世界を終わらせないため、ここまで自分達を愛し、導いてくれた母にこれ以上の罪を重ねさせないためのゲームは始まった。しかし、開始早々に母――イリスは手札の一枚を見せてきた。
これまで、《SAO》、《ALO》、《
十二本。
一瞬数え間違えたかと思った。イリスというかつての恩師、何度も助けてくれた人、そして母親の一人という存在が相手であるため、プレッシャーによってぶれて見えたかとも思った。だが何度確認しても、イリスの頭上の《HPバー》はこれまでの最大値だった五本の上に七本表示されていた。
これまでのボスエネミーの二倍以上の量である、十二本もの《HPバー》。
早速とんでもないものを見せ付けてきたイリスはポケットから手を引き抜き、武器を持った。それは彼女の着ている前の開いた白いコート同様にところどころに七色の光のラインの走る、
しかし、どの面も白色なので、頭の体操をするための玩具であるルービックキューブとしての役割は果たしていない。まるで矛盾そのものが具現化しているようなモノだった。
あんなもので何を仕掛けてくるつもりだ――そう思いながら突進し、完全体となった《
「やあああああッ!!」
その時、丁度隣に並んでいたのはユージオだった。イリスの出方を
「まずは、そう来るのね」
イリスの口から静かに言葉が
目を見開いて確認すると、イリスはいつの間にか長剣を持ち、自分達の剣を受け止めていた。今まで持っていた立方体はどこへ行った――そう思って瞬時に目だけを動かしてイリスの手元を見たところで、キリトは真相に気が付いた。
イリスの持っている剣は、三六個の小さな白い立方体によって構成されているという異様な姿をしていた。自分達が振り下ろした二本の剣を受け止めているのは、その複数の立方体によって構築されている刀身を根元にして発生している赤い光の刃だ。立方体の群れが
「なんだ、それ……!?」
見た事もないような武器の登場にユージオが目を見開き、今まさにキリトも思っていた言葉を口にする。
「自分で掴んでみせなさい」
イリスは無機質にそう吐き捨てて正体不明の剣を引いた。これまでならば剣で押し込もうとする力を抜けずによろけるところだったが、ここまで来た経験が活き、即座にイリスと合わせて剣を引く事ができた。それはユージオも同様で、二人でほとんど同じ動きをしてイリスと同じ体勢を作った。
直後、イリスは居合の姿勢を取った。単発攻撃刀ソードスキル《
いや、そもそもイリスの持っている剣は長剣であり、刀ではないはず。
そう思っていたところで彼女の持つ長剣を構成している立方体の列のうち、刀身側がスライド移動したのをキリトは認めた。同時に長剣の刃であった光が赤から
赤い光で刃が構成されていた長剣は、一瞬のうちに橙色の光で刃を作る、カイムが持っている《EGO》のような大太刀へと姿を変えた。
「なっ……!?」
ユージオと共に目を見開いた直後、鋭い一閃が襲い来た。キリトは
がきぃぃぃんという鋭い金属音が鳴り響き、飛び散った火花で再び世界が一瞬真っ白になって一瞬で元に戻る。
衝撃が腕の筋肉を通り抜け、骨にまで響いてきた。神経が締め付けられて手から力が抜け、剣が滑り落ちそうになる。それでも磨り減るほどに歯を食い縛り、キリトは踏みとどまった。それはユージオも同じで、思い切り歯を食い縛って大盾を構え、イリスの大太刀を受け止めていた。
横目でユージオの頭上と視界の左端を見る。どちらも《HPバー》は減っていなかった。ひとまずはダメージを喰らわずに済んだようだ。
だが、とんでもない事がわかったかもしれない。この人の武器は――。
「めっ。動きを止めちゃ駄目でしょうに」
イリスの
イリスは立方体の列と、赤色と橙色の中間色の光で形作ったバトルハンマーを両手で握り、高らかに振り被っていた。狙う先はユージオだ。
「ッ!」
