銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第100話:俺の正義、議長の正義、みんなの正義 802年7月10日~8月下旬 ブレツェリ家~第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ

 トリューニヒト政権は帝国を敵視する姿勢をとっているが、行動はきわめて内向きである。政権発足以降、越境侵入などの軍事的挑発を控えている。兵力の大半を対テロ作戦や対海賊作戦との戦いに注ぎ込んだ。帝国の反体制勢力に対する支援は打ち切られた。国外での情報活動を縮小させ、国内での情報活動を拡大した。

 

 内向きの姿勢は国防政策にも反映されている。地域別総軍の創設、機動運用戦力の地方移転、国内基地の整備、戦艦戦力の削減、軽量部隊の増設などは、防衛的な政策といえるだろう。

 

 データだけを見ると、トリューニヒト政権はこの一〇年で最も平和的な政権であった。レべロ政権は難民を受け入れたことで帝国から反発された。だが、トリューニヒト政権は難民を問答無用で追い返した。口先では帝国を厳しく非難するのに、行動は妥協的なのだ。

 

 一部にはトリューニヒト議長を平和主義者だとみなす意見もある。フェザーンに亡命したブラウンシュヴァイク派高官が公表した機密文書によると、帝国の情報機関はトリューニヒト議長を「平和主義者」に分類しているそうだ。

 

「トリューニヒト議長は戦う気がないのか?」

 

 このような疑問を口にする人もいる。口先では戦争を煽るのに、実際は守りを固めるだけだ。言動が一致しないと違うと思うのも無理はない。

 

 義父ジェリコ・ブレツェリ少将も疑問を感じる者の一人だった。七月一〇日にブレツェリ家を訪ねた時、愚痴を聞かされた。

 

「トリューニヒト議長は何を考えてるんだ?」

「国内を固めるつもりです」

 

 俺はきっぱりと断言した。

 

「支持率稼ぎの出兵はあるだろう」

 

 義父の考えは常識的なものだ。主戦派政治家にとって、出兵ほど手軽な人気取りはない。旧連立政権は行き詰まるたびに出兵を行った。

 

「トリューニヒト政権には、ばらまきという選択があります。出兵をしなくても支持率稼ぎができるんです」

「じゃあ、軍拡は何のためにやっている? 帝国に勝つためじゃないのか?」

「長期国防計画が定めた軍拡期間は一〇年。そして、トリューニヒト議長は『戦力が整うまでは外征しない』とおっしゃいました。トリューニヒト政権が長期政権になっても、五年以上続くことはありません。つまり、任期中は外征する気がないんです」

 

 俺はトリューニヒト議長の真意を説明した。軍拡と出兵は必ずしもイコールではない。本気で出兵したいのならさっさと出兵するはずだ。現時点でも同盟軍の優越は揺るぎない。軍拡計画は出兵を避けるための方便なのだ。

 

「軍拡はやりたいが、戦争はやりたくない。そういうことか?」

「その通りです。あの人にとって軍拡は経済政策の一環。同盟経済は軍需を中心に回っています。軍需が活気づいたら、経済も活気づきます」

「七七〇年代と同じだな。ウェーバー派が同盟を牛耳った時代だ」

 

 ブレツェリ少将の表情に苦いものが混じる。中年以上の同盟市民にとって、七七〇年代は不快な思い出だ。

 

 七七〇年代の同盟は腐りきっていた。不正献金と賄賂が政治を左右した。選挙資金の額が選挙結果を左右した。政治家・官僚・高級軍人・企業家は協力して利権を拡大していった。国家予算と国家債務が凄まじい勢いで増えた。こうした動きの中心にいたのが、国民平和会議(NPC)最大派閥のウェーバー派だったのである。

 

「本当に腐った時代だった。与党は汚職にまみれていた。野党はやる気がなかった。変えたいのに変えられない。民主主義は無力だと感じたものだ」

「腐ってたけど、出兵は少なかったですよ」

「それは否定できん」

「格差が今より少なかったこともご存知でしょう」

「まあな」

 

 ブレツェリ少将は渋々といった感じで認めた。七八〇年代や七九〇年代と比べると、七七〇年代は平和だった。そのことは誰にも否定できない。

 

 腐った時代は人が死なない時代でもあった。第二次イゼルローン遠征は七六九年、ウェーバー派の政権掌握は七七〇年、反ウェーバー派の台頭は七七九年、第三次イゼルローン遠征は七八三年のことだ。

 

