暗闇を走り続ける。先の見えない道なき道の上で、ただ闇雲に、そして曖昧な指針のまま前のめりに突き進む様子はまるで妹紅のこれまでのようだった。
真っ黒な何かに追いつかれる前に前へ。進んでいるのか逃げているのか、それすらよくわからなくなろうともただ前へ。足を止めてしまえばすべてが手遅れになってしまう。根拠のない焦りだけが妹紅の小さな背中を火中でも押し続けた。
喉が焼け付くように痛む。無数の針が首元に突き刺さったかのようにひりついた。それはこうして駆け上る間、体勢を崩しかけ息を吸うたびに何度も妹紅に訴える。
もういいじゃないか。きっと大丈夫。今を無理して後が辛かったら本末転倒じゃないか。あきらめたって誰も責めたりなんかしないんだ。だから。
蒸し焼きになった脳内も、事切れそうな筋肉も、握りつぶされてしまいそうな心臓も。
妹紅の体がただ止まれと言い続けていた。
そしてたどり着いたのはいつかの花畑。私が走り続けた最後が広がっていた。
「おや…、あんたはてっきりもう他の村へと旅立ったもんだと思ったよ」
どんよりとした空、星も見えない夜のもと、視線の先に経つのは赤の巨像。暗闇の中で浮き上がった鬼の両目となぜか斑に濡れた頬だった。
「あいつも馬鹿だよナア。始めから死体なくせに。単なる動く血袋でしかないのに今更足掻こうだなんて思うからああなっちまう」
鬼は顎を動かして、私に見せつけるかのようにその先へと視線を促した。
それに応じる気はない。その一切の挙動を無視し、何も答えない私の代わりに風が吹き抜ける。それは止まってしまいそうなこの流れをはやし立てるかのように、強引に動かそうとしているようだった。
私のその態度が気に入らなかったのか、鬼は舌打ちをし、それから思い直したように気色の悪い笑みを浮かべながらまた話す。
「俺はァさ、すこーし固めの奴が好きなんだよ。
女子供の肉っつーのも柔らかくって、よだれも出るようなうまさなんだけどなあ。今日はどうにも食いごたえのある男の肉が欲しくて欲しくてたまらねーんだ」
実に楽しそうだ。おかしくてたまらないと言わんばかりに語り続けている。音を立てながら頬の血を舌で舐め取る様子は醜悪という他ない。しかし、一方でその瞳は全く笑っておらず、むしろ憤怒のそれへと移り変わりつつあった。
何も反応しない私を置き去りに、鬼は高らかに宣言する。
「だからよ、あんた帰れよ。こんなものはみなかったことにしてさ。なあに、止めやしないし追い掛けもしない。今まで通り旅してりゃいいのさ。あんたはまだ老い先永いんだから。
大丈夫だ、こんな不幸はそこら中に転がっているし、鬼の名前を目を反らしたところで他人があんたを責めたりすることはない。むしろ違った目で見てもらえるさ。巻き込まれてかわいそうに、ってな。だからよ、早く引き返すといい」
「待ちなよ、村長さん」
もう、うんざりだ。何から何まで重なって見えて仕方がない。
他人から教えられてから初めて知るのも。
ここに来るまで死に物狂いで走ったのも。
着いた時にはもう死んでいた飛倉の姿も。
おあつらえ向きに揃えられた物事があの時と重なっていて、いい加減、反吐が出そうだった。
「…ずいぶんとおもしろいこというじゃねえか。俺が村長だと?」
「違うの?」
「………」
「一つ、ここらに生えている花は咲かせるのに大変な労力がかかる。荒らすなんて以っての他だ。折れてしまえばまた咲くのにとんでもない時間がかかるからね。咲くのは少なくとも数年先の話になる。そしてあんたのそのアホみたいにでかい図体で、ここまで来るための細い道の両脇に咲く花を手折らずに通ることは出来ない。したがって、そこに疑問が生じる。どうやって、私の見たあの鬼は花を踏み荒らさずに、忽然と広場の中央に現れたのか?
