科学者として研究に打ち込んで大発見をする自分、パティシエとして奇想天外な可愛いお菓子を作り上げる自分、アイドルとして歌を歌い、パフォーマンスをして沢山の人を魅了する自分。
多くの子供達が抱いているであろう夢のビジョンをいくつ描いても、あの赤ちゃんを抱っこした時に湧き出たビジョンは超えられなかった。
赤ちゃんを産んで、大好きな男の人と一緒に目いっぱいの笑顔と愛情を注いであげて、大人になっていくところを見ていきたい。おかあさんとおとうさんがそうしたように――頭の中からついて離れない最高の幸せのビジョンが、愛莉に前へ進む力を与えた。それは年数を重ねても変わらずに愛莉の燃料となり続けた。
学校での授業や遊びを通じて男女問わない沢山の友人ができて、将来の夢を話す機会があった。その時の友人達はスポーツ選手やパティシエ、警察官や消防士や看護師といった大きな夢を語っていた。
それらを大きすぎて叶いっこない夢などとは思わなかった。素直にどれも素晴らしい夢だと思えた。
そして、そういった壮大な将来の夢を聞いても、愛莉の夢は揺るがなかった。しかし、友人達のそれと比べるとあまりにも普通過ぎる夢だとわかっていた愛莉は、聞かれても「内緒!」と答えた。不思議な事に「ちぇっ」などと言って不服そうにする友はおらず、「きっと愛莉も大きな夢を持っているのだろう」と思ってくれているようだった。
それは本当の事だった。おかあさんになるという夢は、愛莉にとって至高で最も巨大な夢だったのだ。そんな将来の夢を語り合う事もある友人達と仲良くしながら授業を受け、休み時間に遊んで、家に帰って宿題をやる日々を繰り返し続けたところ――愛莉は同学年の中で最も成績の良い生徒になっていた。
どの科目の授業も内容がすんなりと頭の中に入ってきて、どんなに沢山詰め込んでも忘れない。どの科目のテストをやってもすんなりと問題を解き明かす事ができ、いつも百点満点か九九点という高得点で、通知表の内容も好成績ばかり。これにはおかあさんとおとうさんも驚きながら大喜びし、思い切り褒めてくれて、「頑張った愛莉へ」と言ってプレゼントまでくれた。
そしてその評判はいつの間にか近所にも伝わっていき、身の回りに居る色々な人が「愛莉ちゃんはすごいなぁ」「愛莉ちゃんの将来が楽しみやわ~」と言ってくれた。それは二年生になっても変わらず、一年中愛莉が学年一位を取り続けていた。誰もが一目置き、主席という制度があったならば余裕でそれを
その事を愛莉は不満に思う事など一切なかった。ただ両親や先生、周りの人々に褒めてもらえるのが純粋に嬉しかった。これならきっとわたしはおかあさんになれる。ちゃんと、なれる。素朴で飾り気のない、大きな夢のビジョンが愛莉の中で少しずつ固まっていった。
そんな日々を繰り返して、小学校三年生になったある時だった。
その日の授業には体育が組み込まれていた。更衣室で体操服に着替えてみんなで校庭に出て、いつも通りに準備体操をしたが、そこで聞かされた授業内容はいつも通りではなかった。白い直線の引かれているところを出せる限りの速さで全力疾走してもらうというのだ。
「なんだ、簡単じゃん」
とクラスメイト達が口々に言い、愛莉も実際にそう思った。しかし地面に引かれている白線は思ったよりもずっと長く、「簡単じゃん」と言っていた男子達は無事にゴールした直後にへたばっていた。他の女の子達――愛莉の友人達もそうだったが、よく見ればへたばっている者達と、平然としている者達の二つに分かれている事がわかった。どうやら現在の体力を計る簡易テストみたいなものらしい。
そして愛莉の番がやってきた。
「位置について……よーい、スタート!」
先生の声に合わせて地面を蹴り上げ、限界速度が出せるように全身に力を込めて走った。急激な運動で身体が熱くなり、胸の中も一緒に燃えるように熱くなった。足音に混ざってどっどっどっどっという心音が耳に届いてくる。どれも当然の事だった。
いや、どちらかといえば心音の方が強く聞こえ――。
「はっ、はっ、はぁ、は――」
あと少しでゴールというところで、急に目の前がおかしくなった。世界が回ろうとしている。横回転ではなく、ドリルのような回り方で回ってきている。どっどっという