ユージオはもう一度氷の大盾を構えて受け止める。どがぁんという轟音が耳を
しかしそこで止まるイリスではなかった。バトルハンマーを再度振り上げて打ち付けてきたのだ。一度だけではなく、二度、三度と執拗に繰り返す。一度で割れないならもう一度、まだ割れないなら更にもう一度、割れるまで何度も打ち付け続ける――何も考えていないのではないかと思うくらいに単純を極めているが、その先入観故に予測できなかった力押しの殴打。
それが五度目に達した時、がっしゃああああんという爆発にも似た破砕音を轟かせ、ユージオの氷の大盾はついに砕かれてしまった。
防御を破られてよろけたユージオをロックオンしたイリスは即座に体勢を変えて、下から打ち上げるようにバトルハンマーを振るった。今度こそ回避も防御もできなかったユージオの腹部をバトルハンマーが襲い、その先端が突き刺さった。鈍い衝突音の直後にめきめきという嫌な音がしたかと思うと、ユージオが血を吐いた。そのままイリスは振り抜き、ユージオを後方へ吹っ飛ばした。
「ユージオ!!」
理想郷の地面に激突して転がるユージオにアリスとカーディナルが駆け付ける。すぐさまカーディナルが最も強力な回復神聖術を使い、ユージオの治療に取り掛かった。しかしキリトはそこでユージオの容態よりもその《HPバー》に目を見開いた。
ユージオの《HPバー》は危険域を示す赤へと変色するほどの量しか残っていなかった。たったの一撃で、《HPバー》の残量をあそこまで削られてしまったという事実に
あれがイリスの渾身の一撃だったのか。
ユージオは直撃を諸に受けた事であのダメージを負った。防御や回避の末に
そしてそれをイリスが狙わないわけがない。愛する子供である自分達を《安心して暮らせる世界》へ
現に今彼女はきょとんとした顔で、回復術を掛けられているユージオを見ている。
今ので削り切れなかった? 力加減を間違えた? そう思っているのは確かだろう。次からはもっと力を入れてくるはず。こちらのHPの全てを確実に奪い取れる攻撃を、正確かつ着実に繰り出してくるはずだ。
発売当初はその極端なゲームバランスで一部のプレイヤー達を熱狂させる程度だったが、その後徐々に一般層へ広まっていき、今では同じマインドを根底に持つ亜種的ゲームがいくつも出ている
攻撃の飛来時に少しでも判断と行動を誤ればHPが全損して死亡。イリスの最大出力の不意打ちを喰らった同志達と同様にあの《繭》の中に吸い込まれて終わる。そして自分達の敗北は世界の、人類の終焉を示す。
破滅の結末を回避するためには、このゲームバランスが完全にどこかへ行ってしまっていて、コントローラーをディスプレイへ投げ付けたくなる理不尽なゲームに勝たなければならない。そしてそんなゲームを仕掛けてきているのはイリス。自分達の恩師であり、あらゆる厄災の元凶でもあった人。
なんてこった。最悪じゃないか。こんなゲームに勝たなくてはいけないなど、何の悪夢だというのだろう。
「はああああッ!!」
だが、そこで止まる仲間達ではなかった。自分と同じ双剣を使うマキがイリスの元へと駆けた。その後を追ってメディナとドロシーとダハーカも続いていく。
「!」
彼女達の接近に気付いたイリスは武器を長剣へ変形させて、最も早く届いてきたマキの双剣を受け止めた。更にそこにメディナとドロシーも加わり、三人の娘の武器が一斉にイリスの長剣に圧し掛かる。ぎりぎりという擦れるような金属音が鳴る中、マキが口を開いた。
「イリス先生……なんでよ! 何もかもが計画と実験って……あたしとおねえちゃんを生き返らせてくれたのも、結局そのためだったの!?」
イリスは長剣を両手で持って押し込みに対抗し始める。
「そうとも言えるけど、全てがそうと言えるわけじゃあないわ。
イリスは細めた目でマキを見つめた。
