「いや、実は誰もボスを倒してないんだよ。俺達聖竜連合も、血盟騎士団も、その他小規模ギルドもみんな、誰もまだボスに挑んでいないんだよ」
ディアベルの口から飛び出した言葉に、俺達は思わず瞠目した。
77層が解放されているという事は、76層のボスが倒されて道が開かれたという事だ。なのに誰もボスを倒していないなんてどういう事だろうか。
《ボスが倒されていないのに、77層へ行けるのか? そんな事はあり得ぬはずだろう》
「ありえないよ。だけどありえてるんだ」
「というか、お前が聖竜連合の本部に帰った後で何があったんだ」
ディアベルは俺に向き直り、説明を始めた。
なんでも、ディアベルが帰った時には、聖竜連合の者達が慌ただしくしていたらしい。そこで話を伺ったところ、ボスの偵察に向かった者達が、既に解放されて次の階層への階段が開かれているボス部屋を発見したそうだ。
偵察隊の者達は戸惑いつつも転移結晶を準備、ボス部屋を隈なく捜索したが、やはりボスが見つかる事はなく、罠なんじゃないかと思いながら階段を上ってみたところ、77層の街へと辿り着き、転移門を使ってみたらアクティベートされたらしい。
偵察隊の者達はまったく事情が理解できないまま転移門を使って本部へ飛び、ディアベルの許へ戻って報告をしたそうだ。
「どうなってるんだそれ」
ディアベルが腕組みをして難しそうな顔をする。
「俺にだって本当かどうか疑わしかったから、皆を連れて行ってみたんだ。そしたらボス部屋には何もなくて、本当に次の階層への道が開かれていたんだ」
「そんな事があり得るなんて……でも、ボスを倒せば何らかの情報は来るはずよね。だけど、情報屋はいつも通り静まってたし……」
ボス戦が終わった後は、必ずと言っていいほど情報屋の者達が新聞を作り出して街の至る所に出没する。それはアインクラッド全層に及んでいるのだが、ここまで来るのに情報屋に会う事なんてなかったし、何の騒ぎも起きていなかった。いや、今ここに騒ぎになりそうな事があるけれど。
「どうなっているんだ……ボスが突然いなくなるなんて……」
その時俺は頭の中でイリスの言葉が響いたのを感じた。
そうだ、今のアインクラッドはカーディナルシステムの不調により、かなり不安定な状況に陥っていて、何が起きてもおかしくない状況なのだ。
例えボスが消えてしまい、ボス戦無しで次の階層に行けるようになったとしても、あり得ない話ではない。
《何か思いついたのか、キリト》
「あぁ思い付いた。というよりも、これってかなりヤバい状況だな」
「何が思いついたんだ、キリト」
俺はイリスの言葉を踏まえた上での考えをシノンとディアベルに話した。そしてその話が終わる頃には、ディアベルは酷く驚いたような顔になっていた。
「この世界の根幹と言えるシステムがおかしくなってきている、だと」
「あぁ。これは元アーガスのスタッフから聞いた話なんだが、どうにもそういう事らしい。これから何が起こったとしても全く不思議じゃないんだ。それこそボス戦が無くなったり、色んなものが文字化けしたりして、不調を起こしたとしても……」
シノンが不安そうな顔をする。
「という事は、この事件もそれによるものかもしれないっていうのが濃厚なわけね」
「そういう事だ。でも相手がボスでよかったよ。もしこの消失事件がプレイヤーの身に起きたら、洒落にならないからな」
ディアベルが頭を軽く抱える。
「でも、この世界の根幹に不調が来してるなら、俺達の身にそういう事が起きてもおかしくないんだろう。なら、団員達や仲間達が明日突然消えたとしても……」
その時、俺の肩からリランが飛び降り、ディアベルと俺達を挟むテーブルの上に着地した。そのままリランはディアベルへと顔を向ける。
《そんな事を考えるのは後にしろディアベル。何が起きてもおかしくない状況ならば、良からぬ事が起きる前にこのゲームをクリアし、この世界から脱出する事を考えるのが先決なはずだぞ。不安なのはわかるが、仲間達が本当に心配ならば、その者達と手を合わせ、作戦を考え、この世界から一刻も早い脱出を試みよ》
ディアベルはハッとして、リランを見つめた。
