キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

91 / 563
03:逃亡の後

 俺達を守ってくれる、圏内の壁。それが今破壊されてしまったという、これまでSAOに生きてきた中で初めて見る光景に、俺は頭の中が痺れたようになって、動けなくなってしまった。

 

 圏内を破壊したのは、先程俺達を追いかけていた、マーテルの名を持つ《異形の裸婦》。<HPバー>が15本もあり、様々なボスの特徴をいっぺんに取り込んでそのまま具現させたような姿を持つモンスター。しかし、モンスターであるという事は、圏内に入り込んで暴れる事は出来ないという事を意味しており、ここまで追って来る事は出来ないはずだった。だが、《異形の裸婦》は圏内を意味する壁をいともたやすく破壊して、俺達の街へと入り込んできた。

 

 まるで人類ではどうする事も出来ない怪獣が街中に出現したかのような状況。昔見た映画では、怪獣の侵入により街中は凄まじいパニックに包まれて、次々と人が死んでいくという状況が繰り広げられていたが……今まさに、その光景がSAOの中で再現されていた。《異形の裸婦》という怪獣が、SAOの常識を破って街に入り込んできたのだから。

 

 《異形の裸婦》が城壁を瓦礫に変えながら歩き出すと、何かが割れるような音が鳴り響き、空が血のような毒々しい赤色に染まる。まるで、《異形の裸婦》の持つ力が発現したかのように。そして《異形の裸婦》の侵入に唖然としていたけれど、やがて正気に戻った者達が悲鳴を上げて、逃げ惑い始める。プレイヤー、NPCも関係ない。

 

 そしてそれは1人から2人、2人から20人、20人から200人と、桁がすさまじい勢いで増えていき、賑やかだった83層の街は瞬く間にパニックに包まれた。そしてそれらはフィールドに続く門や転移門に一斉に押し寄せる。

 

 完全な、大災害のパニックの再現。

 

 その光景に、リランが叫ぶように言う。

 

《この異様な光景! 一体どうなっておるのだ!?》

 

 街を破壊しながら歩く《異形の裸婦》に、ゴドフリーが呟く。

 

「これも、これもイベントだと言うのか……」

 

 いや、これはイベントなんかじゃない。あんな《異形の裸婦》が存在している事そのものが、そもそも開発者も、茅場晶彦さえも想定していない事柄のはずだ。そしてそれによって引き起こされているこの現象は、開発者という名の神々の理を完全に打ち崩して具現した、SAO内の災害だ。

 

「こんなのがイベントなもんか……これは……なんだ?」

 

 思わず呟き返すと、アスナが周囲の逃げ惑う人々を見回して、叫ぶ。

 

「お、落ち着いて! みんな、落ち着いてぇ!!」

 

 アスナの声など、逃げ惑う人々のパニックに届きはしない。皆逃げたい、助かりたいという思いが先行してしまっていて完全に自分の事とあの《異形の裸婦》の姿しか見えていないのだ。そう、現実で地震や竜巻などの災害が起きた時と同じだ。

 

「団長、団長ぅぅ!!」

 

 そして、そのパニックに煽られた血盟騎士団の騎士達が、長である俺に叫び始める。皆、他の者達と同じように顔を真っ青に染め上げていた。その顔を見ながら、俺は死に物狂いで頭の中を回す。

 

 今、圏内はあいつのせいでなくなった。とにかく、今ここにいるのは危険極まりない事だけは確実。流石のあいつも転移門を潜る事は出来なさそうだから、ここから脱出する事を最優先するしかない。

 

「うわあああああああああっ」

 

 作戦を出そうとしたその次の瞬間に聞こえてきた悲鳴で、俺は我に返ってしまった。悲鳴がしたという事は見たくなくなる、恐ろしい事が起きたという事だが、何故か俺はその方へ目を向ける。

 

 圏内を破壊して入り込んで来た《異形の裸婦》はその大きな女体を動かして、集まって逃げ惑う者達に手を伸ばし、勢い良く掴んでいたのだ。たったの一掴みで30人前後の人間が《異形の裸婦》に捕えられて、動けなくなった者達が悲鳴を上げている。そして、その数秒後の展開が簡単に想像できた。

 

「や、やめろッ!!」

 

