銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第94話:過去と現在が交わる時 802年2月10日~2月中旬 第二艦隊司令部士官食堂~カフェ「ロンゲスト・マーチ」~第二艦隊司令部

 エル・ファシル逃亡者問題はあっけなく片付いた。二月一〇日、国防委員会が「リンチ少将配下の兵卒・下士官を不起訴処分とする」と発表したのだ。逃亡者全員に事情聴取を行った結果、「将兵の大多数は共謀関係になかった」との見方が強まり、不起訴処分となった。

 

 断罪論者が根拠とした七八八年の報告書は、証拠にならないと判断された。掲載された「証言」のほとんどは、証言者の推測に過ぎない。リンチ少将が完璧に計画を隠ぺいしたため、ヤン元帥ですら逃亡部隊の内情を把握しておらず、推測で話すしかなかった。俺が「リンチ少将は『救援を求めに行く。第七方面軍司令部の承認は得た』と言った」と証言したのに、第七方面軍司令部への事情聴取はなかった。こんないい加減な代物が通用するのは、断罪論者の脳内だけである。

 

 不起訴となった兵卒と下士官は一階級昇進し、名誉捕虜章と一時金を受け取った。通常の捕虜と同じ扱いである。エル・ファシルの逃亡者は名誉を取り戻した。

 

 士官は軍法会議にかけられることとなった。国防委員会が「全員がリンチと共謀したとは考えにくい」との見解を示しており、ほとんどの者は無罪になる見通しだ。

 

 逃亡者擁護を始めてから二週間で、俺は完全勝利を収めた。国防委員会が要求を完全に受け入れた。前の世界では無視された主張が公式見解となった。しかも、士官の免罪というおまけ付きだ。予想以上の成果であろう。

 

「夢じゃないのか」

 

 自分の頬を力いっぱいつねった。これが夢ならば痛みを感じないはずだ。頬に感じた痛みは現実のものだった。

 

 立ち上がって椅子をよけると、右足で左足を力いっぱい踏んだ。足に感じた痛みは現実のものだった。

 

「何やってるんすか?」

 

 亜麻色の髪の美男子が呆れたような顔をする。彼はワイドボーン宇宙軍大将だ。

 

「何でもない」

 

 そう答えると、俺は周囲を見渡した。同じテーブルにいるのは、参謀長マルコム・ワイドボーン大将、副参謀長チュン・ウー・チェン中将、通信部長マー・シャオイェン技術少将、副官代理ユリエ・ハラボフ中佐の四人だ。他のテーブルにも見慣れた人々がいた。おかしなところはない。いつもと同じ第二艦隊司令部の士官食堂である。

 

 やはり、これは現実なのだろうか? いや、簡単に判断するのは良くない。他人の判断を仰ぐべきだ。

 

「ハラボフ中佐、こちらに来てくれ」

 

 俺はハラボフ中佐を手招きした。空気が読めない参謀長は、つねらなくていい時につねり、つねるべき時につねらないだろう。副参謀長はナイフとフォークを使っているのに、なぜか手が油とソースで汚れている。通信部長は握力が弱い。冷徹な副官代理なら安心できる。

 

「どのようなご用件でしょう?」

「俺の頬を力いっぱいつねるんだ」

「かしこまりました」

 

 ハラボフ中佐は眉一つ動かさずに答えると、俺の頬に触れた。指でつんつんと突いたり、円を描くように撫でさすったりする。

 

「何をしてるんだ?」

「痛点を探しているのです」

「なるほど。君は本当に冷徹だな」

 

 俺は心の底から感心した。並の軍人なら力任せにつねるだろう。しかし、彼女は最大限の痛みを与えるための努力を惜しまない。

 

 ハラボフ中佐は数分かけて痛点を見つけると、右手の親指と人差し指でつまみ、おもいっきり引っ張った。頬に激しい痛みが走る。

 

「痛い!」

 

 俺の口から情けない叫び声が飛び出し、目に涙がにじんでくる。この痛みこそが現実だ。エル・ファシルの逃亡者は罪人ではない。俺は過去に打ち勝った。

 

 記憶の洪水が脳内を駆け巡る。故郷で過ごした時の記憶、エル・ファシル警備部隊に配属された時の記憶、捕虜になった時の記憶、ゼンラナウ矯正区で過ごした時の記憶、帰国した時の記憶、家族や友人に見捨てられた時の記憶、軍隊で古参兵にリンチされた時の記憶、軍隊を脱走してスラム街で過ごした時の記憶、酒とサイオキシンに溺れていた時の記憶、口にはできない罪を犯した時の記憶、刑務所に入った時の記憶、麻薬中毒更生施設にいた時の記憶、救貧院で戦記を貪り読んだ時の記憶、再びエル・ファシルに降り立った時の記憶、そして……。

