銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第99話:トリューニヒト劇場 802年2月26日~7月上旬 第一辺境総軍司令部~官舎~第二艦隊司令部~ビューフォート家

 ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長は、政権獲得前に出版した『同盟再建宣言』の中で持論を述べている。

 

「市民の信頼を得るには、四つのものがあればいい。一つは安定した雇用、一つは充実した福祉、一つは良好な治安、一つは将来への希望である」

「真面目に勉強すれば、誰でも就職できる。真面目に働けば、誰でも家族を養うことができる。真面目に貯金すれば、誰でも家や車を買うことができる。真面目に税金を払えば、誰でも豊かな老後を過ごすことができる。正しい社会とはそういうものだ」

「国家と企業を混同してはならない。財政収支をプラスにすることにこだわり、市民に不便な思いをさせるのは本末転倒だ。良き政府とは、市民を豊かにするために赤字を出す政府である」

「行き過ぎた自由化が格差を生んだ。強者は自分の力だけで勝ったと思い込み、弱者を侮り、『国家など必要ない』と放言する。弱者は強者を恨み、『国家は何もしてくれない』と嘆く。これでは同胞愛など生まれようもない。格差是正に全力で取り組むべきだ」

「自由な競争は一握りの勝者と多数の敗者を生み出す。競争を抑制し、産業を保護しなければ、敗者なき社会を作ることはできない」

 

 安定と平等。この二つこそがトリューニヒト議長の求めるものだった。不安定な自由よりも、不自由な安定を望んだ。自由な競争がもたらす格差よりも、押し付けられた平等を望んだ。

 

 トリューニヒト議長の「思想」に対する評価は大きく分かれた。ある者は素晴らしい理想だと称賛した。ある者は不自由な安定を良しとする姿勢を「ファシズム的だ」と批判した。ある者は平等の押し付けを良しとする姿勢を「社会主義的だ」と批判した。ある者は「こんなのは美辞麗句だ。思想と呼ぶに値しない」と切り捨てた。

 

 俺は講和問題が解決した頃のことを振り返った。三か月前のことだ。トリューニヒト支持者ですら「自分たちは騙されたのではないか」と疑い始めていた。トリューニヒト議長に指導力が欠けていることは明らかだ。魅力的な公約を掲げても、実現できなければ意味はない。

 

 同盟経済は極めて深刻な状況にあった。八〇二年二月のGDPは、ラグナロック戦役開戦直前の九一・五パーセントに過ぎない。真の失業率は三一・七パーセント、非就業者から公務員を差し引いた「見かけの失業率」は二四・三パーセントにのぼる。見かけの失業率で計算しても、一六億三五〇〇万人が失業しているのだ。

 

 慢性的な不況が格差拡大の流れを加速した。中間層人口が減少し、高所得層人口と低所得層人口がダゴン会戦以降最大となった。非正規労働者が労働者の過半数を超えた。地域格差はますます広がり、最も豊かな星系と最も貧しい星系の平均年収格差は三・四倍になった。

 

 経済的困難に加え、経済政策や講和をめぐる世論の分裂、反戦運動の過激化、相次ぐ爆弾テロや暗殺が社会不安を増大させた。同盟国内はゼッフル粒子が充満した密室と化した。

 

 二月二六日一五時三七分、トリューニヒト議長の緊急演説が始まった。放送局は通常番組を休止し、すべてのテレビとラジオが演説を放送した。建物・電車・バス・航空機・水上船・宇宙船のスピーカーからも演説が流れ始めた。国民投票が中止された一五分後のことである。

 

「市民諸君、悪夢は終わった。圧制者との戦いを継続するという決定がなされた。国家分裂の計画は潰えた。分断された人々は再び一つになった。

 

 私は諸君の望みを知っている。それは安定した仕事、十分な年金、広くて日当たりの良い住宅、安くて高性能な自家用車、気軽に利用できる病院、しっかりした学校、犯罪者がいない地域、渋滞しない道路、時間通りに運行する交通機関、期日通りに届く郵便、誰でも利用できる保育園、安く入居できる老人ホーム、手厚い介護サービスだ。

 

 私が諸君に必要なものを与えようとすると、エリートたちは反対した。『施しに慣れるよりは、飢えに慣れる方がましだ』というのが彼らの言い分だ。

 

 諸君は望みを口にすることを禁じられてきた。何かが欲しいと望んだら、『欲しいなら自力で手に入れろ』と説教された。与えてほしいと望んだら、『他人を頼るな』と説教された。答えを知りたいと望んだら、『自分で考えろ』と説教された。

 