二つ、村のしきたりいわく、体の弱いものは呪いで殺される。事実、髪が短いほうが良いなど例外があるものの、基本的には健康体、あるいは筋肉質な身体的特徴の制限が多かった。ならば、なぜ、村の若人が死に、それよりも体の弱い高齢な人が生きているのか?」
「何をわけのわからねえことをつらつらと………」
「三つ、どうして村長の死体が存在するのか?」
「死体だと?んなわけはねえ。あれは俺が確かに食ったはず…」
「へえ、食べたんだ。死体を。わたしが見たのはあの村のあるおじさんとウリ二つの死体だけだったけどね」
「…てめえ、騙したな?」
「さあてね。だけど今ので確信したよ。あんたは鬼で、村長で、この地へのいけにえとやらを食い物にしていた化け物だ」
「答え合わせだ。
道が荒らされていなかったのは、村長の姿で広場の中に入るから。
村長や頭が死なないのはそもそも呪いを仕組んだ首謀者だから。
ついで言えばこの場所をわざわざ選んだのは死臭を花の香りで凌ごうとしたってところかな。
…以上を元に予想を立てて、今鎌をかけたよ。結果は言うまでもないね」
「………っハッはっハっは!!!よく回る舌じゃねえか!!こりゃ良い出し物だなっ!ああ、なかなかにおもしろい。…で、だからなんだって言うんだ?」
鬼は先程までの怒りの笑顔から能面へと一気に表情を変えた。憤怒も愉悦もない。冷め切ってしまったようなまっさらな顔と共にこちらのほうを向いた。
「ああ、お前さんの言うとおりさ。大筋間違っちゃいない。鬼の名にかけて保証しよう。儀式なんてもん初めからありゃしないしねぇ。ぜーんぶ、俺が満足するために作られたもんさ。ああ、たったそれだけ、それで全部だ。
だが、それを暴いたところでなんだっていうんだ?」
「つらつらとあら探ししたところ上げて見せつけて、それがわかったところでよお。こうして飛倉は死んだし、お前も今から殺される。ちと時間は早いが、まあ、食っちまえば関係ねえ。なんも変わらねえだろ?なあ?」
「そうだね、わかってるんだよ。真実を知ったところで今はもう何も変わらない。残されたっていう事実は覆らない。だから私にとってもそんなことはどうでもいいのさ」
「…なに?」
「ぜーんぶ手遅れ、水泡だよ。ホント………。また間違えたんだ、私は。またうじうじしているうちに救える人を失ったんだ…」
「何言ってるんだお前。気でも違ったか?」
混ぜっ返された心の中とは対照的にスラスラと動いた口は理性的に整理されたものを全て吐き出し、冷めた記憶から出てくる思いをただ吐露していた。そして、それはあの多くの人が死んだ夜に感じたものと同じなんだろう。
頭上の空は澱んだ空だ。私がこうしているのが過去ではなく現在であると分からせてくれる唯一のものだろう。あの日はひどく月が綺麗な夜だったから。でも皮肉なものだ。もしも、この空があの日と同じような月が冴え渡る夜だったならきっとこんな言葉は生まれないだろうから。
見上げながら朗々と詠む。形などない、最後に残った何かを吐き出すだけの言葉。
「ああ、月が見えない。
これほどまでに月に焦がれたことはないというのに。
今が明日かそれとも否か。
そんなことも曖昧になってしまった不死の私がそれを知ろうとすることは罪深いということなのでしょうか。
虚言に遊ばれ、踊った最後にようやく知ってしまった真理。
今はうろんな、呪いというまやかしに殺されるという道理。
無情とは言いません、しかし現実はかくも残酷です。
しかし、答えてください。
今が明日なら私はなぜ生きており、
今が今日ならなぜ彼は死んでいるのでしょうか。
答える月は見えません。
この身が焼けそうなほど欲する月は見えません。
ならば、いやだからこそ。
明日の月というのは綺麗なのでしょう」
昔の私ならきっとこんな風に自嘲したことだろう。あの時、旅立つことを決めなかった私ならきっとこんな風に嘲笑したことだろう。今までの私ならきっとこんなふうに誤魔化してしまうのだろう。
でも、それじゃダメなんだ。飛倉はきっとそれじゃ納得なんかしてくれない。私も納得なんか出来やしない。だからこれで最後にしよう。
「…何が言いたい?」
「分からないなら分からないで構わないんだ。あんたみたいな下衆に言った言葉じゃない。あと、あんな性根の腐り切った連中の真似事はもうやめだ。追い縋るのも違う。そんなことより私にはやらなきゃいけないことがあるってやっと気づけたんだ」