「でも、そのためだけにあなた達を生き返らせたんじゃあない。あなた達を生き返らせたのは、《SAO》で命を落としたのは間違いだったって思ったからよ。あなた達はもっと生きるべきだった。
マキは一瞬目を見開き、すぐに強い怒りの表情を浮かべた。
「あたし達がキリト達と生きるべきだったって……じゃあ先輩達は……《月夜の黒猫団》の先輩達はどうだったの!? あたしとおねえちゃんだけ生き返らせて、先輩達を生き返らせなかったのは何でなの!? キリトと深く関わってたのがあたしとおねえちゃんだったから、先輩達はどうでも良かったっていうの!?」
「勿論彼らも和人達とあるべきだと思っていたわ。でも、彼らの場合はナーヴギアからデータをサルベージできなかったのよ。あなた達は運よくナーヴギアがネットワーク接続されたままだったからサルベージできたけれど、彼らはそうではなかった。ごめんなさい」
そこでメディナが「はっ」と言った。イリスへ嘲笑を向けている。
「……理由がどうであれ、お前に選ばれた者だけがこの理想郷みたいな世界に行けるわけか。結局お前のやっている事は選民じゃないか。そして産まれる子供達は争わないって話だったな。争わないから勇気も育たず、いつだってお前という母に危険から遠ざけられて、悪意を向けられても抵抗できない
「
激しい怒りを顔に浮かべたドロシーも大鎌で加勢し、イリスをどんどん押し込んでいく。それでもイリスは冷静さを一切失わずに答えてきた。
「それは違うわよ。危険から目を
氷のように冷ややかに物事を見て判断して、立ち向かう時は炎のように立ち向かえる勇気を一緒に育てる。今まさにわたしに立ち向かっているあなた達が持つ勇気を、これから産まれてくる子供達もちゃんと抱いて大人になるわ。だから、安心して《生まれ直し》をしていいの」
イリスはまた包み込む優しき母の声で伝えたが、果たしてそれは三人の娘に更なる怒気を燃やさせた。三人は己の武器で《大いなる聖母》を名乗る邪神を討とうと、更に力を入れていった。擦れる金属音が強さを増し、イリスの動きは完全に封じ込められる。やがてイリスの長剣がどんどん押し込まれていき、ついに衣装の構造の関係上露出している両肩にドロシーの大鎌とメディナの《EGO》が食い込んだ。
血が流れると同時に、最も上にある《HPバー》の残量が減っていくが、その減少速度にキリトは驚かされた。ただ武器が食い込んでいる程度なのに、《HPバー》がどんどんと減っていく。そして傷が生じてまだ十秒程度しか経過していないにもかかわらず、最上段の《HPバー》の量は既に四分の三程度になっている。あの十二本は数こそ多いものの、内容量自体はそこまで多くないという事なのだろうか。
「……それと、もう一つ。生まれ直したらそんなふうに激しく怒らなきゃいけなくなるような事もなくなるわ。純粋に楽しい時間を過ごせるようになるから――」
イリスがそう言った直後、目を疑うような光景が展開された。今まさにメディナとドロシーの刃が食い込んで流血しているイリスの左右の肩の背部から、突然大きな影が飛び出した。
手だ。人間のそれである掌を腕部よりずっと大きくしたような形状で、一定周期で色が変わる虹色の光で関節を、それ以外の大部分を光沢のない金属にもセラミックにも見える白い物質で構成している巨腕だった。
その形状と雰囲気には既視感があった。ユピテルだ。アスナの《使い魔》としての姿になった際の、彼の肩から生える巨腕を形作る青い電気エネルギーを虹色の光エネルギーに、掌をあの白い物質に置き換えて巨大化させれば、ほとんどそのままイリスの肩の後部から生えているそれになる。
しかし完全にユピテルのものと同じではなく、掌が白い物質でしっかりと構成されているところが相違点だった。ユピテルのそれのように不定形気味ではない。
「なっ……!?」