 この国では、望みを口にすることも、他人に望みを叶えてもらうことも悪だとされてきた。自分で何でもできる者以外は見捨てられた。異常としか言いようがない。

 

 私は自由惑星同盟を正常化するための戦いを始める。市民が統治する国、市民が幸福になる国、市民の望みが叶う国を取り戻す」

 

 この演説の中に彼の姿勢が凝縮されていた。変革ではなく正常化、進歩ではなく回復を指向したのだ。

 

 最初に評議会の正常化を行った。一月三日に中央省庁再編を実施し、最高評議会は九委員会体制から一五委員会体制となったが、旧省庁の長が新省庁の長を兼ねる状態が続いていた。講和問題に忙殺されたため、内閣改造に踏み切ることができなかった。

 

 三月一日、第二次トリューニヒト改造政権が発足した。新委員会の委員長一五名がようやく任命された。これに議長一名・書記一名・無任所評議員五名が加わり、評議員の総数は二二名となる。

 

 俺は司令官室でトリューニヒト議長の記者会見を眺めた。仕事をさぼったわけではない。「国家公務員は会見を見るように」という政府の通達に従ったのだ。

 

 最初に名前があがったのは、マルコ・ネグロポンティ副議長兼国防委員長だった。軍政のトップが続投することとなった。ありがたいことである。

 

 国務委員長には、シルヴェステル・スタピンスキー大衆党政審会長が就任した。大衆党外様の重鎮で、国民平和会議(NPC)にいた頃に国務副委員長を務めたことがある。堅実な人選だろう。

 

 財政委員長には、三八歳のトリッシュ・マロニー上院議員が就任した。昨年一二月の補選で初当選したばかりだという。テロップには「ホプキンズ大学経済学部卒 元北極星銀行上席副社長」と記されている。ホプキンズ大学はフェザーン最大の商科大学、北極星銀行はフェザーン五大銀行の一つだ。フェザーン帰りの金融エリートといった経歴だ。

 

「あれ……?」

 

 俺の目はマロニー委員長の頭にくぎ付けになった。三つ編みにした金髪を頭にぐるぐる巻きにして、王冠のような形にするという変わった髪型なのだ。

 

 この髪型は前の世界でも見たことがある。戦記には登場しないが記憶の中には残っている。自分の名前を忘れたとしても、この髪型を忘れることはあり得ない。トリューニヒト政権の財政委員長だったはずだ。二つの世界で同じ人物が財政委員長を務めている。どういうことだろうか。

 

 ニキータ・イグナティエフ司法委員長の年齢を見た時、目が点になった。一二〇歳なのだ。フェザーンが建国された年に生まれたことになる。元下院議長、入閣回数は五回、最高評議会副議長やNPCが野党だった時の代表を務めたこともあるそうだ。昨年一二月の補選で三五年ぶりに政界に復帰した。史上最高齢閣僚の記録を塗り替えるための人事だろう。

 

 天然資源委員長、社会福祉委員長、産業開発委員長、国土開発委員長、情報通信委員長、国土保安委員長には大物議員が就任した。大衆党の大物といっても、旧体制なら若手や中堅に分類される人だが。

 

 環境保全委員長のジャネット・パストーレ上院議員は、故ディエゴ・パストーレ元帥の三女にあたる。パストーレ元帥の評価は年を追うごとに高まり、今では「パストーレ元帥が生きていれば、同盟軍はラグナロックで完勝しただろう」と言われるほどになった。父親の名声が一九歳の少女を閣僚に押し上げたのである。

 

 国民教育委員長には、タレント文化人出身のエイロン・ドゥメック下院議員が就任した。バラエティ番組で「愛国心のない教師は全員解雇しろ!」などと叫んでいた人が、教育行政のトップになった。

 

 労働雇用委員長、食料資源委員長には若手の政策通が起用された。労働と農業にはまともな人を置きたいと思ったのだろう。

 

 科学技術委員長には、大衆党副代表アントン・ヒルマー・シャフト上院議員が就任した。前の世界の戦記にも登場した人だ。帝国軍技術総監を務めていたが、帝都陥落の二か月後に降伏し、貴族身分を捨てて名前から「フォン」を外した。同盟政界を巧みに泳ぎ回り、帝国時代に勝る出世を成し遂げた。

 

 ジャッキー・チャン最高評議会書記は続投することとなった。この人とボネ情報通信委員長が議長の知恵袋と言われる。

 

 宣伝担当評議員のウィリアム・オーデッツ上院議員は、右翼系のニュースキャスターだった。口が達者な人なので、宣伝担当は適任だろう。

 

 帝国対策担当評議員のマルティン・ブーフホルツ下院議員は、二六歳という年齢と帝国の元政治犯という経歴が目を引いた。どこかで聞いた名前のような気もする。ラインハルトやキルヒアイスと同い年だが、たぶん関係ないだろう。

