銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第101話:忠誠の意味 802年8月下旬~9月9日 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ~ティアマト星系第四惑星ラハム

 トリューニヒト議長の微笑みは、少し温かみに欠けるように見えた。親しく付き合ってきた者だからこそ、微妙な違いが分かる。

 

「フィリップス君、久しぶりだね」

「ご無沙汰しております」

 

 俺は笑顔で答えたが、内心では少しだけがっかりした。ファーストネームで呼んでもらえなかったからだ。わだかまりが残っているのだろうか。

 

「君に極秘任務を頼もうと思ってね」

「どのような任務でしょう?」

「最高評議会はヤン・ウェンリー元帥を首都に召還し、査問にかけることを決定した。フィリップス提督にはイゼルローン総軍を預かってもらいたい」

 

 トリューニヒト議長が口にしたことには既視感があった。自分が体験したことではない。前の世界で同じような事件が起きた。

 

 前の世界の七九八年、国防委員会はイゼルローン方面軍司令官ヤン・ウェンリー大将を召還し、非公式の査問にかけた。名将をいい加減な理由で召還したこと、違法な査問会を行ったこと、査問中に帝国軍が攻めてきたことなどから、トリューニヒト政権の愚行の一つとされる。

 

「査問会ですか……」

 

 俺は確認するように言った。悪い予感がしたが、表情には出さない。

 

「イゼルローンでは、これといった事件は起きていないはずですが」

 

 言葉の裏に「公開の査問会ですよね?」という意味を込めた。同盟法には査問会に関する規定が存在しない。違法ではないが法的拘束力もないのだ。公開要求を拒否する法的根拠がないため、公開で行うことが慣例となっていた。

 

「ヤン元帥が反乱を企んでいるとの情報が入ったんでね。事情を聴くための査問会だよ」

 

 トリューニヒト議長は事も無げに答えた。食後のおやつを選ぶ時でも、もう少し迷いがあるんじゃないかと思える。

 

「……冗談ですよね?」

 

 俺は冗談であってほしいと願いつつ質問した。冗談としても面白くない。トリューニヒト議長ならもっと面白い冗談が言えるはずだ。

 

「残念ながら本当だ。君の監視は少々甘すぎたようだね」

 

 トリューニヒト議長の静かな声が、俺の願いをあっさりと打ち砕いた。

 

「少なくとも決起間近ではないはずです。昨日の時点では、イゼルローン総軍に大きな動きは見られませんでした」

「今は疑惑の段階だ」

「確証はないんですね?」

「事情を聴くための査問会だよ」

 

 トリューニヒト議長は微笑みながら話をはぐらかす。

 

「査問会は事件が起きた後に開くものです。事情を聴くだけなら、ヤン元帥を召還する必要はありません。イゼルローンの憲兵に任せれば十分でしょう」

 

 俺は査問会の必要性を否定した。「ヤン元帥が反乱を起こすはずはない」と言っても、トリューニヒト議長は聞き入れないだろう。査問会は必要ないと主張した方が見込みはある。

 

「最高評議会が直々に尋問したいんでね」

「疑惑があるというだけで査問会を開くんですか? 市民が納得しないですよ」

 

 嫌な予感がするものの、それでも俺は公開の査問会という前提で話を続ける。

 

「納得させる必要はない」

「どういうことです?」

「査問は秘密で行う」

 

 トリューニヒト議長は秘密の査問会を開くと言い切った。政府が違法行為に手を染めると明言したに等しい。査問会は秘密保護法の適用対象外である。違法な手段を用いなければ、査問会の秘密を守ることはできない。

 

「おやめください!」

 

 俺はうろたえて叫んだ。トリューニヒト政権はぎりぎりでグレーゾーンに留まってきた。合法だと強弁する余地は残されていた。しかし、これは完全な真っ黒だ。

 

「違法行為に手を染めるおつもりですか!?」

「フェザーンとの債務繰り延べ交渉が難航していてね。『不安定要素を取り除かない限り、繰り延べには応じない』というのが向こうの言い分だ」

「ヤン元帥が不安定要素なのですか?」

「彼は反体制思想の持ち主で、才幹・名声・野望を兼ね備えている。ゼッフル粒子が服を着て歩いているようなものではないか」

 

 トリューニヒト議長が口にしたのは、彼の個人的見解というより、軍部良識派と反戦派を除く全勢力の共通見解である。

 