「はぁ、はあっ、はあっ、はっ、はっ、は、は」
息ができない。いくら吸って吐こうとしても苦しい。
なにこれ、なにこれ――そう思っているうちに身体から力が抜けて走れなくなったどころか、立っている事さえできなくなった。心臓のおかしな音に混ざって激しい耳鳴りがする。頭の中に数え切れないほどの蝉が居て、一斉に鳴いてるかのようだ。
胸が、苦しい。
息が、できない。
「う、いぃ………………………………」
くる、しい
「芹澤さん? 芹澤さん!?」
「おい、どうしたんだ愛莉!?」
「愛莉ちゃん、どうしたの!? 愛莉ちゃん!!」
目の前が夜になったように暗くなり、遠くに居る先生と友人達の声が聞こえた気がして――ぷつんと糸が切れるように意識が途絶えた。
次に目を覚ますと、そこは知らない場所だった。ベッドで寝かされている。見えた天井は白っぽかったので、一瞬学校の保健室かと思った。けれども、よく見れば保健室とは天井の模様が違った。更に言えばベッド自体も保健室にあるそれと異なっているうえ、保健室にはベッドの傍に何かを置いたり、仕舞ったりする台もない。
「「愛莉……?」」
すぐ傍におかあさんとおとうさんが居た。どっちもお仕事に行く際の黒いスーツを着ているので、お仕事の途中だったのだろう。そんな事をぼんやりと考えている愛莉を、おかあさんが抱き締めてきた。おかあさんは泣きながら、何度も愛莉の名前を呼んだ。
そこにおとうさんも加わってきて、二人で何度も「愛莉……!」「良かった、愛莉……!」と言っていた。おかあさんとおとうさんが泣いている理由も気になったが、
「ねぇ、ここ、どこ?」
それが愛莉にとって今一番知りたい事だった。おかあさんによると、自分は体育の授業で全力ダッシュしている時に倒れて、意識を失った。そして駆け付けてきた救急車によって、京都府内で最も大きな病院であるここに運び込まれたのだという。
あれ、じゃあここって家や学校からかなり離れたところなんじゃ――そう思ったところで先生が来て、おかあさんとおとうさんと話を始めた。
自分が起こしたのは心臓由来の失神である可能性が高い事。心臓に何か障害があるかもしれない事。今すぐに検査をしなきゃいけない事。そのために入院しなきゃいけない事。それらだけは聞いていて何となくわかった。
入院すると退屈で仕方がない、病院のご飯は美味しくない――三年生に上がる直前のテストで良い点を取ったご褒美のプレゼントとしてもらったノートパソコンでネットサーフィンをしていた時、そんな話を聞いた。その入院をしなきゃいけないというところでかなりげんなりとしたが、愛莉は渋々現状を受け入れる事にした。
そして様々な検査が行われた。先生達が聞かせてくれたとおり胸のレントゲンから始まり、CTスキャン、MRI、心電図といった色々な検査が行われた。だが、MRIによる心臓の検査が終わって病室に戻ろうとした直後に、先生達に呼び止められた。
まるで何か良くないものを見つけたかのような顔をした先生達は、「愛莉ちゃん、もうちょっと調べるよ」と言って、愛莉の
病室に戻ってくると、おかあさんとおとうさんの姿はなかった。お仕事に戻ったのかなと思ったが、看護師さんは「今おかあさんとおとうさんは先生と話をしているよ」と言っていた。しばらくすると、本当に二人は愛莉の居る病室に戻ってきた。
そこで愛莉は異変に気が付いた。おかあさんもおとうさんも、自分が目を覚ましてすぐに抱き締めてくれた時とは、まるで様子が変わっていた。
二人の表情は、つらいのを我慢してなんとかいつもの顔を作っているようなものになっていた。「検査が終わって良かったね」とおかあさんは言ってきたが、その瞳には何か重大な秘密を知ってしまったような色が浮かんでいる。
「おかあさん、何がわかったの。わたし、何かあるの?」
愛莉の問いかけにおかあさんは答えた。
「愛莉は生まれつき心臓がよくなかったの。だから、これからは激しい運動をしちゃ駄目。体育の授業も駄目で、もしやったら、今日みたいな事になってしまうかもしれないって、先生が言ってたわ」
それはそれで衝撃的だった。自分の心臓が生まれつきよくないものだったというのも、確かに衝撃的だった。