最初に気付いたのはメディナだったが、その時にはもう遅かった。掌だけでイリスの上半身と同じくらいの大きさのある巨腕の《左手》がメディナの片足を、《右手》がドロシーの胴体を掴んでいた。何の音も生じず、二人はイリスから引き離される。
「――ね?」
イリスが微笑むと、その肩から生える巨腕はそれぞれが独立した生物のように動いた。《左手》は片足だけを掴まれて宙ぶらりんになっているメディナをぶんぶんと振り回した後に、勢いを付けて地面に叩き付けた。
ほぼ同刻、《右手》は一瞬で開いてドロシーを解放したかと思うと、一気に加速して、開いた掌でドロシーを叩き潰した。掻き消されてしまったのか、彼女達の悲鳴は聞こえず、凄まじい衝突の轟音だけが耳に届いてきた。
《メディナ先輩ッ!!》
「ドロシーッ!!」
巨大なグリフォンナイトとなっているグラジオと、イリスに接敵しようとしていたダハーカが叫んだ。キリトは彼らの視線の先に視線をやり、
ドロシーに至っては
そして二人とも地面に伏したままぴくりとも動かない。今の一瞬で絶命してしまったかとも思ったが、焦燥の中で目を凝らして《HPバー》を見たところ、ごく少量が残っていた。
イリスがまた力加減を間違えたのか、それとも彼女達自身の意志が、《
「……っと」
直後、イリスはメディナとドロシーを見て唖然としているマキの剣を押し返した。あまりに突然の事で力が抜けてしまっているマキは、一瞬のうちに体勢を崩され、そこでようやく我に返ったようだった。
二人の目が交差したところで、イリスの長剣が一瞬にして組み変わった。バトルハンマーをも超えるほどの長さの柄が形成され、先端に黄色の光の刃で構成された十文字の穂先が現れた。
槍だ。
「キリトとユージオに言ったの、聞こえなかった? わたしを相手にしてるんだから、止まっちゃ駄目よ」
次の瞬間――マキの胸や腹が貫かれると思った。だが、実際にイリスがやったのは槍の後部でマキの両手の剣を弾き飛ばし、更に姿勢を崩させるという攻撃だった。しかし決して拍子抜けではなかった。大きく仰け反らされたマキを、イリスの背部から伸びる《右手》が力強く掴んだかと思うと、メディナと同様に乱暴に地面へ叩き付けた。
「がっ、は」
「マキ……マキッ!!」
一瞬にして絶命寸前にまで命の値を削られた妹を見て姉のサチが悲鳴を上げるが、そこで終わらなかった。《右手》は地面へ叩き付けられて血だらけになったマキを振り上げると、ダーツのような持ち方をした後に投げ付けた。その先に居たのはサチだ。
まさか妹が投げられてくるとは思ってもいなかったサチは、マキを抱いて受け止める事もできず、その衝突を諸に受けた。
「かはッッ」
潰されかけた声と共に血を吐いたサチは、マキともつれ合いながら後方へと転がっていった。止まった際に確認すると、マキのHPはあと一撃受ければ空になるほどの量しか残っていなかった。サチのHPはマキよりも多いものの、半分を切って黄色く変色していた。
「サチさん、マキさん!!」
「メディナさん、ドロシーさん!!」
ユピテルとリーファの叫びはほとんど重なっていた。ユピテルがシリカと共にサチとマキの元へ駆け付け、同刻リーファがメディナとドロシーの元へ駆け付け、その後にプレミアとティアも続いて走った。間もなくティアがイリスと彼女達の間に割って入り、その後ろでリーファがスーパーアカウントの能力を発動させる。
理想郷の草に覆われた地面から柔らかく温かい光が無数に湧き出て色とりどりの花々が咲き乱れた。優しき光の群れは、身体中の骨が折れ、あちこちの皮膚と筋肉が断裂していたであろうメディナとドロシーを包み込み、その血を止めて傷を塞ぎ、ずたずたにされた身体を治していった。
《無制限天命自然回復能力》。周囲の広範囲空間から自動的にエネルギーを吸収し、自身や他の動的・静的オブジェクトの《