 

 エル・ファシルを脱出する日、星系政庁の廊下を全力で走った。隣では女の子が走っていた。髪の毛の色は俺と同じ人参色の赤毛だ。身長と年齢は同じぐらいだろう。

 

 星系政庁を出てバスに乗った。隣には女の子が座っていた。髪の毛の色は俺と同じ人参色の赤毛だ。身長と年齢は同じぐらいだろう。

 

「いつか、エル・ファシルに帰れるんでしょうか?」

「帰れるよ、きっと」

「ありがとうございます。信じます」

 

 赤毛の彼女は俺の言葉を信じてくれた。いや、信じたかったのだろう。あの時は生き残れるかどうかも定かではなかった。どんなに小さな希望でもないよりはましだった。

 

「俺は故郷に帰った。君はエル・ファシルに帰れたのか?」

 

 記憶の中の彼女に問いかけたが、答えは返ってこなかった。当然と言えば当然だ。俺は彼女の行方を知らない。

 

「司令官閣下」

 

 冷たい声が耳に飛び込んできた。赤毛の少女の姿が消え、赤毛の副官代理が現れる。髪の毛の色は俺と同じ人参色の赤毛で、身長は俺より三ミリ低く、年齢は三歳若い。

 

「ハラボフ中佐、どうした?」

「質問したいのは私の方です。お体の調子が良くないのですか?」

「いや、大丈夫だ」

 

 俺は微笑みでごまかした。本当のことなど言えるはずもない。

 

「フィリップス提督」

 

 苦笑いを浮かべたワイドボーン参謀長が俺の肩を叩く。

 

「なんだ?」

「みんな見てますよ」

 

 彼が言う通り、士官食堂にいる人々の視線がこちらに集中していた。どう反応していいかわからないといった感じだ。

 

「どういうことだ、これは?」

「びっくりしてるんすよ。司令官が自分の頬をつねったり、自分の足を踏んだり、部下に頬をつねらせたり、呆然と立ち尽くしたりしてるんです。誰でも驚きますって」

「…………」

 

 俺は顔を引きつらせた。自分の行動が奇行にしか見えないことに、ようやく気付いたのである。

 

「働きすぎもほどほどにしてくださいね。体を壊したら元も子もないですから」

「気を付けるよ」

 

 この一言で場は収まった。人々は俺の多忙ぶりを知っているので、過労といえば納得する。働き者という評判はこういう時に役に立つ。

 

 仕事が終わった後、祝賀会を開こうと思ったが、部下たちが「休んだ方がいい」と言うので官舎に帰った。現在住んでいる官舎は単身者用のマンションタイプだ。大して広い部屋ではないが、設備は充実している。

 

 俺は食卓の上に作り置きの料理一〇皿とダーシャの写真を並べ、一人だけの祝賀会を始めた。黙々と料理を食べ、黙々と飲み物を飲み、勝利の余韻に浸る。

 

 携帯端末には祝いのメールがひっきりなしに入ってきた。ドーソン上級大将は、「私の力だぞ。感謝しろ」といういつも通りの内容である。妹やコレット少将らは、ひたすら俺をほめちぎった。アラルコン予備役上級大将らは、反戦派に一泡吹かせたことが嬉しいようだ。アンドリュー、イレーシュ少将、ルグランジュ上級大将、ベイ准将らは、自分のことのように喜んでくれた。ドールトン少将は冒頭で祝いを述べただけで、それ以降は付き合っている男の愚痴が延々と続く。

 

 メールとは不思議なものだ。単なる文字列なのに温もりが感じられる。文字列に目を通し、返事を書くだけで会話をしている気分になってくる。

 

 一四年前にエル・ファシルに降り立った時、俺は一人だった。寂しいとは思わなかった。前の人生ではずっと一人で生きてきた。そして、これからもずっと一人だろうと思っていた。

 

 今の俺は一人じゃない。恩師がいる。上官がいる。僚友がいる。部下がいる。エル・ファシルに降り立ってから、ずっと仲間に囲まれてきた。これからもずっと仲間に囲まれているだろう。前の人生との最大の違いは仲間の存在だ。

 

「俺が勝ったんじゃない。みんなが俺を勝たせてくれたんだ。そうだよな?」

 