ここでこれから起きる事を恐れているよりも、そんな事が起きる前に、先に進んで100層に辿り着き、この世界から脱出した方が被害は小さくなるだろうし、何より俺達は現実に帰る事が出来る。
その事を察したのか、リランに背中を押されたような気になったのか、ディアベルはやがてその表情に朗らかな笑みを浮かべた。
「……リランの言う通りだ。俺は聖竜連合のボス、ボスの俺が不安になってたら、皆が不安になってしまうな」
「そうだぜディアベル。腑に落ちないところはあるけれど、ボス戦無しで次の階層への扉が開かれたんだ。明日からは77層、その次は78層、79、そして80だ。アインクラッド攻略も佳境に入ってる。これからはガンガン攻略していこうぜ」
俺の言葉にシノンが続く。
「今の血盟騎士団は強い竜を仲間にした最強の二刀流剣士がボスだし、その夫人は弓使いだし、副団長は優しくて強いおかあさん。それに血盟騎士団と聖竜連合、その他ギルドとの連携も強固なもの。これだけの要素が揃えば、負ける事はあまりないんじゃないかしら」
俺とシノン、そしてリランを交互に見つめた後に、ディアベルは頷いた。
「そうだな。ここで落ち込んでいるよりも、皆で力を合わせて先に進む事を考えた方が絶対に有意義だな。ありがとう3人とも。お前達はほんと、皆の背中を押してくれるな」
「俺達だってそうだ。俺だって、リランとシノン、ディアベルや皆に背中を押してもらってここまで来る事が出来た。だからこの世界の攻略は、ある意味背中の押し合いだ」
「そうだな! よし、そうと決まったらこうしちゃいられない。急いで聖竜連合の本部に戻って、明日からの攻略会議だ!」
ディアベルは勢いよく立ち上がると、俺達にもう一度礼を言って、そそくさと血盟騎士団の本部を出ていった。まるでブースターでも背負って飛んでいったかのようだった。
「それにしても、随分おかしなことが起きてたのね。ボスがいなくなっていたなんて……本当にボスが消滅してしまったのかしら」
シノンの言葉を聞いて、俺は顎に手を添えて下を向く、シノンからよく言われる《考えている姿勢》を取った。
ボスが消えた理由は、イリスの言っていたカーディナルシステムの不調によるものであると思っていたけれど、ひょっとしたら情報に乗っていない超小規模ギルドが人知れずボス部屋に挑んでボスと戦って討伐し、次の街をアクティベートしないで去っていったのかもしれない。
俺達の知らない、攻略組に匹敵する力を持っている戦闘集団がボスを討伐して、そのまま行方をくらました――強くなろうと思えば強くなれるこのゲームでは、そんな事もあながちできてしまうのかもしれない。
しかし、仮にそんな人達がいたとしたら、それは間違いなく情報屋の格好の獲物。情報屋に付き止められて、情報を広げられているはずだ。しかし、そんな戦闘集団の情報など聞いた事もないので、その線は薄い。
いったいどういった事が起きて、ボスが消えてしまったのだろうか。これはしばらく頭の中に引っかかりそうな話題だと、俺は考えを纏めて、姿勢を戻した。
「その理由はわからないな。実際にボスが消滅する瞬間でも拝めれば答えがわかるんだろうけれど、今じゃ何も掴めない。俺達の知らない戦闘集団が現れて、ボスだけ狩って逃げたのか、それとも本当にカーディナルシステムの不調でボスが消滅してしまったのか。全然思い付かないや」
リランが俺達の方へ向き直る。
《まぁ危険なボス戦を避けて通れたという事で、ひとまずはプラスに考えた方が良いぞ。だが、このような事が今後も続いていくのであれば、その時は何かしらの行動を起こす必要がありそうだ》
「あぁ。こんな事はこれっきりであってほしいところだけど……なんだかやな予感がするよ」
そう言うと、シノンが突然何かに気付いたような顔をして、メッセージウインドウを開いた。よく見てみると、俺のところにも音無くメッセージが届いているのがわかり、俺も同じようにメッセージウインドウを開いた。
というか俺とシノンに当てられたメッセージだったようだ。メッセージウインドウを操作する俺に、シノンが声をかける。
「あれ、キリトのところにも来たの。っていうかこれ、ユイからだわ」