 ヤン元帥ほど誤解される人間はいないだろう。雑用嫌いは「功績を立てることしか考えていない」、反権威主義は「自分以外の権威を認めない」、非社交的な態度は「妥協なき信念」、地位や金銭への淡白さは「飽くなき野心の表れ」と受け取られた。本人が弁解を面倒くさがったため、虚像が独り歩きするようになった。右翼や保守派は彼の「野心」を恐れた。反戦派は彼の「信念」に期待した。庶民は彼を強いリーダーだと考えた。

 

「その点には同意します。確かに彼は危険人物です。しかし、それだけの理由で排除するのはおかしいですよ」

 

 俺は「ヤンの野心」を信じるふりをして説得を続けた。耳を貸してもらうための苦肉の策だ。

 

「フェザーンの要求は内政干渉じゃないですか。聞き入れてはいけません。国家として毅然とした態度を示しましょう」

「交渉が失敗してもいいのかね」

「こちらが強い態度で出れば、フェザーンは折れるはずです。借金の額が大きくなるほど、借り手の立場は強くなります。破産した時に貸し手が大きな損失を被るからです。我が国がデフォルトに陥れば、フェザーン経済は破綻します。繰り延べに応じるしかないんです」

 

 俺はトリューニヒト派エコノミストの受け売りをそのまま話した。政府のブレーンがテレビで話したことなので、トリューニヒト議長の考えと近いはずだ。

 

「君の言う通り、フェザーンが債務繰り延べを拒否することはない。だが、いつ応じるかかが問題なのだ。交渉が一日延びるたびに同盟経済への不安が広がり、株と通貨が下落する。経済回復のブレーキになりかねん」

「経済のためにヤン元帥を犠牲にする。そういうことでしょうか?」

「私は同盟の元首だ。一三二億人の生活を守るためなら、一人の軍人を犠牲にするのもやむを得ない」

 

 トリューニヒト議長の瞳には断固たる決意が宿っていた。

 

「おっしゃることはわかりますが、秘密の査問会はまずいですよ。相手が殺人企業やテロリストであれば、非常手段もやむを得ません。速やかに排除しなければ、市民に危害が及びます。ですが、ヤン元帥は単なる危険人物です。あえて非常手段を用いる必要はありません」

「悠長なことを言える状況ではない。期限が迫っている」

「ヤン提督は国民的英雄です。下手に手を出せば、世論を敵に回すことになります。その点にもご留意ください」

「わかっている。だから、秘密で査問を行うんだ。公式な取り調べを行うのはまずい。政権が不安定だという印象を与えかねん」

「秘密にしたいのなら、憲兵隊や情報保全隊に秘密調査を命じればいいでしょう。反乱計画が明るみになれば、ヤン元帥を合法的に処断できます。何もなかったら、フェザーンを安心させることができます。どのような結果が出ても、悪い方向には転びません」

 

 俺は合法的な調査に転換させようと努力した。調べればヤン元帥の潔白が証明できる。それで十分なのだ。

 

「それでは不十分だ」

 

 トリューニヒト議長の微笑みの上に、一瞬だけ不快そうな色が浮かんだ。なぜわからないのかと問いかけるように見えた。

 

 この時、俺はようやく気付いた。トリューニヒト議長はフェザーンの要求を受け入れたわけではない。フェザーンの要求を口実にヤン元帥を排除するつもりだ。調査すれば潔白が明らかになる。冤罪を着せるのはリスクが大きすぎる。更迭すればトリューニヒト政権のイメージが傷つく。秘密の査問会でヤン元帥を精神的に追い込み、自発的に辞表を書かせれば、イメージを傷つけることなく排除できる。

 

「ヤン元帥を辞めさせたいんですか?」

「野心に満ちた戦争屋など害悪でしかない。早めに退場させるべきだ」

「人間的には信用できませんが、才能は……」

「制御できない才能など不要だ」

 

 トリューニヒト議長の表情は穏やかだが、一片の容赦も感じられない。

 

「フェザーンの天秤は再び動き始めた。いずれ、銀河の勢力比は四八:四〇:一二に戻るだろう。どの国が四八になるかが問題だ。私は同盟を四八にしたい。そのためにはイレギュラーを極力排除する必要がある」

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。これほど強い決意を見せ付けられたら、何も言えない。

 