 

 テロ対策担当評議員のベルトラン・デュビ下院議員は、三か月前まで憂国騎士団の団長を務めていた。極右民兵のボスがテロ対策担当というのは悪い冗談だ。

 

 消費者行政担当評議員のテオドール・フォン・ベルツ下院議員、防災担当評議員のエドナ・ルディシャ上院議員は市民軍の英雄である。ベルツ評議員は亡命者であった。一八歳のルディシャ評議員は史上最年少評議員となる。

 

 最高評議会メンバーの平均年齢は五〇歳。一二〇歳六か月のイグナティエフ司法委員長を除く二一名の平均年齢は四五歳。一〇代の評議員は二名、二〇代の評議員は三名、三〇代の評議員は六名で、評議会の半数を四〇歳以下の若手が占める。

 

 能力は未知数だが、良い意味でも悪い意味でも「何かやってくれそう」と思える顔ぶれだ。トリューニヒト議長にしかできない人事だろう。

 

 閣僚名簿が発表された後、トリューニヒト議長の演説が始まった。張りのある美声が新しい戦いの始まりを告げた。

 

「本日よりブラック企業に対する戦いを開始する。ブラック企業による殺人と略奪は、自由惑星同盟に対する侵略行為だ。総力をあげて反撃し、奴隷化された市民を解放し、奪われた国富を取り戻さなければならない。

 

 過去二年間において、ブラック企業に殺された市民の数は、帝国やテロリストに殺された軍人の数をはるかに上回る。これは組織的な虐殺だ。ブラック企業と呼ぶのは生ぬるい。殺人企業と呼ぶべきだ。

 

 殺人企業との戦いには、利用できるすべてのリソースを投入する。すべての国家公務員に殺人企業への攻撃を命令する。すべての同盟加盟国に殺人企業への攻撃を要請する。最大限の軍事力と警察力を殺人企業に叩きつける。

 

 我々は勝利するまで決して止まらない。すべての殺人企業を潰すまで戦い続ける」

 

 記者会見の一時間後、大手外食チェーン「スズカ」の全店舗に労働基準監督官が踏み込んだ。労働基準監督官が引き揚げると、保健所員が踏み込んだ。保健所員が引き揚げると、消防署員が踏み込んだ。

 

 スズカは殺人企業の代表格である。過労死の多さ、離職率の異常な高さ、未払い賃金の多さ、抱える訴訟の多さで悪名高い。創業者のミセル・ボースマ会長は、経営者であると同時に政治家・思想家・芸術家・社会奉仕家でもあり、従業員に対する冷酷さとマイノリティに対する慈悲深さで知られる。これほど狙いやすい標的はない。

 

 国家とスズカの戦争が始まった。労働基準監督署・保健所・消防署の波状攻撃により、店舗が次々と営業停止に追い込まれた。税務署がスズカの役員とその家族への強制捜査を行った。

 

 世論はトリューニヒト議長に味方した。殺人企業は従業員に過重労働やただ働きを強要し、安全管理や衛生管理を無視し、多数の死者や傷病者を出した。数々の悪行にも関わらず、ビジネスの自由という建前によって保護されてきた。保守派の中には合理的だと称賛し、積極的に擁護する者すらいた。そんな企業が叩かれることは喜ばしい。

 

 スズカには何をしてもいいという風潮が生まれた。右派マスコミやネットユーザーがネガティブキャンペーンを展開した。財政委員会は銀行に融資を引き揚げるよう圧力をかけた。司法委員会は被害者やその遺族に裁判費用を与え、スズカを訴えさせた。大衆党員、労働組合員、憂国騎士団団員が店舗の前に陣取り、客が入れないようにした。

 

 ボースマ会長個人に対しても熾烈な攻撃が行われた。同性愛者であるにもかかわらず、幼女九九人を強姦した容疑をかけられた。脱税・横領・詐欺・業務上過失致死・株価操作・外為法違反など三八の容疑で全銀河指名手配を受けた。資産はすべて凍結された。フェザーンへの亡命申請は却下され、自治領主府からも指名手配を受けた。

 

 このようなやり方に異論を唱える者がいなかったわけではない。コーネリア・ウィンザー議員は、保守派の立場からスズカを擁護し、「スズカ攻撃はビジネスの自由に対する攻撃」だと述べた。ジョアン・レベロ議員は、「どのような理由があっても、私刑は許されない」と訴えた。

 

 戦争開始から二か月後、スズカは七万三〇〇〇店中の六万九〇〇〇店が営業停止、従業員一一〇万人中の一〇五万人が退職、役員四五人中の三八人が拘留中という惨状に陥った。

 