「………それはなんだ」
「そうだね…、クズの掃除屋かな」
ここから始めようか。冗長なのは嫌いだ。
「もう戻り橋にも戻れない、一方通行の丑三つ時。
あいつの望み通り。アンタを燃やし尽くしてやる。
もう、私を普通の人だと思うなよ」
「ごたごたほざき散らかしたところで何も変わんねえってことが分かんねえかなあ?ま、今は余裕がない。挽き肉にしてやろう」
音もなく幕は切り落とされる。
先の言葉通り、もうなりふりを構うつもりはないのだろう。次々となぎ倒される山由利草をなど気にもしないで鬼は一息で近づき、大きく両腕を振り上げる。ただでさえ暗い周囲が、自身の両腕で雲すらも隠してしまったからだろう。私を見失い、狙いを定めなおすまでの一瞬の間が空いた。
この間に鬼の両足を掴み、自分の体を鬼の股下からそのまま背後へと滑り込ませる。その勢いのまま地面を蹴りあげて、片手で生成した炎弾を振り向き気味にその背中へと全力で投げつける。が、焦がした皮膚は僅かであり、それもすぐさま元通りとなってしまっていた。
(ま、そうだよね。そもそも最初があんなふうにうまくいったのも場所が場所だったからだろうし、普通の皮膚じゃこんなもんでしょ)
冷めた見方にはなってしまうがこればっかりは仕方がない。どんなに私が意気込んだところで相手はあの鬼であり、私はちょっとばかし妖術もどきが使える丈夫な不老不死でしかない。
ともなると、どうにかしてむき出しの急所、早い話、頭部に頭にぶち当てられれば少しは違うだろう。うまくいけばそれでどうにか差し切れることすらあるかもしれない。だけど、それがそうそう簡単なわけがない。初めの時にぶち当てたのだって不意打ちだからうまくいったようなものだ。相手だってそこが危ないことは承知だから、こうしてまともに対峙しているときにそこに当たるような隙をタダでもらえるほど私は上手くないし、相手も下手ではない。
見えない背後に向けて、鬼がその豪腕を大きく振るう。赤く染まったその腕はなんの変哲もないこの一挙動だけでも人間からしたら十二分に脅威になる。今だってわずかな余裕があったから避けられたのだ。いつまでも続くとは限らない。
(文字通り、鬼ごっこってやつかな。捕まったらその時点で負けだ)
私は不死身だ。そりゃ脳からつま先に至るまで骨という骨を粉々にに砕かれ、この体に詰まった臓物と血液を全て周りにぶちまけようと、生き返るし、この体のいたる箇所に刃物を突き刺されぐちゃぐちゃに掻き回されようとも結局生き返るだろう。
しかし、鬼の胃袋ともなれば話は別じゃないだろうか。生き返ろうともあの巨体では私はすぐにまたあの胃袋の中で生き返ったところからまた消化されていく。そうなれば、私はあの鬼という肉牢獄から永遠に出られなくなってしまう。そんなのはゴメンだ。
だが、活路を見出せば今度こそ進める。前のめりだろうとなんだろうとここさえ乗り切れば、走り抜ければあの時見失ってしまったものをまた掴めるはずだ。
ひと呼吸入れて、腹を据える。そして襲いかかってくる鬼に身構えた。
⇔
もう何回繰り返したんだろう。
頬に飛び散った泥を手首で拭いながら意味のない自問をする。
鬼は予想通り、まったく好きを見せなかった。妹紅もまた、食らいつくように偶然をつかみ取り続けた。何度も何度も何度も何度も鬼が殴りかかり、何度も何度も何度も妹紅は避け続けた。まるでお互い裏打ちをし、そのように作られた演劇のように噛み合った一連の攻防は絶え間なく続いていた。もしも、この両者に存在する違いを挙げるとするならば、これは劇のような茶番でありながら、その実、体力と我慢勝負となっているところか。
しかし、それの終わりも近づいてきていることを、ほかの誰よりも妹紅自身が気づいていた。
振り返った鬼は大気を震わせるような一喝の後、山肌に生えた大木を引き抜くとやり投げのように私に向けて投擲。脇で地面に刺さるそれを横っ飛びで交わすと砂埃の先には既に待ち構えたかのように鬼の拳が見えた。どうにもならず着地点の辺りに向けて発火、手のひらを焼き切り、両腕を軋ませながらどうにか爆破の勢いで拳打の軌道上から逃れる。ようやく真下に見えた鬼の左腕に片手をつき、そこから全力で跳躍。また宙に身を投げ出した。
そうして、眼前には荒々しく猛る鬼の形相あった。怪力と謳われ、恐れられ続けた妖怪の焦燥があった。
(ここしかないっ!)