「ヤン君はいつも退役したいと言っているそうだ。きっと体を悪くしているのだろう。フェザーンにタマニという保養地があってね。空気が凄くうまいんだ。タマニの空気を一年ほど吸えば、病気も良くなる。健康になった暁には、フェザーン駐在高等弁務官に推薦するつもりだ。外交官として手腕を振るってもらいたい」

 

 トリューニヒト議長はヤン元帥の処遇を遠回しに語った。病気療養という理由で辞職させた後、フェザーンの保養地に引っ越しさせ、中央政界から遠ざける。一年ほどの「療養生活」を終えた後は、フェザーン駐在高等弁務官に起用する。

 

 フェザーン駐在高等弁務官は、政治家でない者が就任しうる最高のポストである。事務総長や元帥よりも格が高い。フェザーンにおける外交と情報活動の責任者だが、七八〇年代から官邸外交が活発になったため、存在感は縮小の一途をたどっている。英雄を重用してほしいという市民感情への配慮、政界進出を阻止したいトリューニヒト議長の思惑を両立できるポストだろう。

 

「いいアイディアだとは思わないかね?」

「……思いません」

 

 俺はありったけの勇気を動員し、首を横に振った。誓いがあまりに重すぎたので、首を縦に振ることができなかった。八年前の八月、俺、トリューニヒト議長、ベイ少将の三名は、お好み焼き屋で神聖な誓いを交わしたのだ。

 

「こういうやり方には同意しかねます。八年前、あなたはサイオキシンマフィアと戦うために立ち上がりました。そして、『ルールの中で正しく戦おう』『信頼こそが我々の唯一にして最強の武器となる』とおっしゃいました。ルールと信頼があなたの武器です。ヤン元帥を秘密の査問にかけることは、自ら武器を捨てるに等しい行為です。どうかお考え直しください」

「君に意見を求めたつもりはないのだがね」

 

 トリューニヒト議長ははねつけるように言った。剥がれかけた微笑みの仮面の下から、隠しようのない苛立ちが顔をのぞかせる。

 

「…………」

「意見を求めたつもりはないと言っているんだよ」

「わかっています。ですが……」

 

 俺は遠慮がちに言葉を続けた。市民のためなら多少の逸脱もやむを得ないと思ってきた。だが、これ以上引くことはできない。小物でも超えてはならない一線は理解している。

 

「求められなくても、言わねばならないことはあります。俺ほどあなたの恩顧を受けた人間はいません。あなたがいなければ、俺はここまで出世できませんでした。だからこそ、曲がったことはしていただきたくないのです」

「フィリップス君」

「何でしょう?」

「君と私はどういう関係だね?」

 

 トリューニヒト議長の顔から笑みが完全に消えていた。

 

「俺は……」

 

 答えを言いかけたところで、画面の向こう側から伝わってくる冷気に気付いた。真夏の夜だというのに背筋が寒くなる。

 

 この瞬間、トリューニヒト議長が期待する回答が分かった。それを口にした時にすべてが終わることも分かった。それでも、期待を裏切ることはできない。俺はそういうスタイルで生きてきた。

 

「……小官はあなたの忠実な部下です」

「分かっているならそれでいい」

 

 トリューニヒト議長は正解だと言いたげに頷いた。満足そうに見えなかったのは、俺の願望であろうか。

 

「君は私の部下だ。勝手なことをする権利はないんだ。わかったね」

「はい」

「これからも忠誠を尽くしてもらいたい。君が裏切らない限り、私が裏切ることはない。ずっと君の後ろ盾であり続ける。君の友人も私が保護しよう」

「ありがとうございます」

「このプロジェクトの責任者はネグロポンティ君だ。彼の指示に従うように」

「かしこまりました」

 

 俺が頭を下げた後、画面が真っ暗になった。心の中も真っ暗だ。一年ぶりの直接通信は後味の悪さだけを残した。

 

 

 

 九月一日、イゼルローン回廊で統合演習が始まった。帝国軍から回廊を防衛するとの想定の下、電子的に作られた最高練度の仮想敵と戦う。艦艇四万二〇〇〇隻と兵員八六〇万人が参加した。

 

 第一段階では、艦隊と陸戦隊が一体となった防衛戦が展開された。アッテンボロー大将率いる要塞艦隊が要塞前面に展開し、敵艦隊を迎え撃つ。シェーンコップ大将率いる要塞防衛部隊は、要塞艦隊への支援を行う。防衛線をくぐり抜けた敵に対しては、陸戦隊、対空火器、単座式戦闘艇「スパルタニアン」が連携して、近接防御戦闘を繰り広げる。