 俺はダーシャの写真に問いかけた。返事はないが、肯定してくれると思う。彼女も仲間を大事にする人だったから。

 

 自分のやったことが褒められたものではないという自覚はある。利己心をくすぐらなければ、人は動かない。他人のために動いているつもりでも、心の底には「あの人に気に入られたい」「自分が正しいことをあの人に知ってほしい」という思いがある。世の中をきれいものと汚いものに分けるならば、人を動かすことは汚いものに分類できるだろう。エル・ファシル逃亡者問題を早期解決に導いたのは、人々の利己心だった。

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長のメールには、「貸しということでしょうね」と書いてあった。その通りだと思う。トリューニヒト議長は逃亡者を免罪することで、俺に恩を売った。エル・ファシル逃亡者問題は優先度の低い問題だ。譲ったところで懐は痛まない。

 

 法務副部長ミルカンダニ中将のメールは、「うまくやっておきました」という内容だ。法務部の上層部は、俺に付いた方が得だと計算した。

 

 俺が直接介入したことは波紋を呼んだ。客観的に見ると、エル・ファシル問題は上級大将が出てくるほどの問題ではない。俺と断罪論者の実力差は圧倒的だった。マリノ中将は、「空手マスターがチンピラのキンタマを全力で蹴り上げるようなもんですな」と評する。権力を振り回したと思われても、文句は言えない。

 

 逃亡者擁護を身内びいきだと批判する声もある。反フィリップス派は、俺が元同僚の犯罪を隠そうとしたと決めつけた。反戦派は軍部が罪を犯した兵士をかばったと思い込んだ。

 

 免罪論者の言動も反発を招く要因となった。頭ごなしに怒鳴りつけたり、偉そうに説教したり、恫喝めいたことを口にしたりするなど、高圧的な言動が目立つ。威張ることや善意を押し付けることは、彼らにとっては体に染みついた習慣である。俺が自制を求めても、九割程度に抑えただけに留まり、根本から言動を変えようとはしなかった。末端の人間は俺が自制を求めたことすら知らない。凡人集団の短所が露骨に現れた。

 

 いずれにせよ、エル・ファシルの逃亡者は救われた。前の世界と違って、無実の兵士が逃亡者のレッテルに苦しむことはない。それだけは事実であった。

 

 

 

 二月中旬の日曜日、俺はワイドボーン参謀長と一緒に、カフェ「ロンゲスト・マーチ」でランチを楽しんでいた。第二艦隊司令部から二〇キロ離れた場所にあるこの店は、愛国カフェとして知られており、客のほとんどが右翼だ。

 

「いい店だろ」

 

 ワイドボーン参謀長が得意げに胸を張る。昔馴染みなので、プライベートでは敬語を使わない。

 

「そうですね」

 

 俺は敬語で答えた。居心地の悪い気分を感じていたが、口には出さない。店内には自分の写真が何十枚も貼られているのだ。小物には耐え難い状況である。

 

 ワイドボーン参謀長の視線は、一人の女性店員を追い続けていた。絶世の美女という言葉は、この女性のために作られたのだろう。年齢は二〇代後半に見えた。まっすぐに伸びた髪の毛は黒い絹糸のようだ。肌の白さは新雪を思わせる。気品に満ちた清らかな顔に、宝石のような青い瞳とコーラルピンクの唇が彩りを添える。

 

「あれがこの店を気にいった理由ですか?」

 

 俺が小声で聞くと、ワイドボーン参謀長は嬉しそうに頷いた。

 

「良くわかったな」

「わからない方がおかしいですよ」

「美人だろ?」

「ええ」

「惚れるなよ。あの子は俺のもんだからな」

 

 そう語るワイドボーン参謀長の目は、恋する少年の目であった。

 

「俺はダーシャ一筋です」

「そうか。じゃあ、応援してくれよ」

「応援はしますけど。でも、厳しいでしょうね」

「そうか?」

「あの人、既婚者だと思いますよ。同盟語が片言でしょう? たぶん帝国人移民です。帝国人は結婚が早いんで、あの年で独身ってことは考えにくいです」

「わからんぞ? 離婚してるかもしれん。旦那と死に別れた可能性だってある」

「どうなんでしょう」

「あの子はきっと一人だ。天涯孤独の女性が言葉の通じない異国で頑張ってるんだ。けなげじゃないか」

 

 ワイドボーン参謀長は自分に都合の良すぎる答えを出した。この人の鋭さは仕事する時と議論する時にしか発揮されない。普段は筋肉で思考しているのだろう。

 