けれども、それだけじゃない――愛莉は直感でそう思った。おかあさんもおとうさんも、それ以上に大事な事を知って、なんとか隠そうとしている。隠し事をされている。普段から隠さないで色々な事を教えてくれるからこそ、二人の異変がすぐにわかってしまった。
「おかあさん、おとうさん、何か隠してる」
二人ははっとしたような表情になった。愛莉は続けた。
「おかあさん、おとうさん、先生から何を言われたの。ずっと変だって思ってたの。どうして心臓よりも、おなかよりも下をMRIで検査したんだろって」
疑問をぶつけると、二人は
「……落ち着いて聞いて、愛莉」
そう切り出したのはおとうさんだった。わたしは長く生きられない――そんな事を言い出すのではないかと思った。だが、そこで話し相手はおかあさんに交替した。
「あなたは、病気だったの」
「なんて病気なの? 心臓病とか?」
おかあさんの瞳から涙が
「――ロキタンスキー症候群」
ロキタンスキー症候群。頭の中でリフレインさせても、何の病気なのか思い当たらない。というか、たった今初めて知った病名だった。てっきり心臓病と言われると思っていたので肩から力が抜けた。
しかし、そうなったのは愛莉だけだった。おかあさんに加えておとうさんまで泣き出していたのだ。
「なんで……どうしてなんだ……どうしてよりによって愛莉に……こんな……あんまりだ……」
二人してとても悲しそうなのはわかった。それでも、その病気が何なのかわからない。愛莉はどういう反応をすべきか、迷子になっていた。
「ねぇおかあさん、ロキタンスキー症候群って、何なの」
おかあさんはとても重そうに口を開いた。
「……妊娠も出産もできない病気よ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。全ての言葉を
妊娠。赤ちゃんをおなかの中に宿す事。
出産。赤ちゃんを産む事。
頭の中で確認した直後、おかあさんは続けてきた。
「あなたのおなかには、妊娠と出産のために必要なものが、全部ないの……心臓が弱いのは、元々あったロキタンスキー症候群のせいだったの……」
その言葉は愛莉の頭の中で何度もリフレインした。
わたしのおなかには、赤ちゃんを宿すための場所も、産むための場所もない。心臓が悪いのは、このせい。
心臓が悪いのはこの際どうでもいい。赤ちゃんを宿すための場所、産むための場所がないなら、それって――。
「それって治せないの? 病気なら、治せるよね?」
僅かな希望に
「よく見られるロキタンスキー症候群なら、大きな手術をすれば治せない事はないんだ。でも、愛莉の場合は卵巣――赤ちゃんを作るための部分もちゃんとした形になっていなくて、ホルモンっていう生きていくのに必要なものを作り出すだけで精いっぱいで……赤ちゃんを作る事がそもそもできないんだ。こうなってしまっているのは百数十万分の一の確率……なんだそうだ……」
愛莉はゆっくりと下腹部を見下ろした。近所の妊婦さん達が歩いている時の光景が頭の中を埋め尽くす勢いで思い出される。
赤ちゃんの居る大きなおなか。大人になれば、いずれ自分もあぁなれるのだと思っていた。そして、赤ちゃんを産んで、おかあさんになれるのだと。
でも、そうじゃなかった。現実では女の人が妊婦さんになり、おかあさんになるためには、必要なものがいくつもあった。本当なら、自分にもそれがあるはずだった。
だけど、おかあさんのおなかの中に居た段階で、おかあさんになるためのものを全部取り上げられてしまっていた。
――わたしも、おとうさんみたいな素敵な男の人と結婚して、赤ちゃんを産んで、おかあさんになりたい!――
かつての自分が夢を語った際の声が遠く聞こえた。
おとうさんみたいな素敵な男の人と出会う事はできる。結婚もできるのだろう。
けれど、その先がない。そのためのものがわたしのおなかから消えてなくなってしまっているのだから。どんなにテストで良い点を取っても、どんなに良い成績を取っていても、どんなにあらゆる事を頑張っても、どんなに神様にお願いしても、このおなかに
わたしのおなかから産んであげられる赤ちゃんは、どこにもいない。