 

 第二段階では、敵と味方に増援が到着し、本格的な戦闘に移行した。同盟軍の増援は総軍総司令官ヤン元帥が指揮する混成艦隊だ。ティアマトでは、イム大将率いる地上部隊とオイラー大将率いる宇宙部隊が後方支援にあたる。

 

 第三段階では、第一辺境総軍の増援を得たイゼルローン総軍が反撃に移った。俺、ヤン元帥、アッテンボロー大将が一斉に前進し、敵艦隊をさんざんに打ち破る。要塞主砲トゥールハンマーの一撃がとどめをさした。

 

 演習の合間に握手会やサイン会を行った。第一辺境総軍からは、俺、妹、コレット少将、カプラン准将ら市民軍の英雄が参加した。イゼルローン総軍からは、シェーンコップ大将、アッテンボロー大将、ジャスパー大将、ポプラン少将といった勇士が顔を出した。ヤン元帥は多忙を理由に欠席したが、いつものことなので誰も気にしない。

 

 最終日には陸戦隊と地上軍の合同格闘大会が開催された。シェーンコップ大将が「若い奴らに花を持たせてやらんとな」と言ったため、旧薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)出身の将官は参加していない。アルマら第八強襲空挺連隊出身の将官も参加を見送った。勇将対決は実現しなかったが、佐官以下の猛者は一人残らず出場した。

 

 同盟市民一三二億人が勝負の行方を見守る。陸戦隊最強のローゼンリッターと地上軍最強の第八強襲空挺連隊のどちらが強いのか? 最強同士の決着がつく時が来た。

 

「個人戦優勝は第一八特殊作戦群のアマラ・ムルティ少将です!」

 

 同僚が自粛する中、空気を読まずに出場したアマラ・ムルティ少将が、個人戦の優勝カップをかっさらった。

 

「団体戦優勝はイゼルローン総軍司令部です!」

 

 驚くべきことに、イゼルローン総軍司令部が団体戦優勝を果たした。ローゼンリッター系部隊と第八強襲空挺連隊系部隊が潰し合ったため、漁夫の利を得た形だ。総司令部チームのエースとして活躍したユリアン・ミンツ准尉は、一躍有名人となった。

 

 現地で演習を観覧した者は、一般観覧者や招待客など三〇〇万人にのぼる。国防委員会からはグローブナー第一副委員長、統合作戦本部からはセレブレッゼ次長、フェザーン自治領からはボルテック国務長官が視察に訪れた。

 

 演習の様子は同盟全土とフェザーンで放映された。数万隻が入り乱れる艦隊戦には、立体映像によって作られた仮想敵との戦いとは思えない迫力があった。次々と繰り出される最新兵器、綺羅星のような有名軍人も見る者を興奮させた。

 

「同盟軍は銀河最強!」

「イゼルローンは難攻不落!」

 

 市民は同盟軍に惜しみない賛辞を浴びせた。人間は自分の目で見たものを信じる。トリューニヒト議長の狙い通り、演習は同盟軍の武威を知らしめたのである。

 

 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグは安堵の声で満たされた。演習が終わるまでの苦労は並大抵ではなかった。それだけに喜びは大きい。

 

 同盟史上最大の軍事ショーを成功させた俺だったが、気分は晴れなかった。ヤン元帥召還のサポートという任務が控えている。重要だが気が進まない任務であった。副司令官や参謀長にすら事実を話せないこともストレスを募らせる。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。

 

「召還前に帝国軍が攻めてこないかな」

 

 俺は心の中でそんなことを考えた。前の世界では帝国軍の侵攻が査問会を中止させた。同じことが早めに起きたら、ヤン元帥を召還する話は潰れるはずだ。

 

 査問会は帝国軍が攻めてこないという前提の上に成り立っている。帝国軍との戦いになったら、市民は「病気でもいいから、ヤン元帥を出せ」と騒ぐだろう。病床から指揮をとってほしいというのが市民の素朴な感情だ。そうなれば、世論に弱いトリューニヒト議長は、査問会を中止さざるを得ない。

 

「いや、そんなことを考えるのは良くないな。戦いになったら兵士が死ぬんだ」

 