「ユイは確か今、イリスさんのところで調理実習中だったな。俺達が重要な話をしている事を考えて、無音で送って来たみたいだ」
一応メッセージを送る際には、送り手が無音で相手に送信するかどうかを決める事が出来る。メッセージが届いているというアイコンは出ていたが、音は鳴らなかったので、ユイは俺達の事を考えてメッセージを送って来たのがわかった。
今のところイリスの教会にはリーファ、クライン、フィリアの3人も赴いていて、そのうえストレアもいる。そして全員揃って子供達と一緒に料理のトレーニング、調理実習中だ。
実習はサーシャがイリスと一緒に入った辺りから始まっているだろうから、もう料理が完成した頃だろう。
「何かあったのかしら……」
「サーシャさんもイリスさんもいるから、問題は起きてないと思うんだけど」
もしかしたら何かしらの問題が起きてしまったのかもしれない。――若干不安にも思いながらウインドウを操作して、メッセージの中身を俺は読んだ。
『パパとママへ
第1層でのお料理が終わりました。ストレアさんも加わって大変にぎやかです。
皆で作った料理なので美味しく出来ました。お話が終わったなら、食べに来てください』
ユイからのメッセージの内容は、いたって平和なものだった。特に何かしらの問題が起きたわけでもなく、無事に調理実習を終えて、料理が出来上がったとの報告のようなもの。
そんな平和な内容を想定していなかったのか、緊張の糸を張らせていたシノンとリランが脱力したような反応を示した。
「なんだ……何か問題が起きたわけじゃないのね」
「よかったじゃないか。みんなは無事みたいだぜ」
《それは幸いだったが、如何せんタイミングが悪すぎる。てっきり何かしらの問題が第1層で起きたと思ってしまったぞ》
「はは、そのとおりだな。さてと、愛娘の料理が如何なるものか見に行こうか、ママ」
シノンはすんと笑って、頷いた。
「えぇ、そうしましょうか。パパ」
そう言って、俺達は会議室を出て、外で待機していたゴドフリーにあらかた起きた事を話し、明日からは77層を攻略する事を告げて、賑わう街中を抜けて転移門を潜り、第1層へ戻った。
第1層の街の中はほとんど先程と変わりなく、露天商と街行く人々で満たされていて、わいわいがやがやと賑わっている。
いい匂いも変わらないし、美味そうな音も相変わらず街中に響き続けていて、俺の空腹を一気に刺激してきた。
その中を進みつつ、俺はイリスの言葉を思い出した。
「そういえば、皆が作っているのはビーフストロガノフだっけか」
リランが恍けたように首を傾げる。
《ビーフ……ガノンドロフ? なんだそれは》
「それ、
「ビーフストロガノフっていうのはロシアの家庭料理の一種ね。牛肉を使わなくてもいい料理だから、そこそこ簡単にできるわよ」
俺は思わず驚いて、シノンの方へ顔を向ける。ビーフという言葉があると言うのに、ビーフである牛肉を使わなくても作れるとはどういう事だろうか。
「えっ、牛肉いらないのか」
「そうよ。正確な発音はベフストロガノフ。これは英語でビーフって発音するけれど、このビーフは牛肉って意味じゃなくて、流っていう意味。つまりビーフストロガノフっていうのはストロガノフ流っていう意味なのよ。だから、何も牛肉を必ず使わなきゃいけないわけじゃないの。と言っても、イリス先生は味を上げるために、S級食材の牛肉を使ったみたいだけど」
なんという博識。シノンは様々な本を読んでいたためか、ネットで様々な情報を探して、覚えたりしていた俺よりも色んな事を知っているようだ。
「そーなのか……」
「えぇそう。なんなら明日辺りの夕食、作ってあげようかしら?」
「お願いします」
《我もそれを期待する》
シノンはふふっと笑った。
「わかったわ。でも、今日はユイ達の作ったものを食べましょう」
「あぁそうだ。さてと、ユイ達はどんなものを作ったのやら」
そんな他愛もない話をしながら街中を歩いていると、教会の前に辿り着いた。玄関口から比較的離れたところにいると言うのに、もう俺達の耳には子供達の騒ぐ声が聞こえてきていた。