 五月二〇日、俺は国防委員会の命令でアスターテ星系を封鎖した。ボースマ会長がイゼルローン回廊に入ろうとしている。イゼルローン総軍はスズカ攻撃に消極的だ。イゼルローン総軍のひねくれ者が、ボースマ会長を匿うかもしれない。イゼルローン経由で帝国に亡命することもあり得る。何としてもここで食い止めなければならない。

 

 五月二一日、ボースマ会長のクルーザー「マルキ・ド・サド」を捕捉した。軍艦二万隻がクルーザー一隻を取り囲み、降伏勧告を行う。

 

「君は完全に包囲された。逃れる余地はない。速やかに降伏せよ」

「やってみないとわからんさ」

 

 ボースマ会長は精悍な顔に不敵な笑みを浮かべると、総軍旗艦に向かって直進し、ビームの雨の中に消えた。敬礼したくなるほどに見事な最期であった。

 

「正義は必ず勝つのだ!」

 

 同盟全土が「絶対悪」の破滅と「絶対善」の勝利を祝う声で満たされた。政府が主催する祝賀式典には大勢の市民が集まった。

 

 下院にボースマ会長の死を祝う決議案が提出された日、ジョアン・レベロ議員は抗議演説を行った。

 

「ボースマ氏の死とは何か? それは民主主義の敗北だ。彼が犯罪者ならば、しかるべき手続きを踏んで告発するべきだった。

 

 人間は等しく権利を持っている。犯罪者が相手であってもそれは変わらない。相手の権利を尊重することを忘れ、限度以上の罰を加えれば、権力は暴力と化す。

 

 ボースマ氏と彼の会社に対して加えられた攻撃は、三〇〇以上の法律に違反している。ルールを擁護すべき立場にある者が、率先してルールを破った。政府と市民が超法規的なリンチを行ったのだ。これを恐怖政治と言わずして何と呼ぶのか?

 

 悪を滅ぼしたいという感情が民意なら、議会によって作られた法律も民意の表れだ。法律を尊重しよう。理性を取り戻そう」

 

 この警告に耳を貸す者はいなかった。議場では野次を浴びせられ、死を祝う決議案は賛成多数で成立した。市民からは殺人企業擁護だと曲解された。

 

 スズカとボースマ会長の破滅を目の当たりにした市民は、トリューニヒト議長のリーダーシップを見直した。一つの行動は百万の言葉よりも雄弁だった。

 

 スズカを滅ぼした後も、殺人企業への攻撃が止まることはない。量販店「スワンプマート」、レストランチェーン「ハピネス」、宅配便会社「エリューセラ・パーセル・サービス」など悪名高い企業が徹底的に叩かれた。

 

 潰れた殺人企業の店舗はフェザーン企業に買収された。元従業員の多くもフェザーン企業に雇われてまともな待遇を得た。

 

 殺人企業に苦しめられてきた低所得層は、トリューニヒト議長を真のヒーローだと考えた。政権支持率は急上昇を始めた。

 

 

 

 殺人企業と戦っている間、トリューニヒト議長は次々と正常化政策を打ち出した。必要な予算はフェザーンからの借金で賄った。

 

 マロニー財政委員長、ヤムナーム中央銀行総裁、ブゼレジ経済顧問会議議長の三名が、正常化政策の中心となった。財政委員長と中央銀行総裁はフェザーン帰りの金融エリート、経済顧問会議議長はフェザーン帰りのワトソン派経済学者という布陣だ。

 

 雇用の正常化政策は、膨大な失業者の救済を目指した。公共事業や軍拡による雇用創出を図り、国家公務員を大幅に増員し、二億人に仕事を与えた。地方政府に人件費補助金を与え、地方公務員の新規雇用を促した。

 

 労働の正常化政策は、労働者の権利を強化し、賃金上昇を促すことを目指した。非正規労働者の正社員化を進め、解雇規制を強化し、労働者の地位を安定させた。最低賃金は三〇パーセント引き上げられた。労働運動を制限する法律を撤廃し、下からの賃上げ圧力を強めた。長時間労働、残業代未払いなどに対する規制が飛躍的に強化された。

 

 福祉の正常化政策は、低所得層や社会的弱者の救済を目指した。生活扶助金、失業手当、障害者年金、公務員年金が増額された。昨年夏に復活した公的老齢年金や公的医療保険は、充実したものとなった。低所得層向けの無料医療、高齢者や障害者向けの公的介護サービスなども拡充された。

 