 思わず叫んだが、それが《異形の裸婦》の耳に届く事はなく、《異形の裸婦》は思い切り大きく口を開いて、その中へと捕まえた人間達を放り込み――バリバリと音を立てて咀嚼した後に、呑み込んだ。

 

 一番見たくなかった、人間がモンスターに食われるという瞬間。頭の中で、リランが暴走した時である《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》との戦いの時がフラッシュバックされて、背筋に強い悪寒が走り、身体が無意識のうちに震え始める。

 

「やめろ……やめろ……」

 

 最も強い恐怖を感じる、モンスターにプレイヤーが捕食される瞬間が何度も繰り返されて、俺は思わず目を瞑り、震える事しか出来ない。

 思わず口から言葉を漏らしたその時、アスナが言ってきた。

 

「違うわ……あいつはプレイヤーを食べたんじゃない」

 

「え」

 

「あいつは、NPCを食べてる……NPCを狙っているんだわ!」

 

 アスナの言葉で正気に戻り、俺は人間を捕食する《異形の裸婦》に恐る恐る顔を向け、索敵スキルを展開する。《異形の裸婦》は今も尚人間を捕まえて、それを口の中に運んでいるが、奇妙な事に、《異形の裸婦》は露天商や武具店のNPCを優先的に捕まえて捕食しており、プレイヤーを捕まえていた場合は掌を開いて、指先で掴み、解放しているのだ。まるでプレイヤーだけは食べないようにして、助けているかのように。――アスナの言葉は真実だった。

 

「どうなってるんだ。あいつ、なんでNPCを……」

 

 アルベリヒが少し怒ったように言う。

 

「そんな事を考えるのは後でいいでしょうが! とにかく今は、どうすればいいのです!?」

 

 俺はハッとして、周囲を見回した。団長である俺が指示を下さないせいで、血盟騎士団の皆はこの場に留まっており、戦々恐々としている。何故あの《異形の裸婦》がNPCを優先的に捕食しているのか、理由は不明だが、今はプレイヤーを捕食していないだけで、今後それをしないとは限らない。この場に留まっていたら、《異形の裸婦》の危険に晒され続けるだけだ。今は――周りのパニックを起こしているプレイヤー達を放っておいて、逃げるしかない。

 

「周りのプレイヤー達は……悔しいし悲しいけれど、見捨てる! 今は俺達だけでも脱出するんだ!」

 

 そこでようやくシノンが怒鳴る。

 

「どうやって!? 今は転移門は逃げるプレイヤー達で使えないわ! あの中に飛び込めっていうの!?」

 

「違う! 転移結晶を使うんだ! ここまで来たって事は、皆1つくらいは持ってるだろ!?」

 

「そっか、転移結晶を使って別な街に飛べばいいんだね!?」

 

 アスナの言葉に頷く。シノンの言う通り、今転移門にはプレイヤー達が殺到しており、到底使えるような状態ではないし、全員が混乱と錯乱に陥っているので、近付けばまともな目には遭わない。転移結晶を使って、別な街に飛んだ方が一番安全なのだ。――なのに、逃げ惑うプレイヤー達は何故かこれを思い付く事が出来ない。

 

「転移結晶……全員あります!」

 

 俺の声に反応したのか、この場に集まる全員が転移結晶を掲げて見せつける。やはり日頃から準備だけは絶対に怠ってはならない、最低でも転移結晶を1つは常備しておけと言っておいた甲斐があった。

 

「よし! 全員転移結晶を起動、場所は血盟騎士団本部!

 転移、グランザム!!」

 

 俺はシノンとリランを掴んで転移結晶を起動した。次の瞬間、目の前が青色の光に包み込まれて、意識が一瞬ふわっとなったかと思うと、次に目の前に広がっていた光景は、第55層グランザム市の血盟騎士団本部前だった。そのまま空を見上げると、元の空色に戻っており、あの悍ましい色は消え去っていた。周りを見回してみれば、俺達と同じように血盟騎士団の者達、聖竜連合の者達がやってきていた。どうやら、何とかして全員ここへ逃げ切る事が出来たらしい。その中にはアルベリヒとゴドフリーなどの姿もちゃんとあった。

 

「全員、無事か」

 