 腐った時代は平等な時代でもあった。軍需と公共事業はブルーカラーの所得を引き上げ、所得格差を縮小させた。都市の金を辺境にばらまく政策は、地域格差を縮小させた。

 

「戦争なき軍拡こそが安定につながるんです」

 

 俺はトリューニヒト路線が正しいと力説した。リベラリストの急進的な政策は、対外的な平和を実現できるが、国内を分裂に導くだろう。保守派の穏健な政策は、国内的には混乱を招き、対外的にはラグナロックを引き起こした。反動政策がベターなのだ。

 

「財政はどうする? ばらまく金がなくなればおしまいだぞ」

 

 ブレツェリ少将が痛いところを突いてきた。財政難がウェーバー派を失墜させた。ばらまく金がなくなった時、トリューニヒト議長も失墜するだろう。

 

「大丈夫です。フェザーンのバックアップがあります」

 

 俺は抽象論で逃げた。

 

「フェザーンから借金できなくなったらどうする? 財政赤字は凄まじい額だ。貸せないと言われても文句は言えん」

「トリューニヒト議長ならうまくやります」

「私は君ほど楽観的になれんよ」

「でも、緊縮よりはましです」

「そうだがなあ……」

 

 ブレツェリ少将は椅子に腰かけ直すと、ぬるくなったコーヒーをすする。ばらまきには不安を覚える。だが、緊縮に期待できないことも分かっているのだ。

 

 七八〇年代、ハイネセン主義改革は夢と希望の象徴だった。ハイネセン主義に回帰し、財政再建と政治浄化を進めれば、民主主義は蘇ると思われた。

 

 反ウェーバー派はハイネセン主義改革を標榜した。オッタヴィアーニ議員、ヘーグリンド議員、ドゥネーヴ議員、バイ議員、ムカルジ議員ら「ジャスティス・ファイブ」は、ウェーバー派によるNPC支配を打破するために戦った。ホワン議員ら進歩党若手議員は、ウェーバー派の放漫財政を批判し、財政再建と利権構造打破を訴えた。税金の無駄遣いを嫌う都市中間層、腐敗を憎むインテリ、ビジネスの自由を求める多星間企業が、反ウェーバー派を後押しした。

 

 七八七年にジャスティス・ファイブが主導権を握り、七八九年にNPCと進歩党による改革派連立政権が発足した。「共和制防衛と財政再建のための超党派十字軍」の誕生である。

 

 改革の夢は裏切られた。経済は衰退し、格差は広がり、地域対立が深まった。低支持率に苦しむ連立政権は、人気取りのための出兵を頻繁に起こした。ジャスティス・ファイブはビッグ・ファイブとなり、権力争いを繰り広げた。レベロ議員やホワン議員は、閣僚として手腕を発揮したが、議長としては成果を出せなかった。

 

 結局のところ、政治は行き過ぎと揺り返しの連続である。ある路線が失望を買ったら、それとは正反対の路線に期待が集まる。ある指導者が反感を買ったら、それとは正反対の性格を持つ指導者に期待が集まる。ウェーバー派の失敗は改革派の台頭を促し、改革派の失敗はトリューニヒト派の台頭を促した。

 

「トリューニヒト議長は大丈夫ですよ。どこかでブレーキを掛けるはずです」

 

 俺はブレツェリ少将にそう語った。分析ではなく願望に基づいた意見だ。これ以上過激になったら後戻りできなくなる。そうなる前にブレーキを掛けてほしい。

 

「掛けなかったらどうする?」

「その時は……」

「力ずくで止めるかね? 君にはできんだろう」

「…………」

 

 何も言えなかった。完全に図星だったのだ。

 

「ダーシャが言っていたよ。『エリヤは致命的な欠点を持ってる。相手が望まないことができないところだ』と」

「おっしゃるとおりです」

 

 俺は大きく息を吐いた。他人の望みを見抜くことはできる。望みに沿った解決案を提示することもできる。だが、望んでいないことはできない。

 

「これまでは、トリューニヒト議長の正義と君の正義は一致していた。だが、今後もそうだとは限らんぞ」

「一致し続けてほしいと願っています」

 

 今は願うことしかできなかった。この場にダーシャがいたら、「エリヤの欠点は願望と予測を混同するところだね」と笑っただろう。

 

 

 

 トリューニヒト政権が新しく打ち出した政策は、ラディカル極まりないものだった。後戻りする意思などひとかけらも見られない。

 