 辺境の正常化政策は、地域格差の解消を目指した。辺境政府への補助金が大幅に増額された。辺境振興事業で雇用を作った。食糧管理法を制定し、農産物の生産調整を行い、農産物価格の維持と農業惑星の経済安定を図った。水産物・鉱産物・林産物に関しても生産調整を実施し、価格維持と生産地の経済安定を目指した。新移民(ラグナロック開戦以降に移住した帝国人)による辺境開拓事業は、完全に中止された。

 

 税の正常化政策は、高所得層の負担増と低所得層の負担軽減を目指した。低所得層への課税最低限額が引き上げられ、非課税世帯が大幅に増加した。所得税の税率が変更され、低所得層への課税は軽くなり、高所得層への課税は強化された。配当・利子・地代など不労所得にかかる税金は、凄まじく高額なものとなった。法人税・相続税・贈与税なども引き上げられた。

 

 ハイネセン主義者には、正常化政策は容認しがたいものだった。自助努力を重視する和解推進運動、自由競争を最優先する民主主義防衛連盟(DDF)、個人主義を重視する反戦・反独裁市民戦線(AACF)が反対に回った。

 

 反正常化という点では一致したにも関わらず、ハイネセン主義勢力は団結できなかった。AACFが和解推進運動やDDFとの共闘を拒んだのである。もっとも、ハイネセン主義三党の議席を合計しても、全国会議員の二割に過ぎない。団結したところで、抑止力としては弱すぎた。

 

 七月上旬、同盟経済は急速に上向き始めた。見かけの失業率は二四・三パーセントから二〇・六パーセントに低下し、四半期別のGDP成長率は年率換算で五パーセントを叩き出した。いずれもラグナロック以降では最良の数字だ。賃金水準は七九八年以来の高水準を記録した。

 

 トリューニヒト政権の支持率は五か月で二八パーセント上昇し、七月の支持率は六二パーセントとなった。経済状況の改善が寄与したことは言うまでもない。

 

「トリューニヒト政権は盤石だ」

 

 俺は満足しながらテレビを眺めた。凡人のための政治が現実となった。七年前、トリューニヒト議長が酒場で語った理想は本物だったのだ。

 

 良い気分で家を出た後、公用車に乗り込んだ。その前後には護衛が乗った車が三台ずつ付いてきた。シャンプール知事がハイネセン訪問中に暗殺され、エル・ファシル革命政府が犯行声明を出したので、護衛を四台増やしている。

 

 俺はクロワッサンを食べながら新聞に目を通す。司令官にはぼんやりする余裕などない。移動中は情報を仕入れるための時間だ。

 

 新聞は明るいニュースに彩られていた。地上車や住宅の売上げは急増している。大都市では高層建築物の着工が相次いだ。繁華街には賑わいが戻りつつある。新卒学生の就職は昨年よりもはるかに容易になった。予算不足で中断されていたプロジェクトが次々と再開された。

 

 マンタル三丁目に差し掛かったところで渋滞に巻き込まれた。少し苛立ちを覚えたが、顔には出さない。

 

「渋滞なんて久しぶりですねえ」

 

 ドライバーのジャン三等准尉は後部座席の方を向き、口を大きく開けて笑った。

 

「そうだな」

「最近はスムーズすぎて怖いぐらいでした。二月頃はしょっちゅう渋滞してたんですが」

「言われてみるとそうだ」

 

 ようやく俺は苛立った理由に気付いた。渋滞のない生活に慣れ始めていたのだ。

 

「トリューニヒト先生のおかげですよ。交通管制システムに大金をぶちこんでくださったから」

「お金があるっていいよね」

「まったくです。うちも車を買い替えました。一四年ぶりですよ」

「ボーナスで買ったのか?」

「ええ、たっぷりもらいましたから」

 

 ジャン准尉は嬉しくてたまらないといった感じだ。トリューニヒト議長の政策がこんなところまで影響を及ぼしている。

 

 自分の選択が正しかったと結論付けると、俺は再び新聞に視線を戻した。新聞を読む時間が増えると思えば渋滞も悪くない。

 

 シャンプールの交通管制システム入札に関わる汚職の記事が、いい気分に水を差した。交通管制システムの更新は、渋滞を減らしたが汚職を増やした。

 

「また汚職か」

 

 ため息をついて他の記事を読む。視線を右に動かすと、水資源開発事業をめぐる汚職の記事が目に入った。視線を左に動かすと、新型装甲服調達をめぐる汚職の記事が目に入った。金が動けば利権が生まれる。公共投資と国防費の増大は、経済を活性化させる一方で、政治家や官僚に汚職の機会を与えた。

 