ついに見せた鬼の恐慌。限界に近づいていた妹紅は攻勢に出ようとした。だが、それは勇み足だった。結果論と言えばそれまでかもしれないが、思わずそう言いたくなってしまうほどの暴挙となってしまった。
眼前の鬼の顔は確かに険しいものだった。眉間にしわを寄せ、口はキツく一文字に閉められた苦悶の表情を浮かべているのがよくわかる。それを見た私は一連の流れにおいて、相手の先手を取れたのだと確信してしまった。間違いないと思ったからそこで終わらせようと欲張った。
つかの間の一瞬。鬼が笑う。
ぶれた視界、消えた左肩の感覚、皮膚に押し付けられる風圧、大きく揺れる頭と奇妙な音を上げる首元。
「…っち。なんでえ。威勢がいいのはやっぱり口だけか。もろい。余りにも脆くて弱っちい…所詮は人だしなあ。」
終始避け続け、致命傷しか狙わないガキなんぞ鬼にとっては危険なものですらないということだろうか。体中に匂う焦げ付いた肉の匂いにやや顔をしかめているものの、鬼の表情はまだまだいけそうな、余裕の表情だった。
「分かりやすくて助かる…、ちっとばかし釣りを仕掛けたらこれだ…、バカは騙しやすくてなあ…」
そんな独白に良心の呵責も、ましてや誇りなどあるわけもなかった。首を軽くひねり、ゴギリゴギリと鳴らしてから肩を回してから、鬼は地面に放り投げられた死体の方へと歩き出す。
いや、鬼にとっては既にそれは死体ではなく、ただの餌でしかないのかもしれない。
妹紅は遠くの方のそんな声を聞いた。しかし、もう聞こえない。視界が黒い。寒い。力が入らず、指先から急速に感覚が抜け落ちていく。冷たいまま消えそうになる。そのままなくなってしまいそうになった。
いろんなものが流れて消えた。それは以前までいた村の光景、訪れた村の人たちの顔、都を出た時の朝日、谷底に落ちていく岩笠の顔、寒気のする同情の視線、冴え渡るような青い月、対照的に赤く燃え上がる屋敷、懐かしい私の家、大好きだった父の申し訳なさそうな笑顔。
まだだ、私はいま、死ねない。
父の汚名も、父の思いも、私はまだ雪ぐことも果たすこともできていない。ましてや、飛倉の願いを叶えようともしていない。
諦めるものか。ここで投げ出せるものか。私は死なないし、死ねない。どこにも終わりがない私が、できることなど元から限られているかもしれない。けれど、その限られてる中のことぐらいはこなしてみせなければ私のまわりで死んでいった人に申し訳が立たないじゃないか。
鬼が私の右腕を摘み、私の半身を噛みちぎろうとし、大口を開けた時に、また生を押し付けられた。幸いというべきか、首の骨が折れて一度死んでいるおかげで蓬莱の薬が働いたらしい。燃え上がるように再生していく体はこの今際の際になって間に合ったということか。
眼下に見えたのは望んだ光景。ようやく死ぬことができるという意味ではない。無様に晒した醜い鬼の鬼門だった。
思わず、笑ってしまった。最初から最後までなにもかもが仕込まれたかのようになったこの状況に私は笑うしかなかった。
「吹き飛べ、このクズが」
私はそのときの鬼の表情を絶対に忘れないだろう。飛倉の血がこびりついた頬の真上に出来上がった濁りきったその瞳を。私が一番最初にクズだと断言した化物のその瞳を。
鬼が私を投げ出す前にありったけの炎を奴の口内から中枢へと注ぎ込む。鬼はこれ以上やらせまいと、あえて投げ出さず私を噛みちぎろうと肩ごと食らいついてきた。だが、ガチガチと震える顎ではいくら鬼とは言えど骨ごと噛み砕くことはできなかったのだろう。私の腕を食い千切ろうと歯を食いしばっていたが、やがて耐え切れず断末魔と共にそれも諦めた。
鬼の口から溢れ出た炎は大きく息を吸い込むかのような響きを鳴らして、次の瞬間には断末魔のような大音量と共に弾け飛んだ。
⇔