「そうですかね」

 

 俺は曖昧に笑った。正直、あの女性店員には魅力を感じなかった。ただ突っ立ってるだけで、接客しようという姿勢がない。単に顔が良いだけだ。

 

「守ってあげたいよな……」

 

 美男子のワイドボーン参謀長が、憂い顔で女性店員を見つめる。絵になる構図のはずなのに、残念な印象しか受けないのはなぜだろう。

 

 真面目に対応するのが馬鹿らしくなったので、テレビへ視線を向けた。画面に映っているのはリベラル番組だ。客は出演者を罵ったり、嘲笑ったりして盛り上がる。

 

「この店は愛国カフェですよね。なんでリベラル番組なんか流してるんですか?」

「リベラル番組を見て怒るのが愛国的なんだとさ」

 

 ワイドボーン参謀長は明らかに他の客を皮肉っていた。トリューニヒト派に属し、パトリオットシンドロームを歓迎したことがある人なのに、右翼に対しては非好意的だ。伝統保守の彼から見れば、リベラルも右翼も規律を乱す存在でしかない。

 

「気持ちはわかります」

 

 俺は心の中で「共感はできませんが」と付け加えた。右翼がリベラルを憎む気持ちはわかる。だが、共感することはできなかった。

 

 テレビに俺の顔が映り、マレマ氏というリベラル文化人が「フィリップスはつまらない男だ。ヤン元帥の足元にも及ばない」と批判した。先輩のキャゼルヌ予備役中将や腹心のビョルクセン元少将が告発されても、親友のラップ中将が予備役に編入されても、ヤン元帥は擁護しなかった。それに対し、逃亡者を擁護した俺は身内びいきが酷いというのだ。

 

 ロンゲスト・マーチの客は大いに怒り、マレマ氏に罵倒を浴びせた。あちこちのテーブルでブザーが鳴った。店員は飲み物を乗せたトレイを持って走り回る。

 

「うまくできてますね」

 

 俺は感心してしまった。リベラルの悪口を言い続けていれば、客はのどが渇き、飲み物がほしくなる。飲み物はフードと比べると利益率が高い。リベラル番組を流すだけで、利益が転がり込む仕組みだ。

 

「そうか?」

「飲み物を注文させるための手ですよ。悪口をずっと言ってたら、飲み物がほしくなりますよね。飲食店にとっては、飲み物は儲かる商品なんです」

「そんなに儲かるのか?」

「めちゃくちゃ儲かりますよ。飲み物は原価が極端に安いんです。飲み放題に行くと、あなたは元を取るといって飲みまくるでしょう? でも、トータルでは損してますよ」

「フィリップス提督は物知りだなあ」

 

 ワイドボーン参謀長は素直に関心してくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は嬉しそうに微笑む。飲食店経験者なら誰でも知っていることだが、それは言う必要がないことだ。

 

 職業軍人は世間知らずである。中学校を出て、士官学校や専科学校に入学し、卒業後は軍隊に入るのだ。世情に通じる機会などない。大卒の予備士官課程出身士官にしても、大学生活の経験だけでは、世間を知っているとは言えないだろう。世間知らずという点では、士官学校出身のエリート参謀も、専科学校出身の下士官も大して変わらない。ワイドボーン参謀長が飲み物の原価を知らなくても、軍人としては普通のことなのだ。

 

「フィリップス提督はヤンよりずっと上だよ。バイト経験がある将官なんて滅多にいないだろ。宇宙船育ちで学校に行ってないヤンより、ずっと現実が見える」

 

 切れ者のワイドボーン参謀長ですら、嫌いな相手を世間知らずと思いたがる弊習からは、自由になれなかった。

 

 トリューニヒト派は、宇宙船で少年時代を過ごしたヤン元帥を「学校に行かなかったから、世間を知らないんだ」と嘲笑う。しかし、同年代の子供しか通っていない学校なんて、大して広い世界でもない。宇宙船育ちの子供は、年齢も文化的背景も違う人々との集団生活を経験しているので、学校に通った子供より経験豊富という見方もできる。

 

 良識派は、ワイドボーン大将のような秀才参謀を「世間知らずのエリート」と決めつける。しかし、秀才参謀も実戦派も、軍隊以外の社会を知らない点では同じだ。

 

「俺だって少しバイトしただけですよ。世間を知らないという点では、あの人といい勝負です」

「ヤンなんかフォローしなくてもいいんだぞ」

「本心ですけどね」

 