 どの記事にもウォルター・アイランズ大衆党幹事長の名前が出てきた。大衆党は利権屋の巣窟だが、彼の腐敗ぶりはひときわ目立っていた。

 

「またこの人か」

 

 俺はアイランズ幹事長に良い印象を持っていなかった。議会には顔を出さないのに、談合の席には顔を出す。市民軍にまったく貢献しなかったのに、英雄気取りでマスコミに登場する。無能や臆病は仕方がないが、無責任は容認できない。

 

 前の世界のウォルター・アイランズは悲運の政治家だった。議員人生の大半を利権屋として過ごしたが、七九九年の帝国軍侵攻の時に覚醒し、本土決戦を指導した。バーラトの和約直後に病気で倒れ、八〇一年に亡くなっている。本土決戦で活力を使い果たしたのだといわれた。だが、この世界では何の期待もできないだろう。彼個人にとっては幸福かもしれないが。

 

 国際面には帝国情勢の記事が載っている。一つはラインハルト襲撃事件の続報、もう一つは帝国の内部対立に関する記事だ。

 

 ラインハルトは生きていた。八日前、オフレッサー元帥ら一〇名がメイドに変装して首相府に忍び込み、ラインハルトを襲った。だが、キルヒアイス元帥の活躍により、かすり傷一つ負わなかった。式典の最中だったので、キルヒアイス元帥以外に銃を持っている者はいなかったそうだ。

 

 ラインハルト派の内部対立は、オーベルシュタイン上級大将がニダヴェリール総監として転出することで決着した。急進改革派の中心人物がいなくなったことで、ラインハルト派は穏健化路線へとかじを切った。奴隷解放案は退けられ、代わりに奴隷虐待を禁じる法律が制定される。奴隷制を維持しつつ待遇改善を図る路線を選択したのだ。

 

 銀河の国力比は、二月の時点で帝国四二:同盟四四:フェザーン一四となっていた。同盟以上に帝国が落ち込んだ。現在はさらに差が開いているだろう。帝国は無理をしない路線を選んだため、経済を根本から改革するのは難しい。いずれは帝国四〇:同盟四八:フェザーン一二に落ち着くものと思われる。

 

 この世界の帝国は前の世界と異なる歴史を歩みだした。七九九年に変異性劇症膠原病の治療法が見つかったので、ラインハルトが病死することはない。キルヒアイスは健在である。アンネローゼはキルヒアイスと結婚し、現在は妊娠している。ラインハルト夫人も妊娠しているので、二人とも来年には父親になる見通しだ。また、リヒテンラーデ公爵は引退する前に、キルヒアイスとアンネローゼの夫婦を皇帝の傳役とした。この状況で簒奪することは考えにくいだろう。

 

 ページをめくると、クーデター裁判の記事が目に入った。ブロンズ元大将が昨日の公判で黙秘権を行使したという。

 

 現在の焦点は「誰がボーナム攻撃の謀議に関わったのか?」だった。ボロディン元大将にボーナム攻撃を決断させたのは、財界人と財政官僚だと言われる。だが、決断を促した人物の名前がわからない。容疑者は山ほどいるが、ボロディン元大将が自殺し、他の被告人が黙秘しているため、決定的な証言が得られなかった。

 

 容疑者として逮捕された財界人や財政官僚のほとんどは、証拠不十分で釈放されたり、反乱幇助という軽い罪で処分を受けたりした。沈黙が市街戦の首謀者を救った。

 

 クーデター加担者は財界や官界から追放された。釈放された者も地位に留まり続けることはできなかった。計画段階から関与したとされる財政委員会は、幹部職員の六割が反乱幇助罪に問われ、懲戒免職となった。今はそれで納得するしかない。

 

 前の世界では、救国軍事会議の背後関係は判明しなかった。帝国の工作員がクーデターを仕組んだとか、そういう話ではない。クーデターの規模から考えると、相当数の財界人や官僚が計画段階から関与していたはずだ。しかし、軍人以外の首謀者は特定できなかった。史料が少なかったせいで、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』は、救国軍事会議を軍人だけの組織として描かざるを得なかった。

 

 俺はクロワッサンを食べて心を落ち着けた。全容を明らかにするのは難しいとわかっていても、良い気分ではない。

 

 気分を取り直し、ラグナロック戦犯裁判の記事を読んだ。グリーンヒル予備役大将、コーネフ予備役大将ら五名は、自分の責任については認めたものの、それ以外のことについては言葉を濁している。キャゼルヌ予備役中将ら四名は、関与の度合いが低いとの見方が濃厚だ。ロボス退役元帥は病気のために出廷しなかった。

 