 治安の正常化政策は、強硬な犯罪対策を目指した。補助警察官の正規採用、退役軍人の大量採用などにより、警察官を二六〇〇万人から三三〇〇万人に増やした。街頭や室内の防犯カメラが三倍に増えた。自警団に補助警察官資格と武器を与え、警察力として活用する。同盟刑法が改正され、星間犯罪に対する刑罰が異常に重くなった。地方警察に軍艦や装甲車や戦闘ヘリを与えた。

 

 教育の正常化政策は、個人主義撲滅と愛国心の育成を目指した。忠誠・献身・団結など右翼的な価値観を重点的に教えた。自立心・自己責任などリベラルな価値観は軽視された。歴史教科書には栄光の歴史を記し、負の歴史を無視した。義務教育の教材費・給食費などを完全無料化する一方、大学の学費を引き上げた。レベロ政権時代に導入された「帝国語」や「異文化理解」の科目を廃止し、同盟と民主主義の優越性を教える「祖国理解」の科目を設けた。義務教育課程の生徒には、運動部・スポーツ少年団・ボーイスカウトのうち、いずれかに加入することが義務付けられた。

 

 移民の正常化政策は、移民の同化を目指した。移民の子供に対する帝国語教育が禁止された。帝国文化やフェザーン文化に対する助成金を打ち切った。移民に無審査で市民権を授与する「ホワン法」によって市民権を得た帝国出身者二億人に対し、市民権再審査を行うこととなった。

 

 その他、大学生に対する予備士官養成課程の受講義務化、軍隊に入隊していない兵役対象者に対する労働奉仕の義務化、市民権を持たない難民三億人の強制送還、反共和思想を取り締まる「公共安全局」の設置などが決定された。

 

 新しい政策の特徴としては、秩序と団結の強調、多様性の否定、自由と権利の制限などがあげられる。それは全体主義の特徴でもあった。

 

 トリューニヒト議長は強権化を進めると同時に、悪との戦いにも力を注いだ。相手の立場や権利には考慮せず、手続きを省略し、問答無用で叩き潰す。旧体制が手出しできなかった権力者は、より強大な力によって蹂躙された。自由の名のもとに野放しだった殺人企業や金融家は、指一本動かすことすらできなくなった。権利に守られてきた犯罪者は、安全地帯から引きずり出された。

 

 八〇二年上半期に最も憎悪された「コーディアルの鬼畜」は、裁かれない悪の典型であったが、制裁を逃れることはできなかった。

 

 今年の一月、ハダド星系のコーディアル市で男子中学生が自殺した。残された遺書、加害者が面白半分で公開した暴行動画などから、いじめが自殺の原因なのは明らかである。だが、学校は「いじめはなかった」と言い張り、調査を実施しなかった。教育委員会や警察も学校の言い分を鵜呑みにした。一方、マスコミの取材に応じた生徒は停学処分を受けた。

 

 隠蔽としか思えない対応が市民を激怒させ、コーディアルへの批判が巻き起こった。加害生徒を「コーディアルの鬼畜」と呼び、その個人情報をネットに書き込んだ。校長、市教育長、市警察本部長の三名は、「三匹の税金泥棒」と呼ばれた。一方、校長を殴って重傷を負わせた者、教育委員会の建物にペンキをぶちまけた者、教育長の自家用車を叩き壊した者、学校の内部資料を流出させた者は、義士として称賛を浴びた。

 

 トリューニヒト議長はコーディアル事件の再捜査を命じた。現地警察が隠蔽に関わった恐れがあるとの理由で、同盟警察が捜査を担当することとなった。ハダド星系政府とコーディアル市政庁が「主権侵害だ」と抗議すると、「子供を守れないのに何が主権だ!」と叱りつけた。

 

 捜査の結果、自殺はいじめによるものだと裏付けられた。また、主犯が大衆党星会議員マルタ・シンドロンの長女であること、シンドロン議員が学校や警察に圧力をかけたことも判明したのである。

 

 制裁を求める声が広がり、憂国騎士団が動いた。加害生徒と担任教師を拉致し、自殺した生徒が受けたいじめと同じ内容の拷問を行った。シンドロン議員や三匹の税金泥棒の自宅に乗り込み、窓ガラスや家具を叩き壊し、家族全員に土下座を強制した。これらの「制裁」を映した動画は、市民の溜飲を大いに下げた。

 

 大衆党執行部はシンドロン星会議員を「我が党の恥」と呼び、永久除名処分とした。最も重い処分を課したのだ。

 

 トリューニヒト議長はハダド星系政府に対し、加害者への制裁と義士の恩赦を求めた。いじめは星間犯罪ではないため、同盟政府が口を出す権利はない。だが、この要求を内政干渉だと批判できる者はいなかった。