 俺は頭の中に浮かんだ考えを打ち消すと、マフィンの皿に手を伸ばした。苦々しい思いを打ち消すには甘味が必要だ。

 

「空っぽだ」

 

 マフィンが残っていないことを俺が理解した瞬間、紙袋を抱えた首席副官ハラボフ大佐が駆け寄ってきた。ひっくり返された紙袋からマフィンがどさっと落ちてくる。そして、ハラボフ大佐は礼を言う間も与えずにデスクへと戻っていく。驚くべき早業である。

 

 ベッカー総軍情報部長が俺のもとに資料を持ってきた。帝国情勢に関する内容だ。国防情報本部の情報があてにならないので、総軍情報部も独自の情報収集を行っている。

 

 資料には、フェザーンで発行された新聞や雑誌の切り抜きが貼ってある。独自の情報収集とは、フェザーンでの報道を収集することであった。

 

 フェザーン情報と聞くと、自治領主府の情報操作を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、自治領主府の情報操作力は、言われているほど強くない。情報はフェザーン経済の生命線である。情報操作によって情報流通を抑えるよりも、報道の自由を認めて情報流通を促進するメリットの方が大きい。フェザーンマスコミは政治的党派性が薄く、同盟マスコミより公平だというのが定説だ。

 

「国外報道の収集・分析なんて、本来は国防情報本部の仕事なんですがね」

 

 ベッカー情報部長の顔にほろ苦い笑みが浮かぶ。国防情報本部のふがいなさに不快感を覚えているのだろう。

 

 俺は要塞ワープ実験の情報をチェックした。帝国は要塞をワープさせる実験を成功させた。戦記を読んだ者なら見過ごせない事件だ。

 

 八月三一日、帝国軍務省は「ガイエスブルク要塞を八〇光年ワープさせた」と発表した。今後も研究を続け、艦隊と同じ速度で航行できる「機動要塞」の完成を目指すという。

 

 このニュースは同盟市民を仰天させた。機動要塞といえば、シリウス戦役で役立たずぶりを露呈し、「軍事史上最大の無駄」と言われた兵器だ。そんなものを研究するなど馬鹿げている。元帝国軍技術総監のシャフト科学技術委員長は、「正気とは思えない。私が技術総監ならこんな研究はすぐに中止させる」と述べた。

 

 同盟国内では、要塞ワープ実験を「単なる国威発揚の道具。軍事的意義は皆無」とする見方が強いが、俺は異なる見解を持っている。機動要塞は駆逐戦隊よりも弱い。だが、使い方次第では大きな力を発揮する。

 

 前の世界の七九八年、帝国軍のガイエスブルク要塞がイゼルローン回廊にワープし、同盟軍のイゼルローン要塞を攻撃した。司令官ヤン・ウェンリー提督が査問を受けていたため、イゼルローンの同盟軍は苦戦を強いられた。

 

 二つの世界の状況は完全に違う。前の世界で機動要塞を使った作戦の提案者だったシャフト技術総監は、この世界では同盟の閣僚だ。前の世界でガイエスブルクの司令官だったケンプ提督は、この世界では分艦隊司令官に過ぎない。軍事力も経済力も同盟の方が優勢だ。それでも物理法則は変わっていない。回廊内で運用された機動要塞は大きな脅威になる。

 

「新情報はないか……」

 

 資料の中には要塞ワープ技術に関する新情報はなかった。どの記事にも「機動要塞の実用化には最低でも五年かかる」とか、「帝国財務省が開発打ち切りを求めている」とか、見慣れた情報しか載っていない。

 

「気にすることもないと思いますが」

 

 ベッカー情報部長は大多数の人々と同じように、機動要塞を脅威だと思っていなかった。

 

「放置しておけないだろう」

「心配しすぎですよ。統合作戦本部にも意見書を送ったそうじゃないですか」

「今のうちに研究しておいてほしいと思ってね」

「もしかして、ルイスの大予言を信じてるんですか?」

「あんなのとは一緒にしないでくれ」

 

 俺はきっぱりと否定した。実体験に基づく懸念とルイス元准将の戯言を一緒にされては困る。客観的な根拠がない点では同じかもしれないが。

 

 ハラボフ大佐がやってきて、第三六機動部隊司令官シェリル・コレット少将が到着したと報告した。俺は急いで迎えに出る。

 

「ただいま到着いたしました」

 