 冬バラ会の責任については、グリーンヒル予備役大将らの証言により、世間のイメージよりずっと小さいことが判明した。幕僚チームの一員として謀議に関わっていたことは事実だ。しかし、遠征軍を動かすほどの権限はなかったらしい。

 

「うーん……」

 

 反応に困った俺は、クロワッサンを食べた。冬バラ会の責任が軽くなったのは良いことだ。しかし、政財界の戦犯を引きずり出せなかった。

 

 戦犯裁判が始まる二週間前、グリーンヒル大将と少しだけ話した。俺が「本当のことを言ってほしい」と頼むと、彼は首を横に振った。

 

「それはできない」

「なぜです?」

「この国を守るためだ」

 

 そして、グリーンヒル大将は小声で呟いた。「トリューニヒトより左側にいる者と、レベロより右側にいる者が政財界から根こそぎになる。それだけは避けねばならん」と。

 

 ラグナロック戦役が選挙のための出兵だったのは、誰でも知っている事実だ。遠征推進派は、トリューニヒト議長より左側(穏健右派)とレベロ議員より右側(穏健左派)で占められていた。極右と極左の脅威が、穏健派に史上最大の作戦を決意させた。そこまでは知っていても、穏健派が丸ごと関与しているというのは予想外だった。グリーンヒル大将らが口を閉ざすのも無理はない。右翼の俺ですら、急進派しかいない国は危ういと思う。

 

 黒幕を引きずり出せないのは残念だが、前の世界よりはましだと考えることにした。前の世界では、アンドリュー・フォークが一人で戦争を起こし、一人で同盟軍を壊滅させたかのように言われた。しかし、この世界ではロボス元帥らの責任も認められた。

 

 新聞を閉じ、親友アンドリュー・フォークのことを思い浮かべた。今年の一月から憲兵隊が管理する病院に移り、療養生活を送っている。

 

 アンドリューは自分がやったことに深い責任を感じているらしく、精神的に立ち直るには時間がかかりそうだ。完全に回復したら、身の振り方を考えることになるだろう。二度と軍服を着るつもりはなくて、民間への就職を目指すという。その時は全面的に協力するつもりだ。俺は八〇歳からやり直した。三二歳の彼ならやり直せる。

 

 新聞を読んでいるうちに渋滞が終わり、第二艦隊司令部に到着した。今日は艦隊司令官としての仕事を処理する。

 

 今の第二艦隊にとっては、帝国軍よりも内部からの腐敗の方が大きな脅威だった。いじめ・暴力・セクハラが増加しつつある。部隊の地方移転は、辺境経済を活性化させたが、軍と住民のトラブルの引き金になった。軍人と業者の癒着、サイオキシン汚染も大きな問題だ。

 

 軍規の緩みは同盟軍全体に共通する問題である。国防委員会は前例と世間体を何よりも重視する。そのため、事なかれ主義、形式主義、責任逃れが横行するようになった。

 

 報告書を読んでいると、シトレ元帥とその弟子が軍を仕切っていた頃が懐かしくなる。彼らは事なかれ主義と形式主義と責任逃れを何よりも嫌った。プライドを守ることよりも、不祥事を公表することを選んだ。こういう姿勢がいじめや体罰を激減させたのだ。

 

「過去を振り返っても仕方がない。頑張ろう」

 

 俺は綱紀粛正に取り組んだ。取り締まりを強化する一方で、隊員のストレス軽減を図り、硬軟織り交ぜた施策をとる。

 

 今の体制では、不祥事を公表すると「軍の体面を傷つけるな」と言われるし、病巣を抉ろうとすると「組織の和を乱すな」と言われる。劇的な改善は望めないだろう。それでも、一パーセント減らすだけで数十人が救われる。

 

 仕事が終わった後、ビューフォート中将の家で夕食をとった。この家の料理は大雑把な味付けだが量が多い。小柄な俺には食べきれないほどだ。

 

「子供が五人もいたから、味付けに気を遣う余裕がなかったんですよ」

 

 キュートなビューフォート夫人が白い歯を見せて笑う。

 

「結婚前はもっと大雑把だっただろうが」

 

 ダンディーなビューフォート中将がぶっきらぼうに言う。だが、彼の顔を見れば、大雑把な料理に愛着を持っていることが見て取れた。

 

 料理を満腹になるまで食べた後、俺が食後のコーヒーをいれた。三人でコーヒーを楽しみながら会話を交わす。

 

 ビューフォート中将は第一辺境総軍の若手提督を批評し、「ランド君は根性がない」「ウガルテ君は単純すぎる」などと切り捨てた。

 

「見込みがあるのはコレット君だけですな」

「ずいぶん高く買ってるんだな」

「悪い要素が一つもないでしょう」

「まあね」

 