 俺はさりげない風に答えると、コーヒーカップを片手で持ち、砂糖とクリームでドロドロのコーヒーを飲む。今は変装中なので両手持ちはしない。

 

「どんなに頑張ったって、ヤンは振り向かないぞ」

「期待はしていません」

「だったら、なんでアプローチを続けるんだよ。逃亡者の件だってそうだ。ヤンが証言すると思ってたのか?」

「思っていました。あの人は寛容な方です。兵士を救うためなら、協力してくれると信じていました」

 

 俺は残念そうに笑った。ヤン元帥は俺を嫌っているが、それ以上に弱い者いじめを嫌っていた。直接話すことさえできれば、逃亡者の件に限っては味方になったはずだ。

 

「あいつが寛容? 冗談だろ」

 

 ワイドボーン参謀長が眉をひそめるが、俺はひるまない。スポーツマン相手には正面から切り込むのが正解だ。

 

「はみ出し者を受け入れてるじゃないですか。薔薇の騎士やトランプのエースを引き取ろうとする人なんて、ヤン元帥以外にはいませんよ」

「あいつははみ出し者に寛容なだけだぞ」

「ヤン元帥はムライ提督やパトリチェフ提督を重用しています。二人とも型にはまったタイプでしょう」

「俺から見ればはみ出し者だけどな。ムライは規則にうるさいけど、口が裂けても『祖国を愛せ』とは言わない奴だ。パトリチェフは勇猛だけど、『同胞のために死ね』と命令することは絶対にない。どっちもヤン好みのリベラリストさ。シェーンコップより行儀がいいってだけでね。普通の部隊なら変人扱いだろうよ」

「おっしゃるとおりです」

 

 俺は相手が正しいことを認めた。戦時国家の同盟では、レべロ議員のように愛国心を口にするのが普通のリベラリストだ。ムライ大将やパトリチェフ大将のスタンスは、リベラリストとしてもかなり極端な部類に入る。こういう人物でなければ、ヤン元帥の腹心は務まらないのだろう。

 

「ヤンが寛容ってのは大間違いだ。はみ出し者としか仲良くできねえんだよ」

「マイノリティにも寛容ですよ」

 

 俺は別方向からの反論を試みる。戦記がヤン・ウェンリーを「寛容」と評したのは、さまざまな人間を受け入れたからだ。前の世界のウィリバルト・フォン・メルカッツは、古風な思想を持つ亡命者であったが、ヤン・ウェンリーに重用された。

 

「はみ出し者とマイノリティは違うぜ」

「ヤン元帥は帝国人に寛容です。同盟軍で帝国人幹部の比率が最も高い部隊は、イゼルローン総軍でした。あの人より移民保護や難民受け入れにも熱心な提督はいません」

「確かに普通の帝国人には寛容だ。普通の同盟人には冷たいけどな」

 

 ワイドボーン参謀長は突っかかるような口調で否定した。悪意があるわけではない。むきになりやすいだけだ。

 

「そうですかね」

 

 俺は必死で食い下がる。記憶に焼き付いた「ヤン・ウェンリーは寛容」というイメージを捨てきれなかった。戦記の中のヤン・ウェンリーは、寛容な人物だ。この世界のヤン・ウェンリーは冷めた人にしか見えないが、「愛想は良くない」と戦記に書いてある。ヤン元帥と本音で話すまでは、不寛容だと決めつけることはできない。

 

「ヤンはマジョリティでない奴に寛容なだけさ。それって寛容なのか? 俺だってマジョリティには寛容だぞ」

「マジョリティの論理を押し付けないから、ヤン元帥は寛容と言われるのでは」

「俺が押し付けてるっていうのか? 今日のフィリップス提督はきっついなあ」

 

 ワイドボーン参謀長は心外だと言いたげな表情をする。目が笑っているのは、俺が本気だと感じるからだろう。真剣勝負こそ彼の望むところだ。

 

「数が多いだけで圧力になるでしょう。俺は自覚してますよ。自分の意見を数の圧力で押し付けてるって」

「ヤンはマイノリティの論理をマジョリティに押し付けてるんだ。俺は戦争に反対する奴を見ると嫌な顔をする。ヤンは戦争に賛成する奴を見ると嫌な顔をする。どこが違うんだ? やってることは同じじゃないか? マジョリティがやったら不寛容で、マイノリティがやったら寛容なのか?」

 

 ワイドボーン参謀長はヤン元帥が寛容でないと力説した。根底には感情的な反発があるのだろうが、論理的には筋が通っている。

 