 

 結局、コーディアルの事件は世論の全面勝利に終わった。加害生徒は暴行・傷害・脅迫・恐喝・強制わいせつなどの容疑で逮捕された。いじめを助長した担任教師は、懲戒免職及び教員資格永久剥奪の処分を受け、脅迫などの容疑で逮捕された。シンドロン議員は辞職に追い込まれ、証拠隠滅などの容疑で逮捕された。隠蔽に関わった教員や警察官は懲戒免職となった。四人の義士が恩赦を受けたことは言うまでもない。

 

 市民はトリューニヒト議長を「現代のミト・コーモン」と呼んだ。ミト・コーモンは西暦時代の世直しヒーローで、勧善懲悪の代名詞とされる。武力によって悪を制圧した点が似ているという。

 

 反トリューニヒト派も現代のミト・コーモンという言葉を使ったが、こちらは皮肉混じりだ。ミト・コーモンは目についた悪を叩き潰すだけで、構造的な不公正を改めようとしない。その点がトリューニヒト議長とそっくりなのだそうだ。

 

 いずれにしても、市民の大多数はトリューニヒト議長を支持した。悪を制裁する。憎たらしい奴を叩きのめす。これほど痛快なことはない。

 

「諸君! 私に力を与えてくれ! 悪を滅ぼすには力が必要だ!」

 

 トリューニヒト議長が支持を訴えると、市民は拍手喝采をもって応じた。全体主義への不安がなかったわけではない。だが、期待はそれ以上に大きかった。

 

 良識ある人々は危機感を募らせた。政府が強権化の道を突っ走っているのに、民衆は止めようとしない。それどころかばらまきと勧善懲悪劇を歓迎する有様だ。ルドルフに簒奪された銀河連邦の運命が自分たちの頭上に降りかかるのではないか。

 

 哲学者ボルジャンニ博士ら良心的知識人三六名が、民主主義精神を啓蒙する団体「ハッサン・エル=サイド運動」を結成した。ハッサン・エル=サイドは、宇宙歴四世紀の共和派政治家で、民衆がルドルフの恐ろしさを理解していないことを嘆いた人物だ。

 

「政治に興味を持てば、民衆はトリューニヒトの正体に気付くはずだ」

 

 ハッサン・エル=サイド運動は啓蒙活動に取り組んだ。文章を書き、テレビに出演し、ウェブ動画番組で議論し、民主主義に関する正しい知識を説く。

 

「自由と権利より大事なものはない」

「自分たちのことは自分たちで決める。それが民主主義だ」

「政治を人任せにしてはいけない」

「多様な価値観を尊重しよう」

「耳触りのいい言葉を疑え」

「目先の利益ではなく、長期的な視点で考えよう」

 

 彼らの正論はインテリから熱烈な支持を受けたが、それ以外の人々には無視された。難解な上に退屈だったのである。

 

 銀河史学者ダリル・シンクレア教授は、最高評議会庁舎に赴き、トリューニヒト議長に自分が書いた本を二冊贈った。一冊は『銀河連邦崩壊』、もう一冊は『民衆政治家ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム』だ。

 

「歴史に学んではいかがでしょうか」

「私は民衆から学んでいるよ」

 

 トリューニヒト議長は笑いながら本を返した。「お前は歴史を知らない」という皮肉に、冗談で応じたのだ。一週間後、シンクレア研究室の研究者全員に対し、研究補助金打ち切りの通知が送られた。

 

 八月五日、同盟議会に「良心法」が提出された。公務員の思想調査を目的とする法律だ。市民軍系や旧ロボス派が「軍人は軍人であるというだけで十分に愛国的だ」と主張したため、軍人は適用対象外となっている。

 

 良心法採決の前日、ジョアン・レべロ議員が下院において演説を行った。その内容は切実な危機感に溢れていた。

 

「トリューニヒト議長は、『我が国は危機にある。だから、非常手段もやむを得ない』と言う。だが、非常手段はあくまで非常のものである。非常手段が日常化した時、独裁が始まる。

 

 四九二年前のことを思い出してほしい。銀河連邦の議会は、非常手段だと言ってルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに帝冠を与えた。市民は自らの手で自由を投げ捨てたのだ。

 

 法律が常に市民の味方であるとは限らない。条件が揃えば、誰でも法律を利用できる。独裁者が権力を握った時、法律は鞭となって諸君を打つだろう。良心法は未来のルドルフに武器を与える法律だ。決して容認するべきではない」

 