 コレット少将は教本で紹介される見本のような敬礼をした。アーモンド形の大きな目が潤み、繊細でしなやかな手が震える。心の底から感動しているのだ。

 

「よく来たね」

 

 俺は笑顔で敬礼を返したが、内心では引いていた。顔を見るだけで感動されても困る。生まれて初めて会うのならわからないでもない。自分が英雄視されているという自覚はある。だが、彼女は三年間も一緒に働き、プライベートでもしょっちゅう顔を合わせている。

 

 第一辺境総軍の幕僚は慣れ切っているが、新参の副司令官パエッタ大将や参謀長ワイドボーン大将は引いている。

 

 一方、第三六機動部隊の幕僚は、素晴らしいものを見たと言わんばかりの表情だ。彼らは上官を心から慕っていた。コレット少将が鼻くそをほじったとしても、好意的に受けとめるに違いない。

 

 コレット少将の人心掌握力は相当なものだ。誰に対してもにこやかに接する。他人の長所を大切にし、他人の短所を忘れ、優れた人を尊敬し、無能な人を見捨てない。誰よりもよく働く。一兵卒の食事にも気を使い、自ら厨房に入ってゴミ箱をチェックする。ベテランも若手も同性も異性も彼女を慕った。

 

 そんな彼女が旗艦に来た理由は「軽い打ち合わせ」であった。時間ができたので俺の顔を見に来ただけらしい。

 

「提督のお顔を拝見できるだけで幸せな気分になります」

「君は俺がどんな命令を出しても従うんだろうなあ」

「もちろんです」

「明らかに違法な命令を出したらどうする?」

 

 俺は声を潜めて質問した。

 

「喜んで従います」

 

 コレット少将は迷うことなく答えた。

 

「俺を止めようとは思わないのか?」

「提督の命令が違法だとしたら、それは法律が間違っているんです」

「…………」

 

 俺は質問したことを後悔した。しかし、彼女の忠誠の対象が自分でなければ、別の見方もあるだろう。彼女の単純さは羨望に値した。

 

「ここだけの話なんですが、相談したいことがあるんです」

「なんだ?」

「部下のことです。私が何を言っても肯定する人がいるんですよね」

 

 コレット少将の美しい顔に憂いの色が浮かぶ。

 

「否定されるよりはいいんじゃないか?」

「肯定されるだけよりはましです。私は完璧な人間ではありません。悪いことは悪いと言ってもらわないと困ります」

「気持ちはわかるよ」

 

 今の彼女の気持ちを俺以上に理解できる人間はいないだろう。いつも彼女に同じ思いをさせられているからだ。

 

「忠誠と狂信は違うと思うんです。肯定すべきは肯定する。否定すべきは否定する。上官が危機に陥らないように注意する。上官の過ちを全力で止める。忠誠とはそういうものでしょう」

「…………」

 

 どう答えればいいのかわからなかった。とりあえず、笑ってごまかすことに決めた。それでも、彼女は「わかってくれた」と思ったらしく、心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。

 

 コレット少将が帰った後、俺は首席副官ハラボフ大佐と護衛三名を連れて地上に降下した。ティアマト星系第四惑星ラハムには、住宅やビルが建ち並んでいる。数年前まで無人惑星だったとは思えない繁栄ぶりだ。

 

 星都エンニガルディの都心部から五〇キロほど離れた場所に、第一八特殊作戦群「ショコラティエール」のキャンプがあった。丘陵の上に堅牢なコンテナハウスが規則正しく配置されている。キャンプの前後に川が流れており、天然の堀を形成する。野戦陣地としても通用するだろう。

 

 キャンプの一角に目当ての人物がいた。俺は首席副官ハラボフ大佐と護衛三名に待機するよう命じると、目当ての人物に歩み寄った。

 

 名工が彫り上げた彫刻のような目鼻立ち、滑らかな小麦色の肌、黒い絹糸のような髪……。天空に瞬く星々ですら遠慮するほどに美しい女性が、かかとを地面につけてしゃがみ、両足を大きく広げ、タバコを吸っていた。地上軍最強のアマラ・ムルティ少将である。

 

「お兄ちゃんっすか。お久しぶりっす」

 

 ムルティ少将はしゃがんだままで顔だけ上げた。上級大将ではなくて、友達の兄と話してるつもりなのだろう。

 

「久しぶり」

 