 俺の声に皆が頷くと、アルベリヒが顔を片手で覆いながら言ってきた。

 

「……なんなんですかあれ……まだ、身体が震えてます」

 

 シノンが頷く。

 

「そうね……キリト、あれは一体何なの」

 

 俺がそれに答えようとしたその時に、アスナが俯きながら答えた。

 

「……マーテル」

 

「え」

 

 シノンとリランの顔が、アスナに向けられる。同じようにアスナに顔を向けたところで、アスナはその顔を上げた。

 

「マーテル。ユピテルのお姉さんと同じ名前を持つモンスターよ。正式な名前は、《ハオス・マーテル》」

 

「ハオス……マーテル……!?」

 

 シノンの顔が一気に驚いたようなものに変わる。そうだ、あのモンスターの名前は、アスナの言っていた通り、マーテル。マーテルと言えば、イリスの作ったMHHPの初号機の名前でもある。

 

「なんで……なんでイリス先生の、というかユピテルのお姉さんと同じ名前なの」

 

「わたしにだってわからないよ。キリト君が索敵したら、そんな名前が出て来たって言ってたの」

 

 シノンとリランが俺に顔を向けたところで、頷いた。確かにあの時現れていた名前は、《ハオス・マーテル》。MHHPのマーテルと同じだった。

 

「アスナの言ってる事は真実だ。あいつの名前は《ハオス・マーテル》だった」

 

「なんでマーテルって……」

 

「だからだよ、あの時君にイリスさんに声掛けをしてもらいたいって言ったのは」

 

 シノンは思い出したようにメッセージウインドウを開いた。そして何かを探すような仕草をしたその時、街中の方から声が聞こえてきた。

 

「キリト――ッ!!」

 

 声は一人のものではなく、多数の声色が混ざっているようなものだった。立ち上がってその方に顔を向けてみると、そこにあったのはクライン、ディアベル、エギル、アルゴ、リズベット、シリカ、リーファ、ユウキ、ユピテル、ユイ、ストレア、フィリアの姿だった。全員、酷く焦っているような表情を浮かべており、それが足の速さに影響を与えていたのか、全員瞬く間に俺の元へと辿り着いた。

 

「みんな、どうしてここに」

 

 先頭を走っていたクラインが、少し安堵したような顔をして答えた。

 

「キリト、大丈夫だったか。何だか83層で大事が起きたって聞いて、飛んできたんだよ」

 

「もう情報が伝わってるのか」

 

 ディアベルが首を横に振った。何でも、ディアベル達はそれぞれ別な層にいたそうなのだが、その全ての街の転移門で騒ぎが起きており、何事かと駆けつけてみたところ、83層にて信じられないような出来事が起きたという情報が話されていたらしい。それを聞いて、ディアベル達は俺に相談すべくメッセージを送ろうとしたのだが、俺の居場所が83層である事に顔を真っ青にして、慌てて飛ぼうとしたが、すぐさま55層に変わったので、同じように55層に行先を変更して、俺の元へ駆けつけて来たらしい。

 

「そうだったのか」

 

 シリカがピナ共々不安そうな表情を浮かべる。

 

「大丈夫でしたか、キリトさん。ものすごい騒ぎが起きてたんですよ」

 

 リズベットが頷く。

 

「なんだか、現実の災害を思い出したわ。あの騒ぎ様は完全に災害の時のそれよ」

 

 アルゴが腕組みをしながら言う。

 

「やっぱりキー坊は黒光りするアレ並みの生命力を持ってるから、生きてたナ。んで、83層で何が起きたんダ。実際見に行っていいカ?」

 

 思わずアルゴに怒鳴り付ける。

 

「駄目だ! 今83層に近付いちゃ駄目だ!!!」

 

 いきなり大声を上げた俺に驚いたのか、皆が一気に静まり返った。その静寂を感じて俺はすぐに正気に戻り、胸の中にすまなさが込み上げてくるのを感じた。

 

「ごめん……でも、今は絶対に83層に行っちゃ駄目だ……」

 

 直後、人々をかき分けて、俺とシノンの元に1つの人影がやってきた。

 

「……君達は83層にいたみたいだが、よく無事に戻って来れたね。何があったか説明してもらえるかな」

 