「…もう、いいかな」
大きく上がった土煙の中に鬼の姿はなかった。
折れた花や地面にべっとりと付いた血の跡は鬼の元へと私を導いてくれるだろう。
しかし、追う必要はない。
飛倉は死んでしまった。
あの村の呪いなんてものは所詮まがい物だった。
それでも死んだ。
フラフラと亡骸のもとへと近づく。
それは既に冷たくなっていた。そして左手には絶対離さないと言わんばかりに今もなお強く握られた布切れがあった。
そこに飛倉の意思を感じたような気がした。それと同時に堰を切ったかのように溢れ出してきた。
人一人死んでたくさんのことを見落として、
人一人死んでようやく前に向ける程度の弱虫。
そんな私でも生きてる。
生きてしまっている。
だから明日が来る。
でも、今日はいつになれば明日なんだろう。いつになれば今日を越えられるのだろう。
雨が冷たい。とても冷たい。
ようやく飲み込めた自責は私をただ熱くさせている。燃えあげるように私の頭の中を溶かしている。
遠い。全てが淡く、月にも太陽にも届かない。
幼くて、ボロボロなこの心じゃ、きっと追いつかない。
でも今はこれでよかったと思えた。
意地っ張りな気持ちは沈んでいった。
細かいことは生きるのにいらない。
事実は変わらない。過去も変えられない。
なら先を見ていたい。今を信じていたい。
そう思うことはきっと間違いなんかじゃない。
やっとそう思えた気がした。
⇔
「失敗した失敗した失敗した失敗した………っ!」
か細い息遣いのまま、土を食みながらも隻腕で山を降りる。隻腕というのはもはや間違えかもとなってしまうかもしれない。なぜなら、鬼は左腕だけでなくその下半分、体の下半身すらなくしてしまっていたからだ。
「あそこはだめだ、これ以上は使い物にならない。これ以上は………」
脇道に見えた木のうろに頭からなだれ込む。地中の洞穴は元から湿っぽかったのに加え、ダラダラと流れる自分の血液と焦げ付いた肉の匂いがその狭い空間に充満し、めまいがしそうなほど息苦しい場所となっていた。
息を整えながら、煩雑な思考をとにかく一方向へと絞り込む。一旦、身を潜めよう。この体じゃ化けることも出来やしない。だが、時間を置けば大丈夫だ。直ぐに帰ってこれなかった理由は足をくじいていたでも道に迷っていたでも構わない。とにもかくにも時間が必要だ。
しかし機を見てあの村も捨ててしまわねば。深夜に村の中から手当たり次第に食い散らかしてしまえばいいだけだ。あいるにもそのとき強引に食わせてしまえばいい。いくらあいつと言えども一度口にしたものを吐き出しはするまい。元気になれば考えも変わるはずだ。それからは足取りを消してここから離れて、生きのびて…。
「見つけたぞ!」
ようやく道筋が見えてきた頃、気の外からそんな野太い声が聞こえた。目の前に淡い光と、無数に揺らめく棒の歪な影が見えてきたのはそのすぐあとだった。
⇔
「………さってと、久しぶりにお団子でも食べに行こうかな」
眼下で行われている惨殺を眺めながら少しつまらなそうに河童はぼやいた。本来ならありえないその様子に一部たりとも興奮や恐怖を覚えないのは事情を知ってしまっているからに違いない。舞台裏ではなく客席からはやし立てるだけだったならもっと楽しげだっただろう。
ため息を一つ、それから枝の上で立ち上がると下にいる鬼だった死骸がこちらを見ているような気がした。返り血ともあいつ自身の血とも分からない液体でいびつに歪んだ顔の中、未だに残った血走り、充血した瞳がこちらを睨んでいるかのように感じた。
しかしそんな瞳も次の瞬間には村人が振り下ろしたこん棒によってあっけなく叩き潰された。
河童はそれを見届けた後、鼻を鳴らして帽子をかぶり直すと、また一人、山を降り始めた。
既に空が白み始めている頃のことだった。