 レべロ議員は必死になって独裁の危機を訴えたが、返ってきたのは大衆党議員の野次だった。結局、良心法は賛成多数で成立したのである。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)による腐敗批判、ハイネセン学派経済学者によるばらまき批判、平和将官会議による軍拡批判、ソクラテス部隊による論破攻勢が勢いを増した。言論の砲火がトリューニヒト政権を滅多打ちにした。

 

 それでも、トリューニヒト政権の支持率は上がり続ける。ばらまきと勧善懲悪は正論よりもずっと強かった。

 

 八月上旬、良識派ブロガーPerestroika氏が、「さよならデモクラシー」という題名の記事をアップした。

 

「ぼくは当たり前のことを言ってるだけだ。政治家はサンタクロースでもないし、ミト・コーモンでもない。政治は万能薬じゃない。自分たちの問題は自分たちで解決する。政治は環境とルールを整えるための手段。正しい政治とは目立たない政治だ。市民の生活に介入しない政治、自由な環境を守る政治が本物の政治だよ。トリューニヒトの政治は完璧に間違ってる。

 

 政治や経済について正しい知識を持っていれば、反トリューニヒトにならざるを得ないんだ。トリューニヒト支持者に真実を知ってもらいたかった。真実を知れば目覚めると思ってた。

 

 ぼくは真実を伝えようと努力した。きついことを言っているという自覚はあるよ。でも、真実とは苦いものなんだ。みんなの理性は苦さを受け入れる。そう信じていたんだ。

 

 でも、現実は違った。いくら真実を伝えても、みんなは耳を貸そうとしない。お説教はたくさんだとばかりに耳を塞ぎ、トリューニヒトの甘い言葉を聞こうとする。

 

 結局、みんなは真実なんてどうでもいいんだろうね。今が良ければそれでいいって思ってる人ばかりなんだ。自由とか民主主義とかには興味がないんだ。トリューニヒト支持者は知識がないんじゃなくて、理性がないんだね。よくわかったよ。

 

 この国は衆愚主義になってしまった。サンタクロースとミト・コーモンの国になった。理性は消えた。民主主義は死んだ。さよならデモクラシー」

 

 Perestroika氏の文章からは、わかってもらえないことへの怒りと失望が伝わってくる。だが、他人をわかろうとしなかったことへの反省はなかった。それどころか、「理性がない」と罵る有様だ。その傲慢さがトリューニヒト議長の勝利を招いたというのに。

 

 俺は二人の人物からこのブログを見せられた。一人は部下のメッサースミス准将、もう一人は恩師のドーソン上級大将だ。

 

 メッサースミス准将は、Perestroika氏に同情していた。誰だって自分と同じ考えを持つ人には甘くなる。頭のいい人は理屈で物を考えるので、甘くなる度合いが大きい。Perestroika氏の傲慢さを不快に思っても、発達した理性が「あの人の言うことは正論だから」で許してしまう。

 

 ドーソン上級大将は俺に通信を入れると、ブログを指さして「負け犬がわめいているぞ!」と嘲笑った。七年前、Perestroika氏は、「ドーソン閣下、それは下士官の仕事ですよ!」という記事を書き、ごみ箱チェックを批判した。そのことをずっと根に持っていたのだ。

 

 批判者が知性を頼りにしている間は、トリューニヒト政権の優位が続くだろう。リベラル勢力の人気者にしても、知性によって支持されたわけではない。ヤン元帥は戦争に強いから支持される。レベロ議員の支持者の半数は、「無教養でわがままな連中」が緊縮政策で痛めつけられることを望む人々だ。結局のところ、敵をぶん殴る力が決め手になる。

 

 

 

 八月二一日、第一辺境総軍の第二艦隊・第一一艦隊・第六地上軍・第五五独立分艦隊・第五七独立分艦隊がシャンプールを出発した。イゼルローン総軍との統合演習を行うため、イゼルローン回廊を目指す。

 

 参加部隊の中にはハイネセンから臨時に派遣された部隊がいくつかあった。その中の一つが、妹のアルマを指揮官とする第一八特殊作戦群「ショコラティエール」だ。地上軍最強戦士のアマラ・ムルティ少将は、第一八特殊作戦群司令部付将官として参加する。

 

「大丈夫かなあ……」

 

 俺は参加者の名簿を眺めた。一番の心配事はイゼルローン総軍とのトラブルだ。総軍副司令官パエッタ大将、第一一艦隊司令官ホーランド大将らは、イゼルローンの旧良識派に嫌われている。総軍副参謀長アブダラ中将は、ヤン元帥を告訴したことがある。第二艦隊副司令官補ジェニングス中将は、ヤン元帥とムライ大将とパトリチェフ大将を恨んでいた。