 俺は声をかけると、しゃがんで目線を合わせた。

 

「どうしたんすか?」

「君に聞きたいことがあってね」

「シュガーのことなら教えないすっよ」

 

 ムルティ少将は少しだけ不機嫌そうな顔をする。彼女は妹を物凄く気に入っていた。俺と長い間共演しなかった理由は、「私のシュガーに冷たかったから」だったらしい。

 

「そんなんじゃない」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。

 

「君とシェーンコップ提督のどっちが強いと思う?」

「私の方が強いっすね」

 

 ムルティ少将は何のためらいもなく答えた。

 

「随分あっさり答えるんだな」

「若い方が強いに決まってるっしょ」

「そんな単純な話じゃないと思うけどな」

「レベルが違ったらそうっすね。でも、同じレベル同士なら若い方が強いっす」

「経験の差は大事なんじゃないか?」

 

 俺は懸命に食い下がった。彼女は残念な人だが文句なしに強い。あのユリアン・ミンツですら歯が立たなかったのだ。それでも、二つの世界で銀河最強とうたわれた男より強いとは思えない。

 

「体が衰えたら意味ないっす。経験で成長するのは三〇代前半までっすね。三五を過ぎたらガタ落ちっすよ」

「しかし、シェーンコップ大将の勇名は知ってるだろう? 簡単に勝てるとは思えないけどな」

「戦ったらおっさんが勝つんじゃないすか」

「どういうことだ?」

 

 俺は首を傾げた。ムルティ少将は自分の方が強いと言い切った。それなのに戦ったらシェーンコップ大将が勝つという。わけがわからない。

 

「ガチンコなら私が勝つけど、何でもありならおっさんが勝つっすよ」

「駆け引きがうまいということか?」

「そうっすね」

 

 ムルティ少将にはこだわりがまったく見られない。強いから強いと言う。勝てないから勝てないと認める。実にシンプルだ。

 

「他の連中はどうだ? リンツ、ブルームハルト、デア=デッケンには勝てるか?」

「ルールは?」

「何でもありだ」

「リンツはやばいっすね。一〇〇回やったら五五回負けるっす。ブルームハルトとデア=デッケンなら五分っすね。一〇〇回やったら五〇回負けるっす」

「君から見ても、あの三人は強いんだな」

 

 俺は安心と不安を同時に感じた。戦記を読んだ者としては、薔薇の騎士は最強であってほしいと思う。しかし、ムルティ少将が必勝の切り札になり得ないのは不安だ。

 

「あいつらはガチっすよ」

「アルマと比べたらどうだ?」

 

 薔薇の騎士最強の男たちと妹を比べるなど不遜の極みだが、それでも気になる。

 

「話にならないっす。シュガーはトップレベルじゃないんで。おっさんとガチンコでやっても勝てないっすよ」

「レベル差は絶対なんだな」

「そうっすね」

「ありがとう」

「いいっすよ、別に」

「これは礼だ。とっといてくれ」

 

 俺は手土産のタバコを渡した。ムルティ少将は軽く頭を下げた後、再びタバコを吸い始める。そんなにタバコを吸ったら体に悪いんじゃないかと思ったが、口には出さなかった。

 

 部屋に戻った俺は戦力を計算した。戦いにならないに越したことはないが、戦いへの備えを怠るべきではない。最悪に備えるのが軍人の義務である。

 

 第一辺境総軍の強みは、俺に忠実な人物がそろっていることだ。臨時配属の第一八特殊作戦群も指示に従うだろう。

 

 イゼルローン総軍の強みは、ヤン元帥、アッテンボロー大将、シェーンコップ大将など規格外の傑物を擁していることだ。もっとも、副司令官イム大将を筆頭とする地上部隊は、傑物たちと仲が悪い。もう一人の副司令官オイラー大将は、トリューニヒト議長が派遣した目付け役だ。強力だがまとまりに欠けていた。

 

 警戒すべきはシェーンコップ大将とその部下たちだ。薔薇の騎士連隊は薔薇の騎士師団に改編された。規模は大きくなったが、かつての強さはない。それでも、シェーンコップ大将と三人の腹心は大きな脅威になる。イゼルローン要塞から出てこないことを祈りたい。

 