 俺は顔を上げてその人に視線を向けた。その人は――今連絡しようと思っていたイリスだった。どうやら皆に混ざってやってきたらしい。

 

「イリスさん」

 

「イリス先生」

 

 イリスはどこか安堵したような表情を浮かべていた。

 

「83層で恐ろしい目に遭って、逃げて来たっていうプレイヤーが1層の転移門辺りで沢山いたんだ。そこで君達の居場所を確認したら83層だったから、マジで生きた心地がしなかったよ。一体何があったんだい」

 

 俺は答えず、アスナの方に顔を向けた。わざわざやってきた息子であり……マーテルの弟であるMHHPのユピテルを、アスナは悲しそうな顔をして抱き締めていた。きっとユピテルの姉があんなふうになってしまっている事が、親としても悲しいのだろう。その悲しさがわかったような気がして、俺は口を開く事が出来なかった。

 

 しかし次の瞬間、ユピテルを抱き締めているアスナが、静かに言った。

 

「……ユピテルのお姉さんが、恐ろしい魔物になって現れました」

 

 イリスは俺からアスナの方へ顔を向けて、俺もまたそれに続く。

 アスナはユピテルの背筋を撫でながら、呟くように更に言った。

 

「全長30mはあると思えるくらいに巨大な、人とドラゴンが混ざったようなモンスターでした。わたしは実際に見ていないのでわかりませんが、<HPバー>が15本もあったそうです」

 

 その言葉に、この場にいる全員が凍り付き、リーファが瞠目しつつ言う。

 

「<HPバー>が、15本……?」

 

 クラインが口をぱくぱくとさせる。

 

「あの《スカルリーパー》だって、5本だったぞ……その3倍とか、嘘ですよね? アスナさん」

 

「いや、アスナの言っている事は真実だぜクライン。実際、俺はあの化け物に索敵をした。そしたら本当に、<HPバー>が15本もあったんだ。俺も見間違いかと思ったけれど、そうじゃないんだ。そしてそのモンスターの名前は……《ハオス・マーテル》」

 

 エギルが腕組みをする。

 

「《ハオス・マーテル》……渾沌のマーテルってか……?」

 

 ユウキが驚いたような顔をする。

 

「えっ、ちょっと待って、マーテルって確か……」

 

「あぁ……MHHPの初号機。ユピテルの姉に当たるプログラムの名前だよ」

 

 俺の言葉を聞いて、イリスが驚愕したかのような、見た事のない表情を俺達に見せつける。

 

「マーテルがついに見つかったのか……私の最初の娘が……」

 

 フィリアが少し悲しそうな顔をする。

 

「でも、今モンスターになって出て来たって……」

 

「そうだよ。あいつは確かにマーテルの名前を冠していたのだが……MHHPのマーテルと同型のものかどうかはわからないんだ。そもそもあいつが現れた理由だって、わからないし……」

 

 直後、イリスは首を横に振った。

 

「いや、割り出す方法ならあるよ。キリト君、そのモンスターの特徴を教えてくれないか。今ならわかるだろう」

 

 俺はイリスの方に顔を向けた。その顔には、これ以上ないくらいに真剣な表情が浮かべられていた。その顔に影響されたのかはわからないが、俺は全てを話す気になり、集まっている皆に、あの《異形の裸婦》の事を話した。

 そして話が終わるころ、イリスは顔を片手で覆った。

 

「金色の長い髪の毛、様々なモンスターの特徴を持った身体、そして女体……間違いないよキリト君」

 

「という事は、あいつは」

 

 イリスは静かに頷いた。

 

「あぁそうだとも。そいつはMHHPのマーテルだ。これだけマーテルの特徴を持っているのだから、違いないよ」

 

 シノンが少し困惑したような顔をする。

 

「で、でもあれの身体は様々なモンスターが合体したようなものでしたよ。完全に人の形をしているっていうわけじゃ……」

 

 イリスは顔から手を離した。

 

「キリト君、83層に至るまで、君達はいくつかボスのいないボス部屋と、敵のいないフィールドを見てきたよね。そしてユピ坊。ユピ坊はこの前、破損した自らを直すために、フィールドボスを捕食し、自分のものに変えてしまったよね」

 