 

「大丈夫です。みんな大人ですから。あいつらとは違います」

 

 総軍参謀長ワイドボーン大将が皮肉たっぷりに答えた。一番トラブルを起こしそうな人物に大丈夫と言われても安心できない。彼はヤン元帥やアッテンボロー大将と仇敵の間柄だ。

 

 第一辺境総軍とイゼルローン総軍の間には根強い確執がある。元市民軍、トリューニヒト派、旧ロボス派を中心とする第一辺境総軍には、規律と礼儀にうるさい軍人が多い。旧良識派を中心とするイゼルローン総軍には、自由奔放な軍人が多い。正反対の気質を持った部隊が隣り合っているのだ。仲良く付き合うのは困難であった。

 

 また、第一辺境総軍はイゼルローン総軍の監視という非公式の任務を帯びている。イゼルローンには、指向性ゼッフル粒子を装備した工作艦が一隻も配備されておらず、機雷除去能力は極めて低い。一方、アスターテを守る第二二方面軍には、銀河最大の機雷戦部隊が配備されており、三〇分で回廊出口を塞ぐことができる。第二二方面軍司令官のメイスフィールド大将は、ヤン元帥と仲が悪いため、些細な欠点も見逃すまいと目を凝らす。

 

 パエッタ副司令官とチュン・ウー・チェン副参謀長は、「イゼルローン総軍は、第一辺境総軍の監視を命じられているはずだ」と推測する。トリューニヒト政権が採用する分割統治と相互監視の原則に則るなら、イゼルローン総軍が監視を命じられるのは当然だという。

 

 しかし、トリューニヒト議長がそんなことをするはずがない。九年前から強い信頼関係で結ばれているのだ。俺はトリューニヒト議長を信じたい。いや、信じたいじゃなくて信じる。

 

 同盟軍内部ではトリューニヒト派の主導権が確立された。国防委員会は独力で二一〇〇万人送還を成し遂げたことに自信を持ち、実戦部隊への統制を強めた。憲兵隊や国防監察本部が監視網を張り巡らせる。人事交流の名目で軍に出向した警察官僚、寄る辺のない帝国出身者が非公式の監視役を務める。巨大な利権を握る後方勤務本部と技術科学本部は、トリューニヒト派の牙城と化した。

 

 トリューニヒト議長はクーデターを防ぐため、無力な人物をあえてトップに据えた。統合作戦本部長ビュコック元帥と国防事務総長ルフェーブル元帥は、一流の用兵家だが政治力は皆無に近い。統合作戦本部ナンバーツーのメネンディ上級大将は、有能な事務屋だが人の上に立つ器量はない。国防委員会事務総局ナンバーツーのリバモア上級大将は、派閥を渡り歩いてきた人物で、いざとなったら逃げだす人物とみられている。

 

 この頃になると、人気重視人事の裏にある意図が表面に現れた。ファルストロング伯爵が言うところの「位打ち」である。勇敢だが政治力に欠ける司令官たちは、部隊をまとめることができなかった。混乱を意図的に作り出すことで、トリューニヒト議長と国防委員会の優位性を確立した。軍人が団結して反乱することを防ぐ狙いもあった。

 

「やることがせこいよね」

 

 妹は俺のマフィンを勝手に食べつつ、トリューニヒト政権の方針を批判した。

 

「現職の統合作戦本部長がクーデターを起こしたんだ。軍を警戒するのは無理もない」

「クーデターを防げても、外敵を防げなかったら意味ないよ」

「しばらくは攻めてこないさ」

 

 俺は政府の公式見解をそのまま口にした。国防情報本部、中央情報局、フェザーン高等弁務官事務所が「帝国に外征の兆候なし」と言っている。

 

「信用できるの? 最近の情報機関はだめだめじゃん。ガセネタばかり掴んでる。フェザーンマスコミの方がまだ信用できるよ」

「信じるしかない。他の情報ルートはないから」

「私も動かないと思うけどさ。改革の真っ最中だし」

 

 妹も結論としては俺と同意見だった。客観的に見れば、帝国が攻めてくると考える材料は見当たらない。

 

 同盟が急速に専制化する一方、帝国では緩やかに改革が進んだ。奴隷解放、社会秩序維持局の廃止、思想犯と政治犯の釈放、報道の自由化などは、「混乱を招く」との理由で見送られた。その代わり、奴隷虐待の禁止、重罪犯以外に対する拷問の禁止、不敬罪の罰則軽減、報道規制の緩和などが定められた。