 ヤン召還計画の大筋は既に決まっている。ヤン元帥が召還命令を受諾すればそれでいい。受諾しない場合は、オイラー大将らがイゼルローン総軍の切り崩しを始める。俺は大軍を握ったままティアマトに居座り、ヤン派に無言の圧力をかける。イム大将らイゼルローン地上部隊は、「ヤンは嫌いだがトリューニヒトも嫌い」という人々なので、中立を守るはずだ。

 

「オリベイラ先生が立てた策だ。万に一つの間違いもない」

 

 通信画面の向こう側では、ネグロポンティ国防委員長が自信たっぷりな表情を見せる。

 

「戦闘には絶対になりませんよね?」

「ヤンは戦闘を避けるはずだ。基地の周囲には、一般観覧者の宿舎があるからな。ヤンは政治的基盤を持っていない。頂点を目指すには大衆の支持が不可欠だ。だから、市民を傷つけることを徹底的に避けてきた。奴の野心が我らを助けてくれる」

 

 得意げに言っているが、ネグロポンティ委員長が考えた意見ではない。オリベイラ博士の受け売りだ。

 

 軍部良識派と反戦派以外の人間は、ヤン元帥を野心家だと思い込んでいる。市民を絶対に傷つけないという信念も人気取りだとみなした。

 

「ばれたらどうするんです?」

 

 俺は恐る恐るといった感じで切り出した。

 

「問題ない。ガードは万全だ」

「俺は軍人です。万に一つの可能性についても、考慮せずにはいられません」

「その時は私が責任を取る」

 

 ネグロポンティ国防委員長は右手で自分の胸を叩いた。ジェスチャーが大袈裟すぎるせいで、心にもないことを言っているように聞こえる。

 

「大丈夫なんですか?」

「私を信じなさい。議長にも君たちにも指一本触れさせんよ」

「わかりました」

「本心から納得したわけではないな」

「そ、そんなことは……」

 

 俺の背中に冷や汗が流れた。さすがは政治家だ。あっさり内心を見抜かれた。

 

「気にするな。私も馬鹿じゃない。自分が世間からどう見られているのかは知っている」

 

 ネグロポンティ国防委員長は大きく口を開けて笑う。

 

「私は三流の政治屋だよ。親父が議員だったから、何も考えずに地盤を継いだ。見識も理想も持ち合わせていない。議席を埋めているだけの男さ」

「…………」

「そんなつまらない男だが、トリューニヒト議長に目をかけていただいた。実力以上の地位に就けていただいた。良い思いをさせていただいた。どれほど感謝しても足りないほどだ」

「俺もトリューニヒト議長に目をかけていただきました。ですから、委員長閣下のお気持ちはわかります」

「私も君も本来なら頂点に立てない人間だ。議長が引っ張り上げてくださったんだ」

「おっしゃるとおりです」

「トリューニヒト議長は素晴らしいお方だ。私の首一つで守れるなら安いもんさ」

 

 ネグロポンティ国防委員長はもう一度右手で胸を叩いた。今度は信じてもいいと思えた。

 

「それほどのご覚悟であれば、喜んで頼らせていただきます」

 

 俺は深々と敬礼をした。国防委員長という肩書きに敬礼したのではない。マルコ・ネグロポンティ個人に敬礼したのである。

 

 忠誠という言葉にはいろいろな意味がある。主の過ちを命がけで止めることを忠誠という。主と一緒に過ちを犯すことを忠誠という。主の代わりに死ぬことを忠誠という。死んだ主の代わりを務めることを忠誠という。主を地獄から救うことを忠誠という。主と一緒に地獄に落ちることを忠誠という。

 

 ネグロポンティ国防委員長が忠臣であることは間違いない。主のためなら一緒に過ちを犯す。主のためなら喜んで死ぬ。主のためなら喜んで地獄に落ちる。主のやることは何でも肯定するタイプの忠臣だ。

 

 俺はトリューニヒト議長の忠臣なのだろうか? 過ちを止めようとしたが止められなかった。一緒に過ちを犯そうとしているが、心から納得したわけではない。

 

 九月九日、国防委員会は第一辺境総軍に対し、「テロの可能性あり。警戒せよ」との指示を与えた。ティアマト駐在の第一辺境総軍は待機状態に移る。その意図を知る者は、総軍司令官以外にはいない。

 

 同じ頃、イゼルローン総軍総司令官ヤン・ウェンリー宇宙軍元帥に対し、秘密の召還命令が出された。陰謀は静かに幕を開けたのである。


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