わたしのおなかは、いつまでもぺったんこのまま。
その事実だけが真っ白な霧になって、際限なく頭の中に広がっていった。
気が付いたら、家に帰ってきていた。どんな経過を
そして同時に愛莉は、
学校に行けば友達に会えるし、授業も受けられる。勉強は重ねられる。テストで高い点数を取れば評価される。好成績の通知表を受け取れば、先生にも、みんなにも、近所の人達からも、「将来が楽しみな最高の優等生」と褒められる。
けれど、それだけだ。それ以外に何もないし、何も変わらない。どんなに勉強を重ねて、良い点を取って、優等生と褒められても、身体が突然変異して赤ちゃんが産めるようになるわけではない。
わたしが抱き続けていた夢は学校に通い続けたところで叶わない。だからもう行く意味がない――頭の中を覆い尽くす白い霧の中でその答えを導き出した愛莉は、部屋でずっとノートパソコンでネットサーフィンする日々を送るようになった。
窓の外からは相変わらず小さな子供達の遊ぶ声、赤ちゃんの泣き声がよく聞こえた。それらは耳障りではなかった。寧ろとても可愛くてたまらない。でも、とても遠かった。入院するまではとても近くに感じられたのに、今はどこまで手を伸ばしても届く事のないところにいるように感じられた。自分と赤ちゃん達の間に見えない分厚い壁ができて、
そんな遠い存在となった小さな子供達の声を聞きながら、愛莉はネットの海を
時間になればご飯を食べに行き、風呂に入りにも行けた。それだけの気力は残っていた。しかし、前は美味しく感じられたご飯も、まるで味の抜けたガムを噛んでいるようにしか感じられなくなっていた。風呂も冷たくはないが温かくもない、中途半端なものに感じられるようになっていたが、身体を綺麗にする事くらいは怠らなかった。
そうしているうちに、いつの間にかおかあさんがずっと家に居るようになっていた事に気が付いた。ノートパソコンを使ったリモートワークというものをするようになったらしい。どうでもいいとは思わないが、しかし嬉しいとも思えなかった。おかあさんが傍に居てくれても、渇きは癒されなかった。
しばらくすると友人達が家にやってきた。体育の授業で倒れて以来、学校に来ない自分の事が心配になってきてくれたようだった。それは素直にありがたいと思い、部屋を出て友人達と顔を合わせた。相変わらず元気そうだった友人達は、自分を見てびっくりしているようだった。恐らくも何も、あの時を境に別人のようになってしまっているからだろう。
けれども友人達は怯えたり怖がったりせず、いつものように話をしてくれた。「あの後こんな事があったんだよ」「この前なんかあんな事があってさ」と、クラスの近況を楽しそうに話してくれた。だが、途中で友人達は異変に気が付いた。自分が一切口を開かず、ただ受け身で話を聞くばかりであるという事に。
友人達がわざわざ家まで来てくれて、話をしてくれる。自分をまだ友達だと思ってくれている。自分は見捨てられていない。それは涙が出るほどに嬉しい。
だが、そんな友人達に何を言ったらいいのかがわからなかった。せいぜい言えるのは「来てくれてありがとう」の一言で、それ以外の言葉が全くと言っていいほど出てこない。頭の中が濃い白い霧に覆い尽くされて、心がからからに渇いてしまっているせいで、何の言葉も思い浮かばないのだ。
そして、友人達からの話もまた、すぐ近くで起きている事のはずなのに、海の向こうの遠い国の話のように感じられた。だから、興味が湧かない。前の自分は食い入るように聞いたものだが、今はそれが一切できなくなっていた。
色々な話を聞かせてくれた後、友人達は帰っていった。帰り際に玄関で言われた、
「また来るね、愛莉ちゃん」
という言葉に愛莉は、
「……また来てくれると嬉しい」
と返事をして、いくつかの背中を見送った。その日はなんだかどっと疲れてしまい、いつもより早く眠りについた。
そして迎えた翌日の朝食では、おとうさんも一緒だった。カレンダーを見たら土曜日だった。すっかり曜日の感覚さえもなくなっていたという事に、愛莉はようやく気が付いたが、それはすぐに頭の中の白い霧に掻き消された。