よく耳を済ませてみれば、ユイやイリス、クラインやフィリアやリーファの声も混ざって聞こえてくる。
ずいぶんと賑やかだなと思いながら、教会の中に入ってみれば、待ち構えていたのは夕食時、沢山の子供達が騒いでいる、いつもどおりな光景。
その子供達の前にあるテーブルには沢山の皿が並べられているが、どれも同じ料理が盛られている。これは一体、何なのだろう。
その時、子供達の間をかき分けるように俺達の目の前に2人の人影が姿を現した。俺達にここに来るようメッセージを送ったユイと、先程まで意識を失っていたストレアだった。
「ユイ、ストレア」
《何やらいつも以上に騒がしいようだが》
俺の呼びかけに、ユイが答える。
「パパ、ママ、リランさん。お待ちしてました」
「この騒動は一体何? みんな同じものを食べてるみたいだけど」
ストレアが辺りを見回しながら、笑む。
「今、みんなで調理実習を終えたところでね。どの班のが一番美味しいか、比べてたんだ」
この騒ぎ方はいつもよりも大きなものだったが、料理を終えた子供達が比べっこをしているのが理由であると聞いて、俺達は妙に納得できたような気がした。皆自分達の作ったものが一番美味しいと、意地を張り合っているのだ。
「ほぉー。という事は、ユイやストレアが作ったものもあるって事か」
「そうですよ」
ユイが答えると、子供達の声に紛れて、大人の声が聞こえてきた。
「あ、おいキリト! それにシノンさん!」
クラインの声だった。視線を回してみれば、騒ぐ子供達の中に、ひときわ目立つ男性と女性の姿が見えた。クラインだけではなく、フィリアとリーファも、俺達に手を振っていたのだ。
「クライン、それにフィリアとリーファも」
子供達の中を掻い潜るように3人の元へ進むと、3人のいるテーブルには大きな鉄の鍋が置かれており、中からは美味しそうな匂いのする湯気が立ち込めていた。
よく見てみれば子供達のいるテーブルの全てに鍋が置かれていて、教会全体を美味しい匂いで包み込んでいたのだ。
やってきた俺達にリーファが声をかけてきた。
「キリトくんにシノンさんにリラン、いらっしゃい。ビーフストロガノフ出来てるよ」
「やっぱりそれか。それはお前達が作ったのか」
フィリアが頷く。
「うん。イリス先生とサーシャさんに習いながらやってみたんだ。そしたら、すごく美味しく出来たんだよ」
そう聞いて、この場にアスナがいなかった事が少し残念に思えた。アスナはイリスやサーシャが成し遂げていない、料理スキルカンストの腕前を持っているから、どんなものでも美味しく作る事が出来る。
今日、ろくな食事をしていない俺からすれば、アスナの料理は是非とも今すぐ食べたいものだったし、子供達も大喜びしただろう。けど、それだとアスナの料理が文句なしの1位になって、子供達の比べっこが無に帰る。
「なるほど。お前もやったのか、クライン」
クラインは両手に手を当てて、頷いた。
「当たり前よ! ほとんど俺が作ったようなものだからな。イリス先生の指導は、俺が見てきたどの人よりも完璧なものだったぜ」
リーファが目を半開きにする。
「えぇー。クラインさんのやった事なんて、食材を乱雑に切った事くらいじゃないですか。あとからあたし達が切り直したし」
「り、リーファちゃん、それ言っちゃおしまいだって……」
やはり嘘だったクラインの証言に笑うと、リランが匂いを頻りに嗅ぎ出し、安堵したような《声》を出した。
《だが、上手く出来たようだな。美味そうな匂いが鼻にしてきて、腹が鳴ってしまいそうだ》
「あぁ、それは違いない」
実際、激しい戦いを終えた後の俺の腹はすでに限界を迎えており、すぐさま何かにがっつきたい気分だった。そんな俺を察したのか、ユイが声をかけてきた。
「パパ、おなか空いてますね。ここには沢山の料理がありますから、いっぱい食べて、同時に審査員をしてください」
「いいとも。ユイのも、ストレアのも、リーファ達のも、喜んでいただくとするよ」
そう言って、俺は近くにある皿を手に取り、まず最初にユイ達の班のところへ行って料理を盛り付け、ようやく料理にありつけることをありがたく思いながら、口に運んだ。