「ヤン元帥は話し合いが大事だと言ってますし……」

 

 自分でも苦しい主張だという自覚はあった。戦記に出てくるヤン元帥は話の分かる人物だ。しかし、俺とは話してくれなかった。

 

「ヤンが主戦派とまともに話すと思うか?」

「話さないでしょうね」

「ヤンが主戦論にひとかけらでも理解を示すと思うか?」

「思いません」

 

 俺は首を横に振る。事務的な会話ならできる。しかし、ヤン・ウェンリーが主戦派と本音で話すところは想像できないし、主戦論に理解を示すこともないと思う。戦記でも彼の主戦論嫌いは一貫していた。

 

「あいつほど狭量な奴はいないぞ。対話をする気がないんだからな」

「対話は難しいかもしれません。けれども、話すことさえできればわかってくれるはずです。ヤン元帥には自分を疑う姿勢があります。あの人が『絶対的な正義はない』とおっしゃってるのは、参謀長だってご存知ですよね?」

 

 俺はなおも反論を試みた。戦記に登場するヤン・ウェンリーは、「正義は相対的だ」と語り、自分の正義を疑った。ならば、俺の正義を説く余地もあるはずだ。

 

「知ってるさ。ヤンは他人の価値観を否定するために、相対主義を振り回す奴だ」

「自分の価値観も疑ってると思います」

「あいつほど自分を疑わない奴は見たことないけどな。あいつは反体制思想を疑ってるのか? あいつは反戦思想を疑ってるのか? あいつは自由主義を疑ってるのか? そういうふうには見えないがな」

 

 ワイドボーン参謀長の主張は、戦記の内容と矛盾していない。ヤン・ウェンリーが反体制思想・反戦主義・自由主義を疑ったことは、一度もなかったと思う。ヤン・ウェンリーが疑ったのは、自分が戦う意義だった。

 

「まあ、そうですね」

「ヤンなんてただの原理主義者だ。体制や権威を批判することが絶対正義だと思ってる。戦争に反対することが絶対正義だと思ってる。個人の権利と自由はすべてに優先すべきだと思ってる。違う考えを認める気はひとかけらもない。ルドルフがリベラリストだったら、ヤンみたいになるんだろうよ」

「さすがにそれは言いすぎでしょう」

「そうだな。ここまでにしとくか。あんな奴でもフィリップス提督にとっては恩人だ。ヤンがいなきゃ、エル・ファシルから脱出できなかったんだしな」

「ありがとうございます」

 

 俺は胸を撫で下ろした。実のところ、七〇年以上前に読んだ本の知識以外には、ヤン元帥に好意的になる理由はない。戦記を読んでいなかったら、「才能は認めるけど好きになれない」と思っていたはずだ。マルコム・ワイドボーンは、あやふやな根拠で議論できるほど甘くはなかった。

 

 

 

 第二艦隊司令部で打ち合わせをした時、副参謀長チュン・ウー・チェン宇宙軍中将の意見を聞いてみた。親ヤン派とも反ヤン派とも縁が薄い彼なら、別の評価があるだろうと思ったのだ。

 

「参謀長は的外れなことは言ってないと思いますよ」

 

 予想外の答えが返ってきた。チュン・ウー・チェン副参謀長の顔は、いつもと同じようにのんびりしている。

 

「そうか?」

「私もヤン元帥は信念の人だと思っていますよ。自分の正義を疑わない。自分の正義に反することはできない。違う考えを認めない。彼ほど信念が強い人は見たことがありません」

「でも、あの人は信念という言葉を嫌ってるぞ」

「彼が嫌っているのは、言葉じゃなくて、それを口にする人なんだと思いますよ。自分は信念に命を賭けている。だからこそ、覚悟もないのに信念を口にする人が許せない」

「そういう見方もあるか」

 

 俺は感心してしまった。こういう解釈も十分に成り立つのである。戦記の記述とは多少矛盾するが、この世界で見たヤン元帥の行動とは矛盾しない。

 

「ヤン元帥は厄介な人ですが、それを補って余りある美点があります。市民の生命を守ることが、民主国家の使命だと本気で信じています。そして、どんな時でも市民の生命を最優先します。非難されることが分かっていても、不利になることがわかっていても、彼は市民の生命を守ろうとするでしょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長がヤン元帥を評価する理由は、市民の生命を優先するという点にあった。

 

「あの人はそういう人だよね」

「私は彼の狂信を信頼します。我々を滅ぼさなくても、彼は目的を達成できる。我々が市民を守る側に立つ限り、彼は我々を嫌うことはできても、排除することはできない。だからこそ、安心して対立できます」