 イリスに言われる前に、俺はマーテルが何故あんな姿をしているのか、わかっているような気がした。

 《ハオス・マーテル》。あいつの身体は様々な生物の特徴をいっぺんに集めてかき混ぜたような形をしており、色も黒色をしていた。そして、マーテルはこの前フィールドボスを捕食して、吸収進化を行ったユピテルと同じMHHP。

 

 ここから考えられる事はものすごく簡単だ。マーテルはユピテル同様深刻なまでに破損しており、破損した自らを直すためにフィールドとボス部屋にへ赴き、モンスターとボスをAIごと捕食して吸収、自らの一部に変えていった。ずっとボス部屋でボス戦が無かったのはそれが原因で、80層と83層も、元々敵が沢山いた層だったけれど、そこに暴走したマーテルが入り込み、モンスターもフィールドボスも残さず食い尽くされて、80層と83層は22層のように敵のいない層と化したのだ。そしてマーテルは自分を直そうというAIの本能の赴くまま、アインクラッドを移動しつつ、他のAIを喰い続けた。

 

 その行く末に、マーテルは様々なボスの特徴を持つ、巨大な怪物へと成長してしまったといったところだろう。マーテルの身体の黒い部分は、全て呑み込まれたモンスターと階層ボスモンスターの特徴がいっぺんに具現している部分なのだ。色が黒である理由も、様々な色の絵の具を混ぜていくと最終的に黒になるのと同じで、実に多種多様なモンスター達の体色が混ぜられた結果であると推測できる。

 

 数えきれないほどの様々なAIやシステムを吸収し続けて、破損した自らを直すどころか、逆に圏内すらも破壊してしまう力と、桁外れの体力、並みのモンスターが幼体に見えるくらいの巨体を持ち合わせた《異形の裸婦》というモンスターと化してしまった。それが今のMHHPのマーテルだ。

 

「えぇ。全てマーテルが原因だったんですね」

 

「そう考える他ないだろう。ユピ坊はアスナがいたから止まってくれたが、彼女を制止するものはなかった。マーテルはただ自分を修復したい一心で――いや、もしかしたら――……」

 

 急に空を眺めたイリス。その瞳は空ではなく、このアインクラッドの遥か上部――この層よりもはるか上、俺達が辿り着かねばならない場所――紅玉宮にに向けられているような気がした。

 

「もしかしたら……なんですか」

 

 シノンの問いかけに、イリスは空を眺めるのをやめて、首を横に振った。

 

「何でもないよ。ただ、いずれにせよ彼女は完全に暴走して、アインクラッドを破壊する存在になっている。これ以上彼女にこの城を破壊されれば、ここに生きている6000人のプレイヤーの命が一斉に無に帰ってしまう可能性さえあるんだ。彼女を、野放しにしておくわけにはいかない」

 

 確かに暴れ回るマーテルを野放しにしておけば、これ以上の被害が出るのは確実だし、下手しなくてもいずれ、俺達プレイヤーに深刻な影響を与える被害を、あいつは出すだろう。それだけはここまで生きて来たプレイヤーとしても、血盟騎士団の団長としても食い止めなければならない。しかし……。

 

 次の考えを出そうとしたその時、エギルがいきなり怒鳴った。

 

「馬鹿言うな! キリト、そいつのHPはいくつだ、15だったか!?」

 

「あぁ。15本。しかもあの大きさ出しあの身体だから、防御力も半端ないだろうな。

 恐らくHPは……10億じゃ足りないだろう」

 

 クラインが続けて言う。

 

「<HPバー>15本、体力10億以上の化け物なんて倒せるわけねえだろ!!」

 

 エギルが更に言う。

 

「そいつはボスを何体取り込んだ、モンスターを何万体取り込んだんだ!?