 

 貴族領の財政破綻を防ぐため、領地運営資金を貸し付ける特別金融公庫に巨額の公的資金が注入された。この措置により、一〇〇〇を超える貴族領が行政機能停止を免れたのである。

 

 帝国法の根底にあった「一〇〇〇人の無実の人を有罪にしてもいいから、一人の罪人を逃すな」という原則が緩和された。これまでは、犯罪者を捕らえるために民間人を巻き添えにしても構わないし、死傷者を出しても罰を受けることはなかった。だが、今後はある程度の罰則が設けられる。

 

 帝国軍再編は小規模なものに留まった。当初は私兵軍や予備役部隊の解体、貴族出身将校の大量解雇などが予定されていた。戦力にならない部隊や老朽化した兵器を整理し、浮いた国防費を近代化に回す予定だったのだ。しかし、大量の失業者が出ることが予想されたため、リストラは見送られた。

 

 軍規の「犠牲を恐れずに最大限の戦果を求めよ」という原則を廃し、「最小限の犠牲で最大限の戦果を求めよ」という原則に切り替えた。これまでの帝国軍では、五万人の犠牲で敵兵一〇万人を殺した指揮官よりも、二〇万人の犠牲で敵兵一五万人を殺した指揮官の方が高く評価された。それゆえに帝国軍の貴族将校は兵の命を粗末にした。しかし、今後は犠牲を抑えた指揮官の方が高く評価される。

 

 穏健な改革のキーマンは、帝国軍副最高司令官キルヒアイス元帥だ。もともとは開明一辺倒の人物だったが、あらゆる意見を聞くべきだと考え、保守的なラング元帥やキールマンゼク伯爵とも話すようになった。その結果、急進的な改革は危険だという結論に達し、緩やかな改革を志した。

 

 ファルストロング伯爵に意見を求めたところ、「帝国の赤毛は言いくるめられたな」と笑って答えた。彼が言うには、寛容な人・賢明な人・柔軟な人ほど言いくるめやすいのだそうだ。寛容な人はどんな意見にも耳を傾ける。賢明な人は理屈に弱い。柔軟な人物は持論にこだわらない。説得のプロである官僚から見れば、キルヒアイス元帥ほど与しやすい相手はいないらしい。

 

 俺が「帝国の官僚と会ったら、俺も言いくるめられるんですかね?」と聞くと、ファルストロング伯爵は「大丈夫じゃよ。卿は馬鹿で頑固だ」と答えた。正しい評価だと思った。俺が賢明で柔軟だったら、レベロ議員を支持したはずだ。

 

 同盟の知識人たちはゆっくりと変わりつつある帝国を羨んだ。トリューニヒト政権を嫌い、帝国に亡命した者もいた。

 

 だが、俺から見れば帝国の改革は遅すぎる。前の世界では、ラインハルトの政権掌握から四か月以内に、奴隷解放、社会秩序維持局の廃止、思想犯と政治犯の釈放、報道の完全自由化、特別金融公庫の廃止、貴族財産の没収と平民への再分配、私兵軍の完全解体、無能な貴族将校の解雇などが実現した。保守勢力と協調するキルヒアイス元帥の存在が、改革にブレーキをかけた。

 

 ラインハルトのリーダーシップが制約されることは、同盟にとっては幸運であった。あの天才が制約から解き放たれたら、豪腕をもって旧弊を一掃し、強大な軍隊と効率的な官僚機構を短期間で作り上げるだろう。ラインハルトの権力は小さいほどいい。

 

 むしろ、同盟国内の方が心配だった。最も熱烈なトリューニヒト派を自認する俺ですら、危ういものを感じる。

 

 スズカを倒した時は、多少行き過ぎた程度だと思っていた。冤罪のでっち上げ、過剰なネガティブキャンペーンなどは問題だ。それでも、殺人企業の残虐ぶりは知っているし、生半可な手段で倒せる相手ではないので、非常手段のうちだと自分を納得させることもできた。ボースマ会長のクルーザーを撃沈した件については、野党から相当批判された。だが、降伏勧告を拒否して突進してきた以上は、規定に則った対応をせざるを得ない。

 

 今の行き過ぎは多少どころではない。ぎりぎりでグレーゾーンに留まっているが、限りなく黒に近い。余裕のある状況でも、乱暴な手段を使う。公然と法を破る一歩手前といったところだ。

 