「君はいつも言ってるな。ヤン元帥とは対立した方がいいと」

「あなたは他人に取り込まれることに抵抗を感じない人です。ヤン元帥と手を組んだら、彼に従属する形になるでしょうね。そうなったら、行き場がなくなる者がいる」

「そうだね。右寄りの連中はあの人の下ではやっていけない。穏健なリベラルでも、拒否感を示す者はいるだろうね」

 

 俺が反戦派と対立する理由は、人々の行き場を作るためだった。反戦・反独裁市民戦線(AACF)の下でやっていけない人は多い。ヤン元帥の下でやっていけない人は、さらに多いだろう。

 

「あなたはヤン元帥と対立すべきです。ヤン元帥の下でやっていけない者が、あなたの下に行く。あなたの下でやっていけない者が、ヤン元帥の下に行く。こうすれば、みんなが生きていけます」

「俺とヤン・ウェンリーの二極体制か。信じられないね。俺ごときがあのヤン・ウェンリーと対等だなんて」

 

 口では信じられないと言いつつも、俺は自分の立場を受け入れていた。才能や器量では、ヤン・ウェンリーの足元にも及ばない。それでも、みんなが高みに押し上げてくれた。相手が誰であっても逃げることはできない。

 

「しょせん、推測は推測ですけどね」

 

 いきなりチュン・ウー・チェン副参謀長がはしごを外す。

 

「ヤン元帥は信念の人のふりをした野心家かもしれません。ワイドボーン参謀長が言うように、最短距離で頂点を目指している可能性もある。主戦派をこの世から消そうとしている可能性もある。そうだとしたら全面対決です」

「それは困る」

「真実を知っているのは本人だけですよ。ヤン元帥は何を考えているかわかりません。行動から推測するしかないのです」

 

 最も誠実な答えは「わからない」なのである。ヤン元帥のコミュニケーション嫌いは、「沈黙の提督」と呼ばれるほどだ。自分の意見を発信しようとしない。身内以外とはほとんど話さない。自発的に動くことはほとんどない。だからこそ、さまざまな憶測が生まれる。

 

「帝国もそうだね。何を考えてるかわからない。行動から推測するしかないんだ」

 

 俺は帝国情勢に思いを馳せた。現在の国内情勢は帝国情勢と密接な関係があるので、無関心ではいられないのだ。

 

 もはや、門閥派の優位は動かぬものとなった。帝国首相ブラウンシュヴァイク公爵と第一副首相リッテンハイム公爵が、民主化を求める上奏文を提出した。署名した門閥貴族は四三二〇名。この上奏文は、署名が行われた別荘地の名前から「リップシュタット上奏文」と呼ばれる。

 

 先帝側近グループは分裂の兆しを見せた。副首相ゲルラッハ子爵ら中道派官僚は、門閥派との妥協を模索している。宮内尚書ブラッケ侯爵ら開明派は、貴族課税にこだわる姿勢を崩さない。八〇歳を迎えた派閥領袖のリヒテンラーデ公爵の後継者争いが、内部抗争を助長した。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥率いる捕虜回収船団は、捕虜を送り届ける作業に従事中だ。ラインハルトの本隊は、アースガルズの諸惑星に捕虜を送り届けながら、帝都オーディンに向かう。その他の部隊は各総監区に向かい、捕虜を送り届ける。大元帥府留守部隊は、司令官オーベルシュタイン大将が停職となったため、身動きが取れない。

 

「向こうが講和を申し込んでくるのは、時間の問題です」

「議長はつっぱねるよ」

「トリューニヒト議長なら拒否するでしょうね。違う人が議長なら話は別ですが」

「そこが問題なんだ」

 

 俺は窓際に立ち、防弾ガラス越しに地上を見下ろした。即時講和派のデモ隊と基地警備隊がにらみ合っている。

 

 即時講和を求める動きが中央宙域全体を飲み込んだ。都市部では大規模デモが頻発し、交通渋滞が慢性化していた。国会議事堂や主要官庁の周囲には、デモ隊があふれており、ヘリを使わなければ出入りできない有様だ。革命的ハイネセン主義学生連盟の反戦学生は、警察、憂国騎士団、正義の盾と激闘を繰り広げた。

 