この場の空間リソースがどれほどの大規模神聖術で使われようとも尽きる事のない状態となっているが故なのか、それともこの理想郷自体がそういう仕様になっているのかは定かではない。いずれにしても今のリーファ達を見る限り、どれほど《神の力》を使おうともフラクトライトへの負荷がかからなくなっているようだ。デメリットを無しにして、大いなるメリットだけを享受できる――そういうふうになっているのだろうか。
だとすれば何のためにそんな仕様に? いつもの癖で頭の中で疑問が回転しようとしたその時、
《だああああああああああッ!!》
一際大きな絶叫がしてキリトは我に返った。間もなく激しい衝突音が聞こえてきた。
グラジオだ。《EGO》そのものである茜色の巨大な鎧で全身を構築したグリフォンナイトとなっているグラジオが、巨大な両手剣でイリスに斬りかかっていた。基本的に耐えられる者が存在しなかった超重量による攻撃は、果たしてイリスに受け止められていた。肩の背部から飛び出している巨腕が
あのような力を使うイリスでも、グラジオの超重量攻撃はあそこまでしないと防げないらしい。だが、そのHPは動いていない。刀身が彼女の身体に届いていないためだ。
「重たっ……そんな力を出せるだなんて、すごいわねグラジオ」
《お前に褒められても全然嬉しくねえ! よくもメディナ先輩を……!!》
「メディナはまだ死んではいないわ。ちょっと入れる力の加減を間違えたみたいなの。でも、次はしっかりやるし、その時はあなたも一緒にするから、安心なさい。愛してる先輩と、みんなと安心して暮らせる世界へいらっしゃいな」
まるで悪人のような口調と言葉であるが、しかしイリスからは何の悪意も生じてこない。イリスは自身が描いた理想の世界を人々に押し付けるという、
なのに須郷のようなどす黒い悪意を何一つ感じられないどころか、茅場のような無色の野望さえもない。あるのはこちらを包み込もうとしてきている純白に虹色の光が宿る善意だ。
質が悪い事にそれを独善と言い切る事もできない。彼女の言っている《電脳生命体》の世界は、彼女が出した結論ではなく、実際に現実世界の有り様を見続けた彼女の子供達が出した結論だからだ。かつて自分達は須郷の悪意を拒絶し、彼の者を討った。それと同じだ。須郷のような悪意が無数に蔓延る現実世界を、自分達同様に子供達は拒絶し、滅ぼす事を決めた。
イリスの子供達にとっての《悪》は現実世界。イリスはその意思を尊重し、その背中を押してやっただけだ。そしてイリスは子供達が悪と定めた現実世界から自分達を解放したいために、このゲームを仕掛けてきている。
「ふざけた事を言うのも大概にするべきだ、狂いし母め」
そう言ったのはダハーカだった。彼はいつの間にかイリスの真後ろに飛び込んでいた。グラジオと話していたためにイリスの意識がそちらへ向けられ、左右と背後への警戒が疎かになっていたのだ。暗黒騎士団の中でも上位層に居る実力者のダハーカが、その隙を逃すはずがなかった。
「これで、どうだッ!」
ダハーカは右手の槍を勢い良く突き出した。ソードスキルではなく、純粋な刺突攻撃だった。その穂先がイリスの心臓を背中から貫こうとした――その時、
がきぃんという金属音が鳴り響いたのと同時に、ダハーカのすぐ近くで火花が散ったのが見えた。あまりに場違いな音と光景に、一瞬何が起きたのかわからなくなった。
キリトは即座に音の発生源を追い、見つけ出したところで目を疑った。ある意味ではイリスをイリスたらしめているものの一つであるコートにダハーカの槍の穂先が
自分の着るそれのようにはためくコート。槍の突進を受けようものならば簡単に貫かれてしまうはずのそれは、あろう事かダハーカの槍を弾いていたのだ。
キリトも、ダハーカも、目にした者の全員が絶句していた。どうしてあぁなっている? 何故貫けていない?