 トリューニヒト議長が過激な行動をとり、市民が賞賛する。それを繰り返すうちに、市民はさらに過激な行動を求め、トリューニヒト議長もそれに応えようとする。両者が相互作用を起こし、暴走していった。

 

「どうするんだろう……」

 

 俺は落ち着かない気分だった。同盟全体がジェットコースターに乗っているかのようだった。経済と治安が比較的安定しているので、国家の根幹が揺らぐことはないだろう。それでも、今の状況はまずい。

 

 不安を紛らわそうと思い、副参謀長チュン・ウー・チェン中将の意見を聞いた。「パン屋の二代目」と称されるのんきな風貌、緊張感のない声、ポケットに入っている潰れたパンは、俺の心を落ち着かせてくれる。

 

「これからどうなるのかな?」

「私にもわかりません。今の議長はブレーキが付いていない自動車です」

「ダーシャも同じようなことを言ってたね。気流に乗る凧だって」

「軽くてどこにでも流されるという意味ですか?」

「良くわかったね」

 

 俺は軽く微笑むと、潰れたチョコドーナツをもらって食べた。ちょうどいい潰れ具合である。

 

「悪人ではないんでしょうね。もしかしたら善人かもしれない。しかし……」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はいったん言葉を切り、ぬるくなったカフェオレを飲む。パンを食べながら話すとのどが渇きやすくなるのだ。

 

「悪人であった方がましかもしれませんよ」

「どういう意味だ?」

「善意や使命感でおかしなことをやらかす可能性があります」

「考えたくないなあ」

 

 俺が苦笑いを浮かべた。

 

「今は考えなくてもいいですよ。考えたところで読めませんし」

「君の割り切りぶりが時々うらやましくなる」

「他に考えるべきことがあります」

「なんだい?」

「あなたの正義とトリューニヒト議長の正義が食い違った時、どちらを選ぶのか」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、のんびりした顔できわどい問いを突き付ける。

 

「食い違わないと願いたいね」

「いずれ食い違いますよ」

「なぜそう言い切れる?」

 

 周囲に誰もいないのに、俺は声を潜める。

 

「あなたは秩序と規律の申し子、トリューニヒト議長はルール破りの常習犯です。ぶつからない方がおかしいです」

「…………」

「それでも、あなたはトリューニヒト議長を選ぶでしょう。あなたの辞書に裏切りという言葉はない」

「そうなるだろうなあ」

 

 無意識のうちに顔が綻んだ。トリューニヒト議長と対立せずにすむことに安心を覚える。

 

「では、仲間の正義とトリューニヒト議長の正義が食い違った時、どちらを選びますか?」

「…………」

 

 それはあまりにも深刻すぎる問いだった。トリューニヒト議長を裏切れないのは、彼が「仲間」の一人だからだ。トリューニヒト議長と別の仲間が対立したら? どちらかを取らねばならない時が来たら?

 

「あなたの仲間の中には、トリューニヒト議長と相容れない者が少なくありません。食い違うことは十分にあり得ますよ」

「そうだな」

 

 俺は仲間たちの顔を思い浮かべた。幕僚や部下にはトリューニヒト嫌いが少なくない。チュン・ウー・チェン副参謀長のような性格なら、対立を避けることもできるだろう。しかし、妹のような性格なら、衝突することはあり得る。

 

「トリューニヒト議長と仲間が対立し、和解の余地がない。あるいはトリューニヒト議長が仲間を一方的に潰そうとする。こういう状況になったら、あなたはどちらを助けるんです?」

 

 ここで「どちらを裏切るのか」と言わないところが、チュン・ウー・チェン副参謀長の優しさだろう。

 

「すまん、わからないと答えていいか?」

「結構ですよ。その時にならないとわからないでしょうしね」

「ありがとう」

 

 俺は軽く頭を下げた。相談に乗ってくれたこと、逃げを許してくれたこと、そして彼が自分の参謀であることに深く感謝した。

 

 仕事が終わった後に自室に戻ると、端末から呼び出し音が鳴った。発信者欄にはとても懐かしい名前が映し出されていた。直接通信するのは一年ぶりだ。

 

「ああ、俺を信じていてくれたんだ」

 

 俺は喜びに震えながら通話ボタンを押す。一秒たりとも相手を待たせたくない。一秒でも早く相手の顔を見たい。様々な感情が胸の中を踊り狂う。

 

 画面に懐かしい顔が現れた。すっきりとした鼻筋、垂れ目気味の目、きれいに撫でつけられたくすんだ茶髪を持つ壮年男性が微笑みを浮かべる。ヨブ・トリューニヒト議長だった。


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