 そいつなんて、もうたった1体で何百万の軍隊と同じだろ!? そんなもんに、1000人にも満たない俺達が勝てるわけないだろが!」

 

 俺だって同じ気持ちだったし、これが本当のネットゲームだったならば、あいつがボスとして現れ、その強さがわかった時に、運営のあまりの調整不足さに、キーボードを投げつけていたかもしれない。だけど、あいつが暴れ回れば、やがて世界が食い尽くされる。当然俺達も、そのうち暴走するマーテルに食われて、死んでしまうだろう。

 クラインとエギルが怒っていても、イリスが相変わらず冷静な声を返す。

 

「それでもやるしかないよ。彼女がモンスターになっているならば、倒さなければならないし、彼女が100層に到達してラスボスのAIを喰らってしまえば、ゲームクリアは不可能になるだろうね。ラスボスである茅場さんが消えてしまった今は、何がこの城のラスボスをやってるのかは知らないけれど」

 

 ゲームクリアが不可能になるという事は、この世界から脱出が出来なくなるという事であり、俺達の2年間のあがき、生きざま、そして生きてきた意味の全てが無に帰るという事だ。それはこの場にいる全ての者が一瞬で理解できる事柄であり、瞬く間に全員が静まり返った。

 

「だからね、マーテルを止めないなんて選択肢は、私達には存在していないんだ。悲しいけれどね」

 

 黙っていたゴドフリーが腰を抜かしたように座り込み、俯いた。

 

「……あんなものを、どうやって倒せばいいんだ。何も思い付いてこないぞ……」

 

 俺もゴドフリーと同じように、いつもと同じようにボス攻略の作戦を立てていた。しかし、あいつはきっと開発者が想定していない存在であり、イリスさえも予測する事が出来なかった魔物。チートとバグが全開に使用されて普通ではなくなってしまったような存在、それがあのマーテルだ。あんなのものを正攻法で倒す方法なんて、思い付くわけがない。どんなに頭を回しても、作戦が、勝利のイメージが浮かんでこないのだ。

 

 あの時あいつはプレイヤーを見逃していたけれど、もし俺達があいつに敵意を抱かせるような事、即ち攻撃を仕掛ければ、たちまち邪魔者を排除する事を考えるようになり、俺達プレイヤーに総攻撃を仕掛けてくるだろう。それこそ、攻略組なんか虫を潰すくらいに単純で簡単な事だろう、あいつからすれば。

 

 「もはやお前達に打つ手はない」「諦めろ、お前達は、勝てない」。まるでこのゲームそのものにそんな事言われているような気がしてきて、頭の中がぐしゃぐしゃしてくる。あんな剣が通りそうもない身体を持ち、途方もない体力を持ち、その上凄まじい数のモンスターを吸収して、何百万もの軍隊に匹敵する力を持っている《異形の裸婦》。

 

 普通ならば、アレがただのモンスターならば、俺は間違いなくあいつを見逃して、上に進む事を考えただろう。しかしあいつは本能の赴くままにアインクラッドを登り、ラスボスを喰い、ゲームクリアを不可能にし、俺達を死ぬまでアインクラッドに閉じ込める存在と化す。それを防ぐためには、あいつを倒すしかない。

 

「どうすればいいんだ……」

 

 小言を漏らしたその時、それまで黙り込んでいた俺の相棒の《声》が、頭に響いてきた。

 

《お前達、この戦いに負けたと思っておるか》

 

 リランを知る者はリランの方へ向き、リランの特徴を知らない者達は、辺りをきょろきょろと見回す。俺もまたそこに加わって、肩に止まっている小さき狼竜に目を向ける。

 

《まだ、負けてはおらぬぞ。そもそも戦ってすらおらぬからな》

 

 クラインが頭を抱えながら言う。

 

「んだよクソドラゴン……もうそんなもんの話、戦う前から負けるようなもんじゃねえか」

 

《馬鹿者。まだ負けておらぬ。お前達は普通の方法で戦う事しか考えておらぬ。

 だからこそ、勝機を見出す事が出来ぬのだ》

 

 シノンが眉を寄せる。

 

「普通の方法でしか……?」

 

《左様だ。我もあの怪物を見たが、アレに普通な方法は通じないと見た。恐らくお前達の剣など、攻撃された事に気付かない程度だろう。それほどまでに、あいつは普通な存在ではない》

 

「じゃあどうしろって……」

 

 フィリアの言葉に、リランはくっと顔を上げる。

 

《……普通でない敵と戦うには、普通でない味方の力を借りるしかないのだ。

 ここに1()()だけ、普通ではない存在がいるだろう、キリト》

 

 俺はハッと目を見開いた。

 




何かを思い付いたリラン。
次回次々回、恐らく戦闘。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。