まさか、かつてクィネラの身体を乗っ取り、人界の支配者として君臨していたアドミニストレータのように、身体に触れようとする金属を弾く術を施しているのか。いや、それだとメディナとドロシーの武器の刃が彼女の肌に届いていたのが成り立たなくなる。
では、あれはいったい――。
「相手が止まっている隙に背後から突き刺すっていうのは、良い判断ね」
イリスは目の前のグラジオの刃を受け止めながら
「けど、わたしに仕掛けるのは悪手だわ。少なくともあの
肌を狙え? という事はまさか――そう思った直後、イリスを貫こうとしていた姿勢のまま固まっていたダハーカを黒い影が襲った。イリスの背中付近から飛び出している影はダハーカを捕え、イリスから引き剥がした。
「さてと。そろそろ《レイドボス》っぽくなろうかしらね」
イリスが再度呟いた直後に正体が明らかになり、キリトは思わず声を漏らした。
「なっ……」
龍だ。
肩の背部から生える巨腕と同じ物質と虹色の光で構成された、頭と胴体だけの二匹の龍が、イリスの背中の左右から飛び出してきていた。そのうち右側を根元とする一匹が、ダハーカを捕えていた。そのダハーカはというと、瞠目を極めたような表情で、自身の胴体に噛み付いている龍を見つめたまま微動だにしていなかった。
イリスの肩の背部から巨腕が、背中から龍が飛び出してくるなど、完全に予想の斜め上だったために、誰も咄嗟に動く事ができなかった。間もなくしてダハーカを捕えた龍はかっと口を大きく開けて一瞬だけダハーカを離し、次の瞬間に思い切り
「があッッ」
悲鳴を鮮血と共に吐き出したダハーカを、龍は彼の妹同様に地面へと叩き付ける形で放り投げた。そこで止まらない。龍は二匹揃って自由自在に動くと、イリスの前方で固まっているグラジオの左右へ伸び、彼を挟み込む陣形を取った。開かれた咢の内側でごうごうと火炎が燃えているのが見える。
「避けろグラジオッ!!」
キリトは咄嗟に叫んだが、果たして行動は龍の方が早かった。まるで
爆音が耳を襲った直後に、爆炎に吹き飛ばされたグラジオが地面へ勢いよく衝突した。偶然誰もいなかったそこに倒れた巨大なグリフォンナイトの姿は光に包まれて消えていき――身体のあちこちが焼き焦がされたグラジオと、人間が使えるほどの大きさにまで縮小された両手剣《EGO》が残された。
「グラジオ……!!」
いつの間にかキリトの近くにやってきていたシノンが、信じられないものを見る顔をしていた。恐らく自分もそんな顔をしているのだろう。そんな中、ユージオの治療を完了したカーディナルが――最近滅多に使わなくなっていた――飛行術でそこへ駆け付けて回復術による治療を開始する。
仲間をほとんど一撃で瀕死に追い込んでくる状況を見た皆が呆然自失になりかけている
そしてその中心にいるイリスは――赤茶色の瞳に鋭い光を宿していた。完全に雰囲気が一変している。まるで何らかの装置や機械の起動実験を完了させ、いよいよ本格的に取り掛かろうとしているかのようだ。
「パパ!」
比較的離れたところに居るユイの声が飛び込んできた。声色から「イリスから注意を逸らさないで」という意思が感じ取れ、キリトは背を向けたまま続きを
「おかあさんの分析が完了しました。口頭で伝えます」
ユイはよく響く声で――信じがたい事実を告げてきた。
「おかあさんが使っているのは、《
――マザーシステムアカウントとも呼ぶべきものです」