 俺はにっこりと笑った。部下が褒められることは嬉しい。自分が見出した部下ならなおさらだ。

 

「エル・ファシルにいた時は、大した人材ではないと思っていたんですがね。第一一艦隊に来てから急成長した。あなたの指導が良かったんですな」

「俺はチャンスを与えただけだ。後は彼女自身の努力だよ」

「努力を引き出すのは司令官の器量です」

 

 ビューフォート中将は俺を褒めた後、「自分には器量はないようですが」と付け加えた。彼より部下をまとめるのがうまい提督は滅多にいない。だが、部下を伸ばす力は今一つだった。

 

「コレット少将の将来が楽しみだよ。シミュレーションで俺を破ったしね」

「あなたに勝っても自慢にならんでしょう」

「彼女の用兵は大したもんだったぞ。君も見てただろう。火線の敷き方が本当にうまかった。ウランフ元帥を思い出したよ」

「私は別の人を思い出しました」

「誰に似てるんだ?」

「あまり言いたくないのですが。聞きたくない名前でしょうから」

「構わないよ」

 

 俺は笑いながら答えた。おそらくアッテンボロー大将あたりだろう。彼に似ているのなら喜ばしいことだ。面倒な人だが名将であることは間違いない。

 

「リンチ提督です」

 

 ビューフォート中将の口から思いがけない名前が飛び出した。コレット少将の実父であり、かつては俺とビューフォート中将の上官だった人物だ。

 

「そ、そうなのか……?」

「一瞬、目を疑いました。戦い方が本当に似ていましたので」

「偶然だろう」

 

 俺は即座に否定した。コレット少将とリンチ提督の関係は隠さなければならない。

 

「悪い意味で言ってるわけではありません。リンチ提督は卑怯者ですが、用兵家としては一流でした。あの件がなかったら、宇宙艦隊司令長官になってもおかしくは……」

「全然似てない」

「…………」

 

 ビューフォート中将が驚いたように俺を見る。二倍の大軍に奇襲された時ですら見せないような表情だ。

 

 微妙な空気が流れた時、ビューフォート夫人が「コレット少将といえば……」といって、カプラン准将の名前を出した。俺とビューフォート中将の表情が緩んだ。すべての人から「馬鹿だが憎めない奴」と思われている提督は、名前が出るだけで場を和ませる。

 

 つけっぱなしのテレビから、「宇宙軍史上最年少の巡航艦艦長が誕生しました」という声が流れた。全員の視線が画面に向けられる。

 

「レダ級巡航艦「カストール」に就任することになったのは、二一歳のテレサ・オルランド少佐です。昨年の六月に士官学校を卒業して少尉に任官。褐色のハイネセン攻防戦の戦功により一一月に中尉に昇進。国内平定戦に加わり、今年の一月に大尉に昇進。巡航艦カストール艦長への就任に伴い、少佐に昇進。一年で三階級昇進したことになります」

 

 アナウンサーはオルランド少佐の経歴を紹介する。クーデター以降に二階級昇進した人は山ほどいるが、三階級昇進は珍しい。

 

「艦長職も安くなったものですな」

 

 ビューフォート中将はため息をついた。叩き上げの軍艦乗りにとって艦長職は聖職だ。

 

「ローエングラム公爵は一六歳で巡航艦の艦長になったよ」

「エル・ファシルから脱出した後でしょう? 奪った駆逐艦で数百光年を縦断したんです。軍艦乗りなら誰だって納得します」

「まあ、オルランド少佐は悪くない」

「わかっています。悪いのは子供を持ち上げる大人です」

「市民の支持が必要なんだ。税金を払うのは市民だからね。スポンサーを満足させないと……」

 

 俺はトリューニヒト議長を必死で弁護する。

 

「それはわかっていますがね。兵士を満足させる人事をやってもらわないと困ります」

 

 ビューフォート中将は苦々しさを隠そうとしない。サプライズ人事の乱発にうんざりしているのだ。

 

「議長にとって軍隊は人気取りの道具です。国防をまじめに考えているとは思えません」

「反戦派よりましじゃないか。予算はたっぷりもらえるんだ」

「飢え死にするよりは、利用される方がましですな」

 

 ビューフォート中将はため息をついた。トリューニヒト議長は信用できないが、反戦派はもっと信用できないのだ。彼のような人が、トリューニヒト政権に消極的な支持を与えていた。

 

「昔より良くなっているんだ。今はそれで満足しよう」

 

 俺はにっこりと笑った。何事にも良い面と悪い面はある。完全でないことを嘆くよりも、一歩前進したことを喜びたい。世界は確実に良くなっている。


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