そんないつもと変わらない調子のままご飯を食べ終わり、部屋に行こうとしたその時――。
《アメリカで世界初の、人と会話できる対話型AIが公開されました》
そのような言葉が聞こえて、愛莉は振り返った。テレビのアナウンサーの声だった。
「愛莉?」とおかあさんとおとうさんが軽く驚いている中、愛莉は立ったままテレビを見つめた。テレビの映像は続く。
アメリカ合衆国の方で長々と開発されてきた『人とテキストで会話する事のできる対話型AI』というものが、ようやく実用段階にまで至り、合衆国内で配信開始された――らしいというのが、ニュースの内容だった。
「えー……あい……?」
何だか聞いた事あるような気がするけれど、なんだったっけ――気になって仕方がなくなった愛莉は即座に部屋へ戻り、ノートパソコンで検索をかけた。
《AI》。《
続けて先ほどテレビでやっていたニュースを検索し、テレビでは端折られていた全てを閲覧した。凡そテレビで言っていた通りだった。これまでのAIといえば、入力された命令を受けて計算をして答えを出したりだとか、人間相手にゲームで対戦をしたりなど、その程度の事しかできなかった。
だが、今回アメリカ合衆国で配信開始されたそれは、これまでのAIとは一線を画すものだった。テキストを入力して送信すると、AIがその内容に応じた返答をしてくるというのだ。
日常的な雑談をすれば面白い内容の返答をしてくれて、業務効率化のためなどの相談をすれば、それに応じた計算やプランを計画して提案してくる。インターネットさえ繋がっていれば二四時間いつでもまるで人間同士のそれのように会話ができるAI――それが先ほどのニュースで取り上げられていたモノの詳細だった。
しかし、そのAIについて検索をしたところ、散々な評判ばかりが躍り出てきた。まず英語にしか対応していないために、基本的に英語圏の人しか使う事ができない。仮に英語の壁を越えられたとしても、返ってくる文章はいい加減な情報で埋め尽くされているだとか、そもそも誤字・脱字、文脈間違いだらけで、失笑してしまうほどのものであるという。
ニュースでは仰々しく言っているが、実際は使い物にならないガラクタだ――というのが実際に使ってみたユーザー達の正直な意見だった。だが、そこで愛莉は引っかかりを覚えた。
人に作られた、人みたいに考え、計算や判断をして、実際に行動できるモノ。そういうものを一括りにしてAIと呼ぶのであれば、もしかして――。
愛莉は部屋を飛び出してリビングに向かった。朝食を終えたおかあさんとおとうさんがびっくりしたような顔でこちらを見てきたが、即座に頼み込んだ。
「アニメが見たい。ロボットとかそういうのが沢山出てくる、SFのアニメが見たい!」
胸の内で思っていた事を告げたところ、二人はもっと驚いていた。そしてすぐに、ずっと見た事のなかった笑顔で「配信サイトがあるから、そこで見られるよ! どれが見たい?」と言ってきた。
二人がまるで暗闇の中で光を見つけたような喜び方をしていたのは、ずっとからからに渇いて、あらゆる物事への興味を失ったままだった愛莉が久しぶりに興味を示すものを見つけ出したように思えたからだったが、そんな事情を愛莉は何一つ知ろうともせず、二人が見せてくれたアニメに釘付けになっていた。
画面の向こうで、AI――正確にはロボット――のキャラクター達が動いていた。人間のように感情を持った個性豊かなAI達が、パートナーである人間に寄り添い、苦楽を共にして生きていく。中には人間と争ってしまうものもあったが、AI達は
そんなAIのキャラクターが涙しながら人間と抱き合うシーンに差し掛かった時、愛莉の中で一筋の光が走った。
この子達はみんな、人間によって作られた存在であるというのに、人間のように心を持ち、最初からそういう生き物であったかのように生きている。しかし現実のAIは、先ほど見たアメリカで作られた対話型AIのようにお粗末なもの。でも、AIを作る事自体は不可能ではなくなっている。
もしわたしが、このアニメのキャラクター達みたいなAIを作る事ができれば、それは――。
――くだらないネタ オリキャライメージCV――
子供愛莉 ⇒久野美咲さん