 AACFはこの戦いにすべてを賭けた。弱体化したリベラル勢力にとって、講和問題は最後の機会だ。この機を逃せば、主導権を握る機会はなくなり、リベラリストにとっての地獄が始まる。公共安全局設置法、良心法、市民奉仕法、改正学校教育法の可決は、何が何でも阻止したい。ラグナロック開戦以降に移住してきた移民に対する市民権再審査、市民権を持たない難民の強制送還などは論外だ。軍縮と緊縮財政を強行しないと、経済が破綻するという危機感もある。

 

 トリューニヒト政権は反戦運動への対応に忙殺された。同盟軍再編を進める余裕はない。その他の政策も停滞気味だ。

 

 大衆党内部では、トリューニヒト下ろしの動きが活発化している。軍需企業との関係が薄いグループは、「講和の主導権を握った方が得策だ」と判断し、AACFとの連立政権樹立を企てた。軍需産業や極右との関係が強いグループは、「トリューニヒト議長では難局を乗り切れない」との考えから、新しい徹底抗戦派リーダーを擁立する動きに出た。

 

「議長の足元が崩れてるんだよ」

「AACFはこれを狙っていたんでしょうね」

「俺もそう思う。ボナール政権を倒した実績がある人たちだ。十分な勝算があるんだよ」

「デモというのは足払いみたいなものです。政府にひたすら足払いをかける。足腰の強い政府はびくともしません。しかし、足腰の弱い政府は倒れます」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長のたとえは、わかりやすい上に的確だ。

 

「難しい言い方をすると、政権支持層の造反を促すってところかな」

「そうなります」

「抗戦派まで造反している。一番の支持層が揺らいでるんだ」

「クーデターが響いてますね。ボロディン提督は、間接的にトリューニヒト議長を倒したのかもしれません」

「そうだね。イメージは政治家の命綱だ。トリューニヒト議長は命綱を切られてしまった」

 

 俺は席に戻り、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲む。こんな時は糖分が欲しくなる。

 

 クーデターの時、トリューニヒト議長は最悪の選択をした。逃げのびた代わりに、タフなリーダーという評価を失った。議長官邸で逮捕された方がましだったと思う。反クーデター勢力が勝ったら救出されるし、クーデター勢力が勝ったとしても殺される可能性は低い。

 

 しかし、前の世界と比べると、これでもましな展開なのだ。国防研究所が行ったシミュレーションによると、市民軍が敗北した場合、同盟は内戦状態に陥るとの結果が出た。内戦のシナリオは五パターンある。最も前の世界に近いシナリオでは、ヤン提督が五か月で内戦を終結させ、軍事政権を樹立するそうだ。ちなみにどのシナリオでも同盟経済は破綻する。

 

 前の世界では、救国軍事会議とヤン提督の戦いは四か月続いた。当時は引きこもっていたので、詳しい状況は覚えていない。ただ、ある程度は想像できる。救国軍事会議はハイネセンを完全に制圧していた。星内経済を停滞させるような抵抗運動は発生しない。しかし、四か月も内戦が続いたら、恒星間交易は停滞し、同盟全土が猛烈なインフレに見舞われるはずだ。経済損失はこの世界のクーデターよりはるかに大きくなる。前の世界の同盟経済は、七九七年に破綻した可能性が高い。戦記は人物を描くために、経済の話をあえて省いたのだろう。

 

 こうして考えてみると、前の世界の同盟末期は謎に満ちている。クーデターを鎮圧したヤン提督は、なぜ軍事政権を樹立しなかったのか? 当人が拒否しても、同盟市民が担ぎ上げたはずだ。そうしなければ同盟は存続できない。トリューニヒト議長がなぜあっさり復帰できたのか? 四か月も隠れていたら、この世界よりもイメージが悪化したはずだ。

 

 俺は背伸びをして、浮かんでくる考えを振り払う。前の世界よりずっと恵まれた状況なのは間違いない。

 

 歴史がいい方向に動いているのは確実だ。エル・ファシルの逃亡者は救われた。クーデターを早めに鎮圧することができた。チュン・ウー・チェンは戦死しなかった。ヤン・ウェンリーは暗殺されなかった。ラインハルト・フォン・ローエングラムは政権を握れなかった。

 

 司令官室のドアが開き、ワイドボーン参謀長ら幕僚数名が入ってきた。これから軽いミーティングが始まる。

 

「みんな、始めようか」

 

 俺は立ち上がって部下に笑いかけた。トリューニヒト議長が踏み止まっても、即時講和派が勝利しても、大衆党強硬派が勝利しても、やることは一つしかない。目の前の課題を全力で片づける。エリヤ・フィリップスはいつも前を向いている。


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